2008年3月6日木曜日

果たして学位は能力の証明か

ディグリー・ミル(又はディプロマ・ミル)の問題、昨年の暮れに全国の大学の実態を文部科学省が公表した以降もポツポツと新聞紙面を賑わせています。

そもそも「学位」とは何なのでしょうか。お国の事情で学位の位置付けや効果も様々なのでしょうが、今回は、我が国の、特に大学教員にとっての学位について考えてみたいと思います。

広島大学高等教育研究開発センター長の山本眞一氏が書かれた「大学教員と『ニセ学位』」(文部科学教育通信 2008年2月25日号掲載)の抜粋をご紹介します

大学教員にとっての学位


大学教員には学位が必要だという認識は、近年とみに強まってきている。
このため、大学によっては、博士の学位のない教授は博士課程の学生の主任指導教員にはさせないという内部規律を持っているところがあったり、また、博士の学位のない教員が出身大学で論文博士号をとろうとして、血の出るような努力をしたりしている例がいくつもある。
ちなみに、大学設置基準の規定を見ると、教授の資格として列挙されている中で、第一には「博士の学位(外国において授与されたこれに相当する学位を含む)を有し、研究上の業績を有する者」とあり、第二に「研究上の業績が前号の者に準ずると認められる者」と規定されており(同第14条)、その他これらによらない資格でも教授にはなれるのだが、博士の学位というものが第一に挙げられていることからみても、これがいかに重要であるかはよくわかる。

もう30年ほど前の話になるが、私が旧文部省に勤めていた折、大学設置審の教員審査の場に付き合ったことがある。
とくに理工系の場合に審査員である大学教授たちが申請書類に目を通す際に、まず口にするのが博士の学位であり、それがない教員の場合いろいろ難しい議論があるということを、当時は学士号しかなかった私は、半ば好奇の目でその様子を眺めていたものである。
なぜなら、当時の私には大学を出て就職する際に、学位が必要な職種があるということが信じられなかったからである。

今日、博士学位はさらに重要に


近年、博士課程中退ではなく実際に博士号を取得していることが教員採用や昇進にきわめて有利に働くようになってきた。
以前ならば文系の博士課程は、教員就職のための待機場所という性格が強かったが、そこにも研究者として自立して研究する能力を証明するものとしての博士の学位が必要になってきたのである。
このような風潮は、すでに教員として仕事をしている年長者にも影響を与えるようになってきた。

年長者である大学教員が博士号をとるには、大学院で学びなおす方法のほか、博士課程を持ちかつ課程博士号を授与した実績のある大学院に論文を提出し、試験に合格して課程博士と同等の能力を有すると認められた者に授与される、いわゆる論文博士号を取得する方法がある。
学位取得と大学院教育との密接な関連を主張する者からは、この論文博士制度は日本独自の悪弊であるとの批判もあるようだが、海外の大学院でもさまざまな柔軟な方法があることから、直ちにこれを廃止することは適当とは言えないだろう。

ディプロマ・ミルという問題


問題は、論文博士の取得も課程博士と同様あるいはそれ以上に難関であることである。
博士号の持つ重要性を考えれば当然と言えば当然だが、博士号が重要な意味を持つ中でその取得が難しいとなれば、取得が易しそうな大学へと目が向くのもうなずけよう。
そこにいわゆる「ディプロマ・ミル」(ニセ学位販売業)がつけ込むスキが生まれる。
今年1月6日付の朝日新聞の記事によると、昨年末に文科省が調査結果を発表して、「実態の伴わない博士号や修士号を発行する機関があり、そこから得た『ニセ学位』をもとに04~06年度に採用されたり昇進したりした教員が、全国4大学に4人いた」とある。

ニセ学位の多くは、上述のディプロマ・ミルから取得したものであろう。
それではこのディプロマ・ミルとは何であろうか。
私が委員として加わった会議に平成15年度に開催された「国際的な質保証に関する調査研究協力者会議」というものがあり、そこにディプロマ・ミルに関する資料が配布されたことがある。
これによると、ディプロマ・ミルというのは「贋物の証明書や学位を与える、信頼に値しない教育ないしそれに類する事業の提供者」のことであり、「ディプロマ・ミルは米国以外にも存在するが、特に米国は高度資格社会であり、雇用者側も教育資格を極めて重視しており、就職、転職にあたり、より高次の学位や証明書等を有することが有効である。
そのため、安易に学位等を取得できる手段として、ディプロマ・ミル(ディグリー・ミルとも呼ばれる)の偽学位販売業のサービスが活用される温床がある」との解説が付けられている。

博士号取得大学を明記する


このような正体のわからない業者から学位を買う教員がいることは論外のことだが、本来は教授としての実力があれば十分な仕事ができるはずの大学で、形式的な学位の有無が問題になってきているという現状には注目しなければならないであろう。
この問題は、しかし、単なる学内の採用・昇進の問題だけではなく、わが国の大学や大学院の国際通用性とも関係する問題であるだけに、なかなか複雑である。
一教員の立場で考えるなら、周りから後ろ指を指されないよう、なるべく若いうちに博士号それも正規のものを取得しておくに限るというのが正直な対応というべきであろう。

それにしても疑問に思うのは、博士号の有無だけで、当人の能力や資格を推測してよいのであろうかということである。
博士号が研究者の能力の証明であるなら、それを取得した大学院の質もまた担保されていなければならないであろう。
実際、広島大学の山崎博敏教授による調査によると、全国の大学の研究科長920名を対象とし、うち半数から返ってきた回答結果では、文系学位の質が大学間で「同等」とするものは3割弱に過ぎず、半数は「やや異なっている」、2割は「大きく異なっている」と答えているそうである。

ちなみに読者の皆さんは、学位規則では「学位を授与された者は、学位の名称を用いるとぎは、当該学位を授与した大学の名称を付記するものとする」(第11条)となっているのをご存知だろうか。
あまり励行されていないようだが、これを徹底させることが、学位の質を担保し、ディプロマ・ミルの介入を防ぐ確実な対策ではないだろうか。