2008年5月30日金曜日

シンポジウム 「経済社会の将来展望を踏まえた大学のあり方」

本日(30日)、独立行政法人経済産業研究所(RIETI)が主催する政策シンポジウムが、国連大学ウ・タントホール(東京都渋谷区)で開催されました。

あいにくの小雨ではありましたが、経済産業省、文部科学省、財務省、大学関係者など約160名の多くの方が全国から参加されたようです。

経済産業省傘下の独立行政法人が大学の在り方を問うシンポジウムを主催すること、国内外の著名な研究者等を招聘していること、教育振興基本計画を巡るバトル真っ最中の財務省主計官と文科省課長のやり取りなど、興味と期待感をもって参加してきましたが、質疑応答も白熱しとても充実した、そして勉強になった1日でした。

シンポジウムの配付資料及び様子(動画)は、後日、RIETIのホームページhttp://www.rieti.go.jp/jp/events/index.html において公表されるようですので、今日は、シンポジウムの開催趣旨やプログラムについてご紹介します。(後日追加:配付資料は掲載されています。)

2008.7.8動画配信が開始されました。⇒http://www.rieti.go.jp/jp/events/08053001/handout.html

2008.7.17議事概要が掲載されました。⇒http://www.rieti.go.jp/jp/events/08053001/summary_1.html?id=nl


開催趣旨(RIETIホームページから)

国立大学法人という新しい仕組みが始まってから4年、日本の大学をめぐる情勢はいまだに安定していません。
国立大学全体に配分される運営費交付金は総額約1兆3000億円にのぼりますが、国立大学の使命に照らして適切に配分され使用されているのか、議論の対象になっています。
目に見える「成果」を研究や教育に求める声が高まる一方、大学という仕組みそのもの、とりわけ教育という営みには継続性・安定性が重要だという声もあります。
研究についても、競争的資金の重要性が増していますが、教育と一体となった基盤的な研究費については安定的に配分することが必要だという考えも提示されています。
さらに、こうしたマクロの議論は、ミクロのレベルにも反映します。学長の選任方法から教職員の勤務のあり方に至るまで、個々の国立大学の管理や運営のあり方は、全体的な制度の枠組みを離れては考えられません。そして、国立大学のあり方は公立大学や私立大学のあり方にも反映します。

こうした状況の下では、性急に結論を急ぐことより、根拠のある政策論を用意しておくことだと考えられます。
教育への国民の関心は深く、民主主義の下では国民の手に委ねられます。しかし、結果としてどのような政策が採られるにせよ、政策体系は全体として一貫したものでなければなりませんし、政策の選択は透明で合理的な議論に基礎を置かねばなりません。
本シンポジウムは、知識経済への転換という大きな節目を迎えつつある日本経済の現状を見据えつつ、そこで求められる大学像とは何かについて議論を深め、合理的な根拠に基づく政策形成(evidence based policy making)の実例を示すことを目的にしています。


プログラム(RIETIホームページから)

■基調講演 「日本の大学の国際化と競争力について」

 薬師寺 泰蔵(内閣府総合科学技術会議議員)

■第1セッション 「国立大学の果たしている役割と今後の課題」
  • セッションチェア:田中 秀明(一橋大学経済研究所准教授)

  • 概 説:玉井 克哉(RIETIファカルティフェロー/東京大学先端科学技術研究センター教授)

  • プレゼンテーション:「国立大学の果たしている役割と今後の課題」島 一則(広島大学高等教育研究開発センター准教授)

  • ディスカッサント:畠中 祥(コンサルタント/研究者)

■第2セッション 「運営費交付金の構造分析と改革」
  • セッションチェア:島 一則(広島大学高等教育研究開発センター准教授)

  • プレゼンテーション:「国立大学財政システムのあり方についての考察-運営費交付金の構造分析」赤井 伸郎(RIETIファカルティフェロー/大阪大学大学院国際公共政策研究科准教授)

  • プレゼンテーション:「運営費交付金改革-諸外国の経験と我が国の課題」田中 秀明(一橋大学経済研究所准教授)

  • プレゼンテーション:「大学改革-マネジメントと財政についての英国の経験」Quentin THOMPSON(教育コンサルタント)

■第3セッション 「大学のガバナンスの現状と課題」
  • セッションチェア:赤井 伸郎(RIETIファカルティフェロー/大阪大学大学院国際公共政策研究科准教授)

  • プレゼンテーション:「新たな経済と米国の大学の役割-経済成長を促す高等教育振興策」Michael K. YOUNG (ユタ大学総長)

  • ディスカッサント:羽田 貴史(東北大学高等教育開発推進センター教授)

■パネルディスカッション 「経済社会の将来展望を踏まえた大学のあり方」
  • セッションチェア:玉井 克哉(RIETIファカルティフェロー/東京大学先端科学技術研究センター教授)

  • パネリスト:(苗字アルファベット順)藤城 眞(財務省主計局主計官(文部科学担当))、羽田 貴史(東北大学高等教育開発推進センター教授)、永山 賀久(文部科学省高等教育局国立大学法人支援課長)、薬師寺 泰蔵(内閣府総合科学技術会議議員)、Michael K. YOUNG(ユタ大学総長)

シンポジウムの企画に当たったプロジェクトリーダーの玉井氏と、サブリーダーの赤井氏が、それぞれ事前にシンポジウムの概要等について寄稿されています。

●「長期的な日本の利益を考えた大学改革議論を」玉井 克哉
 ⇒http://www.rieti.go.jp/jp/special/af/043.html

●「国立大学財政ガバナンス:運営費交付金の構造を読み解く」赤井 伸郎
 ⇒http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0238.html
 ⇒http://www.rieti.go.jp/jp/events/08053001/pdf/5-1_J_Akai_PPT_o.pdf(シンポジウム発表資料)

2008年5月29日木曜日

どうなるのでしょうね この国の教育

日々、ニュースを目にするたびに、この国の将来はどうなっていくのだろう、未来を担う若者は、この国を支えるにふさわしい教育をきちんと受けることができているのだろうか等々、とても不安になります。(子どもを持つ親としても)

様々な人が様々な形で献身的に努力されていることは事実なのですが・・・。この国の教育はどこに向かうのでしょうか。

やや辛口の3つの記事をご紹介します。社会、国、親・・・いろんな問題がありそうです。皆さんはどうお感じになりますか?


東京特派員・湯浅博 学力劣化に耐えられず (2008年5月22日 産経新聞)

むかしの寺子屋は「読み書きソロバン」が主力だった。冬のすきま風などものともせず、静座で声を張り上げた。遺憾ながら、いまどきの大学生より洟(はな)垂れ小僧の方がよほど暗算がうまかった。

かつて国際標準を上回っていたわが中学の数学授業時間数はいま、年間105時間で世界最低クラスだ。改定されるとしても200時間のインド、シンガポール、台湾、ベトナムに遠く及ばない。

社会党が騒いで高校が全入になり、いまや大学が全入に近くなった。「教育の普及は浮薄の普及なり」という金言に従えば、やがて国まで危うくする事態がくる。

理工系大学院の修了証をいまの企業人は信じない。学生の中には、交流の電圧が100ボルト、乾電池が1・5ボルトさえ知らない者がいる。微分積分、三角関数どころか、電卓がなければ2ケタのかけ算すらできない。

これは最近、自動車部品メーカーの技術担当役員から聞いた本当の話である。

院生にしてこれだと学部生においてをやである。算数さえ危ういから私学の幾つかは学習塾に教師派遣を依頼して補講をしている。「高校数学」の講座があることが逆に大学の“売り”になっているというから呆(あき)れる。そんな大学の理工系学部はいらないと思うが 「いや、ドングリの背比べ」と聞いて事態の尋常ならざるを知った。

ただ、「ゆとり世代」の学生たちにその責任をすべて転嫁しては気の毒な気もする。高校までの学習内容が3割削減され、学習機会が剥奪(はくだつ)されているのに周囲の冷たい視線にさらされる。

都内のある大学を訪ねると、学生たちが中国人留学生を支援して、四川大地震の災害支援のカンパを募っていた。彼らの正義と誠意を四川にだけでなく、ミャンマーのサイクロン災害にも振り向けてほしいが意欲は買いたい。それでも、理工系の大学院教授の顔つきはさえなかった。

先端技術の講座を持つ主要な大学院では、院生のおよそ半分が中国人留学生に占められているのだという。留学生たちは学業に貪欲(どんよく)だから知識、技術の吸収が早い。彼らが帰国して米国や欧州の留学組に合流すると、世界最強の技術が生み出されることになる。

部品メーカーの役員は、「とくにハイブリッド車や燃料電池車の分野で、日本勢が中国に追い抜かれる日がくる」と危機感を語る。最先端技術であるほど容赦なく、かつ合法的に流出していく。

そんな現状なのに日中首脳会談が開催されると、わが首相は「3000人の中国人留学生を受け入れる」などと安易な約束をする。国の決定に国立大学はいやでも配分を受け入れなければならない。

こうなると、企業も独自防衛に乗り出さざるを得なくなる。入社試験では「人柄重視」「協調性」をやめ、「学力重視」に切り替える。人柄重視は基礎学力があって初めて意味があったからだ。

近ごろは企業が独自の社員向け再教育機関を開設するところが増えている。だが、モノを教えて給料を払う矛盾にいつまで耐えられるのか。桜美林大学の芳沢光雄教授によると、日本企業が自国の学生に見切りをつけ、中国人やベトナム人を大量採用する日だってそう遠くないかもしれない。

教育劣化の特効薬を先の役員に聞くと、「弥縫(びほう)策だけでは役立たない。ゆとり教育の以前に戻せ」と明確だ。お国の教育政策に焦りとともに怒り心頭なのである。


大学に「過保護者」急増 入学式は満杯、就職相談に同伴 (2008年05月24日 朝日新聞)

大学生の入学から授業、進級、就職など、過剰なまでに干渉する「過保護者」が目立っている。大学教職員の多くは、近年に急増したと言う。だが「子離れ不全」として放置できなくなった。大学間の生き残り競争が激しくなる中、各校は保護者サービスにも腐心する。

「子どもはきょう、休むので先生に伝えてください」「板書の字がよく見えないそうだ。善処して」

大都市圏にある私立の9大学に、父母からかかる電話の内容を聞いたところ「過保護な質問や依頼が増えた」と感じる職員が多かった。

そばに学生がいると分かるのに、母親がもっぱら聞く。父親からの電話も多い。

間接的に聞いた教員の冗談を真に受けて抗議したり、学長に改善要求の直訴状を書いたり。父親が学生を伴って就職相談窓口を訪ね、求人票を見て、学生より熱心に質問する姿も目撃されている。

入学式は、どこの大学でも父母で膨らんだ。法政大や東洋大は約1万4千人を収容する日本武道館を使い、「1学生につき保護者2人まで」と制限するのに満杯状態。明治大は今年度から、武道館で午前、午後の2部制にした。

人数制限をしない大学では祖父母や、乳幼児を連れた親類もついて来る。開場の2時間前から並び、ビデオ撮りに便利な場所を目がけて走る親も多いという。

大学選びのオープンキャンパス(体験入学)でも、両親と一緒の受験生が目立ち、中部大や関西大は父母向けのコーナーや説明会を開くようになった。「入試も、以前なら校門で子を見送ったものだが、最近は保護者が帰らない。控室に入り切らなくなる」と、首都圏の大学職員。

「少子化のせい」「子離れできない」というのが、教職員の大方の見方。進学率が上がり、大学が大衆化したためでもあるが、「学生の自立を阻み、指示待ち人間を増やす原因になる」と心配する声が上がる。

過保護な親は米国でも90年代から「ヘリコプター・ペアレント」として注目されるようになった。常に子どもの頭上にいて、何かあればすぐに降りてきて干渉する姿が「ヘリ」としてやゆされる。

だが、保護者の実情に詳しい小野田正利・大阪大教授はこうも言う。「今の保護者には大卒が多く、大学を知っているが故に、いろいろ見聞きしたくなるし、高水準の『顧客満足』を求めたくなる。その思いをある程度、大学側が受けとめる必要もある」

多くの大学は、保護者向けの説明会や交流会を拡充した。立教大は毎年、全国の約20カ所で教育懇談会を実施するうえ、昨年度から首都圏の会合を2回から5回に増やした。学部ごとの説明、教職員との交流に加え、学生の成績表を渡したうえで単位や就職などの個別相談も受け付ける。

明治、法政、立命館、関西の各大学なども同様で、「父母のための就職読本」を配るところも。小規模な関西国際大だと毎年、保護者と教職員の日帰りバス旅行もある。

全学生の単位取得状況や成績表を保護者に郵送する大学は珍しくない。「留年する前になぜ知らせなかった」「単位認定の仕方がおかしい」といった抗議に備え、説明責任を果たす意味もある。

「過保護の親もこの際、大学の味方につけ、就職まで一緒に学生を後押ししてもらう」。ある大学の渉外担当者はこう話す。


教育再生 地に足が着いていないのでは (2008年5月27日 毎日新聞社説)

政府の教育再生懇談会が第1次報告を福田康夫首相に提出した。子供をネットの有害情報から守ることや小学校からの英語教育強化などを掲げている。

「再生懇談会? 教育再生会議ではないの」という方もいるかもしれない。

教育再生会議は06年10月、安倍晋三内閣が教育改革政策の目玉として設け、安倍氏退陣後の今年1月に幕を閉じた。その間3次にわたる報告で「ゆとり教育」の見直しと学力の向上、徳育の充実、教員免許の更新制などを提言した。

その最終報告で、提言項目を促進するための新たな会議を設けるよう求めており、福田内閣が2月末に有識者によって構成、発足させた。それが今回の教育再生懇談会である。

一方で、教育の重要施策を審議し答申する文部科学相の諮問機関・中央教育審議会(中教審)がある。今春告示された新学習指導要領はこの答申に基づいている。これで小学校の5、6年生に英語が導入されることになった。

ところが、再生懇は報告で英語教育について「小学3年生から早期必修化を」と主張し、まず大規模にモデル校を設けるよう求める。先生や保護者は「どうなっているのか」と言いたくもなろう。

ことほどさように、学校教育の基本指針で腰が定まらないような印象を与えては、現場は戸惑う。

近く閣議決定される初の「教育振興基本計画」にもそれはいえる。文科省側と、財政再建優先の財務省側が折り合わず、計画を担保する数値目標は宙に浮いた。

文科省側はあくまで新指導要領に必要という小中学校の教員2万5000人増や、10年間で国の教育支出を国内総生産(GDP)の3・5%から5%へ引き上げることを主張するが、なお確たる見通しはない。

教育に限らず、政策は立案過程と目的がわかりやすく、一連の流れが見えやすくあるべきだ。今のさまざまな教育政策はどうだろうか。どこで何が論じ合われているのかと戸惑う人は少なくないだろう。

確かに、英語教育の抜本的な見直しを論じ合うことは必要だ。子供たちを囲む有害情報の遮断策も、重要な喫緊の課題といえる。これらについて、さまざまな機関で積み重ねられてきた論議も踏まえて重複を避け、もっと整理した形で改革論議や考え方を示し、方向づけていけば、国民の理解は得やすいはずだ。

それでこそ財政上の特別措置にも納得が得られ、当局同士が角突き合わせる不一致ぶりも避けられるのではないか。

私たちは新指導要領の前倒し実施が決まった際も「とる物もとりあえず」で先を急ぐばかりでは子供の学習意欲をそこねる懸念があると指摘した。教育改革論議では常にその戒めに立ち戻らなければならない。

2008年5月26日月曜日

経費節減:トイレットペーパーの功罪

大学経営の健全性を追求する上で重要なコストカット。民間企業に比べればまだまだ不十分な感がありますが、大学によっては「ケチケチ作戦」の徹底努力により、お金の上手な使い方をしているところもあるようです。

全くの偶然であり無関係な話ではありますが、最近「トイレットペーパー」というキーワードで対照的な記事を見つけました。


古紙でトイレットペーパー1300個 三重大が回収、リサイクル (2008年5月17日 中日新聞)

三重大キャンパス(津市)で回収した古紙から生まれ変わったトイレットペーパー約1300個が、初めて同大に届いた。学内で1カ月間に使われる2割に当たる量という。

同大がキャンパス内3カ所に緑色の「古紙回収ボックス」を設置したのは4月21日。同月中に約5・7トンが集まり、契約したリサイクル業者が引き取って再生させた。学生がデザインした包み紙には、環境に関する各学部の研究概要やマスコット「まもる」が印刷されている。

この取り組みを進めている環境ISO学生委員会の古紙再利用化プロジェクトリーダー谷口公美さん(19)=生物資源学部2年=は「今後は回収するだけでなく、紙の両面を使って使用量を減らしたり、分別をきちんとしたりする意識の向上を呼び掛けていけたら」と話している。


年8万ロール持ち出されていた 筑波大トイレから 准教授試算 (2008年5月23日 読売新聞)

筑波大のトイレから年間8万個ものトイレットペーパーが持ち出されている-そんな試算を筑波大の吉田謙太郎准教授(環境経済学)がまとめた。持ち出されたトイレットペーパーは、鼻をかむのに使った後に教室に放置されるほか、家に持ち帰る学生も多いという。「学生のモラル低下は深刻」(吉田准教授)として、筑波大は「持ち出し禁止」とトイレに張り紙をすることなどの検討を始めた。

調査は昨年10~11月、吉田准教授が担当する社会工学類2年生の社会調査実習の中で行った。学生9人が、授業の参加者や友人ら154人にアンケートした。

その結果、「トイレットペーパーを持ち出したことがある」と回答したのは、男子が40人(35%)、女子は10人(26%)に上った。持ち出した個数を聞き、学生1人あたりで平均すると年間5.4個。大学全体で推定すると8万個を超えることがわかった。

持ち出したトイレットペーパーの用途は、「鼻をかむ」が41%で最も多く、「こぼしたものをふく」が26%と続いた。「家に持ち帰る」と答えた学生も19%いた。持ち出す理由については、「節約」が最多で29%、「規制がないため」24%、「罰則がないため」が17%となっている。吉田准教授は「アンケートで正直に答えていることから、罪悪感はないのだろう。教室にトイレットペーパーを持ち込むのは見苦しい」と嘆く。

この結果に、筑波大の泉紳一郎副学長は「トイレットペーパーで鼻をかむのが恒常的になっているのであれば、問題だ。実態を調査して、持ち出し禁止を呼びかけるなどの措置を取りたい」と話している。ただ、職員の中には「学内で使うのであれば問題ない」と持ち出しを容認する意見もあり、学内の意思統一が課題になりそうだ。

茨城大では「持ち出し禁止」の張り紙をしており、持ち出しが目立つことはないという。ただ、手ふき代わりに使うケースがあり、校舎によっては注意を呼びかけている。


最後に、まとめとして、広島大学高等教育研究開発センターの島一則氏が、アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)に寄稿されている「経費節減策とその限界 国大法人化以降の実態」をご紹介します。

国立大学の法人化に伴い、国立学校特別会計制度が廃止され、運営費交付金制度が導入された。その特徴の一つとして、効率化係数・経営改善係数の導入が挙げられる。多くの読者は、これらについてご存知のことと思うが、効率化係数とは、ごく簡単にいえば、毎年度予算(附属病院分を除く)の1%分の運営費交付金を削減するものであり、経営改善係数とは、附属病院の毎年度予算の2%分の運営費交付金を削減するものである。

これらの導入は、適切な経費節減による効率化・経営改善が進まない限り(収入が従来のまま一定であるとすれば)、教育・研究の質を落とさざるを得ないこと意味している。そこで法人化以降、国立大学は様々な経費節減と収入増加に取り組んできている。

以降では、前者の経費節減策の実態について紹介する。なお、後述の情報は「国立大学における学内資金配分の変動過程に関する総合的研究」(日本学術振興会 基盤研究A 平成15年~18年)(天野郁夫・研究代表)に基づくものである。

まず、経費節減への取り組みの概要を見ていこう。

全学的な経費節減策を有しているかどうかを問う質問に対して、1)非常勤教員の人件費削減策については、国立大学の74.7%が、削減策を有しているとしている。次に、2)非常勤職員の人件費については48.2%、3)旅費54.9%、4)光熱水費92.8%、5)物品購入費については66.3%が全学的な削減策を有していると回答している。以上から効率化係数・経営改善係数の導入が、国立大学に経費節減を促していることが確認できる。

次に前述の経費節減策の具体的内容を紹介する。

1)非常勤教員の人件費削減策として、例えば次のようなものが挙げられている。
  • 非常勤講師数の削減を通じた経費節減(例:非常勤講師の雇用を平成16年度当初比50%に削減する)

  • 非常勤講師単価の統一・引き下げを通じた経費節減(例:時間単価の全学統一(講師ごとの経歴換算をしない))

  • 非常勤講師経費の部局負担化による経費節減(例:19年度以降、部局の非常勤講師に係る人件費は部局負担とすることで、中長期的な削減を図る)

  • その他(例:退職教員の協力を得、エルダープロフェッサー制度を創設し、同経費の節減に努める)
2)非常勤職員の人件費削減策の具体的内容としては、
  • 新規採用の抑制(例:新規増員が必要な場合には、理由を聴取し、個別に協議を必要としている。やむを得ない場合(常勤職員の欠員補充等)にのみ増員を認めている)

  • 派遣職員への切り替え・アウトソーシング(例:非常勤職員を適宜人材派遣に切り替え、繁忙期に限って派遣職員を採用するなどの方策を検討中)

  • 非常勤職員の単価の抑制・削減(例:非常勤職員の時間給、日給について統一単価とし人件費の抑制を図る)
3)旅費の削減策の具体的内容としては、
  • 旅費業務の外部委託・アウトソーシング(例:旅費業務の外部委託を実施することにより、旅費請求に係る作業時間を削減するとともに、外部委託により受託者が有する技術や専門性を活かした航空券、JR切符及び宿泊券等の調達、旅行事務の手続き代行等の処理サービスを活用して、業務の効率化及び経費の削減を図る)

  • 旅費支払いシステムの構築(例:国内出張でJAL及びANAを利用する場合は、既存の出張旅費システムに航空券手配システム(Q-HAT)の機能を付加(パック出張を除く)し、回数券(eビジネス6など)利用により経費削減を図っている。また、航空機に搭乗する間際までに同システムで予約することで、航空代金の立て替え、領収書及び搭乗半券の提出は不要とし、出張後の事務手続きを簡素化し事務コストについても軽滅を図っている)

  • 旅費規則の見直し(例:勤務箇所出発以外に自宅から出発可能とし、通勤手当支給部分との重複支給をなくすことで縮減を図った)
4)光熱水費の削減策の具体的内容としては、
  • 省エネルギーの啓発活動(例:各部局別のエネルギー使用量の推移等について、ホームページ上で学内に公表することで、使用量節減の啓蒙を図っている)

  • 契約の見直し・入札の実施(例:契約方法の変更(ガス大口供給契約、電気複数年契約)等を実施)

  • 部局資金配分との連動(例:平成15年度電気料、ガス料、上下水道料執行額の10%を部局に配分し、90を全学預かりとして、平成17年度の支払いを行う。90%以内で支出を終えた場合は、部局による節約効果として配分した10%分は部局経費とし、90%以内で納まらない場合は、使用量に応じて部局から徴収する仕組みにより、節減を図る)

  • その他(例:冷暖房設定温度の徹底と固定化、機械的に温度設定固定できるものは、夏場を28度、冬場を20度に固定して実施)
5)物品購入費の削減策の具体的内容としては、
  • 単価購入・一括購入・共同調達・競争入札等(例:定期的に購入するものについては単価契約の方法で、また、まとめて購入できるものについては一括購入の方法で経費削減を行っている、重油やコピー用紙等について、近隣国立大学と共同調達を行っている)

  • 定期刊行物・印刷物の見直し(例:定期刊行物について、購入廃止や共用により購入数量を大幅に削減。新聞について、共通スペースでの閲覧や、インターネットを利用することにより、購入数量を大幅に削減。業者から購入する規程集、総覧、要覧の類について、事務局で購入するものを共用することとし、各部局での購入を廃止)

  • インターネットの利用(例:インターネットを利用した教員発注で、発注量を集めることで物品購入の単価を下げることにより節減を図る、図書の購入において、オンラインストアである「Amazon.co.jp」による購入(カード決裁)を実施することにより、経費の節減を図っている)

  • その他(例:長期使用に努める。部品の交換修理が可能な製品、保守、修理サービス期間の長い製品を購入する。事務用品について、詰め替え可能なものを購入する)

などが挙げられている。

以上から、各種経費節減のためのシステム構築や地道な行動実践など、様々な経費節減策が進められていることが確認できる。しかし、磯田(2004、IDE11-12月号)が指摘しているように、効率化係数は、毎年、一定の割合で着実に重くのしかかってくる。つまり、経費削減策は当面の対応として一定の効果を発揮するものの、中期的な効率化係数への対応として有効でない。

実際、既に、藤村(2005、IDE11月号)が指摘するように、教育・研究条件の悪化(「国立大学法人「新」貧乏物語」として、教員個人の教育研究条件の悪化(外国雑誌の購入中止、学科共通ゼロックスの解約、コピーは極力控え、授業の資料はリソグラフ、学部紀要の投稿者には頁数に応じて掲載費を請求など)が各所で見て取れるのである。また、これらの基盤的な教育・研究条件の悪化は、いわゆる地方国立大学でより顕著な傾向があることも、筆者の分析結果から明らかになっている。

中央教育審議会では、「学士力」が取り上げられ、知識基盤社会において大学院教育に対する期待がますます高まる中での、「効率化係数」・「経営改善係数」(私立大学等経常費補助金の1%削減も同様)の導入は、それが「効率化」「経営改善」でありうる限界を超えて適用されてはならない。一定の水準を超えて適用され続ければ、その他の競争的資金も含めて、投入される公的資金全体の価値を損なう危険性が存在する点には十分注意が必要である。

2008年5月25日日曜日

格差社会と修学支援

前回この日記で、「教育振興基本計画」の閣議決定を間近に控え白熱している文科省と財務省の攻防についてご紹介しましたが、私達国民は、国政あるいは霞ヶ関の机上論の行く末ばかりを気にしているわけにはまいりません。
最近、格差社会の弊害が、様々な場面で取り沙汰されていますが、残念ながら教育においても例外ではないからです。

先般、財務省は、財政制度等審議会において、国立大学の授業料*1を私学並みに引き上げて、その予算を私学並みに引き下げようとする案を示しました*2が、これは、「我が国における高等教育への機会均等に反し、かつ、我が国の国力の源泉たる国立大学の研究開発能力を著しく低めるものであり、まさに国益に反する暴論」(文科省談)のとおりだと思いますし、そもそも財務省は、次のような国民生活の厳しい実態をどの程度認識しているのか甚だ疑問に思います。


苦しい大学生の台所 平均生活費年72万 6年前から22万減 (2008年4月23日 産経新聞)

大学生(夜間部を除く)の平成18年度の年間平均生活費は72万円で、ピークだった12年度から22万円減ったことが日本学生支援機構の調査で分かった。アルバイト代など収入が減る一方で、学費が値上がりする中、衣食住の生活費を切り詰めている学生の姿が浮かび上がった。同機構は「家計収入が減っており、学生を支援する奨学金の拡充に努めたい」としている。

隔年による調査は今回18年11月に実施し、9600人が回答。生活費は12年度の94万円から14年度86万円、16年度77万円と3回連続の減少。

16年度の年間生活費のうち住居・光熱費は24万円、食費は19万円、衣服などのその他の日常費は12万円。いずれも12年度に比べ約5万~6万円減った。

授業料などの学費は117万円で、昭和43年度の調査開始から一貫して増加。一方、家族からの仕送りやアルバイト代などの収入は219万円で、ピークの14年度から5万円減った。

生活費と学費を合わせた学生生活費の平均は190万円。最も高かったのは下宿している私立大のケースで247万円、低かったのは自宅から通う国立大生の105万円で両者の差は2・4倍あった。

実家の平均世帯年収は846万円で16年度から4万円減少。私立大865万円、国立大792万円、公立大740万円だった。


高収入でなければ国立大に進めない!? 学生生活調査 (2008年5月22日 Benesse 教育情報サイト)

独立行政法人日本学生支援機構はこのほど、2006(平成18)年度の学生生活調査の結果を発表しました*3。大学生や大学院生の生活費などについて、隔年で調べているものです〔2002(平成14)年度までは文部科学省が実施〕。その中で、国立大学に子どもを通わせる家庭のうち、高収入の層が増える一方で低収入層が大幅に減少するという、気になる実態が明らかになっています。

まず、大学の学部生(昼間部)全体の状況を見てみましょう。平均学生生活費は、学費が117万1,300円〔2004(平成16)年度比2,800円増〕、生活費が72万3,800円(同4万8,500円減)の、計189万5,100円(同4万5,700円減)でした。2000(平成12)年度は学費が112万1,400円、生活費は93万6,800円で、それ以降、学費が徐々に増加する一方、生活費は6年で20万円以上も落ち込んでいます。毎月1~2万円ほど切り詰めなければ大学生活が立ち行かなくなっている、ということでしょうか。

ただし、これはあくまで国公私立の平均値です。それぞれの学生生活費は、国立150万900円、公立139万6,200円、私立201万7,200円と、国公立と私立では依然として大きな差があります。また、自宅外通学の場合は、国立でも私立でも自宅通学生より70万円以上かさんでいます(公立は60万円弱)。

気になる数値は、子どもを進学させた家庭の年収です。全体の平均でみると2004(平成16)年度比0.5%増の846万円と微増しているのですが、国立が1.4%増の792万円、公立が1.3%減の740万円、私立が0.5%増の865万円となっており、国立大の伸びが目立ちます。

調査ではさらに、世帯の年収を5等分して、各層の状況を調べています。国立では、1,090万6,000円以上の層が前回(1,092万9,000円以上)に比べて0.5ポイント増の14.6%を占めたのに対して、488万1,000円未満の層では前回(504万4,000円未満)に比べて8.7ポイント減の17.1%と、大幅に落ち込んでいます。488万1,000円以上678万9,000円未満の層では19.4%(前回の504万4,000円以上693万4,000円未満の層に比べ4.4ポイント増)、678万9,000円以上849万5,000円未満の層でも29.5%(同693万4,000円以上858万8,000円未満の層に比べ5.1ポイント増)とむしろ増えているのですが、一定以上の収入がなければ国立に進めなくなっている、という実態を現していると見ることもできます。

私立を見ても、1,090万6,000円以上の層が0.6ポイント増の15.7%、488万1,000円未満の層が7.0ポイント減の16.1%と、国立ほどではないにせよ、やはり488万1,000円未満の層の割合が減少しています。

学費が高くなり、奨学金の支給も厳しくなるなかで、大学教育を受けたい人が、家庭の事情で進学機会を奪われたり、選択幅を狭められたりしているとしたら、問題です。社会全体で考えていかなければならないことではないでしょうか。


国立大の学費私立並みとは (2008年5月25日 朝日新聞声欄)(後日追加)

財務省の19日の財政制度等審議会で、国立大学予算について出された試案に驚いた。私立大並みに授業料を引き上げ、5200億円を捻出すべきだというのだ。

この案は国が人材育成を放棄したいといっているのと同じことだといえる。

この国は国土も狭く大規模農業経営ができるわけでも、石油や豊かな鉱物資源があるわけでもない。人々の絶えぬ努力、創意工夫で生きていかねばならない国だ。

能力や意欲のある多様な国民が教育を受けられ、優秀な人材を育成していくのが国の責務だ。

学資のため高校進学や大学進学をあきらめたクラスメートを何人も知っている。現在でも子供の教育費の負担は非常に重い。公立・私立にかかわらず教育費の負担が軽減され、少人数教育など教育内容を充実させるための財源を確保するよう本来なら財務省は奔走すべきではないのか。

奨学資金も借りれば返済しなければならず、私も返済に何年もかかった。やはり授業料が安く、安心して進学できる仕組みであってほしい。


従来から、我が国の教育費は、先進諸国に比べ、公的負担が低い一方、私的負担つまり家計負担が極めて高いことが、様々な調査により明らかにされています。また、更なる奨学金事業の充実も求められています。

最近、優れた学生確保を目的として、以下のように、独自の奨学金制度やそのための基金の設置など、多様な修学支援方策を試みる大学が増えてきています。

しかしながら、上記の実態調査などから見れば、未だ不十分の感があり、特に多くの国立大学は、法人化前の授業料免除制度を現在でも適用していますし、免除の対象範囲の拡大やメニューの多様化に一層の改善が必要ではないかと思います。

先日、財務省が財政制度等審議会に提出した資料によれば、国立大学法人全体の決算剰余金(当期総利益)は、平成18(2006)年度末で、約773億円を計上しています。経営努力によって生み出した資源をどう使うかは大学の裁量ではありますが、個人的には、学生の確保、あるいは修学支援に優先して充当することが、国立大学としての使命・役割を達成し国民の負託に応える観点から望ましいあり方なのではないかと思います。


入学金免除・年間400万円支給など、大学独自の支援制度が続々登場! (2008年5月7日 日経トレンディネット)

受験生を持つ親だけでなく、大学院を目指す社会人にとっても、入学金や学費の工面は頭の痛い問題。ところが最近、大学独自の新しい支援制度が次々に登場している。それも、私立大学だけでなく、学費が安い国立大学でも独自の経済支援を始めるところが増えてきた。

東京大学では20年度入学生から、親の年収が400万円未満(税込み)の学生の学費を無料にする制度をスタートさせ、周囲をアッと言わせた。こうした動きを受け、私立・国立を問わず、優秀な学生を獲得すべく、大学独自の支援制度が続々と生まれているのだ。その中から、注目すべきものをいくつかご紹介しよう。

慶應義塾大学は平成21年度から入学金を4割引き下げると発表。同大学では国際的に優秀な学生を集めるため、諸外国にはなく、徴収趣旨のはっきりしない入学金を近いうちに全廃する意向だ。

このほか、入学金免除制度でユニークなのが東京工科大学の「卒業生御子息等入学金免除制度」。同大学のほか、日本工学院専門学校、日本工学院八王子専門学校、日本工学院北海道専門学校の4校を手がける片柳学園では、平成18年度からこの制度をスタート。4つの学校の卒業生・在校生の子供、孫、兄弟姉妹が4校のいずれかに入学した場合、入学金が免除される(北海道校のみ減額)。「学園創立60周年の記念事業の一環として始めました。最近は保護者の経済状況も2極分化傾向で、入学初年度にまとまったお金を工面するのが大変な方も多いのが実状。この制度での入学金免除は大変喜ばれています。在校生の妹さんや弟さんが入学されるケースも増え、この制度の効果が出ています」(東京工科大学・広報課)。ほかにも、同様の制度を採用する大学は増えている。

「学費が高いため、行きたいけれど断念せざるを得ない」という優秀な学生に入学のチャンスを与えたいと、国際基督教大学(ICU)が今年度から始めたのが、入学試験で優秀な成績を修めた学生に4年間で400万円を支給する「ICU Peace Bell奨学金」だ。同校の授業料・施設費は年額132万6000円。この金額がネックになり、せっかく合格しても入学を諦める優秀な学生もいた。「こうした現実を憂慮した同窓会の呼びかけにより、ICUを目指す優秀な学生に門戸を広げることと、建学の精神である国際平和の建設に貢献する人材を育てるために創設されました。今年4月に最初のPeace Bell奨学生12人が入学しました。

奨学生に感想を聞くと、『この奨学金がなかったら、ICUに来るのが難しかった』と実際に答えた学生もいました」(国際基督教大学・広報センター)。昨年度から、大学とともに同窓会が募金活動を行い、すでに2億1844万円(08年3月21日時点)の基金が集まっている。

早稲田大学も04年に、入学試験の成績優秀者に4年間の学費を全額免除する特別奨学金制度を創設。前出の東京工科大学でも、同様のスカラシップ(奨学金給付)制度を実施。入学試験の成績上位合格者を対象に、年額120万円、最長4年間で総額480万円を給付する。優秀な学生を獲得するため、こうしたスカラシップ入試を行う大学が今後ますます増えそうだ。


*1国立大学の授業料、入学料及び検定料

2008年5月24日土曜日

国民不在の教育財政論議 文科省VS財務省

今まさに「教育振興基本計画」の閣議決定を巡る文科省と財務省の闘いが山場を迎えています。

報道による情報だけでは、論戦そのものは、省益なのか国家論なのか、なかなかよくわからないわけですが、いずれにしても、この国の行く末を両者で徹底的に議論した上での結論に至ってもらいたいものだと思います。

しかし、個人的に残念に思うのは、こういう時こそ、地方公聴会やタウンミーティングなどをやって、これからの教育財政のあり方について、広く国民の声を聴いてもらいたいものだと思うのですが・・・。

それでは、「教育振興基本計画」に数値目標を書き込むかどうかのここ最近の両省や関係団体等の動向を報道を通じて時系列に見てみましょう。


「教育振興基本計画」で教育は良くなるのか(2008年5月12日 Benesse 教育情報サイト)

文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会はこのほど、「教育振興基本計画」の内容を答申しました。関係省庁との折衝を経て、5月中にも閣議決定され、正式に政府の計画となります。しかしテレビや新聞などでは、答申に対する評価はあまり高くありません。これで教育は良くなるのでしょうか。

「教育振興基本計画」は、今後10年間を通じて教育の目指すべき姿や、さらにそれを実現するために今後5年間で国が取り組むべき教育施策などを示すものです。答申では、今後10年間をとおした教育の目標として、義務教育修了までに「世界トップクラスの学力水準を確保し、責任ある社会の一員として自立して生きていくための基礎となる力を育てる」ことなどを挙げています。

ただ答申は、取り組むべき施策の数値目標や、施策の裏付けとなる予算措置について、ほとんど言及していません。教員の増加など予算が必要となる措置を明示することに、財務省などが強く反対したためだと言われています。

「教育振興基本計画」を策定することは、「教育改革国民会議」が2000(平成12)年末に出した最終報告の中に盛り込まれていましたが、当時の文部科学省の構想では「いじめを5年間で半減させる」などといった具体的な目標を示すことになっていました。数値目標を盛り込むことで、それを実現するための教育予算を確保しよう、というのが文科省のねらいだったと言われています。

しかしその後、小泉純一郎首相(当時)の下で教育分野を含めた大規模な行財政改革が推進され、次の安倍晋三首相(同)も学校教育や教員を批判することで「教育再生」を目指すという手法を取ったため、いずれも文科省予算の拡充には慎重な姿勢が示されました。

このような時代の流れの中で、予算措置裏付けを得るという形での計画策定が難しくなり、結局、教育行政の目標や施策が抽象的な表記にとどまってしまった、というのが答申の背景のようです。

これで教育が良くなるかどうかは、正式に閣議決定された計画の内容を詳しく見てみなければ、何とも言えません。しかし、ここで忘れてはならないことは、教育を良くするのも悪くするのも国民の声次第だ、ということです。

「教育振興基本計画」の内容を答申するに当たり、文科省や中教審が財政当局に抵抗しきれなかったのは、「教育予算をいたずらに増やすべきではない」という社会的世論が今あるからです。無駄な予算を削るのは当然ですが、学校を良くするためには、やはり一定の予算と人員は必要でしょう。

評価が分かれる「教育振興基本計画」ですが、この策定を機会に、子どもたちの教育のために必要な予算と人員は確保すべきだと国民が考え直すきっかけになれば、それだけでも 意味のあるものだと言えるかもしれません。


教育関連予算:教育費増額要求に反論 財務省「欧米とそん色ない」(2008年5月13日 毎日新聞)

渡海紀三朗文部科学相や自民党の文教族議員が、教育関連予算の対国内総生産(GDP)比を大幅に引き上げるよう政府に働きかけていることに対して、財務省は12日、欧米各国などの詳細なデータを盛り込んだ反論書を公表した。

この中で、財務省は「少子化が進む日本とそうでない他の国のGDP比を単純に比べても意味は無い」と主張。その上で「生徒1人当たりの教育費で見ると、日本は主要先進国とそん色なく、数値目標を掲げるなら、予算の投入量ではなく、教育による成果にこそ適用すべきだ」と、「教育予算のバラまき」を強くけん制した。

教育予算の拡充は、政府が今後5~10年の方策を示す「教育振興基本計画」作りの焦点。文教族は財政再建がハードルとなり、計画に予算拡充の数値目標が盛り込まれずにいることから、4月下旬以降、巻き返しを開始。渡海文科相も9日、「現在GDP比3・5%の教育費を今後10年間で経済協力開発機構(OECD)諸国平均の5・0%へ引き上げるべきだ」とぶち上げた。

これに対し、財務省は反論書で「1人当たり教育費」を算出すれば、先進国中で米国に次いで2番目の公的教育支出国になると指摘。「欧米のように、教育でどんな子どもを育てるのか、学力向上や規範意識など成果にこそ数値目標を設けるべきだ」と訴えた。

5.0%目標に必要な財源7兆4000億円の手当ても「全く考えられていない」と批判した。


国立大授業料、私大並みに 財務省、5200億円捻出案(2008年05月19日 朝日新聞)

財務省は19日の財政制度等審議会(財務相の諮問機関)で、国立大学予算で授業料引き上げなどによって最大5200億円を捻出(ねんしゅつ)できるとの試案を発表した。

生まれた財源を高度な研究や人材育成、奨学金の拡充に充てるべきだとの主張も盛り込んだ。国から国立大に配る運営費交付金(08年度予算で約1兆2千億円)の増額論議を牽制(けんせい)する狙いがあると見られる。

試案は、授業料を私立大並みに引き上げることで約2700億円、大学設置基準を超える教員費を削ることで約2500億円の財源を確保できるとしている。

「義務教育ではないので、一般的な教育自体のコストを(税金で)補填(ほてん)することには慎重であるべきだ」とし、「高等教育の機会均等は、貸与奨学金での対応が適当」とした。

財政審の西室泰三会長は会合後の記者会見で、この提言を6月にまとめる意見書に採用することは否定したものの、教育を受ける機会を損なう恐れもあり、論議を呼びそうだ。西室氏は「国立大学の授業料は個別に決められるが、相変わらず横並びだ」と指摘し、各大学に自主判断で授業料を見直すよう求めた。


上記、財政制度等審議会に財務省が提出した資料は、133ページにもわたる膨大なものですが、このうち、高等教育、特に国立大学法人の運営費交付金に関する資料には、次のようなことが書かれてありました。

国立大学法人運営費交付金の配分ルールを大胆に見直すべきではないか

1)成果や実績、競争原理に基づく配分

国立大学法人評価については、機関評価だけではなく、各大学の学部・研究科ごとの水準と達成度の相対評価が明確になるよう厳格に実施・公表し、これを踏まえた運営費交付金の配分ルールに見直すべきではないか。

2)教育・研究等の機能分化、再編・集約化

高等教育の国際競争力強化等を目指すうえでも、評価結果に基づき、各大学の教育・研究等の機能分化、再編・集約化に着手することが必要ではないか。

3)一律横並びの授業料の見直し

現在の一律横並びの授業料は見直されるべきではないか。

国立大学法人について検討を要する課題(試論、未定稿)

1)国立大学法人運営(ガバナンス)の充実
  • 大学の目指すコンセプト(中期目標・手段の論理構造)の明確化

  • 大学の実態把握(財務諸表の充実による管理会計分析、評価等)→改革及びそのモティベーションヘの活用

  • 効果的な大学経営(教務と経営(財務、労務等)の関係の明確化、効率的な資金活用の動機付け)、戦略立案能力の強化

  • 社会との積極的関わり、大学への理解→適切な学費水準、民間資金(受託研究、寄付等)、地方政府の資金等の活用
2)各国立大学法人の位置づけ、機能の分化・明確化
  • 大学自治と納税者利益(社会の中の大学)のバランス→効果的な大学運営の確保(大学自治とタテワリ・閉鎖性・改革硬直性、社会・地域・企業等の視点による普遍化)

  • 教育機能と研究機能の配分→大学ごとの機能の分化・明確化(研究力の向上(分野別評価による国費支援、競争的資金等)、教育力(社会・企業ニーズを踏まえた教養、職業専門教育)の向上(学費の重要性大)→学士の水準等、教育と研究との接続→柔軟な組織、学生・教官の円滑な大学間移動)

  • 大学・学部等の再編・集約化等

  • その他、奨学金のあり方等

運営費交付金の算定についての留意点(試論、未定稿)

今後、22年からの新中期目標期間開始を前に、運営費交付金のあり方について、広く議論を深めていく必要がある。

[第一期]
原則・・・H16年の水準(特会時代からの引継ぎ)に▲1%
  • 改革の必要性への認識が、広がり始めた。

  • 大学横断的な一律薄切りは、各大学の特性や大学間や大学内の評価、優先順位を考慮しないものであるとの指摘が見られる。

  • 大学の業務規模は、競争的資金や受託研究費等の拡大により、運営費交付金の削減にもかかわらず、拡大している。ところが、こうしたなかでも、「▲1%の削減が、大学の贅肉をなくし、骨を切っている」とか、「現場で数割の研究費削減が行われている」といった批判等が見られている。しかし、運営費交付金の削減は、どの分野でどの程度の効率化につながり、他方、どの分野で効率化が遅れているのかといった各大学の分析はなく、大学経営陣も、どこまで把握できているのか不明。

  • 国立大学法人の財務諸表もまだまだ十分なものとは言えず、経費の効率化がどこで行われているのか、判然としない。各大学の経費構造の変化や改革の進捗について、整理を求める必要があるのではないか。また、その際、財務指標を管理会計的に活用可能なものに改善する必要があるのではないか。
[第二期に当たっての留意点]
  • 大学の特性や学部ごとの評価を考慮し、国が支援するべき大学研究等と必要な人材育成について、運営費交付金を交付するべきではないか。

  • 研究コストについては、各大学の学部ごとの分野別の相対評価に基づいて、学部ごとに交付額を傾斜配分すべきではないか?(+競争的研究資金、受託研究等で研究を行う。)

  • 高等教育コストについては、基本的に学費等の自己収入でまかなうべきではないか?ただし、国が育成すべき人材(育成コストが将来の学生が得るリターンとの関係で著しく高く、かつ、一定数の人材を国が育成する必要がある分野等)に限っては、国の関与の下、その成果を考慮しつつ基盤的経費を交付することが考えられるか。

  • 高等教育の機会均等については、貸与奨学金で対応することが適当。一般的な教育自体のコストを大きく補填することについては、義務教育でもなく、慎重であるべきではないか。もし、福祉国家的な発想を採るのであれば国民負担のあり方とあわせて考える必要がある。

  • 教育については、過渡的に、いわゆる基盤的な要素について、一定の交付を継続するとしても、単なる経営補填であってはならない。大学自体のパフォーマンスの向上、将来のシステムヘの移行努力を支援するものである必要。

多少ごもっともな部分もあり、いちいち反論はいたしませんが、総じて財務省一流の論理展開であり、財務省というお役所の立場に基づく目先の経済論理ばかりが露呈されていて、今後将来の高等教育のあるべき姿を論じていない点において、国民に対する説得力が全くないと言わざるを得ません。


教育予算やまぬ「文書合戦」…文科省が財務省に再反論(2008年5月20日 読売新聞)

文部科学省は19日、財務省が12日に発表した、国の教育支出の大幅増額は必要ないとする「反論」に対する「再反論」の文書をまとめた。

教育予算をめぐる財務、文科両省の対立は、「文書合戦」の様相を呈してきた。

文科省は、今年度から5年間の教育政策の財政目標を定める「教育振興基本計画」をめぐり、教育投資の数値目標を対国内総生産(GDP)比で「5%」と明記するよう求めている。

「再反論」では、現在のGDP比が、経済協力開発機構(OECD)諸国の中で2番目に低いなどのデータを盛り込んでいる。

財務省は12日、「生徒1人あたりなら、米英独仏の平均とほぼ同水準」とする反論文書を発表。数値目標の明記についても、「教育投資や教職員定数の『投入量』でなく、どのような子供に育って欲しいかという『成果』で設定すべきだ」と否定的な見解を示した。

文科省はこれに対し、「成果の実現には一定の条件整備が必要で、そのための投入量目標 も重要だ」と反論している。


GDP比5%の教育投資を 教育再生懇が緊急提言(2008年5月20日 共同通信)

政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾長)は20日、5月中に閣議決定する「教育振興基本計画」で、教育投資額を国内総生産(GDP)比5%に引き上げる数値目標の明記などを求めた緊急提言を発表した。

提言は、日本の公的な教育支出額が対GDP比3・5%にとどまっていると指摘し、経済協力開発機構(OECD)加盟国並みの5%にする必要性を強調。グローバル化に伴って国際的な人材育成競争は激しさを増しており、財政的基盤の確保が不可欠とした。

今後5年間の教育政策を定める「教育振興基本計画」をめぐっては、文部科学省が数値目標明記を強く求める一方、財務省は歳出削減の観点から強く反対。懇談会は提言で文科省の“応援団”を買って出た格好。



教育振興基本計画に関する緊急提言(概要)

平成20年5月20日 教育再生懇談会

政府において、新しい教育基本法に基づく教育振興基本計画が策定されようとしている。この教育振興基本計画は、教育再生のために極めて重要な役割を担うものである。

教育は、保護者あるいは本人の所得、障害、地域、家庭や仕事の環境、年齢等の条件を問わず、すべての人間の生涯に喜びと希望と糧をもたらすための重要な基盤であり、教育立国として再生していかざるを得ない我が国においては特に、教育の機会均等が保障されなければならない。ところが我が国ではその機会均等が揺らぎつつある。また、世界のグローバル化に伴う国際的な人材育成競争が激化している中で、我が国の教育レベルの低下が現実のものとなりつつある。

このような背景に鑑み、教育の再生によって我が国の将来を担う人間に夢と希望を与え、国の未来を切り拓いていくために、これから策定される教育振興基本計画について、緊急に以下の提言を行う。

1 教育再生への確実な取り組み
  • 「留学生30万人計画」および外国での研鑽の支援等の国家戦略としての実行

  • 世界の共通言語としての英語教育の、国語教育等と矛盾しない形での抜本的強化

  • 幼児教育の無償化、認定こども園の指定促進

  • 新学習指導要領実施のための教員や教材の充実

  • 専科教員確保を含めた教職員定数の改善

  • 学校施設の耐震化

  • 特別支援教育の充実

  • 私学振興

  • 高等教育の基盤的経費(国立大学運営費交付金、私学経常費補助金)の充実 等

2 財政基盤の確保

教育の再生を図るためには、幼児教育から高等教育に至る多くの改革を、省庁の壁を超えて、直ちに、かつ、総合的・抜本的に進める必要がある。そのためには、これらの施策の実施を裏づける財政的基盤の確保が不可欠であり、今後の歳入改革も見通し、教育への公財政支出を現在の対GDP比3.5%から少なくとも他のOECD諸国並みの対GDP比5%にする等の具体的数値目標を教育振興基本計画に記述し、省庁総がかりで、教育再生を着実に実現していくことが極めて重要である。

3 税制、地方の教育費、教育再生会議報告の実行
  • 民間からの教育投資を促進するため、寄附に係る優遇税制について格段の充実・強化を図ることが重要である。

  • 地方交付税で措置されている図書費、教材費など教育のために措置されている財源が100%子供たちのために使われるよう地方に対し強く促すことが重要である。

  • 子供たちの体験活動、学校支援地域本部の全国展開、スポーツ、文化の振興、教育委員会の機能強化はじめ、教育再生会議報告の提言を確実に実行することが重要である。

提言の全文については、以下をご覧ください。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku_kondan/teigen.pdf


教育投資GDP比5%めざすと文科相(2008年5月22日 産経新聞)

作成が遅れている教育振興基本計画について、渡海紀三朗文部科学相は22日、23日午後には、文科省案を公表し、年間の教育投資額を国内総生産(GDP)比の5%にすると記載することを明らかにした。

渡海文科相は21日に額賀福志郎財務相と会談し、その中で「23日午後には教育振興基本計画の文科省案をお持ちする」と発言したと述べた。GDP比5%の教育投資額以外の数値目標については明らかにしなかった。

日本の教育投資額は年間17・2兆円。GDP比3・5%相当で、経済協力開発機構(O ECD)加盟国平均の5%には及ばない。このため、自民党文教族や教育再生懇談会など から5%を目標に増額を求める意見が多く出ていた。

教育振興基本計画は、改正教育基本法に基づき、今後10年間の政府の教育政策の方向を示すもの。政府は平成19年度中の策定をめざしていたが、中教審の審議や政府・与党内の調整などで遅れている。


教職員2万5000人増、「小学校英語」要員など(2008年5月23日 読売新聞)

改正教育基本法に基づき、戦後初めて策定される「教育振興基本計画」の文部科学省原案に、教職員定数の2万5000人増員が盛り込まれることが22日、明らかになった。

2011年度から始まる小学校英語の専門教師に約2400人、理数系を中心とした少人 数指導の要員に約8800人をあてるなどとしている。来月早々の同計画の閣議決定を目 指している文科省は、この原案をもとに省庁間の調整に入るが、具体的な増員数を掲げる ことに財務省が強く反対しており、今後の展開が注目される。

同計画は今年度から5年間の政府の教育施策の目標を定めたもの。中央教育審議会の先月の答申では、国の財政事情に配慮して財政上の数値目標を盛り込まなかったことから自民党文教族議員らを中心に反発が広がり、文科省は、原案に国の教育支出額の目標として「国内総生産(GDP)の5%」を掲げることに加え、新たに教職員の増員数も明記することを決めた。

現在の教職員数は約70万人。行革推進法が10年度まで「児童生徒の減少を上回る割合での教職員の純減」を定めていることを受け、新学習指導要領が小学校で実施される11年度以降の2年間で実現することを目指す。内訳は、小学校英語の専門教師や少人数指導の要員のほか、新指導要領で授業時間が増えることに対応するため、小学校で11年度に約1万人、中学では12年度に約3300人を増やす。

国の教育支出額は現在、GDPの3・5%の約17・2兆円。5%とした際の増額分約7兆円について、文科省は、教職員の増員など小中高校教育に約2・8兆円、大学教育に約3・5兆円を振り分けたい考え。

現場の負担軽減

文部科学省が教育振興基本計画の原案に、教職員の増員数を明記したのは、教育現場からの強い要望を受けたものだ。「ゆとり教育」からの転換を図る新学習指導要領では、授業時間やカリキュラムが大幅に増える。現場の負担を軽減する具体案を示した点で大きな意味がある。

ただ、国の教育支出額をGDP比5%まで引き上げるには約7兆円が必要。この金額は消費税約3%分にあたる。「教育立国」を目指すには、GDP比5%がぜひとも必要だとい う根拠を国民に分かりやすく説明することも必要だろう。

国の財政事情への配慮と教育への投資を二者択一の議論にしてはならない。この国の将来を考えるなら、政府として大胆な決断も必要だ。


さあ、この国の将来やいかに。閣議決定が楽しみです。

2008年5月23日金曜日

高等教育政策の動向

恒例となりました文科省高等教育局が発信するメルマガ「高等教育政策情報」(第29号)から抜粋した主要な記事をご紹介します。

[政策動向]

■教育振興基本計画の策定に向けた状況について

 -投資の数値目標設定について大学団体が改めて要望-

現在、文部科学省においては、中央教育審議会(会長:山崎正和LCA大学院大学長)の「教育振興基本計画について(答申)」(平成20年4月18日)を踏まえ、教育振興基本計画の策定に向けた作業を行っているところです。特に、教育投資に関する数値目標の設定について世の中の関心が集まっています。5月9日の渡海文部科学大臣の会見では、「与党からも数値目標を入れるべきだという意見が出ていることを受け、数値目標を入れる方向で考えていきたい」旨の発言があり、これを踏まえて検討を進めています。

その後、5月13日に開催された中央教育審議会大学分科会制度・教育部会(部会長:郷通子お茶の水女子大学長)の委員懇談会では、国立大学協会、公立大学協会、日本私立大学団体連合会の大学関係3団体及び全国高等学校長協会に御出席いただき、「学士課程教育の構築に向けて(審議のまとめ)」についてヒアリングを行いましたが、大学関係3団体いずれからも、「教育振興基本計画において、高等教育への公財政支出をGDP比0.5%からOECD平均1%を実現するという資金投入の目標額を明確に記述すべきである。」旨の意見をいただきました。

また、5月20日に開催された中央教育審議会大学分科会(分科会長:安西祐一郎慶應義塾長)の中で、財務省が5月19日の財政制度等審議会財政制度分科会財政構造改革部会において示した「文教・科学技術関係資料」(下記ホームページ参照。これに関する当省の見解は次号以降で紹介予定。)の内容が報告されました。委員からは、当該資料の問題点について意見が示され、我が国の高等教育分野における公財政支出の低さが課題である旨の指摘がされました。

こうした意見を受け、次のような統括がされました。
  • 「教育投資の数値目標は中教審答申に盛り込まれなかったが、大学団体など教関係者の期待も高まっている。

  • 高等教育の公財政支出について、先に大学分科会関係4団体が提出した意見書「大学教育の転換と革新」を踏まえ、「できる限り速やかに年間5兆円以上の投資規模」を達成する趣旨が反映されるよう改めて求めたい。

  • 目下、留学生30万人計画、グローバル化などに関心が高まっている。世界的な教育研究拠点の形成も大事。それらと同時に、学士課程を中心に、大衆化した大学教育の質の向上、「底上げ」や裾野づくりのための投資を忘れてはならない。そうしたバランスを保った上での答申を拡大することが必要。

財務省ホームページ
http://www.mof.go.jp/singikai/zaiseseido/siryou/zaiseib200519.htm


■第10回経済財政諮問会議について

 -渡海文部科学大臣が教育の国際化、投資の必要性を主張-

平成20年5月9日に第10回経済財政諮問会議が首相官邸で開かれました。
この会議では、「国際的な人材強化について」という議題の中で、教育における国際化について議論されました。

教育の国際化に関して、民間議員から、「留学生30万人計画」の実現に向けて、2010年までの3年間を「集中改革期間」として、「『グローバル30(国際化拠点大学30)』の選定」、「留学生の就職支援」、「英語教育の強化」などの取組を加速すべきであるという提言がされました。

民間議員の提案に対して渡海文部科学大臣からは、「民間議員ペーパーに書かれていることは日頃から問題意識をもっていることであり、積極的に検討していきたい」と表明しました。また、「留学生30万人計画」を中心とした教育の国際化の取組として、まず、高等教育の質を高めていくためにそれなりの投資が必要であり、その上で、大学を英語で卒業できるようにするなど大学の魅力を高めること、地域・分野ごとに戦略的に留学生を獲得すること、宿舎や奨学金の受け入れ体制の整備、卒業後の日本企業への就職の拡大など魅力ある大学や社会の環境をつくことが必要であると説明しました。また、受け入れだけではなく、日本人学生がもっと海外へ出て行くことも大いに促進する必要があると説明しました。

最後に、福田内閣総理大臣から、日本を開かれた国にするためには、留学生を受け入れることが大事であり、「グローバル30」の計画推進を渡海文部科学大臣にお願いしたい旨要請がありました。また、留学生の受入れと関連して、高度人材受入れ促進のために、学者、産業界、労働界からなる推進会議を町村信孝官房長官のもとに設置するよう指示がありました。

経済財政諮問会議ホームページ
http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2008/index.html


■教育再生懇談会緊急提言について


 -「教育への公財政支出を対GDP比5%に」-

政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾長)は5月20日夕方、「教育振興基本計画に関する緊急提言」を公表しました。この中では、「機会均等が揺らぎつつある」、「国際的な人材育成競争が激化している中で、我が国の教育レベルの低下が現実のものとなりつつある」といった基本認識を示した上で、「財政基盤の確保」の項において、「教育の公財政支出を現在の対GDP比3.5%から、少なくとも他のOECD諸国並みの対GDP比5%に拡大する等の具体的な数値目標を教育振興基本計画に記述し、省庁総がかりで、教育再生を着実に実現していくことが極めて重要」と提言されています(注)。

その他には、「留学生30万人計画」及び外国での研鑽の支援等の国家戦略としての実行、私学振興、高等教育の基盤的経費(国立大学運営費交付金、私学経常費補助金)の充実などが提言されました。

(注)我が国の教育の公財政支出は総額約17.2兆円(年間)であり、仮にOECD平均のGDP比5%を目指すのであれば、新たに約7.4兆円(年間)の支出が必要となります。

教育再生懇談会ホームページ
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku_kondan/index.html


[国会の動き]

教育振興基本計画に関する申し入れ等

 -与党から相次いで教育投資の拡大の要請-

公明党文部科学部会(部会長:富田茂之衆議院議員)から、福田内閣総理大臣に対して、5月8日、「教育振興基本計画の策定に関する申し入れ」がありました。また、5月12日、渡海文部科学大臣に対しても同様の申し入れがありました。この申し入れにおいては、7つの事項について、教育振興基本計画への記述を求めており、特に高等教育に関連の深い内容として、教育投資の数値目標の設定、私学助成の充実、地域経済界と大学との連携の取組の強化が盛り込まれています。

また、5月14日、自由民主党所属の国会議員総勢111名から成る「頑張る学校応援団」(顧問:河村建夫衆議院議員ほか6名)から「教育振興基本計画に関する決議~未来を支えるこどもたちのために必要な投資を~」がされ、同日、額賀財務大臣等に対する申し入れが行われました。本決議においては、前号で御紹介した自民党政務調査会の文部科学部会(部会長:渡辺具能衆議院議員)及び文教制度調査会(会長:中山成彬衆議院議員)合同会議の決議に盛り込まれた7項目について、教育振興基本計画へ記述することを求めています。5月15日には、同合同会議が開催され、渡辺文部科学部会長より、教育振興基本計画に関する決議の申し入れの状況について説明がありました。

さらに、このような申し入れと前後して、5月9日、歴代文部大臣・文部科学大臣の会合が開催され、教育振興基本計画に関する意見交換が行われました。この会合を踏まえ、渡海文部科学大臣からは、「色々な関係者の意見を元に、できるだけ早急に教育振興基本計画をまとめたい」旨の発言がありました。


[政策担当者の目]

「座して待たず」

教育振興基本計画の策定が難航している。当初は19年度内に策定を目指していたが、5月下旬に入ってもまだ正式な各省協議にすら入れていない。その主な理由は、去る4月18日に出された基本計画に関する中教審答申が具体的な数値目標を設定しなかったため、与党や教育関係者などから強い問題提起がなされたことによる。

このような状況を踏まえ、渡海大臣の主導の下、文部科学省においては、政府として閣議決定する基本計画の中に、我が国の教育への公財政投資を欧米先進国並みに引き上げる方向で具体的な数値目標を入れるべく、現在、鋭意、検討を進めているところである。

他方、財務省においてはこのような動きに反発を強めており、19日に開催された財政制度等審議会で教育支出を抑える必要性を強調したり、あるいは、我が国の教育予算が主要先進国と比較して遜色ない水準にあることを主張する内容の資料をまとめて記者発表するなど、反論に必死である。

特に、国立大学の授業料を私学並みに引き上げて、その予算を私学並みに引き下げようとする財務省案は、我が国における高等教育への機会均等に反し、かつ、我が国の国力の源泉たる国立大学の研究開発能力を著しく低めるものであり、まさに国益に反する暴論と言えよう。

基本計画の閣議決定に向けて政府部内の調整は困難を極めることが予想されるが、高等教育局としては、去る2月8日に安西・大学分科会長など4名の先生方の連名で中教審・基本計画特別部会に出された文書(高等教育投資を現在より倍増させる必要性を合理的理由に基づき説いたもの)の趣旨が基本計画に盛り込まれるよう最大限の努力をして参りたいと考えている。

高等教育への投資の充実は、座して待っていてもできると考えている人がいるのであれば、それは大きな間違いである。この問題を含め、何事も必死になって闘ってこそ、獲得することが可能になると私は考えている。高等教育への投資に向けて我々も闘うので、高等教育の関係者の皆様方も一緒になって闘って頂きたいと切に願っている。

2008年5月20日火曜日

大学経営を支える職員の在り方(4)

これから必要とされる大学職員のあり様については、これまでこの日記の中でも、多くの有識者の方々の示唆に富むご意見等をご紹介してきましたが、このような学びの源泉は今後とも尽きないのではないかと思っています。

なぜならば、有識者の方々の主張は、正しいか誤りかという性格のものではなく、私達大学現場に身を置く者それぞれに課せられた役割や立場、そして目的意識は多様であり、であるが故に、受け取り方、学ぶ内容は人によって異なるからです。

人間は、いかなる環境でも適応する素晴らしい能力を持っていると思いますが、長らく同じ大学にいると、どうしても現状に甘んじ、世の中のタイムリーな情報を確保することを怠るようになり、視野が狭くなり、結果としてモチベーションの維持・向上に努力を払わなくなるきらいがあります。

私はこれからも、様々な主張の中で自分を成長させてくれるものに出会った時には、この日記を通じて自分を奮起させるとともに、その感動を共有していただける方が少なくとも一人はいらっしゃると自分勝手に信じ、ご紹介することを続けていきたいと思っています。

さて、今日は、「日本私立大学協会の教育学術オンライン」に、平成19年2月に掲載された「大学職員のキャリアパスを考える」という寄稿をご紹介します。

これは、日本福祉大学常務理事・学長補佐・執行役員・事務局長であり、大学行政管理学会の会長でもいらっしゃる福島一政氏が書かれたもので、「大学職員にとって必要な資質とは何か」「その必要な資質はどのようにして身につけるのか」「大学は、プロフェッショナルな職員を育てるためにどのようなキャリアパスを用意すべきなのか」などについて言及されています。少々長くなりますが、がまんして読んでいただければ幸いです。

はじめに

大学職員という職業は、昔はあまり知られていなかった。しかしながら一部では、それなりに正確な実務さえこなしていれば世間並み以上の給与が保障される上に、大学という知的で自由な雰囲気の中で働くことの満足感のある「楽な」仕事だと知られていたようだ。

ところが、18歳人口が急激に減少し、「大学冬の時代」になって様相は一変した。2006年度の新入生は4割の大学で定員割れをしていることに示されるように、多くの大学で学費収入は目減りし、かといって学費値上げもままならず、受験生の減少で入学検定料収入も減り、補助金も資産運用収入も増える見通しは立たたない。一方で、よい教育成果を上げようと思えば、教員人件費は増やさざるを得ず、教育研究経費の増加や施設設備への投資は避けられない。そうなるとターゲットにされるのは職員である。新しく開発しなければならない仕事もそれに伴う実務量も飛躍的に増えているにもかかわらず、人員は削減され、実務的な仕事はアウトソーシングされる。しかも給与は上がらず適切な人材養成システムや人事評価制度もなかなか整備されない。加えて、財務や人事、広報や企画といった分野には経験豊富な企業人の採用が多発する事態である。このままでは、国公私立を合わせて約7万人いる大学職員の、現在の大学にふさわしい力量形成が不十分になるばかりか、彼らのモチベーションの低下にもつながってしまうだろう。そうなれば、日本の高等教育機関の危機は一層深まるばかりとなろう。

しかしながら、心ある大学経営者は、職員の能力を開発し、大学経営の一翼を担ってもらうようにしなければならないと強調される。10年前に設立された大学行政管理学会は、全国の大学職員が自ら、自分たちの能力開発をしようと「決起」したものでもある。これらの動向の中で、意欲ある大学職員たちは、同学会などでの実践的な研究活動のほかにも、仕事を続けながら大学院で学んだり、様々なセミナーなどに参加して自らのキャリア形成に涙ぐましい努力を続けている。その多くは「手弁当」とも聞いている。

それぞれの大学は、これらの大学職員の意欲に応え、経営・行政・教学の全ての領域で責任を果たすことができるよう、そして大多数の大学職員が自律的な意欲が持てるよう大学としてのキャリアパスを検討することが必要だと考える。

大学職員にとって必要な資質

今の時代の高等教育を取り巻く情勢を変革の視点で見てみると、単に18歳人口が減少するから「改革」をするわけではない。

第一に、いわゆる大学の「大衆化」である。大学・短大進学率が50%を超えるとどのような事態になるか。「大学生の学力の低下」などというレベルではなく、低学力の学生が一定程度存在することになる。さらには、学習意欲に乏しい学生も相当程度存在するということである。特に、学習意欲に乏しい学生には、教員だけではとても対応しきれない。学びの体系としての正規のカリキュラムのプランニングはもとより、その体系を実際に学生たちが効果的に学ぶことを支援するための、「ヒドゥン(隠れた)カリキュラム」たる入学前教育・初年次教育・全学共通教育・教養教育体系・キャリア開発体系・正課外活動・学習支援体系・環境整備等のプランニングも教員と協働できるようになる必要があろう。それらを実効あるものとしてプランニングするためには、学生の学習到達度や満足度を測る手法の力量も求められよう。一方では、意欲も学力もある学生たちの力量をさらにつけさせるプログラムのプランニングもできるようにならなければならない。いわば、職員の「教育マネジメント」能力が求められるようになる。

第二に、多様な社会連携の展開である。大学間連携、学・産・官連携、地域連携、国際連携などである。「大学コンソーシアム京都」に代表される大学間連携の取組は、全国各地で行われている。「競争」ばかりを強調するのではなく、自立した大学同士の「強み」を生かした「連携」によって、日本の高等教育を発展させるべきであろう。節度を持った新産業の開発や技術開発のために産業界との連携も必要である。まちやむらづくり、地域経済の発展のために自治体や企業との連携も必要であろう。COEなどを契機とした世界レベルでの研究や人材育成では、国外の大学との新しい共同も必要となっている。これらの事業もまた教員だけではできない。連携プログラムのプランニングからコーディネート、日常的なコミュニケーションなど職員がやらなければならないことはいくらでもある。

第三に、本格的な生涯学習社会への対応である。これからの時代、昔のような高度経済成長は望めない。人々の「幸福度」が経済的な指標だけで得られないとすれば、より満足のいく人生を送るために多様な学習意欲が湧き上がってくるのは自然であろう。大学は、それらに応えるために、「いつでも、どこでも、学びたいときに学ぶことができる」プログラムを準備する責任があると考える。この事業も教員だけではできない。需要のある分野を正確に判断することができたり、新しい分野のニーズを掘り起こすことのできるマーケティングの手法も必要となる。「いつでも、どこでも、学びたいときに」に応えることのできる条件を常に改善・開発していくことも求められるだろう。

以上の3点だけを見ても、大学は変わらなければならないのだと考えている。決して18歳人口が減るから、その対策として「改革」しなければならないわけではない。

この3点以外にも職員は、経営の基盤たる財務や人事、企画、環境整備などといった分野での専門的な力量が必要となっている。それを支えるのが、幅広い教養とそれに裏打ちされた科学的な世界観や教育観、コミュニケーション力、戦略的思考、リサーチ力、正確な実務力などといった資質であろうと考えている。これらの資質を身に着けるためにはどのようにしたらよいのであろうか。

必要な資質をどのように身に着けるか

大まかにいって3段階に分けられるであろう。

その第一は、基本的には個人としての自律的な努力で身に着けるべきことである。先述した、幅広い教養とそれに裏打ちされた科学的な世界観や教育観、コミュニケーション力、戦略的思考、リサーチ力、正確な実務力などである。幅広い教養などは、大学で仕事をする以上至極当たりまえのことである。単に知識が豊富であるということではなく、現代社会を生きるうえで必要な歴史観、宗教観、文化観、倫理観などを身に着けていなければならないし、人権を尊重する姿勢が確固たるものでなくてはならない。人間の自主性を損なうような教育観を持っているようでは論外である。これらは、日頃の自己研鑽によって身に着けることが基本だろう。多くの学生と接し、教職員と協働して教育活動を行い、社会連携事業や生涯学習事業を展開しようとすれば、コミュニケーション能力(単に外国語を話すことができることにとどまらない)がそれなりに高くなければ思うような仕事はできない。また、大学職員の仕事は、問題を解釈することよりは、問題を解決することに重心があると思うが、そうであれば、簿記の手法、情報通信手段を的確に扱える力、論理的思考など正確な実務力が無くては話にならない。これからの大学職員が実務家としてだけでなく、さらにプロフェッショナルな存在を目指そうとすれば、戦略的思考やリサーチ力はその基礎となる資質である。これらは最初から十分な力を持つことは無理であろうが、少なくとも基本的な力は身に着けておきたいものである。実際の業務を通してあるいは研修の機会をつくってブラッシュアップしていくことになろう。

第二に、大学の計画的な職員の人事異動で、若いうちに複数の部門を3年くらいずつ経験できるようにすることである。経営部門(財務、人事、企画、事業等)、教学部門(教育、研究、社会連携、生涯学習等)、行政管理部門(総務、学長室等)などの業務を実際に担う中で、該当分野の専門性がある程度理解できるようになるし、自分自身の関心の度合いや適性なども一定程度わかってくるだろう。できれば、この3部門全部を経験できるようにすることが望ましい。

第三に、業務管理の中に「目標による管理のマネジメント手法」の考え方をその大学に適したシステムとして組み込むことである。この中で戦略的プランニングとその実現のためのマネジメント手法を実践的に身につけることができるようにしたい。重要なのは、実現へのマネジメントができる力量を身につけることである。いくら立派なプランニングができてもそれが実現しなければ、何もやっていないに等しいからである。従って、その仕事の結果が処遇に結びつく人事評価制度につなげる。大学の戦略や政策のどこをその職員が担っているのか意識できて、正当な評価がされるようであれば、職員のモチベーションは精神論でない使命感に結びつくだろう。ただ、処遇に結びついた人事評価制度はデリケートな問題も含むので、職員の業務体系全体の中で検討した上で、職員全体が議論に参加し、その多くが納得できる制度を目指すべきである。人事評価制度の提案は、人事部局の責任において行うのは当然だが、もとより完璧な人事評価制度など無いのだから、最初から完璧を目指すのでなく、基本的考え方とある程度の仕組みが出来上がったら実施に移し、問題点が明らかになってきたら改善していけばよいだろう。その全過程で、職員全体の英知を発揮してもらい自らを律する制度をつくりあげるべきである。この議論のプロセスもまた、大学職員としてのセルフガバメントの意識を成長させることになる。理事会の決定だけで上から押し付けることをすれば、その絶好の機会を失い、職員の自律的な成長につなげることができないのは明らかである。多少時間がかかっても、粘り強く、職員たち自身でそのような取り組みができるように仕向けるべきであろう。

以上のことを通して、全学的な状況が把握でき、単に実務処理だけでない業務ができるようになってくれば、一人ひとりの職員の関心の強い分野や得意分野、特技・特性を生かした領域への配置が考えられるようになるだろうし、その領域のプロフェッショナルとしての成長を促すことも比較的容易になろう。従って、以上の3点が、大学職員にとって必要な資質を身につける必要条件だと考える。

キャリアパス多様化を可能にするには

上述したことを前提とすれば、ここから先の職員のキャリアパスは、その大学の状況に見合う、組織的で多様なものにすべきであろう。

これまでのように課長や部長などのポストにつけるキャリアパスだけでは、先述した大学の役割の発展を支える職員を数多く成長させることはできない。大学は、理論と豊富な実践経験を積んだ「骨太」のプロフェッショナルな職員を育てるためにどのようなキャリアパスを準備すべきなのだろうか。

第一に、職員の専門性を求められる必要なレベルまで高めるためには、専門職あるいはプロフェッショナル職のような制度設計が必要であろう。例えば、教育の分野では、フィールドワークのコーディネートやマネジメントのできる職員である。フィールドワークの重要性が分かっていても、フィールド教育をやったことのない教員が多い中では、そのような専門的力量を持った職員がいなければ実現は覚束ない。また、eラーニングを実際の教育手段として有効に活用しようと思えば、インストラクショナル・デザインのできる職員も必要である。パソコンの画面上での講義を学生たちに最も有効に理解してもらう「演出」の専門人材である。さらには、多様化し、複雑化している学生の学習や生活相談に応じ、自立支援を促すために、学生生活支援ソーシャルワーカーも必要だろう。教育企画やその運営といった教育マネジメントのできる専門的力量を持った人材も必要である。

研究の分野では、産業界や官庁・自治体あるいは国際的な関係の研究コーディネートや知財マネジメントのできる専門人材が必要である。

経営や管理の分野では、戦略プランニングのできる専門的力量が求められ、マーケティングやインスティテューショナル・リサーチのできる専門人材も必要となる。現代の大学に要請されている課題を解決するためには、常に新しい事業展開も構想するから、学生満足度の測定を始めとして、現状評価が常時的確に行われていなくてはならないし、環境評価が客観的にできなければならないからである。また、USRや情報保護・リスク管理を含む法務の専門人材、ユニバーサルデザインや環境問題を含むファシリティマネジメントの専門人材も必要である。

以上いくつかの具体例を挙げたが、これ以外にももちろんたくさんある。問題は、大学が、これらの専門職員の大学業務全体での位置づけと処遇を準備しておくことである。そうでなければ、数多くの職員の成長を促すキャリアパスにならないだろう。

第二に、従来からある課長や部長などのポストに加え、法人の理事などの役員として登用することである。データがあるわけではないので正確にはわからないが、10年ほど以前に比べれば、多くの大学で職員の役員登用はすすんでいるように思う。しかしながら、職員が培ってきた能力をフルに生かして経営責任を果たせるようにするには、まだまだ不十分ではないかと考えている。また、大学や学部の行政管理の領域でも、副学長や学長補佐あるいは副学部長や学部長補佐といった、学長や学部長を補佐してマネジメントの責任を果たすことのできるポストの準備もすべきである。国立大学法人などでは職員が副学長に任命されるのは普通に行われているが、私立大学は、まだそれほど多くはない。大学や学部の行政管理を安定にするために、職員の大いなる成長を促すことは必要不可欠であろう。

この場合に留意することがある。それは、このようなポストに就任すると、それを「地位」と受け止めて権限を振りかざしたり、守りの姿勢になってしまったりする人間もいるということである。このようなポストは、あくまでも「機能」であって、その役割を果たせなかったり、戦略展開によっては他の人間に担ってもらうほうがよい場合もある。そのような場合は、別の役割すなわちプロフェッショナル職としての活躍の場を設けるべきである。

上記のようなキャリアパスを設定したときには、第1番目に記述したプロフェッショナル職員として成長する場合もあるだろうし、複数の専門的力量を持った人材として第2番目に記述した管理職やアドミニストレーターになる場合もあるだろう。

もう一つ、職員のキャリアパスをより確かで高度にするためには、大学として様々なレベルの研修制度を設けたり、自己啓発の支援を行うべきである。大学院進学、高度な資格取得支援、大学行政管理学会などで実践的な研究をする中での「他流試合」の奨励等々職員のチャレンジ精神を育てる制度を多くの大学で作ってほしいものである。

現代の大学に課せられた、困難で多くの課題を解決していくためには、実務だけでなく、先に示した専門的な力量を持った職員をどれだけ大量に養成できるかにかかっている。そのためには、大学は、職員が展望を持って成長できるキャリアパスを早急に準備すべきと考える。大学として、職員たち自身がどうしたいのか、職員たちに問いかけることもしてほしい。

おわりに

最近、エンプロイアビリティという言葉を時々聞く。要するに、大学職員としての能力が、学内だけでなく大学の外でも通用するあるいは必要とされるということである。実務しかできないというのであればそれはなかなか難しいであろうが、ここで述べたような形で職員がその能力を身に着けることができれば、自ずとそうなるだろう。ただ、間違っても、外部で通用するために力を磨く、という発想にはならないでほしいと思っている。大学で通用しないものが外部で通用するわけがないからである。もう一点補足すれば、そのような能力を身に着ければ、定年退職後に地域社会などでも重要な役割を担うようになるだろう。コミュニケーション能力にたけ、教養豊かでマネジメントのできるプロフェッショナルな人材というのはそれほど多くはないからである。実例は身近にある。退職した有能な職員だった方が今、どういうことをやられているのか聞かれるとよいと思う。大学の内部で的確に組み込まれたキャリアパスによって成長した職員は、退職後の人生を豊かに送ることのできる条件の一つを自然に身に着けることになるはずである。

2008年5月19日月曜日

大学経営を支える職員の在り方(3)

国立大学の法人化が影響しているのかどうかはわかりませんが、これからの大学職員はどうあるべきかといった「大学職員論」について書かれた読み物を最近よく目にするようになりました。

純粋に学問的な理論展開に終始するものから、現場の実態を踏まえた実務的内容まで様々ですが、大学職員の高度な職務遂行能力の養成、特に、これからの大学職員には「専門性」が求められているという点については、多くの文献において共通しているのではないかと思います。

では、この「専門性」とは一体どういうものなのでしょうか。
前々回のこの日記でもご紹介しましたが、前東京大学理事の上杉道世氏が書かれた「大学職員を変える」では、「専門性」について次のような記述があります。

「すべての大学職員が広い視野とともに何らかの専門性を持ち、その専門性を高める方向でキャリア形成し、マネジメントで処遇される道と専門性で処遇される道を選べる、というのが(職員の育成のあり方の)基本コンセプトである。

ここで留意していただきたいのは、専門職といってもこれまでの日本の社会や組織でありがちな、それぞれが閉鎖的な集団を作り、階層構造を前提としてどちらが偉いかを競ったり、処遇改善運動に走ったりするという意味での専門職ではないことである。

あくまで大学職員という共通の基盤が前提である。それぞれが補い合い支えあって大学業務を支えていくという連帯構造の中での特徴の発揮である。」


また、前回の日記でご紹介したIDE2008年4月号特集「これからの大学職員」では、広島大学高等教育研究開発センター長の山本眞一氏は、「専門性」に関し次のように述べられています。

「職員には専門性が必要であるとの声をよく聞く。確かに、大学経営環境が激しく変わる中、ジェネラリストと称する職員が、実は部下から上がってきた書類をチェックするだけであったり、学長や理事からの指示を部下に中継ぎしたりするだけであれば、その存在価値が疑われよう。また、管理志向一辺倒のジェネラリストも困った存在である。そういう中で、専門的な知識を備えたスペシャリストを志向する若手職員も多いことであろう。

ただし、我が国の大学は欧米と異なり、教員数に比べて職員数が少ないことが知られている。少ない職員がそれぞれの専門性を主張し合えるほど、職員数に余裕があるとは思えない。そこで私は、専門的知識は必要だが、実はそれを応用しつつ、隣接の専門知識も駆使して、前述したような問題解決能力を備えることが、これからの職員には必要ではないかと考えている。これこそが将来のわが国の各大学を担う大学経営人材であり、私はこれをスペシャリストではなく「プロフェッショナル」と呼ぶことにしている。そのような人材が一人でも多く育つことを心から祈るものである。」

以上のお二人は、実際に事務職員として大学行政に携わったご経験があり、その経験を基に、大学職員のあるべき姿を探究されておられます。


最後に、大学職員の専門性の養成に関する論文をご紹介します。3年前に「高等教育ジャーナル」に載せられた「専門職としての大学職員をどのように養成するか-Staff Development (SD)の枠組みについての試論-」というタイトルで、国立教育政策研究所(当時)の笹井宏益氏が書かれたものの抜粋です。

「大学運営にかかわる大学職員にとって必要な専門性とは」「大学職員の専門性向上のための方策にはどのような方法が考えられるか」などについて言及されています。

大学職員の専門性

大学運営にかかわる大学職員にとって必要な専門性の内容として、一般的には、次の6項目が挙げられよう。

1 高等教育の諸制度(評価の分野を含む)の内容とそれらへの対応方法について理解している

「高等教育の諸制度」とは、教育法制に関すること、財政や会計、予算・決算の仕組みに関すること、人事システムに関すること、学生支援(留学生、奨学金を含む)に関すること、政府や自治体の高等教育政策に関すること、大学評価に関することなどを指している。こうした、「仕組み」もしくは「ルール」として存在している諸制度の意義や内容をきちんと理解し、それらを踏まえて行動できるようになることは、大学職員として不可欠な資質である。

2 自身が所属する大学のミッションを共感をもって受け容れている

「大学のミッション」とは、大学が理念や使命として掲げていること、歴史的な沿革、将来ヴィジョン、学長が掲げている基本方針といったもので構成されるものであり、それらは、大学運営に際しての指針とでもいうべきものである。したがって、これらを共感をもって受け容れることは、運営に際しての基本的方針を知る、ということでもある。

3 Administrative Jobの基礎を身につけている

大学の事務職員に固有の専門性とは何かという点については、実態としての職務内容が多岐にわたること等から、いまだに明確に示されているわけではないが、経験的に考えると、主として、次の2つの事項で構成されるものと考える。一つは、「Administrative Job」といわれる経営(管理運営)にかかわる専門性であり、他の一つは、「Clerical Job」といわれる教育研究業務の支援にかかわる専門性である。これらは、実際には密接不可分のものとして執行されることが多いが、それらの内容はかなり異なるので、それぞれ独立した専門領域としてとらえる必要がある。

さて、「Administrative Jobの基礎」とは何であろうか。これからの大学は一つの経営体として運営されていかなければならないわけであるから、まず、組織の経営を成り立たせる根本原理を身に付けることが大切である。すなわち、「所属しているセクションにおいてミッションの具体的内容を共有し、その実現に向かって、各職員が職務に貢献する意欲をもち続けることができるようにする」ことが、その基本として挙げられる。

例えば、国立大学においては、組織としての活動の論拠となるものが、これまでの「法令」から「当該大学のミッション」に変わることにより、それをどのように位置づけ、いかに具体化していくかが課題となる。そのように考えると、各セクションの内部において、ミッションの具体的内容に対する理解を促進し、それをモチベーション・モラールとして、組織内に浸透させ活動の活性化を促すことが、まずAdministrationの基本といえよう。併せて、そうした対応の下に、職員相互の意思疎通を促すとともに、それぞれの職務がどのような成果を目指しているのかという「職務遂行によって期待される成果」を個々の職員に明示して職務貢献意欲を刺激すれば、多くの職員は、自らの職務の意味内容を的確に認識した上で職務に従事するようになる。これは、目的達成のための活動の拡充に向けて組織を維持・活性化させるという意味でのAdministrationである。

続いて、「マネジメント・フローにもとづいて職務を分析的に理解する」ことが挙げられる。そもそもAdministrationとは、アドホックなものではなく、すでに実施された活動に対する評価と一体となって展開されなくてはならない。というのは、各大学の活動が、競争的環境におかれている以上、自らの活動の安定性や継続性を維持し、かつそれが日々充実されるようになることを保証する措置は、自分自身の「ふりかえり」以外にはありえないからである。

通常、マネジメント・フローとは図1(略)のようなサイクルを指す。運営にかかわるすべての職員は、大学の活動は常にこのようなサイクルのもとに行われなければならないことを自覚し、それぞれの立場でこの「フロー」を推進していくことが大切である。

「Administrative Jobの基礎」の3番目の視点とは、活動のベースに「マーケティング」の視点を導入することである。「競争的環境におかれたサービス業」の機関であれば、多かれ少なかれ、「マーケティング」の視点をもつことが必要である。一般に、「マーケティング」の視点として掲げられていることとは、1)Product(製品)、2)Price(価格)、3)Placing(流通)、4)Promotion(促進)、の4つである。

これらの点の内容について簡単に説明すると、まず「Product(製品)」とは、「どのような製品をつくるか」という視点であり、大学に当てはめてみれば、「学生や社会に対してどのようなサービスを提供するか」ということになる。次に「Price(価格)」とは、「サービスに対する対価をいくらにするか」ということであり、「Placing(流通)」とは、「当該サービスをどのように流通させるか」ということ、「Promotion(促進)」とは、「提供するサービスの価値を受けて側にどのように知らせるか」ということである。

「マーケティング」の視点は、最近、様々な領域で重要視されるようになっている。例えば、ボランティア活動などの非営利活動を行う際にも、その相手とする人たちやそれらの人たちが求めている活動内容等について、事前の「マーケティング」により、精査してから行うべきであるとする見解もある。この視点は、いわば「サービスの受け手側が求めているニーズをどのように活動の視野に入れていくか」という問題でもあり、今後の大学の活動に欠くことができないものである。

「Administrative Jobの基礎」の4番目の視点とは、つねに「社会的責任を管理する視点をもつ」ことである。一般に、社会的な活動を行う組織は、多かれ少なかれ何らかの形で社会的責任を管理することになるが、「公共」サービスである教育研究を行っている大学は、厳格な「社会的責任を管理する視点」が求められる。その帰結として、「アカウンタビリティを意識する」ことと「評価結果を今後の職務改善に反映させる」ための努力が求められることになる。

4 Clerical Jobの基礎を身につけている

そもそも大学事務職員に固有な職務内容は、「Administrationにかかわる事務」と「教育研究業務を支援する事務」とによって構成されていると考えるが、後者は、いうまでもなく「教育研究業務そのもの」とは内容が異なっており、かつ独立した職務内容を構成している。ここでは、それを(教育研究業務の「下請け」であるというイメージを払拭する意図から)「Clerical Job」と呼ぶこととする。その内容としては、「教員支援の仕事」と「学生支援の仕事」に区分けすることができる。

「教員支援の仕事」にしても、「学生支援の仕事」にしても、教育研究にかかわるProductの生産者は教員もしくは学生であるとの前提で、それらの人たちに、本来求められる仕事(勉強)を存分にしてもらうようにするための適切な支援をすることが大切である。これらの内容としては、まず「教育研究活動をやり易くするための環境づくり」が挙げられよう。ここには、教員や学生など、サービスの受け手の立場にたった制度の運用はもとより、これらの人たちが必要とする情報などを収集整理しておくなどの活動も含まれる。また、これを一歩進めて、例えば、カリキュラムの改訂などに関して、収集した情報をもとに、教官等と対等な立場で議論するようなことなども「Clerical Job」の一環であり、大学事務職員に求められる仕事である。

もちろん、こうした仕事を円滑に進めるためには、教員や学生たちと、日頃から信頼関係を構築しておくことが重要であり、彼ら/彼女らの、上位に立つのでもなく、かつ下位に立つのでもなく、あくまでも対等な関係性を築き上げておくことが望まれる。

なお、卒業生の就職状況は、その大学の社会的評価に直結するものであり、対学生サービスとして、就職サービスは極めて重要である。ここでは、関連する情報の収集と、相手となる学生の性格や志向性を的確に見抜く能力が必要となろう。

5 自身の職務内容に対応したコンピタンスを身につけている

これまで述べた「一般的な力量」に加えて、大学職員は、自らのポストや職務内容に応じたコンピタンスをもたなければならない(大学職員は様々な職種・ポストに異動することから、その持ち場に応じて柔軟な対応が求められるというニュアンスを込めて、ここでは「コンピタンス」という表現を用いる)。以下に掲げることがらは、これからの大学の活動を考えた場合、新たな領域として想定されるコンピタンスである。
  • 民間非営利組織として必要な財務・会計・人事考課などの知識
  • 国際人としてのセンス
  • ファンドレイジングに関する知識と行動力
  • 競争的経費を獲得するための情報収集能力
  • ITに関する基礎的なスキル
上記のコンピタンスに加えて、次に掲げるようなことがらも、いわば分野横断的な能力として求められよう。もちろん、これらはごく一般的に必要とされるコンピタンスであり、それぞれがおかれたポストや職務内容によって、その「用い方」はかなり異なってくる。
  • リーダーシップ
  • コミュニケーションカ
  • ディスカッション能力
  • コーディネーションカ
  • 意思決定力(決断力)
  • プレゼンテーションカ
  • リサーチ能力
6 自身の職務に関して熱意やホスピタリティをもっている

最後に、大学職員の職務を精神的に支えるものとして、次のような「熱意やホスピタリティ」も挙げておきたい。
  • 大学のミッションに対する共感
  • 個々の教育研究活動に対する共感
  • 職務に対する前向きな姿勢
  • 個別の事案に対する柔軟な対応力
  • 旺盛なサービス精神
大学も、サービス業、特に対人的なサービスを主要な任務とする機関である以上、このような熱意やホスピタリティは不可欠といえよう。こうした「コンピタンス」は育成するものというよりは、個人のポテンシャルから「引き出す」ものであり、これを実現させるような組織マネジメントが求められている。

以上の内容は一般論であって、実際には運営システムが階層化していることから、当該職員が位置するポスト・職務内容によって極めて多様な形になる。例えば、学部と本部の運営とはかなり違うし、部課長のような管理職と一般職員の仕事の内容も大きく異なる。すなわち、大学職員は、上記に掲げた専門性をベースに、各職務に附帯する、あるいは上記の専門性をさらに深化させた高度な専門的能力をも身に付けることが求められており、それらは、個々の職務内容ごとに検討すべきことがらといえる。

専門性向上(SD)の方法

ところで、大学職員の専門性向上のための方策としては、どのような方法が考えられるのであろうか。通常、SDの方法として、1)日常職務の中での指導(OJT)、2)日常職務をはなれた研修(Off-JT)、3)自己啓発、の3つのタイプが考えられるが、これらの方法をどう組み合わせて実施するかは、当該職員に求められている専門性の内容に応じて決定されなければならない。しかしながら、多くの場合、職員一人ひとりの専門性に着目したOFF-JTは実際上困難であり、結果的に、職能(職務内容)別、階層(役職)別、あるいは全職員共通といった区分けで類型化し、研修プログラムを作成していかざるを得ない。

OFF-JTの典型的な例を挙げよう。大学職員の研修では、その専門性の内実である「実践的性格」を考慮して、
  1. ディスカッション・ディベート
  2. ケーススタディ
  3. ロールプレイ
  4. 事例報告(発表)とディスカッション
  5. シンポジウム・フォーラム
  6. 現地視察などの「参加型学習」のスタイルを積極的に導入する
ことが重要である。いくつかの大学のFD、SDを見ていると、相変わらず「講義型」の研修(授業)が多用されているが、職員の専門性の在りようを考えると、今後は、むしろ「参加型」(ワークショップ型)のほうが主流になるべきである。この点で、医学教育の分野で従来から展開されている研修のスタイルや、あるいは環境教育(成人対象)において取り入れられている教育手法などが参考になろう。

なお、個別の目的に照らしてどのような研修の方法が考えられるかを、筆者なりに整理してみると、表1(略)のようになる。

以上、前記6項目の専門性に即して研修の方法等を検討してみると、様々なやり方があることが理解されよう。SDはまだ始まったばかりとはいえ、その現場では、あいかわらずレクチャー・メソッドが主流であることを考えると、今後の工夫改善の余地はかなりあるといえる。

専門性を活かすために

専門性の向上はSDによって図ることが基本であり、そのためには、専門職養成計画(研修計画)のようなものを策定して、体系的・組織的・計画的に行うことが重要である。他方、大学職員を取り囲む様々な環境要因が、個人の専門性の向上に大きな影響(刺激)を与えていることを考えると、例えば、適切な業績評価を実施したり、合理的で公平な人事システムを構築したりすることについても、重大な関心が払われねばならない。こうした環境整備と適切なSDがあいまって、大学職員の専門性向上が図られると考える。

2008年5月18日日曜日

大学経営を支える職員の在り方(2)

今回は、大学経営人材(アドミニストレーター)の養成に関する卓越した知見をお持ちであり、多くの著書、寄稿、あるいは、現在、放送大学大学院「大学のマネジメント」を通じ、私達大学関係者に多くの示唆を与えてくださっている広島大学の山本眞一氏が書かれた「職員論の今後の課題」(2008.5.12 文部科学教育通信 No195)をご紹介したいと思います。

今回は、「職員の職位・役割に応じた職務能力の向上」「教員と職員の協働」「大学の公益的役割の再認識」の必要性等について指摘されています。

職員論の今後の課題 (広島大学 教授・高等教育研究センター長 山本眞一)

さまざまな立場からの職員論

大学改革の進行や大学経営の複雑高度化に伴い、大学経営を担う人材そしてその役割を果たすべき「職員」の在り方について、最近その議論が活発化してきた。そのような中で出たIDE2008年4月号の特集「これからの大学職員」*1 *2は注目される。実は私自身も編集部の依頼により寄稿したのだが、私以外に12名もの執筆者があり、さまざまな立場・観点からこれからの大学職員のことを書いている。

東大の金子元久氏は、ヨーロッパの大学における職員の起源を紹介し、かつ日米比較の観点から、日本の大学における教員出身の管理職の専門職化は米国に比べて未発達で、教員以外の幹部職員の管理運営上の影響力は大きいという注目すべき論点を提示し、法政大学元総長の清成忠男氏は、学校法人を取り巻く厳しい経営環境の中で、経営力を強化するために職員力を高める必要があることを強調している。

前東大理事の上杉道世氏は「トータルプランで職員を変える」として、各大学の実情に合ったやり方を作り出し、全体として整合性を持って実施することの大切さを訴え、人事、組織、業務の改革とともに、誇りある大学職員となるべきことを提示している。立命館大学副総長の本間政雄氏は、昨今の大学を取り巻く諸情勢を述べ、状況の打開に向けてトップ人材の養成・確保、経営・教学改革を支える大学職員の育成の重要性を主張している。

早稲田大学名誉教授の藤田幸男氏は、日本私立大学連盟が実施するアドミニストレーター研修を例に挙げつつ、優秀な職員の養成の重要性を強調し、日本学術振興会理事の村田直樹氏は、前任地で事務局長として自ら関与した「横浜国立大学職員塾」の試みを紹介している。京都大学教育推進部長の里見朋香氏は、前任地である東京大学で経験した驚きを「大学の自治は教員の自治」、「事務からは言えません」など分かりやすい言葉で表現し、大学事務職員が抱える問題点をズバリと指摘し、大学行政学会会長で中央大学職員の横田利久氏は、この学会の現況を紹介する中で、プロフェッショナルとしての大学行政管理職員(アドミニストレーター)の確立に向けての努力と今後の抱負を述べている。

さらに、日本福祉大学理事の篠田道夫氏は、私立大学に必要な経営戦略の確立とその戦略遂行を担う職員の役割の重要性に鑑み、職員の力量形成のためのシステムを構築し、また持続的な改革を担うための現場責任者の重要性に言及している。トヨタの例を引いて、部下の仕事のチェックばかりの「赤エンピツ」型ではなく、実践型の管理者つまり「黒エンピツ」型の管理者が必要だとしているところは大学事務体制の本質を見抜いていて、大変参考になる。文部科学省の久保公人氏は、「大学の人事政策」として、国立大学における法人化前と後での変化を解説するとともに公私立大学の職員人事や国公私立大学全体の今後の人事について述べ、桜美林大学教授の舘昭氏は、「教員」「職員」という用語区分が持つ問題点や、米国における「プロフェショナル職員」の中には、経営・管理職員だけではなく、教育研究に当たる教員も含まれていることを指摘している。最後に、東京大学大学院生の山岸直司氏は「データに見る大学職員」として、学校基本調査のデータを使って、国公私立別にここ30数年間の趨勢を分析している。

大学の管理・運営は誰の手で?

以上、執筆者の論調をごく概括的に紹介したが、そこから浮かび上がってくる課題をいくつか指摘しておきたい。第一に、大学は誰によって管理・運営あるいは経営されるのかという点である。この点に関して、従来のような教授会一点張りではなく学長やそれを支える管理職の役割が大きくなってきていることは、多くの論者の一致するところであろう。里見氏の「大学の自治は教員の自治」という観察は、私もかつて経験したことであり、このことは、大学経営を巡る環境変化の中で見直しを迫られていることは確かである。ただし、教員あるいは教授会の自治に代わるべきものは何かとなると、必ずしも論者の意識は一致を見ていない。それは職員が大学経営改革の中でどの部分に関わるのかという視点の違いとも関わるものである。その点で、清成氏が「職員と役員との間には飛躍がある」として、職員をアドミニストレーターとして育成することについては検討されているのに対し役員の育成システムについては本格的に検討されていないと指摘していることや、金子氏が米国の大学では教員出身の管理職が大きな役割を果たしていると述べている点が、参考になるだろう。

つまり、これからの大学の経営の中核を担うのは、役員あるいは管理職であって、職員はそれらへ上昇異動すべき候補者の一部だがすべてではない、ということを再確認しておかないと、これからさらに発展させるべき職員論が不自然な方向に曲がっていく恐れがあるのだ。もちろん、このことは職員が現状でよいという意味では決してない。職員はそれぞれの職位や役割に応じた高度な職務遂行能力が必要であり、またそのような職務にふさわしい位置付けが大学内に与えられなければならないことは当然のことである。

教員と協働できる目標の共有を

第二に、大学の使命つまり教育研究を通じた社会貢献を果たすには、教員と職員がこれにどのように関わるのが適当かということである。これまでの職員は大学内においては「教員の補助者」として見られることが多く、この点に大きな問題点があったと言われている。これは今回のIDEの特集でも多くの論者が指摘するところであり、私もこの点はまったく同意である。しかし、職員の仕事が教員の仕事と全く無関係に成り立つ分野は意外と少ないのではないだろうか。総務や財務などは、一見教育研究とは関係のなさそうに見られているかもしれないが、実際には、教育研究機関としての大学が円滑に運営される手段としての業務分野と考えなければならない。大学の事務分野として見た場合にも、総務や財務が教務や学生支援に比べて上であるという考えには私は反対である。逆に言うと、教務や学生支援に関わる事務分野も、教員の下支えというよりは、教員と職員が教務あるいは学生支援という目標を共有しつつ、お互いに協力し合いながら進める業務と見なければならない。教員と職員の協働とはそのようなものなのである。

第三に、大学の役割に関わる基本的な考え方である。職員論が活発になる中で、大学における「経営マインド」の醸成が近頃の流行になりつつある。そして、その経営マインドに乗りやすいのは、教育研究活動の中身から離れることのできない教員よりも、これまでその周辺に位置づけられていた職員の方であるのは疑いがない。しかし、昨今マスコミを賑わす各大学の改革実践の中には、大学の経営のため、あるいは収入増のための実践という側面が強すぎて、教育研究を核とした社会貢献という重要な観点が抜けているのではないかと思われるものがある。大学というものは、その経営がもっとも進化していると考えられている米国でも、非営利の機関扱いされているものが大多数であって、つまりは公益のための機関なのである。この点を忘れて突っ走ると、やがて国民の支持を失い、かつ大学の経営も何らかの壁に突き当たって、結果として行政の過大な介入を招く元凶となりかねない。したがって、大学職員は、大学の役員や教員と一体となりつつ、この大学の公益的役割について今一度しっかりと考えることが大事ではないだろうか。


*1:タイトル・執筆者紹介:「大学職員の展望」金子元久、「これからの大学職員」山本眞一、「私学経営と職員」清成忠男、「トータルプランで職員を変える」上杉道世、「マネジメントの課題と新たな職員像」本間政雄、「職員の育成-私大連の試み」藤田幸男、「横浜国大職員塾の試み」村田直樹、「『体験的』大学職員論」里見朋香、「大学行政管理学会と職員」横田利久、「私立大学の職員像」篠田道夫、「大学の人事政策」久保公人、「大学職員論」舘昭、「データに見る大学職員」山岸直司

2008年5月17日土曜日

大学経営を支える職員の在り方(1)

これからの大学には、大学経営を担う事務職員の存在が欠かせず、その早急な養成が求められているとともに、事務職員の企画能力や専門能力を高め、教員との適切な役割分担・対等関係に基づく協働を促進していくことが極めて重要であると言われています。このことは、もはや、大学関係者の中では共通の認識になっていると思います。

今日は、まず、国立大学財務・経営センターが発行しているメルマガ(2008.5.15 No24)から、センターが2月に開催した講演会に招へいした、英国シェフィールド大学のクレア・ベインズ学務部長が書かれた「大学経営のプロへの途」というエッセイの中から、クレア氏が、経営に参画する事務局職員として心がけてこられたことについて抜粋してご紹介します。

メルマガでは、エッセイの紹介に当たって、次のようなセンターのコメントが掲載されています。


英国大学の事務局職員については、高等教育界全体で労働市場が成立しており、比較的移動も容易なようです。このこととも関連があるのでしょうが、事務局職員を構成員とする職能団体が情報・意見交換や研修事業などを通じて資質・能力の向上に努める体制ができあがっているのだそうです。

我が国の場合には、大学間の移動は一部の者を除いて容易ではありませんが、国立大学の事務局職員の資質・能力の向上は急務となっています。事務局職員間のネットワーク作りや研修事業がもっと活発に行われる必要があるのではないでしょうか。

エッセイにも随所に出てきますが、大学という職場が抱える共通の課題の一つは、事務局職員と教員の間のコミュニケーション・ギャップの克服でしょう。学問の世界を理解しようとする姿勢が事務局職員に求められます。エッセイでは、教員や学生のことを理解するために、本部事務だけでなく、学部事務を経験することの大切さが強調されています。


大学経営のプロヘの途

シェフィールド大学学務部長 Dr Claire Baines(クレア・ベインズ)の場合

最後に、経営に参画する事務局職員として私が心がけてきたことなどをまとめておきます。
  • 盲目的に言われたことだけやっているのではなく、経営幹部や学部教員などと交流して、積極的に自分の考えや企画を実現してみようと努力することが大切です。こうした経験を経て、交渉能力を高めることもできるわけですし、自信を持って変革を主導していくこともできるようになると思います。

  • 大学行政においてもっとも役にたつのは、教員の意見を聞く耳を持ち、官僚的な手続きを導入することについて教員がどんな反応をするか理解しようとする事務職員です。私自身経験しましたが、教員というのは思ってもみないような反応をすることもありますし、予想外の意見をもっていることもありますが、そうした意見を踏まえて事業の進め方を大きく変更したことがあります。

  • 次に、批判的な友人たれということです。ただし、そのためには、コミュニケーションに長けて社交術を心得ていなければなりません。私が現在一緒に働いている学部長たちは、自分たちの考えを専門的な立場からチェックしてくれる有能な事務職員を評価してくれます。事務職員が正直に忠告をしてくれることに意義があると思ってくれているのです。ただし、特に研究重視型の大学では、注意深く事前に専門のことも勉強して事実確認をし、よく考えて発言することが必要です。

  • 常に、自分の考えを主張するためのしっかりした論拠・データを用意しておくことが必要です。教員は、批判的にものごとを考えるのに長けた人たちなのですから、様々な情報を集めしっかり準備して、わかりやすく説明することが必要です。

  • 事務局職員として、大学本部での経験とともに、学部での経験をバランスよく積むべきです。学部で働いて初めて教員や学生のことを理解できると思います。

  • 積極的に国内、国外の情報を収集しておくことです。教員たちよりも一歩だけでも先んじていることが必要です。教員たちの目として、耳として情報.提供を行い、教員が貴重な機会を逃がさないようサポートするのです。

  • 仲間といえるような教員のネットワークをつくるのです。変革を導入したり、企画したりするのに貴重な情報源になってくれる上、いざというときにはサポートしてくれますし、貴重な助言をしてくれます。

次に、前東京大学理事の上杉道世氏が、文部科学教育通信に寄稿された「大学職員を変える」というシリーズの最終回に掲載された「経営企画系職員のあり方の改善について」(2008.5.12 No195)をご紹介します。

経営企画系職員のあり方

現に経営企画系職員という集団があるわけではない。今はいないけれど、これからの大学経営には必要な職員なのだから、計画的に養成しようと言っているのである。

本部では学長及び役員などの中枢組織と一体となり、部局では部局長を中心とした部局運営組織と一体になり、経営判断をしていくためのデータを収集分析し、企画の原案を作成し、方針決定されたものは実施のための段取りを考え働きかけをしていく。長期的な将来構想を持ちながら、緊急事態にはスピード感を持って対処し、学外学内への漏れの無い目配りをする。そういう便利な職員がいればいいのにとしばしば言われるのだから、養成しよう。

現状では、総務、財務などの幹部や有能な職員が事実上これに当たる仕事をしているのだが、不十分である。全学の経営企画に熟達した人が突然現れるわけではないので、さまざまな業務分野で優秀である人に経営企画の仕事を経験させながら育てていくことになる。

逆に、企画部門にずっといれば企画に熟達するかというとそうでもない。現場感覚の無い企画は現実に通用しないので、さまざまな経験を積んだ人が企画に携わるべきである。

東京大学では、総長室に秘書グループと企画グループを置くとともに、各部の若手メンバーを選んでマネージメントスタッフとして位置づけていろいろな企画業務をしてもらった。全学の動向を把握するための経営情報資料を月例でまとめてもらい、役員会で定期報告した。そして各部局長にも、有能な職員を見いだして企画担当として部局長の身近で活動させ、部局の経営に参画させることをお勧めした。

これらの試みはまだ初歩的なものではあるが、特に若い職員に、個別の業務といえども全学の経営に結びついているのだ、そしてチャンスと実力があれば全学の経営に参画できるのだという問題意識を持ってもらうきっかけになればと思っている。

そして、部長課長、事務長などの重要な役職は経営企画の能力と経験があることを前提として人選することになっていくであろう。組織のフラット化や実力本意の人事により、若いうちから責任ある判断をする経験を積んでいけば、経営企画を担う幹部は育っていくと考える。

大学職員の共同性の形成

ここまで8回にわたって業務分野別の職員の育成のあり方について、特に専門性に着目しながら述べてきた。すべての大学職員が広い視野とともに何らかの専門性を持ち、その専門性を高める方向でキャリア形成し、マネジメントで処遇される道と専門性で処遇される道を選べる、というのが基本コンセプトである。そしてそれぞれの専門性の内容と学内組織の構造と職員のキャリア形成をパッケージで専門職の形成として提示した。

ここで留意していただきたいのは、専門職といってもこれまでの日本の社会や組織でありがちな、それぞれが閉鎖的な集団を作り、階層構造を前提としてどちらが偉いかを競ったり、処遇改善運動に走ったりするという意味での専門職ではないことである。

あくまで大学職員という共通の基盤が前提である。それぞれが補い合い支えあって大学業務を支えていくという連帯構造の中での特徴の発揮である。したがって、特定の人がどの系かというのが一生ついて回るわけではなく、時には系を移ったり、2つ以上の系を持ったりすることもあるだろう。特に小規模の部局では系ごとの人数は少なく、現実の仕事を回していくためには誰がどの系だなどと言っていられないであろう。それでよいのであって、大事なのは大学職員の共同性が形成されることである。

さらに、ひとつの大学の中で完結する必要も無い。大学を超え、国公私立の別も超えて互いに高めあっていけばよい。同じ業務分野について、専門性の内実をより深く極めたり、能力開発を共同で行ったり、さらには人事交流で経験を交換しあってもよい。特に専門性の内容や習得方法などをまとめた資料が必要である。私は東京大学において全職種を概説した「大学職員キャリアガイド」を作成してもらい、業務分野ごとの資料は次のステップでと言ってきたが、本当は大学を超えた専門職集団によってそのような資料がいずれまとめられるとよいと考えている。

そして大学職員全体としても共同性を形成していくべきである。法人化したといっても各大学が壁を作りあうべきではない。連携交流することが大学職員全体の力量を高め、社会的評価を高めることにつながるのだ。文部科学省や大学団体が企画してできるだけ多くの交流の機会を設けて欲しいし、大学主導の自主的な集まりもあっていいだろう。人事交流についてもブロックごとに各大学が話し合い合意形成しながら行っていくという方式もありうるだろう。勉強の機会も多く持ちたい。すでに大学マネジメント研究会や大学行政管理学会、筑波大学のセミナーなどの機会があるが、全国の大学職員の学習需要はまだまだ多くあるはずだ。最近では若手職員の自主的な集まりがいくつも見られるようになり、今後の展開が楽しみである。各地で自主的な動きが次々と出てくることを期待したい。

2008年5月16日金曜日

「大学職員サミットやまがたカレッジ2007」レポート

この日記では、これまで地方大学の特筆すべき取組みをいくつかご紹介してきましたが、中でも登場回数の多いのが、山形大学ではないかと思います。

山形大学は、事務職員の能力開発(SD)に関しては、全国的に見ても高い評価を受ける実績を有しており、同じ地方大学の職員としては、とてもいい刺激をいただいています。

さて、既にご案内のとおりですが、山形大学では、平成19年11月10日、11日の2日間、小白川キャンパスを会場に、国公私を問わず全国から大学職員が参加する「大学職員サミットやまがたカレッジ 2007」を開催しました。

サミットの様子は、山形大学のホームページにおいて紹介されていますのでご覧ください。→http://www.yamagata-u.ac.jp/jpn/yu/modules/topics0/article.php?storyid=151&yu_m=1_2


さて、最近、この大学職員サミットを総括する報告書が公表されました。報告書は、182ページに及び、シンポジウム、パネルディスカッション、自慢コンテストなどに参画された方々の執筆文により構成されています。

示唆に富むご意見等がたくさんありましたが、今日は、このうちのわずか4人の方のコメント(抜粋)をご紹介します。(敬称を略させていただきます。)


「大学職員サミット-やまがたカレッジ2007」に寄せて(山形大学長 結城章夫)


平成16年4月の国立大学の法人化は、国立大学にとって、革命的な出来事でした。それまで文部科学省の内部組織であった全国の国立大学は、一斉に独立して、87の国立大学法人に分かれていきました。そして、それぞれの大学法人には、自主・自立の経営を行うことが求められるようになったのです。

この結果、各国立大学においては、事務職員の果たすべき役割が劇的に変化しました。事務職員は、教員との良き関係を築きながら、学長・理事からなる経営陣を支え、大学運営の一翼を担っていかなければなりません。各大学では、全国移動をする幹部職員との適切なバランスをとりながら、プロパー職員を計画的に採用し、育成していくことが必要になってきています。

大学職員の能力を最大限に引き出し、意欲を持って仕事に打ち込める環境を創ることが、大学経営者の重要な責務です。また、大学職員の方も、大学運営に主体的に参画するとの使命感を強めるとともに、自らの専門能力を高める努力が求められているのです。

私は、平成20年の年頭に当たり、これからの山形大学の経営課題と行動計画をとりまとめた「結城プラン2008」を発表いたしました。その中で、山形大学の事務職員に関しては、「選考採用を拡大し、幅広い視野と専門的な能力を備え、使命感と情熱に溢れたプロパー職員集団を育成する。」と明記いたしました。

私は、山形大学が、キラリと光る存在感のある国立大学として発展していくためには、意欲と使命感に燃える優秀なプロパー職員の集団を育て上げていくことが必要不可欠であると確信しています。そのような職員集団を育成するためには、一貫した方針の下で、不断に努力していくことが必要です。これから長い時間がかかることでしょうが、そのための努力を積み重ねていこうとの決意を固めているところです。


事務職員と教員:その対立という幻想を超えて(山形大学地域教育文化学部 小田隆治)


「職員による大学改革への可能性を考える」というシンポジウムのテーマは壮大過ぎます。「職員による」という枕詞を取っても、「大学改革を考える」ことは管理職にとってもかなり厄介なことなのです。極論を言うと、「大学改革」の一般論はもはや無意味な問いかけであり、今は個々の大学のリアリティのある改革しか問題となり得ないのだろうと思われるからです。

私は決して自分の大学に閉じこもることを推奨しているわけではありません。自分の大学の歴史や文化の固有性を発見するためには、他大学を知って相対化する過程がどうしても必要です。この「大学職員サミット」はそれを提供する素晴らしい装置として機能したはずですし、これからもその役割はもっと大きくなっていくことと思います。

社会の激動に伴って、大学も変わっていかざるを得ません。その改革をなすのは、大学の構成員以外にありません。それは教員であり、事務職員であり、学生です。その中で強い使命感を持った有能な人が改革を遂行していくのです。縄張り争いをしている暇はないのです。分野や地位がどうであろうと、大学を助けてくれる人が改革をなすのです。

そうした意味で事務職員には無限の可能性があります。自分が動けない言い訳をしても構いませんが、動く同僚の足をひっぱることだけは止めましょう。改革者は説明責任を果たさなければなりませんが、改革なんていう運動は所詮不可解なことが付きまといます。

新聞には、教員と事務職員の対立構図の話が一番盛り上がったようなことが書かれていましたが、私から見るとこの構図はあまりにもステレオタイプです。ほとんどの事務職員の人間的な軋轢は、対教員ではなく、対上司や同僚、そして部下にあるのです。当たり前ですよね。接している時間が長いのですから。教員と事務職員の対立構図は、幹部事務職員がこれを隠蔽するために使っているのではないかと邪推することすらできます。

教員と事務職員の関係は、夫婦の関係に例えられることがあります(シンポジウムでもフロアーにいた私の友人がそう例えていました)。この例えを踏まえると、戦後から最近まで夫婦関係には古い封建的なしこりが残っていました。それが最近かなり薄らいで、力関係は逆転してきました。教員と事務職員の悪しき関係も封建的な残渣です。もうかなり消えているでしょう。

もちろんまれに時代錯誤の人はいます。ですから、この関係性を権力構造に例えることはそろそろ止めましょう。権力構造に例えると、その転覆しかありません。それはかなりいやらしいことです。教員と事務職員は互いにお互いの能力と領分を認めて信頼してやっていくしか、この難局を乗り切ることはできないのです。


国公私大短専教職学のレゾナンスとディファレンス(前山形大学理事 田村幸男)


結城学長・実行委員長の基調講演を受けて、4人のパネリストと100人近いフロアの参加者により、各大学の実例を含めて、熱く討論が交わされた。以下、その概要を述べる。

パネリストを含めて延べ24人、重複発言を除くと17人が発言した。内訳は、職員13人(国立8、私立5)、教員3人(国立2、私立1)、学生1人(国立)である。「全国移動幹部職員とプロパー職員、教員と職員」、「職員の専門性」、「学生中心の体制」の3点について中心的に議論された。

結城学長講演で、全国の国立大学教職員12万人の内、6万人が教員で6万人が職員、職員の内1000人弱が全国移動の課長級以上幹部、500人がブロック移動幹部で将来的には解消される見込み、その他6万人弱がプロパー職員であることが示された。

これに対して、
  • 問題は人材を得て適任ポストに就けることで、民間からのヘッドハンティングを含め戦略的取組みが必要
  • 他流試合(他機関勤務)は重要
  • 必ずしも全員の視野が広くなる必要はないのではないか
  • 職員も「教える」ことを知ることが必要で、「教員にSD、職員にFD」をするべき
などの意見が出された。

また、教員と職員の関係については、
  1. 教員の(事務職員に対する)「理不尽」は数十年前と変わっていないことの実例
  2. 教員にモノを言うためには職員が力量を高めることが必要 
  3. 教員の「意識」は変わっていない 
  4. 職員の教員に対する優位性は「プロデュースカ」にある 
  5. 教員からみて職員との連携は重要 
  6. 教員には当然ながらいい人もだめな人もいて一概にはいえない 
  7. 国立では「専門性は低いが汎用性は高い」 
などの意見が活発に出された。


次いで、職員の専門性については、
  1. 専門性だけならアウトソーシングされる、+α(ミッション・パッション・アクション)が重要 
  2. 国立は法人化されたが公務員試験の滑り止め感覚の職員が入ってくる。専門性とともに大学への愛情も重要 
  3. 国・私立双方の経験があるが、ずいぶん風土が違い必要な専門性も一律ではない 
  4. 研修を自由参加にしているが、やる気のない人に強制しても効果がないため 
などの意見が出された。


最後に、学生中心の体制作りについては、
  1. 短大で職員も少数、サービス業に徹している 
  2. 大学祭に大半の学生が参加せず職員が裏からサポートせざるを得ない現状 
  3. 学生サービスと甘やかすのは別で、「モンスターステューデント」が生まれている 
  4. (学生だが)やりたいことを見つけるのに3年かかったがサポートはなかった、サービスは求められているものより一歩先を、暖かい対応がほしい 
  5. 男性職員に恐怖感を持つ学生がいる 
  6. 学生対応も高い専門性が必要 
などであった。

傍観するはずが参加者に/大学職員サミットを取材して(朝日新聞社朝日新聞教育グループ 片山健志)


大学職員という存在は、実はいま相当、注目されているのではないかと思っています。すでに語られていることではありますが、「財務系」「外部資金獲得系」「学生支援系」などへの細分化がますます進み、それぞれが専門職として内部的にも外向けにも認知され、あこがれの仕事としてリストアップされることになると思います。

どこの大学が生き残り、どこが消えるのかがまことしやかに語られるいま、「大学の自治」の名の下にあぐらをかいてきた人たちをぜひ土俵に引きずり出し、大学というところが何を目指すべきなのか、根本的な問いかけを職員の皆様にぜひやってもらいたい。

2008年5月12日月曜日

問われていますよ、医学系教員のモラル

医学部教員や附属病院の医師のモラルの問題、中でも、不適切な金銭の授受に関する問題が紙面を賑わすことが多いこの頃(いや昔からそう)ですが、社会的信用や所得水準が高く、恵まれた環境下にある彼らが、どうしてそのような倫理観の欠如した犯罪的行為を行うのでしょうか。

同じ大学勤めでも、安サラリーで生活している私とは無縁の世界の方々なので、何ともコメントのしようがないわけですが、国公私立いずれの大学も、国民の税金で支えられている公共的機関であり、この国の将来を担う人を育てるという重要な使命を担っている大学を職場とし、そこに生活の糧を求めている以上は、自分の立場をわきまえた考えや責任ある行動をしていただきたいものですね。

大学教員の倫理観の欠如については、以前、この日記でもご紹介したことがあります。
http://daisala.blogspot.jp/2008/01/blog-post_620.html


今日は、まず、大学病院に勤務する医師と企業との金銭に関する記事からご紹介します。


企業から医師への資金提供 医学部7割ルールなし (2008年4月28日 読売新聞)


医学部を持つ全国の大学のうち、医師ら教員が製薬企業などから得た研究費や講演料を届け出たり、研究の独立性が保たれるかどうかを審査、監督したりするルールを策定、実施しているのは3割に過ぎないことが、読売新聞の調査でわかった。

特に私立大では、ルールを持つのは回答した24校中1校だけで、医師と企業の資金関係を「開示できる」としたのも2校にとどまり、情報公開の遅れが浮き彫りになった。

調査は全国80大学(国公立51、私立29)に文書で行い、74校(国公立50、私立24)から回答を得た。ルールを作成しているのは23校で、実際に運用しているのは20校(27%)だった。そのうち国公立が19校で、私立は1校だけだった。

教員が企業から得た役員報酬や顧問料、特許権料、株式の保有、講演料や原稿料、研究費などのうち、大学への届け出が必要な場合の金額は「年間100万円以上」としたところが多かった。8校では届け出対象を本人のみとし、15校では家族も含めた。

ルールを持たない51校のうち、25校は「今年度内に作成、または作成を検討する」としたが、26校は「未定」だった。

[解説] 私大、開示に後ろ向き ルール化 慶大のみ

企業から医師への資金提供を巡っては、薬物療法などの目安を定めた診療指針の作成委員を務める国公立大の医師の約9割が、製薬企業から寄付金を受け取っていたことが、読売新聞の調査で既に明らかになっている。しかし、私立大の場合、指針の作成委員に名を連ねる教授らも多いものの、製薬企業との資金関係はベールに包まれているのが実情だ。

寄付金について、国公立大のほとんどは、情報公開制度に基づき、受領した教員、講座名や提供した企業名、金額を開示している。一方、私立大では、今回の本紙調査に対し、10校が寄付金の総額(平均2億9400万円)は回答したが、個別の資金関係を「開示できる」としたのは東京医大、東海大の2校だけだった。調査に「答えられない」とした私立大も数校あり、情報開示に後ろ向きな姿勢が目立った。

資金についてルールを設けている私立大は慶応大だけで、医学部教員に外部委員(弁護士)1人を含めた委員会で、企業の資金提供で行う研究について審査、勧告などを行う。

インフルエンザ治療薬「タミフル」に関する厚生労働省研究班の医師が治療薬メーカーから寄付金を得ていた問題を機に、厚労省は先月、2010年度から、大学の医師が同省研究費を申請する場合、所属大学が資金関係のルールを運用していることを条件とすることを決めた。

ルール策定と情報公開を急ぐべきだ。


次に、国立大学病院と天下りの受け皿法人との関係を指摘する記事です。


国立大病院の店舗、OB財団が“独占” (2008年4月28日 産経新聞)


医学部付属病院を持つ全国43の国立大学法人が、いずれも入札を行わずに、病院内の売店やレストランなどの運営を、大学関係者らの財団法人に任せていることが分かった。文部科学省OBが天下った財団もあり、ほとんどは売店などの経営を民間に再委託しているが、建物使用料は格安になっているケースが多い。

財団による病院関連業務の民間への再委託をめぐっては、会計検査院から「不透明」と改善を要求された例もあり、検証が必要だ。

病院を持つ全国の国立大学法人は、いずれも大学職員OBや文科省OBを理事に迎えた財団法人を設立しており、レストランや喫茶店、売店、理容店などの運営は、ほとんどが財団に任せている。入札を行っている大学はゼロだ。

滋賀医科大(大津市)の場合、付属病院内のレストラン、売店、喫茶店、理容店を運営するのは、大学関係者が理事長を務める財団法人「和仁会」(大津市)。

大学によると、病院建物のうち約441平方メートルと土地約3・2平方メートルを財団が使っているが、使用料は国立大学法人になった平成16年から3年間は無償だった。19年度から有償に切り替えたものの、坪単価で年間約3万円という破格の安さだ。

しかも、病院で和仁会が経営するレストランの賃料が発生するのは厨房(ちゆうぼう)のみ。客が座る部分は「共用スペースなので福利厚生扱いとなる」といい、現在も無償のまま。こうした扱いは各地の国立大学法人でも同様だ。

登記簿によると、和仁会の理事は大学職員OBの理事長以下6人いるが、常勤は理事長と事務職員の2人だけ。売店やレストランの実際の業務は、地元企業や大手レストランチェーンに再委託しており、従業員はいずれもそれぞれの会社が雇用している。店に財団の看板を掲げるだけで、売り上げの一部が財団に納められる仕組みだ。

東京大学病院(東京都文京区)の場合、院内のレストランのうち1軒は「精養軒」(東京都台東区)に経営させている。財団を介在させず、民間業者と大学が建物使用の契約を直接結ぶという、全国でも珍しいケースだ。

しかし、院内にある他の飲食店やコンビニエンスストアなどは、いずれも文部科学省OBを理事長に迎えた財団法人「好仁会」が建物を有償で使用し、運営している。

公開された契約書によると、好仁会が使用するスペースは約1080平方メートルで、同会が大学に支払う賃貸料は年間約1700万円。立地を考えれば破格の安さといえる。

東大病院にあるタリーズ、ドトールといった有名コーヒーショップやコンビニのローソン の従業員は、いずれも好仁会が採用し、同会が店をフランチャイズ経営している形だ。

このほかに好仁会直営のレストランもあり、直営の場合は売り上げ全額が好仁会に入る。

小山五朗理事長は「通常のコンビニは約2500品目の品ぞろえだが、公益性を重視して4500品目を常備している。ロイヤルティーをローソンに十数%払わなければならず、経営は楽ではない」と話す。

病院内の店を財団がほぼ独占している慣行について、「病気の人たちのために正月に門松を飾ったり、ひな人形を飾ったり、民間業者ではできないことをやっている自負がある」と話した。

財団による病院関連業務の民間委託をめぐっては、東京医科歯科大(東京都文京区)が18年度、会計検査院から「実際は下請け先に大半の業務を実施させている」と改善指導を受けた例がある。

同大学付属病院の場合、白衣の洗濯や寝具の取り換えなどを、財団法人「和同会」が随意契約で請け負い、さらに民間に再委託していたが、検査院は「財団職員は下請け先との調整、請求書の発行などをしているにすぎない」と指摘した。

こうした天下り先が独占して病院のレストランなどを経営している実態について、大学側は「福利厚生施設を設置する場合は収益してもよい、という昭和33年の大蔵省(当時)関税局長通達にのっとった」(滋賀医大)と説明している。

(参考)文部科学省所管公益法人一覧(高等教育局・医学教育課)
http://www.mext.go.jp/b_menu/koueki/koutou/04/004.htm


最後に、「博士号謝礼」問題に関する記事と評論をご紹介します。


記者の目 医学博士論文審査謝礼問題 (2008年5月9日 毎日新聞)


名古屋市立大大学院医学研究科の元教授が、医学博士論文審査で便宜を図った見返りに博士号申請者から現金を受け取ったとして、昨年12月、愛知県警に収賄容疑で逮捕された。

その後、横浜市立大でも、前医学部長らと大学院生との間で現金授受が発覚し、医学界の「カネと学位」をめぐる問題が広がりを見せている。

名古屋市大事件を受けて取材した複数の大学OBの医師は「謝礼の慣習は全国にある」と証言したが、私はこの信用性は高いと確信しつつある。また、こうした慣習の背景に、教授1人に権力が集中する構造を支えてきた医局制度があるのではないかとも考えている。

博士号の権威を取り戻すには、国公私立を問わず全国の大学が内部調査を行って実態を公表し、古い体質を見直すべきではないか。

愛知県警の調べなどによると、名古屋市大大学院の伊藤誠元教授(68)=収賄罪で公判中=は05年2月ごろ、博士号を申請した医師13人に「肺がんの治療法について聞くから」などと口頭試問の内容を事前に教えた。そして博士号を取得した13人から謝礼各20万~30万円計270万円を受け取り、自家用車の購入や生活費に充てた。

伊藤元教授の逮捕後、名古屋市大OBの医師たちから話を聞き、耳を疑った。

「なぜ伊藤先生だけが逮捕されるのか」「謝礼の慣習は全国どの医学部にもある」。事前に問題を教えるといった便宜は認められないにしても、高額の謝礼は当然という感覚だったのだ。

私は逮捕から2週間後、謝礼の慣習の有無について医学研究科を持つ全国50の国公立大大学院を対象にアンケートを行った。横浜市大を含め、ほとんどが慣習は「ない」と回答、「『ある』または『あると聞いたことがある』」と答えたのは和歌山県立医大だけだった。

一方で「調査も注意喚起も行っていない」と回答した大学院は65%に達し、慣習が「ない」とする根拠は不明確で、医学部の閉鎖性を垣間見る思いがした。

ところが、こうした「公式回答」とは逆に、取材に応じた名古屋大や東北大、大阪大などのOB医師たちは「自分も払った」と口をそろえ、「100万円が相場の医局もあった」

「支払わないと変人と思われる」などと説明した。慣習を否定していた横浜市大で現金授受が発覚したのは、アンケートからわずか3カ月後だった。

こうした慣習はどうして生まれ、どうして維持されてきたのか。今年4月、名古屋市大は医学研究科の教員の約3割が現金を受け取ったことがあるという内部調査結果を明らかにした。西野仁雄学長は「背景にあるのは医局制度」と分析。

「問題の本質は、教授に人事と経理の2点が集中することに尽きる」と断じた。

大学医局は、内科学や外科学など講座ごとに教授を頂点としたピラミッド型に組織され、教授は系列病院への医師派遣や研究費の配分などに強い権限を持っている。04年度に始まった臨床研修医制度で、医学部卒業生が所属医局を決めずに研修先を選択できるようになった上、へき地勤務や給与面での待遇の悪さが嫌われて勤務医離れが進み、医局そのものが弱体化の傾向にあるとされるが、依然として医局内での教授の存在は絶対だ。

医事評論家の水野肇さんは「医局は、教授が一国一城の主(あるじ)として君臨する明治以来の徒弟制度が残った特殊な世界。外からはチェックできない」と指摘する。

伊藤元教授について後輩医師の一人は「高額の医療機器や薬剤の選定に権限を持ち、親分肌で面倒見が良かったが、逆らう人間は医局から排除された」と振り返る。別の大学OBの医師は「自分一人だけ謝礼を断れる雰囲気ではなかった。結婚の際、教授に対する100万円の仲人料も常識だった」と話した。

名古屋市大は事件の教訓を教員向けの倫理綱領にまとめ「社交の程度(5000円)を超える物品は受け取ってはならない」「返却できない場合は倫理委員会に報告し、指示通りの処理をする」などと具体的な注意を盛り込んだ。私は全国の医学部が「教訓」にならい、医局内の物品の受け渡しを制限するのはもちろん、人事も透明化するなど改善を図るべきだと思う。名古屋市大の内部調査にOBの医師たちからは「若い研究者が集まらなくなることが心配」と事件の影響を憂える声が上がったというが、同じ懸念は私大を含め他の大学にもあてはまる。

博士号の権威は患者の医師に対する信頼の一部を支えてもいる。徹底的な自浄を図ることが、医療の現場を守ることになる。


教育ななめ読み「博士号の謝礼」 (2008.4.28 文部科学教育通信)


教育評論家 梨戸 茂文 氏

横浜市立大医学部長の教授が、院生から博士の学位を取得したお礼として現金を受け取っていたとしてニュースになった。同大ではこれは長年の慣例になっていて謝礼も一人当たり30万円が基本とか。市立大学も法人化され身分も非公務員とされたけれど確か「みなし公務員」でお金を受け取るのはまずいはず。収賄罪になる。学内では大あわての「検討委員会」を設置したら、その委員の少なくとも2人の医学部教授がやはり現金をもらっていたらしいというオマケの疑惑も発生。やれやれ。

同じ博士号を巡るお金の話では、名古屋市立大学の医学部の話もある。こちらは少々様子が違って、2005年3月の博士学位論文の審査で事前に口頭試問の内容をメールなどで教えてもらった見返りのお金だ。試験を受けた13人全員が合格。1人当たり20から30万円で合計270万円がこの教授に渡されたとか。この先生は名誉教授を授与されすでに退職しており今は私大の教授。大学側はこの13人の博士号は剥奪しないそうだ(多分、「名誉教授」も取り消さない?)。研究成果をまとめた論文は客観的で高水準、海外の専門誌にも掲載されている、事前に試験内容を知っていても博士号の評価には値するなどが理由とか。お金は取られるは博士号はなしなら踏んだり蹴ったり。そうならないようなのは良かったですね。

毎日新聞は全国の医学部の博士号がらみの現金謝礼についてすばやく調査した。医学系の大学院をもつ国公立大学50校にアンケート調査。回答した46校の65%、30校では謝礼について実態調査も注意喚起も行っていないと回答。謝礼の慣習について「ない」と答えたのは39校、「ある、または聞いたことがある」と回答したのは和歌山県立医大だけ。九大の回答は「お菓子程度の謝礼はある」。実態調査を実施したのは名古屋市立大、名大、岐阜大の中京地区の学校。注意喚起したのは12校でそのうち4校は事件後。調査も注意もしていない30校のうち29校が謝礼の習慣をないとしている。新聞はしつこい?のであちこち取材したらしい。阪大で博士号を取得した医師は審査の主査に10万円を渡し、東北大で取得した医師は担当教授に数十万円を渡し食事の接待もしたとの話も聞き出している(新聞、関係者は「大学はしらを切っている」と言いたげです)。

ところでわが国の江戸時代を振り返ってみると、贈答文化は相当盛んだったようだ。大名が官職や幕府の役職に就くのに老中などに相応の贈答をしていたのが時代劇などでお目にかかる話だ。忠臣蔵だって浅野内匠頭が吉良上野介に贈った「指南料」とやらが少なかったのが殿中での刃傷沙汰の原因のひとつと見られている。日本人が何百年も培った「文化」なんだろうか。

ところで工学部などではそもそも該当者の数が多かったり、博士論文の前に数本の同内容の論文を書くことが要求されていてまず数合わせ先行だからお礼をする余地がないとか、「研究室の打ち上げに先生も呼んでパーティー」をすればいいのではないかとか「立派な研究者に成長するのが真のお礼だ」など涙ぐましい?意見もある。医学部の場合、背景には「医局」の存在があり、大学内のほか関連病院へ医師を送り込む人事もやっている。昔の話だが(1995年11月13日「AERA」)、ある県立大学の医局出身の産婦人科医は博士号を取ったときの主査教官に50万円、副査に10万円ずつ贈ったそうだ。さらには結婚する時は「仲人料」が必要で相場が50万円だったとか。医者の世界は激務だがふだん動いている金額が大きいのだろうか。もう「昔話」なんでしょうけど。

2008年5月11日日曜日

FD : Faculty Development

「教員の授業内容や教育方法などの改善・向上を目的とした組織的な取組み」である「ファカルティ・ディベロップメント(FD)」については、去る3月25日に中央教育審議会大学分科会制度・教育部会によって取りまとめられた「学士課程教育の構築に向けて(審議のまとめ)」において、教職員の職能開発の重要性、特にFDの実質化に関する現状と課題について、かなりの紙面を割き言及されているところです。

内容は、当日記「教職員の職能開発」をご覧ください。

FDについては、これまで、中央教育育審議会の答申に基づき、平成11年に各大学がFDを実施することに関する努力義務が定められ、その後、平成19年度から大学院に関して、そして、平成20年度からは新たに学士課程でも実施が義務化されました。

また、平成18年12月に成立した教育基本法では、教員に関する条文の中で、教員は「絶えず研究と修養に励み、」職責を遂行しなければならないこと、そして、「養成と研修の充実が図られなければならないこと」が新たに規定されるなど、FD活動の重要性はますます高まるばかりです。

制度面の整備と相まって、様々な工夫を伴った積極的な活動が展開されるようになりました。例えば、山形大学が中心となった次のような取り組みです。


教員の質向上へ大学連携 山形大など FDネットを結成 (2008年3月28日 河北新報)

教員の能力開発を目指し、山形大が設立を呼び掛けてきた大学間の連携組織「FDネットワークつばさ」が28日、結成された。東日本地域の大学、短大、高等専門学校の計34校が参加。協力して教育方法の改善に取り組む。

FDはファカルティー・デベロップメント(教員の資質向上)の略。山形大は2004年、山形県内の他の大学、短大とともに「地域ネットワークFD樹氷」を結成、FD推進に力を入れてきた。ノウハウを生かすため、連携の輪を東日本地域に広げることにした。

参加校の内訳は、東北が秋田を除いた5県の18校、北海道が4校、関東が12校。山形大に事務局を置き、各校のFD担当者からなるFD協議会が中心になって運営する。共通フォーマットを使った学生による授業評価、他の教官が授業を見学して意見交換する公開授業などを行う予定。

山形市内のホテルで行われた結成記念式典には、約40人が出席。山形大の結城章夫学長が「FDはすべての高等教育機関共通の課題。各機関が知恵や経験を出し合って充実させていくことが大事だ」とあいさつ。文科省高等教育政策室長の鈴木敏之氏が「学士課程教育の改革とFD」と題して講演した。

東北からの参加校は次の通り。

▽青森 県立保健大、青森公立大、青森中央短大▽岩手 一関高専▽宮城仙台大、東北生活文化大、東北薬科大▽山形 山形大、県立保健医療大、東北芸術工科大、米沢女短大、羽陽学園短大、山形短大、鶴岡高専▽福島会津大、会津大短大部、いわき短大、桜の聖母短大


授業改善アンケートなど議論 FDネットワーク第1回協議会 (2008年4月22日)

東日本地域の大学など高等教育機関が連携し、教員の資質向上を図る組織「FDネットワーク“つばさ”」の第1回FD協議会が22日、山形市の山形大小白川キャンパスで開かれた。 26校から約50人の担当者が出席し、協議会要項や授業改善アンケートなどについて議論した。

この日は、中島勇喜副学長のあいさつに続き、事務局となる山形大の担当者がこれまでのFD活動の成果や今後の課題について説明した。議事では、事務局から協議会要項が提案されたほか、シンポジウムや公開授業などの事業計画について意見を交わした。また、学生に対する授業改善アンケートは共通形式とし、後日、各機関が必要枚数を申し出ることにした。

FDは、教員の授業内容や教育方法などの改善、向上を目的にした組織的な取り組み。文部科学省の大学設置基準の改正で、大学の学士課程のFDが義務化されたこともあり、今年3月に同ネットワークが発足した。現在、東日本地域の35校が参加している。各校のFD担当者で構成する協議会は、今後の具体的な活動方針などを話し合う場として設置した。


FD活動は、実際には、授業内容や教育方法などの改善・向上を図るための『教員の職能開発』を意味するものと考えられますが、その積極的な推進を図る前提として、大学における「教員の役割」そのものが、従来のものとは大きく変化していること、したがって、今後の「あるべき教員の姿」というものを十分認識した上で、FDの実質化を実現する必要があるのではないかと思います。

関連して、この日記ではおなじみになりました、広島大学高等教育研究開発センター長の山本眞一氏が書かれた「義務化されたFD-改めて大学教員の役割を考える」(2008-4-28 文部科学教育通信 No194)をご紹介します。


努力義務から実施義務へ

今年4月から、先行する大学院段階を追って、学士課程段階においても大学教員の能力開発すなわちファカルティー・ディベロップメント(FD)の実施が義務化された。

これは昨年改正の大学設置基準の「教育内容等の改善のための組織的な研修等」に関する条文において、従来は「大学は、当該大学の授業の内容及び方法の改善を図るための組織的な研修及び研究の実施に努めなければならない」と努力義務に留まる規定であったのを、「組織的な研修及び研究を実施するものとする」(改正後の第25条の3)と改められて、これを大学に義務付ける形になったからである。

もっとも義務化と言っても、これはFDの実施義務を大学という組織全体に課したものであり、個別の教員に研修の義務を課しているものではないことに注意する必要がある。

思えば、1990年代の初め頃にこのFDという用語が登場した時には「FDとはフロッピー・ディスクですか?」という質問をよく受けたものだが、十数年経った今では「フロッピー・ディスクって何ですか?」(つまりこのディスクが読めないパソコンが増えた)と言われるほど世の中が変わった。まさに大学を巡る状況の変化そのものを代表するような現象であり、まことに感慨深い。FDはいまやすっかり市民権を得たかの感がある。

ところで、このFDを「教授団の能力開発」とわざわざ「団」という言葉を補って理解する向きがあるが、ここでは「教員の能力開発」と素直に翻訳するのが自然であろう。おそらくそれには多くの辞書にある「ファカルティ=学部」という組織を意識した解釈が影響しているものと思われるが、実際には米国において、ファカルティーという言葉は大学教員、とくに学部教育と研究を担当し、テニュアを持っているか将来テニュアが取れそうな位置にある専任教員のことを指すことが多い。「faculties=教員たち」という複数形もしばしば登場するから、我々も米国の大学のことを調べるときは、ファカルティーは組織ではなく教員という人を指す言葉であることに注意する必要がある。

より実践的・効果的なFDへ

さて、このFDによって義務化されたのは、大学設置基準にもあるような「当該大学の授業の内容及び方法の改善を図るための組織的な研修及び研究」である。文科省の調べによると、2005年度には全大学の約8割でFDが実施されているそうだが、その多くが講演会の開催や研修会、授業内容の検討会など座学中心であることが問題視されている。中教審答申に付属する用語解説では、「教員相互の授業参観の実施、授業方法についての研究会の開催、新任教員のための研修会の開催など」(2005年の将来像答申)とあることから、より実践的、効果的なFDの実施が求められるようになるだろう。

そこでこの際、我々はこの義務化されたFDをどのように考えるかという点について高等教育研究・開発の立場から2、3指摘しておきたい。第1に、当然のことではあるが、FDは制度化されたから実施する、つまり実施自体が目的では決してないということである。もちろん結果としては実施されないと困るのであるが目的と手段との逆転は教育界とくに精緻な制度化が進む初等中等教育ではしばしば起こっていることであり、我々高等教育関係者は注意してこれを避ける必要がある。

然らばFDの目的は何か。それはこの活動を通じて大学の教育を良くし、ひいては大学の社会的責任をより適切に果たすために行うものなのである。この点から考えると、FDの実施そのものを目的とすることが適切でないことはもちろん、FDの議論でしばしばみられる細かな専門的技術用語にとらわれすぎるのも良くない。その用語が意味するものを追い求めるあまり、木を見て森を見ずの結果に終わる恐れが大きくなるからである。

我々はあくまでも「大学教育をより良いものにする」という大目標を追求すべきなのである。

大学教育の実質化とFD

第2に、FD活動は大学教育を「実質化」するためにも必要なことである。ここで言う大学教育の実質化というのは、学士課程であれ修士課程、博士課程であれ、その課程修了という学歴にふさわしい中身のある教育成果を上げることである。しばしば言われ、そして私もこの連載を含めて何度も主張してきたことは、わが国の大学は入試を通じて学生の潜在能力を発見あるいは選別することには得意であったが、学生にその卒業証書あるいは学位にふさわしい実力を身につけされることには不慣れであった、ということである。

しかし、産業・就業構造の変化によって、在来からの大学教育の実態には厳しい目が向けられるようになってきた。わが国の大学教育の質を世の中に認めさせ、また国際的にも信用あるものとして学生や関係者に保証するためには、形式と実質、つまり学位と習得内容とを一致させるようにしなければならない。FD活動はこのための重要な手段としても位置付けられるだろう。

第3に、これからの大学教員の在り方とFDは深く関わるということである。このたびのFDの制度化は、教員個人に対する義務を課すわけではないが、しかし個々の大学教員が教育に無関心であることを放置するものでは決してない。

大学教員は研究者か教師かという議論は昔からあったし、またその両立が求められるのが今日の状況だが、研究者としての側面は、大学教員の本質からしておのずから各自が努力してがんばる可能性が高い。

しかし、教育を未だに「負担」としてとらえがちな雰囲気の中で、しかも教員の人事評価では優先度の低い教育活動には、大学として、あるいは教員個人として強く意識をし、またそれなりの措置をしなければ、よき教師を養成・確保することは難しい。しかも18歳人口の減少や高等教育のグローバル化時代を迎えて、結局のところ大学を経営面から支えるのは、「良き教育」の存在なのである。

大学として教育課程への責任を

第4に、FDによって追求すべきものは、個々の教員の能力開発だけではなく、当該大学の組織としての教育力の強化である。不思議なことに、とくに文系ではいまだに授業科目の開設は個々の教員の義務であると同時に「権利」と考えられているふしがある。授業負担の大きさに不満を述べる一方で、受講生が少ない授業科目を大学が整理しようとすると途端に抵抗を示すのもその教員なのである。同一科目を複数の教員が担当し、試験を共通にするということが理系では広く行われているようだが、文系ではまだまだのようである。

しかし大学の教育課程は大学が組織として学生に約束した教育内容のセットである。個々の教員が勝手に学生を扱ってよいはずがない。

研究活動については教員の大幅な自主性を認めるべきだが、教育活動については個々の教員の創意工夫とともに、大学としてのポリシーを立て、組織的な展開をしなければならないことに、我々は改めて着目すべきではないだろうか。

折しも去る3月25日、中教審では「学士課程教育の構築に向けて」という大学分科会制度・教育部会の審議のまとめが公表された。

読者の皆さんはこれを熟読されて、今後のFDや大学教員の役割についてさらに考えてもらいたいものである。

2008年5月9日金曜日

教育投資の数値目標の行方はいかに

「教育振興基本計画」の在り様については、この日記でもこれまで機会あるごとにコメント(かなりの批判を)させていただいてきました。

2008-02-18 教育振興基本計画
2008-03-04 高等教育への投資
2008-03-11 中教審答申(教育振興基本計画関係)素案
2008-04-07 骨抜きになった教育の未来
2008-04-14 大学への財政投資の必要性
2008-04-19 あらためて、教育振興基本計画 

いよいよ閣議決定という最終段階を迎えている中、教育投資の数値目標を巡る攻防が山場を迎えています。

文科省対財務省、「教育支出GDP5%目標」で衝突 (2008年5月1日 読売新聞)

文部科学省は、教育支出額を今後10年間で国内総生産(GDP)の5・0%まで引き上げるという数値目標を、戦後初めて国が策定する「教育振興基本計画」に盛り込む方針を決めた。これまで国の財政事情に配慮し、数値目標には消極的だったが、先進各国に水をあけられていることへの危機感から方針転換した。

しかし、財務省は支出拡大には慎重姿勢のまま。6月にまとまる「経済財政改革の基本方針」(骨太の方針)も見据え、文科省を後押ししようと、河村建夫元文科相ら自民党文教族議員が1日午前、首相官邸を訪れ、数値目標を入れるよう要請するなど政治闘争の様相も帯びている。

文科相の諮問機関「中央教育審議会」が4月18日にまとめた教育振興基本計画の答申では、「欧米主要国と比べて遜色(そんしょく)ない教育水準を確保すべく、教育投資の充実を図ることが必要」という文言を入れただけだった。

一転して、文科省が打ち出したGDP比5・0%という数値は、経済協力開発機構(OECD)諸国が教育支出にかけている公的資金の平均値。日本は現在3・5%で、日米の大学生を比較した場合、一人あたりの公財政支出(年間)は、日本の67万円に対し、アメリカは106万円と39万円の開きがある。

中教審の審議では「教育投資の充実は国力の維持・向上に最低限必要」(安西祐一郎慶応義塾長)といった意見が相次いだが、財務省との事前折衝で数値を入れることを拒まれて断念。自民党文教族からは「この答申では教育水準は上がらない」などと強い不満があがっていた。

文科省は財源として道路特定財源の一般財源化や税制改革に期待しており、実現すれば全国の教員も5年で2万1000人増やすことが可能になる。

しかし、4月30日に自民党議員約20人と面会した額賀財務相は「教育への投資も重要だが、投資より効果が上がる方法もあるのではないか」と慎重で、先行きは不透明だ。


教育計画答申に不満相次ぐ=歴代文相 (2008年5月9日 時事通信)

森喜朗元首相ら文相・文科相経験者が東京都内のホテルで9日開いた会合で、中央教育審議会(文科相の諮問機関)が先月まとめた「教育振興基本計画」の答申に対し、不満の声が相次いだ。教職員定数や教育投資の数値目標が盛り込まれていない上、「教育の基本理念が示されていない」ことが不満の根底にある。

出席者は森氏のほか、伊吹文明、海部俊樹、河村建夫、大島理森の各氏らで、渡海紀三朗文科相や同省幹部らが説明役に回った。出席者からは「必要な予算を取るためのものになっていない」「財務省が教員を増やせないと言うのならOBの活用を」などの意見が出た。

これに対し同省は現行、年間で国内総生産(GDP)比3.5%の教育投資を5%(約24兆円)に引き上げることを計画に明記する考えを示した。しかし、具体的な教育政策、理念が不十分との厳しい注文が付き、同省は計画案の修正を検討することになった。


教育費:GDP比3.5%から5%に引き上げを…文科相 (2008年5月9日 毎日新聞)

渡海紀三朗文部科学相は9日午前、東京都内で開かれた文相・文科相経験者との会合で、教育関連予算を対国内総生産(GDP)比で現在の3.5%から、10年間で5.0%への引き上げを求めていく方針を表明した。今後5年間の政府の教育方針を示す「教育振興基本計画」に数値目標を盛り込む。

同計画は改正教育基本法で策定を義務づけられ、中央教育審議会が4月18日に答申を提出したが、渡海文科相は「もう1回書き直して、各省と折衝したい」と見直しを指示する考えを明らかにした。

会合は自民党政調の文部科学部会が主催。森喜朗元首相は「(同計画は)教育予算を取るためのものだが、そうなっていない」と批判し、数値目標の明記を求めた。

渡海文科相が表明した方針は、教育支出を経済協力開発機構(OECD)諸国平均の対GDP比5.0%並みに引き上げるというもの。同計画は5月中旬に閣議決定する予定だったが、見直し指示を受けてずれこみそうだ。


教育支出「GDP5%」原案明記…財務省の反発必至 (2008年5月9日 読売新聞)

今年度から5年間の教育政策の財政目標を定める「教育振興基本計画」の文部科学省の原案が9日、明らかになった。

焦点の教育支出額について、「今後10年間を通じて、OECD(経済協力開発機構)諸国の平均の国内総生産(GDP)比5・0%を上回る水準を目指すべきだ」と具体的な数値を明記した。

だが、日本の現在の教育支出額はGDP比3・5%で、1・5%の引き上げには、単純計算で新たに7・4兆円の予算が必要となる。財源の手当ての見通しがついていないため、財務省などの反発は必至で、最終的に計画に盛り込めるかどうか不透明だ。

原案は、4月18日の中央教育審議会の「教育振興基本計画」の答申を受け、文科省が作成した。文科省は今後、この原案を基に各省と折衝を行う。

日本の教育支出額は現在、年間約17・2兆円。中教審の答申では投資額の目標は示さず、「欧米主要国と比べて遜色(そんしょく)ない教育水準を確保すべく、教育投資の充実を図ることが必要」とするにとどまっていた。

これに対し原案は、「資源の乏しい我が国では、人材への投資である教育は最優先の政策課題の一つだ」とし、OECD諸国の平均の5・0%を上回ることを目標に掲げた。


いずれにしても、この国の将来に希望を見出すことのできる責任ある基本計画が策定されることを願ってやみません。

2008年5月8日木曜日

国立大学法人化の検証(2)

前回に続き4年が経過した国立大学の法人化について検証したいと思います。

この日記をご覧になっている大学関係者の皆さん、特に当事者である国立大学の皆さんは、自校の現状を顧みて、法人化後の国立大学についてどのような感想をお持ちでしょうか。

残念ながら私の所属する大学の場合は、国立大学の法人化は、明治以来の大きな勇気ある、そして希望ある制度改革であると称される割には、必ずしも理想どおりにいっていないような気がしています。

実際に大学現場で働く身として感じることは、相変わらず構成員(教員も職員も)の意識の持ち方は「国の時代」そのものであったり、「教授会自治」が強力な抵抗勢力として大学経営の足かせになっていたりと、正直言って大学職員としてのモチベーションを維持することが大層大変な状況です。このような状況は、様々な伝聞によればどこの大学にも多かれ少なかれあるようです。

大学であれ、民間企業であれ、そこで働く人間にとっては、帰属意識というものがとても重要だと思いますし、悪しき民主主義、悪しき平等で固められたスピード感のない古き体質の大学では、今まさに求められている大学間競争には勝てるはずもなく、希少な構成員のやる気も次第に失せてしまって、誰のために、何のために、自分の能力をどう生かしたらいいのかということすらわからなくなってしまう、そんな最悪の状況が大学には正直申し上げて厳然として存在しています。

大学をそんな職場にしたくない、生き生きとした毎日を送りたい、将来ある若者(学生)のためにできる限りの力を尽くしたい、そんな目的意識を持った人々の気持ちを大学はなぜだめにしてしまうのでしょうか。人を育てる崇高な教育機関が、逆に人をだめにしてしまうようなことをなぜ許しているのでしょうか。大学という職場は大学に糧を得る人間でさえ未だによく理解できないところがたくさんあるのです。

今日は、前回に続き、国立大学の法人化を検証する意味で、法人化直後の2004年8月に、信州大学留学生センター教授の高石道明氏(当時)が、桜美林大学大学院国際学研究科桜美林シナジー第3号に寄稿された「大学運営における事務職員の役割」という論文をご紹介します。

「国立大学の法人化」がもたらした様々な課題、それを乗り越える手法について、示唆に富む指摘がなされているのではないかと思います。法人化後4年を経過した今でも、旧来の「国立」を乗り越えることができていない大学は少なからず存在しているのではないかと思います。大学という世界はまさに伏魔殿なのです。


はじめに

名古屋工業大学前学長柳田博明先生の新聞投稿(読売新聞2004年3月8日朝刊)を極めて強い共感をもって読んだ。柳田先生は、筆者の親しい方で、物性科学の権威であるが、昨年(2003年)暮に2期目の学長再選を阻まれた。最近、このような事例が多いが、国立大学の保守性が、法人化直前のぎりぎりのところで現れたものと思う。

柳田先生は東京大学の名誉教授だが、請われて名古屋工業大学の学長に選ばれて以来、大学を社会に開き社会と大学の関係を密接にすることに特にカを注がれた。法人化されれば、法律によって民間の人材を大学経営に参画させることになるのだが、柳田氏は、法人化の前から民間人を登用して、経営の中枢に据えた。そのような積極的な試みが、教員の反発を招いて、再選されないという結果になったのだが、新聞投稿の冒頭で、「法人化に向けた国立大学の準備作業が、制度上の整合性をどうとるかに止まっていないか。骨抜きの制度設計をしょうとしているのではないか、と私は疑いを持っている。」と書かれている。

筆者も、このたびの法人化の行く末に危惧を抱いているひとりであるが、全ての国立大学において、法人化のために行なわれている準備プロセスに見られる特徴的な態度は、法律で示された制度設計に、いかにうまく適合させることが出来るかというハウツー思考が先行していると見られるからである。すなわち、文部科学省から100点満点をもらうためだけに、多くの努力が払われているとしか思えない。法人化の根本理念に目を向けずに、制度の枠の中にいかに押し込めることが出来るか、ということに汲々としている。これは、中央にしか目を向けていない態度と言える。自分たちの大学を自分たち自身の足でしっかりと立ったものにするという視点が希薄である。

1 国立大学の病理所見

(1) 官僚主義の病理

これは国立大学だけのものではないと思う。私立大学においても長い歴史を重ねるにつれてビューロクラシーの原理が徐々に支配するようになるのではないかと思うが、国立大学はこれまで、行政組織の一部だったので、当然のこととして官僚主義が支配原理だった。このことは、単に事務組織の問題だけでなく、教員の間にも蔓延していることに注意しなければならない。

(2) 規則に基づく硬直した組織

これは事務組織に端的に現れているが、事務局長をトップとして部長、課長、係長へと連なる直線的な命令・指示系統が規則で決められているから、ひとつの係を新設する、あるいは廃止するだけのことでも、大学の評議会の議題として審議しなければ実行できない。事務組織のことであるから、事務局長や、場合によっては部長が専決で決めればいいと思われるようなことでも、教員によって構成される評議会や教授会での決定が必要ということになっている。このように硬直化した組織原理が、法人化によって変わるかどうか、それを期待してはいるが、一朝一夕には変わらないだろうと見ている。

(3) 変化への無関心

国立大学の職員は2~3年ごとに仕事を変わる。任務が変わればその任務内容を理解し、前任者がそれをどのように果たしてきたかについて、情報を得ることに努める。しかし、現代の大学が社会の大きな変化にさらされようとしていることを、自分の仕事に結び付けて考えようとしない傾向がある。大学を取り巻いて変化する環境に応じて、規則や慣例に基づいて行われてきた仕事の矛盾や問題点を自ら発見し、改善しようとする意欲や態度を持たないように見受けられる。

(4) 霞ケ関への依存体質

変化への無関心は、霞ヶ関への依存体質に基づいている。特に課長以上の職員は、文部科学大臣によって任命されるから、どうしても霞ヶ関に忠誠であろうとする傾向にある。筆者がかつて勤めていた山口大学では、廣中平祐学長は、筆者や部長達を「君ら配属将校は…」とよく言っていたものである。筆者は、むしろ国の直轄領である国立大学に置かれた「代官」ではないかと言ったことがあるが、学長がそのような目で幹部職員を見ているということは、過去の幹部達がそういう態度で学長に接していたからに違いない。

(5) その場しのぎの改善

問題の根本を見つめて改善する態度に欠ける。その場を繕うだけの改善に止まることが多い。

(6) 意思決定の遅延

このことは、柳田先生が新聞に書かれた中にあるように、大学では民主主義的な手続きが重視されるので、社会的な要請に応えて大学の制度を改革しようとして、教員達と議論に議論を重ねて、ようやく結論に達して改革を実現した時には、既に改革の必要性は薄れてしまっているということがある。これも国立大学に蔓延している官僚主義の大きな弊害のひとつである。

(7) 内なる論理が支配

身内の論理が最優先されるということである。大学には教員も職員も大から小まで、様々の段階の組織に属している。公式のものもあれば非公式の組織もある。それらの組織を防衛するだけのための論理が常に優先される。柳田氏はこの点については、「教授会メンバーとの葛藤は、学長権限の縮小と教授会権限の維持の要求をいかに拒否するかにかかっていた。要求は、メンバーの民意を尊重せよという学内民主主義を論拠に置いていた。…国立大学の何がいけなかったのか。まず、大学人は大学を自分たちのものだと考えている。」と書いておられる。

(8) 市場の原理に無頓着

市場の原理に全く関係ないところで大学の教育が行われていることに、全く気づいていない。例えば国立大学の英語教育は惨憺たるものであると思っているが、送り出す学生の英語能力の質を保証するためには、社会的に確立された能力試験を大いに利用すべきである。しかしそのような大学はきわめて少ない。

我々は、送り出す学生の質について、100パーセントの自信を持つことが出来るだろうか。信州大学の場合には、明確な根拠は無いが、かなりの割合で不良品を出しているのではないかと思っている。物を生産して販売する企業では、2~3割もの不良品を出していたら、たちまち倒産してしまう。このように卒業生として送り出す学生の「品質」に注意を払わないということは、高等教育のマーケットが変わってきていることに対する認識が欠けているということである。サービス産業として質の高いサービスを提供できる大学にすることが出来るかどうか、これが我々の最大の関心事であるべきである。その意味では、JRなどが良いモデルを提供してくれている。

(9) 生活習慣病(糖尿病、高血圧、動脈硬化、高脂血症)

上記のそれぞれの病気が4大生活習慣病のどれに該当するかは別として、これらの病気を治すためには対症療法ではだめであることは良く知られていることである。国立大学においても根本的な体質改善なくしては、病気から逃れることはできない。

2 改善の処方箋

(1) サービスの質の向上にこそ共同して貢献する教員と職員

顧客としての学生の満足度を高めることを最優先としなければならない。顧客の満足度はサービスの質によって決まる。学生に対するサービスは、入学前、入学直後、在学中、卒業後のそれぞれの段階で考えられなければならない。入学前のサービスということは、あまりなされていないと思うが、例えば入学が決まった学生に対して、新しい勉学と生活環境に対する期待を高め、不安を取り除くような情報提供を行うなどの働きかけがあっていいと思う。アメリカの大学に学んだことだが、各地にある同窓会組織の協力を得て、OB、OGが入学予定者に接触して、見知らぬ土地で生活するためのアドバイスを与えることなどは有効であると思う。

入学直後の時期も非常に大切である。多くの大学で1年次教育が重要視されているのは、もちろんユニバーサル段階に達している高等教育の現代的な特徴であるが、強い動機付けを行い勉学のインセンティブを与えることは、大学生活における学生の満足度を高めることにつながる。

在学期間を通じて、教育の質を保証することが先ず何よりも大切である。それに加えて、勉学環境(キャンパス・アメニティー)の面でも学生の満足度を高められるような配慮、を常に心がけなければならない。最後の段階では、進路指導や就職指導が重要である。

また、卒業後のサービスにも心がけるべきである。周年記念の寄付依頼の時だけ大学が卒業生に接触するというのでは駄目である。毎年定期的に大学から情報誌が送られ、大学の最新の様子が知らされることによって、母校への愛着心が維持される。その結果、卒業生が自分の子供も母校へやろうと思ってくれるということになれば、素晴らしいことである。

このような一連の各段階において、高品質のサービスを確保するということにおいてこそ、教員と職員が心をひとつにして貢献すべきである。そのような共通の目標に向かって共に仕事をすることが、サービスの相手方の満足度を保証するのみならず、教員と職員の自らの仕事に対する満足度も高めることにつながる。このようなことが、体質改善につながるのである。

法人化後の国立大学は、すぐには変わらないと思うが、厳しい風に向かえば、徐々に変化するであろうと思っている。アゲインストの風に胸を開き勇敢に立ち向かうことが出来れば、希望はある。身を硬くして縮こまってしまっては発展は無い。

(2) 内向けの仕事は最小限に、外向きの仕事を最大限に

例えば、内部組織をどのように変えていくかというようなことは、サービスの質の向上に役立つことならば結構であるが、多くは無駄な労力を費やしているのである。貴重な時間の多くが内なる事柄に費やされている現状を改め、常にサービスの対象者に(学生だけではなく、地域住民や企業、行政、各種団体なども含めて)視線を向けた仕事を最優先として最大限の努力を払うこと、これがまた体質改善に資することになるのである。

(3) すべての職員に責任と権限を与える

信州大学の事務局長のときには、大学教職員専用のホームページに局長専用のサイトを作ってもらって、ほぼ毎週、事務局長としての仕事の目標や仕事上の思い、時々の大学経営上の課題に対する考えなどを職員に伝えていた。あるとき新採用職員から反応が届いたのだが、その職員が訴えるには、「自分が所属する課が何を理想として仕事をする所かということについて、課長からも係長からも一度も話されたことがない。従って自分が何のために現在の仕事を与えられているのか理解できない。」というのだった。官僚主義的な対応をするなら、規則によって仕事は決まっているのだから、それに従っていればよいと言えばいいようなものだが、意欲のある若い職員にはそのようなことでは駄目である。その職員はたまたま、附属病院の医事課という、事務職員としては患者に最も近い所で仕事をする立場にあったのだが、そのような職場では、医師の医療行為とあいまって看護サービスと共に患者の満足度を高めるための、高い理想を掲げることが出来るはずであるし、そうでなければいけない。課長は率先してサービス高度化の理想を示すべきである。そういう理想の下で自分がどのような役割を与えられているかについて、職員に理解させなければならない。

このような意見を受けて、職員、特に部下を抱えているような職員は、それぞれに仕事上の目的・目標(ポリシーステートメント)を明確に示すように求めた。そのようなものを作るときには、作成者の個性が現れるようなものであってほしいと思う。法律や規則など既存の制度に則ったものであってはならない。それらを越えた所に理想というものがあるのではないか。すべての職員の意欲を引き出し、職場の満足感を得られるようにすることに幹部職員は常に意を用いることが大切である。とりわけ、若いカを引き出し、励まし、活躍の場を与えることが肝要である。

(4) 匿名性からの脱却

全ての職員に求められることでは必ずしもないと思うが、少なくとも職場の中心となるような職員は、あの人らしいと評価されるような個性のあらわれる仕事をして欲しいと思う。これは「組織に埋没しないこと」とも言える。

(5) 官僚主義に基づく重厚な組織から軽い組織へ

官僚主義は、どうしても重い組織を作る傾向にある。そこから脱却できるかどうか、重要な課題であると思う。法人化後の事務組織においては、事務局長や部長というポストは廃止することを提案している。学長の下に任務を分担する複数の理事が置かれることになるので、その分担ごとに理事を補佐する職員を配置する。場合によっては複数の課を置いても良い。理事の職務分担も、柔軟性が保障されるようにしておくことが必要である。同時に事務組織も臨機応変に動かせるようにしておかねばならない。例えば大きなプロジェクトを進めなければならないようなときには、そこに一時的に職員を配置できなければならない。「硬い組織から柔らかい組織へ」とも言えよう。

(6) 経営の責任と権限の共有

法人化後の国立大学の理事に就任するのは、外部から登用される人材以外は大学の教員であるが、事務職員も理事として経営の責任を担えるような道を作っておくことが必要である。同時に、これまでは教員が任命されている大学の内部組織(例えば留学生センターや情報処理センターなど実務的な組織)のトップにも、事務職員が就任できるようにしておくべきである。豊富な実務経験を有し、幹部職員としての資質を認められるような職員に、センター長などへの道を開いておくことは強いインセンティブになる。そもそも、教授としての本来の仕事に加えて、併任でやっているようなセンター長などは選挙で選ばれるので、必ずしも最適任者が選ばれるとは限らない。

これとはいささか異なる問題ではあるが、法人化までは霞ヶ関によって任命される職員によって占められていたポストに、大学プロパーの職員を充当してゆくことも人事政策上望ましいことであると考える。

(7) 情報の共有

現代のように激しく変化する環境の中で大学の経営に携わる我々は、常に敏感なアンテナを働かせていなければならない。とは言え、大きな大学では情報の共有にしばしば困難を感じる。経営の中枢で決定されたことが、末端にも伝わるようにすることは容易ではない。教授集団に加わってそのことを痛感している。評議会決定をホームページに公開することなどは、大学経営をオープンにする上で直ちに実行するべきことであるが、いまだに限られた事柄だけが文書で流れてくるに止まっている。このような状態(いわば動脈硬化)を改善することは緊急の課題である。

(8) 多様なステイクホールイダーヘの説明責任

私立大学でも同じであるが、現代の大学には、その教育や研究あるいは社会貢献、国際貢献に関して、利害や関心を有する多くの人々や組織が存在する。学生やその親達が関心を持つのは当然だが、企業や行政機関、一般の市民、あるいは外国の企業や組織も利害や関心を持つ。納税者が税金を使っている大学の運営に関心を持つことも当然のことである。「公共財」としての大学ということを強調したいが、その意味でも常にアカウンタブルな大学経営であることが求められている。

3 大学の固有文化の共有

それぞれの大学には、歴史と伝統があり、そこには伝説や神話と言えるようなものが存在する場合がある。過去に作られた伝説や神話のようなものは、大学の構成員の連帯感の醸成あるいは統合のシンボルとして強い作用を持つ。従って、過去のものだけでなく、新しい伝説や神話を作り上げることも、強い大学の文化を形成することにつながると思う。サクセス・ストーリーを作り上げることもそのひとつであろう。すぐれた研究成果をあげて世界的な賞を得る研究者を育てること、TLOが研究成果をうまく実用化して多大な利益を研究者と大学にもたらすことなどである。大学のヒーローを育てることとも言えるであろう。すなわち、自分の大学を誇りに思えるようなシンボルを共有すること、これが仕事の違いを超越して、教員と職員が協力するカの源になるのではないかと思う。

2008年5月7日水曜日

国立大学法人化の検証(1)

国立大学の法人化から早4年が経過し、いよいよ今年は中期目標期間の業績評価が行われます。また、来年度には平成22年度以降6年間の第2期中期目標・中期計画の策定を行わなければなりません。

先般、文部科学省は、今期中期計画期間中の業績評価の結果を次期中期計画期間における運営費交付金の算定に反映させることを明示しました。このこともあり、現在、各国立大学は、本年6月末までに提出しなければならない中期評価に係る実績報告書の作成に全力を注いでいるところです。

評価結果の資源配分への反映は、「護送船団方式から自主・自律へ」の法人化の趣旨から考えれば至極当然のことですし、各大学の努力の結果が国民の前に透明性をもってさらされることは、国の時代に比べれば格段の改善といってもよいのではないかと思います。

ただ、目先の評価結果を気にするあまり、国立大学本来の使命や役割が適切に達成されてきたのか、さらには、国立大学の法人化は果たして国益にかなったものだったのかといった法人化そのものの検証を忘れることがあってはならないのだろうと思います。

そこで、今日は、国立大学が法人化してちょうど半年経った平成16年10月に、当時の国立大学の現状と課題について、山梨大学の副学長をされていた伊藤洋氏が書かれた文章の一部(文部科学教育通信 No109 2004.10.11)をご紹介します。

法人化後の国立大学の現状と課題」と題されたこの文章に書かれた内容が、既に4年を経過した現在の国立大学に当てはまるようであれば(つまり、筆者が指摘されている「悪霊」が現在の国立大学に未だ棲んでいるのであれば)、国立大学の法人化は思惑どおりには機能してこなかったということになるのではないでしょうか。


いま、日本の国立大学キャンパスには3種頬の悪霊が跋扈している、と言われている。

「少子化」という名の悪霊

そのうちの筆頭に数えられるのは「少子化」という名の悪霊である。第2次ベビーブームが終わりを告げた1974年以降、18歳人口の減少は止まるところを知らず、2007年には高等教育進学希望者の数とそれを受け入れる高等教育機関の収容定員がバランスしてしまう。法人化後の国立大学にとっては、学費収入は所与の事実として算定され、その分だけ標準運営費交付金が予め減額されて支給される仕組みであるから、定員割れは組織の死命を制する危険をはらんでいる。それなのに、国家行政の末端機関として位置づけられていた国立大学時代には、定員割れは単なる文部行政による指導の範囲とだけ認識していたので、これを重大事と意識する文化は未だ学内に定着しているとは言い難い。このことは、後述の第2の悪霊とのかかわりで、内憂であり外患であって、「少子化」という名の悪霊は筆頭に位置されるべき堂々たる地位を占めている。わけても、大都市圏から遠く離れた地方国立大学法人は、後背地人口が急激に減少しているだけに、この悪霊にとって特に棲み易い環境を提供しているように思われる。

「貧困」という名の悪霊

少子化に勝るとも劣らない悪霊に、年次を追って減額されることが確実な法人収入があり、手をこまねいている限り間違いなくやってくる「貧困」という名の悪霊が棲み付いているのである。この悪霊は、国庫に取り付いた悪霊なのだから、国立大学が法人化されると否とに関らず襲ってくる魔物なのだが、これも自ら自己資金源を確保したり創出したりという経験や実績を持っていない国立大学法人構成員にとっては、状況は極めて深刻なのである。

地方分権のかかわりで、今「三位一体」の国庫補助負担金削減案が、巷では熱い議論を呼んでいる。これはひとり地方自治体だけの問題ではなく、国立大学法人も全く同じ状況に置かれているのである。独立法人化という「税源移譲」がなされ、裁量が大幅に自由化されて「分権化」されるかわりに、国庫補助ならぬ運営費交付金の配分に「効率化係数」という削減手法が適用されるという意味で、これもまた「三位一体」の行財政改革なのである。ここでもまた、大都市経済圏から遠く離れた地方国立大学法人では、移譲された「税源」ならぬ自己財源そのものを機能的に確立しがたく、この「貧困」という名の悪霊にとってもまたそこは棲み易い場所なのである。

改革意欲の無さと改革能力の不足

整理の都合上大急ぎで第3の悪霊も登場させておこう。第3の悪霊は、国立大学法人の構成員の心中に棲む改革意欲の無さと改革能力の不足というデーモンである。

平成16年3月30日、筆者の大学ではそれまで何度も開いてきた法人化全学説明会の最終回を開催した。大学本部から離れたキャンパスへはテレビ会議システムを使って、また本会場の収容力に限界もあるので、大講義室にもテレビ映像を配信して、万全の態勢で臨んだのである。しかし、学会開催シーズンでもあるこの時期のこと、広く確保した会場は空席ばかりが目立ち、主催者にとっては拍子抜けの風景が広がっていた。

会では、独法化後の法人組織体制、学則に変わる国立大学法人管理規定、中期計画、就業規則に、労働安全衛生規定等々、それまで議論し、各部局から寄せられてきた意見を集約してできた最終案について、長い時間をかけて各担当責任者から報告がなされたのである。そして、質疑応答に入った最初の発言者から出た質問は、「本学が国立大学法人化すると、私達は国家公務員でなくなるらしいと聞いたが本当なのか」というものであった。

「土壌」について薀蓄を傾けて講演をし、終わって最初の質問が「ドジョウドジョウというが、それは一体全体ゴマドジョウのことか、赤ドジョウのことか」と尋ねられたような拍子抜けの話である。もちろんこれが全てだとは言わないが、こういう意識の者も居るという笑えない話なのである。

そもそも、国立大学法人と言われる現在の法人化された国立大学は、かつての国家公務員によって組織されていた国立大学とは似て非なるものである。それにも拘らず、国立大学法人の構成員の多くは、定冠詞が替わった程度の認識でいるのではないだろうか。大幅な「自由裁量」という、耳に心地よいキャッチフレーズは、やがて「自己責任」という言葉によって難詰されることになるのであって、法人化された国立大学の構成員一人一人のマインドこそが問われているのである。このマインドの変革という難問こそがこの第3の悪霊の特性なのである。

現代の大学には、教育と研究に加えて社会貢献という3つ目のサービス機能が新たに要求されている。国立大学法人は、それらサービスアイテムを通じて国民の負託に十全に応えながら、かつ自立的に組織を維持発展させなくてはならない。そこでは、学長を頂点とする理事によって構成される役員会が、大学機能を存分に発揮させる環境の醸成に努めなければならない。そのためには、雲霞のごとくあった各種委員会活動のうち、不要なものは整理して構成員の負担を軽くする努力をしなくてはならない。また、反面そのことを権利剥奪と捕らえるのではない、意識改革をしておかなくてはならない。

社会の中に棲む悪霊

以上は、キャンパス内に巣食っている主だった悪霊の話であるが、悪霊の存在は必ずも学内ばかりとは限らない。社会の中にも棲んでいる。

その一つは、この国の人々は、未だに大学を学歴付与機関と認識し、ひとたび大学を卒業したら再び学生としては戻ってこない、一過性の機関と位置づけている。このことは、後述するように生涯学習としての社会人入学によるリピート学生を呼び込みたい大学にとっては不都合な認識である。他方、年功序列型の賃金体系は失われてきたといわれながら、だからといって高等教育機関で新たに取得した専門性を評価して、それを人事制度に反映させるというような社会的評価システムはまだ生まれていない。

また、企業や行政機関など学外の組織から、大学がもつ研究機能を十分に活用しようという機運も乏しい。産学官連携とか、社会貢献が叫ばれているが、大学の有する貢献機能を十分に活用する文化が社会に根づいているとは言い難い。地方大学から見ていると、大学の知的財産に旺盛な興味関心を寄せるのはごく一部の大企業のみであって、膨大な数の中小企業や零細企業から見ると、大学は未だ敷居の高いところと映っているのである。

悪霊撃退計画

以上、国立大学法人キャンパスの内と外に棲む悪霊についで概観した。どれをとっても、捕獲に難しく、彼らの生息条件にとって格好の環境が与えちれているだけに、放置しておけば増殖も容易である。大急ぎで撃退しなくてはいけないのだがそれが難しい。(以下略)

2008年5月3日土曜日

教育再生懇談会

去る4月17日(木)、第2回教育再生懇談会*1が開催されました。

配付資料は次のとおりです。


議事要旨が公表されていますので、高等教育関係の主な部分を抜粋します。
本文→http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku_kondan/kaisai/dai2/2gijiyousi.pdf

安西座長(慶応義塾長)

教育再生会議報告のフォローアップは、この懇談会の重要な任務の一つである。今後の取組や課題などについて、御意見をいただければと思う。

小川委員(東京大学大学院教育学研究科教授)

日本は子育ての家計の負担が重いという話を前回したが、日本は、国民の税負担も小さいから、公教育における私的負担が大きくなるのは当然という議論もある。確かに、公的教育費、私的教育費を総合すると北欧などの教育費のGDP比と差はない。

ただ、家計における教育費の私的負担は限界(例えば、大学進学率の停滞、等)にきており、階層間格差もでてきている。従来のように家計に大きく依存した教育支出の構造は限界にきているのではないか。

公的な支出と家計の支出以外に、日本の人材育成でもう1つ考えなければいけないのは、民間企業の企業内の教育訓練費、企業の研究開発投資である。バブル崩壊で日本のいわゆる長期雇用システムも崩壊して、外部から即戦力を採るというように雇用制度が変わる中で、企業の教育訓練経費は1990年代以降急激に落ちてきている。個々人が自分で能力開発をすれば良いではないかと言う意見もあるが、働いている人が大学に入ることなどは日本の教育費が大きいので難しい、安西座長が今日机上配布している資料の中でも諸外国に比べ大学の学生に占める社会人の割合が日本は極めて低いというデータが出ている。

私的な教育費が頭打ち、国の教育費が頭打ち、民間も頭打ちという中で、日本社会の教育費総額が縮小傾向に入っているという現状をどこかでブレークスルーしなければならない。

国がある程度きちっと出すべきところは出すというスタンスが必要。国の財政事情も厳しいということで、そうした論議を忌避するのではなく、例えば消費税を含めた税財政改革など見通しを含めた中で、日本の公教育支出の在り方、負担構造を少し考えていくべきではないか。

野依委員(独立行政法人理化学研究所理事長)

この間まで教育再生会議の座長を務めさせていただいた。長期的視点に立った教育投資の在り方については、委員の間で様々な意見があり、調整が難しかった。例えば、教育投資の抜本的な拡充についての積極的な意見もたくさんあったが、一方、壊れた器に水を注いでも無駄という意見もあった。私は、器は粉々に壊れているわけではないので、器を直すのと水を注ぐのを同時にうまくやっていく必要があるのではないかと思っている。

教育再生懇談会で、教育再生会議の報告を着実にフォローアップするということになったが、本日の資料を見ても提言が着実に実行されることになっていることをうれしく思う。

教育再生を着実に進めるためには、この懇談会が議論を開始したこの機会に改めて教育投資を議論すべき段階にきている。国民の目は社会保障に向いているが、社会保障は大切だがその費用はコストである。一方、教育、科学技術に係る費用は明日の社会を創るための投資であってコストではないと思う。投資なくては明日の日本を創ることはできないと思う。学校教育費に対する公財政支出の対GDP比は、OECDの平均5.0%に対して、我が国は3.5%、高等教育段階については、OECDの平均1.0%に対して、日本はわずか0.5%と甚だ貧弱な水準に甘んじている。

世界最高水準の教育拠点を整備し、国際競争力のある高等教育をするためには、教育に対する公財政支出を欧米先進国を上回る水準に引き上げることが急務である。

大学院教育を国家戦略と位置づけるべきであり、国内の人材流動化と国際化による優れた学生の確保、育成が大変重要である。そのためにも大学院生等が勉学に専念できるよう経済的支援が不可欠である。高等教育における1人あたりの公財政支出の割合41%というのは、OECD平均の76%より相当低い。私費負担59%というのは、OECD平均の24%より圧倒的に高い。これでは国際競争力を持ち得ないということは明白であると思う。

政府においては、教育の質の向上、内容の充実、抜本的な構造改革とセットで、重点分野に対する思い切った教育投資を実行に移していただくことが必要であると思う。社会総がかりという概念を打ち出しているが、財政についても社会総がかり、省庁総がかりでなくてはいけない。例えば、留学生30万人計画等についても、文教費だけで賄うのは難しい面があるので、ODA経費を充当する、また住居等の充実については、国土交通省の公共事業をもって充当する。文科省の中でやると、様々な重要事項の間でトレードオフの関係になり実現することは難しいと思うのでよろしくお願いしたい。

田村委員(学校法人渋谷教育学園理事長)

教育基本法改正の中身の中心は教育振興基本計画を作ることである。教育振興基本計画の形がほぼ見えてきた。教育振興基本計画の中身をきちっとここで議論してそれに応じた財政支援を工夫していただく必要がある。ひび割れた容れ物に水を注ぐと言われてしまうのもしょうがない部分も無いわけではないので、この会議では、ひび割れとはどういうひび割れなのか具体的に詰めて、必要性のあるところにきちんとした財政措置を手当てするような細かな議論をしていかないといけない。

私達の国では教育が唯一の夢である。夢は教育の分野しかない。教育が夢であることを実現できるような、拙速でないしっかりした議論を重ねて、ひび割れでないということを証明して、きちっとした財政計画をここで提案していければいいなと思う。ほぼ教育振興基本計画ができたこの時こそ大事なチャンスであると思うのでよろしくお願いしたい。

池田委員(株式会社資生堂相談役)

野依委員の発言に尽きると思う。フォローアップに際して必要な項目をチェックリストとしてまとめさせていただいているので、その実現に向けて教育再生懇談会で議論を深めさせていただければありがたい。これらの実現と予算は表裏一体であり、教育投資を考慮しない議論をしても絵に描いた餅になってしまう。教育予算を念頭に議論させていただく、そういう形で提言させていただければありがたい。教育に対する公的負担については、教育は国の根幹を担うものであるので、当然であると思う。教育に対する公的負担を他国と比較すると、OECDの調査を見てもわが国は下位にあり、そこを認識し、出発すべきである。公的負担をどういう按分にするかということをもう一度基本から議論させていただければと思う。

企業が高等教育機関から人材を受け入れてもなかなか即戦力にならないことが多かった。これまで大学側と企業側のコミュニケーションが良好ではなかった。ミスマッチがあったのではないかと思う。企業サイドからも反省の声が出ている。大学との連携を密にして、企業がどのような人材を求めているのか、大学側に発信し、それによって大学・大学院の教育の在り方も見直していただきたい。

教育振興基本計画も、より具体的に予算が伴う形でまとめていただければありがたい。

安西座長(慶応義塾長)

地方分権改革の問題、企業と大学の間の問題、幼児教育の問題等々いただいて、また予算の問題もここでは大事な課題になると認識している。教育投資の充実ということを教育振興基本計画にはっきり明記してうたわないかぎり、日本の教育の具体的な施策は動かないのではないかと危機感がある。

若月委員(東京都品川区教育委員会教育長)

教育投資について、教育振興基本計画の中にバジェットを担保する提言というのが後退している。基本計画を作られる時点で、省庁総がかりでやるべきなのに、省庁の間の様々な思惑が顔を出してこういう結果になってきているのかと勘ぐってしまった。

省庁総がかりで教育投資についてももう1回考え直していくという視点は、強くこの会議でもメッセージとして送っていく必要があると思う。

教育投資について、抽象論だけでなく、もっと具体的で現実的な夢といったものを発信してもいいのではないか。例えば、基本計画では5年間見ているわけだが、5年、10年ぐらいの視点を持って、この国をどうしていくのか、子供をどういう子供に育てていくのか、国民、市民としてどう育てていくのか。5年なら5年のスパンで具体的にこういう人間を育てていく必要があるという夢を語っていかないと、なかなか教育的なバジェットの担保は取りにくいのではないか。どの省でもこの国の将来をどう築いていくかという利害は一致していると思う。そのために具体的に夢、像を提言していっていいのではないか。

これから、国家として日本がこの社会を生き抜いていくためには、もっと人材を育てていくことが、多くの国民の夢を育てることになる。子供の数が少なくなったから教員の数を少なくしていくとかそういった些末なことで、財政が右にいったり左にいったりする状況は好ましいことではない。思い切った提言をしていく必要がある。

地方分権が進まないことも事実であり、小川委員が話された視点も必要だと思う。
教育再生会議や中央教育審議会でいろいろな提言がされているが、現場の教員は、相矛盾するベクトルのものがどんどん提言されていると受け止められているフシもある。

(福田内閣総理大臣入室)

安西座長(慶応義塾長)

本日は、第1回の会合での福田総理からの検討の御要請、委員の皆様の御意見を踏まえて、これからの教育の在り方について、議論をさせていただければと思う。

これまでのところ、教育再生会議報告の実施状況について報告があり、それについて御意見をいただいた。地方分権改革、特に県と市町村の関係、企業と大学の間の関係、幼児教育の問題、現場の教員がどう改革を受け止めているのか、これからの日本がどういう方向で教育を捉えていけばいいのかといった大きな御意見もあった。特に教育費の予算、教育振興基本計画が教育基本法の下で策定され実施されるという状況になっているが、そういう中で、教育投資の充実を図っていくべきであるという御意見も多々あったところである。ここまでのところをまとめて申し上げるとそういう状況である。
周知を徹底して行ってはいかがか。

安西座長(慶応義塾長)

財政論、投資論、支援環境論、制度論、やはり制度をしっかりしていかなくてはいけない。有害情報の問題も関係ある。そういったことを教育再生懇談会としては、しっかりやっていければと思っている。私も教育投資充実の緊急性についてという資料を配っているが、皆様の御意見と重なっている。

親には子供の教育への意欲はあるが、教育費負担の不安があって、子供を産むのも躊躇してしまうような状況で、所得格差と学力格差が比例してきている。国からの教育費のサポート額が先進諸国の中では少ないというデータもある。幼児教育から高等教育に至るまで投資充実ということが喫緊の課題である。

教育基本法に基づく、教育振興基本計画の策定と実施が、スケジュール的に迫って来ており、その計画の中に教育投資の充実ということを明記して盛り込むということは、皆さんの御意見を実現していくためにも極めて大事ではないかと思うので、この点は総理、官房長官、文部科学大臣にもよろしくお願いしたい。

渡海文部科学大臣

いろいろと御意見をいただきありがとうございます。早速やれそうなことも中にはあると思っている。

教育振興基本計画は、当初は3月末ぐらいにはと思っていたが、遅れているのはがんばっているからだと思っていただきたい。いずれにしても10年を見据えるわけだから、日本の教育がどういうものになろうとしているのかという姿をしっかりと描き出さなければいけない。

投資の充実については、書ける限り極力書きたいと思っているが、残念ながら今の政府の計画は基本的に投資目標を書かないようになっているので、これを書くのはなかなか難しい。教育振興基本計画ではやるんだとがんばってはいるが、投資と成果の関係というものがなかなか見えにくい部分があり、まず、こういう成果を目指すということをしっかりと書くことで、私としても責任を果たしていきたい。

皆様の今日の御意見も踏まえて、我々としては、できるだけ教育が充実していくようにやっていきたいと思っている。明日、中教審の答申をいただく予定である。

町村官房長官

教育振興基本計画は、いずれ福田総理の下で、最終的な閣議決定になっていく。確かに資料を見ると世界で日本だけが教育投資が減っている。日本は比較的お金をかけずにうまく良い教育をやっているんだと多くの人が漠然と思っている。

昨日、スウェーデンの首相と夕食会をやって、かの国の教育状況を聞いたが、教育には目をつぶってどんどんお金を出すと言っていた。確かに北欧の国は相当教育投資をして、その結果、大変優れた、もとはと言えばノーベル賞の国なのだと思った。高福祉高負担の国、高負担であり高教育投資の国なのだということも改めて実感した。これから国としてどういうように進んでいくのかということが問われる話である。

しかし、別途財政の大借金もあり、厳しく全部を押さえ込んでいる、唯一科学技術投資だけは増やすということになっているが。今後政府全体としてもどういうメリハリをつけながら、教育問題はどう扱うのか。せめて幼稚園だけは無償化したいと今日の話を聞きながら思ったりもしていたが、皆様のお力をいただきながら、しっかりとやっていきたい。


議事要旨は、このあとの福田内閣総理大臣の締めくくり発言で終わっています。

現場にいたわけではありませんので正確な状況はわかりませんが、議事要旨を読む限りでは、この国の教育問題の解決に心血を注ぐ有識者の皆さんが、教育に対する財政投資の重要性、必要性、緊急性などを中心に真摯な議論を行った後の福田総理の発言には個人的には落胆させられました。

内容は次のとおりですが、一国の総理として、この国をどのように導きたいのか、この国の子どもや若者達に何を期待し、そのために自分は何をどのようにやろうと覚悟しているのか、もう少し真剣に考え発言してほしかったというのが正直な感想です。あまりにも的外れなふがいない締めくくり発言だったような気がします。

福田内閣総理大臣

今日は大変興味深いお話をお伺いした。こども園もそうですし、携帯もそうですし、篠原委員の方から携帯を持つべきかどうかという話をしていたが、是非日曜日は携帯を買わないようにお嬢さんをがんばって説得して欲しい。

携帯って一体何のために必要なのかということを考えなければいけないと思う。携帯を持っても悪いことばかりで、良いことは地震とか何かあったときに連絡がつきやすいということぐらいかもしれない。もしそうであるならば、そういう時には携帯が無くてもどうしたらいいのかということを教えるのが本当ではないかと思う。

携帯のフィルタリングの普及という議論の前に、携帯を持つべきかどうかということを議論していただいた方が私はいいと思う。携帯を持つことによって、実際に会って話をすることが少なくなり、人間関係の形成にマイナスで、教育的に言ってもマイナス面が多いのではないかと思う。

悪いと知っていながらやっているのが日本の社会。例えば児童ポルノにしてもそう。メーカーにしてもほとんどはいいメーカーだと思うが、一部の悪いメーカーがあり、そういったことで児童ポルノも流通するということがある。日本はそういうことがあることを許す社会、日本の社会の甘いところだと思う。もう少し厳しい対応すべきだと思う。悪いことは悪いと言い、それをやめさせる社会でないと、良い社会というのはできないというように思う。

携帯も先ほど話があったが、連絡という目的であれば、通話機能だけで良いのではないか。ネットに接続できると悪い大人に利用されるだけなんですから。そのことを1つよろしく御検討願いたいなと思います。


*1:設置趣旨:活力ある日本、世界に貢献する日本を支えるのは人である。社会が大きく変化する時代にあって、明日の日本を担う若者を育てるためには、学校のみならず、家庭、地域、行政が一体となって、不断に教育の改革に取り組んでいく必要がある。このため、21世紀にふさわしい教育の在り方について議論するとともに、教育再生会議の提言のフォローアップを行うため、教育再生懇談会を開催する。

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