2008年5月7日水曜日

国立大学法人化の検証(1)

国立大学の法人化から早4年が経過し、いよいよ今年は中期目標期間の業績評価が行われます。また、来年度には平成22年度以降6年間の第2期中期目標・中期計画の策定を行わなければなりません。

先般、文部科学省は、今期中期計画期間中の業績評価の結果を次期中期計画期間における運営費交付金の算定に反映させることを明示しました。このこともあり、現在、各国立大学は、本年6月末までに提出しなければならない中期評価に係る実績報告書の作成に全力を注いでいるところです。

評価結果の資源配分への反映は、「護送船団方式から自主・自律へ」の法人化の趣旨から考えれば至極当然のことですし、各大学の努力の結果が国民の前に透明性をもってさらされることは、国の時代に比べれば格段の改善といってもよいのではないかと思います。

ただ、目先の評価結果を気にするあまり、国立大学本来の使命や役割が適切に達成されてきたのか、さらには、国立大学の法人化は果たして国益にかなったものだったのかといった法人化そのものの検証を忘れることがあってはならないのだろうと思います。

そこで、今日は、国立大学が法人化してちょうど半年経った平成16年10月に、当時の国立大学の現状と課題について、山梨大学の副学長をされていた伊藤洋氏が書かれた文章の一部(文部科学教育通信 No109 2004.10.11)をご紹介します。

法人化後の国立大学の現状と課題」と題されたこの文章に書かれた内容が、既に4年を経過した現在の国立大学に当てはまるようであれば(つまり、筆者が指摘されている「悪霊」が現在の国立大学に未だ棲んでいるのであれば)、国立大学の法人化は思惑どおりには機能してこなかったということになるのではないでしょうか。


いま、日本の国立大学キャンパスには3種頬の悪霊が跋扈している、と言われている。

「少子化」という名の悪霊

そのうちの筆頭に数えられるのは「少子化」という名の悪霊である。第2次ベビーブームが終わりを告げた1974年以降、18歳人口の減少は止まるところを知らず、2007年には高等教育進学希望者の数とそれを受け入れる高等教育機関の収容定員がバランスしてしまう。法人化後の国立大学にとっては、学費収入は所与の事実として算定され、その分だけ標準運営費交付金が予め減額されて支給される仕組みであるから、定員割れは組織の死命を制する危険をはらんでいる。それなのに、国家行政の末端機関として位置づけられていた国立大学時代には、定員割れは単なる文部行政による指導の範囲とだけ認識していたので、これを重大事と意識する文化は未だ学内に定着しているとは言い難い。このことは、後述の第2の悪霊とのかかわりで、内憂であり外患であって、「少子化」という名の悪霊は筆頭に位置されるべき堂々たる地位を占めている。わけても、大都市圏から遠く離れた地方国立大学法人は、後背地人口が急激に減少しているだけに、この悪霊にとって特に棲み易い環境を提供しているように思われる。

「貧困」という名の悪霊

少子化に勝るとも劣らない悪霊に、年次を追って減額されることが確実な法人収入があり、手をこまねいている限り間違いなくやってくる「貧困」という名の悪霊が棲み付いているのである。この悪霊は、国庫に取り付いた悪霊なのだから、国立大学が法人化されると否とに関らず襲ってくる魔物なのだが、これも自ら自己資金源を確保したり創出したりという経験や実績を持っていない国立大学法人構成員にとっては、状況は極めて深刻なのである。

地方分権のかかわりで、今「三位一体」の国庫補助負担金削減案が、巷では熱い議論を呼んでいる。これはひとり地方自治体だけの問題ではなく、国立大学法人も全く同じ状況に置かれているのである。独立法人化という「税源移譲」がなされ、裁量が大幅に自由化されて「分権化」されるかわりに、国庫補助ならぬ運営費交付金の配分に「効率化係数」という削減手法が適用されるという意味で、これもまた「三位一体」の行財政改革なのである。ここでもまた、大都市経済圏から遠く離れた地方国立大学法人では、移譲された「税源」ならぬ自己財源そのものを機能的に確立しがたく、この「貧困」という名の悪霊にとってもまたそこは棲み易い場所なのである。

改革意欲の無さと改革能力の不足

整理の都合上大急ぎで第3の悪霊も登場させておこう。第3の悪霊は、国立大学法人の構成員の心中に棲む改革意欲の無さと改革能力の不足というデーモンである。

平成16年3月30日、筆者の大学ではそれまで何度も開いてきた法人化全学説明会の最終回を開催した。大学本部から離れたキャンパスへはテレビ会議システムを使って、また本会場の収容力に限界もあるので、大講義室にもテレビ映像を配信して、万全の態勢で臨んだのである。しかし、学会開催シーズンでもあるこの時期のこと、広く確保した会場は空席ばかりが目立ち、主催者にとっては拍子抜けの風景が広がっていた。

会では、独法化後の法人組織体制、学則に変わる国立大学法人管理規定、中期計画、就業規則に、労働安全衛生規定等々、それまで議論し、各部局から寄せられてきた意見を集約してできた最終案について、長い時間をかけて各担当責任者から報告がなされたのである。そして、質疑応答に入った最初の発言者から出た質問は、「本学が国立大学法人化すると、私達は国家公務員でなくなるらしいと聞いたが本当なのか」というものであった。

「土壌」について薀蓄を傾けて講演をし、終わって最初の質問が「ドジョウドジョウというが、それは一体全体ゴマドジョウのことか、赤ドジョウのことか」と尋ねられたような拍子抜けの話である。もちろんこれが全てだとは言わないが、こういう意識の者も居るという笑えない話なのである。

そもそも、国立大学法人と言われる現在の法人化された国立大学は、かつての国家公務員によって組織されていた国立大学とは似て非なるものである。それにも拘らず、国立大学法人の構成員の多くは、定冠詞が替わった程度の認識でいるのではないだろうか。大幅な「自由裁量」という、耳に心地よいキャッチフレーズは、やがて「自己責任」という言葉によって難詰されることになるのであって、法人化された国立大学の構成員一人一人のマインドこそが問われているのである。このマインドの変革という難問こそがこの第3の悪霊の特性なのである。

現代の大学には、教育と研究に加えて社会貢献という3つ目のサービス機能が新たに要求されている。国立大学法人は、それらサービスアイテムを通じて国民の負託に十全に応えながら、かつ自立的に組織を維持発展させなくてはならない。そこでは、学長を頂点とする理事によって構成される役員会が、大学機能を存分に発揮させる環境の醸成に努めなければならない。そのためには、雲霞のごとくあった各種委員会活動のうち、不要なものは整理して構成員の負担を軽くする努力をしなくてはならない。また、反面そのことを権利剥奪と捕らえるのではない、意識改革をしておかなくてはならない。

社会の中に棲む悪霊

以上は、キャンパス内に巣食っている主だった悪霊の話であるが、悪霊の存在は必ずも学内ばかりとは限らない。社会の中にも棲んでいる。

その一つは、この国の人々は、未だに大学を学歴付与機関と認識し、ひとたび大学を卒業したら再び学生としては戻ってこない、一過性の機関と位置づけている。このことは、後述するように生涯学習としての社会人入学によるリピート学生を呼び込みたい大学にとっては不都合な認識である。他方、年功序列型の賃金体系は失われてきたといわれながら、だからといって高等教育機関で新たに取得した専門性を評価して、それを人事制度に反映させるというような社会的評価システムはまだ生まれていない。

また、企業や行政機関など学外の組織から、大学がもつ研究機能を十分に活用しようという機運も乏しい。産学官連携とか、社会貢献が叫ばれているが、大学の有する貢献機能を十分に活用する文化が社会に根づいているとは言い難い。地方大学から見ていると、大学の知的財産に旺盛な興味関心を寄せるのはごく一部の大企業のみであって、膨大な数の中小企業や零細企業から見ると、大学は未だ敷居の高いところと映っているのである。

悪霊撃退計画

以上、国立大学法人キャンパスの内と外に棲む悪霊についで概観した。どれをとっても、捕獲に難しく、彼らの生息条件にとって格好の環境が与えちれているだけに、放置しておけば増殖も容易である。大急ぎで撃退しなくてはいけないのだがそれが難しい。(以下略)