2008年4月19日土曜日

あらためて、教育振興基本計画

昨日(18日)、中央教育審議会総会が開催され、「教育振興基本計画について(答申案)」が答申案どおり了承されました。

答申本文→http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/gijiroku/001/08041711.htm

この答申案については、この日記でも、特に我が国の教育を支える財政措置の保障に関する具体的記述に欠ける点について、教育現場で仕事をする立場、あるいは子どもを持つ親の立場から、少々辛口のコメントをさせていただきました。

本日(19日)の朝日新聞社説においても、同様の指摘が行われています。(20日付「山陰中央新報論説」を追加)
この社説(論説)は、国民の声そのものだと思います。政治家や役人は真摯に受け止め行動すべきです。


教育基本計画-中教審はどうしたのか (2008年04月19日付朝日新聞社説)

これでは話が違う。初めての教育振興基本計画をつくるため、文部科学相の諮問機関である中央教育審議会が出した答申のことである。

基本計画は、06年に改正された教育基本法に基づき政府が決める。「教育立国」を掲げ、10年先のあるべき姿を見据えて今後5年間に取り組むべき施策を示すものだという。

教育現場が抱える課題は多い。とくに深刻なのは学力低下問題だ。学力格差をどう縮めるか。考える力をどう育むのか。そのためには、教師の数や質の向上が欠かせない。

だから、この答申で最も注目されたのは、教員を増やすなど予算のかかる措置が具体的にどう描かれるかだった。日本の教育への公的支出の割合は、先進国のなかでも低い。教育への投資は、日本の教育を底上げするには避けて通れない課題である。

ところが驚いたことに、答申には具体的な提言が見あたらないのだ。

中教審は、授業時間と内容を増やす方針を盛り込んだ今回の学習指導要領改訂を答申する際にも、大前提として教員を増やすなどの条件整備が欠かせない、と明言していた。それを放棄したと言われても反論できまい。条件が追いつかないまま、ただがんばれと言われる現場はたまらない。

どうしてこんなことになったのか。答申には、財政措置の必要性にさらっと触れたのに続いて、こんな一文がある。「しかしながら、国の財政状況は大変厳しい状況にあり、これまでの歳出改革等の改革努力を継続する必要がある」。まるで財務省の審議会の答申かと見まがう内容である。

委員の片山善博・前鳥取県知事が「あまりに財政当局に近い内容で、省庁折衝の結果と答申が同じなら審議会はいらない」と怒ったのも当然だ。

答申づくりにあたって、文科省と財務省などとの事前折衝が行われ、財源の見通しがない具体策は盛り込まぬようタガをはめられた、ということのようだ。しかし、官僚たちの言い分を土台にして答申をつくるのでは、審議会で議論する意味がない。

教育現場にどんな環境整備が必要なのか、その設計図を描くことこそが中教審の使命ではないのか。それができないのなら、さっさと解散したらと言いたくもなる。

この答申を受けた基本計画は、来月にも閣議決定される。いま道路財源問題が政治の焦点になっている。財政状況が厳しいからこそ税金の無駄遣いをやめ、優先度の高い分野へ投入しなければならない。教育はその最たるものではないか。

教育が危うい。政府・与党にその自覚があるのなら、この答申にこだわらず、大胆な財政措置を基本計画のなかで打ち出してみてはどうか。


教育振興基本計画/学校現場への背信行為だ (2008年4月20日付山陰中央新報)

改正教育基本法で策定が義務付けられた「教育振興基本計画」について中央教育審議会が答申をまとめた。その内容に失望した。これまで積み上げた中教審の議論はどこに行ったのか。

基本計画は、今後10年を見通す教育のグランドデザインであり、当面する5年間の実行計画だ。なのに教育界にとっての悲願である教育予算増額の数値目標は財務省の反発で盛り込めず、教職員定数改善の具体的見通しも明記できなかった。情けない限りだ。

「教師が子どもと向き合う時間を確保するに当たっては、何よりも教職員定数の改善が必要」「確かな学力を確立するために…定数改善をはじめ、指導体制の整備を進める必要がある」。1月、中教審はこんな答申をだしたばかりだ。

1月答申を基に告示された学習指導要領改定では授業時間数や内容を大幅に増やし、手間暇かかる「活用」重視もうたっている。体験活動充実や小学校英語の導入など、それでなくても多忙化が言われる学校現場にさらに重い負担を課している。いずれも「多忙化で教材研究もできない現状を改善できるというのが前提」(委員)だったはずだ。

ところが肝心の基本計画の答申で具体的な定数改善の見通しを打ち出さないというのだから、教育現場ははしごを外されたような気分だろう。中教審は、自分たちの背後に現場があり、何より国の将来を担う子どもたちがいることを忘れているのではないか。

基本計画は、閣議決定事項であり、省庁間の調整は必要だろう。しかし、役所の都合ばかりをのみ込まされたような答申は、学校現場への背信行為に等しい。省庁間調整に任せるというのなら、文部科学省ははなから諮問などすべきではなかった。中教審をおとしめただけだ。

学校現場には目いっぱい要求するが、財務省など強い相手にはおずおずと引き下がるというのでは現場はたまったものではない。

文科省と財務省との調整で子どもに「丁寧に向き合うことのできる環境を実現する」という原案の表現は「向き合う環境をつくる」と書きかえられ、「多忙な教員」という現状認識も消えた。教職員定数改善に向けた芽はあの手この手で摘み取られている。学校現場の尻をたたくしか策がないというのでは安易に過ぎる。

答申は、既存の政策の寄せ集めと言ってもいい。

文科省は「教育投資の充実」「教職員定数の改善」というキーワードは入ったというが、「歳出・歳入一体改革との整合性を取る」という言葉と横並びで、玉虫色だ。

これから省庁間折衝が本格化するが、こんな腰の引けたものでは先が思いやられる。教育の基本計画を、責任の所在もはっきりしない省庁間の密室協議で決めていいのかという問題もある。

文科省にとっては、教育振興基本計画はこの十年近い教育改革の総決算のはずだ。教育基本法の改正や全国学力テストを実施したのも、ターゲットは基本計画のためだったと言っても過言でない。

これからの十年が懸かっている。文科省には自らの存在そのものが問われているとの覚悟を求めたい。