2009年9月15日火曜日

「忙しい」の正体とは

英国の歴史学者・政治学者シリル・ノースコート・パーキンソンという方が書かれた「パーキンソンの法則」という本があるそうですが、たまたまその内容を引用したコラムを読む機会がありました。

一般社会を視野に入れた論考だと思うのですが、指摘された内容がまさに大学の古くからの悪しき風土を鋭くえぐっているような感じがして、私自身のストレスと合致したからなのかもしれませんが、とても感じ入って何度も読み込んでしまいました。

どうしてもご紹介したいと考えましたので、あえて丸写しで転載します。身に覚えのある方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。


「組織はどうでもいい物事に対して、不釣り合いなほど重点を置く」というのがパーキンソンの凡俗法則です。「難しいこと、重大なことに対してはこだわらず、流したり簡単に受け入れたりするのに、どうでもいいようなことに対しては関わろう、時間やパワーをかけようとする人が多い」という傾向を言っています。

根本的で重大な組織の問題、「何をやるか」「どうやってやるか」という戦略や方針、多くの人に影響を与えるような決断などは、権限のある人や管轄部署にお任せする、また、何だか難しそうに見えることは専門家や担当者にお任せする。一方で、どちらでも良いようなこと、分かりやすいことに対しては急に生き生きして口を出す人が増えるという景色を見たことのある人は多いと思います。大事はスッと決まるが、些事(さじ)には議論百出という組織です。

どっちでも良いなら一任すればいいのに、皆が口出しするものなので、その議論を調整・収束させるのに時間がかかってしまう。容易なことで1人でもできるのに、関わる人が必要以上に多いので、連絡や引継ぎやチェックといった業務が増大していく。これが「忙しい」の正体。かけている時間やパワーと、その仕事・課題の大切さが不釣り合いになってしまっている状態です。

大事は偉い人にお任せで、些事だけに関わってメンバーを振り回す上司というのは困りモノ。実務者にとってみれば、こういう類の忙しさは、自由や裁量がなくなって調整ばかりに時間をとられるわけですから、やる気も削がれます。大事に対して皆で関わり、些事は任せる(もちろん後でちゃんとチェック・フィードバックする)。不毛な忙しさから脱出するためには、重点を置き、時間をかけている仕事にそれなりの価値があるのかを考えてみるのも1つです。(「Business Media誠」掲載、筆者:川口雅裕)
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0909/11/news005.html

2009年9月14日月曜日

人事院勧告と法人化

国立大学法人の運営には1兆円を超える多額の税金が投入されています。このうち、教職員の人件費は概ね6割~8割。大学の収入予算の構造によって違いますが、基本的に国立大学法人に雇用されている人たちの給与は税金によって賄われていると言えます。退職手当も同様です。

また、国立大学法人の教職員の給与体系は、国家公務員に準じて各法人で定めることになっています。さらに、いわゆる国家公務員の「総人件費改革」(簡単に言えば人件費削減計画)に連動する形で、毎年、平成17年度人件費予算比▲1%ずつの削減が求められ、確か平成23年度まで続けられることになっていると思います。

今週発足する民主党政権においても、総選挙のマニフェストにもあるように、更なる国家公務員の人件費や人員削減の深堀りが予定されているところです。

このような状況の中、今年の人事院勧告は、官民較差を是正する観点から、国家公務員の給与水準の引き下げを勧告し、近々給与法の改正が行われる見通しです。国立大学法人ではこれまで、基本的にはこの国家公務員を対象とした人事院勧告をそのまま受け入れ、教職員の給与水準を決定・実施してきました。

法人化によって否応なしに国家公務員の身分を剥奪され、非公務員(単なる法人職員)となっただけでなく、経営努力によって各法人が自ら独自の人事・給与制度を構築することが可能になるという、法人化本来の制度設計は画餅に化し、法人化後6年経過した今でも、国家公務員に準じた人事制度(つまり、文部科学省の縛りによる硬直化したお役所原理)が脈々と生き続けています。

納税者たる国民の常識に反する給与水準を設定することは言語道断ですが、少なくとも今は、教育・研究の高度化、法人経営の徹底した効率化など、各法人の経営努力を適正に評価し、教職員の努力に対するインセンティブを付与することにより国立大学法人の使命・役割の更なる向上に結びつけていくという民間的手法を取り入れることが極めて困難な状況にあります。これでは、教職員のモチベーションは低下する一方ですし、そもそも何のための法人化だったのかわからなくなってしまいます。

このたびの人事院勧告の考え方、つまり、国民が経済不況で苦しんでいる時に、税金を財源とした公務員の給与を引き下げ官民較差の是正を図ることは至極当然のことだと納得できるのですが、かといって全ての国立大学法人が一律平等の国の時代の慣習をいつまでも引きずっていていいのかということについては少々疑問があります。

自主的・自律的経営を求められている国立大学法人は、もっと主体的に自らの業績に基づいた給与水準を考えること、もちろんこれは、給与を引き上げることだけではなく、例えば、志願倍率が低下した、入学者を予定どおり確保することができなかった、休学者・退学者を止めることができなかった、など、検定料・入学料・授業料といった学生納付金の減収を招いた経営責任を教職員の給与に転嫁し引き下げるといったことも含めて真剣に考えていく必要があるのではないかと思います。(学校法人・私立大学では当たり前のことかもしれませんが・・・)

また、国立大学法人を管理・監督する立場にある国は、改めて法人化の趣旨は何かという原点に立ち返り、各法人の説明責任をさらに厳格に求め、その結果としての給与体系が各法人において自主的に構築されるとともに、法人間の競争的環境を醸成していくこと、更なる切磋琢磨が各法人の教育研究の質の向上を促していくといった政策を強力に推し進めていく必要があるのではないかと思います。

加えて、文部科学省は、各法人が人事院勧告に対してどのような対応をしたのか、各法人から収集したデータを全国民の前に公開すべきだと思います。国立大学法人の人件費の出資者たる国民の当然の権利だと思いますので。

以上、理想でしょうか・・・。

2009年9月9日水曜日

沖縄旅行記 2009 (14)沖縄の苦しみと闘い-米軍基地と安保

シリーズでお届けしてきた「沖縄旅行記 2009」は今回で終わりとなります。
今回は前回に続き、森口 豁(もりぐち・かつ)さんが書かれた「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」の中から、沖縄戦終結後64年もの歳月が過ぎ去った今でも、「沖縄が抱える苦しみと闘い」の一つである「米軍基地と安保」に関して、私が特に皆さんに読んでいただきたいと思った部分を抜粋してご紹介します。

折りしも、今日は、先の総選挙で大勝し政権交代を成し遂げた民主党と社会民主党・国民新党の連立が合意された日となりました。三党の連立政権合意書の中には、社民党の強い主張を反映し、次のような文言が明記されました。

主体的な外交戦略を構築し、緊密で対等な日米同盟関係をつくる。日米協力の推進によって未来志向の関係を築くことで、より強固な相互の信頼を醸成しつつ、沖縄県民の負担軽減の観点から、日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む。

単なるスローガンで終わることなく実効性のある政策転換を図っていただきたいと心から願っています。

沖縄には、未だに米軍が無秩序に打ち込み、地中に埋もれたままの砲弾が住民の命を危険にさらしています。私が愛読しているブログ「渡嘉敷島通信 アイランズ・スケッチ」の今日の記事は次のような内容でした。掲載された写真とともにご覧ください。

ホウダンのカイダン

いわゆる64年前の沖縄戦の時に、まずこの慶良間諸島にアメリカ軍が最初に上陸した。
その時に、渡嘉敷島に撃ち込まれた砲弾は数知れず、今でもたまに不発弾が見つかっているのである。
無人島にもその爪痕はしっかりと残り、所々に錆びた砲弾が、火薬を抜かれて捨てられいるのである。
無人島探索で島を歩くと、山を下る所にも、元?砲弾が階段のように埋もれている。
まさに砲弾の階段である・・・。
http://tokashikijima.ti-da.net/e2789192.html


さて、前置きが長くなりました。「米軍基地と安保」がもたらした沖縄の苦しみと闘いをご紹介します。

暴走するYナンバー 死者たちの安保

「安保」が奪った母子3人の命

3万250-

これは何を表す数字かおわかりだろうか。
なんとこれは日本復帰後の沖縄で米軍人・軍属が引き起こした交通事故の件数(1972~95)である。年平均にすると1260件、一日3.45件である。

日本人の大多数は「安保」を水や空気のような、なくてはならない大切なものと思っているに違いないが、沖縄では「安保」はある日突然家庭のなかにまで飛び込んできて生活を破壊する”凶器”であり、いのちや人権を脅かす危険な存在である。米軍が引き起こす事件や事故とそのてんまつを見ているとつくづくそう思う。

1996年1月7日の白昼、沖縄本島中部の北谷町のキャンプ瑞慶覧(ずけらん)前で、歩道上を歩いていた母子3人が米兵の運転する乗用車にはねられ死亡した。「基地のなかに沖縄がある」といわれる沖縄。3人の海兵隊員が小学校6年生の少女を暴行、沖縄の基地問題が政治問題化し、米軍の綱紀粛正が求められているさなかのことである。(途中略)

この事故は、安保体制下の基地問題の本質をあらためて浮き彫りにした。在日米軍基地の運用と駐留軍入らの地位を定めた日米地位協定が被害者の前に立ちはだかり、彼らを無権利に近い状態にしてしまうのだ。つまり、被害者は暴走するクルマによって殺され、しかも日本とアメリカという二つの国家が結んだ取り決めによって再度殺される。十分な補償さえおこなわれないからである。

米軍人らが引き起こした事件・事故の被害者補償は、加害者の「公務中」に起きたか、それとも「公務外」のことかを分別したうえで処理される。公務中の場合の補償は日米両国が分担して負う(地位協定第18条5項)が、公務外の場合は、日本政府の査定額を米側が受け入れた場合にのみ「米当局」によって「慰謝料」として支払われる(同18条6項)ことが地位協定で取り決められている。

問題は、この慰謝料を米側が「好意的支払い」(Gratuitous Payment)と位置づけ、支払いに応じるか杏かの最終決定権と支払い当事者を「米当局」としていることである。つまり、支払うかどうかは米政府の裁量であり、仮に支払いに応じるにしても、それは「補償金」ではなく、あくまで米政府の善意ということだ。

安保が見える丘

嘉手納基地は沖縄市と嘉手納、北谷(ちゃたん)南町にまたがり、その総面積は1997ヘクタール(成田空港の約2倍)だが、その土地の9割にあたる1841ヘクタールは民有地、つまり個人の所有地である。戦前までここには21の集落があり、約3万人が暮らしていた。当時のことを何もかもよいことづくめとまで言う気はないが、先祖の墓へも自由に行き来できない生活を半世紀以上も強いている政治を正常といえるわけがない。

初めに基地があったのではない。これだけはしっかりとわかっておいてほしい-。
これは「自分たちの土地を返せ」と叫びつづけている人たちの最低限の願いだ。

<カデナ>基地に入る

嘉手納基地を北東から南西へつらぬく大滑走路をクルマを運転して突っ走った。滑走路の幅は91メートル、長さは4千メートル、ちょうど一里。最新鋭ジェット戦闘機や偵察機が離発着し、かつてはB52戦略爆撃機がベトナム渡洋爆撃のため、連日のように発進した巨大滑走路だ。そこをポンコツの”軽”で滑走路の端から端までをフルスピードで飛ばした。ぼくが暴走族かカー・マニアだったら、さぞ満足感に酔いしれたことだろう。だが、軽自動車の限界にちかいスピードで走ってもいっこうに先の見えないその広さに、ぼくは満足感どころか腹立たしさがつのるばかりであった。

基地のなかに入った目的は二つあった。一つは基地のなかのかつての村は、いったいどの程度面影をとどめているかを確かめたかったこと。そしてもう一つは嘉手納基地の内側から周辺の住民地域を見たかったこと。基地のなかに職を持つ者でもないかぎり、普段ぼくら日本人はフェンスの外の風景しか知らない。異なる方角から見る自分たちの住む町、つまり島の主人公でさえ見ることのできない”新しい風景”がそこにあるはずだ。きっとそれは人家のひしめく息詰まるような狭い空間には違いないが・・・。

ところが、その期待はどちらもはずれた。フェンスのなかに残っていたのはわずかばかりのガジュマルの木といくつかの遺跡だけ。そして、基地のなかから周囲に目をやっても何も見えない。”対岸”はあまりにも遠すぎた。まるで別天地なのである。

そこでわかったことが一つある。これでは基地内の米兵たちに、土地を取られた地主らの気持ちを理解しろと言っても無理だ。はるけき彼方へとつづく幅広い滑走路と、随所に敷きつめられた青々とした芝生。両サイドに立ち並ぶ大きな格納庫。そして飛行場地域を離れると、こんどはワシントンの高級住宅地かと見まがうような広い庭の目立つ住宅地。銀行もあれば映画館やゴルフ場、消防ステーションに大学にチャペル・・・。

それにしてもこの人口密度の低さはどういうことだろう。広大な敷地内をハイウエイのように縦横に走る道路にしても、すれ違うクルマはほとんどない。もちろん人影もだ。

目の前にひらける非日常の世界。こんなところで生活していては沖縄の苦悩はわかるまい。そのうえ、基地のフェンス沿いにはよく繁る丈の高い植物が一寸の隙間もないほど植えられている。日本政府が米軍への”思いやり予算”で植栽している。これは基地内の贅沢ざんまいを住民に見られないための目隠しなのか、それとも異常なまでに過密な外界から米兵の目をそらそうとするのか。きっと、そのどちらも当たっているだろう。

沖縄の基地は、かつて米軍が思うがままに鉄条網で囲い込んだ土地を72年の復帰時に政府が追認、ほぼそのまま使わせている。基地が島の2割を占めているがゆえに、ゆがみきった産業構造や人口過密化県の実態を知りながら・・・。

土地は時代とともにその重要性も評価も変わる。基地も例外ではない。以前は許されていた広さであったとしても、地域の社会・経済状況の変化にともない許容度は違ってくるものだ。畑の真ん中に建てたはずの鉄工所や自治体のごみ処理場の周辺に住宅が押し寄せれば、いずれ移転を求められる。既得権を主張しても時代はそれを許さない。大家と店子の関係と同じだ。だから物の貸し借りには昔から一定の契約期限が設けられている。

贅肉ざんまいの<カデナ>の広さは、ぼくの感情を高ぶらせる。地主や地域社会が自分の土地を使いたいと言えば、借り手がそれに耳をかたむけるのは当然だ。しかも返還要求はいまにはじまったことではない。そのような状況に目をつぶって土地を地主に返さず、米国に提供しつづけているこの国の役人と、無批判に提供を受けている米国政府関係者、そしてその土地を我がもの顔で使っている米軍人と家族たちの良心を、ぼくはうたがう。

地域が基地で分断されたため、人口規模からして一つあればよいはずの消防署を2つも3つもつくらなければならない自治体がある。米軍基地が町のど真ん中にいすわる宜野湾市や北谷町である。非常時でさえ救急車や消防車が基地内を走ることを政府も米軍も許さない。このため市民は余計な出費と犠牲を強いられている。これに至っては人道問題、つまり「人の道」に反する問題だ。1996年2月に北谷町の国道で母子3人が米兵の運転するクルマにはねられた事故では、基地を迂回しなければ現場に行くことができないため救急車の現場到着が遅れ、救助活動に支障をきたした。

-もう少し到着が早ければ何とかなったのに・・・。

市職員はこう言う。この事故では、はねられた3人全員がいのちを落とした。



(おわり)



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2009年9月8日火曜日

沖縄旅行記 2009 (13)沖縄の苦しみと闘い-虐殺

今年の夏休みを利用して訪問した沖縄の旅日記をこれまで12回にわたってご紹介してきました。

年に一回程度の観光気分の旅行では、沖縄の本当の姿を理解することはできないのかもしれません。
しかし、短い時間でも、実際に自分の目や耳を使って、肌で沖縄を感じることはとても大切なことだと思いますし、私自身今回の旅行でも得られたものはあったと思います。

また、沖縄の思い出をどこまで自分の記憶に留めてくれるかわからない幼い子ども達であっても、普段の暮らしの中ではなかなか経験できないことを旅を通して体感させてあげることができたことは、決して無意味なことではなかったと思います。

さて、今回も昨年に続き、沖縄訪問前に「森口 豁(もりぐち・かつ)」さんの本を読みました。この日記でも既にご紹介しているところです。

日本の歴史や文化にとって特別な場所である沖縄への訪問を、単に珍しいものを見たり食べたり、美しいビーチを楽しんだりする観光だけで終わらせてはいけないのではないか、多くのかけがえのない命を奪った沖縄戦のことを少しでも学んで帰ることが、平和にあぐらをかき、飽食に慣れきった現代の日本人としてとるべき行動なのではないかと考え、予習として森口さんの本に目を通すことにしました。

昨年は、「だれも沖縄を知らない 27の島の物語」という本を読みました。今年はそれよりも以前に書かれた「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」という本を読みました。いずれも、私の全く知らない”沖縄の真実”が描かれてありました。

戦後60年余の歳月が過ぎてしまった現在では、この本に描かれた”沖縄の真実”を実際に垣間見ることは困難でしたが、沖縄の人々の命や絆を踏みにじったあの悲惨な沖縄戦が、いま自分が立っている澄み切った空と海に囲まれたこの自然豊かな地で繰り広げられたことを思うと、敵国ばかりか同胞であっても人と人が憎みあい、殺しあう戦争というものがこの地球上から完全に消滅してしまうことを、そのために私達自身が平和を維持するためにあらん限りの努力を尽くさなければならないことを改めて考えさせられました。

森口さんの長きにわたる精緻な取材に裏付けられた、そして限りなくリアルに表現された文章から浮き出てくる”沖縄の真実”は、戦争に殺された無数の沖縄の人々の無念さを私達の心に焼き付けます。是非とも森口さんの心の叫びが投影された”沖縄の真実”を手にとって全てのページに目を通していただければと思います。

沖縄は、戦後60余年経った今でも、米軍基地問題をはじめとする様々な問題を抱えています。私達は、日本人として、これらを「沖縄固有の問題」ではなく、私達「日本人の問題」として正面から真剣に考えていかなければなりません。

今回の沖縄訪問に当たって読んだ本 「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」 が私の心に突き刺した、沖縄戦中の「日本人による日本人の虐殺」、そして「基地と安保」を抜粋しご紹介します。”沖縄の苦しみと闘い”を一緒に考えていただければ幸いです。


沖縄人

「沖縄人はみなスパイだ。殺せ」

壕捜しという敵情視察と見まがうような行動が、日本兵にスパイと思わせたのかもしれない。しかし大城は、自分を「スパイ」と言ってのける日本兵に我慢ならなかった。彼は戦前、近衛師団の一員として皇居の防衛任務についた経験があり、「日本人としての誇り」さえ持っていたからだ。

それを知った相手はピストルの銃口をそらした。だがその直後、近くにいた沖縄出身の若い男がいとも簡単に撃ち殺されるのを見た。怒りが全身をゆすった。「いったい沖縄人とは日本にとって何なのだろうか。戦争前は前で、住民総出で日本軍の飛行場建設や防空壕掘りに協力したのに・・・。

たしかに沖縄人の軍に対する「協力」は献身的であった。満17歳から45歳の男は一人残らず防衛隊員として最前線に立った。それゆえ犠牲も大きかった。だから、裏切られたことへの反動はひときわ大きい。

沖縄には「他人(ちゅ)に殺(くる)さってん寝(に)んだりしが、他人殺(ちゅくる)ちぇ寝(に)んたらん」ということわざがある。他人に痛めつけられても眠ることはできるが、他人を痛めつけては眠ることができない、という意味だ。沖縄人の根のやさしさをよく表している。

国土のわずか1パーセントにも満たない面積の小さな沖縄島に、在日米軍基地のほとんどを押しつけつづけて平然としていられるのは.「他人に痛めつけられても我慢しつづける沖縄人」 への甘え以外のなにものでもないが、要は、沖縄人の胸のなかにも「遂げられないこころの嘆き」が鬱積していることを知ることからはじめる必要がありそうだ。

天皇の軍隊 終戦後の戦争

狂気の守備隊長

久米島・仲里(なかざと)村の東南にひろがる浜の名を「イーフの浜」という。イーフとは、土地の言葉で入江をいう。房総の九十九里浜や高知の桂浜のような大きな浜は望むべくもない沖縄の島々だが、小さな島のなかにあってこの浜は文句なく大きく広く美しい。ゆったりと弧を描いた浜を染めるコバルト色の海、栗色のこまかな砂をなでる柔らかな波。沖合の環礁にくだけ散って空に舞う波の花・・・。

そんな美しさに目をつけた日本の観光資本がここにリゾートホテルを建てた。浜の名は「イーフビーチ」に変わり、更には関西や関東から若者たちがやってきて、束の間の”リトル・ワイキキ”を楽しむ。そのような光景を見ているかぎり、かつてこの海が日本軍に殺害された住民の血で赤く染まったことを想像するのは難しい。日本兵が振り降ろした軍刀によって生を絶たれた親子3人の血は、浜に瀟洒(しょうしゃ)なリゾートホテルを建てたヤマトの民によって歴史の彼方へ押し流されていくかのようだ。

それにしても、日本軍がこの島で引き起こした住民の連続大量殺害は、ヤマトンチュであるぼくに身の置きどころを失わせる。これは戦争のなせる業なのか、それともこの島に配属されていた日本軍の資質が飛び抜けて悪かったからなのか、はてさて日本人はもともとこのような残虐性を秘めた民族なのか・・・。いずれが理由であれ、こうした蛮行はのどかな沖縄の島々には不釣り合いだ。

殺害された21人のなかには7人もの幼児や子供が含まれていた。そのうえ、どのケースも沖縄戦が終わった6月23日以降(うち二家族は天皇が敗戦を宣言した8月15日以降)に起きている。この事実の前では、どんな言い訳も島の人たちには通用しないだろう。何から何までが不条理すぎるのだ。(途中略)

この人たちを殺害したのは、島に駐屯していた日本軍守備隊(海軍電波探信隊、隊員約30人)である。彼らは島の北部にそびえる大岳の山頂近くに本部を置いていた。なぜ、どのようにして自国民に手をかけたのか。ぼくのファイルのなかには、同隊隊長の鹿山正(かやまただし)元兵曹長(徳島県出身)が取材記者に語った証言(「サンデー毎日」1972年4月2日号と3月25日付「琉球新報」)がある。

そのなかで鹿山元隊長はこう言っている。

「なにしろワシの部下は34人、島民は1万人もおりましたからね。島民が向こう(米軍)側に行ってしまったらひとたまりもない。だから島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。島民を掌握するためにワシはやったんです」

そして個々の殺害について、つぎのように言う。

小橋川共晃、糸数盛保さん殺しについて-

「これはその、スパイ行為ということですね。前者は私直接には行きませんでしたが、軍隊を派遣してやらせたわけです。処刑は銃剣でやるように命令しました。突くようにね。ええ、火葬にしました。家といっしょにね。それからあとかたづけをするように村長に命令しました」

安里正二郎さん殺しについて-

「これは私自ら、その、拳銃で処刑しました。ええ、拳銃を一発撃ってね」
「どういう点を(久米島の人たちが)怒っているかということが問題ですね。その時の状況は、各部落とか村とか警防団からの情報を総合して処刑した。また、日本の国土防衛の点から考えてやった。(いまになって)あやまることは、日本の極東防衛のために散った人たちに対して、ひとつの冒涜になると思う。あやまったからどうなんだ、というような立場はとらない」(カッコ内は引用者が加筆)。

小橋川さんは北原区の区長、安里さんは郵便局員、糸数さんは警防団長だった。安里さんの「罪」は、米軍から託された鹿山隊長あての投降勧告文書を届けたことであった。区長の小橋川さんと糸数さん、それに宮城さん一家、比嘉さん一家は、区民が米兵に拉致されたことを軍に届けなかったことを問われた。鹿山元隊長の言う「火葬」とは、死体もろとも家に火を放つことであった。家屋敷まで焼き払ったことについて、鹿山元隊長は「密議をこらした場所だから」と説明する。

イーフの浜で殺されたのは仲村渠(なかんだかり)明勇さん一家3人だ。仲村渠さんは投降勧告にむかう米兵の道案内をしたことが「スパイ」とされた。谷川昇さん一家の場合は、谷川さんが朝鮮人(朝鮮名、具仲会)であったことが災いした。朝鮮の人たちへの差別意識が戦争という非常時のなかで具現化した。しかも谷川さんの仕事は行商で、日頃から島のなかを歩き回ることが多かった。それが鹿山隊長にあらぬ疑いと不安を増幅せることとなった。

日本軍はこれらの人たちを「スパイ」や「非国民」と言って断罪したが、住民側からすれば彼らはそれぞれ「命の恩人」であった。住民に戦禍が及ぶのを案じ、常に住民の先頭に立って動いていたのは彼らであった。米側に艦砲射撃をしないよう懇願、実現させていたのは仲村渠明勇さんであったし、「鬼畜米英」をおそれて逃げ回る住民に投降を勧めていたのは比嘉亀さんや宮城栄明さんであった。

住民の悲憤

「何がスパイだ。何が軍人の誇りだ。自分は山の壕に隠れ、酒をくらい、女をもてあそび子供までつくらせ、住民に銃を突きつけて食糧を奪い、あげくにはスパイと称して虐殺する」

「武器もないのに部下に夜襲を命じ、それを拒めばこれも殺す。こんな鬼畜のなかの鬼畜はみんなで八つ裂きにしないと死んだ人の霊はうかばれない」

久米島の住民は沖縄のなかでもおとなしい気性で知られる。その人たちが鹿山元隊長の発言を知って怒り狂った。島ではながいあいだ、「鹿山は罪を反省し、郷里に帰ったあと仏門に入った」といううわさがもっともらしく伝わっていた。それだけに、戦後四半世紀を経て伝えられた証言へのショックは大きかった。

地元具志川村の村議会はすばやく臨時議会をひらき、鹿山元隊長の謝罪を求める決議をおこなう一方、日本政府に対しては、国の責任できびしく対処するように求める決議文を送った。沖縄本島では「鹿山を極刑にせよ」と、保守・革新が歩調を合わせて満場一致で決議する自治体まで現れた。「これを機会に、日本の国家と軍隊=自衛隊の本質を究明しよう」との声も高まった。沖縄の施政権返還を境に1万人近い自衛隊員の配備が進んでいることが背景にあった。

鹿山元隊長はインタビューに答えて「島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするため」の措置と言った。事実ならば「住民へのみせしめ」が目的ということになる。みせしめは、理不尽で、残虐で、人びとにあたえる恐怖感が大きいほど有効だ。だから罪のない幼児や子供の”処分”は、軍にとってはこのうえなく効果的なことに違いない。

だが、ぼくの関心はそこにはない。ぼくが気になるのは、この人のかたくなさだ。戦後久しい歳月を経ても変わることのないこの傲慢さは何なのだろう。・・・



(つづく)



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2009年9月6日日曜日

沖縄旅行記 2009 (12)バイバイ沖縄

帰路、おみやげを調達するため、レンタカーの返却場所のすぐ近くにある農協経営のお店に立ち寄りました。
沖縄特有の野菜や地元の”おばあ”が作った食べ物が所狭しと並んでいて、買い物を忘れて見物に熱中してしまいました。

夏なのに「冬瓜」



「へちま」は立派な食材です




「島バナナ」は小ぶりですがおいしいとか




「もずく」 安かぁ-




さすが「ゴーヤ」の本場 安くて太い




スリムな「島らっきょう」




”おばあ”が作った うまそうなお惣菜




この時期が旬の「マンゴー」 お土産に送りました




なんと、「マンゴー」がお店の中で育ってるんです




あっと言う間の5日間の沖縄旅行でした。
何度訪れても、沖縄って本当にいいところですね。
自然・文化・歴史の宝庫であり、教科書のような沖縄にまた来年会いにきたいと思います。

「パパ、それまで、がんばって働かなきゃねェ!」・・・妻と子ども達の厳しい一言でした!

(つづく)

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沖縄旅行記 2009 (10)沖縄戦争資料館
沖縄旅行記 2009 (11)平和の礎と摩文仁の丘
沖縄旅行記 2009 (12)バイバイ沖縄
沖縄旅行記 2009 (13)沖縄の苦しみと闘い-虐殺
沖縄旅行記 2009 (14)沖縄の苦しみと闘い-米軍基地と安保

2009年9月4日金曜日

新型インフルエンザと大学入試

新型インフルエンザが拡大していることを受け、文部科学省は9月4日(金曜日)に、大学入試での対応策を検討する作業部会の初会合を開いたようです。この作業部会では、患者の受験機会を確保するために、追試験を行うなどの対応について検討し、11月には一定の結論を出すことにしているようです。

結論は11月? この間にも感染者はまちがいなく拡大しますし、各大学では様々な入試対策を講じなければなりません。ちょっとのんびりしているような気がしますがいかがでしょうか?。

一方、国立大学協会は、9月3日(木曜日)に入試委員会を開催し対応を協議しています。概ね了承された資料を入手しましたので主な内容をご紹介します。


平成22年度大学入試センター試験の実施日程等について


1 実施日程について


原則として本試験は所定の期日により実施すること。

2 追試験の実施について

追試験受験者が例年より大幅に増加することが想定されるため、会場を現在の2箇所から、例えば各都道府県に1箇所ずつ設けるなど、予め相当数の会場を準備されることが望ましい。
また、受験者救済の観点から、追試験の実施日程を延期する場合には、遅くとも本試験の2週間後(※1月30日及び1月31日)に実施することが望ましい。
※個別学力検査等〔前期日程〕の実施について、所定の期日(2月25日、26日)を延期することなく実施可能と考えられる最終期日



平成22年度国立大学一般入試に係る緊急時の対応方針(案)


1 基本的方向性

国立大学の果たすべき使命・役割に鑑み、志願者の受験機会の確保に最大限努めるものとする。

2 個別学力検査等について

 (1)実施期日

原則として所定の期日により実施するものとする。

(2)新型インフルエンザ罹患等、入学志願者本人の責に帰すことができない特別の配慮を要する理由により受験できなかった者への受験機会付与の在り方

(2-1)追試験の実施について

各国立大学は前期日程及び後期日程の各々について、原則として以下の日程により追試験を実施するものとする。
その際、予め予備問題を作成するなど適切な代替の選抜方法により対応するものとする。
なお、追試験を実施できない特別な事由がある場合は、入試委員会に協議するものとする。

【追試験実施期日】

本試験(所定の期日により実施される前期日程及び後期日程試験)の1週間後に実施するものとする。

前期日程:3月4日以降に実施する。

後期日程:3月19日以降に実施する。

【合格発表】

所定の合格発表期日を変更してもよいが、本試験と追試験あわせて合格発表を行うものとする。なお、日程については次のとおりとする。

前期日程:後期日程本試験実施期日の前々日までに発表することが望ましい。

後期日程:3月24日までに行う。

(2-2)追試験対象者について

対象者の認定については、平成22年度大学入試センター試験における認定方法に準じて各大学において行うものとする。

(2-3)追試験実施決定時期について

志願者へ受験票を送付する際、実施日程等について通知するものとする。

(3)入学志願者本人の責に帰すことができない特別の配慮を要する理由によりセンター試験を受験できなかった者への対応

各国立大学における代替の選抜方法による受験機会付与の在り方について文部科学省とも相談しながら今後検討を進めていくものとする。

3 その他

(1)強毒性の新型インフルエンザ発生等により、大学入試センター試験や個別学力検査等を4月以降に実施せざるを得ないなど、入学者選抜実施日程が大きく変更される場合等については、文部科学省を含め関係機関において別途協議するものとする。

(2)各国立大学は、個別学力検査等の試験実施期日を変更する場合は、国立大学協会に報告(緊急の場合は事後でも構わない。)するものとする。

(3)国立大学協会内に危機管理対応検討チームを設置する。なお、メンバー構成については、専務理事、常務理事、在京の入試委員会専門委員等とする。

2009年9月3日木曜日

沖縄旅行記 2009 (11)平和の礎と摩文仁の丘

沖縄県平和祈念資料館を出て「平和の礎」と「摩文仁の丘」に向かいました。手を合わせお祈りを捧げたあと、那覇空港へ向かいました。

資料館から「平和の火」につながる通路が真直ぐにのびています



資料館(奥)と「平和の火」(手前)





「平和の火」(手前)と「平和の礎」(奥)


平和の礎内にある広場の中央には「平和の火」が灯されています。この「平和の火」は、沖縄戦最初の米軍の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火を合火し、1991年から灯し続けた火を1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し灯したものだそうです。


平和の礎 (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

おびただしい数の戦死者の名を刻んだ屏風状の碑(いしぶみ)が、群青(ぐんじょう)色の太平洋を見はるかす摩文仁の丘の麓に建ち並んでいる。沖縄県が戦後50年の歴史の節目を記念して建立した<平和の礎(いしじ)>である。その数116基、刻名数23万7318人(98年6月現在。一部海外での戦死者を含む)。

ここに刻まれた命の重さにぼくはまず圧倒される。これほど多くの人間を死なせるまで地上戦を続行させたこの国の指導部の人間感覚。加えて、ひとかたまりの職業軍人が見せた国への強い忠誠心。それらが相まってこんなにたくさんの人たちを死に追いやった。しかもその「終戦」とて、自国の政策の非を認め、反省して戦いをやめたのではない。「最後の一人まで」戦わせて終わった、つまり万策尽きて終わらざるをえなかったのである。

<平和の礎>が突きつける痛みの一つは、戦死者の名前のなかに「松田ヒデの子」とか、「宮里(みやざと)長吉の妻」「宮里ヨシ子の母」などと記された”顔のみえない刻名”が目立つことだ。なかには、父親の名のあとに名前の判明しない子が「○○の一子」から7子までズラリと7人も並んでいるケースさえある。この予たちは性別すらわからない。誰もが名を持ってこの世を生きたはずなのに、何歳で人生を終えたのかさえ不明なのである。

沖縄戦は、戸籍制度の確立された近代日本がおこなった戦争である。ところが皮肉なことに、沖縄県が死者の名を石に刻もうとしたら犠牲者の氏名は完全に把握できなかった。戦争から半世紀も経っていたのにである。あれだけの人間のいのちを召しあげておきながら、国は何の手だてもしなかった。

沖縄県は<礎>の建立に先立って全市町村を動員、戦没者の実態調査をおこなった。それにもとづいて作成した全名簿を地元紙に公表、間違いや記載漏れ、そして氏名不詳者解明の手掛かりを県民に呼びかけた。莫大な経費と労力を費やしての作業であった。それでも名前のわからない者は319人に達した。戦災で戸籍が焼失したというのが主な理由とされるが、肉親を失った人たちの不満はそのような理由を示されても解消されるものではないだろう。

「○○の子」「××の妻」「△△の母」-。これは単なる記号だ。人間の顔も見えなければ、存在証明でもない。沖縄の人びとの胸のなかに刻まれた戦争への哀しみと憤りが、50年以上経ったいまなお癒(い)えない理由の一つともいえる。(中略)

「日本軍は沖縄が米軍の支配下に置かれることを予知していた。そのために統治の基礎資料となる戸籍や土地台帳などの焼却を命じた。そのことが戦争で亡くなった人たちの消息確認を難しくしている」(中略)

神奈川県の面積に等しい小さな県で、かくも激しい戦闘が繰り返され多くの死者を出した歴史的事実はやはり重い。それを記録し後世に伝承する方法として<礎>は有効だ。しかもその沖縄には戦争から半世紀を経たいまなお日米両軍の主要な基地が居すわりつづけ、アジア諸国や遠く中近東の国々にまでその矛先を向けている。その冷厳な現実をも<礎>は意識させてくれる。刻印された無数の怨念は沖縄の<過去>と<現在>を見事に結びつけていると考えるからである。(中略)

要は<礎>を単なる慰霊碑にしてしまわないことだ。何のためにぼくらは死者を慰霊するのか-、それをきちんと認識し、語り継ぐ必要もあるだろう。

慰霊の意味が時の経過とともに変質し、せっかく構想された<平和へのいしずえ>がいつの日か”第二の靖国”と化してしまっては元も子もないのである。


摩文仁の丘から見る断崖絶壁の海岸線



平和の丘彫像



平和の情報発信機能を併せ持つ公園としての機能充実を図るため、式典広場の正面に公園の象徴となることを目的として設置されました(2001(平成13)年1月完成)。黒御影石製のアーチは、平和のくさびで、彫像の中心には琉球石灰岩の要石を沖縄に見立てて配置し、下層部はガマ(自然壕(ごう))をイメージ。奥に進むと天井から「平和の光」が差し込む造りになっているそうです。


サイパンからつづく道 (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

摩文仁の丘(八十九高地)に立って南の方角に目をやると、砂糖きび畑のはるか向こうに喜屋武岬がみえる。小さく、薄っぺらな岬の先端が茫洋(ぼうよう)と広がる海のなかに消え入るさまは、なんとも心もとない。戦争末期、牛島満(沖縄守備軍最高指揮官)と長勇(参謀長)はこの丘の頂きに近い横穴状のガマのなかにたてこもった。丘の上からは「舞台がはねたあとの雑踏」のような人の群れが、来る日も来る日も見えたはずだ。米軍が兵を引く夜ともなれば、離れ離れになった親子の叫び声や、砲弾で手や足をもぎ取られた人たちのうめき声さえ聞こえたはずだ。眼下にひろがるこの平地はそれこそ足元から島の果てまで、そのような人たちで埋まっていたのだから。

そんな惨状を目の当たりにしながら、57歳の最高指揮官・牛島満は民のいのちを気づかうことを忘れ、自決の道を選ぶ。

「軍の主戦力は消耗してしまったが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の南の果て、尺寸の土地の存する限り戦いをつづける覚悟である。今後貴官に一切を任せる。思う存分やってくれ」(「沖縄玉砕す」「昭和史の天皇」読売新聞社刊)

これは長参謀長を道連れに自決した牛島が、直近の都下に下した最後の命令である。牛島は陸軍士官学校の校長、長は陸軍大学校の教官をつとめた士官学校出のエリートだ。だが二人には、民衆のいのちを軽んじる”前科”があった。満州(中国東北部)の戦闘において旅団長と参謀をつとめていたのだ。そればかりか、長にいたっては南京大虐殺の際、市民の殺戮を直接都下に命じた上海派遣軍の参謀、いわば「三光作戦」の指揮官であった。

一日でも戦闘を長引かせて本土防衛のための時間をかせぎ、大本営に報いたい-。

牛島らが傷病兵や「足腰の立つ島民」らに最後の総突撃を命じたり、自刃(じじん)を決めた過程で、はたしてエリート軍人としての虚栄心がはたらかなかったか。ぼくは気になる。もしそうだとしたら、たった一発の手榴弾やこめる弾さえない銃を手にして、敵の戦車に立ち向かった者たちの死はいったい何だったのだろう。

戦場の住民のあいだに広く伝播した「敵につかまると男は八つ裂きにされ、女は強姦され殺される」という”神話”は、「南京に処女なし」のことばが象徴するように、中国侵攻日本軍の得意芸であった。沖縄に送り込まれた将兵のなかに中国からの転職組が多かったことや、参謀長自らが上海派遣軍の参謀であったことと沖縄戦の”結末”が無関係だといえるかどうか。島尻(しまじり)の果ての小さな岬は、ぼくの胸につかえたさまざまな棘(とげ)をあぶりださせる。


塔と廃屋 (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

慰霊塔は1965年を前後して、本土各府県が競い合うようにして摩文仁周辺に建立した。沖縄では「日本の高度経済成長のシンボル」と揶揄されることが多いのだが、それが単に揶揄にとどまらないのは、その建立過程で靖国派遺族会が果たした役割が少なくなかったからである。多くの碑文に刻まれた「聖戦思想」が何よりもそれを物語る。

殉国(じゅんこく)、皇軍(こうぐん)、偉勲(いくん)、英霊(えいれい)、雄魂(ゆうこん)、愛国、義烈(ぎれつ)、散華(さんげ)・・・。

キーワードは、あの戦争を侵略戦争(アジア・太平洋戦争)としてではなく、西欧列強からの解放戦争(大東亜戦争)と位置づける、誤った歴史観である。戦争や戦死を肯定し、「愛国的な情感」をただよわせた碑文は、46都道府県-「沖縄県の塔」というのはないから-のうち実に37道府県にのぼるのだ。

対照的に、全滅家族の屋敷跡にはただ一枚の表札さえかかげられていない。死者を弔うための香炉を納めた小屋が、門に向かって侘(わび)しげに建っているだけだ。親戚や隣近所の人たちがつくった”位牌なき仏間”である。(中略)

沖縄では碑を建てる気持ちにはなっても、巨大な塔を建てようという思想はなかったのではないか。草むした屋敷跡が語りかけるものは「雄魂」でもなければ「愛国」や「散華」でもなく、敗戦直後に、この国とこの国の民が誓った「不戦」の決意であるように思えてならない。




(つづく)

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2009年9月2日水曜日

沖縄旅行記 2009 (10)沖縄戦争資料館

渡嘉敷島にいた時のように「朝の集い」というものがないので、少し寝坊して午前7時に起床。今日は残念ながら沖縄旅行最後の日、夢の中から現実に戻らねばなりません。

荷造りを済ませ、早々にホテルを出発し、高速道路を南下し、一路南部の「沖縄県平和祈念資料館」に向かいました。

我が家では、沖縄を訪問する時には必ず「平和の礎(いしじ)」にお参りすることにしているのですが、今年は、同じ公園内にある資料館にも足を運ぶことにしていました。資料館は、予想以上に内容のあるものでした。

まず、沖縄県平和祈念資料館が「なぜ設立されたのか、何を訴えようとしているのか」については、このページをご覧ください。
→ http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/hajimeni/index.html


資料館入口

沖縄らしさのある建物です



外柱廊
開放的空間がなんとも素晴らしい




資料館周辺のマップはこちらをどうぞ
http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/annai/osirase/image/ennai%20map.jpg


常設展示室では、特に次の展示室に目を奪われました。


第2展示室 住民の見た沖縄戦「鉄の暴風


沖縄戦において、日米両軍は、総力をあげて、死闘を繰り広げた。米軍は物量作戦によって、空襲や艦砲射撃を無差別に加え、おびただしい数の砲弾を打ち込んだ。この「鉄の暴風」は、およそ3か月に及び、沖縄の風景を一変させ軍民20数万人の死者を出す凄まじさであった。


60万発の艦砲弾-鉄の暴風 (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争)のなかでも、沖縄戦はとりわけ激しい戦闘が繰り広げられた戦争の一つに数えられている。その戦闘のすさまじさと恐ろしさを沖縄の人たちは「まるで”鉄の暴風”が吹いたようだった」と言い、沖縄作戦に参加したある米兵は「この世のありったけの地獄を一か所に集めたような戦争」と表現した。罪のない女性や子供や老人をも激しい地上戦に巻き込み、死者の数をいたずらに大きくしたことが彼らをしてそのように言わせたのであろう。

その生き証人たちの言う「暴風」と「地獄」とは、いったいどのようなものだったか。(中略)

沖縄県の総面積は神奈川県とほぼ同じである。ベトナムのわずか150分の1程の面積しかない沖縄に投入された戦力が、最大時のベトナム戦争と同規模であることにまず驚く。しかもベトナム戦争が13年間もの長期間の戦争(米軍の本格介入期間)だったのに対し、沖縄戦は3か月。もし「戦闘密度」という言い方があるとすれば、沖縄戦の密度の濃さは並大抵ではないことがわかるはずだ。しかも沖縄戦の主戦場は沖縄本島の南半分(全県土の約30パーセント)だから、戦闘地域の面積は事実上、ベトナムの約500分の1である。(中略)

米軍は日本軍の抵抗力を弱めるため沖縄上陸を前に徹底した艦砲射撃をあびせた。艦砲弾の種類は5インチ榴弾(りゅうだん)砲から16インチ砲といわれる直径約50センチもの弾まで7種類。撃ち込まれた量は、艦砲弾だけでもなんと10トン・トラック2万台分(60万発、20万トン)に相当する。


第3展示室 住民の見た沖縄戦「地獄の戦場」


日本守備軍は首里決戦を避け、南部へ撤退し、出血持久作戦(しゅっけつじきゅうさくせん)をとった。その後、米軍の強力な掃討戦(そうとうせん)により追いつめられ、軍民入り乱れた悲惨な戦場と化した。壕の中では、日本兵による住民虐殺(じゅうみんぎゃくさつ)や、強制による集団死、餓死があり、外では米軍による砲爆撃、火炎放射器などによる殺戮(さつりく)があってまさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵の世界であった。


艦砲弾の喰い残し (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

沖縄戦を生き延びた人たちと話をしていると、よくこんな言葉を耳にすることがある。

「わたしらは艦砲(かんぽー)ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さーですよ。カンポーのね」

直訳すると「自分たちは艦砲弾の食べ残し」、つまり敵の艦砲射撃による猛攻撃からかろうじて生き残った者という意味だ。かつて、容赦なくこの人たちの上に降りそそいだ銃砲弾。”地獄の戦場”からよくぞ這い上がってこれたという感慨である。だが、そうした人びとの感情のなかに、まるで死にそびれてしまったことを嘆くかのような自虐的な響きをぼくは聞くことがある。生き残ってしまったことに後ろめたさを抱いているのである。

助けを求める瀕死の人間に背を向けた者、親や子をも置き去りにして逃げてきた者。ガマのなかで日本兵に命じられるままに泣く赤児の首を絞めた者・・・。戦争は平和時には想像できないような選択を一人ひとりの人間に迫った。

しかし、戦火が止んだ途端、そのような言動を正当化していた後ろ楯は聖戦思想とともに雲散霧消し、価値観は180度変わった。正しいと思い込んでいたことがことごとく否定される。そのような変化に自分を合わせようとすればするほど、自虐的にならざるをえなかったであろう。彼らは自分の過去の行為を肯定したり否定したりしながら、その場その場をつじつまを合わせながら生きているのである。

沖縄戦における住民の死者は4人に1人の割合だから、死者の数は生者よりは間違いなく少ないのだが、死者への思いの深さと大きさは、4対1という比較の枠内にはとても納まりきれるものではない。死者たちを弔う小屋を無人の屋敷跡に建てた理由を、単に死者への贖罪(しょくざい)意識に収斂(しゅうれん)してしまうのはあまりにも単純すぎるが、それにつけても<艦砲弾の喰い残し>とは何と人間臭い発想だろう。ひとたび砲身を離れた弾丸が人を選ぶことはありえないのだが、彼らは自分を喰い残してくれた巨大な鉄のかたまりに魂を見たのだ。極限状況に追い込まれた者のみが共有できる心理なのだろうか。


第4展示室 住民の見た沖縄戦『証言』

沖縄戦の実相を語るとき、物的資料になるものは非常に少ない。無念の思いで死んでいった人たちを代弁できるものは、戦場で体験した住民の証言しかない。忌(い)まわしい記憶に心を閉ざした人々の重い口から、後世に伝えようと語り継がれる証言の数々は、歴史の真実そのものである。


ありったけの地獄-戦争証言が語りかけるもの (「沖縄 近い昔の旅-非武の島の記憶」森口 豁著から抜粋)

63人の証言

壁も天井も黒一色。閉じられた窓にも黒のカーテン。外光のいっさい入らない展示室。譜面台に似た台が壁ぎわに32台。その上にセラミック加工された新聞紙大の真っ白な冊子。それには”鉄の暴風”をくぐり抜けた人たちの証言が読みやすい大きな文字で紹介されている(うち一台は英訳文)。すべて、語り口調。ガマのなかにいるかのような暗さも相まって、いっそう現実味を際立たせる。肉声が聞こえてくるようでさえある。(中略)

これらの証言は、沖縄県が収集した749人にのぼる戦争体験(「沖縄県史」第9、10巻)のなかから選び出された。これを日にちごと、場所ごと、テーマごとに分類、日米の軍事資料と照らしあわせて細部を検証し、沖縄戦末期の様相がわかるように構成されている。特徴は、住民の「目の高さ」でつらぬかれている点にある。沖縄戦を住民の視点で語り継ぐにはナマの証言が何よりも大切、との沖縄県の姿勢が”読む展示室”をつくりあげた。

戦争のおぞましさ

展示されている証言の主は、戦争当時10歳から56歳までの男女。日本軍司令部の首里撤退(5月22日)から、多くの住民と日本兵が島尻の果て、喜屋武(きやん)岬に追いつめられた6月下旬までの約1か月分である。短いもので2、30秒。長いものでも2分前後で読みきることができる。一人でも多くの人に読んでもらいたいとの思いから、それぞれの証言の一部を展示するにとどめたからだ。

墓のなかに身を隠し、小便を飲み水代わりに分け合って飲む親子。米軍機からまかれたガソリンに火を放たれて焼き殺される家族。まだ生きている幼い息子を埋葬する父。兵民混在のガマのなかで「泣き声を出すと敵に見つかる」と、親の目の前で赤児や幼児をつぎつぎと絞め殺す日本兵・・・。

そのどれもが日本防衛のための「時間かせぎの戦争」と位置づけられた沖縄戦のなかで起きた。日本側の数十倍ともいわれる物力にものをいわせた米軍の攻撃。そのなかで日本軍から「三等国民」視され、軍事優先の名のもとに抹殺されていった住民。沖縄戦が浮かび上がらせたこれらの事実は、戦争のおぞましさと、軍隊は最後には自国民に銃を向けるものであることを実証する。

規模こそ大きくはないが、突きつけるものの大きさに誰もが息を呑む戦争資料館-。その館から陽光まぶしい外界に出ようとすると、出口近くに、つぎのようなむすびの言葉が彫り込まれた石板が目にとまる。


展示むすびのことば





沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものは
これほど残忍で これほど汚辱にまみれたものはない
と思うのです。

このなまなましい体験の前では
いかなる人でも
戦争を肯定し美化することはできないはずです

戦争をおこすのはたしかに人間です
しかしそれ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち人間ではないでしょうか

戦後このかた私たちは
あらゆる戦争を憎み
平和な島を建設せねばと思いつづけてきました

これが
あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです



一巡後、あまりのインパクトの強さにしばらく言葉がありませんでした・・・。
多くの方々がこの資料館を訪れ、戦争の悲惨さを学び、平和のありがたさを感じとることを心からお勧めします。


(つづく)

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2009年9月1日火曜日

政権交代と概算要求の行方

昨日(31日)、平成22年度予算の概算要求が各省庁から財務省に提出されました。例年通りでいけば、これから年末までの間、財務省の査定作業が淡々と進められるところですが、今年は政権交代の影響を受け、官僚(中央省庁)主導から政治(民主党)主導の予算編成が繰り広げられそうな気配です。

まずは、最近の民主党と概算要求をめぐる報道から。

09年度補正予算を執行停止へ=概算要求も見直し-民主(2009年8月30日 時事通信)

民主党は政権発足後、麻生内閣が経済対策として策定した2009年度補正予算の執行停止に踏み切る。31日に締め切られる10年度予算の概算要求も見直す方針だ。首相直属の「国家戦略局」を新設し、政治主導で予算の組み替えに着手する。補正予算の執行停止や組み替えで生じた分は来年度予算に振り向け、マニフェスト(政権公約)に掲げた「子ども手当」など目玉施策に優先配分する考えだ。民主党の鳩山由紀夫代表は30日夜、民放の報道番組で「(補正予算は)本格的に見直していく必要がある」と述べた。補正予算の執行停止や概算要求のやり直しは極めて異例で、予算編成作業の遅れは避けられない。12月下旬が通例の政府予算案決定が来年にずれ込む懸念があり、「越年編成」となれば景気に悪影響が及ぶのは必至だ。民主党政権は景気をにらみながら、難しい課題に取り組むことになる。・・・
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2009083000622&m=rss


概算要求「根本見直しへ」 鳩山代表が表明(2009年9月1日 朝日新聞)

10年度政府予算の概算要求の一般会計の総額は、09年度当初予算比約3兆5800億円増の約92兆1300億円と過去最大となった。ただ、民主党の鳩山代表は「根本的に見直す努力をする必要がある」と大幅に見直す考えを示した。概算要求は、各省庁が来年度の必要額を8月末に財務省に提出するもので、例年、これをもとに年末の予算編成に向けた作業が本格化する。今年の概算要求は、麻生内閣が定めた基準に基づく。鳩山代表は31日、記者団に「政権が交代するときに、民主党の目に触れない形で要求がなされるのは歓迎すべきでない」と話した。・・・
http://www.asahi.com/politics/update/0901/TKY200909010035.html


先行き不透明な中、文部科学省、とりわけ高等教育関係予算はどのような姿で年末を迎えるのでしょうか。
文部科学省が発表した概算要求関係資料から、高等教育関係の主要事項を抜粋してみました。

詳しくはこちらをご覧ください。
平成22年度文部科学省 概算要求主要事項の発表資料一覧(文部科学省)

1 授業料減免等による教育費負担の軽減の促進 概算要求額350億円(前年度予算額216億円)

【背景・課題】
  • 昨今の経済情勢の悪化により、経済的困窮者が増加傾向
  • 経済的困難を抱える学生が増加傾向
  • 学生等が経済的な理由により学業を断念することのないよう、教育費負担軽減の促進が急務
【対応】
  • 各大学等が授業料等の減免を十分に実施できるよう、所要の財源・対応を国が支援。もって、学生等の経済状況に左右されない進学機会を提供
《国立大学》
経済的困窮者の増加傾向に対応し、運営費交付金の算定に当たって、経済的困窮者(免除適格者)の増加率に応じて、授業料等免除枠を拡大(例:授業料免除率 5.8%→6.2%など)(新たに約2,500人分の授業料免除などが可能)

《私立大学》
教育の質向上に取り組む私立大学等に対して、学生の家計所得に応じた授業料減免等に要する経費を支援(想定対象学生数約7万人)

《公立大学》
地方交付税算定の際の単位費用設定の授業料収入額△9%分を、△11%分に拡大要望

《私立高校》
経済的理由により修学困難な生徒に係る都道府県の授業料減免補助の対象生徒数増等に対応するため、国庫補助の充実等を行う。

【要求内容】
  • 国立大学の授業料等免除枠の拡大 203億円(189億円)
  • 私立大学等授業料減免等補助の拡充 135億円(20億円)
  • 私立高校授業料減免補助の拡充 12億円(7億円)
  • このほか、公立大学に係る地方財政措置要望(推計額)70億円(59億円)、私立高校に係る地方財政措置要望130億円(20億円)

2 奨学金事業の充実と健全性確保 1,535億円(1,309億円)

【背景・課題】
  • 学ぶ意欲と能力のある学生が経済的理由により学業を断念することのないよう、奨学金の充実が必要
  • 返還猶予制度の適確な運用と経済的理由による返還困難者に対する返還負担の軽減が必要
  • 奨学金事業は、卒業生からの返還金を奨学金の原資として活用しており、次の世代に奨学金を引き継ぐためには、返還金を確実に回収し、事業の健全性を確保することが課題
【対応】
  • 賞与基準を満たす希望者全員に奨学金を貸与するため、貸与人員を拡大
  • 経済的理由による返還猶予者等に対する減額返還の仕組みを導入
  • 返還金の回収強化を図るため、延滞者に対する法的措置の徹底、債権回収業務の民間委託、延滞事由の要因分析、返還相談体制を強化
【要求内容】
  • 事業費:1兆175億円(700億円増)
  • 貸与人員:120万人(5万人増) 無利子奨学金2万人増、有利子奨学金3万人増
  • 無利子奨学金の支給時期の早期化(在学採用支給時期:7月→4月)
  • 在学中無利子など返還負担軽減のための利子補給金 361億円(74億円増)
  • 健全性確保:(独)日本学生支援機構運営費交付金(返還金回収強化経費)13億円(4億円増)、回収が極めて困難な延滞債権(延滞20年超)の特別償却 26億円(新規)
【政策目標】
  • 無利子奨学金の貸与人員の2万人増により、貸与基準を満たす希望者全員に無利奨学金を賞与
  • 減額返還の仕組みの導入により、低所得者の返還負担を軽減
  • 返還金回収強化により、平成19年度末の延滞債権(2,253億円)を平成23年度までに半減するとともに、新規の延滞債権を抑制し、奨学金事業の健全性を確保

3 大学院生への経済的支援の拡充(TA等の拡充) 105億円(新規)

【背景・課題】
  • 知識基盤社会の中で我が国が今後とも発展していくためには、大学院教育を充実し、幅広い素養と高い専門性を備えた優秀な学生を社会に輩出することが不可欠
  • 学生が大学院(博士課程)への進学を断念する要因として、在学中の生活保障の少なさが指摘されており、優秀な学生に対する経済的支援の充実が必要
  • TA(ティーチング・アシスタント)については大学院生の約28%(修士35%、博士22%)、RA(リサーチ・アシスタント)については大学院生の約4%(修士0.1%、博士13%)が受給するにとどまっている状況
【対応・要求内容】
  • TAを活用して学部の学生実験実習を支援(TAを通じて大学院生が学部教育の実験、実習、フィールドワーク等を充実) 105億(新規)
  • 上記のために大学院生をTAとして雇用することによって、実質的に給付型の支援を充実(大学院生の約1割(約2.6万人)をTAとして新たに雇用)
【政策目標】
  • 優秀な大学院生が、経済的理由で進学を断念しないよう十分な支援を措置
  • 大学の教育研究活動を充実強化
  • 大学院生の大学教員や研究者としての基礎的素養の醸成

4 就職支援や学生生活支援の推進 88億円(41億円)

【背景・課題】
  • 雇用情勢の悪化から、新規学卒者の求人状況も厳しさを増しており、学生が自己の能力と適性に応じた就職ができるよう、学生の就職支援の取組等を強化
【対応】

「大学教育・学生支援推進事業」(就職支援や学生生活支援の推進プログラム)において各大学における総合的な学生支援の取組を支援
    • 就職相談窓口の充実など学生の就職支援の環境整備を行う取組
    • インターンシップ等を組み入れたキャリア教育体制を構築する取組
    • 産学官による地域・社会ニーズを踏まえた実践的な短期教育プログラムの開発による若者等の就業能力開発支援の取組
    • 学生の薬物(大麻等)乱用防止など学生支援推進のための取組
【要求内容】

大学教育・学生支援推進事業(就職支援や学生生活支援の推進プログラム) 45億5千万円
22年度に455件の取組を支援(1件当たり1千万円)(23年度以降継続)

【政策目標】
  • 大学等の新規学校卒業者の就職率を向上
  • インターンシップ等を有効に組み入れた、体系的かつ実践的なキャリア教育体制を大学等に構築し、学生の職業への円滑な移行
  • 失業者・ニート・子育て終了後の女性の再就職が期待される分野で、産学官による短期教育プログラムを展開
  • 学生が関わる事件・事故を減少

5 大学教育の質保証と高度な教育研究拠点の形成支援 499億円(478億円)

【背景・課題】
  • 学生や産業界等社会からの今日の多様なニーズに応えつつ、国際的通用性のある、質の高い学部・大学院教育を実現することが必要
  • グローバル化の中で、国際競争力のある大学づくりの観点から、国際的に卓越した教育研究拠点を形成することが必要
【対応】
  • 質の高い学部教育及び大学院教育に向けたリーディングケースを支援するとともに、産業界等社会からのニーズが高い分野における専門人材養成に係る教育の質保証の仕組み作りを産学等連携により実施
  • 国際的に卓越した教育研究拠点の形成を支援
【要求内容】

(1)教育の質の保証関係
    • 大学教育・学生支援推進事業(教育課程、成績評価基準など学部教育の改革支援プログラム) 69億円(69億円)
    • 組織的な大学院教育改革推進プログラム 57億円(57億円)
    • 産学連携による分野別の評価活動支援事業 10億円(新規)
(2)高度な教育研究拠点形成関係
    • グローバルCOEプログラム 349億円(342億円)
    • 先導的ITスペシャリスト等育成推進プログラム 13億円(9億円)
【政策目標】
  • 学部教育鷺大学院教育の質の保証・向上による、我が国の発展を担う人材の輩出と研究者の養成
  • 優秀な教員・学生を結集させた、国際的に卓越した拠点の形成

6 産学連携による分野別の評価活動支援事業 10億円(新規)

【背景・課題】
  • 設置基準と設置認可審査による「事前規制」から、平成15年の認可事項の縮減等や平成16年度の認証評価の導入により「事前規制と事後確認の併用型」に転換
  • 大学教育において保証されるべき質の対象には、教育課程の内容・水準、教育研究環境の整備状況など様々な要素があり、その保証は、各大学が責任を持つことが大前提
  • 今後、公的な質保証の取組に加えて、大学関係者及び関係業界関係者による、分野別の質保証の仕組みを確立することが課題
【対応】
  • 大学と産業界や学協会等が連携して行う、評価活動等を含めた、各分野毎の専門的人材養成教育の質保証の取組を支援
【要求内容】
  • 産学連携による分野別の評価活動支援事業 10億円(25件×40百万円(2年間支援)(事業は5年間の継続事業とし、社会的ニーズの高い分野を計画的に支援)
    • 評価基準・方法の開発や評価者の育成等評価システムの構築
    • 到達目標の設定、カリキュラム、FD等の共同開発・共同実施 等

7 大学のリソースを有効に活用した大学間連携・共同利用の促進 90億円(60億円)

【背景・課題】
  • 大学の機能別分化を踏まえて、その教育研究資源を有効活用することが必要
  • 地域社会の様々な課題に対応した地域貢献活動や地域で活躍する人材育成を図るためには「大学だけでは実現が困難であり、大学間連携が必要
  • 地方自治体の首長などから大学間連携による教育の充実や地域活性化への期待が高い。
【対応】
  • 1大学だけでは実現困難な課題に対して複数大学が連携・共同した取組を支援
  • 例えば、1)教育の相互評価や共通教材の作成、2)各種教育関連施設の共同利用、3)地方自治体等とも連携した人材育成 等の連携取組を推進
【要求内容】

大学教育充実のための戦略的大学連携支援プログラム
90億円(22年度新規選定 35件×5千万円~1億円 過年度選定取組とともに支援)

【制度面におlナる取組】

教育・学生支援分野において複数大学が共同利用するための拠点を整備・運営するに当たっての大臣認定制度として「教育関係共同利用拠点制度」を創設。(学校教育法施行規則改正等)

【政策効果】
  • 全国各地域で国公私を超え、大学の力を結集させた教育の充実と地域活性化
  • 学生に対してより良い教育研究環境を提供(例えば、単位互換制度を活用した受講科目の拡大や実験・実習機器の相互利用)
  • 複数大学で地域社会の諸課題への対応や地域で活躍する人材の育成を実現(例えば、大学窓口の一本化、環境問題への対応や地域病院と連携した医療人材の育成)

8 国立大学法人運営費交付金の充実 1兆1,833億円(1兆1,695億円)

【現状・課題】

(運営費交付金全般)
  • 近年の歳出改革などにより、平成16年度の法人化以降、国立大学法人等に対する基盤的経費である運営費交付金は大幅に削減(▲720億円減)され、日常的な教育研究活動に支障が発生(国立大学法人運営費交付金 H16:12,415億円→H21:11,695億円(▲720億円、▲5.8%減)
(附属病院の運営)
  • 地域医療の崩壊を背景として、従来にも増して地域の中核的医療機関としての大学病院の医療ニーズ(周産期医療、救急医療、高度医療等)が拡大
  • 一方で、国立大学病院の重大な使命である教育研究機能が弱体化(例:教育研究時間の減少、論文数の減少)する傾向
(授業料等教育費負担)
  • 昨今の経済情勢の悪化により、経済的理由により大学進学や入学後の就学の継続を断念するなどの例が顕在化しており、国立大学法人の使命である経済状況、居住地域等に左右されない「教育機会の保障」の確保が必要
【対応・要求内容】

(運営費交付金全般)
  • 国立大学法人等における教育研究活動の水準を維持・向上させ、各法人の個性あふれる発展を継続的・安定的に支援するための基盤的経費である国立大学法人運営費交付金を確保
  • 国立大学法人運営費交付金において、大学が目指す方向性を踏まえた教育研究の取組に対し重点支援をするなど新たな仕組みを導入
(附属病院の運営)
  • 教育・研究・診療機能の充実を図るため、小児科、産科等の地域医療ニーズが高く、かつ採算性が低い診療部門(標記に加えて、周産期医療、救急医療、高度医療等)への支援を行い、財政基盤を強化することで自律的な病院運営を実現
(授業料等教育費負担)
  • 経済的困窮者(免除適格者)の増加率に応じて、既定の授業料等の免除枠を拡大 203億円(189億円)(授業料免除率 5.8%→6.2%など(新たに約2,500人分の授業料免除などが可能)

9 私立大学等経常費補助の充実 3,403億円(3,218億円)

【背景・課題】

私立大学等は、我が国の高等教育機関の約8割を占めており、高等教育機会の提供に寄与。今後とも、その役割を果たしていくためには、それぞれに期待される役割・機能を十分に踏まえた教育研究を展開するとともに、経営の健全性を高めることが不可欠である。
また、今般の経済状況等を勘案し、私立大学生の修学上の経済的負担の軽減を図る必要がある。

【要求内容】

私立大学等の運営に必要な基盤的経費を確実に措置するとともに、各大学の個性特色を生かした教育の質の向上、研究の振興、経営の健全性の向上、学生の経済的負担の軽減等を図る。
  • 戦略的研究基盤形成支援事業(研究費分)の拡充 17億円(10億円)
  • 授業料減免事業等への支援の拡充 135意円(20億円)
  • 未来経営戦略推進経費の拡充 22億円(12億円)
  • 地方における高等教育機会の提供支援 54億円(-)
【政策目標(達成内容)】
  • 各大学の個性特色の明確化
  • 私立大学等の経営の健全性の向上
  • 学ぶ意欲のある私立大学生への修学機会の確保

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日本の大学の国際化がなかなか進まない。世界大学ランキングで上位に顔を出すのは一握りで、留学生の受け入れ比率なども世界的に低い水準だ。東京大学で正規職の外国人教員として32年間教え、今春退官したロバート・ゲラー名誉教授は「日本の大学が国際化するにはガバナンス(統治)改革が不可欠」と...

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