2012年4月28日土曜日

経営者の人事権は独裁権ではない(土光敏夫)

経営者にとって最も大きく重い負担は、人事である。経営者は確かに人事権をもつ。しかしそれは独裁権であってはなるまい。それはいわば、神の前に頭を垂れ畏れ謹んで行使すべき権限なのだ。

人間はいかに上位者であっても、完全人ではない。上位者にも判断の誤りというものはある。ひとりの上位者の判断によって、ひとりの人間の一生を左右するのは、神をも畏れぬ所業といわねばならぬ。それゆえ、人事はひとりで決めてはならぬ。

私は、人事は広くディスカスして決めることにしている。どの階層の人であろうと、すべての関係者を集めて、その人事がその人を、今まで以上に生かすことになるのか、更に新生面を開くことになるのかを、子細に討議する。衆智をあつめて誤りなからんことを期するのである。

しかし、衆智をあつめて最後に決める責任はトップにある。トップはそのとき、神に祈る心境で人事を決するのである。


2012年4月27日金曜日

所を得る(ドラッカー)

自らに刺激を与えるうえでも、ある種の変化が必要である。その必要は、ますます人が長生きするようになり、ますます長く活動できるようになるにつれて大きくなる。10年から12年同じ組織で働いてきたというボランティアが組織を変わる。日常を変えたくなったためである。あるいは、学ぶべきことがなくなったためである。このことは特に重要である。仕事において学ぶことがなくなれば、人間の大きさが一挙に小さくなるからである。

例えばアメリカ赤十字の社長リチャード・シュバードは、労働問題の弁護士をしたあと、企業の人事部門に入り、40代で政府機関に移り、再び企業に戻ってから赤十字に入った。まさに彼は、異なる組織文化の中でいろいろな人と働いてきたために図抜けて有能になった。

日常化した毎日が心地よくなったときこそ、違ったことを行うよう自らを駆り立てる必要がある。「燃え尽きた」とは、たいていの場合飽きたというだけのことである。くだらないことと思われるもののために朝出かけるほど、疲れを覚えさせられるものはない。必要なのほほんの小さな変化である。校長だったら、他の学区を訪れてそこの校長方と共通の問題について話し合うことでもよい。

週に60時間働いている非営利組織のトップにとっては、週に3時間をまったく異質の仕事に使うことが、魔法のように効く。働きすぎているからこそ、精神的にも肉体的にも使ったことのない部分を使うという刺激が必要である。なぜならば、日常のほとんどの仕事は繰り返しだからである。

喜びは成果の中になければならない。石臼に向かいながらも丘の上を見なければならない。仕事に飽きたということは、成果をあげるべく働くのをやめたということである。目もまた石臼を見ているに違いない。

仕事から学び続けるには、自分の期待に成果をフィードバックさせなければならない。重要な活動は何かを知らなければならない。それらの活動において何を期待するかを書きとめておく。9か月後、あるいは1年後に、成果とその期待を比べる。そうすることによって、自分は何をうまくやれるか、いかなる能力や知識を必要としているか、いかなる悪癖をもっているかを知ることができる。

私のように諦めが早いことに気づくかもしれない。私は、ひどく気が短いことに気づいた。人によっては、ありがちな悪癖として、人のいうことを聞かないために成果が生まれないことに気づくかもしれない。

もちろん、自らの行動からしか学べないわけではない。組織の中、まわり、知り合いにも目を向ける必要がある。「彼らは、何について立派にやっているか。それをどのようにやっているか」。いい換えるならば、成功に目を向けなければならないということである。「誰にとっても難しいと思われるあのことを、ジョーはいかにやっているか」。それを自らもやってみる。

仕事を変え、キャリアを決めるのは自らである。自らの得るべき所を知るのは自らである。組織への貢献において、自らに高い要求を課すのも自らである。飽きることを自らに許さないよう予防策を講じるのも自らである。挑戦し続けるのも自らである。

2012年4月26日木曜日

大学改革に向けた提言

公益財団法人世界平和研究所が公表している提言をご紹介します。

大学改革試案(2012年4月9日)


1 憂うべき高等教育の凋落

教育は国家形成の基幹であり、国家百年の大計である。教育は個人主義の観点から個性を自覚・確立させると同時に、地域・国家といった社会集団への帰属意識・責任感を涵養する。公私の精神においてバランスのとれた健康で健全な人間の育成は、教育の究極的使命である。

特に21世紀の世界的潮流であるグローバル化時代にあっては、日本人として自信・誇りの育成という教育の原点に立ち返りつつ、個人の能力をいかんなく発揮し、海外と互角に世界の舞台で活躍する人材を多数輩出することは、日本の教育に課された急務である。

しかし日本の教育制度は、戦後60余年の間、抜本的改革も実施されてこず、世界の潮流に全く取り残されてしまっている。中でも海外に後れを取り、グローバル人材を養成できない高等教育の著しい低迷・凋落ぶりは、誠に目に余るものがある。

その最大の要因は、「大学の自治」の美名の下に、専ら現職の教員が自らの利益を守ることだけに汲々とし、教育の果たすべき本来の役割がないがしろにされる本末転倒の状態が続いてきたことによる。強い身分保障の下で、いったん大学の教員として採用されると、不祥事さえ行わなければ、教育や研究活動を疎かにしても、解雇どころか何の制裁も受けない制度が、教員の質の著しい低下を招き、日本の高等教育を全く堕落させてしまっているのである。

かつての大学教授には非常に権威があった。確かに現在でも世界的な研究業績をあげ、優れた教育によって多くの人材を輩出している尊敬すべき大学教授もいる。しかし全体としてみれば、雨後の竹の子のように数だけは多いが、大学の教員の権威は全く地に堕ちてしまった。これまでの高等教育改革も、このまさに本質的な論点が手付かずだったために、周辺部分の改変にのみとどまってきた。しかもそうした小規模改革でさえ、残念ながらほぼ失敗に終わってきた。具体的には3つの点に集約される。

第1は、大学院重点化である。90年代以後の大学院重点化では、量的拡大を余りに急ぎすぎ、教員・学生の両面で、質が著しく低下している。これは鳴り物入りで導入された専門職大学院で特に露呈しており、法科大学院を卒業しても司法試験になかなか合格できないという悲惨な状況にあるのは周知の通りである。また大学院の教員数を減らされないために、大学側が無理に入学者数を確保するというあるまじき行為まで散見されるのである。

第2は、専門課程重視である。これは2つの結果を招いた。まずは教養教育の顕著な劣化である。大学生が当然身に着けるべき最低限の教養もおろそかにされ、日本や世界の基礎的な知識や理解も覚束ない「学士」が世の中に氾濫している。次は、大学の予備校化である。多くの大学では、本来の高等教育機関としての役割を放棄して就職活動支援機関と化し、単に資格取得や就職試験のためのノウハウだけを教える予備校になってしまっている。

第3は、センター試験制度の導入である。80年代に導入されたセンター試験(当初は共通一次試験)は、多くの私立大学でも入試として利用されるようになった結果、入試制度の画一化と大学の序列化が著しく進行した。本来、入学試験は各大学がその教育理念に応じて、入学させたい学生を独自に判断すべきであり、現在よりも試験科目を増加させることは確かに必要だが、時期や選抜方法はもっと大学の独自色を出すべきであろう。しかしセンター試験制度はそれぞれの大学の個性や独自性を奪い、1年に1回限りの記憶力を重視した試験によって、受験生を非常に限定的な能力をもとに序列化した。その結果、志望大学を偏差値だけで選ぶ志向を助長させ、本格的な思考力を養う機会を奪ったのである。

このように、戦後日本の高等教育機関が現職教員の既得権の牙城と化し安穏としている間に、国際競争力は著しく低下し、欧米はもちろん、他のアジアの大学にも後れを取りつつある。さらに海外に雄飛する日本人も激減し、内向き志向が蔓延し、世界に向かって挑戦する精神も大きく減退している。

日本の高等教育の抜本的な再生・立て直しは、グローバル化する今世紀の国際社会で日本が自信と誇りを保持し、世界に積極的に貢献するための不可欠な基盤である。国際社会の中で生き抜くための健全な日本人は、日本や世界の歴史・文化・伝統への深い理解に立った上で、グローバル化の進展の中で切磋琢磨できる能力、自らの意見を堂々と述べ相手を説得する勇気・手段と同時に品性・自律・寛容さを持った人格を備えることが不可欠である。

このような問題意識の下、世界平和研究所では、2011年5月に初中等教育改革を念頭に置いた「教育改革試案」を公表した。この試案では、初中等教育の目標を、個性の自覚・開花とともに、日本の歴史・伝統・文化への基本的理解を通じた国家観、国家意識の涵養に置き、そのために具体的方策として、現状の教育委員会の廃止による首長主導の教育行政への制度的大転換を主唱した。

本提言は、こうした初中等教育の改革の上に立って、凋落する日本の高等教育の本質的な問題点をえぐり、大胆な改革の提案を行うものである。

2 エリート教育3原則

これからの日本の高等教育の目標は、明確に「エリート教育」の確立に置かれるべきである。「エリート」とは、社会的に成功が約束されている優等生という通俗的理解でなく、本来の意味として自らの利害と関係なく他者や社会のために尽くす、社会の発展に不可欠な存在である。具体的には、「エリート教育」は相互に密接で不可欠な次の3つの原則によって徹底的に再構成されるべきである。

第1の原則は、グローバルな人材の育成である。21世紀はグローバル化の世紀であり、日本も受け身でなく積極的にその大きな潮流を自分のものにしなければならない。つまり日本の好機としてとらえ、世界を舞台に活躍できる人材を多数輩出する必要がある。そのためには、国内の狭隘な市場でなく、世界市場で対等に切磋琢磨できる能力、自らの意思を明確に表明し、相手の主張を的確に理解した上で、相手を説得する知識、論理そして手法を身につけるコミュニケーション能力を十分に涵養する必要がある。

第2の原則は、幅広い教養を備えた人材の育成である。グローバル市場で活躍する人材には、それぞれの分野での専門知識や理解が欠かせない。しかし例えば英語が堪能で、ビジネスにおいて短期的な利益を挙げることが、日本の高等教育の目標ではない。長期持続的に真に世界に貢献できる人材には、日本の歴史・伝統・文化へ精通しているだけでなく、世界の歴史・伝統・文化や世界が現在直面する深刻な地球的課題についても、広範でかつ深遠な知識を習得し、そうした知識基盤をもとに、冷静かつ大局的な判断力を育んでおくことが不可欠である。グローバル時代において知識フロンティアに直面し、山積する答えのない問題に挑戦するためには、幅広い教養のない底の浅い人間では、すぐに馬脚を現してしまい、国際社会で信用されない。

第3の原則は、人格形成を伴った人材の育成である。人格の陶冶は個人が一生をかけて行うものだが、初等中等教育では、個性の確立を促すと同時に、日本の歴史・伝統・文化への理解、美しい日本語の習得、将来なりたい日本人像の確立を通じて、日本人としての自信・誇り、国家観・国家意識を育成する必要がある。その上で高等教育では、それを一段と昇華させ、世界的な視野に立って「公のために何ができるか」を自覚させ、着実に実行に移すための人格を形成しなければならない。そのためには利己的なだけでは尊敬も信用もされない。高等教育では、異文化との交流・接触を通じて相対的に日本を見つめる機会を増やし、日本人たる自覚を確固とするとともに、他人への寛容さや公共精神を叩き込まなければならない。

3 緊急に実施すべき大学改革

(1)教育レベルの世界標準化

日本の高等教育を再生させるためには、教育・研究能力に劣るにもかかわらず既得権益に胡坐をかいた大学教員のための大学から、真剣に学び、世界に羽ばたこうとする若い人たちのための大学に、180度転換することから始めなければならない。

第1に、徹底した大学の選択と集中である。日本の大学進学率は高等教育への需要増加を背景に、現在では半分を超えている。大学は全国で粗製乱造され、現在では短大まで含めると1000校を超えている。今なすべきことは大学の淘汰を進め、差別化を徹底し、グローバルリーダーを養成する少数大学(数校程度)へ、限られた資源を思い切って集中すべきである。また入学定員の大胆な削減と学部・学科による重点化も同時に進めなければならない。こうした大学では、国際標準化を徹底して押し進め、英語での授業や討論、9月入学の実施はもちろん、進学卒業単位の厳格認定を行い、欧米の最高レベルの高等教育機関と全く引けを取らない「世界標準」の大学教育を確立すべきである。以上のような改革には、学長の強いリーダーシップを発揮させるような大学の「マネージメント」自体の根本改革が伴わなければならない。

第2に、教員の質の向上である。このためには長期雇用を廃止し、教員資格の任期制を導入することが必要である。これは、教育・研究活動に怠慢あるいは無能力な教員を排除するために絶対になくてはならない。任期更新に当たっての評価も、大学の同僚だけでなく、第三者や学生の評価も含めて、外部で検証可能な形で行われるべきである。これによって、優れた研究業績をもつ研究者による真剣な教育が行われ、日本の大学が世界の知識フロンティアの拡大に貢献できる余地が確実に大きくなる。この点は大学院についても全く同様だが、大学院(特に職業大学院)の場合には、その存続を前提とせず、一定期間に成果において最低基準を満たさない場合には、すみやかに縮小廃止に追い込むべきである。

第3に、優れた教員を教育に専念させるための知的サポート体制の確立である。現状では、同じ学部の教員の間でも職務量に相当な開きがある。教育熱心で優れた研究業績をあげている優秀な教員には、留学生も含めて学生が数多く集まるため、事務量が膨大となり多忙を極めるが、教育熱心でもなく研究業績もない教員には、学生が集まらず負担が軽い点で、著しく公平性を欠いている。優れた教員には知的サポート体制を確立し、俸給面でも待遇に差をつけ、教員の能力と努力が正当に評価されるシステムの確立が必要である。

(2)教養教育の充実

高等教育の目的がそれまでの初等中等教育と根本的に異なるのは、正解がないあるいは正解が1つに限らない課題に対して、果敢に挑戦する点にある。グローバル化時代には、こうした課題が世界的に次から次へと頻出する。こうした新しい問いにアプローチするためには、これまでの人類の経験や英知に対して十分な知識と教養を身に着けておくことが不可欠である。「すぐに役立つ」知識では急速に陳腐化し、無力である。具体的には、それぞれの専門分野において世界で最先端の知識をどん欲に吸収し、フロンティアの拡大に挑戦し続けるだけでなく、日本、世界の古典・歴史・文化への深い素養をベースに、現在の国際情勢や地球的課題にも精通する必要がある。

第1に、グローバルリーダーを養成する大学では、1-2年生での教養教育を見直し、時代の要請に合うように改善する必要がある。具体的には、まず英語のコミュニケーション能力を十分に築いた上で、第2外国語教育のカリキュラムを強化し、英語と相乗効果を図るように工夫する。また、専門課程での専攻と全く無関係、あるいは専門課程になく、短期的には有用に見えない教養科目の学習を督励し、専門課程進学への際に重点的に評価するシステムを導入すべきである。

第2に、日本のアイデンティティを英語で外国人に理解させ、普及させる能力の養成である。かつて明治期には、日本の伝統的な精神や文化、日本人の考え方やあり方を西洋人に正しく理解させるために、新渡戸稲造「武士道」、内村鑑三「代表的日本人」、岡倉天心「茶の本」に代表されるような、日本に関する多くの優れた著作が英語で書かれた。21世紀にあっては、西洋に限らず、他の地域に対しても、日本の独自の歴史・伝統・文化を、英語や外国語によって、外国人にわかりやすく説明し、その精華を世界に広く普及させる知識と能力を身に着けさせることが必要である。

(3)学期中の勉学への集中と大学外経験の充実

大学で過ごす時期は、人生の中でも最も感受性が高い時期でもある。この貴重な時期を充実させ、高度な知識の吸収だけでなく、公共精神や他人への寛容さを涵養し、豊かな人格の形成を促すためには、大学の教室に限定せず、新しい経験や挑戦を通じて、問題意識を鋭くすることが、大学での学習効果を高める上でも必要である。

第1に、大学生活のメリハリをつけ、学期中は勉強に集中させる必要がある。現在の大学生活は学期中とそれ以外の区別もなく、だらだらと過ごす結果、結局何も身につかないことが多い。かつての旧制高校の良さの一つは全寮制にあった。1つの方向性としては、大学1年次の寮生活を必須とし、日本人はもちろん留学生とも切磋琢磨させる機会を与えることは、グローバル時代の要請にも応えるものである。また学期中は多量のリーディングアサインメントを課すことも有効である(単位数はむしろ減らす)。一方で、学期外の期間は学業以外のことにもしっかりと打ち込むようにすべきである。また不必要に長時間をかける就職活動は原則的に禁止すべきである。

第2に、自らの現状を客観的に見つめ、問題意識を醸成させる機会として、大学外経験の充実させる必要がある。現在の大学生の世代は90年代以後の持続的な景気低迷の中で、本格的な好景気を経験していないが、一方で生まれた時から高い生活水準を享受しているため、自らの恵まれた状況を明確に意識することが少ない。そのためには、まず9月入学を前提に、入学試験合格から入学までの間のギャップイヤーないしギャップタームにおいて、社会奉仕活動に従事させ、それを入学の条件にすべきである。具体的には、被災地での復興活動、農林水産業、介護・福祉分野や外国での援助活動への参加、さらには地域社会での日常的な活動を通じて、公共のために何ができるかを具体的に会得することが重要である。またストレートでの進学といった単線的な経路だけでなく、大学進学前後のギャップイヤーの利用や海外留学経験などにより、異文化と接触する機会を増やし、自らの置かれた立場、自らが公になしうることを常に自覚する環境に置くことは、人格形成にも欠かすことができないし、強い問題意識を持った多彩な人材を輩出することを容易にする。

第3に、企業や社会が求める人材と一層緊密に連動させる必要がある。大学での教育は自己完結でなく、その成果は卒業後の人生にもつなげていかなければならない。しかしこれまでの大学教育は社会人になってからの人材育成と十分連携が取れていたといい難い。多くの場合、卒業後は社会に出て働くことになるが、現在でも根強い新卒一括採用方式では、自らの個性や適性と職場がマッチしない場合でも、やり直しがききにくい。またグローバル市場での国際競争力強化のためには、企業にとっても大学における教養教育、専門教育、企業内訓練(OJT)との適切な役割分担が急務となっている。こうした観点から、大学在学中から実社会とのかかわりを深めるために、大学1年次からの休暇中を利用したインターンシップ導入や教養課程時に社会人による実践的授業導入を進めるべきである。

4 おわりに

この提言は、高等教育の目標をエリートの養成と明確に定義し、具体的な制度改革提案を行った。日本の国力が相対的に低下する中で、日本復活の鍵は究極的に高等教育の再生が握っているといっても過言でない。この提言が教育改革の起爆剤となることを望みたい。
http://www.iips.org/pdf/univ_reform_full2012.pdf

2012年4月25日水曜日

組織風土を積極的、行動的なものにする

論考をご紹介します。


組織のエネルギーを高める(日本私立大学協会私学高等教育研究所研究員 岩田雅明)

組織風土とは

成果主義的なものを人事制度に取り入れている大学も多いと思うが、適切に機能しているという話は残念ながらあまり聞かない。その時によく出てくる理由が、大学の組織風土には馴染まないというものである。では、組織風土とは何であろうか。桑田耕太郎・田尾雅夫著の『組織論』(有斐閣アルマ)によれば、「組織風土とは組織の中で個々のメンバーが、どのように自らの仕事や職場集団、組織を見ているかであり」、それを「多くの人が同じように認知することで、(中略)その組織を特徴づける文化のようになる。組織の中に、根づいて、判断や行動の枠組みとして働くことになる」とある。

組織風土の一例として有名なものに、飲料メーカーであるサントリーの「やってみなはれ精神」がある。「やってみなはれ」とは、サントリーの創業者である鳥井信治郎氏がよく使った言葉で、やってみなければ結果は出ないので、良いと思ったことは躊躇せずに実行しなさいという教えである。それによりサントリーには、「結果を怖れてやらないこと」を悪とし、「なさざること」を罪と問う、自由闇達なチャレンジ精神を最も重視する社風ができあがったとされている。

最近聞いたある大学の話は、全く逆の事例である。いろいろと新しい試みを考えながら仕事をしていたある若手職員が、新しい広報手段を上司に提案したところ、言下に否定されたそうである。駄目な理由を上司に訊いたところ、長い経験を持つ上司の直観からして、明らかに成果の期待できない提案であるとの答えが返ってきたという。その若手職員の意欲が大きく低下したことは言うまでもないが、これからは二度と提案等はしないで、言われたことだけをやろうと心に決めたと言っていた。この大学の風土は、サントリーとは逆に、前例を踏襲するだけの、チャレンジ精神の欠落したものになっていくことは明らかである。

募集状況があまり良好でない大学を見ていると、この「やってみなはれ精神」がないところが多いように感じる。私の方で効果的と思われる手法を提案してみても、それができない理由をあれこれと考えたり、以前同じようなことを試みたが成果が出なかったという過去の失敗事例を挙げたりするだけで、工夫しながら実行してみようという「新しい行動」が起きてこない例が少なくない。これまでの長い間、大学業界が置かれていた、どの大学であっても入学者が確保できるという非常に恵まれた環境が、「新しい行動」を求めないという組織風土をつくってしまったのである。

私が所属していた大学の前身の短期大学時代、語学の専門学校を併設することや、ブランドイメージの統一を図ること、新しい募集エリアを開拓することなど、いくつかの提案をしたことがあった。真っ向から反対こそされないものの、支持されているという感じは全くなかった。定員が充足できていた時代では、そのような「新しい行動」は組織にとって不必要であり、かつ面倒なものとして捉えられていたのである。

組織風土をつくるもの

同じ程度の規模、立地でありながら、成果を上げている大学と、そうでない大学がある。学部構成、教員の業績、施設・設備、財政的基盤など、大学を構成している様々な要素を比べてみても、それほどの差は見られないにもかかわらず、である。何が一体、成否を分けているのだろうか。私はその主要な要素の一つとして、組織風土が挙げられると思っている。「新しい行動」が歓迎される組織風土でないと、現在のように変化の激しくなってきた環境に適切に対応していくことが不可能であるからである。

では組織風土とは、どのようにしてつくられていくものであろうか。この点が分かれば、それを変えていくことも可能となる。前述のサントリーの例にみられるとおり、経営者の強烈な個性が組織風土をつくるというケースがある。自動車メーカーのホンダなども、その例である。創業者のつくった社是や社訓、行動規範といったものを唱和し、風土をつくっていくという例も同様のものとして挙げられる。これは大学でいえば建学の精神ということになるであろうが、建学の精神は抽象的なものが多く、教職員の行動の指針となりにくいため、そのままでは組織風土をつくる機能を持つことはできない。私が勧めている手法は、アファメーション(自己宣言)というもので、将来のあるべき組織の姿を現在進行形で描く手法である。そしてその中に、めざすべき組織風土をあらわす一文を入れるのである。例えば「○○大学事務局では、毎日、十個を超える改善提案が職員から提出され、それを基に常に新しい業務改善が行われている」というような一文である。この将来の状況を全員が共有することで、新しい組織風土がつくられていくのである。

そしてこのアファメーションを実現していくためは、その実現に必要な行動を生じさせるシステムを整備することが不可欠である。「積極的になれ」「意識を変えろ」との掛け声だけでは、意識も行動もなかなか変わらないものである。一つずつステップを上りながら、最終的にめざす姿に到達するという仕組みをつくることが、組織風土を変えていくためには重要不可欠である。

提案制度

変革の時代に必要とされる「新しい行動」を起こしていくためには、まずその前段階である「自ら考える」ということが必要となる。この「自ら考える」ことを促進するシステムとして有効なのが、提案制度である。

一週間に一件の提案というように期限を短く設定してもいいし、随時という形でもいいと思う。とにかくどんどん意見を出してもらうことである。もちろん、玉石混渚という状態にはなると思う。それでも否定的な評価は一切せずに、出された提案を定期的に検討する場を設定するのである。そして、そこでも否定的な評価はせずに、必要なコスト、現状の大学の資源で実現できる可能性、実現できた場合の成果、そこで必要となる労力等を、客観的かつ論理的に検討していくのである。一人あるいは少数の管理者が採否を決めるのではなく、会議等で十分に意見を尽くして決めることで、提案者の納得感も得られる。また、コストがかからない提案の場合であれば、とりあえず実行してみるということも行動指向の組織とするためには大切なことである。また、試行錯誤をする中から良いものが見つかる可能性もあるからである。

この提案制度はシンプルではあるが、現場の教職員が日常業務の中でふと疑問を感じても、そのままであると時間の経過とともに忘れ去られてしまう改善の芽を発見できる、大変有用な制度であると思う。そしてまた、現場の教職員が改善提案をする過程で、自分の意見が組織に吸い上げられたことによる参加意識、場合よっては採択され実施されたという承認感を持つことができる。その結果、各自に、組織の一員として役割を担わなければならないという自覚が生まれてくるということも、この制度の重要な産物である。そして、何よりもこの提案制度の最大の狙いは、教職員の自主性、積極性を涵養し、組織風土を積極的、行動的なものにするということである。

行動を引き出すためには、シンプルな仕組みを用意するということが最も効果的なことである。(文部科学教育通信 No289 2012.4.9

2012年4月24日火曜日

大学改革を長期的に考える

論考をご紹介します。


学年の始めに考える-長期問題に注目を(桜美林大学大学院・アドミニストレーション研究科教授・山本眞一)

平成24年度の始まりを迎えた。今年は厳冬のせいか、桜の開花が遅いような気がするが、皆さん方の地域ではいかがであろうか。つい先日、NASAが昨年は世界全体で1880年以来観測史上9番目の高温であったと発表したが、これを温暖化の論拠として短絡的に議論するよりは、温暖期と寒冷期を定期的に繰り返す地球の長い歴史を考えると、長期的にはこれから寒冷期に向かうものと思われるから、むしろ将来のエネルギーや食料問題の深刻さを恐れる方が重要なことではないだろうか。もっとも、エネルギーの浪費を抑えて温暖化を阻止すべしとの議論が、実は寒冷期に備えての節約だとすれば、穿ち過ぎた見方かもしれないが、もっともなことではある。

改革のための改革で良いのか

長期的に考えなければならないのは、気候の問題だけではない。高等教育問題もまた同じである。われわれは、戦後間もなくの時期から常に「大学改革」というものを考えてきた。それを考えること自体は、大学をより良くするためという目的を持ち続けている限りは正しいことである。しかし、物ごとはとかく「目的」と「手段」が逆転しがちである。「改革のための改革」とはよく言ったもので、これはわれわれ人間の思考枠組みの限界からくる宿命ではないかと思われるほど、しばしば見られるものであり、意識して「目的は何か」、「何のための改革か」を考え続けることが必要である。

国立大学について言えば、高度経済成長が終わった1970年代半ば以来、常に「財政緊縮」問題が改革の背景にあった。財政当局は国立大学に係る経費の削減と収入の増加を目論み、70年代には授業料等の3倍値上げを経験したし、80年代以来の「改組転換」は高度経済成長期の「純増」が不可能であることを知らしめるものであった。その究極の緊縮改革が「法人化」であり、われわれが2004年度以来運営費交付金の削減問題に苦慮しているのは、法人化が大学改革であると同時に行財政改革を目指したものであるためである。民主党政権になってから本格化した「事業仕分け」によって、文科省所管の独立行政法人が大きな影響を受けているが、いつ何時国立大学本体にこの影響が及ばないとは限らないであろう。私は、講演を頼まれた際に、国立大学と私立大学との経営の差異について、国立大学は「イネ科」の作物、私立大学は「タンポポ」のように根の深い植物であると説明して、納得してもらっている。つまり前者は政治の強風に晒されるとあっという間に倒れるのに対して、後者は目前の資金がある限り、急に潰れる心配はないという意味である。

弱くなった大学の立場

このようにして、大学改革の背景には常に財政を軸とした政治の圧力がある。もちろん、財政当局に言わせれば、社会保障費その他の義務的支出が年々急増の中で、何らかの切代(きりしろ)を見出して経費削減を図らなければならないだろう。しかし、問題は財政支出の優先分野は何かということである。このことを無視して、政治の世界で強い勢力をもつ分野と、教育のように弱い分野とを単に天秤にかけて、前者の多くの資源を配分することは、決して得策とは言えまい。民主党は「コンクリートから人へ」をキャッチフレーズにして登場したはずであるが、現実はその逆のように思えてならない。

確かに大学は、以前「大学自治」論が盛んであった頃に比べて、社会的に弱い存在になってしまった。「入試による選抜」から「大学による学生確保」へと、受験生との間の力関係も大きく変わった。大学をいくら叩いても決して反発を受けないということが明らかになって、マスコミも大学批判には大胆になっている。また人々もこれをおおむね好意的に受け止めていて、大学批判は社会にとって一服の清涼剤になってしまったのではないかと思えるほどである。そう言えば、関西地方の某首長は、公務員と教育界を徹底攻撃することによって、政策の中身を語ることなく世論の圧倒的支持を得ることができるという、危うい教訓を引き出した。大学がそのようなターゲットにならないことを、心より願うばかりである。

グローバル化等への対応を

しからば、大学問題として長期的に語らなければならないことは何か? それはなんと言っても、グローバル化と知識経済社会に、そして可能な限り「共生社会」にも対応することである。これはわが国が国家としてこれからも自立し、また人々が経済的にも精神的にも豊かな生活を送る上でも非常に大切なことである。このためには、われわれの生活の基盤となる政治や社会・産業構造も変えていかなければならず、これに知識・技術を提供し、また人々に高度で新たな能力を付与する大学教育の役割は、限りなく大きなものとなろう。このことを抜きにした大学改革論は、いわば「ためにする」ものであって、考慮に値しないのではないかと思えるほどである。

この観点からは、すでに大学経営の意思決定システムの改革や大学評価すなわち認証評価の制度化が進められ、いわば大学の外枠の改革として一応の完了をみている。残るところは大学教育や水準・方法の問題と思われるが、これに政策当局が関与する場合、そのあり方には細心の注意が必要である。なぜならば、大学教育は初等中等教育とは異なり、国が定めた基準に従って行うような性格のものではないからである。大学が「学問の府」である限り、既存の知識や価値基準にとらわれることなく、最新の研究成果に基づく教育を行うことが期待されているからである。

多様化と大学分類

もっとも、大学教育といっても、分野によってその実態が大きく異なることは周知のことである。国家資格と密接に結びついている「医・歯・薬・保健」系や、教えるべき内容と水準が明らかな「理・工・農」系は、おのずから教育内容や方法に大学間での共通性があり、またそのようにしなければ社会が期待する人材養成はおぼつかない。問題は、これまで教育内容や水準そして方法がきわめてマチマチで、またそれが許されてきた「人文・社会科学」系である。この分野では、どのようなことを学生に教え、そしてどのような人材として世の中に送り出すべきであろうか。学際的領域も含め、文系学生が大学生の過半を占めている現状から、この問題は深刻でないだろうか。問題解決の手がかりの一部は、「学士力」や「社会人基礎力」を参照すればよいかもしれないが、一段上の次元でこの問題をさらに考えなければならないと、私は考える。

その意味で、大学の多様化とは、決して研究中心大学とその他の大学とを区分するだけでは済まない。専門職業に密着した知識を教え訓練を施す大学、専門的職業に必要なレベルと内容の教育を行う大学、多くの職業に対応する基本的な資質を養う大学など、卒業生が就くべき職業によって大学を分類することも可能であろうし、その中で大学と専門学校との新たな区分もまた考え直さなければならない時期が来るだろう。そういうことを考えると、学部教育でも自分の研究の一部を切り分けて教育することが許されてきたのはなぜか、それは大学教員になるための職業教育だったのだろうか、と考える次第である。大学教育はその内容、レベルそして方法において大きな転機にさしかかっているのである。

末尾になったが、前号でも述べたように、4月から桜美林大学に移った。引き続きよろしくお願いする次第である。(文部科学教育通信 No289 2012.4.9

2012年4月23日月曜日

経営者の器量

一般的に、大学の教員は何でも自分でやらないと気がすまない人が多いような気がします。特に、大学を経営する立場の学長や役員は典型です。

「ひと・もの・かね」を総枠で管理・調整することに専念し、具体的な実行はなるべく現場の教員に権限を委譲することがなかなかできませんね。現場におまかせしてもいいような些細なことまで管理しているような気がします。

このために、いつまでも現場の教員に参画意識や協働意識が芽生えず、逆に学長や役員に対する反発、不信感、疑心暗鬼が生まれる結果になっています。

国立大学では、法人化後既に9年目を迎えているのに、相変わらず教員時代の感覚や経験だけで経営をやっている素人学長や役員がいます。もっと謙虚にマネジメントを勉強してほしい。


週末に、近くの公園を散歩しました。チューリップが鮮やかでした。

2012年4月22日日曜日

人間は変わりうる(土光敏夫)

異動や昇進の評定を行うときに、五年も十年も昔のことを引き合いに出して「あの人は前にこんな失敗をした。あんな不行跡があった。だから見合わせよう」と言う。あるいはなにか革新的な仕事をやらせようとするときに「あの石頭の連中にはとても受け入れられまい。どうせいってもむだだから、この案はとりやめよう」という。

ひとたび、才能はコレコレ、性格はシカジカと評価してしまうと、終生それがついてまわるのである。

このような発想には根本に人間不信感があるのだが、たとい不信感を与えた事実があっても、人間は変わりうるという信念を欠いている点が重大だ。人によっては、失敗や不行跡を契機として転身することもあるし、旧弊をかなぐりすてて翻然と悟ることだってある。とにかく、人間は変わるという一事を忘れてはなるまい。


2012年4月14日土曜日

働く環境を知る(ドラッカー)

成長するには、ふさわしい組織でふさわしい仕事につかなければならない。基本は、得るべき所はどこかである。この問いに答えを出すには、自らがベストを尽くせるのはどのような環境かを知らなければならない。

学校を出たばかりでは、自分のことはほとんどわからない。成果をあげるのは、大きな組織か小さな組織か。人と一緒にか一人でか。不安定な状況を好むか嫌うか。締め切りは必要か必要ないか。意思決定は速いか慎重か。

最初の仕事はくじ引きである。最初から適した仕事につく確率は高くない。しかも、得るべきところを知り、自分に向いた仕事に移れるようになるには数年を要する。

われわれは気質と個性を軽んじがちである。だがそれらのものは、訓練によって容易に変えられるものでないだけに、重視し、明確に理解することが必要である。決定したことを完全に理解しなければ行動できない人は、戦場には向かない。右サイドが崩れたときには、闘うか退却するかを八秒以内に決めなければならない。もちろん決定に時間を要する者であっても、そのようなときには無理にでも決定するだろう。だが、それでは、せっかくの決定も間違ったものとなる公算が大きい。

得るべき所はどこかとの問いへの答えが、いま働いている所ではないということであるならば、次の問いは、それはなぜかである。組織の価値観に馴染めないからか。組織に緊張感がないからか。そのようなとき人は確実にだめになる。組織の価値観が自らの価値観に合っていないならば、人は自らを軽く見るようになる。あるいは上司が利己的なことがある。上司としての役目、部下を育て引き上げる役目を果たさないことがある。

組織が腐っているとき、自分が所を得ていないとき、あるいは成果が認められないときには、辞めることが正しい道である。出世はたいした問題ではない。重要なことは公正であることであり公平であることである。さもなければ、やがて自らを二流の存在と見るようになる。


2012年4月12日木曜日

「できない」「むり」「むずかしい」は禁句(土光敏夫)

なにか新しいアイディアが提案されたり、大きな目標が示された場合、普通のサラリーマンの示す反応はどうだろうか。たいてい、まず拒否反応をおこす。だからその答えは「できない」「むり」「むずかしい」といったたぐいのものとなる。そうして必ず、これこれしかじかだからという弁明が出てくる。

問題によっては確かに、不可能で無理で困難な場合もあろう。しかし多くの場合それは、固定観念や惰性や自己防衛本能からくる先入主の現われだといってよい。後ろ向きの態度がなせるわざである。

たいせつなのは、その問題は、どうすれば解決できるか、どうやったら達成できるかを考える前向きの態度である。

この態度の違いは、あらゆる問題を明と暗に二分してしまう。その問題をこなす能力があるかどうかなどは二の次だ。その問題に取り組む態度がどうであるかが、まず問われねばならぬ。


2012年4月11日水曜日

法人化と大学改革(8-最終回)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「国立大学法人法と国立大学改革」をご紹介します。


8 今後の国立大学協会と文部科学省高等教育行政体制のあり方

第一に、国立大学は、文部科学省の施設等機関であり、行政組織の一部であった。したがって、内部組織の設置・改廃には法令の変更を要した。第二に、国立大学の定員は総定員法の枠がはめられており、教官や事務職員は文部科学省の職員として、任命権は文部科学大臣に属した。第三に、予算上も一部を除いて、国立学校特別会計によって一元管理され、個別の大学は、「省内一部局」として予算要求を行っていた。授業料や外部から獲得した資金も、個々の大学には属さず、特別会計の収入となった。また施設・設備・知的財産権(個人帰属分は除く)も国有財産であり、大学による自由な処分は許されていなかった。これらの法令上の制度に加えて、各種の法令解釈権や予算配分権、さらには文部科学省設置法第四条第十五号の「大学及び高等専門学校における教育の振興に関する企画及び立案並びに援助及び助言に関すること。」という規定に基づいて、国立大学運営の日常業務が、文部科学省高等教育局によってなされてきたとみることができる。

これに対して、国立大学側も、教官の個別人事や教育研究内容に関する行政介入がない限り、大学事務局と文部科学省本省との間で行われる予算や組織・定員などに関する業務について、教官はそれほど関与してこなかったのが実態である。このような「半自治」状態が長く続いたことによって、国立大学側には自らの組織運営に関する企画立案能力やマネジメント力が育成されてこなかった。国立大学法人化によって、文部科学省から様々な権限委譲を受けても、その権限を活用しきっていく能力が備わっていないとすれば、あるいはこうした能力を身につけていく努力を意識的に行わなければ、今回の改革は水泡に帰する危険性が大きい。

現時点は過渡期だということで割り引いたとしても、先述したように中期目標の例示など法人化に当たっての作業について文部科学省に助言を求めたり、個々の国立大学にとって戦略遂行上最も重要な人事制度(特に給与体系)の構築について、国立大学協会がモデルを作成しているような状況をみると、国立大学側が「大学の自治」を獲得していく真剣な意思があるのかどうか、疑問なしとしない。

こうした国立大学側の態度は、国立大学法人法が成立した直後に国立大学協会が発表した「国立大学法人化についての国立大学協会見解」を見ると明らかである。同「見解」の中には、次のような記述がある。

「国大協が学部等の組織を省令で明示すべきとしたのは、国立大学法人の業務の中核である教育研究の基本的な内容や範囲を省令において明示することにより国の責任を明確にしようと考えたためである。これに対して、学部等の組織は省令で規定されないこととされたが、文部科学大臣が示す中期目標においてこれらを明確に記載することにより、国の責任は同様に果たされなければならない。」(斜字筆者)

法人化によって、学部学科などの組織編成権は、国立大学側に委譲される。ある機能を果たすべき組織にとって、その機能が有効かつ効率的に発揮できるような内部組織構成を自由に選択できることは、「自治」の確保にとって死活的に重要なポイントである。にもかかわらず、国立大学協会が傍線部分のように、自己の業務組織や機能について、文部科学省令に委ねようとしたことは、「自治」を自ら放棄することに等しい。

また、同「見解」は他にも、「教育研究にかかる評価の困難性」を指摘し、評価委員会に対して「十分な配慮」を求めるとともに、「財政基盤を確立・強化」するために、国の「特別な配慮を強く求め」ている。たしかに過渡期においては、こうした一定の配慮も必要だろうが、法人化された後は、自ら研究費や寄付などの外部資金の獲得に努めて政府の影響から離脱していく意思を表明したり、厳正な評価を求めることで大学のアカデミックプライドをむしろ高めていったりといった「攻めの姿勢」が必要とされているのではないだろうか。法人化によって大学間競争は厳しくなるといわれているが、国立大学協会の存在自体、曲がり角に来ている。護送船団方式的な発想法から脱皮しなければ、保護と支援だけを求める斜陽産業の「業界団体」に堕してしまう恐れがあることを指摘しておきたい。

一方、文部科学省の行政も、新しい枠組みに適合したスタイルに変化していかなければならない。この点、遠山敦子文部科学大臣も述べているように、「・・・行政組織の一部としての国立大学の存在から、法人としての法人格を持ってもらって自主性、自律性を高めてもらうということ」なので、文部科学省が「これまで日常的にかかわっていろいろ支援したり助言したりしてきた細々とした対応というやり方そのものを変えていかないといけない」(第156回国会参議院文教科学委員会6月5日)のである。

そのためには、「文部科学省内の高等教育にかかわる様々な組織の体制も変えていかなくてはならない」(同)が、独立行政法人産業技術総合研究所を設立した際、それまで研究所運営の権限をほとんど全て掌握してきた工業技術院を廃止したように、監督局である高等教育局も、その権限を国立大学に委譲した後は廃止されるべきである。文部科学省が、国立大学法人制度を名実ともに独立した自律的大学を生み出すものと真に理解していることを示すためには、自らの組織変革を遂行しなければ、外部に対する説得力はない。

第一に、国立大学は、文部科学省の施設等機関であり、行政組織の一部であった。したがって、内部組織の設置・改廃には法令の変更を要した。第二に、国立大学の定員は総定員法の枠がはめられており、教官や事務職員は文部科学省の職員として、任命権は文部科学大臣に属した。第三に、予算上も一部を除いて、国立学校特別会計によって一元管理され、個別の大学は、「省内一部局」として予算要求を行っていた。授業料や外部から獲得した資金も、個々の大学には属さず、特別会計の収入となった。また施設・設備・知的財産権(個人帰属分は除く)も国有財産であり、大学による自由な処分は許されていなかった。これらの法令上の制度に加えて、各種の法令解釈権や予算配分権、さらには文部科学省設置法第四条第十五号の「大学及び高等専門学校における教育の振興に関する企画及び立案並びに援助及び助言に関すること。」という規定に基づいて、国立大学運営の日常業務が、文部科学省高等教育局によってなされてきたとみることができる。

これに対して、国立大学側も、教官の個別人事や教育研究内容に関する行政介入がない限り、大学事務局と文部科学省本省との間で行われる予算や組織・定員などに関する業務について、教官はそれほど関与してこなかったのが実態である。このような「半自治」状態が長く続いたことによって、国立大学側には自らの組織運営に関する企画立案能力やマネジメント力が育成されてこなかった。国立大学法人化によって、文部科学省から様々な権限委譲を受けても、その権限を活用しきっていく能力が備わっていないとすれば、あるいはこうした能力を身につけていく努力を意識的に行わなければ、今回の改革は水泡に帰する危険性が大きい。

現時点は過渡期だということで割り引いたとしても、先述したように中期目標の例示など法人化に当たっての作業について文部科学省に助言を求めたり、個々の国立大学にとって戦略遂行上最も重要な人事制度(特に給与体系)の構築について、国立大学協会がモデルを作成しているような状況をみると、国立大学側が「大学の自治」を獲得していく真剣な意思があるのかどうか、疑問なしとしない。

こうした国立大学側の態度は、国立大学法人法が成立した直後に国立大学協会が発表した「国立大学法人化についての国立大学協会見解」を見ると明らかである。同「見解」の中には、次のような記述がある。

「国大協が学部等の組織を省令で明示すべきとしたのは、国立大学法人の業務の中核である教育研究の基本的な内容や範囲を省令において明示することにより国の責任を明確にしようと考えたためである。これに対して、学部等の組織は省令で規定されないこととされたが、文部科学大臣が示す中期目標においてこれらを明確に記載することにより、国の責任は同様に果たされなければならない。」(斜字筆者)

法人化によって、学部学科などの組織編成権は、国立大学側に委譲される。ある機能を果たすべき組織にとって、その機能が有効かつ効率的に発揮できるような内部組織構成を自由に選択できることは、「自治」の確保にとって死活的に重要なポイントである。にもかかわらず、国立大学協会が傍線部分のように、自己の業務組織や機能について、文部科学省令に委ねようとしたことは、「自治」を自ら放棄することに等しい。

また、同「見解」は他にも、「教育研究にかかる評価の困難性」を指摘し、評価委員会に対して「十分な配慮」を求めるとともに、「財政基盤を確立・強化」するために、国の「特別な配慮を強く求め」ている。たしかに過渡期においては、こうした一定の配慮も必要だろうが、法人化された後は、自ら研究費や寄付などの外部資金の獲得に努めて政府の影響から離脱していく意思を表明したり、厳正な評価を求めることで大学のアカデミックプライドをむしろ高めていったりといった「攻めの姿勢」が必要とされているのではないだろうか。法人化によって大学間競争は厳しくなるといわれているが、国立大学協会の存在自体、曲がり角に来ている。護送船団方式的な発想法から脱皮しなければ、保護と支援だけを求める斜陽産業の「業界団体」に堕してしまう恐れがあることを指摘しておきたい。

一方、文部科学省の行政も、新しい枠組みに適合したスタイルに変化していかなければならない。この点、遠山敦子文部科学大臣も述べているように、「・・・行政組織の一部としての国立大学の存在から、法人としての法人格を持ってもらって自主性、自律性を高めてもらうということ」なので、文部科学省が「これまで日常的にかかわっていろいろ支援したり助言したりしてきた細々とした対応というやり方そのものを変えていかないといけない」(第156回国会参議院文教科学委員会6月5日)のである。

そのためには、「文部科学省内の高等教育にかかわる様々な組織の体制も変えていかなくてはならない」(同)が、独立行政法人産業技術総合研究所を設立した際、それまで研究所運営の権限をほとんど全て掌握してきた工業技術院を廃止したように、監督局である高等教育局も、その権限を国立大学に委譲した後は廃止されるべきである。文部科学省が、国立大学法人制度を名実ともに独立した自律的大学を生み出すものと真に理解していることを示すためには、自らの組織変革を遂行しなければ、外部に対する説得力はない。

これに対して、国立大学側も、教官の個別人事や教育研究内容に関する行政介入がない限り、大学事務局と文部科学省本省との間で行われる予算や組織・定員などに関する業務について、教官はそれほど関与してこなかったのが実態である。このような「半自治」状態が長く続いたことによって、国立大学側には自らの組織運営に関する企画立案能力やマネジメント力が育成されてこなかった。国立大学法人化によって、文部科学省から様々な権限委譲を受けても、その権限を活用しきっていく能力が備わっていないとすれば、あるいはこうした能力を身につけていく努力を意識的に行わなければ、今回の改革は水泡に帰する危険性が大きい。

現時点は過渡期だということで割り引いたとしても、先述したように中期目標の例示など法人化に当たっての作業について文部科学省に助言を求めたり、個々の国立大学にとって戦略遂行上最も重要な人事制度(特に給与体系)の構築について、国立大学協会がモデルを作成しているような状況をみると、国立大学側が「大学の自治」を獲得していく真剣な意思があるのかどうか、疑問なしとしない。

こうした国立大学側の態度は、国立大学法人法が成立した直後に国立大学協会が発表した「国立大学法人化についての国立大学協会見解」を見ると明らかである。同「見解」の中には、次のような記述がある。

「国大協が学部等の組織を省令で明示すべきとしたのは、国立大学法人の業務の中核である教育研究の基本的な内容や範囲を省令において明示することにより国の責任を明確にしようと考えたためである。これに対して、学部等の組織は省令で規定されないこととされたが、文部科学大臣が示す中期目標においてこれらを明確に記載することにより、国の責任は同様に果たされなければならない。」(斜字筆者)

法人化によって、学部学科などの組織編成権は、国立大学側に委譲される。ある機能を果たすべき組織にとって、その機能が有効かつ効率的に発揮できるような内部組織構成を自由に選択できることは、「自治」の確保にとって死活的に重要なポイントである。にもかかわらず、国立大学協会が傍線部分のように、自己の業務組織や機能について、文部科学省令に委ねようとしたことは、「自治」を自ら放棄することに等しい。

また、同「見解」は他にも、「教育研究にかかる評価の困難性」を指摘し、評価委員会に対して「十分な配慮」を求めるとともに、「財政基盤を確立・強化」するために、国の「特別な配慮を強く求め」ている。たしかに過渡期においては、こうした一定の配慮も必要だろうが、法人化された後は、自ら研究費や寄付などの外部資金の獲得に努めて政府の影響から離脱していく意思を表明したり、厳正な評価を求めることで大学のアカデミックプライドをむしろ高めていったりといった「攻めの姿勢」が必要とされているのではないだろうか。法人化によって大学間競争は厳しくなるといわれているが、国立大学協会の存在自体、曲がり角に来ている。護送船団方式的な発想法から脱皮しなければ、保護と支援だけを求める斜陽産業の「業界団体」に堕してしまう恐れがあることを指摘しておきたい。

一方、文部科学省の行政も、新しい枠組みに適合したスタイルに変化していかなければならない。この点、遠山敦子文部科学大臣も述べているように、「・・・行政組織の一部としての国立大学の存在から、法人としての法人格を持ってもらって自主性、自律性を高めてもらうということ」なので、文部科学省が「これまで日常的にかかわっていろいろ支援したり助言したりしてきた細々とした対応というやり方そのものを変えていかないといけない」(第156回国会参議院文教科学委員会6月5日)のである。

そのためには、「文部科学省内の高等教育にかかわる様々な組織の体制も変えていかなくてはならない」(同)が、独立行政法人産業技術総合研究所を設立した際、それまで研究所運営の権限をほとんど全て掌握してきた工業技術院を廃止したように、監督局である高等教育局も、その権限を国立大学に委譲した後は廃止されるべきである。文部科学省が、国立大学法人制度を名実ともに独立した自律的大学を生み出すものと真に理解していることを示すためには、自らの組織変革を遂行しなければ、外部に対する説得力はない。

現時点は過渡期だということで割り引いたとしても、先述したように中期目標の例示など法人化に当たっての作業について文部科学省に助言を求めたり、個々の国立大学にとって戦略遂行上最も重要な人事制度(特に給与体系)の構築について、国立大学協会がモデルを作成しているような状況をみると、国立大学側が「大学の自治」を獲得していく真剣な意思があるのかどうか、疑問なしとしない。

こうした国立大学側の態度は、国立大学法人法が成立した直後に国立大学協会が発表した「国立大学法人化についての国立大学協会見解」を見ると明らかである。同「見解」の中には、次のような記述がある。

「国大協が学部等の組織を省令で明示すべきとしたのは、国立大学法人の業務の中核である教育研究の基本的な内容や範囲を省令において明示することにより国の責任を明確にしようと考えたためである。これに対して、学部等の組織は省令で規定されないこととされたが、文部科学大臣が示す中期目標においてこれらを明確に記載することにより、国の責任は同様に果たされなければならない。」(斜字筆者)

法人化によって、学部学科などの組織編成権は、国立大学側に委譲される。ある機能を果たすべき組織にとって、その機能が有効かつ効率的に発揮できるような内部組織構成を自由に選択できることは、「自治」の確保にとって死活的に重要なポイントである。にもかかわらず、国立大学協会が傍線部分のように、自己の業務組織や機能について、文部科学省令に委ねようとしたことは、「自治」を自ら放棄することに等しい。

また、同「見解」は他にも、「教育研究にかかる評価の困難性」を指摘し、評価委員会に対して「十分な配慮」を求めるとともに、「財政基盤を確立・強化」するために、国の「特別な配慮を強く求め」ている。たしかに過渡期においては、こうした一定の配慮も必要だろうが、法人化された後は、自ら研究費や寄付などの外部資金の獲得に努めて政府の影響から離脱していく意思を表明したり、厳正な評価を求めることで大学のアカデミックプライドをむしろ高めていったりといった「攻めの姿勢」が必要とされているのではないだろうか。法人化によって大学間競争は厳しくなるといわれているが、国立大学協会の存在自体、曲がり角に来ている。護送船団方式的な発想法から脱皮しなければ、保護と支援だけを求める斜陽産業の「業界団体」に堕してしまう恐れがあることを指摘しておきたい。

一方、文部科学省の行政も、新しい枠組みに適合したスタイルに変化していかなければならない。この点、遠山敦子文部科学大臣も述べているように、「・・・行政組織の一部としての国立大学の存在から、法人としての法人格を持ってもらって自主性、自律性を高めてもらうということ」なので、文部科学省が「これまで日常的にかかわっていろいろ支援したり助言したりしてきた細々とした対応というやり方そのものを変えていかないといけない」(第156回国会参議院文教科学委員会6月5日)のである。

そのためには、「文部科学省内の高等教育にかかわる様々な組織の体制も変えていかなくてはならない」(同)が、独立行政法人産業技術総合研究所を設立した際、それまで研究所運営の権限をほとんど全て掌握してきた工業技術院を廃止したように、監督局である高等教育局も、その権限を国立大学に委譲した後は廃止されるべきである。文部科学省が、国立大学法人制度を名実ともに独立した自律的大学を生み出すものと真に理解していることを示すためには、自らの組織変革を遂行しなければ、外部に対する説得力はない。

こうした国立大学側の態度は、国立大学法人法が成立した直後に国立大学協会が発表した「国立大学法人化についての国立大学協会見解」を見ると明らかである。同「見解」の中には、次のような記述がある。

「国大協が学部等の組織を省令で明示すべきとしたのは、国立大学法人の業務の中核である教育研究の基本的な内容や範囲を省令において明示することにより国の責任を明確にしようと考えたためである。これに対して、学部等の組織は省令で規定されないこととされたが、文部科学大臣が示す中期目標においてこれらを明確に記載することにより、国の責任は同様に果たされなければならない。」(斜字筆者)

法人化によって、学部学科などの組織編成権は、国立大学側に委譲される。ある機能を果たすべき組織にとって、その機能が有効かつ効率的に発揮できるような内部組織構成を自由に選択できることは、「自治」の確保にとって死活的に重要なポイントである。にもかかわらず、国立大学協会が傍線部分のように、自己の業務組織や機能について、文部科学省令に委ねようとしたことは、「自治」を自ら放棄することに等しい。

また、同「見解」は他にも、「教育研究にかかる評価の困難性」を指摘し、評価委員会に対して「十分な配慮」を求めるとともに、「財政基盤を確立・強化」するために、国の「特別な配慮を強く求め」ている。たしかに過渡期においては、こうした一定の配慮も必要だろうが、法人化された後は、自ら研究費や寄付などの外部資金の獲得に努めて政府の影響から離脱していく意思を表明したり、厳正な評価を求めることで大学のアカデミックプライドをむしろ高めていったりといった「攻めの姿勢」が必要とされているのではないだろうか。法人化によって大学間競争は厳しくなるといわれているが、国立大学協会の存在自体、曲がり角に来ている。護送船団方式的な発想法から脱皮しなければ、保護と支援だけを求める斜陽産業の「業界団体」に堕してしまう恐れがあることを指摘しておきたい。

一方、文部科学省の行政も、新しい枠組みに適合したスタイルに変化していかなければならない。この点、遠山敦子文部科学大臣も述べているように、「・・・行政組織の一部としての国立大学の存在から、法人としての法人格を持ってもらって自主性、自律性を高めてもらうということ」なので、文部科学省が「これまで日常的にかかわっていろいろ支援したり助言したりしてきた細々とした対応というやり方そのものを変えていかないといけない」(第156回国会参議院文教科学委員会6月5日)のである。

そのためには、「文部科学省内の高等教育にかかわる様々な組織の体制も変えていかなくてはならない」(同)が、独立行政法人産業技術総合研究所を設立した際、それまで研究所運営の権限をほとんど全て掌握してきた工業技術院を廃止したように、監督局である高等教育局も、その権限を国立大学に委譲した後は廃止されるべきである。文部科学省が、国立大学法人制度を名実ともに独立した自律的大学を生み出すものと真に理解していることを示すためには、自らの組織変革を遂行しなければ、外部に対する説得力はない。

「国大協が学部等の組織を省令で明示すべきとしたのは、国立大学法人の業務の中核である教育研究の基本的な内容や範囲を省令において明示することにより国の責任を明確にしようと考えたためである。これに対して、学部等の組織は省令で規定されないこととされたが、文部科学大臣が示す中期目標においてこれらを明確に記載することにより、国の責任は同様に果たされなければならない。」(斜字筆者)

法人化によって、学部学科などの組織編成権は、国立大学側に委譲される。ある機能を果たすべき組織にとって、その機能が有効かつ効率的に発揮できるような内部組織構成を自由に選択できることは、「自治」の確保にとって死活的に重要なポイントである。にもかかわらず、国立大学協会が傍線部分のように、自己の業務組織や機能について、文部科学省令に委ねようとしたことは、「自治」を自ら放棄することに等しい。

また、同「見解」は他にも、「教育研究にかかる評価の困難性」を指摘し、評価委員会に対して「十分な配慮」を求めるとともに、「財政基盤を確立・強化」するために、国の「特別な配慮を強く求め」ている。たしかに過渡期においては、こうした一定の配慮も必要だろうが、法人化された後は、自ら研究費や寄付などの外部資金の獲得に努めて政府の影響から離脱していく意思を表明したり、厳正な評価を求めることで大学のアカデミックプライドをむしろ高めていったりといった「攻めの姿勢」が必要とされているのではないだろうか。法人化によって大学間競争は厳しくなるといわれているが、国立大学協会の存在自体、曲がり角に来ている。護送船団方式的な発想法から脱皮しなければ、保護と支援だけを求める斜陽産業の「業界団体」に堕してしまう恐れがあることを指摘しておきたい。

一方、文部科学省の行政も、新しい枠組みに適合したスタイルに変化していかなければならない。この点、遠山敦子文部科学大臣も述べているように、「・・・行政組織の一部としての国立大学の存在から、法人としての法人格を持ってもらって自主性、自律性を高めてもらうということ」なので、文部科学省が「これまで日常的にかかわっていろいろ支援したり助言したりしてきた細々とした対応というやり方そのものを変えていかないといけない」(第156回国会参議院文教科学委員会6月5日)のである。

そのためには、「文部科学省内の高等教育にかかわる様々な組織の体制も変えていかなくてはならない」(同)が、独立行政法人産業技術総合研究所を設立した際、それまで研究所運営の権限をほとんど全て掌握してきた工業技術院を廃止したように、監督局である高等教育局も、その権限を国立大学に委譲した後は廃止されるべきである。文部科学省が、国立大学法人制度を名実ともに独立した自律的大学を生み出すものと真に理解していることを示すためには、自らの組織変革を遂行しなければ、外部に対する説得力はない。

法人化によって、学部学科などの組織編成権は、国立大学側に委譲される。ある機能を果たすべき組織にとって、その機能が有効かつ効率的に発揮できるような内部組織構成を自由に選択できることは、「自治」の確保にとって死活的に重要なポイントである。にもかかわらず、国立大学協会が傍線部分のように、自己の業務組織や機能について、文部科学省令に委ねようとしたことは、「自治」を自ら放棄することに等しい。

また、同「見解」は他にも、「教育研究にかかる評価の困難性」を指摘し、評価委員会に対して「十分な配慮」を求めるとともに、「財政基盤を確立・強化」するために、国の「特別な配慮を強く求め」ている。たしかに過渡期においては、こうした一定の配慮も必要だろうが、法人化された後は、自ら研究費や寄付などの外部資金の獲得に努めて政府の影響から離脱していく意思を表明したり、厳正な評価を求めることで大学のアカデミックプライドをむしろ高めていったりといった「攻めの姿勢」が必要とされているのではないだろうか。法人化によって大学間競争は厳しくなるといわれているが、国立大学協会の存在自体、曲がり角に来ている。護送船団方式的な発想法から脱皮しなければ、保護と支援だけを求める斜陽産業の「業界団体」に堕してしまう恐れがあることを指摘しておきたい。

一方、文部科学省の行政も、新しい枠組みに適合したスタイルに変化していかなければならない。この点、遠山敦子文部科学大臣も述べているように、「・・・行政組織の一部としての国立大学の存在から、法人としての法人格を持ってもらって自主性、自律性を高めてもらうということ」なので、文部科学省が「これまで日常的にかかわっていろいろ支援したり助言したりしてきた細々とした対応というやり方そのものを変えていかないといけない」(第156回国会参議院文教科学委員会6月5日)のである。

そのためには、「文部科学省内の高等教育にかかわる様々な組織の体制も変えていかなくてはならない」(同)が、独立行政法人産業技術総合研究所を設立した際、それまで研究所運営の権限をほとんど全て掌握してきた工業技術院を廃止したように、監督局である高等教育局も、その権限を国立大学に委譲した後は廃止されるべきである。文部科学省が、国立大学法人制度を名実ともに独立した自律的大学を生み出すものと真に理解していることを示すためには、自らの組織変革を遂行しなければ、外部に対する説得力はない。

また、同「見解」は他にも、「教育研究にかかる評価の困難性」を指摘し、評価委員会に対して「十分な配慮」を求めるとともに、「財政基盤を確立・強化」するために、国の「特別な配慮を強く求め」ている。たしかに過渡期においては、こうした一定の配慮も必要だろうが、法人化された後は、自ら研究費や寄付などの外部資金の獲得に努めて政府の影響から離脱していく意思を表明したり、厳正な評価を求めることで大学のアカデミックプライドをむしろ高めていったりといった「攻めの姿勢」が必要とされているのではないだろうか。法人化によって大学間競争は厳しくなるといわれているが、国立大学協会の存在自体、曲がり角に来ている。護送船団方式的な発想法から脱皮しなければ、保護と支援だけを求める斜陽産業の「業界団体」に堕してしまう恐れがあることを指摘しておきたい。

一方、文部科学省の行政も、新しい枠組みに適合したスタイルに変化していかなければならない。この点、遠山敦子文部科学大臣も述べているように、「・・・行政組織の一部としての国立大学の存在から、法人としての法人格を持ってもらって自主性、自律性を高めてもらうということ」なので、文部科学省が「これまで日常的にかかわっていろいろ支援したり助言したりしてきた細々とした対応というやり方そのものを変えていかないといけない」(第156回国会参議院文教科学委員会6月5日)のである。

そのためには、「文部科学省内の高等教育にかかわる様々な組織の体制も変えていかなくてはならない」(同)が、独立行政法人産業技術総合研究所を設立した際、それまで研究所運営の権限をほとんど全て掌握してきた工業技術院を廃止したように、監督局である高等教育局も、その権限を国立大学に委譲した後は廃止されるべきである。文部科学省が、国立大学法人制度を名実ともに独立した自律的大学を生み出すものと真に理解していることを示すためには、自らの組織変革を遂行しなければ、外部に対する説得力はない。

一方、文部科学省の行政も、新しい枠組みに適合したスタイルに変化していかなければならない。この点、遠山敦子文部科学大臣も述べているように、「・・・行政組織の一部としての国立大学の存在から、法人としての法人格を持ってもらって自主性、自律性を高めてもらうということ」なので、文部科学省が「これまで日常的にかかわっていろいろ支援したり助言したりしてきた細々とした対応というやり方そのものを変えていかないといけない」(第156回国会参議院文教科学委員会6月5日)のである。

そのためには、「文部科学省内の高等教育にかかわる様々な組織の体制も変えていかなくてはならない」(同)が、独立行政法人産業技術総合研究所を設立した際、それまで研究所運営の権限をほとんど全て掌握してきた工業技術院を廃止したように、監督局である高等教育局も、その権限を国立大学に委譲した後は廃止されるべきである。文部科学省が、国立大学法人制度を名実ともに独立した自律的大学を生み出すものと真に理解していることを示すためには、自らの組織変革を遂行しなければ、外部に対する説得力はない。

そのためには、「文部科学省内の高等教育にかかわる様々な組織の体制も変えていかなくてはならない」(同)が、独立行政法人産業技術総合研究所を設立した際、それまで研究所運営の権限をほとんど全て掌握してきた工業技術院を廃止したように、監督局である高等教育局も、その権限を国立大学に委譲した後は廃止されるべきである。文部科学省が、国立大学法人制度を名実ともに独立した自律的大学を生み出すものと真に理解していることを示すためには、自らの組織変革を遂行しなければ、外部に対する説得力はない。

結 語

高等教育の発展に責任を負う両主体間の意思疎通は重要なことではあるが、制度の基本をゆがめるような両者間の取引や、密室での調整といった手法がとられるならば、国立大学法人制度自体に対する国民の信頼を失うことになりかねない。

本稿で見てきたように、国立大学法人制度が成功するかどうかは、関係者の意識が、制度改革によってどのくらいのスピードで変化していくかに依存している。国立大学を巡る制度について、これほどの大きな変化が加えられることは、もう数十年ないであろう。この期に、真の「大学の自治」を目指した関係者の努力に期待したい。(おわり)


「大学の自治」についての歴史的、哲学的考察は多くあるが、組織運営の観点からの自治の定義として「当該組織が、自己の責任と権限において、自分自身の機能や公正を選択・決定でき、かつ将来の在り様をコントロールできる状態」というふうに定義すれば、これまで、国立大学には自治は制度的に担保されていなかったといえる。

国立大学法人法によって、組織運営の権限と責任は国立大学法人側に移行する。この点は制度上明解である。しかし、これまで長く文部科学省と国立大学とが相互依存関係にあったがゆえに、新法人制度の仕組みは頭で理解できても、実際の実務になると混乱が生じることが予想される。法人となった国立大学法人が決めるべきことについて、文部科学省がパターナリスティックに指導・助言したり、文部科学省の判断権に属することについて、国立大学側が「配慮」を求めたりする場面は、これからも実際上なくならないだろう。

2012年4月10日火曜日

法人化と大学改革(7)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「国立大学法人法と国立大学改革」をご紹介します。


7 学内資源配分システム

国立大学法人に対しては、独立行政法人制度と同様、運営費交付金が国から支弁される。また、土地、施設などの国有財産は法人に移転され、授業料その他の自己収入も個別の国立大学法人ごとに帰属する。こうした予算関連制度の変更によって、国立学校特別会計は廃止され、名実ともに個別の国立大学は予算執行の自由を得ることとなった。

筆者は、法人化に当たって、国立学校特別会計制度は存続する可能性の方が高いと考えていたが、法人制度の趣旨にそって廃止されたことは合理的な判断だったと評価される。筆者が、存続する可能性の方が高いと考えていた理由は、国立大学の授業料が一種の公共料金であり、教育の機会均等の観点から、国の規制にかからしめて全国立大学一律にすることが適当であるとの考え方が根強くあることに加え、仮に特別会計を廃止して授業料を自由化した場合、大学間競争の激化から、財政的に立ち行かなくなる大学法人が出てくることが懸念されるため、特別会計制度を維持して、大学法人間に所得再分配を裁量的に行える余地を残しておきたいと、行政当局が判断するだろうと考えたからである。

この授業料設定問題に関しては、国立大学法人法第二十二条第四項において、文部省令で定めることとされ、実際には標準額(現行水準程度)±α(上下10%くらいか)をその内容とすることになった。この結果、国立大学法人は一定の財務的自由度を得たわけだが、学部間での授業料差別化は認められておらず、横並び意識もあって、当面は全国一律水準の授業料に落ち着くものと思われる。しかしながら、少子化などの経営環境変化、中期計画期間終了時の評価などの制度的チェックなどによって、中期的には国立大学法人ごとや学部・専門職大学院ごとに、授業料の多様化に向けた力が働くことになろう。そうした時代を迎える準備として、今後各国立大学法人は、大学内の各部局の教育研究業績を挙げていく必要に迫られる。

こうした状況に直面しているという認識が生まれれば、次の最も大きな課題は、学内の資源配分をどのような方法で行うかということになる。ここでいう資源とは経営資源のことであり、学生定員、教職員定員・定数、新組織(行政用語では「機構」)、スペース、予算(施設建設費を含む)のことを指す。これらの配分は、中期目標や中期計画と密接に関連しており、各国立大学法人が持つミッションと整合的でなければならない。

そのうち、予算配分方式についてのオプションをみてみよう。概念的整理としては、集権的・分権的及び競争的・非競争的という両軸で構成する考え方もあるが、ここでは、米国の研究大学で実際に行われてきた学内予算配分方式の実証研究を行ったダニエル・ローダスを参考に、以下のように分類してみる。

1)前年度増分方式
2)フォーミュラ方式
3)予算計画方式
4)インセンティブ方式


1)前年度増分方式

この方式は、各支出項目について特段厳しい査定をせず、一律の増分を認める方式である。部局間配分においても、部局内配分においても、最も多くみられる形態であり、日本の国立大学でもいわゆる「当たり校費」の配分方式として、広く採用されてきた。この配分方式のメリットは、ほぼ一律のルールで増分が認められていくことから、現場サイドからの不満が生じにくく、調整にかかる行政コストが最小化できるとともに、相対評価が困難な学問分野間のプライオリティづけや業績評価を回避することができることにある。しかし、こうした予算配分方式は、中期目標及び中期計画が明示される国立大学法人においては、教育研究の戦略目標と予算配分結果とのリンケージが明らかではなく、国立大学法人評価委員会など外部評価機関からは、修正を迫られる可能性が高い。また、ダイナミックな教育研究分野の改革を行ってより上位のランキングを目指す大学にとっては、こうしたスタティックな予算配分方式は、重点的資源配分の障害となるだろう。さらに、効率化の観点からみても、この予算配分方式は、次年度予算を確保するため、年度内での無理な使い切りを助長する効果をもつことから、法人化によって得られた予算執行の自由(単年度主義からの解放、剰余金が積立可能)を失うことになる。


2)フォーミュラ方式

米国では、州立大学システムの中で大学間配分でとられることの多かった方式である。フォーミュラを構成する要素は千差万別だが、共通要素としては、学生・教官数、学位授与数などが挙げられる。国立大学法人に支弁される運営費交付金の算定根拠も、この方式に似たものとなっている。この方式のメリットは、恣意的な算定根拠要素を排除する限り、公平・公正感があり、予算要求交渉の際に生じる調整コストを最小化できることにある。その点、上記の前年度増分方式と同じであるが、この方式は大学内部での配分方式としてとられることは少なく、大学間での配分方式として採用されてきた。大学内配分方式としてフォーミュラ方式を適用しようとすると、学生関連要素が算定根拠の中心を占めるがゆえに、今後同一大学内での学部間競争を招くことになるとともに、学生単位当たり費用の差が大きい理系と文系の間で、不公平感が生じる可能性がある。

3)予算計画方式

全ての又は一部の教育研究プログラムについて、部局長等現場のマネジメントレベルも参加してコストベネフィットを評価し、各予算について正式な了解を与えていく方式である。この方式のメリットとしては、評価過程を通じて、実際に予算を執行することになる現場のマネジメントレベルも、大学全体が抱える問題点やジレンマを理解するようになることや、予算削減が必要となる時期や重点配分を行わなければならない場合に、より正式な手続きを経て意思決定ができることが挙げられる。しかし、米国ではこの方式をとった大学は、2-3年のうちに取りやめたといわれる。その理由は、評価のためのペーパーワークが相当負担であり評価過程自体も時間浪費的であること、評価結果について学内からの反発が生じる例が多くなったことなどである。

ただ、日本の国立大学では、これまでこうした学内での真剣なプロジェクト評価がなされてこなかったこともあり、中期計画に掲げられた重点プロジェクトなどについて予算決定を行う場合などは、この方式を採用することも一案ではないだろうか。

4)インセンティブ方式

これは、予算執行の自由と責任を部局に持たせ、その業績を評価して予算を増減していく方式である。この方式は、財源を税収から支弁されている州立大学が、アカウンタビリティの観点から採用したことに始まる。この系として、部局責任予算配分方式(部局が一種の独立採算制をとり、自己収入は当該部局に属するが、大学全体の間接費用も間接部門からのサービスの購入と認識して大学当局に支払う)や部局長責任予算配分方式(部局長が自部局の中期計画を作成し、その執行に責任を持つことと引き替えに、ブロック予算が部局に割り当てられる)がある。

前年度増分方式以外のいずれの方式においても、教育研究評価が予算の増減にダイレクトに結びついていくという意味では、国立大学法人の制度設計のコンセプトに合致する。業績評価については、当然のことながら「公正な評価基準はあるのか」「短期的な評価は基礎研究になじまない」などといった反発が出てくるだろう。しかし、だからといって評価をしなくてよいという理屈にはならないとの認識の上に立って、まずは導入することが重要である。いったん導入した後に、評価プロセスの改善、評価基準の修正などを積み重ねていくことによって解決しうる問題も多いものである。少なくとも、国立大学法人に対しては、国立大学評価委員会、政策評価・独立行政法人評価委員会、大学評価・学位授与機構による評価が、制度上行われることになっている。こうした評価を先取りしつつ、自大学内部において教育研究評価を進めていくことは、アカデミックプライドを維持するためにも必要なことだと思われる。

しかし、日本の国立大学に置いて、部局に予算執行権限と評価責任を持たせるこの方式が機能するかどうかについての本質的な点は、評価にまつわる方法論ではない。最も重要な問題は、学長が、国立大学法人全体のミッションと整合的な部局運営を部局長に指示する権限や、指示に反した場合に適切な処分を行う権限を、現実に行使することが可能かどうかということにある。部局長の任免権は、国立大学法人においては学長が持つことになってはいるが、これまでの伝統や歴史的理由から、部局長は部局内での選考によって選ばれてきているため、権原の所在や責任の取り方についても、これまでの認識が今後とも残存するだろう。そうした中で、大学中央執行部と部局の間の権限と責任分担の明確化が要求されるインセンティブ方式を導入することは、学内秩序に一時的な混乱を招く恐れもある。

以上の方式のオプションは、全ての予算配分を一方式だけで行うということを前提としたものではない。例えば予算の半分は前年度増分方式で配分し、残りはインセンティブ方式による、といった対応も可能だろう。また、事務局予算と教育研究部門予算とを区別して、別の方式を適用することも考えられる。さらに、人員配分については、人事制度や教官のキャリアパスの設計とともに検討することが必要であり、上記の予算配分方式をそのまま適用することは不適当である。

学内資源配分についての工夫が最も重要な実務上の課題であることは、どの国立大学法人にも共通に当てはまる。一方、大学という組織は、ヒエラルキー的な意思決定構造を有しておらず、また学生という他の組織には存在しない構成員を組織内に抱えている事情があることから、その課題を克服していくことは容易ではない。留意すべきことは、一度導入した制度は、修正・改善はできても、なかなか根本的な変革はできなくなるということである。各国立大学法人においては、建前はともかく、自大学の実力や自己の置かれている経営環境を冷静かつ客観的に認識したうえで、自法人のミッションの的確な遂行を可能とする学内資源配分システムを構築することが期待される。(続く)

2012年4月9日月曜日

法人化と大学改革(6)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「国立大学法人法と国立大学改革」をご紹介します。


6 中期目標と中期計画

国立大学は、独立行政法人通則法による法人化に強く反対してきた。その理由は、通則法の各規定の中でも、所管大臣が法人に対して業務に関する中期目標を付与し、法人側はその目標を達成するための中期計画案を策定して、所管大臣に認可を受けるという仕組みが、国立大学に対する行政の介入や縛りを強くし、大学の自治が守れなくなるという点にあった。

確かに、所管省である文部科学省の官僚に、個々の大学の目指すべき中期目標を作成する権限を与えては、大学の自治や学問の自由が侵されるという大学側の懸念は、首肯できるものがある。しかし、その論理を飛躍させて、大学は社会との関係性を持たずに、何をやっていても許される場所であるということにはならない。特に、国立大学のステークホルダーは多岐にわたる。教育研究予算を配分する政府、その財源になっている税を支払っている国民、教育サービスを受けている学生、授業料を実質的に支払っている学生の保護者、卒業した人材を受け入れたり研究費を供与する産業界など、大学が説明責任を負う相手は、経済社会全体に広がっている。

もし日本の法制上許されるならば、こうした現代の大学に適合する仕組みは、社会全体と結ぶ「契約」だろう。国民の代表である国会及び国会で議決を受けた予算を国民の負託を受けて執行する政府と大学の間で、対等な立場で一種の契約を結ぶ。その履行状況を監視するために第三者機関を置き、契約期間終了後、遵守度を測定したうえで契約を更新する。

残念ながら、現在の日本の法制度はそれほど柔軟ではなく、既に例のある仕組みである独立行政法人通則法を修正することによって、同様の効果を得るしかない。その工夫が国立大学法人法第三十条第三項の規定である。同項は「文部科学大臣は、中期目標を定め、又はこれを変更しようとするときは、あらかじめ、国立大学法人等の意見を聴き、当該意見に配慮するとともに、評価委員会の意見を聴かなければならない。」(斜字筆者)とする。斜字部分は、独立行政法人通則法の該当条文には存在しておらず、国立大学法人を独立行政法人と差異化する最も重要な部分である。

当然、国会審議においても、この部分についての解釈が議論になり、遠山文部科学大臣は、次のように国立大学の懸念に相当配慮した答弁を行っている。

「(中期目標は)実際的には私は大学が定める、あるいは大学の原案というものをベースにして決めていく・・・(中略)・・・大学ないし大学法人の意図というものが生かされていくわけでございます。私の今言っております実際的にはというところを是非とも将来にわたって記録に残しておいていただきたいと思う」

しかし一方、同じ国会において、文部科学省が昨年12月に国立大学法人に宛てて発した中期目標関連項目作成に係る提出依頼資料が明らかにされ、今後の中期目標策定過程における文部科学省の介入が懸念される事態となっている。文部科学省側としては、国立大学協会から、中期目標及び中期計画のイメージ的なものを出すよう要請されたために、大学側で行う中期目標及び中期計画策定の準備資料として、作成したという認識であることを答弁しているが、これまでの文部科学省と国立大学とのもたれあい構造を示している好例といえよう。文部科学省の介入に対して、大学の自治をタテに大学の自律性を表では強調しながら、実際的な実務になると、文部科学省が持つ行政能力に依存する国立大学という図式である。国会では、文部科学省に対する批判が前面に出ていたが、実際には国立大学法人のミッションを表現する最も重要な中期目標さえ、自ら作成する創造力やイマジネーションに欠ける国立大学側も、同様に批判されて当然であろう。

また、中期計画は単なる予算要求書ではない。中期計画は、中期目標を達成するために、現実にどのような学内資源配分を行い、その進捗を測るためにどのようなマイルストーンを置き、どのようなスケジュールで計画を実行していくのかが記載された実効的な経営方針でなければならない。今後、大学の個性化、多様化に向けての改革努力に真剣に取り組んでいること、またそれがゆえに行政の介入は不要であることを示すためには、各国立大学が、独自の中期目標の原案と中期計画の作成に、最も多くのエネルギーを割いていくことが必須となる。(続く)

2012年4月7日土曜日

成果をもたらすもの(ドラッカー)

自己開発に最大の責任をもつのは、本人であって上司ではない。誰もが自らに対し「組織と自らを成長させるには何に集中すべきか」を問わなければならない。

例えば、医師のさまざまな要求とペーパーワークに追われている病棟の看護師は、大勢の外科の患者を見ながらこう問わなければならない。「彼らの看護こそが私の仕事だ。他のことは邪魔でしかない。この本来の仕事に集中するにはどうしたらよいか。仕事の仕方に問題があるかもしれない。もっとよい看護ができるよう、みんなで仕事の仕方を変えられないだろうか」

自らを成果をあげる存在にできるのは、自らだけである。他の人ではない。したがってまず果たすべき責任は、自らのために最高のものを引き出すことである。人は、自らがもつものでしか仕事はできない。しかも人に信頼され協力を得るには、自らが最高の成果をあげていくしかない。

ばかな上司、ばかな役員、役に立たない部下についてこぼしても、最高の成果はあがらない。障害になっていること、変えるべきことを体系的に知るために、仕事のうえで互いに依存関係にある人たちと話をするのも、自らの仕事であり責任である。

成功する人たちは、自らが行ったこと、そのうち意義の大きなもの、さらに力を入れるべきものについて年に一、二度反省している。私自身1940年頃から、毎年8月には、2週間ほどかけて一年間を反省している。「いかなる分野で大きな貢献をしたか。いかなる分野が私を必要としているか。いかなる分野で時間を無駄にしたか。最高の貢献をし最高の成長をするためには、いかなる分野に集中すべきか」

計画どおりにやれるわけではない。突然何かが起こり、思ったようにいかなくなる。しかし、いまのところ、私がコンサルタントとして成長し、成果をあげ、仕事から多くのものを得ることができているのも、自分が違いを生み出せることに集中してきたためである。

人は、強みへの集中によってのみ自らの成長を図ることができる。そうして初めて、自らのビジョンを生産的なものにすることができる。実に、真の貢献を行う者とは、組織のミッションそのものを成長させる者のことである。

組織とそこに働く者の成長を図るには、いかなる分野に集中すべきかを考えなければならない。有給、無給のあらゆるスタッフが考えなければならない。特に幹部は共に考えなければならない。そのための形式はない。事実、その種のものの最高のものと思われるものは、指揮者ブルーノ・ワルターがとった方法である。

成功に必要なものは責任である。あらゆるものがそこから始まる。大切なのは肩書ではなく責任である。責任をもっということは、仕事にふさわしく成長したいといえるところまで真剣に仕事に取り組むことである。

そのためにはスキルを身につけることも必要である。時には、いかに辛くとも、長年かけて身につけた能力がまったく意味を失ったことを認めなければならない。10年かけてコンピュータを自在に使いこなせるようになったにもかかわらず、いまや学ぶべきはいかにして人と働くかである。

責任ある存在になるということは自らの総力を発揮する決心をすることである。「違いを生み出すために、何を学び、何をなすべきか」を問う。むかし一緒に働いたある賢い人が、私にこういったことがある。「よい仕事をすれば昇給させる。しかし昇進させるのは、仕事のスケールを大きく変えたときだけだ」

自己開発とは、スキルを修得するだけでなく、人間として大きくなることである。おまけに、責任に焦点を合わせるとき、人は自らについてより大きな見方をするようになる。うぬぼれやプライドではない。誇りと自信である。一度身につけてしまえば失うことのない何かである。目指すべきは、外なる成長であり、内なる成長である。

あらゆることについてリーダーとなる者と他の者との間には、一定の関係がある。あらゆる者が先達の力を借りる。リーダーがビジョンと基準を定める。だがリーダーだけではない。リーダー以外の者が傑出した仕事をすることがある。すると他の者がこれをまねる。

リーダーをリーダーたらしめるものは肩書ではない。範となることによってである。そして最高の範となることが、ミッションへの貢献を通じて自らを大きな存在にし、自らを尊敬できる存在にすることである。


2012年4月6日金曜日

法人化と大学改革(5)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「国立大学法人法と国立大学改革」をご紹介します。


5 国立大学法人の意思決定組織・・・不明確な権限・責任分担

国立大学法人法第二章第一節に、国立大学法人の意思決定組織が規定されている。先述した経営と教学の分離モデルが排除された結果、経営と教学双方を「総理」する学長のほか、役員会、経営協議会、教育研究評議会が設置される。学長のリーダーシップを改革の基本的方向としながらも、これまでの大学運営が教授会7中心としたコンセンサス方式で行われてきた伝統に配慮した、トップダウン・ボトムアップの折衷型となっている。こうした意思決定システムの問題点は、次の二点にある。

第一に、役員会と学長の権限・責任分担が不明確である。その理由は、第十一条第二項に「学長は、次の事項について決定をしようとするときは、学長及び理事で構成する会議(第五号において「役員会」という。)の議を経なければならない。」(傍線筆者)と規定されていることにある。役員会の「議」とは「議決」の意味であろうか、それとも「審議」の議であろうか。国立大学法人の制度設計の基本的考え方によれば、学長は全ての決定権限を持ち、責任を負うことになっているが、前者の解釈であれば、役員会が議決しないものは、学長が決定することができない。後者の意味であれば、経営協議会や教育研究評議会での審議事項と役員会での審議事項が重複し、内部調整コストは増大し、意思決定のスピードが犠牲になる。

この解釈については、第二十、二十一条に、経営協議会や教育研究評議会の任務として、重要事項を「審議」するという別の用語が当てられていることから見て、前者すなわち「議決」を意味するものだと考えられる。もしそうだとすれば、学長がある重要事項、例えば業績の上がらない学部の廃止を決定しようという際に、役員会が否決した場合、その学部は廃止できなくなってしまう。その結果、もし国立大学法人評価委員会で、当該大学の評価が下がり、たとえば運営費交付金を減額されたとすれば、それは学長の責任であろうか、それとも役員会の責任であろうか。また役員一人ひとりには何の責任も生じないのだろうか。国立大学法人の制度設計上、最も重大な曖昧さが、ここに潜んでいる。

第二の問題点は、現実の場面で重要な事項について意見の相違が出てきた場合、学内調整が、校務・学務に支障が生じない時間内で完了するかどうか、心もとないことである。例えば、学内予算配分のように、教学と経営双方に関連するような事項は、経営協議会も教育研究評議会も審議することができる。特に、経営協議会は半数以上が学外者であり、内部者で占められる教育研究協議会と考え方の相違が生じることは、大いにありうる(むしろ、それが経営協議会の任務であるといっても過言ではない。)。その結果、例えばある付置研究所の施設建設や大型設備の導入予算を巡って調整に手間取った場合、年度前半に配賦予算が確定しないことも考えられるが、その場合には年度内の物品調達や工事発注はあきらめざるをえないようなことも予想される。その案件に土地の処分などが関係していた場合、文部科学大臣の認可を必要とされるため、役員会の議決も必要になるし、文部科学省との事前調整にも時間を要することになる。競争的な研究テーマの場合には、研究現場は一刻も早く研究をスタートさせたいと考えているだろうが、こうした場合、学長が自己の責任において「見切り発車」できるのだろうか。(続く)

2012年4月5日木曜日

法人化と大学改革(4)

前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「国立大学法人法と国立大学改革」をご紹介します。


4 教育研究の特性への配慮と評価問題

第三条に、「国は、この法律の運用に当たっては、国立大学及び大学共同利用機関における教育研究の特性に配慮しなければならない。」と規定された。さらに国会審議の結果採択された衆参両院の附帯決議にも同様の趣旨が規定されている。

国立大学の法人化問題は、当初国立大学のみならず、文部科学省も強く反対していた。1971年の中央教育審議会答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」(いわゆる「四六答申」)や1988年臨時教育審議会答申において、すでに国立大学の法人化論は議論の俎上に上っていたが、いずれも日の目を見ず、行革会議で独立行政法人化が議論された際も、大学の特性から法人化はそぐわないという意見が大勢を占めた。いずれの時代も、大学における教育と研究の特性が、法人化に反対する理由となっているが、実際のところ、その「特性」とは何だろうか。学生という自立していない構成員を組織に内包するところから生まれる特性もあろうが、大学改革の文脈で議論されるのは大半が研究の側面であり、つまるところ、個の創造性を活かす自律的研究環境が侵されるような改革は反対だということに尽きよう。

文部科学省による微細にわたる研究環境のコントロールのなかで、国立大学には本来の意味の「自治」(=自己の資源で自己のあり方を選択できる)が欠けているにもかかわらず、大学の構成員が「自律的」な研究環境が保証されているとどうして感じているのか、外部者は疑問に感じる。しかし、実際には人事、会計その他の諸制度が定着し、ある種の秩序が成立すると、その秩序自体は窮屈なものであっても、安定的かつ継続的なものであれば、結果予測性が高まるため、当事者にとっては最も居心地のいい環境となる。したがって、当該秩序を少しでも改変したり、乱したりする要因に対しては、それが「自律性」を今より高める可能性を持つものであっても、抵抗する勢力が現れるのである。

その秩序の変更に対して、旧秩序を維持するために使用される大義名分が「特殊性」である。これは大学改革問題に限ったことではない。例えば、他の規制改革問題で見られる対立においても、同じような構図がある。貿易自由化問題では農業(特にコメ)、経済的規制問題では、医療や教育分野への株式会社参入など、全てその「特殊性」が改革を阻んでいる。確かに「特殊性」に応じて、新たな制度の弾力的運用が必要な場合があろうが、だからといって「特殊性」がゆえに改革の本旨がないがしろにされてしまっては本末転倒である。

国立大学法人法の審議においても、国立大学法人の業績評価を巡って、この条文が議論になった。国立大学法人の業務実績評価は、一義的には文部科学省に設置される国立大学法人評価委員会が行う(国立大学法人法第九条)ことになっているが、総務省に設置される政策評価・独立行政法人評価委員会がダブルチェックを行うこととされている。国会審議では、このダブルチェック機能の内容や意義に関して、できるだけ総務省の政策評価・独立行政法人委員会の権限を弱めるよう野党から求められた結果、最終的には同委員会が中期計画期間終了時に行う主要な事務・事業の改廃に関する勧告を行う際の方針は第三条の趣旨に配慮されること、またその際に行われる調査についても、第三条の規定の趣旨を踏まえ、必要な資料の提出依頼は国立大学法人直接ではなく、文部科学大臣に行われることとなった。前半の事務・事業の改廃についての勧告ともなれば、大学の存廃にもかかわる重大事であることから、第三条の趣旨が踏まえられるべきことについては、正当化される理由も存在するだろうが、後者の資料提出の依頼先まで、「第三条の規定の趣旨」を踏まえる必要があるのかどうか、大いに疑問である。

国立大学が文部科学省の管理から離脱し、法人化を契機に自由な運営を享受するためには、種々の評価制度をむしろ積極的に活用しながら、自らが国会を含めた国民一般に対して説明責任を果たしていくことが必要条件となる。国立大学法人法その他の関連法の改正によって、大学が受ける評価は、上記に述べた国立大学法人評価委員会、総務省政策評価・独立行政法人評価委員会のほか、各大学による自己評価、大学評価・学位授与機構による評価、学校教育法に規定する認証評価(いわゆるアクレディテーション)という公式制度が予定されている。また、民間の調査機関などによる大学ランキング評価が増えてきているし、金融機関による私立大学の格付け評価も最近現れた。自大学のセールスポイントは何にするのか、またその質と量を改善していくために、どのように学内の資源配分を考えていくのか、といった戦略的経営手法を取り入れることを怠った大学は、こうした多様な評価軸による外部評価の中で、他大学に取り残されていくことを覚悟しなければならない。

評価問題について最後に付言すれば、右に挙げた評価制度は、すべて機関(組織)評価が中心である。国会審議でも、公式な評価制度は、教官個々人の業績評価を行うものではないとの見解が、当局から示されている。しかし一方で、国立大学法人制度では、実績主義の人事システムを導入することが慫慂されており、また機関(組織)評価といっても、機関(組織)としての実績は、個々の構成員の教育・研究実績の積み重ねであることから、教官個々人の業績評価システムが、各大学において遠からず導入されることとなろう。これまで国立大学教官個々人の評価は、全くと言っていいほどなされていないため、今後どのような評価基準を設けるのか、その基準は部局ごとに異なるものとするのか一律なのか、誰が評価するのか、評価結果のフィードバックは何に反映されるのか、教育と研究はどのような比重にするのかなど、学内の議論が容易に収斂しないだろう。各大学の執行部は難題を抱えることになるが、手をこまねいているわけにはいかない。

工業技術院人事課長として、独立行政法人産業技術総合研究所の人事制度構築に携わった筆者の経験から述べれば、どのような業績評価システムを導入する場合にも、次の諸点に留意することが重要である。(教育評価については、別途考慮する必要がある。)



  • 被評価者の自己申告、自己評価を基本とすること(被評価者が、評価者に対して評価してもらいたい実績を、エビデンス付きで申告する仕組み。ほとんどの研究者は、自らの研究業績の意義付けや質は、学会による評価などで自己認識している。)

  • 1年単位の短期評価だけではなく、5~10年の業績蓄積を評価する長期評価も組み合わせること

  • 定量的評価と定性的評価をミックスすること(定量的評価は恣意的な評価から被評価者を守る目的、定性的評価は数値に表れない重要な研究の芽を摘まない目的で行うこと。一般にはその逆のように思われていることに注意。)

  • 公平公正な一律の評価基準は存在しないことを認識し、基準自体の作成よりも、評価プロセスの公平公正性を明確にすることに重きをおくこと(苦情申し立て制度の構築を含む)

  • どの評価制度も完璧ではありえない。ある程度の時期と経験を経て修正していくことを前提に、まず導入することが重要だと認識すること(続く)
  • 2012年4月4日水曜日

    法人化と大学改革(3)

    前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「国立大学法人法と国立大学改革」をご紹介します。


    3 「国立大学法人」と「国立大学」・・・経営と教学の一致

    第二条の定義規定に、「・・・『国立大学法人』とは、国立大学を設置することを目的として、この法律の定めによるところにより設立される法人をいう。」とある。また、第4条第2項に「別表第一の第一欄に掲げる国立大学法人は、それぞれ同表第二欄に掲げる国立大学を設置するものとする。」との規定がある。これらの規定は当然のように見えるが、背景は少し複雑である。

    学校教育法第2条には学校の設置者の規定があり、学校は国、地方公共団体、学校法人(私立)のみが設置することができるとされているが、この規定との関係で、改革後の国立大学は誰が設置するのかという点が問題になった。というのも、学校教育法第5条に「学校の設置者は、その設置する学校を管理し、法令に特別の定めのある場合を除いては、その学校の経費を負担する」と規定されているため、国立大学が国立大学法人によって設置されるものとすると、国が経費を負担する根拠が失われるのではないかということが懸念されたからである。

    さらに学校教育法第2条には、国以外の選択肢は学校法人すなわち私立学校しか規定されていないため、国立大学が法人化されると、民営化への第一歩となってしまうのではないかという国立大学関係者の心配があった。国が設置者だという点に対する誇りや安心感がその深層心理にあったことは否めない。

    これらの点は、結局、国立大学法人が国立大学の設置者となり、国立大学法人法と同時に制定された「国立大学法人法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律」において学校教育法第2条が改正されて、設置者のカテゴリーに国立大学法人が追加されることによって決着を見た(設置者費用負担問題については、国立大学法人法で国立大学法人に対する運営費交付金が交付されることが明記されたため、学校教育法第5条の「法令で特別の定めのある場合」に該当するものとして問題はなくなった。)が、その過程で、制度設計上の重要なオプションが失われた。それは経営と教学の分離モデルである。

    経営と教学が分離していることが基本になっている「学校法人」は、前述のように民営化への第一歩となるかもしれないということ及び設置者負担主義の観点から国による財政措置の根拠がなくなるとの懸念から関係者に忌避されたため、最終的には国立大学法人の長=国立大学学長という経営と教学が一致した運営モデルが唯一の選択肢だとみなされることとなった。個々最近の文部科学省の大学改革政策は、学長のリーダーシップ強化(その反射として、教授会の関与の縮小)が基本になってきた。その方向性に誤りはないが、国立大学のような総合大学の場合、学部間の価値観や伝統の違いは、産業で言えば異なる業種間ほどの差があり、また組織帰属意識自体を持たない構成員も多数存在する。そうした大組織をまとめあげつつ運営する任務を、ひとり学長のキャパシティに依存することは、極めて困難であろう。

    これまでは、経営面での権限と責任が文部科学省という大組織に属していた。したがって、国立大学の学長は教学のみの代表者であったことから、人事・予算その他組織運営についてのノウハウやスキルを問われることは少なかった。しかし、今後は自己の責任、それも自己のみの責任において、一大学全体の行く末が決せられることになる。確かに、副学長の増員などスタッフ機能を強めることも同時になされることになろうが、トップが全ての権限と責任を有するという設計になっている限り、スタッフはトップの物理的業務負担を軽くすることはあっても、本質的な解決にはならない。むしろ、経営責任をとる人物と教学の責任をとる人物を別の存在としなければ、伝統的に尊重されてきた大学の自治や学問の自由が侵される危険性をもはらんでいることに留意しなければならないだろう。

    後述する国立大学法人の意思決定システムにも関連するが、経営と教学の分離運営モデルを機能させようとすれば、部局長に相当の権限と責任を分配する必要となる。そもそも「大学間競争」とは、実は学問・研究分野を一にする(したがって相対評価も可能な)学部・研究科間の競争であることが自然である。また、工学部、医学部、農学部などより経済社会との関連性が高い学問分野に属する教官と、理学部、文学部などより真理探究型で市場経済との距離が離れている分野に属する教官とでは、その価値観や学問観の開きもある。組織内に同一のルールで律しきれないサブユニットを含む場合には、組織設計論としては、特に権限の中枢を構成する人事権・予算配分権について、当該サブユニットの長に、権限の大きさと同等の責任を配分しておき、サブユニット間で調整しなければならないことが生じた場合に処理するルールを全学的に定めておくことが効率的である。

    これは、文部科学省の政策であった学長のリーダーシップ強化という命題からみれば、権限分散という点で、一見逆方向の改革に見えるかもしれない。しかし、大学を個々の構成員からなるギルド的組織ではなく、現代的な有機的一体性をもつ組織だととらえれば、組織の運営執行部がこれまでより大きな権限と責任を負うという意味で、同じ方向を向いた考え方である。国立大学とは異なるが、同様の研究組織体である独立行政法人産業技術総合研究所の組織設計においても、こうした配慮がなされ、3000人を越す大組織が運営されている。(続く)

    2012年4月3日火曜日

    法人化と大学改革(2)

    前回に続き、澤昭裕さんが書かれた論考「国立大学法人法と国立大学改革」をご紹介します。


    2 法人化の目的・・・「均衡ある発展」

    第一条の目的の条文は次のとおりである。
    「この法律は、大学の教育研究に対する国民の要請にこたえるとともに、我が国の高等教育及び学術研究の水準の向上と均衡ある発展を図るため、国立大学を設置して教育研究を行う国立大学法人の組織及び運営並びに・・・について定めることを目的とする。」(下線は筆者)

    国立大学の法人化をめぐる議論の中で、最も懸念されていた問題の一つが地方国立大学の行く末である。大学間競争が激しくなれば、旧帝大に比べて予算や人員が乏しく、施設も老朽化している地方大学は、将来廃校も含めて検討せざるを得なくなるのではないかという議論が、地方大学学長から多くなされていた。下線部の「均衡ある発展」という部分は、そうした声に配慮した結果挿入された文言であろう。

    「均衡ある発展」の意味は、学部教育と大学院教育との間、学問分野間、地域間の3つのバランスを意味するというのが、文部科学省の国会答弁である。しかし、前二者は具体的な「政策」や行政側の所為に結びつくものではなく、基本的には大学側が判断すべきものであり、結局「政策」的な意義を持つのは「地域間のバランス」ということになる。学生の修学機会の確保と地域社会発展のために、各都道府県に少なくとも1校の国立大学を配置するという政策が、この目的規定によって将来とも維持されることが明らかにされたと解することができる。

    これまで、学校教育法その他の国立大学に関連する法制度の中に、こうした「均衡ある発展」といった目的が規定されていた例はなく、国立大学法人法の制定を契機に、こうした全国一律の高等教育機会の確保という事実上採用されていた政策を法的に根拠づけることによって、地方国立大学からの存続維持に対する不安を払拭することを狙ったものだと言えよう。

    しかし、この「均衡ある発展」という概念は両刃の剣なのである。文部科学省自身が護送船団方式への批判に対応したと国会で述べているとおり、国立大学法人法は、個々の大学が行政による一律的な規制と保護から脱し、自律性を持ちながら個性化を図っていくことを狙ったものであるにもかかわらず、「均衡ある発展」という概念は、全ての国立大学の横並び的取扱いを含意するものである。

    確かに、地方国立大学が置かれている状況は、財政面や資産面を考えれば非常に厳しい。地域経済社会においては、人材育成や産業発展、さらには文化の継承発展等に対して大学が果たす役割に、大きな期待が寄せられているが、限られた経営資源の中では、教育研究の範囲や規模について、集中と選択を迫られることになろう。法人化された後には中期計画を策定することになるが、地方国立大学こそ特色ある内容をもつ計画を示すべきである。

    本条文を根拠として、他県他大学との横並びを訴えていくような言動や地元選出国会議員に対する利益誘導の働きかけなどの政治的活動が見られれば、大学に対する信頼感は失われ、再び政治・行政の介入を強く受けることになる。「国土の均衡ある発展」という概念が、公共事業の重点化を妨げ、非効率な社会資本投資が全国的に行われたことを思い起こせば、「均衡ある発展」というマジックワードが持つ危険性を理解できるだろう。

    そもそも今回、国立大学の改革が必要であるとされた理由は、1996年の行革会議での議論の結果である中央省庁等改革基本法第43条第2項に端的に表現されているので、長くなるがここに引用しておきたい。

    「政府は、国立大学が教育研究の質的向上、大学の個性の伸長、産業界及び地域社会との有機的連携の確保、教育研究の国際競争力の向上その他の改革に積極的かつ自主的に取り組むことが必要とされることにかんがみ、その教育研究についての適正な評価体制及び大学ごとの情報公開の充実を推進するとともに、外部との交流の促進その他人事、会計及び財務の柔軟性の向上、大学の運営における権限及び責任の明確化並びに事務組織の簡素化、合理化及び専門化を図る観点から、その組織及び運営体制の整備等必要な改革を推進する。」

    この条文から明らかなように、後段は国立大学法人法の大学運営に係る諸規定によって実現されているわけだが、その前段にある考慮要因の諸要素は、国立大学法人法第1条において、全て「大学の教育研究に対する国民の要請」として曖昧化され、特に「大学の個性の伸長」という点は、全く欠落したものとなっている。「個性の伸長」よりも「均衡ある発展」を行政・大学関係者が望んだ結果、中央省庁等改革基本法の精神がないがしろにされているとすれば、今回の大学改革は道半ばに終わっていると断じざるをえない。(続く)