2010年5月12日水曜日

実りある大学評価とするために

大学人であれば誰しも、何がしかの評価は必要と考えています。でも、それは、将来に向かって意義のあるものでなければなりません。その光が見えていれば多少の苦労はいとわないと思います。

文部科学省所管の独立行政法人大学評価・学位授与機構が、国立大学法人評価委員会の下請け評価や高等教育機関の認証評価を実施することになった際懸念されたことの一つに、文部科学省による政策誘導というものがあります。

現に、評価を行う機構側にも、国立大学法人の現場にも、多くの文部科学省からの出向者が配置されており、評価という手法を使った文部科学省による実質的な支配が行われているとの見方があっても不思議ではありません。

そうならないための工夫や説明責任は、評価をする側にも受ける側にも必要です。せっかくの評価を徒労に終わらせないためにもそれぞれが真剣に考えていくべき課題の一つだろうと思います。




【正論】精神科医、国際医療福祉大学教授・和田秀樹(2010年5月11日産経新聞)

「大学評価」の基準が分からない

国立大学86法人の教育研究活動や業務運営について文部科学省が具体的な数値で総合評価を行い、その結果が明らかにされた。同省は次年度から大学への運営費交付金の配分に、この評価結果を反映させるとのことだ。

トップになった奈良先端科学技術大学院が一躍注目を浴びる一方で、すでに潤沢な予算が与えられている東京大学が6位、京都大学は10位にとどまる。弘前大学が最下位の汚名に甘んじた。

≪交付金からめる手法に疑問≫

わが国ではこれまで、きちんとした大学評価が行われていなかった。毎年のランキング発表でトップ校がめまぐるしく変わるアメリカと異なり、偏差値による大学序列化が続く現状を考えると好ましいことかもしれない。しかし、今回の大学評価には、いくつかの疑問が残る。

最大の問題点は、3月の発表以来いまだに評価基準や具体的な評価方法が明らかにされていないことだ。評点のみが独り歩きし、何を基準に、どんな成果でいかなる評点が得られるのかが、現時点では明らかになっていない。

実際のところ、今回は教育内容や研究業績の優劣の評価ではないようだ。各大学の中期目標計画に照らし合わせ、2004~07年度の取り組みを個別に評価した、と発表しているだけである。この文面を読む限りでは、目標や計画が高邁(こうまい)なものであっても、達成度が低ければ悪い評価がつくようにも読める。つまり、客観基準でもないものをいたずらに発表し、さらに交付金に影響を与えると表明するのはいかがなものだろうか。

≪科学的・客観的なものでない≫

評価を行ったのは、国立大学法人評価委員会と文科省管轄の特殊法人である大学評価・学位授与機構とのことであるが、少なくとも後者について、筆者はこれまでも、その主観的な評価姿勢に疑問を持ったことがある。

かつて京都大学の医学部が、短時間の面接で医師の適性など分からないと、入試面接をしなかったところ、大学評価・学位授与機構が最低の評価をつけると公言したことがあった。結果的に京都大学は入試面接を始めたが、依然として、入試面接に対する疑問がぬぐい去られていない。

実際のところ、数分の面接で医師としての適性を判断することは困難であろう。われわれ精神科医でさえ短時間面接では患者さんの人となりはおろか、診断も困難なのだから当然のことである。また医学部への入試の場合は、医師国家試験とは異なり、すべての受験者が臨床医になるわけではない。研究医を目指す受験生にまで面接が必要かどうか疑問が残る。

現在では、東京大学をはじめとして、いくつかの大学医学部で入試面接が廃止されている。入試面接が名医養成に寄与するという有力な証拠や調査研究もないのだ。つまり、そうしたところに重きを置いて、正当な大学の評価、少なくとも数値化した科学的、客観的評価ができるのだろうか。

≪文科省の支配力強める心配≫

さらに心配なのは、文部科学省の大学支配がますます強まる兆しのあることである。そのことによって今後、各大学が個性や特色を出さなければならない時代に、文科省の顔色を窺(うかが)うようになるのではないかということである。

各省庁の天下りについて批判が高まっている。ところが、文部科学省のお役人たちが簡単に大学教授として迎え入れられるケースが少なくない。なかなか就職口が見つからない優秀な大学院生や博士号取得者の、いわゆるオーバードクターの問題を尻目に、学位も持たない、論文もあまり書いていないような文科省OBが大学教授に就任するというのは天下りといわれても仕方ないだろう。

国立大学は独立法人化によって、文科省からの交付金をあてにしないと経営が成り立たない。その交付元の人たちが簡単に、大学の重職につく構図は天下りそのものではないか。そして、その交付元であるお役所が評価基準も曖昧(あいまい)なまま、それによって交付金に反映させるのであるから、大学側の複雑な心理は痛いほどわかる。

実際に、東北地方のある大学では事実上、教育歴のない文科省の高級幹部だった人が学長に就任した。選考手続きは踏んでいるものの、国家の支配が強かった戦前でも異例のことである。

世界の趨勢(すうせい)を考えると、大学の外部評価は必須のものになりつつある。しかし、日本のこのような現状の中では、その信頼性は強く疑われてしまう。


筆者は早急に取り組む課題として次の3点を提言したい。

(1)大学の外部評価は、交付金を決める文部科学省から離れた第三者機関が行う。
(2)外部評価の判定基準、採点基準をオープンにし、できる限り国際標準に準じたものにする。
(3)当面、顕著な業績が認められない限り、文科省の官僚の大学への天下りを禁止する。

以上によって、せっかくの大学評価を実りあるものにすることをぜひとも望みたい。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/100511/edc1005110408000-n1.htm