2009年10月30日金曜日

教授会の責任と権限

教授会で各教員への予算配分を巡り、自分に配られる研究費が少ないと少数の教員が反発、収集がつかなくなり、なんと”投票”を行って決着をつけた大学があるそうです。わずかな研究費の多寡に固執し、多くの教員の貴重な時間と労力を費やすおろかなこのような行為が常態化している国立大学の醜態を、教員の雇用主である(血税を注いでいる)国民の皆さんは、どうお感じになるでしょうか。

当然ながら怒り心頭といったところでしょう。感情的に申し上げれば、このような常識やモラルに欠けた教員は即刻首にしてしまえ! 民間企業であれば許されないことだ、こんな教員を野放しにしている国立大学も潰してしまえ! ということになるのでしょうか。

国立大学では、教員の給与・退職金などの人件費や研究費は、運営費交付金という税金によって賄われています。そのことを全く認識していない教員は、まるで自分の既得権のように研究費の拡大を大学に対して要求してきます。これは、税金の負担増を国民に求めているようなものです。とても最高学府に勤め学生を教え導く立場の人間のやることではないように思われます。情けない限りです。

聞くところによれば、これは文系学部で起こったできごとのようですが、一般的に考えれば、文系では、高額な実験設備を使って新たな知見を生み出すような研究をしている理系と違って、例えば、フィールドワークや書籍による調査研究が中心であり、旅費、学生のアルバイト代、書籍代程度の割と少額な研究費で1年間を過ごしていけるような研究が多く、教授会という場で目くじらを立て騒ぎ立てるほどお金に困るような研究はほとんどないと思います。(確かにお金はいくらあっても困らないわけですが・・・)

それにしても、わずかな予算の分配について、わざわざ”投票”までやるとは・・・。社会から隔絶した”村社会”ならではの光景です。思えば、予算の配分に限らず、教授会というところは昔から些末なことに貴重な時間と労力を費やし、不毛な議論を長時間にわたって続けてきたようです。その教授会の構成員たる教員には高額な人件費が支払われており、これは、学生の教育やそれを支える研究のために国民が汗水流して働き納めた税金なのです。


以前、「パーキンソンの凡俗の法則」というものをご紹介しました。
http://d.hatena.ne.jp/asitano1po/20090915#p1

ここで指摘されていること-根本的で重大な組織の問題、「何をやるか」「どうやってやるか」という戦略や方針、多くの人に影響を与えるような決断などは、権限のある人や管轄部署にお任せして責任を放棄し、一方で、どちらでも良いようなこと、分かりやすいことに対しては急に生き生きして口を出す人が増える-は、まさに、教授会や各種委員会の内情そのもののような気がします。
さて、社団法人関西経済同友会が、今年7月に「社会が求める大学の人材輩出戦略-まずは学部教授会の改革から」というタイトルの提言を行っています。この中で、「何故大学は情勢変化に適応できないのか?」ということについて、「権限はあるが責任は問われない教授会が、学長や理事長による大学の組織運営を阻害している。学生は学部の壁に囲まれ、自由な学習の機会を得られずにいる。」という指摘とともに、その主な理由を次のように述べています。”図星”といったところでしょうか。

1 リーダーシップの不在と大学運営の稚拙さ

大学が情勢変化に適応するためには、学長・理事長の強いリーダーシップが不可欠である。しかしながら次のような要因により、それが発揮されていない。
1)学長は通常、理事会の任命ではなく、学内選挙で選出される。このため、産業界や社会のニーズに治った改革を推進する意欲をもった人が選ばれることは稀である。仮に、そのような人が選ばれても、在任中に学内の教職員にとって痛みを伴う改革を進めれば再選は難しくなる。従って、社会のニーズに沿って連続的に改革が進む情勢にはない。
2)学長は教育・研究者から選ばれるため、大学の管理運営の専門性や経験をもった人は少ない。また、学長を支える大学職員の専門性は、必ずしも高いとは言えない。さらに、多くの私学では学長と理事長とは別のポストになっているため、学長は教育に、理事長は経営に責任を持つというように、教育と経営が一体化していない。

2 最大の阻害要因は教授会自治

学校教育法は、「教授会は重要な事項を審議する」ことを定めている。しかし、教授会は教員の人事権、カリキュラムや科目の編成権、学生の成績や身分などを決める大きな権限を有するが、大学全体の経営や運営に関する責任を問われないため、自ら所属する学部の利益のみを優先する傾向が強い。このため、教授会自治の名のもとで、本来あるべき学長や理事長による適正な大学全体の経営や運営を阻害する最大の要因となっている。

教養教育は学士課程教育の重要な一角を担う教育であるにも関わらず、専門教育を担当する教員の関心は薄く、その教育体制は学外講師(非常勤講師等)に依存する傾向が強い。教育上の責任体制も不明確なままである。また、教員人事は各学部教授会の専決事項となっており、大学全体で調整がおこなわれていない結果、同じ分野の教員を複数の学部で抱えるという、人的資源の無駄が発生するケースも多い。その結果、産業界からのニーズが高いにも関わらず、教養教育は専門教育と比して、相対的に軽視される傾向にある。

3 高い学部の壁

多くの大学では、「学部間の壁」が高く、学生が自由に他学部の科目を履修したり、単位が授与されたりする仕組みになっていない。このため、所属する学部の専門を超えて、様々な分野から課題を多角的に捉え、学生間で議論し、問題を発見解決する学び方のニーズが高まっている。また、学生が多様化していることから、学生自らの興味・関心に則した主体的な学びの場を保証する必要がある。

4 未発達の認証評価システムと情報開示の不十分さ

文部科学省による高等教育政策が、護送船団方式」から規制緩和による自己責任に転換されたことを受けて、第三者認証評価機関による定期的認証評価の義務化などが導入されたが、その内容は十分に定着したとは言い難い。その理由のひとつとして、各大学が明確な目的・目標を定め、その達成に向けて、予め検証可能な指標を定めていないことが挙げられる。また大学の教育を社会の変化に応じられるものとするためには、何よりも、社会の直接的な評価を加えることが重要であり、まずは大学からの積極的な情報開示が重要となるが、大学側の姿勢は必ずしも前向きではない。

5 研究中心の大学運営からの脱却

日本の大学は、歴史的に研究重視の東京大学をヒエラルキーの頂点として構成されてきたことから、研究を担う「教員中心」の大学運営がなされ、新設の大学もこれを真似てきた。しかし、大学進学率が50%を超えてユニバーサル段階に入った現在、大学は教育を中心とした「学生中心」の大学づくりに大きく舵を切っていくことが重要である。特に、「ゆとり教育」世代の大学入学にともない、学力と学習意欲の両方が低下した学生が数多く大学に入学してくる状況の中では、全ての大学が教育を重視した大学運営に転換することが求められている。しかし、教育実践の改善に組織的に取り組む姿勢が、教員個人にも大学側にも十分に育っていないため、問題認識は共有しつつも、改善に向けた取り組みは進をでいるとは言い難い。

さらに、上記のような問題の解決に必要な条件として、次のような”提言”を行っています。

提言1 教育中心の大学に! 「大学は教育機関としての使命を全うすべき」

産業界が大学卒業者に求めているのは、高度な専門学力だけでなく、「社会力」*1である。そのため大学は、教育機関としての使命を自覚し、その遂行に全力を尽くす必要がある。その際、学士課程教育に占める教養教育の重要性を認識し、その教育上の責任体制を明確にするべきである。また、研究か教育かの選択ではなく、研究も教育の一環であるという原点に立ち返り、優れた研究実践が優れた教育実践を生み出す仕組みをつくるべきである。

提言2 大学はミッションを明確に ! 「各大学・学部は、それぞれの個性にあった特色ある教育を行うべき」

グローバル化、高度技術化した現代社会では、時代の変化に柔軟に対応し、社会や企業を改善する人材が求められている。にもかかわらず大学のミッションには、依然変化に対応する柔軟性や特色が見えない。各大学・学部・大学院は、それぞれのミッションを明確化し、その実現に向けた教育プログラムを体系化して、特色ある人材を育成し、ニーズに応じて企業が人材を選択できる機会を提供すべきである。

提言3 まずは学部教授会の見直しから! 「リーダーシップと責任の所在を明確にした組織に改革すべき」

上記の実現に向けて、大学は自らの統治能力を高め、急ぎ組織改革に取り組むべきである。そのためには、学部自治の見直しが最優先課題になる。「権限は有するが大学経営や運営への責任は問われない」学部教授会の存在が、本来あるべき学長のリーダーシップの最大の阻害要因になっている。また、学部の壁を取り払い、学生が自由に学部間を往来し、他学部の科目の履修や単位取得ができるような、学生ファーストの視点に立った経営を行うべきである。

提言4 情報開示の徹底を! 「大学は改革の達成状況を広く社会に開示し、その評価を通じて改革を促進すべき」

すでに企業では情報開示を徹底し、行政でも情報開示を進めている。大学だけが特別な存在ではありえない。各大学は学部ごとにミッションの達成状況を数年に一度、社会に発表し、在校生や父母、OB・OGに加え、その学部出身者が就職している企業等の関係者による評価を受け、その結果を公表するシステムを導入する必要がある。


偏った考え方かもしれませんが、大学には、日本国憲法第23条「学問の自由は、これを保障する」によって保障された学問の自由の精神に由来する(教育研究に関する大学の自主性を尊重する)制度又は慣行である「大学の自治」があり、その本来の意味、あるべき姿が歪曲して解釈され、「学問の自由」がいつのまにか「教員の自由」となり、それを保障する法律(教育公務員特例法)を錦の御旗にして、「教授会」を核とした悪しき大学運営が長きにわたり続けられてきたような気がします。

これまでの歴史や伝統にピリオドを打つことはなかなか容易ではありませんが、教員自身の良識に我が国の将来はかかっているといっても過言ではないでしょう。「教授会の責任と権限」を国民の前にさらけ出し、透明性が確保された中での真摯な行動がいま求められています。


(参考)日本国憲法第23条に関する最高裁判所判例

大学における学問の自由を保障するために、伝統的に大学の自治が認められている。この自治は、とくに大学の教授その他の研究者の人事に関して認められ、大学の学長、教授その他の研究者が大学の自主的判断に基づいて選任される。また、大学の施設と学生の管理についてもある程度で認められ、これらについてある程度で大学に自主的な秩序維持機能が認められている。

このように、大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味すると解される。」(昭和38.5.22最高裁判所判決(東京大学ポポロ事件判決)


*1:普遍的な教養や倫理観、他者と連携・協調できるコミュニケーション能力、またチャレンジ精神やリーダーシップ力、学習を継続する力など、社会において必要とされる資質や能力