2011年12月11日日曜日

成果のあるところに資源を投入する(ドラッカー)

あらゆる組織にとって成果こそが判定基準である。非営利組織はすべて人と社会を変えることを目的にする。しかるに成果こそ、非営利組織にとって最も扱いの難しい問題である。

私はよく企業と非営利組織の違いを聞かれる。違いは多くない。しかし最も重要な違いが成果である。企業は、成果を狭く定義しがちである。その典型が財務上の収支である。だが、もし企業が財務上の収支だけを成果の測定尺度とし活動の目的とするならば、長期にわたって繁栄することはもちろん、生き残っていくことも覚つかなくなるに違いない。収支だけを尺度としたのではあまりに狭い。

しかし企業の尺度が具体的であることは認めざるをえない。市場シェア、イノベーション、キャッシュフローにしても、数値化は容易である。改善しているか否かについて議論の余地はほとんどない。

非営利組織にはそのような数値はない。そのうえ非営利組織にはもともと成果を軽視する傾向がある。「われわれは大義を奉じている。神の仕事をしている。人の人生をよりよいものにしている。したがって仕事そのものが成果である」という。

だが、それではよい仕事はできない。企業が成果のありえないところで資源を浪費すれば、失うのは自社の資金である。ところが非営利組織では失うのは人の金である。寄付してくれた人の金である。したがって非営利組織といえども、寄付した人に寄付金の使途を説明できなければならない。

金は成果のあるところに投入しなければならない。したがって成果の問題は非営利組織にとって厄介な問題である。よき意図だけでは転落の道をたどる。

非営利組織にとっては「われわれにとっての成果は何か」という問いに答えることはきわめて難しい。しかし答えなければならない。事実成果は測定できるものであることもある。救世軍は宗教団体であるが、肉体的、精神的に立ち直らせたアルコール中毒者のパーセンテージや、更生させた犯罪者のパーセンテージを把握している。いずれも優れて定量的である。

ところが非営利組織の多くは、いまだに成果を具体的な形で把握することを避ける。たとえ評価できたとしても質でしかできないとする。「資源を有効に使ったか、いかなる成果を得たか」などと聞こうものならば、木で鼻をくくった返事しか返ってこない。『新約聖書』のタラントの教えを思い出させたくなる。人と金という資源は、見返りが大きなところに投入しなければならない。

成果は一種類ではない。直ちに得られる成果もあれば長期的な成果もある。いかなる成果があるかを正確に把握することは難しい。しかしわれわれは、「事態はよくなっているか」「成果があるところに資源を投じているか」は問わなければならない。