2010年4月9日金曜日

監査文化とその影響

去る4月8日(木曜日)、国立大学財務・経営センター研究部主催の高等教育特別講演会が東京都千代田区の学術総合センター特別会議室において開催されました。内容は、カンタベリー大学会計情報システム学部教授のラッセル・クレイグ氏を招いての「大学における監査文化の圧力とアカデミズムへの影響」と題する講演会で、逐次通訳を交えながら約2時間行われました。参加者は国立大学法人の監事が中心のようでした。


話の内容が、「監査文化(=講師曰く:定量的な目標設定とその達成を押し付ける文化)が学術研究に悪い影響を及ぼしている」ことを前提としていたことから、監査・評価を積極的に導入し、教育研究や大学運営の改善に反映させることを重視している立場からは、話の方向性にやや違和感と嫌悪感を覚えざるを得ませんでしたが、高等教育に監査や評価を持ち込む際に生じる一つの大きな問題点が提起されたという意味では収穫があったのではないかと思います。

講演会の内容や資料等は、後日、講演主催者のホームページで公表されると思いますので、ここでは、簡単なポイントのみ整理してご紹介します。

1 問題提起

公的財源が投入されている大学はアカウンタビリティを果たすべきであるが、適切にアカウンタビリティが果たされているだろうか。定量化に光を当てすぎる監査文化が、これまで私達に不適切な支配を及ぼしてきたのではないか。私達は、計測・検査可能なものの記録にとりつかれているのではないか。私達は、大学が費用節約と効率性を求めて「市場志向」になるべきだという考え方に蝕まれていないか。

2 監査文化の及ぼす悪影響
  • 高いスコアを残すためだけに研究者が存在するような大学になる。
  • 批判(批評)を行うという大学の伝統的な理想型が損なわれ、市場イデオロギーと商業主義を追及するような大学になる。
  • 教育研究内容を自らが決定する学問の自由が損なわれる。
  • 教員にはビジネスメンタリティが求められ、読み考える活動から卑しい金集めに追いやられるようになる。
  • 基礎研究や進取の気性を育てることに目を向けることが損なわれる。
  • 研究者や大学が、日常において評価の最高点を取る達成度ゲームに汲々としてしまうようになる。
  • 研究者は、思考を高めるのではなく、意味のない明々白々な研究成果を量産することに疲労困憊することになる。
  • 監査可能なもの(定量化できるもの)だけが教育研究の質を示すことになる。
  • アウトプットを見せることが重視され、現実が反映されないようになる。
  • パフォーマンスマネジメントが、膨大な文書作成等過剰労働や非生産的な忙殺を生んでしまっている。
  • 実績(監査)に基づいた管理のやり方が、教員の心理的ストレスを増やしている。
  • 多くの教員が、経済的なリソースの一部だと見なされることになり、無関心、無気力を生み、大学から孤立している。
  • 多くの人は、物事を全てチエックし、経済合理性を追求し、全てをカテゴリー化する監査文化を残念に思っている。
  • 良いスコアを挙げられない人を不面目な状況に陥れている。
  • 現代の大学は、心を痛み、現実を理解せず、妄想にとらわれる妄想型統合失調症に陥ってしまったと言われている。監査は、二分化・分裂化し不安に駆られている状況から大学を救い出す良い方法なのか。実績主義、去年に比べ数量が上がったことが果たして正しいことなのか。

今回の講演会では、以上のように監査がもたらすアカデミズムへの悪影響がとりわけ強調された内容でした。しかし、そもそも監査や評価といった制度は、PDCAマネジメントサイクル(このサイクルを高等教育に適用することへの批判もありますが)で言えば「チェック」に当たる部分であり、次なる「アクション」において更なるステップアップを図るための改善行動を促す役割があると考えますし、これまで我が国では一般的には(個人的見解ですが)監査・評価の意義は肯定的に受け止められてきたような気がします。

多くの公的資金が投入されている国立大学法人では、とりわけ適切なアカウンタビリティ(説明責任)が求められ、そのためには、自律的経営とともにその結果を厳格に監査・評価する制度を運用していくことが必要になります。現在では、中期目標・中期計画の設定と達成度評価という目標管理の仕組みの導入によりそれが概ね良好に機能していると言えるでしょう。しかし、今回の講演者が指摘しているように、大学で行われる教育研究を含めた全ての業務を定量化(数値化)し監査・評価することが適切かという点では、様々な問題や弊害が残されており、今後、アカデミックにふさわしい業績管理の方法を探し出すことが、私達大学人に課せられた大きな課題なのかもしれません。