2008年11月6日木曜日

社会から見た国立大学(1)

「法人化後の国立大学運営における外部人材活用方策に関する調査研究プロジェクト」(研究代表者:立命館副総長・国立大学マネジメント研究会会長 本間政雄氏)により「国立大学法人における外部人材の活用方策に関する調査研究報告書」が公表されたことは、この日記でも既にご紹介いたしました。

外部人材の活用(1)http://daisala.blogspot.jp/2008/09/blog-post_4061.html
外部人材の活用(2)http://daisala.blogspot.jp/2008/09/blog-post_1968.html

昨年度に続くこの報告書は、全国の有識者を集め開催した複数回の座談会の様子を中心に編集されています。今回から数回に分けて、この座談会(有識者の発言)を通じて明らかになった国立大学の課題や問題点のポイントをお伝えしていきたいと思います。


大学の体質の問題
  • 組織の在り方については、制度的にも依然として国立時代の名残りが残っている。その一つが教特法(教育公務員特例法)の影響。役員会で最終意思決定されても、なかなか大学に趣旨が十分浸透していない、かつ実行されていない。どこで止まっているかというと学部で止まる。学部の自治という大きな壁がある。もう一つは学部長の任命。学校教育法なり教特法の流れから、教授会の推薦で学部長を決めることになっているが、現実的には、選出された学部長の基本的なスタンスは、7、8割以上は学部の側に立っている。基本的にあらゆるものが、そういったところでぶつかり合うという傾向が非常に強い。大学の自治というのは、学問の自由の確保だと思うので、そういった意味では教授の選任は教授会任せでいいと思うが、少なくとも法人経営上、重要な管理職である学部長は、実質的に学長が任命すべき。

  • 一番やりやすい改革が一番やりにくいのが大学。一番やりやすい改革というのは、自分達で決めた規則を変えること。自分達で決めたのだから自分達で変えれば済む。一番やりやすいことが一番やりにくい。絶対変えない。そして比較的やりにくい外部の人を説得するほうをやる。本末転倒もいいところで、自分のところをきちっとやってから、他人に当たらなければいけないのを、まず他を変えてしまおうと。そして自分達のものはなるべくいじらない。この姿勢が強すぎる。

  • 仕事を進めていくときに、「これは誰が言っているのか」、「あれはどうなってるんだ」と言う人がいない。理事の責任体制、権限の問題ともつながるが、「この仕事は幹部の誰が担当しているのか」と言うと誰も答えられない。だからいろんなアイデア、プロジェクトが出てきて、さあ具体化しようとしても、あとは砂に撒いた水のようにスーツと消えてなくなってしまう。せっかくワーキンググループでいい案ができて、あれはどうしたのかと言うと、「あれわかんない、どこ行ったんでしょう」と。副学長まで上げたつもりなんだけど、「あれ、それは聞いてない」とか。そういうものが多い。組織の体をなしていない。報告書が出て、これをするということが役員会で決まれば、その場で必ず担当の理事と事務局を確認しなければ、もう砂にしみこんで消えて、空中に浮いたまま。

  • 適切な人が学長に選ばれているかと問われれば、答えはノー。どうして学長が選ばれるかというと、まだ昔のような学部間での順番制とかが依然残っている。そして教員の意識も変わっていないから、昔の学長を選ぶつもりで人気投票化してしまっている。中期計画が大切なものであるにもかかわらず、中期計画の途中で学長が代わってしまうと、新しい学長にとってみたら、この中期計画は「私が作ったものではない」との感覚で取り扱われる危険がある。

  • 予算の配分は全て平等という「悪しき平等」が残っている。結果的に末端に行くと小さいお金になってしまい結果的に何も前に進まないし、いい仕事ができない。きちんと財源の配分の中で、今年はお前のところはがまんしろ、第1順位のこれをまずやるということが、なかなかうまくいっていない。

  • 学長は非常によくやっているのだけれども、理事長としてどういう将来展望を持ってどういうことをどのようにやる、その風土をどうやって作っていくという点ではあまり中身がないのではないか。それは理事にも言える。船で例えた場合、どっちの方向にどういうスピードで行っているのか、場合によっては座礁が出てくるかもしれない。そういうのをもう少し危機意識をもってやっていくべき。

教職員の経営上の問題意識の希薄さ、教職員の改革意識を高めるために
  • 教職員には、大学が実は何のために法人化して、大学というのはこれからどうなるかという意識が全くない。だから100年間同じ仕事をしても良いのだと思い込んでいる人達の集団であるというのが一番の問題。今10時間でできるところを5時間にしたらそれでいいじゃない、楽になるじゃないと言ったら、そんなことを信じる人間は誰もいない。5時間になったら、あと5時間、別の仕事をさせられると思っている。今10時間やっているからもう嫌だという心理だけしかない。

  • 効率化係数はあと1ポイント大きくして、2パーセントにすべき。要は、締め上げたら動かざるを得なくなる。それで初めて危機感が出てきて何かやる。あとの1パーセントは、文科省として、大型の大学改革助成金だとかへ回してほしい。要は早く音を上げるようにしてほしい。

  • 日本の大学は日本の大学しか考えていない。つまり葦の穴から天を覗いている状態。世界を見てみると、欧米の大学というのはグローバル化に伴って、学生の流動化と教員の流動化、そして産業との結びつきだとか、ものすごい勢いで変わっている。それなのにこのまま日本の大学がこんなことをやっていると、有為な人材は全部外へ行く。もしくは外の大学が入ってきて、日本の学生をさらっていく。そのことをなぜ日本の大学人は気がつかないのか。今の文科省の進め方は生ぬるい。このまま行ったら生き残れる大学は半分ぐらいになってしまう。

  • 一番悪いのは教員と職員の間の身分制度。これが強すぎる。つまり教員が、正直言って100パーセント「俺達(教員)のためにお前達(職員)はいる」と考えている。全てにおいて「お前ら俺の言うことを聞けないのか」と。職員はこういうふうな教員にずっと押さえつけられてきた。

  • 事務局職員は、あまりにも勉強をしない。法人化を機に人事制度を再構築するときに、教員との意見交換を頻繁にやったが、「彼らはあまりにもやる気がない。無能というよりも、何か新しいことを頼むと『できません。わかりません。無理です』という答えばかりで、考えようとも勉強しようともしてくれない」と言う。例えば、大学の教育、研究現場では国際化、情報化が急速に進展している。教員はそれなりに必死に勉強して、こういう変化に何とか対応しよう、追いつこうとするが、現場の職員は、そういう厄介な仕事を教員に押し付けて、平気な人達があまりにも多い。表面上は、教員を立てているよう顔をしているが、実際はそれで楽をしていればいいという面が相当ある。だから教員の意識と、職員のそもそも努力をしない姿勢、それぞれの相乗だと。長い間のそういうことの積み重ねが、言われるような身分制とか、意識の格差につながったというような一面もある。

  • 教員と職員が協働しコラボレートしないとダメだ。特に学外資金の導入などに関して、教員はアイデアを持っており方向付けができるかもしれないが、それを継続できるのはやはり職員の力。職員が研究や教育に対してコラボレーションしていく、そういう資質を高めていくことが必要。職員は今以上に学習を高めることが何よりも必要であり、職員の向上がなければ絶対に大学は変わらない。

  • 教員の自分達の評価に関する議論を聞いていて、時間の無駄だと思うのは、なんとかウエイトづけして、100点満点にしょうとしている点。ある教員には教育が全てであって、研究はどうでもいいかもしれない。ある教員にとっては研究が全てで、教育は小さいかもしれない。同じようなスケールで、それは何点がいいとか、そういうふうな議論ばかりをやっている。例えば、教育のところで、学生に教えて学生の評価はどうだとか、同僚から見てどういうふに思うかということはきちんと評価をつける、そこまでで点数をつける評価は十分であり、それを基にして点数で総合評価を作る、作らないというのは問題外。すべて見える化をしなさい、見えるようにした上で一つひとつの問題が議論できるような仕組みを作ればよいのではないか、その議論の過程から、その組織に合ったやり方を探していけばいいのではないか。それをしないで隠して、何もしないのが良いのだという考え方については大反対。

中期計画は文科省向け
  • 中期計画がどれだけ学内に浸透しているかということは非常に大事なこと。ところがそれが全然わからない。中期計画は、文科省向けであって、改革を進める学内向けのものではない。文章は素晴らしく、大学の教員は頭が全然違うなと思うのだが、それがどれほど一職員まで浸透しているのか。民間の頃の経験話を職員にしたことがあるが、その時、皆下を向いて何の質問もなかった。がっかりした。

  • 企業では、改革のための計画書といえば、当然社員が読み、一同で共有するもの。しかし、中期計画は文科省提出用。経営協議会で審議すべきものは改革計画の内容であって、提出用の書類ではないはず。「検討する」とか「努力する」とか「必要に応じて」とか、具体性をぼかしている。文科省のチェックをどうクリアするかが重要な文章である。重要な戦略から電気代の節約まで内容がごちゃ混ぜ。数ページくらいの簡潔で学内の行動規範となるようなもの、これこそ経営協議会で審議すべきではないか。

  • 法人化の一番大きな目標は、第1期6ヵ年計画でどこに行くんだということ。いろいろな難題もあるし痛みも伴う。自己の将来像はどうなんだ。そこに学長がリーダーシップを発揮して組織を持っていく、これが一番大切なことだけど、今の中期計画というのはそういう目的からいうと、全くはっきりしない代物。それがどれだけの効果、成果を生むのかと。それが世間にどれだけアピールするかということになると僕は結果についてはあまり確信がない。

  • 運営は毎日毎日一所懸命やっているが、運営を束ねる経営がない。重要会議に出るたびに感じるのは、本当に全くと言っていいくらい経営は必要としていない。運営は必要としているけれども、経営を必要としていない組織体というのは行く末がわからない。この際、文科省も含めて少なくとも次の6ヵ年計画では、一体全体法人化に経営が必要なのか必要でないのか、もう一度仕切り直すべき。国民の期待に応えられるような日本の教育を抜本から見直して力が出てくるような中期計画を第2期6ヵ年計画でやりましょうと。そのためには経営がやはり必要でしょうと。経営が必要であるためにはトップの意識をはじめ、風土、カルチャーがどのように変わらないといけませんよと。そういうのを適当にないがしろにしておいて、結果だけ「やった。やった。やりました」ということはあまり意味がない。それは本当に大変な時間のロスではないか。

  • 法人化という視点に軸足をおいた場合、大学全体がどんな格好でどういうスピード感で、どういう政策の連携をもって、どういう具合に風土・カルチャーを変えながら前進しているか、そこが一番大きな問題。そこをもう少し煮詰めていくといろいろと具体的な問題が出てくる。経営協議会や全ての重要会議を見ているとそういう色合いは薄い。本質が何であるかということを組織としてあまり理解していないし、認識していない。「文科省が言っている中期計画さえちゃんとうまくやれば俺のところは問題ないだろう。5段階評価の4は十分いくだろうな」と。それはそれでいいのだけれども、ちょっとさびしいんじゃないか。

  • 中期計画をやっているけれども、どの方向でどういうスピードで行ってどういう最終成果がもたらされるか明確ではない。今、国立大学法人はいろいろ乗り越えなければいけない問題があるにもかかわらず、そういったことに真正面からスポットライトをあてることをせずに、身内社会の間で何とかやっていこうとしている。改革に値するものはほとんどない。将来像というのが見えてこない。次の6ヵ年計画で将来像を明確にして、それに向かってどういう資源をどのように使ってどういう協力をして、タイムスケジュール的にこういう具合にやっていくんだということがない中期計画では、それをやったあとである種のむなしさだけが漂うだけ。

外部人材は活用されているか、経営協議会は機能しているか、経営協議会を実質化するために何が必要か
  • 外部人材が機能していない理由は、大学側の問題だけではなく外部人材の側にも課題がある。企業出身者が、国立大学の非効率性や意思決定の遅さ、中途半端さにあきれて、二言目には「企業ではこうなっている」ということを言うが、これでは大学の方は反発するだけ。教授会が保守勢力として根を張っているという現状を踏まえた上で、同じレベルに下りてきて根気良く説得することも必要だし、もう少し賢くやらなくてはいけない面もある。

  • 国立大学法人制度の設計に当たっては、「大学の自治と、巨額の運営費交付金を税金から投入されることからくる責任・コントロールとどう調和させるか」、あるいは、「教授会を通じて表現される教育・研究の担い手である教員の意思と、教学と経営の責任者である学長のリーダーシップをどう調和させるか」といった点をめぐって、大学の自律性、自主性と政府のコントロール、規制との関係が揺れ動いた。中期目標の文部科学大臣による「策定」と、中期計画の「認可」「修正」権限などを見ると、大学の自治と政府の規制を奇妙な形で妥協させた産物であることがわかるし、財政に関しても、渡し切りの交付金と言いながら、実は剰余金の認定や運用には国による制限がかかっている。企業から来た人が、なぜこんな簡単なことができないのか、と不満を募らせる理由の一つに、国立大学の責任ではないこうしたシステムの硬直性がある。

  • 経営協議会は「ご意見拝聴の場」「外部の方の意見は聞きました」というアリバイに化してしまっている。学外委員の提言や苦言というものがどういう形にせよ学内的に積極的に消化されなければならない。しかし、役員会や教育研究評議会にフィードバックされて、次の経営協議会にそれが返ってくるということはほとんどない。前回議論したことの問題点の所在と解決の方向性がきちんと経営協議会に報告されるようになれば、緊張感が参加者の達成感にまで引き上がってくる。貴重な時間と人件費を使って参加するのだから、それだけの努力をすべきではないか。そういった意味で、学長の人選の在り方は大変重要。

  • やたら偉い人が委員をやっている。大所高所からの意見も大切だが、よくある形式的な審議会になってはいけない。実質的な審議が経営委協議会には必要。いろいろな説明、回答は大体大学の課長が行うが、こんなことは会社だったらあり得ない。取締役は何をしているのかと怒られる。事務局長の立場が弱い。事務局長というのは組織上どうなっているのかわからないが、私のいる間に4人も代わった。こんなことは会社ではあり得ない。事務局長が、少なくとも事務のことは責任を持って説明するぐらいでなければならない。

  • 大学側は何か指摘をされると指摘に対して弁解をする。私が学長を経験した時、教員に、運営諮問会議において会議の方々が言われたことに対する弁解を禁じた。「全て意見だけを聞いて、ファイルを作って、その中で自分達の大学でどれをどうするかを決めろ」と。弁解ばかりを並べると最後には外部の人は物を言わなくなる。

  • 大学というのはクレーマー(クレームをつける人)がいない。会社であれば、当然取引先の企業からのクレームが、あるいは商売をやっていればお客さんからのクレームがある。大学の最大のお客様は学生だけれども、今の学生は何も文句を言わない。外部の人も大学に対してクレームは基本的につけない。だから大学人もそれに対して即座に対応するということに慣れていない。そういうことが仕事の進め方の遅さにつながっている。そういった意味で経営協議会に民間企業の人が入ってくるようになったけれども、本当に立派なことを言っていただけるのだけれども、本当に真剣になってそれらを受け入れて、学長が腹をくくって、どんな反対があろうがこれはやるという、そのような英断をしないといけないのではないか。どういう外部の人材を受け入れても、やっぱりそこに行き着くのではないか。