2011年6月30日木曜日

ステークホルダーに対する説明責任を伴う自治

大学経営の苦悩-政府・学長・教授会(広島大学高等教育研究開発センター長 山本眞一)(文部科学教育通信 No270 2011.6.27から引用)


国立大学経営に苦労が多い理由

前回、私は「つぶれるかもしれない私立大学の経営が楽しくて、つぶれる心配のない国立大学経営に苦労が多いのは何故でしょうか」と、日本高等教育学会の大会シンポジウムで質問したことを書いた。そしてそれは講演者に対する質問にとどまらず、現在の国立大学が置かれた立場に関係するのではないかと思ったので、そのように書いたのであった。

それではなぜ、国立大学経営に苦労が多いのだろうか。もっとも大会時の二人の講演を単純に比べることはできない。私立大学の経営について述べた静岡産業大学長の大坪檀氏は、中小企業の経営に比べて私立大学は楽だと言ったのであり、国立大学の苦労を述べた国立大学財務・経営センター理事長の豊田長康氏は、以前に比べて国立大学の経営が苦しく、それが教育や研究実績にも影響を及ぼしているという観点から大学経営を論じたのであるから、そもそも比較の基準が違うわけである。

しかしそれにもかかわらず、私には国立大学の経営の苦悩というものを容易に想像することができる。それはなぜか。一つは法人化の設計そのものによるのであり、二つには法人化にもかかわらず変わるべきものが変わっていないということによるのではないかと思うからである。

もともと、国立大学の法人化は、国立大学を政府の一部局から解放して法人格を持たせ、自主自立の精神で効率的に経営を行わせることによって、それぞれの大学に特色ある発展を遂げさせるところに大きな目的があった。法人化以前の国立大学においては、大学自治の絶対視と、教特法によって守られた教官の地位とに支えられて、大学は政府の意向とは関係なく、また社会との関わりも少ないままに管理運営することが黙認されていた。また学内ではいわゆる部局の自治が強く、大学全体としてはまとまりに欠ける場合もしばしば見られた。東京教育大学の筑波移転をめぐる学内の混乱などはその最たる事例ではなかろうか。その上、部局の自治はその部局の教授会による自治であって、学部長はせいぜい同輩教授の中から選出される世話役であり、学長も部局の利害を調整するコーディネーターのような役割であった。

しかし、他方で国立大学は政府の一部局としての位置づけであったから、とくに財務を中心に国の定めた細かい運営規定に制約されて、大学独自の経営判断が働く余地はきわめて少なかった。政府のさまざまな規制や施策の限界をたくみに読み解き、また政府中枢の耳より情報を誰よりも先にキャッチできるような事務局幹部が尊重され、学長も教授会もいわばお釈迦様の掌にのせられた孫悟空のような存在であったといえるであろう。


何に注目して判断するか

この強かった大学自治と政府の制度的規制のどちらに注目するかによって、国立大学の法人化の評価は大きく分かれるであろう。なぜなら法人化以前の大学自治は、政府の庇護の下で自由放任された自治であり、法人化後の大学自治はさまざまなステークホルダーに対する説明責任を伴う自治であるから、そのどちらを心地よいかと問われれば、前者のほうに軍配が上がるからである。とりわけ、それまで部局の自治を謳歌していた教授会メンバーにとっては、法人化によって、大学全体としての社会的責任の発生とともに、大学の経営陣からの圧力というものを感じないはずはないであろう。私が昨秋、ユネスコ関係の調査研究で広島大学の教職員の意識調査をしたとき、各部局に所属する教員よりも、大学本部で仕事をする管理職や一般事務職員のほうが、法人化によってさまざまな活動の自律性が強まったと答えていたことを思い出す。

一方、政府の細かな規制から解放されて大学の自主的判断の余地が強まったという側面に着目すれば、文句なしに法人化は大学自治を強める効果をもたらしたということになるであろう。近年、世界的に大学の自律性すなわちオートノミーが強まる傾向にあるといわれているのはこのことであり、近年の大学自治は、説明責任を伴うという点でかつての大学自治とは異なるのである。

以上のような図式をまとめると、ここに示した図表(省略)のようになるのではないか。つまり法人化以前においては、部局の教授会の勢力が極めて強く、一方で政府の諸規制もまた同じように強かった。ここでは学長あるいは大学の経営層は学内では部局の代表の集まりである評議会そして部局そのものである教授会の撃肘を受け、さらに対外的には政府の強い規制に活動を制限されていた。ただし、学問の自由に関わることがらはまったく別であるので念のため。法人化後は、ベクトルが逆向きになり、学内的には学長は理事等の補佐を受けつつリーダーシップを発揮できるようになり、また対外的には政府の細かな指示を受けることなく大学経営ができるようになった。このようにして、新しい概念でいう大学自治は、従来の部局中心の自治から大学全体としての自治に変貌を遂げたのである。


建前と実態の相違も

ただし、以上はあくまで建前の世界であって、実態はかなり違って見えるというのが多くの関係者の感想ではなかろうか。その原因の一つに法人化の設計そのものがある。つまり国立大学法人は、学校法人とは異なり、必ずしも大きな自由度を与えられているのではない。それは中期目標・計画を通じて、活動の大方針について政府と約束をしなければならないこと、運営費交付金は確かに自由度の高い財源であるが、人件費の公務員準拠その他さまざまな制約が依然として残っていること、中期計画終了時には政府の委員会による評価を受けなければならないことなどに代表される。

原因の二つには、法人化が予想していたようには現実の運用が伴っていないことがある。たとえば、学長のリーダーシップが制度上保証されているとはいえ、多くの異なる専門家集団を抱える大学では、やはり部局ごとの自主性を認めていかないと大学はうまく回っていかない。また、学長自身の裁量権が大きくなったとはいえ、経営の結果責任が問われるということになると、事前に政府の方針や解釈を確認したくなるのも致し方ないところである。そうなると結局は横並びが一番よろしいということになって、法人化のメリットを活かしきれないことになる。

原因の三つには、何といっても政府の予算とりわけ運営費交付金の減額が続いていることである。全体のパイが小さくなる環境下では、いかに有能な学長や理事といえども、その裁量の余地はますます限られたものになりがちである。また、重要新規施策に競争的資金が伴っていることも、大学の自主性を妨げる種が隠れている。

以上のような状況を考えると、私立大学との単純比較は困難だが、確かに国立大学の経営は難しそうである。しかも国立大学はつぶれる心配がないというのも、どうやらかなり怪しい仮定である。つまり私立大学は市場メカニズムに従い、衰えつつつぶれていくというのが普通であるが、国立大学は勢い盛んな場合であっても、何かのきっかけで政治判断がなされると、いとも簡単につぶれてしまうということも全くの夢想ではない。用心には越したことはない。(文部科学教育通信 No270 2011.6.27)