2008年5月11日日曜日

FD : Faculty Development

「教員の授業内容や教育方法などの改善・向上を目的とした組織的な取組み」である「ファカルティ・ディベロップメント(FD)」については、去る3月25日に中央教育審議会大学分科会制度・教育部会によって取りまとめられた「学士課程教育の構築に向けて(審議のまとめ)」において、教職員の職能開発の重要性、特にFDの実質化に関する現状と課題について、かなりの紙面を割き言及されているところです。

内容は、当日記「教職員の職能開発」をご覧ください。

FDについては、これまで、中央教育育審議会の答申に基づき、平成11年に各大学がFDを実施することに関する努力義務が定められ、その後、平成19年度から大学院に関して、そして、平成20年度からは新たに学士課程でも実施が義務化されました。

また、平成18年12月に成立した教育基本法では、教員に関する条文の中で、教員は「絶えず研究と修養に励み、」職責を遂行しなければならないこと、そして、「養成と研修の充実が図られなければならないこと」が新たに規定されるなど、FD活動の重要性はますます高まるばかりです。

制度面の整備と相まって、様々な工夫を伴った積極的な活動が展開されるようになりました。例えば、山形大学が中心となった次のような取り組みです。


教員の質向上へ大学連携 山形大など FDネットを結成 (2008年3月28日 河北新報)

教員の能力開発を目指し、山形大が設立を呼び掛けてきた大学間の連携組織「FDネットワークつばさ」が28日、結成された。東日本地域の大学、短大、高等専門学校の計34校が参加。協力して教育方法の改善に取り組む。

FDはファカルティー・デベロップメント(教員の資質向上)の略。山形大は2004年、山形県内の他の大学、短大とともに「地域ネットワークFD樹氷」を結成、FD推進に力を入れてきた。ノウハウを生かすため、連携の輪を東日本地域に広げることにした。

参加校の内訳は、東北が秋田を除いた5県の18校、北海道が4校、関東が12校。山形大に事務局を置き、各校のFD担当者からなるFD協議会が中心になって運営する。共通フォーマットを使った学生による授業評価、他の教官が授業を見学して意見交換する公開授業などを行う予定。

山形市内のホテルで行われた結成記念式典には、約40人が出席。山形大の結城章夫学長が「FDはすべての高等教育機関共通の課題。各機関が知恵や経験を出し合って充実させていくことが大事だ」とあいさつ。文科省高等教育政策室長の鈴木敏之氏が「学士課程教育の改革とFD」と題して講演した。

東北からの参加校は次の通り。

▽青森 県立保健大、青森公立大、青森中央短大▽岩手 一関高専▽宮城仙台大、東北生活文化大、東北薬科大▽山形 山形大、県立保健医療大、東北芸術工科大、米沢女短大、羽陽学園短大、山形短大、鶴岡高専▽福島会津大、会津大短大部、いわき短大、桜の聖母短大


授業改善アンケートなど議論 FDネットワーク第1回協議会 (2008年4月22日)

東日本地域の大学など高等教育機関が連携し、教員の資質向上を図る組織「FDネットワーク“つばさ”」の第1回FD協議会が22日、山形市の山形大小白川キャンパスで開かれた。 26校から約50人の担当者が出席し、協議会要項や授業改善アンケートなどについて議論した。

この日は、中島勇喜副学長のあいさつに続き、事務局となる山形大の担当者がこれまでのFD活動の成果や今後の課題について説明した。議事では、事務局から協議会要項が提案されたほか、シンポジウムや公開授業などの事業計画について意見を交わした。また、学生に対する授業改善アンケートは共通形式とし、後日、各機関が必要枚数を申し出ることにした。

FDは、教員の授業内容や教育方法などの改善、向上を目的にした組織的な取り組み。文部科学省の大学設置基準の改正で、大学の学士課程のFDが義務化されたこともあり、今年3月に同ネットワークが発足した。現在、東日本地域の35校が参加している。各校のFD担当者で構成する協議会は、今後の具体的な活動方針などを話し合う場として設置した。


FD活動は、実際には、授業内容や教育方法などの改善・向上を図るための『教員の職能開発』を意味するものと考えられますが、その積極的な推進を図る前提として、大学における「教員の役割」そのものが、従来のものとは大きく変化していること、したがって、今後の「あるべき教員の姿」というものを十分認識した上で、FDの実質化を実現する必要があるのではないかと思います。

関連して、この日記ではおなじみになりました、広島大学高等教育研究開発センター長の山本眞一氏が書かれた「義務化されたFD-改めて大学教員の役割を考える」(2008-4-28 文部科学教育通信 No194)をご紹介します。


努力義務から実施義務へ

今年4月から、先行する大学院段階を追って、学士課程段階においても大学教員の能力開発すなわちファカルティー・ディベロップメント(FD)の実施が義務化された。

これは昨年改正の大学設置基準の「教育内容等の改善のための組織的な研修等」に関する条文において、従来は「大学は、当該大学の授業の内容及び方法の改善を図るための組織的な研修及び研究の実施に努めなければならない」と努力義務に留まる規定であったのを、「組織的な研修及び研究を実施するものとする」(改正後の第25条の3)と改められて、これを大学に義務付ける形になったからである。

もっとも義務化と言っても、これはFDの実施義務を大学という組織全体に課したものであり、個別の教員に研修の義務を課しているものではないことに注意する必要がある。

思えば、1990年代の初め頃にこのFDという用語が登場した時には「FDとはフロッピー・ディスクですか?」という質問をよく受けたものだが、十数年経った今では「フロッピー・ディスクって何ですか?」(つまりこのディスクが読めないパソコンが増えた)と言われるほど世の中が変わった。まさに大学を巡る状況の変化そのものを代表するような現象であり、まことに感慨深い。FDはいまやすっかり市民権を得たかの感がある。

ところで、このFDを「教授団の能力開発」とわざわざ「団」という言葉を補って理解する向きがあるが、ここでは「教員の能力開発」と素直に翻訳するのが自然であろう。おそらくそれには多くの辞書にある「ファカルティ=学部」という組織を意識した解釈が影響しているものと思われるが、実際には米国において、ファカルティーという言葉は大学教員、とくに学部教育と研究を担当し、テニュアを持っているか将来テニュアが取れそうな位置にある専任教員のことを指すことが多い。「faculties=教員たち」という複数形もしばしば登場するから、我々も米国の大学のことを調べるときは、ファカルティーは組織ではなく教員という人を指す言葉であることに注意する必要がある。

より実践的・効果的なFDへ

さて、このFDによって義務化されたのは、大学設置基準にもあるような「当該大学の授業の内容及び方法の改善を図るための組織的な研修及び研究」である。文科省の調べによると、2005年度には全大学の約8割でFDが実施されているそうだが、その多くが講演会の開催や研修会、授業内容の検討会など座学中心であることが問題視されている。中教審答申に付属する用語解説では、「教員相互の授業参観の実施、授業方法についての研究会の開催、新任教員のための研修会の開催など」(2005年の将来像答申)とあることから、より実践的、効果的なFDの実施が求められるようになるだろう。

そこでこの際、我々はこの義務化されたFDをどのように考えるかという点について高等教育研究・開発の立場から2、3指摘しておきたい。第1に、当然のことではあるが、FDは制度化されたから実施する、つまり実施自体が目的では決してないということである。もちろん結果としては実施されないと困るのであるが目的と手段との逆転は教育界とくに精緻な制度化が進む初等中等教育ではしばしば起こっていることであり、我々高等教育関係者は注意してこれを避ける必要がある。

然らばFDの目的は何か。それはこの活動を通じて大学の教育を良くし、ひいては大学の社会的責任をより適切に果たすために行うものなのである。この点から考えると、FDの実施そのものを目的とすることが適切でないことはもちろん、FDの議論でしばしばみられる細かな専門的技術用語にとらわれすぎるのも良くない。その用語が意味するものを追い求めるあまり、木を見て森を見ずの結果に終わる恐れが大きくなるからである。

我々はあくまでも「大学教育をより良いものにする」という大目標を追求すべきなのである。

大学教育の実質化とFD

第2に、FD活動は大学教育を「実質化」するためにも必要なことである。ここで言う大学教育の実質化というのは、学士課程であれ修士課程、博士課程であれ、その課程修了という学歴にふさわしい中身のある教育成果を上げることである。しばしば言われ、そして私もこの連載を含めて何度も主張してきたことは、わが国の大学は入試を通じて学生の潜在能力を発見あるいは選別することには得意であったが、学生にその卒業証書あるいは学位にふさわしい実力を身につけされることには不慣れであった、ということである。

しかし、産業・就業構造の変化によって、在来からの大学教育の実態には厳しい目が向けられるようになってきた。わが国の大学教育の質を世の中に認めさせ、また国際的にも信用あるものとして学生や関係者に保証するためには、形式と実質、つまり学位と習得内容とを一致させるようにしなければならない。FD活動はこのための重要な手段としても位置付けられるだろう。

第3に、これからの大学教員の在り方とFDは深く関わるということである。このたびのFDの制度化は、教員個人に対する義務を課すわけではないが、しかし個々の大学教員が教育に無関心であることを放置するものでは決してない。

大学教員は研究者か教師かという議論は昔からあったし、またその両立が求められるのが今日の状況だが、研究者としての側面は、大学教員の本質からしておのずから各自が努力してがんばる可能性が高い。

しかし、教育を未だに「負担」としてとらえがちな雰囲気の中で、しかも教員の人事評価では優先度の低い教育活動には、大学として、あるいは教員個人として強く意識をし、またそれなりの措置をしなければ、よき教師を養成・確保することは難しい。しかも18歳人口の減少や高等教育のグローバル化時代を迎えて、結局のところ大学を経営面から支えるのは、「良き教育」の存在なのである。

大学として教育課程への責任を

第4に、FDによって追求すべきものは、個々の教員の能力開発だけではなく、当該大学の組織としての教育力の強化である。不思議なことに、とくに文系ではいまだに授業科目の開設は個々の教員の義務であると同時に「権利」と考えられているふしがある。授業負担の大きさに不満を述べる一方で、受講生が少ない授業科目を大学が整理しようとすると途端に抵抗を示すのもその教員なのである。同一科目を複数の教員が担当し、試験を共通にするということが理系では広く行われているようだが、文系ではまだまだのようである。

しかし大学の教育課程は大学が組織として学生に約束した教育内容のセットである。個々の教員が勝手に学生を扱ってよいはずがない。

研究活動については教員の大幅な自主性を認めるべきだが、教育活動については個々の教員の創意工夫とともに、大学としてのポリシーを立て、組織的な展開をしなければならないことに、我々は改めて着目すべきではないだろうか。

折しも去る3月25日、中教審では「学士課程教育の構築に向けて」という大学分科会制度・教育部会の審議のまとめが公表された。

読者の皆さんはこれを熟読されて、今後のFDや大学教員の役割についてさらに考えてもらいたいものである。