2007年12月25日火曜日

教員と職員のあるべき関係「教職協働」

大学経営の成功の秘訣を言い表すキーワードとしてよく用いられる言葉ではないでしょうか。
しかし理想ではあるけれども現実にはなかなか難しい課題でもあります。
このブログでは、これまで大学経営の困難さ、教員や職員の意識の問題についての様々な有識者のご意見をご紹介していますが、その中によく出てくるのが「大学における教員と職員の関係」すなわち「大学における教職協働の大切さ」です。

誤解を恐れずに書くとすれば、大学には昔から「教員が主人で職員は使用人の関係」が存在していました。
また、そのことが原因で、これまで職員が様々な改革を進める際に、教員の理解が得られないために優れた施策が滞ってしまうことがありました。
逆に職員が教員とうまくいっていない関係を隠れ蓑にし、教員に責任を転化してやるべきことをやらないこともありました。

国立大学の教員と職員との関係について、国立大学の経営に参画する外部人材は次のような指摘*1をしています。
  • 経営陣と事務組織、部局間、本部と部局、教員と職員などあらゆる部分にコミュニケーションの断絶あり。

  • 教員と事務職員とが協働体制で法人を経営することが不可欠。基本的に教員上位という従来の大学の意識・体質を引きずっている限り、真の意味での協働は実現困難

  • 教員と事務職員の溝は、法人化前とほとんど変わっていない。

  • 教員、事務職員とも法人としての一体感がないので、改革に対する方向性が定まらない。

  • 事務職員と教員の意思疎通が少ない。大学の目標を両者ともが明確に共有して、活力ある場を築き上げるべき
教員と職員との関係について、大学の現場の実態を正確に分析し、その真髄を明確に指摘しているブログがあります。
このブログは、私を含め多くの愛読者を持つ「大学プロデューサーズ・ノート」というブログです。いつも学ばせていただいています。
部分的ではありますが2つほどご紹介させていただきます。

我が国の大学では、未だに教員=アタマ、職員=手足という役割分担を行っている大学が少なくないのです。
以前の記事で、広報の素人である教員が持ち回りの「広報委員会」で意見を集めて広報方針を立て、(プロであるはずの)職員はただ決定事項を拝領し粛々と実行のための事務処理に努めるという、大学に見られがちなガバナンス構造について書きました。
こういった組織風土は、変えようと思ってもなかなか変わるものではありません。

このような二元体制になってしまう理由は色々あると思いますが、ここでは簡単に3つだけご説明します。
  • 教員、職員それぞれが「こうあるべきだ」という意識を変えられていない。
  • 両者の属する組織のガバナンスが違っている。
  • 教員と職員のスキル・能力に大きな格差がある。
職員のことを、あたかも召使いか何かであるかのように思っている教員というのは、おそらく全国どこの大学にもいます。心の底で「職員が考えた案なんか信用できるか」という意識を持っておられる方も、残念ながら少なくないと思います。
またそれをいいことに、自ら意見を出さず、責任もとらないポジションに甘んじている職員が、やはりどこの大学にもいると思います。「それは先生方がお考えになることだから」という言葉を、口癖のように使う職員です。

こうした役割分担を感じさせるのが、「事務方(ジムカタ)」という言葉です。「これ、あとはジムカタでやっといて」、「それはジムカタが用意します」など、この言葉には、何か顔の見えないサーバント集団というニュアンスが漂っています。
教員は個別の名前で呼ばれるのに、職員は一律に「ジムカタ」と呼んで無礼にならないのは、はじめから職員には、誰でもできる雑用仕事、手間仕事しかやってこないということの表れだと思っています。
こういった相互認識が根強く残っていると、教員と職員はいつまで経っても本当の意味で協働できません。

ガバナンスの違いも、両者の距離を拡げている要素の一つです。
大学職員は、行政や会社に似た、ピラミッド型の連絡組織を形成しています。トップの方針に従って、上意下達で動く組織です。
かたや大学教員は、一応学部学科組織に所属してはいるものの、組織人と言うより、個人営業主に近い意識を持っている方も少なくないようです。
大学に雇われているという意識よりも、自分は参加する学会や学術コミュニティの一員だという意識の方が大きいように思われます。
加えて教員組織では、教授会に代表されるように、多くのことが合議制で決定されます。企業でいう「上司」にあたる役割の方がいないことも多く、トップダウン型の指令伝達には向いていません。
このように、同じ大学という組織に所属してはいても、教員と職員のガバナンスは全然違います。
職員は「教員は勝手なことばっかり言う」とこぼし、教員は「ウチの職員は官僚的でアタマが固い」とこぼす原因はこれです。

教員と職員のスキル・能力に存在する非対称性も問題です。
多くの教員は、東大などの研究大学で博士号を取り、自分の専門性を身につけています。そしてその専門性を磨き上げるべく、普段から様々な努力をしています。
一方職員はというと、学部卒でこれといったスペシャリティもなく、ただ漫然と仕事をこなしているだけの方も多いです。これでは、話を聞いてもらえなくなるのも無理からぬことです。職員も専門性を身につけるべきだとよく言われますが、それはこういうことです。

他にも色々と考えられますが、主に以上のようなところが、「教員=アタマ、職員=手足」となってしまう原因ではないかと思います。

残念ながら「身分格差」は現在も多くの大学で残っています。

そもそも格差以前の問題として、「教育に口を出す職員」が非常に少ないのではと思います。
今回ご紹介した記事のタイトルに「発言し始めた事務職員」とあるのも、裏を返せば多くの大学ではまだ発言しない職員が多いということでしょう。
しかしこうした諸先輩方の努力もあり、大学によっては教員と職員が、対等なパートナーシップを持って協働するまでになっているところもあるようです。

ところでこの記事にもあるように、協働を進めるにあたって力を発揮するのが「データ」や「調査結果」でありましょう。
アメリカの大学アドミニストレーターは概して高学歴です。それは有名大学を出ているという意味ではなく、修士号や博士号を持っているという意味です(高学習歴、と言った方が適切でしょうか)。
責任ある仕事を任されているアドミニストレーターにはPh.D保持者も珍しくないとか。しかしそれが必ずしも高等教育に関する学位であるとは限りません。
大学院での高度な教育・研究活動を通じて彼等は、数値的な裏付けを用いて論を組み立てたり、仮説を立ててそれを検証したり、多角的な分析を行ったり、という訓練をしているのです。そういった力が、大学という巨大な組織(それも研究者という知的専門職の集団)を動かす上で不可欠ということなのでしょう。
教員と職員の間には身分格差がまだまだあると言いましたが、能力格差もあるわけです。
これからの大学職員は、実直さや気遣いというだけに限らず、知的分析力や事業提案力を身につけて、教員とも堂々と協働できるようにならないといけません。

記事の最後にはこうあります。

教員と職員が手を携えて大学を変えていく時代が来たようだ。

では、現場である大学は、教職協働についてどのように考え、どのように行動しようとしているのでしょうか。

以前このブログ「大学事務改革の方向性」でご紹介しましたが、東京大学前理事の上杉道世氏が策定された「事務職員等の人事・組織・業務の改善プラン」には次のような記述があります。

これまでの職員の実態はあまりにも問題が多い。
例えば、基本的能力が不足している。物事に受身であり積極的姿勢がない。なんでも前例を守ろうとする。既存のルールに照らして可否を判断するに留まっている。すぐに誰かに頼り自分で判断しようとしない。大事なことはみな教員が決めるものだと逃げの姿勢である。縦割りの事務分掌に閉じこもって全体を見ようとしない。スピード感に欠けている。外からどう見られるかという感覚がない。文章が書けない。人前できちんとした話ができない。

このような批判が、ことあるごとに教員から出されている。
しかし考えてほしい。これは、職員自身の問題であると同時に、長年にわたって教員がともに形成してきたとも言える問題でもある。また、歴代幹部職員の責任でもある。

法人化により、必要な資質は大きく変わったのだ。新しい時代に必要とされるあり方を追求しなければならない。
それではどのような職員像が考えられるのか。具体的な職員像を職員自身の提案と努力で描いていくようにしたい。ここでは3つのイメージを提示しよう。
  1. 経営企画を担う職員(マネジメント・スタッフ)
  2. 教育研究を直接支援する職員(アカデミック・スタッフ)
  3. 専門的業務を遂行する職員(スペシャリスト)
このような新しい職員像を実現するためには、職員自身が積極的に努力しなければならないのは当然であるが、教員の理解と協力が不可欠である。
教員自身の教育研究のよりよい展開のためにも、職員像の転換が必要であり、それを実現するため教員と職員が一緒に努力し取り組んでいかなければならない。
職員にまかせるべきものはまかせる、という方向での教員の考え方の切り替えが必要であり、職員もそれに答えられるように研鑽に努めなければならない。

大学にはマネジメントが必要です。しかし大学は実質的にはマネジメントが苦手な教員によって支配されている集団だから、マネジメントが必要になればなるほど教員には多忙感があって、人を増やせというような話になり、悪循環が生まれます。

大学がマネジメントの専門スタッフである職員を育て、活用せず、いつまでも教員中心主義で運営されているということが、健全な大学経営にとって非常に大きな問題点になっていることを、もうそろそろ教員も自覚し始める必要があるのではないかと思います。
平たく言えば、「教員が何でもやらなければいけないようなことは即刻やめるべき」ではないかと思うのです。

*1:「国立大学法人における外部人材活用方策に関する調査研究」(2007.4月、法人化後の国立大学運営における外部人材活用方策に関する調査研究プロジェクト 研究代表者 本間政雄)