2010年5月28日金曜日

国立大学法人化の成否

国立大学法人化の成否-4人の評論から考える (広島大学高等教育研究開発センター長 山本眞一)

国立大学が法人化して、今年度は7年目、第二期中期計画期間に入ったが、最近、これまでの6年間の総括を特集する企画があちらこちらで見られるようである。毎週月曜日に掲載される日経新聞の教育欄においても、今年3月から4月にかけて4人の有識者が「国立大学法人化を考える」という標題で寄稿し、法人化の現状やその問題点を論じていた。これらの記事を読んで、改めて国立大学の法人化を考えてみたい。


法人化が国立大学にもたらしたもの

まず4人の有識者の主張は以下のようなものであった。一人目は東京大学(当時)の金子元久氏で、法人化は行政改革の一環として行われた政治的産物であったともいえるが、長期的には法人化は必然であったとし、しかしながら政府の統制と大学への評価が大学という組織の特性に合ったものであるのか、また部局の独立性が学長の経営能力の制約になっているのではないか、などの問題点を指摘し、他方でグローバル化時代の人材養成に大学が大きな役割を果たすべきことを主張している。

2人目の青野敏博氏(徳島大学長)は、法人化によって大学の独立性が担保され、学長のリーダーシップも発揮されやすくなり、予算 の仕組みが大学の弾力的自主経営を支え、社会への説明責任の増大によって社会貢献には力を入れるようになった等の点でよい面があっ たが、他方で、法人化したとはいえ依然「文部科学省の指導を受ける立場」にあること、運営費交付金の毎年削減が大学の経営を圧迫 していること、評価対応に膨大な作業が要求されるが結果の運営費交付金への反映は微々たるものであったこと等の問題点もあったことを指摘している。

3人目は、前岐阜大学長の黒木登志夫氏であるが、記事の見出しにある「活性化と疲弊の6年」という言葉が代表するように、法人化によって予算と人事の制度が改革され、戦略的な大学運営が可能になって、教育、研究、社会貢献という大学の ミッションに向けて活性化したと評価しつつも、国からの財政支援の縮減や大学間格差の拡大などの問題が生じており、法人化の設計においても大学のさらなる自律性のもとに「活性化し充実した」大学にすることの大切さを訴えている。

4人目に登場した法政大学元総長の清成忠男氏は、国立大学は法人化によって初めて「自治」への道を歩みだしたが、独立性は制限されていて「親方日の丸」体質を完全に払拭することはできていないこと、全般的に「安上がり」の高等教育政策そのものにも問題があり、その中ですでに資源を持っている大学にさらに資金が投入され、大学間格差が広がっていることなどの課題を指摘し、政策的にはまず国立大学の自由度を拡大させて活性化を進め、体質強化を図ること、その上で運営費交付金の削減を検討するのがよいとする。

以上、4人の論調を私なりの解釈も交えて概括してみたが、要するに「国立大学の法人化には、その趣旨において優れたものがありまた成果も上がりつつあるが、大学経営や財政支援を中心に、現状には問題点も多い」というのが共通する主張ではないだろうか。そこで、これらの主張を踏まえつつ、以下の問題を考えてみたい。


法人化と政府からの独立性

第一に、法人化が国立大学さらにはわが国の高等教育全体にどのような効果を及ぼしたか、という根本問題に関してである。この点多くの論者が「法人化は不可避であった」との立場を取っている以上、法人化と大学改革とは一見不可分のようにも思える。しかし、法人化以前の1990年代初めからわれわれは大きな大学改革に直面し、そのつど、大胆な選択・決断をしてきたことを思い出すべきである。つまり、時代が大学改革を要求し続けてきたことが、この20年間の大きな特徴であった。

したがって、仮に法人化がなくても大学改革は進行せざるを得ず、法人化は大学改革と確かにかかわりがあるが、それとは別の要因によって起こった面も大きいと考えるのが自然である。つまり、法人化の是非を冷静に分析するには、法人化と大学改革とを分けて考えてみることも重要なのである。

第二に、法人化後の政府と国立大学との関係である。多くの論者がこの点について、国立大学の独立性は不十分なままだとする。私は、この点に関しては、そもそも独立行政法人の発想は、政府が司令塔、法人が実行部隊という図式にあるのだから、政府の仕事の中でも現業的部門には、つまり「何をすべきか」よりも「どのように実施するか」が問題となるような部署には適した設計であるが、高度に知的でかつ創造的な仕事が要求される大学にこれを適用するのには、さまさまな問題があるのは当然だと思う。金子氏が「政治的産物」と述べているのは、この点でまさに正鵠を射ている。国立大学法人制度下においてもこの「司令塔と実施部隊」という図式は完全には払拭できそうにない。

また多くの論者は、それでもかつての国立大学は政府の一部局であったので、法人化によって独立性は強まったというが、私はそれには若干の疑問がある。それはわが国のように政府機能が強く、また政府を信頼し、これに依存する国民性がある中では、政府中枢に近い方がかえって自由度があるという面もあるからである。この点については、私がこの連載記事として昨年3月(2009年3月9日号 No215)に書いた「国の一部局」という論考を参照してもらいたい。

かといって、いまさら法人化を元に戻すことは、政治的には不可能であろう。結局は、法人化の趣旨に沿いつつもできるだけ制度の弊害を抑えるようにするか、あるいはかつて盛んに論じられたように一部の国立大学の「民営化」の方向を模索するかのどちらかあるいはその両方ではないだろうか。

われわれはいつも、制度は単純で画一であることを好む傾向があるが、さまさまなタイプの大学があることによって、高等教育システムが総体として活性化することを忘れてはならない。複雑さも使いようによっては大きなメリットをもたらすものである。


強化された学長権限を実質的に支える

第三に、大学のガバナンスの問題である。端的に言えば、強くなった学長権限と従来からの部局自治との関係をどのように調整するかである。

多くの論者は、学長権限の強化を歓迎し、部局自治の後退を当然のように考えているようであるが、私は、部局自治を、かつてのような硬直的な教授会自治ではなく、専門分野ごとの事情の違いを踏まえた弾力的な大学運営として再評価するとともに、強化された学長権限を実質的に支える仕組みを工夫しなければならないのではないかと考えている。清成氏が指摘しているように、学長には「経営構想力やオペレーション能力」が求められる以上、学長の経営力を向上させる仕組みを大学界として構築しなければならない。

その点で、学長を補佐するスタッフの役割は重要である。すでに各国立大学ではさまざな工夫があるようだが、大学事務職員の能力開発と並んで、現実には多くの教員が大学運営に動員されていることを踏まえて、彼ら教員のアドミニストレータとしての位置付けや能力開発についても配慮することが必要だと、私は考えている。

第四に、大学に対する財政支援のあり方とその金額の問題である。基盤的経費から競争的資金への重点の移行が、近年の傾向であり、そのことはなかなか変わりそうにもないが、そもそも国立大学はじめ大学に対する公費投入が、現状でよいかという点については、OECDなどの国際比較の点からも、あるいはわれわれが見聞する先進諸国の個別大学の観察からも、もはや議論の余地があるとは思えない。これを一日も早く政治のルートに乗せて、官邸や財務当局の意思を変えさせるしか、もはや道はないのではあるまいか。この問題は、個別の国立大学の生き残りというレベルを超えて、グローバル化・知識社会化の中で、わが国そのものの生死に関わる問題であるからである。(文部科学教育通信 No244 2010.5.24)