2010年11月19日金曜日

Okinawa 2010  座間味島の集団自決 (4)

前々回、前回に続き、「沖縄戦体験記第21号『連行された逃亡兵』」(平成21年3月発行、宮城恒彦著)から、「第三話 幻影の兵士(内間弘子の証言)-米軍上陸」を抜粋してご紹介します。

米軍上陸

二十六日の朝になりました。やっと艦砲の音も消え、飛行機の姿も見えなくなっていました。空襲や砲撃はもう終わったのだと、弘子たちの壕の人たちはほっとしていました。

しかし、その頃、残してきた祖父母の隠れている壕の入り口では「皆サン、出テキナサイ。心配シナイデ。大丈夫デス」と、誰かが日本語で呼びかけています。あの声は朝鮮軍夫の話し方だ、日本は戦争に勝ったんだと、祖父は早合点してしまい、声のする方へ急いで進んで行きました。すると、そこには、青い目をしたアメリカ兵が銃を向けて数名立っていたのです。祖父は突然の出会いに頭は白くなり、呆然と立ってしまいました。日本語で話していたのは二世の通訳でした。「家族は他に居ないか」と聞かれたので、丘の中腹の壕に隠れている弘子たちのところへ案内してきたのです。

弘子たちの壕の辺りが静かになったと思ったら、入り口で、「出テキナサイ。大丈夫デス」「カマオン。デテコイ デテコイ」と二人の声がします。一人の言葉には、なまりが強く、間いたことがない抑揚です。

丘の中腹なのに、どうして此処が分かったんだろうと、声のする方を見たら、脚の長いアメリカ兵の股の間から、すまなそうな顔をして立っている小さくなった祖父の姿が見えたのです。

アメリカ兵に銃を向けられたので、壕の中の人たちは一斉に手を挙げてぞろぞろ這い出ていきました。銃を構えた米兵たちは、腰の周りに手榴弾や拳銃、そして、水筒みたいなものなどをぶら下げています。そして、何を食べているのか、やたらに口を動かして「パチ、パチ」音を立てています。馬鹿に体が大きく見えました。殺されるのだと、みんな震えていました。

ところが、弘子の家族(父・姉・弘子)を残して他の者たちは数名の兵士に誘導されながらその場から連れていかれたのです。「私たちだけを残してどういうわけだろう。ここで銃殺されるんだろうか」と、まだ体の振るえが止まりません。

しかし、弘子の家族は村人の隠れている壕を回って、降伏を呼びかける役目をさせられたのです。三人といっても、弘子と姉の敦子は父の後について行っただけでしたが。父の傍には通訳と一人の米兵がついていました。先になって歩いていた彼らが山陰に隠れた時、父は「お母さんも本島で死んでいるはずだから、私たちも死のうなあ」と弘子と姉を振り返って話しかけてきたのです。母は長姉のお産後の手伝いのために嘉手納にいましたが、その頃にはすでに羽地に避難していたのです。

「死」という言葉を聞いた瞬間、弘子は「私は死なない」と叫びながら、来た畦道を駆けて戻っていきました。そして、芋畑の中に伏せ、芋づるをぎゅっと握って、がたがた震えていました。どうしていいかわからなくなってしまいました。

しかし、間もなくして「弘子、もういいよ、死なないよ。大丈夫だよ。来なさい」と父が真剣な口調で繰り返して呼びかけてきたのです。しかし、弘子はすぐには行動に移せませんでした。しばらくしてから、ゆっくり、おそる、おそる、戻っていきました。

見ると、父を前にした二世の手に手榴弾があったのです。おそらく、忠魂碑の後ろで怪我して死んだ日本兵から父に渡されたものを取り上げたのでしょう。

その後、壕に隠れている村人たちを説得して回りました。「仲宮平ヌ 太郎エシガ 大丈夫エクトゥ 出ティクーワ」と、呼びかけました。

すると、道を挟んで向こうに広がる田んぼの畦を色鮮やかな着物を着た三人の女性たちが米兵に先導されて歩いていく姿を弘子は見たのです。確かめたら、ミヤー(金武)家の朝子の家族でした。どうして、こんな時にこんな格好して居るのか、不思議でした。

道すがら、芋畑の中に着物を着た村の男の人が死んでいて、松の枝でまばらに覆われて横たわっていました。初めて戦争で死んだ人を見た弘子は神経が高ぶってきました。

一つの壕に入り口にやってきました。弘子の父は、壕の中を覗いて「ハンマヨー アンシ ムヌサルムノー」(何んてことをしでかしたんだ)と絶叫しました。後ろについていた米兵たちも、展開されている惨状を見て「オー マイ ガッド」と、言ったきり、言葉が続きませんでした。ある家族の集団自決の場面を目撃したのです。二人の女性が首から血を出して苦しんで倒れています。一人の男の子はすでに息絶えていました。自分も首から血を流して、亡霊のように立ちすくんでいる父親の手には血のついた剃刀が握られていました。
                                                        
一足遅かった、と弘子の父は嘆きました。それでも、気を取り直して壕を捜しまわり、降伏の説得を続けたのです。

村の知人が呼びかけているので、安心したのか、あちこちの壕から避難していた人たちが続々と出てきたのです。その中を大柄な米兵が一人の小母さんを背負ってくるところに出会いました。ぐったりと背にもたれている彼女の喉の辺りに目をやりました。すると、そこには五、六センチにも見えた三日月形の赤い傷口がばっかり開いていたのです。そして、苦しい息をするたびに血に染まった泡が噴き出して米兵の肩に飛び散ります。小学校一年生の弘子には耐えられない情景で
した。見た瞬間、その場にすくんで動けなくなってしまいました。悪夢を見ているようで、気が遠くなりました。

弘子を抱いて歩いていた一人の米兵が彼女の気づけ薬にもなるからとの配慮からか、チョコレートを食べさせようとして、差し出しました。たちまち、近くにいた姉が「駄目よ、弘子 毒が入っているよ」と叫んだのです。すると、米兵は割ったチョコレートの半分を自分で食べながら、「オーケー・  オーケー」 を繰り返し、「なんでもないよ」と示しました。ところが、姉は「残りの半分に毒が入ってるんだよ。食べてはいけない」と、まだ疑って、強い口調で制止しました。

収容されたのは村役場でした。弘子の家族が行く頃には五十名ほどの人たちが役場に捕虜として収容されていました。弘子は米兵から箱に入れられた菓子をもらいました。腹はすいているので、手を出そうとしたが、姉のあの厳しい忠告が浮かんできて、口にできませんでした。そこへ、先に捕虜になって菓子の味を覚えた数名の餓鬼どもが飛んできて、かっさらい、瞬く間に箱はからになっていました。

弘子たちが丘の中腹の壕へ移動した後、自分たちの壕には祖父母だけが残ってしまいましたが、二十六日(米軍上陸)の朝、壕の入り口で「出て来い」と米兵が呼んでいるのを仲間の声と勘違いして出て行った祖父はすぐに保護されました。一人だけ壕の奥一で布団を被っていた祖母はそれを知らず置き去りにされていたのです。

三日経っても、誰も祖母を迎えに来ません。水と黒糖でどうにか、飢えはしのげたが、辺りがあまりにも静かなので、不安になりました。それで、不自由な足を引きずりながら、壕の入り口まで這っていきました。日は暮れかかっています。幸いに近くを一人の村の男性が通りかかりました。

「エーエーッ、仲宮平ヌ オバーエシガ タシキティ クレー」と大声を出しながら手招きしました。近寄ってきた男性に背負われて収容所となっていた役場まで連れて行かれました。家族の顔を見た
オバーは「イッターヒャー 親不幸者チャー ムノー ウマーン ワン一人 フンナギティ」とかんかんに怒っています。その時、父親は不在でした。オジーと弘子姉妹は下を向いてオバーの小言を聞くだけでした。

家族の者は、捕虜されても殺されるものと思っていたので、オバーのことは、すっかり忘れ、頭にはなかったのです。


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