2010年8月5日木曜日

大学予算の1割削減をどう考えますか

平成23年度予算の概算要求基準が去る7月27日に閣議決定されました。大学関係予算は誠に残念ながら10%削減の対象経費に位置付けられ、前途多難な予算編成が待ち受けることになりました。

平成23年度予算の概算要求組替え基準について-総予算の組替えで元気な日本を復活させる-(平成22年7月27日閣議決定)


平成23年度文部科学省における概算要求組替え基準の姿(文部科学省作成、臨時学長懇談会(8月2日)配付資料)




早速、閣議決定に対する、国立大学協会の文部科学大臣宛の要望が8月2日付で出されています。


平成23年度国立大学関係予算の確保・充実について(緊急要望)

平素から国立大学に対するご理解、ご支援を賜り、厚く感謝申し上げます。

さて、平成22年7月27日に閣議決定された「平成23年度予算の概算要求組替え基準について」において、国立大学法人運営費交付金や科学研究費補助金を含む文教・科学振興費が、前年度当初予算に比して総額10%削減の対象経費とされたことは、誠に憂慮に堪えません。

このような大幅な予算の削減が、平成23年度から3年間にわたり、国立大学法人運営費交付金等に適用された場合には、人と知の拠点である国立大学等の教育力・研究力は致命的な打撃を受け、資源の乏しい我が国が持続的に成長、発展していくための原動力が損なわれます。大規模大学は、その教育研究体制を大幅に縮減せざるを得ず、中・小規模の国立大学においてはその存立すら危うくなります。

諸外国が国家戦略として高等教育、科学・技術予算の充実を図っている中で、我が国においては、特に国立大学法人運営費交付金について、平成16年度から22年度の6年間で既に830億円(▲6.7%)もの削減が行われています。各法人は懸命の経営努力を重ねているものの、その努力も限界を超え、退職教員の補充ができない、若手教員が雇用できない、教員の負担過重のため教育研究に充てる時間が減少し、論文数も急速に減少している、など、大学本来の使命である教育研究そのものに対する悪影響が顕在化しつつあります。

これに加えて、今後3年間、我が国の知的基盤を支える土台を根底から崩壊させることにつながるすさまじいばかりの予算削減が実施されることになれば、文部科学大臣から示された中期目標を達成することが困難になるだけではなく、我が国の教育研究と人材育成機能を崩壊させ、国の未来を閉ざすことにもつながります。

国立大学の存立基盤の急激かつ回復不可能な劣化をもたらす機械的な予算の大幅な削減は、我が国の国際社会における位置を急速に低下させる、極めて危険な、国益に係わる致命的な施策であると言わざるを得ません。

貴職におかれましては、我が国の人材の育成と学術・文化の振興のための国家戦略を推進する責任者として、かかる事情については既に十分にご承知のところではありますが、私どもの心情をご賢察頂き、今後の概算要求案の策定に当たり、大学運営の基盤的経費である国立大学法人運営費交付金の拡充、教育機会均等の確保のための教育費負担の軽減、地域医療の最後の砦である国立大学附属病院に対する支援の充実、教育研究の基盤となる施設・設備の整備、基礎研究や萌芽的研究を支える科学研究費補助金の拡充など、国立大学関係予算の確保充実について、格別のご理解とご配慮を賜りますようお願い申し上げます。
http://www.janu.jp/active/txt5/yosan100802.pdf


一般国民の皆様にはやや難解な内容の文章で、どれだけご理解いただけるのか甚だ不安ですが、それにしても今年は例年以上に厳しいシーリング事情ということで、国立大学協会を中心に、各国立大学法人の学長先生方は、この灼熱の暑さの中、国会議員や地方の首長さん回りをしたり、共同して記者会見を開き、国立大学法人の存在意義と予算措置の必要性を訴えたりと多忙な日々を送られています。

国立大学法人の存在意義を国民の皆様にご理解いただくことは、なかなか簡単なことではありませんが、国立大学法人の運営には多額の税金が投じられており、概算要求や予算編成の時期だけでなく、普段から各法人の活動状況を積極的に公開し、地域の知の拠点としての存在意義を示す努力を怠ってはいけません。


関連して「国立大学の役割-その意義をいかに主張するか」と題する広島大学教授・高等教育研究開発センター長の山本眞一氏の論考を抜粋してご紹介します。

政治の世界にどう繋ぐか

もともと、高等教育を含めて学校教育はきわめて公共性の高いものである。学校教育法が、学校の設置を私人の自由に任せずに、国、地方公共団体および学校法人のみに認めているのはそのためであって、私立学校といえども公共的性格から一定の枠組みの中での運営が求められている。まして国立大学には、さらに公共性の高い分野について、その役割を十二分に果たすことが求められていると言うことができるだろう。その意味で、国大協の自主行動の指針の中で「国立大学は、政府資金によって維持されることで、消費者の家計にのみ依存せず、先端的・創造的な基礎・応用・開発研究の推進、数量とも充実した教員による学士課程・大学院教育の実施、地域・産業との連携などを一体的に行い、我が国の高等教育システムにおいて、基幹的な役割を果たしてきた。」と述べられていることは、きわめて適切なことであると私は考えている。

ただ、いかに正論であっても、政府を動かし、また世論の支持を取り付けることは難しい。それは社会にはさまざまな分野があって、それぞれが存在理由を主張する中で、これにかかる経費は、社会全体が負担可能な金額の総額を大きく上回るのが常であり、従って声の大きなグループがより大きな分け前に預かるという「政治の世界」の現実がそこにあるからである。国立大学は、大学院でこそ過半数の学生を受け入れているが、学士課程では二割の学生を引き受けているに過ぎない。一般国民や私学関係者の感覚からすれば、一部の学生や大学だけなぜ優遇しなければならないのかということになるだろう。その素朴な疑問を乗り越え、高等教育界を挙げてこの分野の充実を図っていくのは容易ではない。

結局、国立大学の役割を明確にし、その役割にふさわしい取り扱いを受けるためには、国立大学自身の改革努力とともに、高等教育や学術研究の意義を説明し、その中での国立大学の役割に対する社会の理解をとりつけ、これを「政治の世界」にうまく繋げる工夫が必要であろう。昨年の行政仕分けの中で、科学技術に関して、高名な学者たちが反対の大きな声を上げたことで一定のブレーキがかかったようであるが、法人化によって経営の自由度を増した大学やそれを束ねる国立大学協会にあっても、これまでの陳情とは異なる一段と高い次元で、国立大学の役割をアピールしていかなければならないのではないか。ゆくゆくは公私立大学も巻き込んだ形での主張が必要と考えるが、とりあえずの提言にとどめておきたい。(文部科学教育通信 No247 2010.7.12)