2010年8月22日日曜日

興南高校の偉業

今年の全国高校野球選手権大会は、沖縄県代表・興南高校の初制覇(史上6校目の春夏連覇)で幕を閉じました。

戦後65年が経ち、悲願の優勝旗が、ついに沖縄の地に渡ることになりましたが、これまで幾多の辛酸をなめてきた沖縄県民の皆さんにとっては喜びもひとしおだと思います。

興南高校の優勝は、沖縄野球のレベルの高さを確立し、高校野球の歴史に沖縄の名前を刻むという輝かしい功績を残しただけでなく、これまで沖縄が歩んできた苦難に満ちた道のりを多くの国民に改めて考えさせることになったという意味でも”偉業”なのではないでしょうか。

天声人語 (2010年8月22日 朝日新聞)

1週間前の終戦の日、戦火に散った一兵卒の詩人竹内浩三について書いた。三重県伊勢市にある浩三の墓を10年ほど前に訪ねたことがある。手を合わせていると、近くに野球のボールをかたどった墓標があった。やはり戦死した伝説の名投手、沢村栄治が眠る墓だと教えられた。

沢村は浩三と同じ宇治山田市(現伊勢市)の生まれ。京都商業から春夏3度、甲子園に出場する。草創期のプロで活躍したが、時代は野球を許さなかった。召集をうけて南方に向かう途上、船が沈められて27年の生涯を閉じた。

きのうの高校野球決勝を見ながら、その墓標がふと胸をよぎった。二つの原爆忌のはざまに開幕した甲子園は、終戦の日を過ぎて、沖縄・興南の春夏連覇で幕を閉じた。若い白球の宴が、平和を祈る季節と重なるのは、毎年ながら天の配剤のように思われる。

沖縄勢の出場は1958(昭和33)年の首里高に始まる。米軍占領下からの出場は大きな拍手で迎えられた。だが沖縄は「外国」だった。持ち帰った甲子園の土は植物防疫法に触れるとして那覇港に捨てられる。

後日、同情した航空会社の客室乗務員たちが消毒した甲子園の小石を学校に贈った。美談はいつも悲話と裏表だ。それから半世紀と2年が流れ、土ではなく優勝旗が沖縄へ渡る。

〈それは単なる野球場の名称ではない。こんな叙情的なひろがりをもったスタジアムが世界じゅうにあるだろうか〉と詩人の谷川俊太郎さんは甲子園を言う。平和に抱かれてこその叙情であろう。思いを新たに、白球の夏を見送る。
http://www.asahi.com/paper/column.html


興南春夏連覇-沖縄が風を巻き起こした (2010年8月22日 朝日新聞)

甲子園に、新たな歴史が刻まれた。

全国高校野球選手権大会で、興南が沖縄勢として初優勝を飾り、史上6校目の春夏連覇を果たした。

参加4028校の頂点に立つまでの、はるかな道程を思う。深紅の大旗を手にした選手たちに、心からおめでとうと言いたい。

積極的な打撃は決勝でも変わらなかった。4回に東海大相模から7点を奪った攻撃は圧巻だった。ウチナーンチュ(沖縄人)らしい伸びやかさと、はじけるような強さがあった。

沖縄の人々は、米国統治下の時代から何かにつけて「本土に追いつけ」と自分たちを奮いたたせてきた。高校野球も、そんな意味でスポーツを超えた存在だ。時にみずからの人生を重ね合わせ、見守ってきた。

興南の我喜屋優監督は1968年夏、同校が沖縄勢としてはじめて準決勝に進出した時の主将である。本土復帰の4年前。パスポートにあたる身分証明書を手に、甲子園に向かった。

この時の快進撃は「興南旋風」と呼ばれ、沖縄が、日本中が熱狂する。

「勝つたびに復帰が近くなるように感じられます」。琉球政府の行政主席は、そんな電報を打ったという。

夏の甲子園が復活した46年、沖縄では、第1回全島高校野球大会が開かれた。20万人余の犠牲を出した沖縄戦の傷跡が残る島に、硬球はなかった。米軍が持ち込んだソフトボールを流用し、塁間をちぢめて試合をした。

58年、40回記念大会に特別枠で首里高が出場、沖縄勢がはじめて甲子園の土を踏む。平均身長163センチの小柄なチームは初戦で敗れたが、観衆からは大きな拍手が送られた。地元紙は「アルプススタンドで一日日本復帰」と、その様子を伝えた。

72年の復帰後、沖縄の野球はだんだんと力をつける。一年中練習に打ち込める温暖な気候。地元選手が本土の大学などで学んだ野球を、指導者となって持ち帰る好循環。それらが沖縄の高校野球を底上げしていった。

沖縄水産が90、91年の夏、2年連続で準優勝し、本土を追う時代から、追われる時代になる。99年の選抜大会で沖縄尚学が県勢初優勝。本土からも練習試合におとずれる学校が増え、島のハンディは小さくなっていった。

「沖縄の復興は、まず高校野球から」。沖縄高野連の生みの親で日本高野連の元会長、故・佐伯達夫氏はかつてこう語ったことがある。その頂を、いま沖縄はきわめた。

昨年来、沖縄は米海兵隊普天間飛行場の移設問題で揺れている。

長い過酷な道のりを歩んできた沖縄の人々の心に、興南の偉業は何を刻むだろうか。

「旋風」から42年。さらに大きな風が、猛暑の夏に巻き起こった。
http://www.asahi.com/paper/editorial20100822.html#Edit2


島の悲願 (2010年8月25日 朝日新聞)《後日追記》

全国高校野球選手権大会で、興南が沖縄勢として初の優勝を決めた。決勝戦があった時間帯、観戦のために那覇周辺の通行量は激減し、深夜のようだったという。「大願ついに」。地元紙は1面から社会面までを興南の記事で埋めた。

県民の多くは、ただのスポーツに過ぎない高校野球に「沖縄」そのものを重ねている。そう感じていたのは、沖縄水産を率いて2年連続の準優勝をした名将、故・栽弘義監督だった。

「甲子園で優勝するまで沖縄の戦後は終わらない」。栽監督が語ったとされた言葉だ。だが本人は、そんなことを言ったおぼえはない。「甲子園で勝っても、戦後は終わりはしない。でも、本土校に勝って優勝したら、いろいろな思いが消えていくとみんな思っていたのだろう」

監督の背中にはやけどの跡があった。4歳の時、沖縄戦で米兵の手投げ弾を受けたのだという。凄惨な沖縄戦、戦後の異民族支配、復帰後も続く基地の重圧、そんな県民の記憶と痛みすら、その背中は負っていたのかもしれない。

決勝戦は、興南高校に約1800人が集まって応援した。その雰囲気は、普天間飛行場県内移設に反対する県民集会に似ていた、とその場にいた知人は話す。「島がひとつになったようだった」

甲子園で優勝しても消えることのない重い現実を、この島は抱えている。それでも、高校生たちの殊勲を希望とし、我がこととして喜びたい-。そんな沖縄の人々の胸裏を思う。