2012年8月31日金曜日

大学経営とそれを担う人材(7)

前回に続き、広島大学高等教育研究開発センター高等教育研究叢書(第39回(2011年度)研究員集会「これからの大学経営-誰がどのような役割を担うのか-」の記録)から、金子元久さん(当時:国立大学財務・経営センター、現在:筑波大学大学研究センター)による基調講演録を抜粋してご紹介します。


経営改革の条件

こういった構造的な問題をどう乗り越えるのかということが、私は非常に大きな問題だと思うのです。それはマネジメントの問題であると同時に、根底的にはガバナンスの問題に行きつく。部局の自治というのが非常に強力な限り組織の改革は困難である。なぜならば自分の組織、それを超えた利害、あるいは資源配分、横の資源配分という判断はできないからです。

しかし他方で社会的な不満は非常に高くなっていて、例えば中教審などでは、企業の人は口を開くたびに「大学というのは何のための組織だ、何をやっているのだ」と「企業だったら、こんなことは許されない」というようなことをいつも言っているわけです。先ほど申し上げたように大学はその本質として、官僚制的な、統一的な目的を持ってそこから意思決定を派生させていくようなかたちでの組織運営はできないし、望ましくもないと思います。アメリカの大学でも実はそんなことはやっていない。ただ今のままでいいのかと言えば、そうも思わないです。

ガバナンスに関してはやはり部局の中だけに閉じ込められたガバナンスの形態というのは変化するべきだと思います。ただそれは制度的な改革でもって一括してやれるというものではなくて、何らかの具体的な目標を達成する中で達成されるものだと思います。そういう意味では、教育改革というのは実はガバナンスを改善する上でも、非常に大きな契機になるのではないだろうか。ただし、そういった改革自体も上から押し付けるのはなくて、そのプロセスをやはり透明化するということは重要だと思います。

そのためには、教育のあり方を考え、それから授業をつくり直し、その結果を客観的に把握して、さらに改革に結びつけていく。そうしたフィードバックの過程を作ることこそが、大学経営の重要な課題となっているのではないでしょうか。

そうした変化を起こすには、何が重要なのかということになってくるわけです。もちろん政策も重要でしょう。どこが今、日本の大学の問題であるのかということを明確に提示すること、変化に必要なインセンティブをつくっていくことも非常に重要だと思います。ただ個々の教員・職員に関して言えば非常に危機感はあるのではないかと思いますけれども、具体的な努力の方向が見えないというのが、大きな障害になっていると思います。

そういった意味で、経営人材の育成が大きな課題となってくる。

経営人材の育成

第一の問題は、冒頭に申し上げた、大学におけるリーダーの資質にかかわります。必要な学長像、幹部系人材像とはなにか。どういう人が、どういう機能を果たすべきなのかということの議論に戻るわけです。

ここ10年くらいの日本の大学の変化を見ていると、国立大学の法人化というのは非常に大きな影響を与えていると思います。いうまでもなく法人化は国立大学については学長の権限を、拡大しました。国立大学法人というのは実は非常に特異なメカニズムでありまして学長の権限が恐ろしく強い、チェック機関が明確にないわけですね。もちろん経営協議会はありますが、経営協議会は実はチェックの権限を持っていませんし、強いて言うと学長選考委員会が監督機関と言えないことはないのですが、それ以外はないのです。

ところが制度的に学長の権限を強力にしても、学長の判断が正当である保証は実は必ずしもない、制度的にだけ学長の権限を拡大させると実はかなり危険なことになる。形式的にはリーダーシップが発揮される条件ができたが、それは実は相当大きなリスクが生じていたことをも意味している。実際、法人化直後の学長がおこなった改革には後で、かなり問題が生じた例も少なくない。

結果として、法人化前後の学長というのは相当改革派だったのですが、逆にそれ以降の学長は、私は「癒し型」になっているのではないかと思います。調整型と言ったほうがいいかもしれませんが、あえて癒し型と呼んでおきます。いずれにせよ、安心できる学長を選ぶ傾向が堅調になっている。私立大学でも面白いことに同じ傾向がありまして、過去、ここ3~4年くらいに選ばれている学長というのはみんな癒し型というか学内調整型の学長、特に巨大私学はその傾向が私はあるのではないかと思います。皮肉なことに、制度的には改革して権限が多くなった結果として、むしろ学内調整型になってしまった。

しかし現在の状態はどうかというと、私は癒し型学長が行き詰まりつつある、動けなくなっている、と感じます。ある意味ではそれは当然かもしれない。癒し型はリーダーシップを発揮しないためから選ばれたわけですから、リーダーシップを発揮できないわけです。では何が必要なのかということです。自明に聞こえるかもしれませんが、私は個人としての資質というのも非常に重要ではないかと考えます。特に適格な判断力と説得力というものが重要である。大学の課題について適格に判断する、広い視野から判断する。しかしそれは独走するのではなくて、それを学内に対して説得する。そうした資質をもつ幹部職員を意識的に養成していく必要があるのではないか。

第二に事務職員についてですけれども、私は今日は具体的なデータに基づいてお話する時間がありませんで、このあとの発表の先生方が多分、お話しになると思いますので詳細な議論はそれに譲り、大筋を申し上げたいと思います。

まず大学の事務職員というのは基本的に、組織の維持管理を支える管理運営の要員だという、これは忘れてはいけないことだと思います。多少保守的にみえても、この機能がきちんと働いていないと、大学は本質的に分解する可能性を常にもっている。

その中で、何がいま起こっているかというと、事務職員が将来のキャリアに対する展望と、大学の中での自分の位置づけがなかなか描けない。大学の危機がいわれる中で、非常に事務職員に対する期待は高くなっているのだけれども、実は日常やっているのは基本的には管理運営、維持管理であって、それを出ることはむしろ許されない。その中で危機感が空回りしているという状況が生じているのではないかと思います。

では、もしこれまで申し上げた意味での経営というものが重要になっているのだとすれば、大学職員は何をするべきか。私はその一つは、大学について広い視野をもっているということだと思います。日本の大学はアメリカの大学と比べても、大学職員が大学経営にある程度の参加意識をもっている。それは日本の大学の一つの特徴だと思います。ただ、それが活用されるためには、広い視野を持ってもらわないと、危機意識の空回りが起こってくる。

そうした意味では情報収集とか分析とか、そういったことについての一種のテクニカルな知識も必要になってくるでしょう。もう一つ非常に重要だと思いますのは、教育機能において職員の役割というのを明確にし、その能力を活かすということです。(続く)


2012年8月30日木曜日

大学経営とそれを担う人材(6)

前回に続き、広島大学高等教育研究開発センター高等教育研究叢書(第39回(2011年度)研究員集会「これからの大学経営-誰がどのような役割を担うのか-」の記録)から、金子元久さん(当時:国立大学財務・経営センター、現在:筑波大学大学研究センター)による基調講演録を抜粋してご紹介します。


3 経営戦略と経営人材

では教育を経営課題としてとらえると、具体的にはどのような問題があるのか。

経営課題としての教育

今のところ、一般に大学の経営課題としてとらえられているのは財務・施設・学生募集だと思います。このグラフ(表4:略)は私学高等研究所がやった調査で、中期・長期の経営計画の内容は何かというのを聞いています。その回答をみると、財務改善とか校舎施設の整備、といったものが中心であることは事実です。ただ次第に、大学教育も経営課題として認識されつつあることは事実だと思います。国立大学の中期目標・中期計画には教育に関する情報が含まれていますし、私立大学の中期・長期計画でもこのデータで見るように、カリキュラムとかキャリア教育とかについては計画も立てられているようになっています。

ただそのほとんどは「良くしなければいけない」という目標であって、どういうふうにしてそれを達成するのか、すなわち経営課題として大学教育を捉えているものは、まだほとんどないのではないか。

やはり大学教育というのは経営課題だと思うのです。一つは、それは資源配分の問題だからです。どうやって大学が持っている資源を配分するのか。最適なアウトカムを出すためにどういう組み合わせが必要なのか、今まで学生のニーズのことばかり言っていました。しかし本当は、学生に時間を使わせることが教育成果を上げるために非常に重要なものであるはずです。大学の一つ非常に使われてない資源は、実は学生の時間なのです。しかも、それは非常にクリティカル(critical)な資源であるはずです。あるいは教員についても人数の問題もありますし、その教師の時間をどう使うかというのも非常に大きな問題だろうと思います。同時にそれをどうやって組み合わせるのか、教育方法、授業の方法など、いわば大学教育のテクノロジーも大きな問題であろうと思います。例えば、学生にどうしたら自分で勉強させるかのように、それは一種の授業方法の問題であるはずです。そういう意味で一種の生産として考えても、実は教育というのは重要な経営課題になるはずだと思います。

もう一つ非常に重要なのは、教育組織の問題です。日本の大学というのは非常に小さくかぎられた組織に学生を入れ、教育をする。下から上までですね。これは戦前からの日本の講座制の影響がまだ残っていてそれが増殖的に進んできているのだと思いますけれども、それが実は非常に大きな問題を生じさせているのかもしれない。これはさらにガバナンスの問題にも通じるところです。つまり大学教育をどうしたらいいのかという判断する単位が下の方になればなるほどその中でしか考えられない、その中でしか資源の配分の最適性を考えられない。実はもっと広い範囲で考えれば、もっと最適な資源の配分があり得るかもしれません。

よく日本の大学は、経済的に貧しいから、教師一人あたりの学生数が多くよくないのだという議論があったのですが、これはもうウソかもしれません。学校基本調査から1990年代以降の大学教員の数の変化をみますと、国立大学でも私立大学では本務教員の数は増えています。しかも同時に、特に私立大学については兼務教員の数がものすごく増えている。とくにここ10年くらいの増え方が著しい。試みに日本とアメリカで学生数と教員数、それから教員一人あたりの学生数を計算してみますとごらんのような結果でありまして、特に非常勤教員を一定の仮定のもとでフルタイム換算してみると、アメリカの大学と日本の大学はあまり変わらないのです。

本当にリソースそれ自体が限られているのかどうか。実はそれはそんなに自明ではない、むしろ問題は、有効な資源配分をしているのかどうか、という視点なのではないか。しかし教育単位が小さく限られていて、資源配分とそれにかかわる意思決定をする。基本的には学部で意思決定をする、しかもかなりの部分は研究室とかそういったところで意思決定をしているわけです。そうしますと、教育組織や教育課程が細分化する、従って授業が属人化してきて標準化ができない、あるいは入試が細分化する。そうしますと教員の担当コマ数が多くなって、個々の授業にかける時間が少なくなる、非常勤講師が増加する。それから授業の標準化が進まないとTA(Teaching Assistant)とかメディア利用とか、そういったことがなかなか進まない。

アメリカの大学と日本の大学と比べて、よく日本の大学はマス授業と言いますか、大人数授業が多いと言いますが、実は必ずしもそうでもないのです。違うのは大人数授業について標準化が進んでいないために先生が非常に一人で苦労している。TA の使い方もうまくない。要するにシステム化されていない。基本的には、教師がやはり、その中で一生懸命やれと言われれば教員の業務は増加せざるをえない。また細かく区分をされた教育課程ですと、教育成果が職業や社会生活にどういう関連があるのかということをあまり意識できませんから、教育内容のレリバンス(relevance)が不明確な、あるいは学生の授業時間を少なくなる。密度の低い教育が結果として生じて、教育体系のなさというのが社会の印象に残るといった問題がそこから生じてくのではないかと思います。(続く)


2012年8月29日水曜日

大学経営とそれを担う人材(5)

前回に続き、広島大学高等教育研究開発センター高等教育研究叢書(第39回(2011年度)研究員集会「これからの大学経営-誰がどのような役割を担うのか-」の記録)から、金子元久さん(当時:国立大学財務・経営センター、現在:筑波大学大学研究センター)による基調講演録を抜粋してご紹介します。


大学教育の日本的特質

もう一つのデータ(表2:略)は、総理府の生活基本調査における生活時間です。小学校6年生、中学3年、高校3年、大学大学院と生活時間を見てみますと、学習時間が小学校から中学・高校にかけて高くなるのですが、大学に入ってガクッと下がる。その代わりに、買い物・趣味・娯楽が上がるというような状況になっているわけです。

もう一つは、われわれが行った大学生の調査(123大学、45,000人)の調査結果(表3:略)です。これによれば、大学生の社会的活動時間は1 日に8時間くらいなのですが、その中で「授業・実験」に出ている時間が2.9時間「授業の準備」をしているのが1時間、「卒論・その他」これは4年生だけですけれども、一応平均すると0.7時間です。これらをあわせて学習時間とすると、4.6時間しかない。1日5時間を切るのです。もともと日本の大学の設置基準は学生が授業と、それから自分で学習する時間を含めて8時間程度は勉強することを基礎として出来ているのですが、基本的には半分しか勉強していない。日本の学生は実はフルタイムの学生ではありません、平均像はパートタイムの学生なわけです。またアメリカと比べても明らかに学習時間が低い。1週間の自発的な学習に、授業に関連して自分で勉強する時間が1日に5時間弱、5時間以下の学生が4割くらいを占めている、アメリカと比べての非常に特異な状況であります。

もう一方で大学教員は、サボっているのかというと、実は必ずしもそうではない。大学教員の業務時間等の調査が3年おきくらいにありますけれども、これを見ますと大外11時間くらい働いていますから、特に普通の人と比べてサボっているわけではない。ただ、教育にかける時間は国立も私立も3時間弱、1日にですね。あと何をやっているのかと言うと、研究もあるし、社会サービスもあるし、そのほかと言いますか、いろんな業務もある。実は教育にかかっている時間というのは1日の勤務時間の三分の一にも達してないという状況なわけです。

では本当に何をやっているのかということですが、実は驚いたことに教員の担当コマ数は多いのです。調べてみますと大体8コマくらい1学期にやっている。アメリカの大学は大体1年間で3コマとかいうのがリサーチ大学では多いですし、そういった大学でなくても大体1学期、3コマくらいが普通ですので非常に多い。なぜなのかということですけれども基本的に日本の大学の授業というのはあまり先生が時間をかけていないのではないか、非常に少人数でゼミみたいなものをやって学生が調べて来て発表する。それで何となく少人数でやっていると人格形成にもいいとか何とかいうような思い込みがあって、従って授業もあまり学生が勉強することを要求していない。もちろん大学の先生に聞きますと、学生は典型的には授業には出ているけれども自分で勉強する時間は少ないというふうに反論されているのですが「では、どの程度の勉強時間を想定されていますか」と聞きますと1コマ2単位の授業で大体1時間くらいしか想定していなのです。本当は2単位であれば4時間の自分での学習時間が必要なはずなのですけれども、そういったことはまったく無視されている。

従って、日本の先生は実は非常に時間をかけてたくさんの授業をやっているのですけれども、学生に勉強させるということは実はあまりやられていないのではないか。基本的には、授業負担は多いわけですけれども時間はあまり使ってない。それはもちろん研究重視とか、管理業務といったこともあると思いますが、結果としては学生のインプットというのは、授業出席が中心で、自発的に自分から勉強するというのは、実はかなり欠けている。結果として、個々の授業の中身が薄い、体系的な知識の習得が実は不完全にどうしてもなってしまう。それから一番大きいのは、自分が勉強したという実感が多分得られないのではないか、そこから社会の大学に対する不満が強く出てくるということではないかと思います。こういうふうに考えてみますと、私は日本の大学教育というのは非常に危機的であって、今、大学教育ではいろんなところで問題になっていまして、中教審(中央教育審議会)で問題にしていますけれども、実は問題はかなり切迫している。さっき申し上げたような高教像も、非常に大きく変わる中でこういった大学教育のままで日本が再生できるのかどうか、実は、非常に大きな問題だろうと思います。(続く)


2012年8月28日火曜日

大学経営とそれを担う人材(4)


前回に続き、広島大学高等教育研究開発センター高等教育研究叢書(第39回(2011年度)研究員集会「これからの大学経営-誰がどのような役割を担うのか-」の記録)から、金子元久さん(当時:国立大学財務・経営センター、現在:筑波大学大学研究センター)による基調講演録を抜粋してご紹介します。


2 経営問題としての教育機能

では日本の大学教育はどういう問題を抱えているのか。これは今回の研究集会の課題そのものではないので簡単に申し上げたいと思います。

問題としての大学教育

私は大学教育の質自体が問題になるのは偶然ではないと思います。

大雑把にいえば、グローバル化、知識社会化が進み、同時に高等教育はすでにユニバーサル化して量的な拡大が一定の段階に達してしまった。同時に若者の価値観に変化があり、それからキャリアも大きく変化し、しかも見えなくなってきている、将来の方向が見えなくなってきている。そういった中でさまざまな問題が起こり、それが結果として教育内容の適切化、グリーバンス(grievance)、あるいは効率化、大学教育の効率性、あるいは質の問題、あるいはさらに実質的な学習自体が、ただ表面的に形式的に行われているのではなくて実質的にどの程度のものが出来上がっているのか、その成果が問われるという状況が生じているのではないでしょうか。

それを少しデータでお見せしたいと思います。大学教育は大切だ、大切だというようなことはアチコチで言うのですけれども「なぜ大切なのか」ということについてその切迫性について、私は認識がまだ十分ではないのではないかと思うのです。

一つは大学生の就職です。ご存知のように内定率が低くなったというようなことが言われているわけでありますけれども、しかし実は日本の大学生の就職問題がかなり深刻な状況を迎えたのはもう1990年代半ばくらいからです、もう十数年くらいそういった状態が続いています。これは(表1:略)2010年ころの大学生の就職状況をいくつかのデータを組み合わせて推定したものですけれども、私はこれを基本的に四つに分類しています。「枠内」というのは4月の一括採用で就職した人、これは学校基本調査で就職した年で出るものです。しかし枠内で就職した人の中でも大体3割くらいは3年以内に辞めると言われています。他方で一括採用の枠内に入らなくても、就職した人はいます。ただしその中でも、自活可能な賃金をもらっている人と、例えば年額200万円以下くらい、自活が不可能な賃金をもらっているような人たちもいます。それから無業、はっきりと無業の人、それと大学院への進学、これが15%くらいです。

そうしますと、いわゆる一括採用は「就職」というのは40%くらいになります。しかしその非安定な人を集めると、いわゆる非安定的な枠内修業、それから枠の外での修業、それから無業者を集めると大体45%くらい、4割近くは従来のかたちでの生涯雇用には入っていないのです。大卒者の雇用状況の悪化は深刻です。

それはなぜかと言うと産業構造が大きく変化しているからです。日本の製造業は特に2000年代に入って急速に外に出ていった。大卒者の就職先は、ここ特に6~7年の間、急速にシフトしてサービス業に移っていきます。製造業、逆に言うと製造業は年間、大体十数万人、12~13万人くらい大卒者を受け入れていたのが、今は、今年は4万人を切るという状況で、製造業の求職率が非常に下がっている。大卒者の質の構造、量が大きく変化しているということになります。

もう一つ、あまり意識されてないのが、親が大学教育にお金を払う余裕が無くなっているということです。大学生のうち、日本学生支援機構の貸与奨学金を借りた人の割合でありますけれども、2000年代に入って急速に「きぼう21」という有利子奨学金の受給者が増えて、大学生の三分の一になっています。これまで日本の親は無理してでも子どもを大学にやると思われたのですが、実はもうそれはウソで、そういったことはできなくなっている、お金を借りなければ大学にやれないという状況に急速になっている。

しかしさっき申し上げたことと併せて考えれば金を借りて大学を出ても、実はそのあとでの就職状況は非常に危ない。非常にリスクが高い状況になっているわけです。しかも大学教育は高い金を取って、あるいは高いコストを掛けて教育していると言っていますが、大学生は勉強しているのかということも問題になります。(続く)


2012年8月25日土曜日

大学経営とそれを担う人材(3)

前回に続き、広島大学高等教育研究開発センター高等教育研究叢書(第39回(2011年度)研究員集会「これからの大学経営-誰がどのような役割を担うのか-」の記録)から、金子元久さん(当時:国立大学財務・経営センター、現在:筑波大学大学研究センター)による基調講演録を抜粋してご紹介します。


 二つのパターン

ところで具体的な管理運営の形態には二つのパターンがあったと思います。

一つは大陸ヨーロッパ型です。このパターンでは教授会とともに、「事務局」というのがある。基本的なガバナンス(governance)組織としては教授会があり、それに対して先ほど申し上げた三つの機能を持つ事務局がそれを補佐するというパターンです。教授会は基本的にはギルド的組織ですが、事務局というのは事務局長に統括される官僚組織である。官僚組織というのは上部の命令によって動く組織であるという意味で使っておきます。

もう一つのタイプはアメリカ型です。アメリカ型の大学では、学長の権限が強力であることは事実だと思います。それはどうしてかと言うと学長の選出、承認自体は教授会によって行われるのではなくて理事会によって行われるからです。大学の、言ってみればオーナーというのが明確であって、それは理事会なのです。理事会によって任命・監督されるからその権限の基盤は非常に明確である。

それで管理運営はどうして行われるかというと、学長が任命する副学長、あるいは学部長等々によって幹部教員、幹部職員によって分割統治されていて、それぞれに補佐するというかたちで事務職員が配置される。事務局としての統一的なハイアラーキー(hierarchy)をもつ官僚組織というのは存在しません。その意味では、必ずしも一元的な管理体制ではない。ただし、特に最近になって、管理業務を担当する専門職的な人たちが増えているのは、先ほど山本先生のお話しにもありました。ただこの人たちは、ほとんど大学外部との流動性も非常に高い、従って大学独自の職員とは必ずしも言えない。しかも彼らが専門職団体をつくっていて、その知識技能というのはその専門職団体によってかなり形成され、従ってその専門職の中で大学間を異動するというパターンを取っているわけです。

その中で日本的な特質は何かと言うことですけれども、私は大陸系の学長・事務局型であると思います。ただ、もちろん国立大学法人になって非常に大きな制度的な変化が起こりました。制度上は学長に強力な権限が与えられています。ある意味では奇形的な強力な権限があたえられています。しかし実際には、教授会の力というのは決して衰えていない。また国立大学法人については理事が担当部局制を担当して、理事が個々の事務局部門を対応するようにダンダン今変化しつつありますが、事務局のやはり官僚的な体制というのはそのまま保たれていると思います。それから私学の場合には参加型の理事会と言いますか、教員代表、あるいは専務理事、あるいは少なくとも教員、職員の代表が参加するような理事会を持っている参加型の理事会の場合と、それからオーナー型の学長に典型的に見られるような何らかの特定の個人に、あるいはその家族に権力がさまざまないろんなかたちで集中するようにできている場合と、そういったかたちがあると思います。

その中での管理運営組織というのは、先ほど申し上げましたけれども基本的にはやはり組織の維持管理が主たる目的であって、それは大学というのは放っておけば分裂してしまうからです。維持管理自体は非常に重要な意味を持っている。そのために官僚的な組織がつくられているということです。その中で事務職員は比較的幅広い経験をする。特定の分野に偏らない、異動することによって幅広い経験を積み重ねていく、その中でルーティン的な業務を消化する能力を形成していくわけです。逆に専門職化は抑制される、ある程度までしか専門職は進まないというような傾向をもっているわけです。これが今までの大学の管理運営の日本的特質であったと思います。

管理運営から経営へ

その中で「経営」というのはどういう意味を持っていたかというと、基本的には財務管理のことを経営と言っていたのだと思います。あるいは財政的な健全さを基準とした意思決定、入試学者政策が、経営問題だと言っていたのです。なぜ入試が重要かというと、要するに入学者を獲得しなければ財政的に困るからで、やっぱり基本的にはそれは財政問題として捉えられていた。

ではなぜ今「経営」をわれわれは語らなければいけないのか。「経営」というのは私は、一定の目的の実現のために体系的な意思決定をして、それを執行するということだと思います。そうだとすると何か目的がないとやはり「経営」とはそんなに実は語る意味があまりないのではないか。ただ運営するということであるのであれば、実はそんなに「経営」というふうなことを言う必要はない。

では何が今、最も大きな課題なのか。私は日本の大学にとって最大の課題は大学教育になっていると思います。(続く)


2012年8月24日金曜日

大学経営とそれを担う人材(2)

前回に続き、広島大学高等教育研究開発センター高等教育研究叢書(第39回(2011年度)研究員集会「これからの大学経営-誰がどのような役割を担うのか-」の記録)から、金子元久さん(当時:国立大学財務・経営センター、現在:筑波大学大学研究センター)による基調講演録を抜粋してご紹介します。


大学の管理運営

ではそうした「管理運営」はどのように行われたのか。

その担い手の一つは学長、「レクター(rector)」です。プレジデント(president)と言わないでレクターと言いますが、ドイツ語だと「C」が「K」になったりするみたいです。レクトールと言うのですが、これはギルド、基本的にはギルドも組合の代表でありますから教員団の一人なのです。大体2年とか3年交代でやっている。ヨーロッパの古い大学に行きますと歴代総長の額なんていうのが飾ってあるのですが、非常に古い大学でも肖像が飾ってあるのはかなり最近で、それはなぜかというと写真がなかったということもあるかもしれませんが、もう一つは学長があまり大したことなかったわけです。教員の回り持ちだったから、そう言った学長がありました。

では職員にあたるのはどういう人かというと「ビードル」という人がいたそうです。この人は事務長、あるいは総務に当たる人です。ギルド的な組織では規則が明文化されてなくてさまざまなかたちで習慣とか伝統とか、そういったものによって運営されていた。従って組織の規則みたいなものを常に監視している人が必要である、それが事務長であり、総務であった。現在で言う総務的な役割でありました。

二番目は「ノータロ」と言う人です。「ノータロ」というと語感があまり良くないですけれども、これは非常に重要で書記とか学籍簿係に対応する。それは大学の組織としての教育機能に対応するわけで、イギリスの大学では大学の事務局長のことをレジストラー(registrar)と言いますが、アメリカでもこの言葉を使うことがあります。それは基本的には学籍簿の管理係である。これは基本的には学籍簿の管理をする人が事務局の中心となり、管理運営の中心となっていた。

それからもう一つ経済的な側面が非常に重要で、出納係というのがもう一つ非常に重要な機能でありました。

言ってみれば総務、それから学務、それと財務と、この三つというのが管理運営上の基本的な機能であって、それはもう中世の大学から実は始まっていたということになります。写真(略)は、パドワの大学のビードルでありまして、これはこのセンターの、高等教育研究開発センターの前身の大学教育研究センターのときの二代目のセンター長の横尾壮英先生という中世ヨーロッパの大学史の権威が書かれた「中世大学都市への旅」という本の挿絵をそのまま入れました。このようにビードルは杖を持って行列の先頭に立っていたらしいです。

いずれにせよ、大学にとって「管理運営」は組織の維持と機能に不可欠であり、それを幹部教員と事務職員が担っていた。後者には現代に通じる総務、あるいは学務、それから財務系というものがありました。

近代大学

では近代になるに従ってどうなってきたか。近代大学の嚆矢とされるのは1810年にできたベルリン大学です。ここで強調されたのは「研究と教育の統一」、さらにいえば特に研究機能の重視です。ところが研究というものは組織でやるものではなくて個々の研究者が、個々の研究の論理で発展させるものです。研究がそもそも自分の論理を持って、その自分の論理が発展していくことによって発展するとすれば、それを外的な基準でなかなか判断できないわけです。従って個々の教員の自律性が大学の機能発揮の基本である。「学問の自由」というのは、社会の中で大学は自由でなければならない、というスローガンのように一般的に理解されています、実は社会の中だけではなくて大学の中でも、個人としての教員というのは自由でなければいけない。

しかし大学はむしろより強力に組織として制度化されていく。巨大化され、しかもそれがさまざまな社会機構の中に組み込まれていく、当然ながら多量の資源を要する。しかもそれまで大学というのは初等、中等教育とまったく独立にできていたわけですけれども、教育体系が発展するに従って教育体系の中に組み込まれ、また大学が大衆化していくのです。従って管理する必要性も非常に大きくなった。ということで近代大学というのは、ある意味では、さっき申し上げた部分的な自律性と組織統合の二つの原理の両方を発展させなければいけなかった、従ってその間の亀裂とか矛盾もさらに深くなってきたというふうに言えると思います。

基本的な教育研究活動については極端に言えば個々の教員が、あるいは個々の学部が独自の論理でもって教育研究を行っている。その部分部分が生産的であることが少なくとも研究の上で一番重要である。そこで個々の部分で効率化、最適化をするというのが基本である。しかし同時に、それだけでは組織全体としての統合性が保てない。各学部の関係を調整し、組織としての一貫性を保つために、管理運営機能が不可欠となる。逆に言うと非常に矛盾に満ちた組織であるからこそ、管理運営が重要な役割をはたす。管理運営は大学というものの本質に根ざすものと言えると思います。(続く)


2012年8月23日木曜日

大学経営とそれを担う人材(1)

広島大学高等教育研究開発センター高等教育研究叢書(第39回(2011年度)研究員集会「これからの大学経営-誰がどのような役割を担うのか-」の記録)から、金子元久さん(当時:国立大学財務・経営センター、現在:筑波大学大学研究センター)による基調講演録を抜粋してご紹介します。


大学経営-課題、組織、人材-

1 大学経営とは何か

まず最初にお話ししてみたいのは大学経営、「経営」というのは何か。それを考えるために、組織としての大学というものはどうやってできたのかという、古い話に立ち戻ってみたいと思います。

ギルドとしての大学

大学が作られたのは、12、3世紀の中世ヨーロッパでありまして、大学の起源は、ご存知のように、ギルド(guild)でありました。ボローニア大学は学生のギルドで、パリ大学、ソルボンヌが教師のギルドだというふうに一般的に言われていますが、一般的には教師のギルドでした。ウニベルシタス(universitas)という言葉は、ギルドとほとんど同じ意味で使われており、それが今日のuniversity の語源です。

ギルドとは何なのかというと、これは要するに組合なわけです。なぜそうした組織が必要だったのかと言うと、二つの側面があるわけです。一つは個々の教師ではなくて、教師が集まって組織となることによって、体系的な知識を供給することができ、それを求める学生を集めることができる。今ひとつは、学位というものを出すことができる。社会的に価値のある、知識に対して社会的な価値の証明を与えることができる。それはなぜかと言えば、それと同時に団体として質の保証を政府から受ける、チャーターを受けることによって、質の保証をすることができる。それによって、学生は授業料を払い、教師の生活も成り立つ。個々の一人ひとりの教師ではそういった事は出来なかったわけです。

しかし同時に具体的な教育活動というのは、やはり個々の教師がやるしかない。大学全体でやるものではないわけですね。しかも知識の価値自体は、その教師にしか分からないわけでありますし、知識全体をカバーする論理的な、パーフェクトの体系はない。従ってその中には、知識の体系の中に上下関係もない、従って個々の教師を統制する絶対的な権威というのはないわけです。やはり個々の先生が、独自の信念と研究に基づいて研究活動をするしかない。しかし、それでは学問は発達しないので、それがギルドをつくることによって社会的な承認を得て社会的な資源を獲得することができる。

これがギルドとしての大学の非常に重要な役割を果たした点であると思います。中世の社会では大体何でも経済活動、社会活動はギルドによって行われていたわけですが、逆に言いますとそれからほかの組織はだんだん官僚組織に変わっていって、ギルド的な性格を失ってきた。唯一ギルドとして性格を失っていないのが大学なわけです。

それは大学自体にギルドによってしかカバーできないような側面を持っているからだろうと思います。それは何かというと本質的に組織としての統合性を持たなければいけないのだけれども、しかし個々の構成要素の自律性がなければいけない。統合性と自律性、この二つを併存させる仕組みとしてギルドというものの原理が使われ、それは大学については特に根幹的な組織原理となってきた。

ではこの二つの間を結ぶのは何か。官僚制的な上意下達の命令、一定の目的の完成に向かっての命令、そういった原理ではない。そういった原理では動かない。しかし、にもかかわらず組織の統合性は保たなければいけないわけですから。それを保つ機能が何かと言えば「管理運営」という言葉だろうと思います。(続く)


2012年8月19日日曜日

癒しの力

愛読している「人の心に灯をともす」から引用しご紹介します。

スタンディングオーベーション(2012年8月19日)

上柳昌彦氏の心に響く言葉より…

2001年9月11日。ニューヨークのマンハッタン島で、世界貿易センターの2棟の高層ビルがテロリストの攻撃を受け、多くの人命が奪われました。「9・11事件」です。

事件が起きてから1ヶ月後、日本全国から11人の消防官が集まって、まだ混乱の残る被害現場で消防・救助活動を手伝うために海を渡りました。この11人の消防官たちは、日本政府や消防庁が派遣したのではありません。

自らの意思で、休暇をとっての「ボランティア」でした。この年の6月に『世界警察・消防競技大会』がアメリカで開催されましたが、そこに、日本の代表として選ばれて出場した、世界レベルのトップ技術を持った消防官たちです。

大会で知り合ったニューヨークの消防官から、「仲間が行方不明になっている。助けて欲しい」というSOSのメールが入ったのです。横浜市の消防局に勤務する志澤公一さんは、それを読むと、一緒に競技大会に出場したメンバーに声をかけました。そして、11人の消防官が集まったのです。

現場に急いだのですが、アメリカ政府は「消防」の目的とはいえ、事件が起きた中心部への外国人の立ち入りは、厳しく制限していました。規制線の張られた外側で、もどかしい思いで情報の収集を行なっていると、一人の高齢の牧師さんと出会いました。

その牧師さんは、志澤さんたちが日本から駆けつけた消防官だと知ると、こんな話を始めました。
「私が第二次世界大戦に参加した兵士だったとき、沖縄に上陸して日本人に銃口を向けたことがあります。それなのに、その日本から我々を助けにきてくれている。心から感謝します。ぜひ、あなたたちに手伝っていただきたい」

その牧師さん、実は、ニューヨークの消防官のOBでもあったのです。そして、すぐに異例ともいえる特別な許可が出て、牧師さんが案内するままに、立ち入りのきびしく制限された現場の中心部にまで入ることができたのです。

その日の作業が終わって、11人の消防官たちはホテルへと引き上げることになりました。そして道を歩いていると、驚くようなことが起きたのです。

道ですれ違うアメリカ人たちが、志澤さんたちの姿を認めると、駆け寄ってきて、口ぐちに「サンキュー・ベリーマッチ」と声をかけ、時には「ありがとう」と日本語で話しかけて、さらに握手を求める輪ができたのです。

実は11人の活動を、地元のテレビ局が報道していたのです。

しかし、さらに驚くようなことが起きます。夜、地元ニューヨークの消防官が、今回の活動をねぎらうため、簡単な夕食会をしてくれたときのことでした。

大きなレストランの片隅の席につき、注文を決めていると、突然、店にいた男性が立ち上がり、店内に向かって大きな声で叫んだのです。

「みんな聞いてくれ! 日本から私たちを助けにきた消防官のボランティアが、ここに座ってるんだ!」

それまでにぎやかだった店内が一瞬、静まりかえると、次にはすべてのお客さんが、ナイフやフォークを置いて立ち上がり、拍手をしたのです。最大の賛辞(さんじ)を贈るという意味が込められた「スタンディングオーベーション」です。

そして、数分間も続いた「拍手」も鳴りやみ、ではあらためてとメニューを開いていると、注文をしていない、食べきれないほどの料理が次から次へとテーブル上に並んだのです。

“上柳昌彦のお早うGood Day!”
『母ちゃんダンプ』ニッポン放送

スタンディングオーベーションは、満場総立ちで感動や賛辞を拍手とともに贈ることだ。

アメリカでは、アフガンやイラクなどの戦地から帰還した兵士たちが、空港に現れると、通りがかりの見知らぬ人たちが、口々に「サンキュー」と言い、拍手もおこるという。

日本においても、東北大震災で活躍し、引き上げる自衛隊員の方々に、横断幕で「ありがとう」と書き、拍手で送るというシーンがたくさんの場所で見られた。

「拍手」や「ありがとう」の言葉は、どんな疲れも吹き飛ばしてしまうほどの癒(いや)しの力がある。
公に尽くす人に対しては、スタンディングオーベーションで最大の賛辞を送りたい。


夏休みも後半。”夜の動物園”に行ってきました。日中に比べとても涼しく、家族連れや若者達でにぎわっていました。



2012年8月18日土曜日

凡俗の法則

教育評論家の梨戸茂史さんが書かれた「教育ななめ読み-学問は面白い」(文部科学教育通信 No.297 2012.8.13)をご紹介します。


ヒッグス粒子の発見は慶賀に堪えない。「地球の起源」が解明された、というのは、大発見でしょう。でも「それがなんなのさ」というのも、毎日の生活者から見れば言えること。ヒッグス先生は多分、紙と鉛筆で考えついたのではないか。アインシュタインの逸話に「妻のエルザが米国の最先端の実験室に招かれた。これで宇宙を探っていると説明されて妻が言うには、『夫は同じことを使い古しの封筒の裏でやっていますよ』」というのがあった(朝日新聞「夫声人語」2012年6月6日)。

でもまあ、これを実証したのが今回の快挙。CERNなるヨーロッパ共同研究機構の大加速器で粒子をぶつけてその飛び散り方から推測、99.999・・・の確率でその存在を証明したとのこと。実験物理の世界は、こういうことができるから面白い。それにしても、なんとお金がかかっていることか。日本式の「事業仕分け」があったら、多分、『廃止』だったかもしれぬ。ぎりぎりのセーフの発見かしら。

しかし、学問に対する「事業仕分け」の面白さは、昔流行った「パーキンソンの法則」に近い感じがする。その一つ「凡俗の法則」というのが有名。いわく、原子力発電所と自転車置き場の審議の話。「原子炉の建設計画は、あまりにも巨大な費用が必要で、あまりにも複雑であるため一般人には理解できない。このため一般人は、話し合っている人々は理解しているのだろうと思いこみ口を挟まない。強固な意見を持っている人が、情報が不十分だと思われないように一般人を押さえ込むことすらある。このため審議は「着々と」進むことになる。この一方で、自転車置き場について話し合うときは、屋根の素材をアルミ製にするかアスベスト製にするかトタン製にするかなどの些細な話題の議論が中心となり、そもそも自転車置き場を作ること自体が良いアイデアなのかといった本質的な議論は起こらない。次に委員会の議題がコーヒーの購入といったより身近なものになった場合は、その議論はさらに白熱し、時間を最も無駄に消費する」という。

昨年の大震災以来の原発事故で「原子炉」には理解が進んだかもしれないが、次の話はもっと面白い。1970年代に、南カリフォルニア大学のドナルド・ナフテュリンとそのチームが、数学と人間行動の関係という内容で全くでたらめの講演草稿を作り上げ、それを教育学会で役者に読み上げてもらった」そうだ。その後「会場に集まった精神科医、心理学者、ソーシャルワーカーに感想を聞いた・・・本番に先立って、ナフテュリンは役者に草稿の読み上げ方を念入りに指導し、30分予定された質疑応答の時間には『あいまいな言い回し、新造語、無関係な話、矛盾した言葉遣い』で切り抜けるよう、そのコツを教えた(アメリカの講演や発表には必ず質疑応答があり、こちらが実は中心だ)。

講演の舞台でナフテュリンは役者を『マイロン・F・フォックス博士』と紹介し、でっちあげの華々しい履歴を手短に披露した(「フォックス」=「狐」は偶然?)。続く1時間半の間、聴衆は矛盾だらけの無意味な話を山ほど聞かされた。そして講演終了後の参加者の感想。フォックス博士を『最高に素晴らしい講演者』で『きわめて明解』であり、『テーマに関するすぐれた分析を行った』と評価。講演そのものについては、<中略>内容をよく整理して話したという評価が85%、実例のあげ方が優れていたという評価が70%、刺激的な内容だったという評価が95%近くあった」そうだ(リチャード・ワイズマン『超常現象の科学』)。

何においても、その真相を見極める目をもつことは大事だなぁ・・・ご同輩。


2012年8月17日金曜日

学修時間とは何か

去る8月9日、中央教育審議会の大学分科会(第109回)・大学教育部会(第21回)の合同会議が開催され、「未来を創出する大学教育の構築に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」(答申案)が了承されたようです。

答申案では、大学生の学習時間が諸外国に比べ少ないとして、授業の関連性を分かりやすく整理して学生に示し、効率よい授業編成をするなど、カリキュラムの改善を進めるシステムの確立が求められています。


関連して、桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれた「大学改革の陥穽」シリーズの二回目「学修時間の確保とその意味合い」(文部科学教育通信 No.297 2012.8.13)を抜粋してご紹介します。

(関連過去記事)
大学改革-文部科学省と大学は、内向きではなく外向きの議論を進めてほしい(2012年7月22日)

前々回(本誌No.295)の続きである。中教審大学教育部会は今年3月の審議まとめにおいて、学士課程教育の質的転換のために「質を伴った学修時間の実質的な増加・確保」を提言した。このことは文部科学省が6月に出した「大学改革実行プラン」において「主体的に学び・考え・行動する人材を育成する大学教育」への転換を図るためには学修時間の飛躍的増加や学修環境の整備が必要であるとしていることとも共通である。このように、従来から一単位45時間の学修時間が確保されていないと批判があったこの問題が、昨今の新たな大学改革熱の高まりの中で、改めて表舞台に出てきた感がある。

システムとしての大学教育

言うまでもないことだが、大学教育というものは、学修時間だけではなく、教育内容や方法、教育を実施し支える教職員、学生の卒業後の進路、機器や教室などの施設設備、大学運営を支える財務や政策など多くの要素から成る一つのシステムである。また他のシステム、たとえば雇用や科学技術さらには経済・産業、国際関係などさまざまなものと複雑に関わりあっているものである。ということは、仮に学修時間が少ないという現状が教育者や教育政策担当者の目からは問題であるとしても、それは複雑極まりない大学教育システムの一つの構成要素として、現状でとりあえずバランスしているということである。そのバランスは、国によっても異なり、学歴社会で専門職優位の米国では学位の価値が高く、各大学は学位の信用保持に意を用いざるを得ないから学生に対する要求も大きくなり、それゆえに学位取得のための学修時間も長くならざるを得ないのであろう。

日本では、大学入試の持つ選抜機能が強く、特定の専門的職業と結び付かない文系分野では、入学後の学修インセンティブが弱いことが以前から知られている。今回の審議まとめでは、「企業は大学教育に多くを期待しておらず、入社後の社内教育と実務上の経験や実践で人材を伸ばしている」という見方は過去のものだとしているが、私は理系や医系はともかく、文系についてはなおそのような見方が基本的に正しいと考えている。少なくとも、企業が求める大学教育の内容に大学(文系)は対応できていないし、これからも相当に困難であろう。今回の改革案をまとめた審議会委員や政策担当者は、学生時代から熱心に勉強(一流大学の文系の学士課程教育は、将来の大学教員に対する職業準備教育としては向いている)してきたのかもしれず、また理系・技術系出身者なら学修時間が多いのは当たり前と思うかもしれないが、文系の学生は一流校であれそれ以外であれ、どのような学生生活を過ごせばよいか、目からの立位置を考えて賢く計算しているはずである。

現状のバランスを崩す問題点は

仮に、アルバイトや就活で学修時間が十分に確保できていないとしても、それはアルバイトせざるを得ない理由や逆にアルバイトを受け入れている地域経済の事情、あるいは企業の採用活動の現状があるからであり、また企業が「コミュニケーション能力」などを採用に当たって重視する以上、勉強の虫のような学生が歓迎されないことを皆が知っているからであろう。ユニバーサル化の進行に伴い、学修意欲に乏しい学生が増えているが、多くの大学では彼らを受け入れざるを得ない苦しい経営事情があることも、問題の背景としては重要であろう。皮肉なことではあるが、審議まとめが学修時間の増加を改革のための「始点」ととらえ、教育改革全体に影響が及ぶことを想定していることは、実は正しい考え方である。

しかし、学修時間の増加を図るということは、現状のバランスを崩す作業であり、人間でいえば人体にメスを入れる手術を行おうとすることである。これが病気の治療に結び付けばよいが、手術によって生体のバランスが崩れ、効果がないばかりか却って重症になったり、死に至ったりする可能性がないとも限らない。現に、これに関して集められたパブリックコメントを見ても、「学修時間を増加させれば問題が解決するかのように短絡的に受け取られかねない」、「宿題の増加と学生の自主学習強調による教員の責任放棄につながるおそれがある」、「量を確保すれば質が高くなるハズだという論理は間違いである」、「そもそも教員の教育力が明確に定義されていないのに質的向上が図れるか」(いずれも文科省まとめ)など、かなり手厳しい意見が出ているようである。したがって、学修時間の実質的な増加が大学教育というシステム全体に、あるいは社会全体にどのような影響を及ぼすものかは、システムを構成している諸要素の変化も睨みつつ、総体として利益になるようにさらに慎重に検討しなければならない。

単位制度の是非を含めて

さて、学修時間の問題は、その増加に伴う諸影響を考えることも必要だが、そもそも学修時間というものは何かということから検討しなければならないのではなかろうか。これに関しては、現行の単位制度の考え方が深く関わっている。もともと単位制は、一週間の労働時間に見合う時間に対応して、学生はこの時間を学修に充てるべきとの考えから始まるらしいが、大学設置基準に定めるところによれば、「一単位の授業科目を45時間の学修を必要とする内容をもって構成することを標準とする」(同31条第2項)とあるのみで、その学修内容は大学の判断に委ねられている。学修分野や学生の特質による差異に配慮した現実的な規定ぶりであるが、要すれば単位の数値だけでは学修内容は一義的には決まらないのである。学修時間の確保を議論の出発点にするならば、下手をすると中身の薄い形式的な学修を今以上に学生に強いることになりかねない。関係者に広く流布している15週間にわたる授業開講義務も、学修の効果を考えてのことであればよいが、4月か
ら始まる授業が真夏の猛暑の中でも終わらないという奇妙な結果を招くことになっては本末転倒である。大事なことは、教育内容の質的充実とそのための改善を促すことであって、学修時間の確保はその結果であるべきだ。その意味合いで考えると、単位制は形式ではなく、中身を伴った実質的なものにすべきであろうし、さらに進めて、単位制を維持することの是非を含めて、この際、抜本的な制度改革を図るべきである。

いずれにしても、今回文部科学省が意図している学士課程教育の質的転換は、それが意図通りに行われるならば、わが国の大学教育や大学制度に大幅な変革をもたらすことであろう。いわば壮大な設計変更である。気になるのは、この設計変更の考え方の背後に多くの外国生まれのアイデアが散りばめられていることである。ナンバリングやアクティブラーニング、ルーブリックなどのカタカナ用語だけではなく、学生の主体的学びを促す教育そのものも、日本的文脈からすればかなり斬新な試みである。外国生まれのアイデアは、日本の土壌に合えばよいが、戦後の一般教育や課程制大学院の導入が必ずしも成功しなかった例にあるとおり、よほどの工夫がないと成功は覚束ない。その意味で、今回の改革プランを打ち出した関係者には、よほどの覚悟と責任が求められる。


2012年8月8日水曜日

大学改革とグローバル人材の育成

去る7月31日(火曜日)、一橋講堂(東京都千代田区)において、日本経済新聞社主催の「大学改革シンポジウム-大学改革とグローバル人材の育成」が開催されました。


主催者によれば、このシンポジウムは、日本経済新聞をリニューアルし、「大学面」を充実させたことを機に、社会から強い期待が寄せられている大学が生き残りをかけてどう改革を行うのかについて議論を深めることを目的として企画されたようです。


設定されたテーマが時宜を得たものであり、パネルディスカッションのモデレータをあの池上彰さんが務めることも影響してか、500席あまりの会場はあっという間に埋め尽くされ、立見がでるほどの盛況ぶりでした。




開催概要はこちらをご覧ください。

また、シンポジウムの模様が、日本経済新聞社の映像コンテンツポータルサイト 「NIKKEI CHANNEL」にて映像配信されています。

大学改革シンポジウム「大学改革とグローバル人材の育成」(前半)



大学改革シンポジウム「大学改革とグローバル人材の育成」(後半)

2012年8月7日火曜日

日本再生のための人材育成戦略

少し前になりましたが、去る7月31日(火)、「日本再生戦略~フロンティアを拓き、「共創の国」へ~」が閣議決定されています。

これは、2020(平成32)年までの我が国の成長戦略であり、「人材育成戦略」など11の戦略分野についての政策が明示されています。

大学関連部分について抜粋してご紹介します。


(P54)

我が国経済社会を支える人材の育成

<基本的考え方>

高等学校卒業者の大学等への進学率が5割を超えている中、2012年3月卒業の新規学校卒業予定者の就職環境は、大学卒業者の就職率(2012年4月1日現在)が93.6%と若干ではあるが改善の兆しが見えてきたものの、引き続き改善に向けた取組が必要な状況にある。また、人々の財・サービスの需要が変化してきており、その変化に対応したイノベーションを担う能力など、産業構造の変化に応じた職業能力が求められている。

このような中で、大学卒の新規就職者の3年以内の離職割合は3割程度、高等学校卒の新規就職者の3年以内の離職割合は4割程度となり、大学・大学院卒のニートも増加傾向にある。また、大学等の教育面での力点と企業の大学等への期待にミスマッチが生じている部分がある。さらに、国際競争の激化や非正規雇用の増加が進む中で、これまでのように企業内教育に依存するだけでは、能力の蓄積の機会を得づらくなってきている。

「新たな時代の開拓者たらん」という若者の大きな志を引き出し、自ら学び考える力を育む教育などを通じて叡智にあふれる人材を育成していく必要がある。産業構造の変化や新たな国際分業等に対応するために求められる人材ニーズを踏まえ、産学官の連携の下、知識・情報を社会や市場につなぐ仕組みを戦略的に強化する人材育成システムの再設計を図り、人材の底上げやニーズに対応した多様な人材の育成を実現する。また、若者が経済的理由で進学を断念することがないよう奨学金などの就学支援を推進する。

このため、我が国経済のインクルーシブな成長を目指し、産学の連携・協力を図りながら、成長分野やものづくり分野における職業教育・職業訓練や、いわゆる「手に職を持つ」、「技術や専門性を有する」自営業者や個人事業主を育成するなど自立するための職業教育・職業訓練を強化し、実践的な職業能力評価の仕組みの導入を図る。また、若者の国際的視野を涵養する取組を推進し、語学力・コミュニケーション能力を含め、新たな価値やビジネスを創造できる能力を持つ人材を育成することが必要である。さらに、こうした方向に資する教育改革に取り組む。これらの取組を通じて、社会経済を支える人材の底上げやグローバルに通用する高度人材の育成・確保を図り、企業や教育現場等における活躍を進める。


(P55~57)

【人材育成戦略】

未来への投資として次世代の育成を進めるため、633制の柔軟化等による意欲ある地域の取組の促進、大学ビジョンに基づいた高等教育の抜本的改革など、社会の期待に応える教育改革を推進し、社会を生き抜く力を養成する。また、グローバル人材の育成や教育と職業の円滑な接続、社会人の学び直し等の環境整備等に取り組む。これらの取組を通じて、社会経済を支える人材の底上げやグローバルに通用する高度人材の育成・確保を図り、企業や教育現場等における活躍を進める。

(重点施策:大学ビジョンに基づく高等教育の抜本的改革の実施)

大学に求められる多様な役割・ニーズを踏まえて2012年度中に大学ビジョンを策定するなど、新時代に適応する特色ある高等教育の実施のための具体的取組方策・支援基準を取りまとめ、国立大学改革の方向性を提示するとともに、国立大学改革を先行実施する。2013年央までに取りまとめる「国立大学改革プラン」を踏まえて大学・学部の枠を超えた連携・再編成等を促すなどの改革の加速化を図るとともに、財政基盤の確立と基盤的経費(運営費交付金、私学助成)等の一層のメリハリある配分の実施や、私立大学の質保証の徹底推進を図る。加えて、大学のマネジメント強化、学修環境整備、大学入試改革、地域再生の拠点としての大学の機能強化等を進めることなどにより、高等教育の抜本的改革を進め、世界レベルの高等教育を目指す。

(重点施策:グローバル人材の育成と社会人の学び直し等の推進)

グローバル化や産業構造の変化が加速する中、国際的に活躍する人材を確保するとともに、意欲のある者の多様な学習機会を確保するため、グローバル人材の育成や社会人の学び直し等の推進、学びのセーフティネットの構築や児童・生徒の心のケアの充実に取り組む。

①グローバル人材育成戦略に基づく取組や社会人の学び直し等の推進

豊かな語学力・コミュニケーション能力等を身につけ、国際的に活躍できるグローバル人材への需要はますます増加しており、「グローバル人材育成戦略」(平成24年6月4日グローバル人材育成推進会議取りまとめ)を踏まえ、国際的に誇れる大学教育システムを構築するとともに、民間での取組を含め様々な形での日本人学生等の海外交流を促進し、質の高い外国人学生の戦略的獲得、国際化対応ビジネス人材の育成を図る。また、大学の秋季入学導入の進捗状況に応じた環境整備を進めるとともに、国家公務員の採用に関し、留学経験者の選考・採用時期の配慮など通年採用も含めた採用時期等の柔軟化による多様な人材の確保など可能なことから率先して取組を進める。さらに、2014年度には、大学の秋季入学等の導入に関する政府として基本的な対応方針を整理する。

また、大学・専門学校等における社会人の学び直し等のニーズに対応した学修機会の提供や、「人を活かす」サービスの創出等による再教育・マッチングの仕組みの構築を図る。

②奨学金制度の改善への取り組み

奨学金制度の拡充を図り、進学意欲のある学生が広く教育を受けられる教育環境を整備し、就学支援をきめ細かく推進する。このことによって、進学を希望する学生が経済的な理由から大学・短大・専修学校等への進学を断念することがない社会を構築する。また、入学前のつなぎ融資・教育ローンの保護者貸付から学生本人への貸付への変更についての制度的工夫を図る。奨学金制度の拡充・就学に対する金融支援の見直しで、親の教育負担の大幅な軽減を実現する。


上記については、内閣官房国家戦略室のサイトにおいて、わかりやすく説明されています。「人材育成」戦略については、こちらをご覧ください。

なお、この「日本再生戦略」については、平成25年度予算の編成において、重要な位置付けとなることが予想されることから、国立大学協会からも見解が公表されています。


2012年8月6日月曜日

なぜ日本の大学生は勉強しないのか

7月24日に開催された中央教育審議会大学分科会(第108回)・大学教育部会(第20回)合同会議の配付資料に大変興味深い資料がありましたのでご紹介します。


なぜ日本の大学生は欧米の大学生に比べて勉強しないのか」(鈴木典比古:公益財団法人大学基準協会専務理事、前国際基督教大学学長)

日本人の大学生が欧米の大学生に比べて勉強していないという状況は東京大学・大学経営政策研究センター「全国大学生調査」(2007年、サンプル数44,905人)による大学1年生の週平均勉強時間数の比較でも示されているが、米国で10年、日本で26年程教鞭をとった私の個人的な経験からしても事実であると思う(ただし、私が学長を務めたICUの学生の名誉のために付け加えるならば、彼らの多くは米国の学生並みに勉強をしていると言える)。これには日米の大学生の生活・学習環境の違いに帰される面もある。日本の大学生が大学で勉強しない理由として、以下のような事情があるのではなかろうか。(ただし、以下のコメントでは、平均的な日米の学生を想定している)

  1. 日本の大学生は高校での受験勉強(暗記型)で疲弊した後に大学に入ってくる。しかも、2~3月に大学に合格すると、その疲弊を回復する間もなく、4月には入学して大学生活が始まる。大学生活の最初から、自ら学習する習慣が身についていない。また、高校の時期に時間的な余裕や考える機会が余りないことから、大学に来る目的を明確に自覚していない学生が多い。大学生活を含めた自分の生き方を若い時期のどこかの時点で真剣に考えなければならない。しかし、その事を経験しないまま受験→大学生活→就職→職業生活→退職という人生のレールを歩いている。これは多くの日本人の一様な人生模様であると言ってよいであろう。

  2. 米国のリベラルアーツ系大学では入学の時点では学生の専攻は前もって決まっていない。1~2年次に一般教育を履修しながら自分の専攻分野(Major)を決めてゆくのである。この段階は自分の適性、進路、職業、人生と専攻分野をいかに関連付けるか模索する時期で、大学生活にとって重要な体験の時期である。ところが、日本では大学の入学試験が専攻分野別の入試なので、高校の受験勉強(暗記型)のみで大学への進路決定が短絡的になされてしまうことが多い。高校での進路指導も偏差値による進路決定や志望校分別が強いて言うならば機械的に行われている。全人教育(後述)を行うとされる学士課程教育に入学してくる新入生が高校の段階で既にこのような機械的進路指導と分別を受けてくることの矛盾を考えなければならない。真の意味での高大連携が出来ていない。しかし、日本の各大学が独自の偏った入試問題によって入試選抜を行っている点にも大いに原因がある。この事が高校教育のあるべき姿を歪めていることは否定できない。

  3. 米国の多くの大学は都会を離れた閑静な田舎に立地し、大学町を形成している場合が多い。特にキャンパスを州政府から供与されているthe land grant universityやリベラルアーツ系の小規模大学はそうである。この様なキャンパス環境では学生が勉学や日常生活に支障を来さないように、図書館、寮、体育施設、文化施設、医療施設、等が充実していて、学生が忙しく勉強に明け暮れる学期中や平日は生活がキャンパス内で完結している。アルバイトなども、大学に関係のある食堂の皿洗いや図書館の本の貸し出し・返却業務、キャンパス清掃等に限られている。大学院生はTAの仕事が可能である。キャンパスの立地と環境が、学生が勉強に専念できる基本設計思想になっている。

  4. このようにキャンパスで完結できる学生生活を送っている米国の大学生は、平日は勉強に集中し、週末は徹底的にリラックスするというメリハリの利いた学生生活をするのが普通である。平日は大学の外の街に出ることも少ない。また、夏休みは3か月あるが、多くの学生にとってこの期間は休みではなく、働いて(summer job)次の学期の学資をためる期間である。学期の期間中や週のうちの平日には勉強に集中するために図書館の充実が不可欠であり、開館時間は午前8時から夜12時まで、また24時間利用できる「24 Hour Room」が置かれている。学生は金曜日の夕方から土曜日の夜までは勉強しない。パーティや運動が盛んに行われる。この、週末のリラックスのためには寮、運動施設、文化施設などの完備が不可欠である。これに対して典型的な日本の大学生の学生生活は、大都会でアパートに暮し、通学に時間がかかり、図書館の利用頻度も低く、運動に汗を流せる施設も少ない。アルバイト優先の生活態度も少なくない。これを要するに、大学教育にかける資源の量が日米の大学では全く違うといってよい。

  5. この差の原因の一つに、授業料の差があることは間違いない。米国の大学の授業料は日本の大学の授業料に比べて非常に高い。私立大学では年間授業料は平均で35,000ドルくらいであろう。これに学生生活費が12,000ドルくらい必要である。州立大学の場合、リーマンショック以来、州立大学に充てられる州政府予算は大幅に削減されている(私立大学でも運用基金が大幅に損害を被った大学は多い)。このような状況下で、州立大学の授業料も、近年大幅に引き上げられている。州立大学でも州内出身の学生(父母が州税納入者)の授業料(In-state Tuition-年間平均9,000~10,000ドル)と州外出身学生の授業料(Out of state Tuition-年間平均20,000ドル)は異なる。このように高い授業料と州政府の予算によって米国の大学の教育の質は保たれているのである。また、米国における寄付文化の伝統も大学経営に資するところ大である。米国の平均的な家庭の収入ではこれらの高い学費を負担することはできない。当然、学費は学生自身が連邦政府貸与ローンなどを利用して賄うことになる。貸与されたローンは学生が卒業後に数十年をかけて返却するのである。

  6. 米国の大学生が連邦政府貸与ローンを利用できるためには、通学する大学が大学認証機関(the accreditation agencies)によって認証された正規の大学であることが条件となっている。米国の大学がなぜ認証機関による認証を受けることを重視しているかの理由は、認証を受けなければ(accredited)学生が来ないということがあるからである。高校生も大学進学志望校を選択するに際しては、志望校が大学認証機関によって認証されているか否かを必ず確認している。

  7. 米国では大学入試に際しては多方面からの評価によって選抜を行う。高校3年間の成績、SATの点数、クラブ活動、社会奉仕、高校担任の推薦状、などなど。従って、高校の通常の勉強が志望大学への合格にとって最重要である。高校の授業は対話型が多く、暗記型は少ない。予習のための宿題が多い。従って、大学入学時に、すでに対話型の授業に慣れている。日本の教育では小中高大学を通じて学生(生徒)が対話型の授業を受ける機会が極めて少ない。

  8. 日本の大学教育は一度の大学入試を経て合格すると進学した大学で4年間を過ごし卒業する。すなわち学生の大学間移動がない。各大学が入試選抜によって受け入れた学生を囲い込んでいる。米国の大学では多様な大学間で学生の移動が可能であり、移動の際に目安となるのは大学間の授業科目間調整(articulation)と学生のGPAである。学生達は、例えば、とりあえずコミュニティカレッジに入学し、そこで勉強に励んで高いGPAを取得し、その高いGPAを持って、コミュニティカレッジよりもランクの高い州立大学に編入してゆく。いわば大学間横断が可能である。しかし、日本の大学にはこのような「大学間渡り鳥制度」がないために、学生は大学に囲い込まれたままで、勉学途中で移動するようなことはできない。日本のこのような硬直的大学制度はグローバルな規模で起こっている大学生の流動化(「学生渡り鳥制度」)に対応できない。

  9. 日本の大学ではシラバスの作成と公表が義務化されているが、多くの場合、授業予定(工程)表としてのシラバスが学生にとって使えるような内容になっていない。すなわち、学生はシラバスによって授業の内容・進捗を確認し、毎回の授業に合わせて予習・復習をするのであるが、日本の大学のシラバスは、学生が予習・復習できるような工程表の要件を欠いている。(例:シラバスの中で「参考文献は授業中に指示します」などという参考文献の取り扱いを頻繁に見かけるが、これでは学生が予習をして授業に臨むことはできない。学生は受け身の受講にならざるを得ず、双方向の授業にはならない。)不完全なシラバスは学生の勉学を動機づけない。

  10. 日本の大学で行われている大規模授業では学生が授業に出席する頻度は高くない。また、成績評価が学期末の筆記テストのみで行われることが多い。米国でも大規模授業はあるが、その場合には大教室での授業は専任の教員(多くはベテラン教員)が担当し、大人数の学生を少数グループに分けてディスカッション・セクッション制をとっている。ディスカッション・セクッションでは受講生たちを少人数グループに分け、大教室で専任教員が行った講義の内容を使って受講生たちがデイスカッションを繰り広げる。これは大教室での授業のこれを大学院博士後期課程で博士候補試験に合格した学生(the doctoral candidate=DC)がTA(the teaching associate=学内補助講師)となって指導するのである。TAの博士課程学生は授業料免除とともに奨学金を与えられることが多い。DCの多くは博士号取得後に大学で教職に就くことが多いので、博士課程在学中にTAを経験することは大学へ就職する際に重要な準備を行うことになる。

  11. ここで、TAにも2種類あることに言及しておく必要がある。これは博士課程の学生が勉学の進捗状況によって2段階に分けられることと連動している(しかし、ここでいう博士課程とは日本で言われている博士課程前期(修士課程相当)と博士課程後期(博士課程相当)の区分とは異なることに注意。後述するように、米国の大学院博士課程-日本の博士課程後期にあたる時期-は2段階に分かれている。すなわち、1)博士候補資格試験(the doctoral qualifying examination)合格前の博士課程の学生は博士課程学生(the doctoral student=DS)と呼ばれ、2)博士候補試験合格後の学生は博士候補学生(the doctoral candidate=DC)と呼ばれる。博士課程に入学して日が浅く、コースワーク(受講課程)受講中で博士候補資格試験(the doctoral qualifying examination)に合格していないDS学生は教員の授業準備を手伝う仕事などを行うが、ディスカッション・セクションを担当する学内補助講師にはなれない。他方、博士課程候補試験に合格したDC(さらに、博士論文プロポーザルに合格し、博士論文執筆中のDCであれば尚更)はディスカッション・セクションを担当し、学生の成績をつける権限と責任を付与される。日本の大学の大学院では、このように博士候補資格試験(the doctoral qualifying examination)制度が厳格に確立されていないために、TA制度やTAの身分、仕事に関する議論もあいまいであり、TAといえば教員の授業準備を行う助手であるといったくらいの理解しかなされていないのは問題である。TA制度の未確立は将来の大学教員になるであろう大学院学生に対して、とくにDC段階の学生に対して、彼らが大学教員として効果的な授業を行うために必要な授業訓練の機会を与えられないことを意味している。このことが日本の大学教育の質の向上を妨げている。

  12. 学生の学習成果(Learning Outcomes)の確認は、多方面からなされるべきである。たとえば、米国の大学では、成績の付け方は、中間試験(たとえば、全成績の10%)、最終試験(40%)、授業出席と議論への参加(20%)、グループプロジェクトとその報告(30%)、などを基礎にする。ビジネススクールの授業ではグループプロジェクト評価の場合、学生同士がグループプロジェクトへの各メンバーの貢献度を相互評価しあう。この相互評価の結果が学生の学期末成績に影響を持つことも多い。最終成績はアルファベットのA、B、C、D、Fなどを付されるが、Aは最終成績に換算される全得点の100~90%、Bは89~80%、Cは 79~70%、Dは69~60%、 60%以下はF(Fail)となる。成績は相対評価で、その分布は多くの場合正規分布的になる。したがって、Aは上位10%、Bは次の35%、Cは35%、Dは15%、Fは5%、と言った分布になる。米国の大学生の中には点取り虫的な学生も多いが、学生が勉強をしなければならない理由はこのように明確な成績付与方針(the grading policy)にもある。GPA換算ではA=4点、B=3点、C=2点、D=1点、F=0点、となり、Cummulative GPA(全学年を通じてのGPA)が1.00を下回る学期が3~4学期あると退学になる。このようにしてグレードインフレーションを防ぎ、学生の成績管理をしている。

  13. 米国では大学生の学資を親が仕送りするという習慣はあまりない。米国の大学生の多くは奨学金や連邦政府貸与ローンで学費を賄っており、将来返還の義務がある。従って、大学に来ても勉強しないということは「借金をしながら返済のことを考えずに遊んでいる」ということであり、彼らにとって考えられない事態である。

  14. しかし、近年の日本経済の停滞を反映して親からの仕送りが減っていることも事実であり、親元を離れて大学生活を送る日本の学生は生活費の不足分をアルバイトに頼らざるを得ない。しかし、ここでも、明確な大学生活の目的や勉強の動機を持たない場合には、アルバイトが学生生活の中心になり、勉強に費やす時間がなくなることもまれではない。

  15. 米国の大学生の就職では、専攻分野によって初任給が違う事が多い。また、大学時代の成績(GPA)や指導教授の推薦状が就職に際して重要視されている(指導教授は必ずしも推薦状に良いことだけを書くわけではない。公正で率直な学生評価が重要視されている。教員が了承すれば、学生は就職希望先に対し教員がどのような推薦状を書いたか、その開示を求めることが出来る)。従って、よく勉強し、よい成績を収めて、よい収入の職に就くということが直截につながっている。

  16. 日本の学生が勉強しないという事実を学生のみの責任に帰すことは彼らにとってフェアではない。学生が勉強をする現場は教室での授業が基本であり、授業に対して責任を持つべきなのは教員である。したがって、学生が意欲を持って勉強するような授業の環境を整えることは、まず第一に、教員の責任である。授業は(特に対話的授業は)教員と学生のコラボレーションによって構築されるものであって、学生の積極的参加を促すような授業を創りだすことは教員のクラスマネジメント能力による。ところが、日本の大学の教員の多くは授業の進め方やクラスマネジメントに関する訓練を受けていない。米国の大学の新任教員は、teaching clinic等で授業の進め方やクラスマネジメントに関する訓練を受ける。大学は教員にこのような訓練を受ける機会を提供しなければならない。大学行政側が行う教員評価は教員がこの様な訓練を受けていることを前提として行われなければ公正さを欠くものとなる。日本の大学で現今行われているFDの多くは、教員のセミナーや講習会等に限られており、FDの本来の在り方とは異なるものである。

  17. 授業とは知識の伝達であると同時に、教員と学生間の、あるいは学生同士の対話や感性的交流や人格的な陶冶の場になることを期待されている。教育は学生の個性豊かな全人力を陶冶する全人教育(『学士課程教育の構築に向けて』の趣旨)であるべきである。しかし、このことは教員も同時に全人格的な能力を持っていなければならないことを意味する。これは幼小中高大学の全ての段階で教育に携わる者が常に求められる必須要件である。大学教員はこの要件を満たすべく努力することを求められている。

  18. 以上、なぜ日本の学生が米国の学生に比べて勉強しないか、について思いつくままの諸要因と考えられるものを挙げてみたが、日本の教育制度や学生の生活ぶりについてその問題点を論じたために、基本的トーンが批判的なものになってしまったかもしれない。しかし私の考えの基本は、日本の教育制度を良くして次世代を担う学生に充実した学生生活を送ってほしいという願いに過ぎない。そのような教育制度を作ることは社会や大学や教員の責任であるし、誇りでもある。また、学生が充実した勉学に明け暮れ、学生生活を送ることは彼らの権利であり喜びでもある。


2012年8月5日日曜日

教学マネジメントの現状と課題(6)

最後に、その他の意見等安西分科会長のまとめです。

(鈴木委員)

私は、特定の先生に対する質問ということではないのですが、本日の議事次第の議題を見ますと、「中長期的な大学教育の在り方について」ということで我々議論しているということですので、その中長期がどのくらいを意味するのだというところがあると思いますが、おそらく10年、あるいは20年というこれからのスパンを考えると、アメリカ、あるいは発表のあったイギリス、フランスを中心として、どのような大学教育、高等教育の推移を経ていくだろうかということを予想しながら、日本の大学、高等教育の在り方を考えていかなくてはいけないと思うのですが、おそらく10年、20年の間に進むのは欧米を中心とした大学間の連携ではないかと思います。

いろいろなディメンションでの連携ではないかと思いますが、先ほどマージャーというか、統合というような言葉が出てきましたが、大学間もそういうことがあり得るのではないか。

もう一つは、学生の移動です。もう学生は一つの大学で、あるいは一つの国で抱え込んでいるという時代は過ぎていくであろうと、学生が大学、あるいは国をチョイスする時代に行くのではないかということです。そういう意味では、グローバル化が大学のほうと学生の両方で起こるのではないか。しかし、国の教育というのは厳然としてあるわけですから、それに対して国がどういう高等教育を行って人材を育成していくか、これも、いわば非常な緊張感を含みながら進んでいくだろうと私は思っております。

その中で、日本の大学がどのような立ち位置を持つべきなのかということなのですが、少なくても現在の日本の大学というのは、個々の大学も先生といえば日本人の先生でありますし、それから異動もあまりないということで、一国一城というか、それが基本だと思います。それから、日本の大学全体を見ましても、これから10年、20年ぐらいで起こるであろう世界の流れから取り残される可能性もある、全く動かないということですね。

おそらくアメリカの大学にしても、外国籍の教員、あるいは外国籍の学生がいなかったら成り立たないわけで、そういう構成員がいわば多国籍化、グローバル化している中で、フレームワークとしての大学のガバナンスとか、マネジメントが成り立っています。この事実をよく考えなければいけない。そういう観点から、日本の大学も世界に伍してといいますか、先端を切ってやっていける方向を目指さなければいけないのではないか、そういう考え方を持たなくてはいけないのではないかと思うわけです。

一つ、例えば学長の給料ですが、1億円の給料をもらっている人はたくさんいるわけです。3億円、4億円もらっている人もいるということで、日本のように、私はICUの学長を3月31日まで務めておりまして、そこの理事長が北城委員ですので、あまり申し上げませんが、いや、きちんとした給料をいただいていましたからよろしいのですが、やはり学長にせよ、あるいは教員にせよ、横並びの給料などというのは、これはコストでありますが、コストはやはり質に連動しているわけで、教員のコストとしての人件費、給料等も非常にフレキシブルに考えなくてはいけないのではないかと思います。この点は、まだどなたも御発言なさっていないのですが、私は、給料は非常に意味があると思います。

それから、同友会のほうで10の提言をなさいましたが、これは、私立大学としては十分に考慮しなければいけないと私は思いますが、10というのは大きいと思いますので、私は提言1、2、3と提言10、この4つに絞って何か始まれば動きが出てくるのではないかと思いました。

(金子委員)

私は、本日いろいろとお話を伺って大変刺激になったのですが、質問というよりは、本日伺ったお話をこの議論にどう反映させていくかということをちょっと考えたいのですが、ここの教育部会の議論、一つは学生の学修時間が短い、もうちょっといえば日本の大学教育は密度が薄いのではないかという議論が非常に大きな議論でして、これまでの流れだったと思うのです。それはなぜかというと、一つは、教育を考える単位が大変細か過ぎて、学部、さらに細かく学科とかコース、そういうところで教育を構成する、あるいは一人一人の先生の専門で考えるということで、端的に言って科目数も非常に多いです。この間ある大学で聞きましたら、学生の必修の3倍ぐらい授業を出しているといっていましたが、結果として、それぞれの授業に対する教員の手間のかけ方は非常に少ない、それで密度が薄くなってしまうということがあるのではないかと思います。

そのために教育をどうやって計画し、あるいは実施していくか、そのガバナンスを考えることが必要だというのが今までの議論の流れだったと思うのですが、そういうことを一つ考えてみますと、先ほどの上山教授のお話を聞いて一つ思いましたのは、学長自身がある程度イニシアチブといいますか、大変明確な考えを持っていて、しかも大変長い間にわたって、それを実現するために努力することはできる。それは研究中心とお話になりましたが、私は、教育でも大分そういうことが言えると思うので、ハーバード、今の総長の前の総長はサマーズという人ですが、この人は教授会とけんかして、結局やめてしまいましたが、そのけんかの一つの大きな原因はカレッジの教育内容が少し偏っているのではないかという問題提起をして、それを大変強く打ち出したという一つの理由でやめたわけです。

その次の学長の選考のときにも、1番目の候補の人は、やはりハーバードは学部教育をきちんとやっていないので責任を負えない、それは表立った理由かもしれませんが、やめました。やはり学部教育についてきちんと方針を学長自身が持っておられる。

それはなぜかというと、ただそういう見識があるというよりは、大学間の競争が非常にあって、ハーバードといえども、スタンフォードといえども、そのままであれば寄附金ももらえない。しかも、社会に訴えるのはやはり教育のほうですから、そこで頑張らなくてはいけないという意識が非常にあります。一種の市場化も非常に重要だとおっしゃいましたが、市場的な原理というのは、ただ金の問題だけではなくて働くということです。それが教育に非常に大きな影響を与えているというところは、アメリカの例から学ぶところとしては非常に重要なところだと思います。

もう一つ、Senateのお話が本日大分出ていましたが、私が非常に重要だと思うのは、福留准教授がおっしゃっていましたが、全学で一つで、教授会ではないのです。学部に分かれた教授会ではない。全学で教育をデザインして、どのように問題があるかということを考えています。そういう意味で、日本の教授会と決定的に違うのは教員参加があるかないかということではなくて、どの単位で考えるか、どのようなミッションを与えられているかということだと思います。そういう意味で日本では、教員が参加して全学的な教育を考えるという機能が非常に弱いのではないか、それは、アメリカから学べるところではないかと思います。

もう一つ、大場准教授の最後のまとめのところで、アメリカは全学型ですが、英仏は学科で分かれているということですが、この学科というのも気をつけなければいけないのは、日本では学科は大変細かい単位、あるいはコースも大分細かい単位ですが、例えばイギリスとかフランスの学科、特にイギリスなどはデパートメントといっていますが、20種類ぐらいしかなくて、日本の学科よりもはるかに大きい。しかも、それが伝統的にエクストラゼミナーといいますか、デパートメント間で出席保証とか改善をする仕組みがあって、それが発展してハイエデュケーションアカデミー、デパートメント、専門別に教育を標準化して改善していくというような授業をしていて、それがレファレンス、参照基準、今、学術会議で進められておられるのにつながっているのだと思うのですが、少なくともデパートメントの単位では一定の標準化みたいなものを進める。それはもう一つの考え方だと思うのです。デパートメント本位だとしても、しかし、それはただ単に大学の中だけに任せられているわけではなくて、それはそれで一つの標準化といいますか、教育強化のようなメカニズムを考える。二つ方向があって、日本はどちらをとるべきかということもあるかもしれませんが、私は両方あり得てもいいのではないかと思います。一応感想ですがそう思います。

(川嶋委員)

4点ぐらいあります。一つは、これまで発言された委員の方との関連したことを2点。一つは、今、金子委員がおっしゃったこととも関連しますが、アメリカでもイギリスでも基本的にSenateの中にそれぞれの教育プログラムの開設を認定することと、それから、それを常に評価していく機能といいますか、役割が組み込まれているわけです。ところが、日本の、私の知っているのは国立大学の教育研究評議会ですが、そういう機能を教育研究評議会がほとんど果たしていない。ですから、内部質保証システムの構築ということが強く言われていて、IR機能が注目されていますが、やはり評議会が持っている教育の質保証システムというのを日本の大学はこれからつくっていかなければいけない。これが1点です。

2点目は、先ほど鈴木委員がおっしゃっていたことと関連するのですが、教育と研究のグローバル化ということが日本では非常に強く叫ばれていますが、大学経営のグローバル化というのは言われもしないし、実現できない。例えば法人化するとき神戸大学は、外部理事としてイギリスの方をお呼びしたのですが、やはりそれをサポートできない。つまり、英語によるコミュニケーションが事務局の中にできていないということで、その方からうまく助言をもらうことができなかったということがありました。

確かに大学経営をグローバル化するというのはコストも非常にかかるのです。例えば会津大学へお伺いしたら、全ての資料は英語と日本語と両方準備する。しかし、アメリカとイギリス、それ以外香港も先ほど出ましたが、世界中から学長をリクルートしているわけです。イェールのプロボストがケンブリッジかオックスフォードのVice-Chancellorになったり、その逆も起きている。ですから、今後、大学経営者のグローバル化ということも考える必要がある。ここまでは関連します。

あと2点。一つは、学長に関してかつて少し調べたことがあるのですが、学長、学部長も海外の場合はジョブディスクリプションが明確にされた上でサーチが行われるのです。日本の場合、お手元の規則集を見ていただきますと、学校教育法では、「学長は校務をつかさどり、所属職員を統督する」。大学設置基準の第13条の2で、「学長となることのできる者は、人格が高潔で、学識が優れ、かつ、大学運営に関し識見を有すると認められる者とする」。ここにいらっしゃる現学長、元学長の方々は、まさに13条の2に該当すると思うのですが、それ以上、学長に求められる能力とか、素質は何なのかというのは日本の場合は非常に不明確で、学長選考会議の規則を見ても、ほとんどこの第13条の2をコピーしたものです。ここをやはり明確にしてほしい。

最後に、権限といいましても、それを裏づけるリソースアロケーションというのですか、人と金をどう権限とか仕事に結びつけていくかということが重要で、先ほど上山教授からは、教員は三つぐらいのプライオリティーにつけてというお話もありましたし、北九州市立大学の場合は教員を再活したということがありましたが、マネジメントをリソースの面からも考えていかないと、マネジメントなり、ガバナンスは有効に働かないのではないでしょうか。

(篠田委員)

五つの報告とも大変参考になりまして、冒頭に安西分科会長がお話しされましたように、学士課程の質的転換にはやはり教学マネジメントの改革は不可欠だということが具体的に明らかになったのではないかと思います。特に共通に指摘されている重要な点ということで私が感じましたのは、第一は、やはりマネジメントの在り方について戦略性とか、戦略的な計画とか、中長期計画の重要性、それを大学それぞれで決定するということの重要性を非常に感じました。これは、上山教授も冒頭でも、まとめの所でも戦略性の強化ということを強調されておりましたし、小林委員もストラテジックプランということの重要性を指摘されておりました。近藤学長の御報告もやはり改革を進めていく上で第二次中期計画とか、カリキュラムの改革方針を柱にして進めるということでした。改革をしようとするときの出発点が、そういう戦略とか計画というのがある程度全学的に拘束力を持つ形できちんと定められる、あるいは全学的に共有する、合意する、浸透する形で決定されることが非常に大切な所だと思います。今、審議のまとめでも提起しているような学修時間の確保ということについても、本気でやろうとすれば大変戦略的な課題になってきますので、それをどのような機関で、どのように意思決定していくのかというところが非常に重要ではないかと感じました。

二つ目には、それを実行する責任機関とか執行機関の問題ですが、これも上山教授が「全体戦略と教授会自治の緊張ある再構築」ということを指摘されました。まさに、このことがぴたりの表現だと思うのです。多くの大学が直面している課題だとも思いますし、これからこういう所の改革に挑戦していかなければいけないと思います。やはり全学の方針と学部の方針の整合とか、IR組織の運営もそうですが、全学的な教育改革を推進する執行機関がいかなる権限を持って役割を果たしていくのかということを具体的に確立し、また変えていかなければいけないと思うのです。

小林委員も理事会のマネジメント、大学執行部のマネジメントということで言われていましたし、近藤学長も学長・副学長の指導体制、「指導体制」という言葉が非常に印象に残ったのですが、強いリーダーシップを発揮していく。もちろん個人プレーではないですから、推進組織をつくりながら、あるいは戦略的な事務組織を構築して、教職が一体になってやっていくということなのですが、大切な所だと思いました。北山委員は、それを「大学は改革の実行力が不足している」ということで具体的な提言をされました。もちろん、運営のやり方はそれぞれの大学が個別に考えていくべきものですが、教育を変えるということを考えると、それを運営するシステムがどうしても変わっていかなければ教育も変えられないというメッセージを強く発することが非常に重要ではないかということを感じました。

(川村委員)

企業の立場でいろいろお話を伺っていて、ガバナンスということに関していろいろ真剣に考えておられるということがよくわかって、本日は大変よかったと思うのですが、様式が大分違うのですが、企業の件を少し申し上げますと、COEという最高執行責任者のところに全権限が集中していまして、そこであらゆることを取り仕切ります。実際にはその人たちが、大抵の場合、最近はスピードを重んじますので、数人の人たちと一緒にCOEが最終的な意思決定をして動かすわけです。

私の会社の場合ですと35万人従業員がいまして、世界中、外国人が15万人います。それらを全部合わせて、6人とか7人の意思決定機関で動かしていくわけです。それは、スピードが要るものですから、それぐらいでやらないと足りないのです。しかし、それだけですと非常にまずいので、取締役会というのが執行役会の上にありまして、やり過ぎるときに抑える、やり過ぎないときに働かせるという役割をやります。

ですから、本日いろいろお話を伺っていたガバナンス改革の方向性と大変よく似ていると思うのですが、そういう意味で、北九州市立大学でやっておられる話とか、同友会からいろいろ御提案があった話というのは全くそのとおりだと思います。

ただ、企業は世界的な評価が出るのです。評価法に関しては、我々も随分クレームもするわけですが、自分で我が身をなかなか見られないわけで、この評価は少しおかしいのではないかというようなことは言うわけですが、例えば株式時価総額というのが世界的にありまして、私の会社だったら今、世界で何番というのがぱっと出るわけです。これではいかん、こんなところではいかんというわけで、では、ガバナンスをどう変えていくかという話になってきますので、大学の場合も、先ほど来少しお話が出ましたが、認証評価というか、世界的な認証評価基準みたいなものがある程度総意形成されてくれば、世界の何番目なのだ、存在意義があるのかどうなのかということで、企業と同じように、そういう評価をだれかが考えていかなきゃいけないのではないか。まずガバナンスありきで改革があるわけではないですから、世界で生き残っていけるかどうかということで、みんな必死に考えて、では、ガバナンスはこう直そう、何はこう直そうといくわけで、順番が反対だと思います。

例えば先ほどのEndowment、大学が集め得る基金というのが世界中で通用する評価になるのあれば、この大学はこれぐらい基金を集め得る、それぐらいの教育と研究の両方に関する成果を出して、お金を世界中から集め得る大学だというのがもし評価だったら、それを評価にすればいいし、評価の仕方というところを一緒にやらないと、この話はいつもぐるぐる回りの話になってしまうのではないかというのを少し思いました。

あともう一つだけですが、企業側からのお願いは、大学生にもっと勉強するようにしていただきたいということです。中学生と高校生より勉強しないような大学生は欲しくないのです、要らないのです。やはり120単位しかやらないような学生も要らないのです。外国みたいに190単位ぐらいは平気でやってきてもらいたいのです。やはり専門ももちろん大事ですが、リベラルアーツというか、そういうほうもやってもらいたい。多分、4年でできないだろうと思うのです。

ですから、ユニバーサルな大学というような格好で、会社の中堅層をつくるような人たちは、企業の立場から言うと今までのでいいかもしれませんが、やはりきちんとしたエリートを出していただかないと困ると思っていまして、企業のほうもそういう要求を大学のほうにお願いする格好に徐々になっていくと思います。全体の10%ぐらいの人でいいのですが、本当のエリートが欲しいのです。我々、外国の経営者と話をすると、学歴不足で悩むのです。4年の大学しか出ていない、リベラルアーツが足りない、哲学だ、歴史だに関するいろいろな話ができない。やはり電気工学科の何とかをやっただけではとてもだめです。とても海外と太刀打ちできない。

これからは、我々の仕事の半分以上は海外でやる仕事になりますので、海外の大学の本当のトップエリートと闘えるような人を10%ぐらい出していただきたい。これが企業側のお願いで、そういう意味で高等教育の質の向上というのが本当の命題で、この一つとしてガバナンス改革をやっておられると思いますので、是非よろしくお願いしたいと思いました。

(安西分科会長)

大変貴重なご意見を多くの方からいただいてまいりまして、一応、このあたりまでにさせていただければと思いますが、まだいろいろ言い足らない委員の方、多々おありになると思いますので、本日プレゼンテーションしていただいた先生方への質問でも結構だと思いますので、事務局のほうへ御遠慮なく送っていただければと思います。よろしくお願いいたします。

私自身、ハーバード大学の今の総長の就任式に出たことがありまして、その就任式が非常に強く印象に残っているのですが、ハーバード大学としてあるミッション、もちろんガバニングボード等々が想定して、学長の選任プロセスもかいま見ていたのですが、非常に慎重かつ本当に熟慮して、いろいろなことがあって、先ほど金子委員も言われていましたがそうなっています。そして、学長が決まった就任式というのは、ハーバード大学が学長に全権を委任する、その委任の儀式だということでありました。

このことは、先ほどからCEO等々いろいろな御意見をいただいている中で、組織の詳細も肝心でありますが、やはりその大学が将来に向けてどういうミッションを持つのか。例えばグローバル人材を育成するという教育のミッションも含めて、ミッションを明確にして、それを実現してもらえる最も最適な人を見つけて、その人にそういう任務を委託する。これは、アメリカンスタイルなのかもしれませんが、そういうことを日本の大学のガバナンス、マネジメントにおける原点としてつくり出していただきたいと個人的には思っております。

そういうことを早急にきちんとスピード感を持ってやらないと、先ほどからあります学修時間を増やすということもそうなのですが、その改革が世界の動向の中でスピード感を持って実現するということは極めて困難だと思いますので、この大学分科会の答申を間もなくまとめていく段階に来ておりますが、これまでのいろいろな議論、学士課程の質の問題でありますが、その中には、是非こういう議論をしたということのみならず、むしろ、そういう議論ではなくて、ガバナンスにつきましても、こうすべきだという提言を入れてもらえるような、そういう議論にさせていただければと思っております。

ほかの問題でもそうなのですが、特に大学関係者は、議論はするのですが、責任を持ってこうしたいとは言わないのでありますが、大学分科会としては、これからの大学を、中長期的に見てこうしていくべきだということは、ある程度はっきり提言すべきだと思っております。これも経済界からの期待といいましょうか、いろいろな御意見、コメントも含めて、これからの時代の大学の在り方というのは、長期的にいえば、先ほど鈴木委員が言われたように、学生のほうが大学を選びつつ流動化していく、そういう時代が遅かれ早かれ来ると私は思いますが、そういうことも含めて、各大学が本当にこれからの時代に、自分の大学のミッションとしてどうあるべきかということを明確に立てて、それを実現する人間が学長、ないし理事長等々としてやっていけるようにすることが極めて大事なのではないかと思いました。

もちろん組織の問題もそうですが、大学分科会として、本日いただいたプレゼンテーション、また貴重な御意見も踏まえて、できるだけ提言できるようにもっていければと思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。


2012年8月4日土曜日

教学マネジメントの現状と課題(5)

第5回目は、北山禎介三井住友銀行取締役会長です。資料と照らし合わせながらお読みいただくと理解が深まるのではないかと思います。

資料「私立大学におけるガバナンス改革-高等教育の質の向上を目指して-」


資料5ということで、これは、経済同友会において、私、教育問題委員会の委員長をさせていただいておりますが、この3月に前年度の提言として発表させていただいたものです。本文自体が何ページにもわたるものなので、一番上に大きな紙で概要版をつけております。そちらに沿って御説明いたします。

経済同友会の教育問題委員会、経済同友会そのものがそうなのですが、教育問題委員会も大学関係者の方、おられることはおられるのですが、大多数が企業経営者を中心にしております。したがいまして、今までの3組の先生方は大学そのものですが、そういった方々とは違いまして、大体月に一度ぐらい大学関係者、ないしは、そういったことに詳しい人たちに来ていただいてお話を聞き、我々がけんけんがくがくでやって、まとめたものです。

まず、どうしてガバナンス改革かというのがまとめの一番左上の「はじめに」というところにあります。高等教育に関していろいろ課題があって、どのように改善していかなきゃいけないかという、主要な項目だけかもしれませんが、ざっと挙げております。この中教審であったり、いろいろなところの答申であったり、提言であったりしているのですが、一つの問題意識としてはなかなか歩みが遅いというか、スピード感がないというのが率直な感想でして、その一つの原因としてガバナンスの在り方という点についても、その原因があるのではないかということで、黒抜きしておりますように、1年前、ここにフォーカスしてやっていこうということになりました。

まず、左下半分ですが、1ポツのところで、「大学のガバナンスの現状と問題点」という点で5点挙げさせていただいております。本来、最高意思決定機関である理事会が実質的な決定権限を有しておらず、学長の選任であるとか、教員の採用などの権限は事実上、教授会にあるという点を指摘させていただいております。

また、大学や学部の最高執行責任者である学長や学部長の権限もあまり強くない。これは、学長も学部長も事実上、教員による選挙で選ばれているためです。

次に、学部教授会ですが、教授会は本来、教学に関する重要事項について審議する機関ですが、実態としては大分経営的な事項にも日常的に関与している。そうすると、組織決定に迅速性が欠けるであろうし、教員の不利益になるような改革については教授会の抵抗によりなかなか進まないという原因があるのではないか。

四つ目として、評議員会と監事が理事会を監視する役割を十分に果たしていないことを指摘しております。

次に、真ん中の2の「大学のガバナンスに対する考え方」で、まず理念的なことを述べさせていただいております。これは、そのまま読みますと、「ガバナンスとは、組織における権限・責任体制が構築され、それを監視する体制が有効に機能していることであり、この観点では、企業であれ、大学であれ、何ら変わることはない。大学ガバナンス改革では、教授会の影響力が強い現状のガバナンス構造を見直し、理事会の経営・監督機能の強化、ならびに執行部門のトップである学長の執行権限の強化が鍵である。各大学においては、ガバナンス強化の目的を明確にし、大学全体の経営力の強化、経営資源の拡充などに取り組むべきである」という理念的なことを述べまして、3ポツでガバナンス改革のための10の提言という形で整理させていただきました。

この10の提言は大きく二つに分かれておりまして、真ん中のところの組織体制に関する提言と右側の人材に関する提言という形です。

まず提言1、組織体制側のほうですが、理事会の権限及び経営・監督機能の強化を挙げています。具体的には、理事会を実質的な最高意思決定機関とするため、学長選挙を廃止し、理事会が直接学長を任命することを提言しております。

2では、学長・学部長の権限の強化です。学長による大学内における人事・予算権限を理事会が付与するとともに、学部長選挙を廃止して、学長が学部長を任命できるようにすべきであるとしております。

3では、教授会の機能・役割の明確化です。教授会は、学長などが教育・研究に関する重要事項に関して教員の意見を聴取する場、または情報共有する場とした上で、教授会は本来の機能・役割を認識すべきと言わせていただいております。

4は、評議員会の役割の明確化で、評議員会は教職員以外の外部メンバーの比率を高めるべきということで、これは、評議員会の監視機関的な役割を強化するためです。

5は、監事の機能強化です。

6は、ガバナンスの透明性・健全性を担保する情報公開の充実を挙げております。ガバナンスの健全性を維持するためには、企業も同様ですが、情報公開が不可欠であります。

次に、右側の人材育成・活用に関する提言のほうですが、7として経営人材の育成を挙げ、経営人材に必要な資質・能力を提示させていただいております。

8では、外部理事の活用です。理事会の経営力を強化するため有識者、企業経営者など、外部理事の活用を挙げさせていただいております。

9は、教学アドバイザー、学長顧問の活用であります。学長への助言機関として、これも有識者であるとか企業経営者などからなるようなアドバイザリーボードをつくることを提案しております。

10は、教員の適正な評価と処遇への反映です。適正な評価制度を構築して、教育・研究、組織運営をバランスよく評価し、処遇に反映させるべきということで、10の提言ということで挙げておりますが、右下のほうで大学ガバナンス改革を促進する仕組み・制度についても3点ぐらい述べました。

一つ目として、私学助成金の配分ルールの明確化です。これは、ガバナンスが良好な大学に私学助成金がメリハリをつけて配分されるような、配分にそういった基準を入れたらどうかというようなことの提案です。

二つ目が認証評価制度の活用で、大学が7年に一度受ける認証評価において、ガバナンスの状況も項目の一つとして評価したらどうかという提案です。

三つ目は、行政の関与の在り方ですが、私立大学は本来、自主独立であり、文部科学省の行政指導は透明性のある一定のルールに従って行われるべきであるとしております。

説明は以上なのですが、これは、私立大学という7割以上を占める非常に多くの大学ということで一般論でくくれるものではなく、大学自体、それぞれ区々であることは十分承知しておりますが、こういった一つの提言が部分的にでもうまくインパクトを与えるような形で動いていただければということで、中教審にというよりは、世の中に問うというような形が経済同友会のスタンスですので、皆さんのプロフェッショナルな部分ではいろいろおありでしょうが、企業経営者のほうから考えたという点で御理解いただけたらと思います。


2012年8月3日金曜日

教学マネジメントの現状と課題(4)

第4回目は、近藤倫明北九州市立大学学長です。資料と照らし合わせながらお読みいただくと理解が深まるのではないかと思います。

資料「北九州市立大学における教学マネジメント-カリキュラム改革を通して-」


これまでの発表の皆さん方がグローバルな視点からという形でのお話だったと思います。私は、それこそローカルな話という形で進めたいと思います。地方にあります公立大学の現場からの事例報告という形で、ケーススタディーとして報告したいと思っております。

タイトルは「北九州市立大学における教学マネジメント」ということで、カリキュラム改革を通してということでお話をします。

まず、目次ですが、ここにありますように教学マネジメントのポイントから高校からの評価まで、大変ローカルな、具体的にこれまで取り組んできた内容についてのお話をしたいと思います。

その次。これは、教学マネジメントのポイントということで、これは最後にもう一度まとめたいと思いますが、6点ほど挙げさせていただいていますが、実は上の三つぐらいは、これまでいろいろな形で言われてきたことなのですが、それをいかに運営していくかということのほうが大変重要だということで、実際にカリキュラム改革を2回にわたってやりましたので、その経緯の中でマネジメントのポイントを最後にまとめたいと思っております。

3ページ目になりますが、本学の概要と歴史を少し御説明するということで、ちょっと見にくいので配付したプリント3ページのところを御覧いただきたいと思います。

本学の歴史に関しては、右の上のほうに載っております。1946年、戦後すぐ、次の年ですが、小倉外事専門学校としてスタートいたしました。当初は英米科、それから中国科という形で、世界に羽ばたく、いわゆる語学を中心とした専門学校としてスタートしました。それが外国語学部という形で設置形態をとりまして、そして、大学になりました。それから、経済学部、文学部、法学部、それから、2001年、21世紀になって環境工学部という形で、いわゆる文系、それから理工系合わせた総合大学として、現在は学生数6,600名程度です。公立大学、今、82校ほどありますが、学生数からいえば4番目、5番目あたりに位置する大学です。現在は、5学部1学群という形で学士課程においては構成されております。

まず、大学の運営に関してですが、左側上のほうから経営審議会、これは経営に対する審議会。本学の場合は、理事長と学長がいわゆる別置型という公立大学の特徴をとっております。この経営審議会は、民間からやってきた方ですが、理事長が統括する。それから、右側3番目にあります教育研究審議会、ここは教学マネジメントの主体ということで、学長が把握します。そして、真ん中に役員会を置くという構成になっております。

それぞれ経営審議会、役員会は年に4回とか月に1回という形です。教育研究審議会は2週間に1回という形で、ここが大学マネジメントの主体を担っているところです。

そこの役職のところを左に拡大しておりますが、ここは学長がトップになった教育研究審議会、ここを中心にしてやっています。22名で構成されていますが、事務局長は充て職という形で決まりますが、あと全員に関しては学長が指名という形になります。副学長3名、そして部局の長という形、それから重要な組織の長という形であります。ただし、完全なフリーハンドという形ではありませんで、4段目になりますか、外国語学部長から大学院マネジメント研究科長までの部局を持っているところの9名に関しては、部局で意向投票という形で2名を学長に推薦します。そして、その2名の中から私が選ぶという形をとっています。

もう一点、ここで皆さん方に見ていただきたいのは年齢構成で、網かけの部分が40代~50前半という形で、これは責任体制、中期計画、6年間とあった場合に最終結末まで責任をとるという形で、若い先生方を中心にした形、40代、50代という形でつくられております。

右のほうにありますグラフは、それぞれ本学の教員の構成を表しています。今、270名程度の教員ですが、このような分布をしているということです。

4ページ目に移ります。まず、第一期中期計画ということで、平成17年~22年と書いてあります。これは、国立大学が平成16年に一括して法人化されましたが、公立大学はその次の年ぐらいから、早い時期で本学は法人化をしたという形で、平成17年からの6年間、第一期の中期計画をつくりました。平成17年から22年までの間で、まず、カリキュラムに関係したところでは、いわゆる平成19年度に第一次カリキュラム改革がスタートするということを中期計画の中で決めました。中心になることは何かといいますと、基盤教育センターによる基盤教育の充実ということで、これまで大綱化以降、それから臨時定員等で、いわゆる教養教育がある意味でおざなりになっていたというところを強調する形で、責任体制を明確にするために基盤教育センターを設置するということで、18年に設置して、19年からの改革に臨むという形にしています。

基盤教育センターは、いわゆる責任を持ってもらうために専任張りつきという形で、これまで学部にいた先生方に移っていただくという作業をやって、現在は40名を超える人数が専任で所属していることになります。そして、卒業単位124単位のうちの40単位を、ここが責任を持ってやるという形で、分業体制となっています。センターを非常に強くするために、最初にセンター長は副学長が兼務したということで、私が第一期のときの副学長として、センターの立ち上げ時期にセンター長を兼務いたしました。

当然のことながら、学部から先生たちを異動させることになりますので、学部学科の再編ということが行われます。そして、それに伴って第一次カリキュラムをスタートするという形で、実際に平成19年度からスタートいたしました。ここでは基盤教育の充実、それから、これまで非常勤を教養教育等に非常に高い割合であて、専門教育の先生方を増やしていたという背景がありますので、専門科目を減らして、いわゆる基盤教育、教養教育を充実するという方向で改革を進めました。

そして、19年度から22年度までで完成年度を迎えます。実は平成21年、22年、この2年間をかけて次の中期計画をつくるということの中で、第一次カリキュラムにおける問題というのを、実際に23年から始まる学科再編のためのいわゆるカリキュラムの改正というところにもっていきました。それで、平成21年から22年の間に中期計画を策定するということです。

そして、実は20年度、21年度に大学評価・学位授与機構のほうから認証評価を受けました。そういうことも入れながら、いわゆる第二期の中期計画をスタートし、下にあります第二期中期計画は23年度から28年度ということで、現在、2年目を迎えています。この中では第二次のカリキュラム改革をスタートするということで、この中期計画の中に平成25年から新カリキュラムをスタートさせます。そのため平成23年度においては、いわゆる三つのポリシー、それからカリキュラム改革というのを実際に行ってきました。

その経緯について、5ページ目で御説明したいと思います。これが第二期中期計画です。実は第一期中期計画は169項目という非常に多くの計画をつくっておりました。今回、第二期に入りまして70項目という形で、大分絞った形で策定いたしました。「北の翼」とつけていますのは、文字が非常に小さくて見づらいとは思いますが、これを全紙に拡大したものを学長室に張って、ここに70項目全部書いてあります。これを毎日見ながら、一つずつ消していくというような作業で、ファイルにとじるのではなくて、一目瞭然という形で見えるような状況にしております。

そして、一番重要な点は左の一番上です。これ、「教育」と書いています。ここにいわゆる学士課程教育に関して、まず最初に取り扱うということで、70項目の中期計画の1番から並べています。この図自体は、いわゆる鳥を表しながら北という文字を模しているのですが、教育を左のウイングといいますか、研究を右、そして社会貢献を尾翼、頭の部分に経営という形で、それぞれどこに対応しているかということで、これがすぐに見えるような形で、中期計画をこのような形でナビとして表しているということになります。

次の6ページ目のスライドになりますが、第二期の中期計画の中で行った23年、24年度の取組ということで、一番最初にやったのは学長のミッションである、いわゆる70項目を6年間で処理していくということの中で、まず、それをやるための10のプロジェクトを23年早期につくり上げるという作業です。ここに10項、1から10までありますが、全て学長、それから副学長がトップになるプロジェクトです。これは、従来ありますカリキュラム委員会であるとか、そういう委員会を超えた形で、いわゆる第二期中期計画の主要な部分に関しては学長、副学長がトップになります。もう一つ重要なことは、それぞれ委員会というのは各学科、職員集団、学務課であるとか、そういうところにつくわけですが、学長、副学長がプロジェクトをやったときには経営企画課という特殊な課といいますか、戦略的な課が全てに張りつくという形です。

そして、網かけになっている1、4、7、8に関してがカリキュラム改革に関係したところで、本日少しお話をするという形になります。

まず一番最初、学部等教育改善ということで、1番目に挙げています。学部等教育改善委員会、これは学長が主管する委員会で、ここでカリキュラム改革を行う形になります。実はこの10個の主要施策のうちの三つが学長がトップ、あと7つに関して副学長3人がトップになるというような組織でスタートしております。

次の7ページ目を御覧ください。第二次カリキュラム改革の場合、目的を明確にするということで、いわゆる三つのポリシーの策定とカリキュラムの改革を平成25年度にスタートするという形を明記いたしました。そして、中期目標、計画に沿って、これを実行するという形で、学長、副学長で取り組んだということです。これが第二期の中期計画の第一番の仕事として23年4月からスタートしています。

学部等教育改善委員会自体は、左にありますように、部局長等が入った委員会です。そして、その下に副学長をトップにしたワーキンググループをつくっています。これは、方針案の策定を行います。そして、右端にあります部分が5学部1学群、いわゆるそれぞれの部局の学科ごとの部分ですが、ここにカリキュラムコーディネーター20名を置くという形で、実際に作業する集団という形になります。真ん中のところ、点線で書いてありますのがいわゆる経営企画課、先ほど申しました学長、副学長に直結した職員集団がこれをサポートする。

まず、そこに書いてありますように期限の明示、改革方針の提示、それから学部等の実施状況等のチェックということで、これを進めていくという体制をつくります。

次の8ページのところですが、これはテクニカルな部分ですから説明はあまり必要ないと思いますが、まず、先ほど言った学長をトップにした学部等教育改善委員会が左の端にあります。それが1から5までの方針に沿ってやるということで、右側のところが教育目的の検証・見直し、①からスタートしていますが、いわゆる法人化したときに学則等に書いたもの、それを平成19年度、第一期の中期計画の4年間の完成年度を迎えたときに、その目的に対して正しいかどうかという検証、PDCAサイクルを回すということ、そして、新たにDPの策定ということで、方針と同時にDPを策定している。実は14の能力をそれぞれの学科がカリキュラムコーディネーターによってつくられてきた。そして、DPの後にはカリキュラム・マップという形での策定を始める。

本学には2,000~3,000の開講科目がありますが、カリキュラム・マップの中で、全ての科目一つずつにわたって、その科目がどういう能力を身につけるかということを四つの能力に対応させる。次に、カリキュラム・ツリーという体系性、順次性というところで科目を配置する。

そして、このような作業の中で、それぞれ先生方一人一人が自分の科目がどのような位置付けになっている、意味を持っている、あるいは能力をつけるということがわかってきますので、自分たちの意識が若干変わってきたようです。

それから、非常に重要だったのは学長面接というのが網がけのところにあります。ここは、基本的にはそれぞれカリキュラムが構成されましたときに、学長が学部長、学科長、カリキュラムコーディネーター、18ほどの組織をそれぞれ個別に面談しまして、方針に沿ったカリキュラムになっているかどうか、すなわち学科間で同じようなものがあれば統一しなさいとか、受講生が過去において少なかった科目はやめなさい、いろいろな形でのやり合いがここであるということで、延べ7時間、第2ヒアリングは3.5時間と書いてあります。学長も勉強しないといけませんので、非常に多くの時間をかけています。

そういう形で、25年からのカリキュラムができ上がった後は、それを文章化するCP、APの策定という形で、一応、今年の3月末につくり上げました。そして、7月からは高校への説明会に入るという段階になっています。

次のスライド、9ページ目です。三つのポリシー策定、第二次カリキュラム改革で第一次と第二次の比較をやっています。いわゆる方向性、ねらいといったものをそれぞれ踏まえて、新たなカリキュラムをスタートするという削減、教育責任の明確化等も含めた形でのそれぞれの改革の結果をそこに書いています。

次の10ページ目になりますが、副次的に学生たちを学士課程では勉強させなければならない、どういう方法があるだろうかという一つの案として、平成25年度から副専攻の設置ということを二つ行いました。

まず、7番に書いております最初のほうがGlobal Education Program、これはグローバル人材の育成ということで、25年から始めようと実際には考えてスタートしたものですが、これまでの大学教育はユニバーサル化、学力の低下に伴って底上げというところを中心にした就学前教育や補充授業というのがあったわけですが、逆にトップを引き上げる教育システムというのはそれほど多くなかった。

それで、第二期中期計画の中では、いわゆる勉強できる学生にはもっと勉強させようという形での副専攻の設置です。大変ハードルの高いものをつくるという形で、例えばGlobal Educationですと、副専攻を修了するにはTOEICであったら800点以上とることを条件とするなどのことを含めながらやっていまする。

これに関しまして25年からのスタート予定だったのですが、理事長から準備のできるところから早くやりましょうということで、今年の4月から一部スタートしております。

次に、もう一つの環境ESDプログラム、これも副専攻で、25年から始まりますが、いわゆる地域力を高めようということで、オフキャンパスという形で学生たちを外に出した環境ESD演習というものを組み込んだ部分です。これは、北九州市が環境未来都市、あるいは環境モデル都市に指定されておりますので、環境人材ということで、こういうプログラムをつくりました。

この委員会にもおられます浦野委員がうちの経営審議会のメンバーなのですが、オフキャンパスという用語を使ったときに、オフキャンパスというのはちょっと消極的過ぎる、オンコミュニティという言葉のほうが、学外から見たほうがいいのではないかということで、大学人としての立場、違いというものを教えていただきました。

最後になりますが、12ページのところで、高校からの評価ということで、左の一番端、これは、朝日新聞社の大学ランキングということで、外部評価の中でランキングを目的にしている訳ではありませんが、利用できるものは利用しようということで。改革前、中期計画、法人化前はランク外だったのですが、徐々に高校から生徒に勧めたいという形で評価をされて、右端の状況に至っているということです。

プリントでは2ページ目に戻っていただきますと、まとめという形になりますが、教学マネジメントのポイントとして「学長、副学長指導体制と経営企画課」と書いています。先ほど申しましたように、すなわち従来の委員会ではなくて、中期計画というミッションが明確になった場合は学長、副学長をトップにしたプロジェクトを立ち上げる。これは時限的なものです。そして、それをサポートする事務組織は経営企画課、ここは中期計画のスケジュール管理、あるいは自己点検評価、PDCAを回す主管になっています。そこがサポートするという形で、こういうマネジメントのやり方をやっています。

2番目に、40代、50代教員を中心とした、教員集団に1割程度実働教員がいれば、大学改革は大体何とかなるということで、責任体制ということで、こういうことを中心にしてやっています。

それから3番目、認証評価、法人評価、外部評価の活用ということで、認証評価等によって課題を明確にして、それをやると中期計画の中に明示していくという形です。それから、外部評価の中では、ランキングも含めて、評価されているものに関してはそういうものを使うということです。

以下は少し違う観点からです。大学改革においてよく言われるのは意識を変えるということですが、それを出発点にしないということを基本的に心がけています。意識が変わるというのは成果物として、実際改革をやったり、プロセスや結果を見て、そうなのかと、そういう意識改革があるのだろうと思います。ただし、そうは言いつつも、学長の本音としては、意識をどう変えるのかということを絶えず考えています。その中では事実の積み重ねといいますか、これは学習過程だと思いますので、行動や実践、結果事実といいますか、そういうものを繰り返しながらやっていくものだと思います。

学長の号令の仕方としては、学生のためにやりましょうというような言葉がけ、あるいはステークホルダーへの説明責任、これは社会的な契約でしょう、約束守りましょう、そういうことが先ほどのプレゼンテーションにもあったように、説得のところになるのではないかという気がします。

もう一つ、ポイントということで、「シニア力の活用」と書いています。これは、既存の先生方ではなくて、本学を退職されたり、あるいはほかの大学を退職された先生方を特任、特命として、いわゆる学長直轄の形で学長のプロジェクトに対して、そういう人を置くことができると。第一期では、FD特命教授を置きました。これは、九州大学、国立大学ですが、そこを退職された教員に5年間で北九大方式のFDをつくってくださいということでお雇いしました。そして、今回、第二期では副専攻をやりますが、そういう副専攻を完成させてくださいということで特任の教授を選びます。直接的に学長裁量という形で、こういうシニア力を活用することも非常に重要だと思っています。

カリキュラム改革ということに関して、私がこれまで副学長、学長として経験したことのお話をいたしました。


2012年8月2日木曜日

教学マネジメントの現状と課題(3)

第3回目は、広島大学高等教育研究開発センター大場淳准教授、福留東土准教授、秦由美子教授です。資料と照らし合わせながらお読みいただくと理解が深まるのではないかと思います。

資料「諸外国の大学の教学ガバナンスに関する調査研究-米国・英国・フランス-」


(大場淳准教授)

私ども広島大学グループは、諸外国の大学の教学ガバナンスに関する調査研究を文部科学省から委託を受けまして、昨年12月から3カ国を訪問する形で実施しております。今年の11月まで予定されておりますので、本日は途中経過ということで御報告させていただきます。この目的のために3カ国の大学を複数訪問して、先行研究と突き合わせながら、ステークホルダーも含めて、なるべくたくさんの人に話を伺いました。ガバナンスの調査研究といいますと、組織の在り方と意思決定過程、すなわち組織の見えない部分が対象になりますが、この見えない部分をいかに明らかにしていくか。そういった観点から調査させていただきました。

この3カ国について、順番にアメリカ、イギリス、フランス、そして最後にまとめをさせていただきたいと思います。まず、アメリカです。

(福留東土准教授)

それでは、アメリカにつきまして、福留から報告致しますが、実は今の小林委員のお話と重なるところが多いので、できるだけポイントのみを述べて、英仏2カ国のほうに時間を残したいと思います。

我々は、特に教学のところに焦点を当てて調査するようにということでしたので、本日はそこに特化した話をしたいと思います。

ただ、その前提として、大学ガバナンスの基本構造がどうなっているのかということは大事だろうと思います。スライドの4枚目になりますが、アメリカの大学ガバナンスの主体には大きく言って、理事会、アドミニストレーション、教員の三つが存在しています。

アメリカの高等教育研究者と議論をすると、やはりアメリカでもこれら主体間の緊張関係、あるいは葛藤関係が常に存在していて、必ずしもスムーズな形で三者が連携しているわけではない。しかし、そういった葛藤や緊張を回避するのではなくて、それを前提にしていかに乗り越えて大学を運営していくかというところが非常に重要だということです。いわば立場の違う者たちのいろいろな視点を活かしながら、いかにそれを統合し、乗り越えていくか。

大学内部のガバナンスについて、よく学長をはじめとする執行部のトップダウンを強めるべきである、あるいは大学である以上、教授会のボトムアップが重要である等の言われ方をします。これらは、おそらく両方重要なので、どちらかということではないですし、ガバナンスの議論というのは、どうしてもどちら側がどれだけ強いのかという話に陥りがちなのですが、どちらがどれだけ強いのか、あるいはどちらを強めるべきなのかという議論はあまり生産的ではないのではないか。また、学長のリーダーシップということが非常に強調されて、これも非常に大事なことだと思うのですが、学長のリーダーシップとトップダウンとは必ずしもイコールではないという点にも留意する必要があります。

大事なことは、もちろん国によっていろいろな状況の違いはあるわけですが、大学としての基本的な条件は何なのか。その中で、立場の違う主体が高いレベルでガバナンスに関与できる体制を整備することが重要なポイントなのではないかと思います。

次に、先ほど、小林委員からAcademic Senateのお話がありました。私も昨年、UCバークレーにしばらく滞在して、高等教育研究者や学内の教員といろいろ議論させていただきましたが、大学運営を語る上で非常に大事な組織である。しかし、日本では、これまでほとんど紹介されてこなかったと思います。私もこのあたりに着目して、複数の、タイプの異なる大学を調査対象にして現在研究を進めております。

下のところに数字を少し出しておきましたが、これは、南カリフォルニア大学の高等教育研究センターの調査で、ほとんどの大学にこういった組織が存在しているということです。

次の6枚目のスライドは飛ばさせていただきます。次の表も南カリフォルニア大学の調査に基づくデータですが、先ほど小林委員から別のデータソースの御紹介がありましたが、内容としてはほぼ同じようなものです。こちらのほうは研究大学とはタイプの異なる大学が調査対象に入っていますが、やはり学士課程カリキュラムというところがSenateの一番重要な役割だということです。

次の共同統治、Shared Governanceのところも、今、小林委員からお話がありましたが、スライドの下のほうの内容を補足させていただくと、よく教員のガバナンス参加ということを論じるときに、教授会自治という理解のされ方をするのですが、私の理解では、Shared Governanceという概念と日本でいう教授会自治とは少し異なるのではないかということです。

二つほどありまして、Academic Senateというのは全学的な観点からなる管理組織です。学科の中にはそれぞれの管理組織があり、学部の中にもある。それらをさらに補完する形で、全学レベルでの教員による管理を行う。そういう組織であるということです。それから、意思決定はあくまで共同で行われますので、評議会の決定というのはもちろん重要なのですが、最終的にはアドミニストレーションとの共同で意思決定が行われるということです。

それから、我々の調査は、特に教学のところに焦点を当てるということでしたので、学士課程カリキュラムについて、このSenateがどういう役割を果たしているか。次のスライドですが、今の小林委員の資料の中にもありましたとおり、学士課程教育とか、カリキュラムを担当する専門の委員会があります。次に書きました学士課程担当オフィスがアドミニストレーション側で、多くの場合、バイスプロボストが長を務めているわけですが、常にそことの連絡や相互の調整を行っています。

先ほどのお話にもあったようにプロボストであったり、バイスプロボストであったり、あるいはオフィスの担当職員が職権上の委員としてSenateの委員会に参加している場合も非常に多い。そこで教員間の議論を交わしつつ、アドミニストレーションとの意思疎通も図ることができるということです。

それから、学士課程関係の専門委員会は、例えば科目を新しくつくったり、プログラムをつくったり、大幅な変更をしたりする場合には、全学レベルでの委員会でチェックをかけていくということです。ただ、学科の専門家集団としての意見は基本的には尊重されます。しかし、こういった全学レベルでのチェックを重ねることで、全体としてのすり合わせを行います。あるいは、こういった仕組みがあることによって、学科から、全学でのチェックに耐えうるよう、きちんと質の維持された提案が出てくるということにもなります。基本的に科目の内容は、それぞれの専門家集団である学科、あるいは教員にかなりの程度任されています。

こういう全学委員会で何をやっているかというと、科目の内容を逐次チェックするというよりは、授業が適切な形態で行われるかどうか、あるいは単位数にふさわしい学修量がきちんと確保されているか、あるいは全学的に見たときに、他の科目との関係がどのようになっているか、類似の領域との重複がないかどうか、そういったところがチェックされるということです。

また、このチェックの際には、大学によって多少違うのですが、コースアウトラインというものが用いられる大学もあります。これは、単純に担当する教員が書く場合もあるのですが、学科レベルで承認を受けた上で全学に出される場合もあります。これが科目の内容を規定していく。つまり、教員が個人で科目の内容全てを決めるのではなくて、コースアウトラインで科目のおおまかな内容が担保された上で、さらにシラバスには教員が自分の授業の具体的内容を書き込んでいくという2段階でのやり方がとられているということです。

あと、私が調査した中での事例を後半のスライドにいくつか挙げていますが、こちらは資料として御覧いただければと思いますので、アメリカの報告はこれで終わります。

(秦由美子教授)

それでは、引き続きイギリスの事例を説明させていただきます。資料1と資料2を御覧いただきながら、パワーポイントを御覧ください。

ず、最初のパワーポイントです。イギリスには多様な大学がありますが、今回の調査では、それらを4つに分類いたしました。大学の対外的自律性の欄を御覧ください。大学の対外的自律性は、カレッジガバナンスから理事会ガバナンスに移行するに連れて弱くなっていきます。しかし、米国型と理事会ガバナンスを除き、大学はいまだ自律性と高度の自治を担保していると考えて結構かと思われます。

最後の理事会ガバナンスの大学につきましては、92年以前はポリテクニックとして地方自治体の管理自律性運営下にあった名残から、自律性とはほど遠い状態にあり、逆に産学連携に力を入れ、できる限りの研究用外部資金の獲得を目指しております。

次のパワーポイントの学長の欄を御覧ください。これは、学長及び副学長とお考えください。12年ほど前からですが、副学長以上の職につきましては、ヘッドハンティング会社を活用することが通例となってきております。

また、最後の教学支援職員の欄を御覧ください。これは、Key Organガバナンスと米国型ガバナンスを実施している大学では、スタッフディベロプメントも進んでおり、教学支援に前向きです。また、今次調査でも様々な職員に面談いたしましたが、カレッジガバナンスを行っておりますオックスフォードでは、既にSDも経験し、担当部署の豊富な経験を有した、また、自らも研究を行ってきたような人材を集めております。

それでは、次のパワーポイントを御覧ください。①、すなわちカレッジガバナンスの大学の教育の質の維持のための支援体制といたしましては、どの大学も独自の学位授与機関である大学が、高等教育資格枠組みを参照しながら、学士課程、修士課程、博士課程それぞれのカリキュラムを決定しておりますが、学位の水準と教育の質の担保にはQAAとは異なり、毎年、大学独自で学外試験委員による報告、内部試験委員による学生のアウトカムの詳細な報告、また、6年ごとの学科単位での審査委員会によるレビューが実施されているという、この三重構造が教育の質の担保に重要な機能を果たしております。

訪問しましたオックスフォードでは、ちょうどビジネススクールのレビューを終了したところでして、そこでは学外試験委員としてハーバード大学の名誉教授・学部長、バージニア大学の学部長、ロンドンビジネススクールの教授などが招かれまして、国際的な水準が維持されているかどうかというものが審査されていたということでした。

そして、最後のスライドですが、⑤の理事会ガバナンスの大学の教育の質の維持のための支援体制としましては、それ以外の大学と同様で、質の保証のための取組がなされているということが一言でまとめられると思われます。

(大場淳准教授)

次いで、フランスですが、ごく簡単に説明させていただいて、まとめに入りたいと思います。

フランスの特徴の一つは、学長が管理運営評議会によって選考されることで、学内の構成員の代表で構成される評議会が意思決定の中心をなしているということであります。その決定を受けて学長が大学全体をまとめていく、そういった役割分担があることがフランスの特徴の一つになります。

フランスの大学の教育については、基本的に大学教育自体が国に直接統制されていて、プログラム自体も4年か5年の有効期間しかありません。高等教育が公役務として位置付けられておりますので、国が統制を強く行っている、そういった制度のもとの大学ガバナンスになります。ですので、大学のガバナンスの在り方の大枠自体は国で決められていますが、反面、各大学の特徴を反映して、様々な在り方も見られていることがわかっております。

最近の変化としては、大学教育自体が部局単位であったのが、教育チームといった形で部局の横断的な取組も見られますが、基本的には学部的な組織の自治体制が強く、それを基礎として大学運営がなされているということであります。

まとめに入ります。大学は、異なる学問分野から構成される、非常に部局の独自性が強い組織です。しかしながら大学の社会的な責務、アカウンタビリティーはどこの国でも問われていて、部局の協力を取り付けつつ、それをどのように果たしていくか。そこに学長をはじめとする大学の執行部のリーダーシップが問われます。

ですので、このリーダーシップの中身というのは、先ほどの上山教授の言葉をかりれば、なだめすかすとか、いろいろな配慮を行う、こういった内容になるのではないかと思います。学長の権力、権限という観点から見ると、日本の大学、特に国立大学の学長は大変強い権限を持っていますが、調査対象の3国ではそこまで強い権限は必ずしも持っていない。学内でいかに調整していくか、学内の緊張関係をいかになくしていくかということが学長の役割になっているように思います。

アメリカの場合ですと、小林委員から話があったようにサポート体制がしっかりしている。イギリスは、それに準じた形になりつつあるというものの、フランスについてはそれがない。もっともアメリカの場合、サポートシステムに相当人件費がかかっていて、非常に高コストな体制ということがわかります。

ですので、経営でも教学についても同様ですが、大学のガバナンスの在り方は非常に多様であります。先ほど小林委員からお話があったとおり、いろいろな調査結果から見ても、ガバナンスの公式な在り方、組織の在り方、あるいは権限の配分の在り方とパフォーマンスとは直接関係がありません。いかに組織文化的な見えないところを明らかにするか、大学のどういった在り方が望ましいかということを考えていくことが、望ましいガバナンスの在り方を考える上でこれからの研究課題であろうかと考えている次第です。


【質疑応答】

(中西委員)

今、大場准教授にいろいろ御説明いただいたのですが、特にアメリカとフランスを比較してどういうことが言えるかということをお伺いしたいのです。

今もおっしゃったようにアメリカというのは、どちらかというと、多様性はありますが、東にあった大学に追いつこうとして、カリフォルニア大、西のほうは科学を中心に大変発展してきたので、どちらかというと研究面が多くて、教育もしていますが、研究面ということからのガバナンスがものすごく大きく出ていると思うのです。それと比較しましてフランスは、大学は教育が多くて、研究は研究所というように、割合分かれているところがあると思うのですが、多様性といいながら、アメリカもカリフォルニアのほうはどちらかというと研究大学の色彩が強い。

そういうところから見ますと、英国、フランスと御覧になってきたわけですが、フランスのガバナンスはアメリカと比較して、特に教育ということに力を置いたガバナンスの特徴というのを私、聞き漏らしたかと思うのですが、ちょっと御説明いただければと思います。

(大場准教授)

その前に林委員のご質問の第3点目、私のほうから若干お答えさせていただいて、それから今の質問のほうをお答えしたいと思います。

日本と欧米を比べた場合に、やはり日本の学生というのは中等教育の卒業資格を国家が認定していないということから、入ってくる段階から大分差があるということが1点です。これは、相当に大学教育を左右しています。アメリカは、そういった点では全入学はあるのですが、アメリカの大学はたくさん落第させます。日本の場合は、経営の問題もあって、現実的に落第は大変難しい。そういった中で学生を縛りつけるものがないという問題、さらには就職の問題があって、欧米の場合には学位を取ってから就職活動を始めますので、それに向かって勉強するモチベーションが高い。

ところが、日本の場合には早ければ2年生、あるいは3年生の初めから就職活動を始めて、勉強に対するモチベーションが下がる、後は4年生で卒論を何とかやる状態です。日米比較した場合に、勉強時間は1年生、2年生ははるかに少ないのですが、4年生になると日本のほうが多くなるという状況が見られるということで、やはり勉強に向けたモチベーションが低いことが大学の教育を大分左右しています。ガバナンスの問題もあるのですが、そのあたりを改善していくほうがずっと効果が高いのではないかと私は思っています。

次にアメリカと比較してフランスの話とのことですが、フランスにおいて研究と教育が分かれているのは、研究振興機関、例えばCNRSとかINSERMといった特別な研究支援・推進組織があって、そこが大学の中で研究員を雇って、大学の中に配置しているといった仕組みがあるからです。研究員が大学内で研究をやっているといった、大学と別の系統の者がいるということが大学のガバナンスに大きな影響を与えています。そういった研究員の威信は大学教員より高くて、教育にはあまり従事しない、せいぜい従事するのは研究に直結する博士教育だけです。大学の中での両者間での意思統合が非常に難しいという問題がずっと意識されていて、なるべく大学内で統合していこうという動きが近年見られています。

その背景には、大学ランキングを上げていくことがあり、政策の課題になっています。大学外に雇われている教員の研究業績はランキングにあまり反映されないという問題もあって、そういった下心もあるのですが、大学の中に入れていくという政策がとられています。

ただ、大学のガバナンスの観点から言うと、大学全学として教育をいかに改善していくかというのは、あくまでもアカウンタビリティーの観点から、特にフランスの場合には政府からの要求が強く、大学の予算の7、8割は政府からの予算ですので、政府の意向を反映するという形での対応が中心になります。やはり部局と執行部との対立関係というのはフランスもアメリカと同様にあるわけで、これをいかに解消して対応していくかというのが執行部の課題、学長等のリーダーシップの問題であろうかなと思っています。


2012年8月1日水曜日

教学マネジメントの現状と課題(2)

第二回目は、小林雅之東京大学大学総合教育研究センター教授です。資料と照らし合わせながらお読みいただくと理解が深まるのではないかと思います。

資料「アメリカの大学のガバナンス-カリフォルニアの事例を中心に-」


私は、資料にありますように先導的大学改革推進委託事業という形で、広島グループのほうにも関わっておりますが、それ以外に、私たちのセンターで行っている東大-野村プロジェクト、あるいは国立教育政策研究所との合同プロジェクトというような形でアメリカの大学のガバナンスを調査しております。それ以外にも幾つかの大学のカバナンスを調査しておりますが、今回は主としてカリフォルニアの大学の事例だけに限定させていただきます。必要に応じて、他の大学については事例的にお話しいたします。

今、上山教授からパッションにある理念が語られましたが、私は、研究者として、逆にできるだけ冷静に客観的に考えていきたいと思っております。できるだけデータを提示するという形で、皆さんに考える素材を提供するという立場に自己を限定したいと思っております。

資料の2ページ目にありますように、調査対象大学は、カリフォルニア大学のシステム、これは、10のキャンパスを統合する全体のところで、ここに先ほど上山教授がおっしゃられたOffice of Presidentがありまして、そこのプロボスト等に話を聞いてまいりました。

それから、バークレー、それから一番新しいカリフォルニア大学のキャンパスであるMerced、それから、私立研究大学であるスタンフォード大学、私立女子大学のMills Collegeというようなところを訪問調査いたしました。

これだけ見ていただいても、アメリカの高等教育は多様性が非常にあるということがわかります。これは、アメリカの高等教育を語るときに第一番に言われることでありまして、非常に多様性がある。言いかえれば、機能別に分化しているということであります。ですから、一般化することは非常に難しい。必ず反例が挙げられると考えていただいたほうがいいかもしれません。そのために今回も、各種の調査の結果を幾つか御紹介したいと思っております。

まず、アメリカの大学のガバナンスを語る上で非常に重要なことは、ある意味では当然のことなのですが、ミッションと目的とコアバリューというものが非常に明確になっているということです。ミッションというものを立てまして、大学の置かれたコンテクストを研究して、そこで目的とコアバリューを決定する、全学の合意形成を図っていくという意思決定過程が明確になっているということです。

具体的に言いますと、私の大学はこういう大学だから、こういう方向を目指すということで、ボートをこぐときに、違う方向にオールをこいでしまっては船が動かないというようなことがありますので、そこの合意形成を目指すことがガバナンスの一番の目的になっているわけです。

そのことを端的に示すのがシェアド・ガバナンスという言い方でありまして、これは、理事会と執行部と教員の中で、それぞれ役割、権限、意思決定過程というものを明確に規定しているということであります。

理事会は、ガバナンスを担当するものであって、これは長期的な視野に立つものであります。これは、5年、10年、あるいはもう少し先を考えることが使命でありまして、いわばマネジメントを支える存在です。それに対して執行部のほうは、具体的なマネジメント、短期的な視野で行うという、日常的なルーティンワークに近いようなことを行うのが執行部であります。

日本の場合、大学経営といった場合、ガバナンスとマネジメントは、実は明確に区別されずに使われていることが大きな問題だろうと思います。

それに対して教員は、教学面についてはほぼ決定権を持っておりますが、形の上では理事会から委任される、権限移譲される、承認されると形は様々です。

ガバナンスとマネジメントについて、そこにコーネル大学の前学長のローズの言葉を書いておきましたが、これは、今申し上げたことなので、後で読んでいただければと思います。

ただ、このように明確といいましても、実際にはどうしてもグレーゾーンというのは残ります。例えば、資料にありますように、新しい学部をつくるというのはガバナンスのことですが、学年暦をつくるという話はマネジメントの話になります。しかし、その間に、建物をどうするかというようなことになると、どちらにも属するような問題でグレーになるということもあるわけです。

理事会について簡単にお話ししておきますが、日本ではなかなか理解されていないと思いますので、実は理事会についても選挙されるか、指名されるか、大学によって大変異なるわけです。フロリダの公立大学に関して言えば全部指名ですし、ミシガン大学では州民による選挙を行っております。プリンストン大学では、同窓生と理事会がそれぞれ選挙を行うと同時に、知事が理事を指名するというような形で、非常に多様性に富んでいるわけです。

特にミシガン大学は、こういう選挙を行うというのは、大学は3権に並ぶ第4権と言われておりまして、それだけの独立した力を持っているということで、カリフォルニア大学もこれに近い存在です。

以下、カリフォルニア大学の例をそこに挙げましたが、18人の知事の任命理事と、7名の自動選出理事という形で、それ以外に学生代表が入るということです。

州立大学の理事は、一般的に言いますとステークホルダーの代表者という形が多いわけですが、私立大学の場合には同窓生が多く、あるいは寄附の関係者が多いという特徴があります。

理事会の役割は、何よりも学長を選び、それを支持する。その学長を評価するということです。学長を評価するということは、学長を選んだ自分たちの理事会を評価するということでもあります。具体的には、そこにありますような幾つかの作業を行うわけですが、理事会は守護神と言われているわけで、大学を守る存在であるわけです。

大学の理事会と企業の役員会の相違ですが、先ほど上山教授からありましたように、大学の目的というのは、教育・研究、社会サービスと非常に多様ですから、簡単に利害の一致を見るのは非常に難しいわけです。企業のように利潤追求という一つの目的があるわけではありません。

もう一つ大きな違いとして理事は素人です。大学経営に関しては素人でありまして、企業経営者のような専門家ではないわけです。しかも、無給で兼業でありますから、多くの時間や労力を大学のガバナンスに割けるわけではありません。公立でも年に4回~6回ぐらいしか理事会はありませんし、私立でも6回~12回程度です。

したがって、理事会を支えるインフラやツールが非常に重要になってくるわけです。下に理事がどのような形で選ばれるかという例を一つの調査から挙げておきましたが、これは、研究大学に限定した場合です。研究大学における理事の選出方法で、先ほど申しましたように、私立の場合には理事による選出、つまり、理事が理事を選ぶという形式ですが、公立の場合には、知事や州の機関による選出と非常に明確に異なっております。

それから、執行部、Administrationに関してですが、これは、日本でも知られているように総長、あるいは学長は理事会の任命であります。ただ、注意していただきたいのは、学長は、選考委員会、あるいはサーチ委員会と言われるところで実質的には決定されているわけで、恣意的に選出されているわけではありません。

そういう形で、理事会と学長が相互の信頼関係をつくっていくことが一番重要な作業でありますし、当然、いつもうまくいくわけではなくて、緊張関係に陥る場合もあるわけです。

それから、副総長、副学長、プロボストといったようなAdministrationを支えるキャビネット、内閣の存在があり、内閣は総長、学長が任命するという形式をとります。プロボストについては、日本であまり知られていませんが、教務担当副学長と訳されることもありますが、実質的には学長に近い存在でありまして、予算と人事、学内のことは全て握っている場合が多いわけです。その人事の一環として学部長を任命することになります。この場合、日本と違うのは、学部長クラスまで学外者が任命されることが非常に多いということです。

それに対して学科長は、形式的には学部長が指名するわけですが、実際には持ち回りで決めたり、選挙で決めたりというようなことで、学内者が選ばれることが多いようです。

それに対しまして教員の側ですが、これは、セナットと言われるものを形成しております。アカデミック・セナット、あるいはファカルティ・セナットという言い方をします。セナットが教学面についてのあらゆる権限を有していると考えていただいていいと思います。

セナットの代表者は、理事会に選挙権を持たない、あるいは選挙権を持つメンバーとして加わることが普通です。逆にカリフォルニア大学の総長と副総長は、セナットのメンバーに入っています。こういう形で相互に乗り入れをしているということです。重要なことは、セナットの下に多くの委員会がありまして、これが実質的に大学を動かしているということであります。

資料にカリフォルニア大学のセナットの例をつけましたが、14ページ目のほうが理事会の委員会です。注目していただきたいのは、同じようにEducational Policy、教育政策の委員会というものを両方とも持っているということです。

実際に15ページ目のところに、それがどのように違うかということを示しておきましたが、これを見ておわかりのように、全学的なことについては理事会の委員会、それについて具体的に動かしているのがアカデミック・セナットの委員会という役割分担ができているわけです。予算についても同様です。

このようにお断りをしておきますと、カリフォルニアというのは、シェアド・ガバナンスの考え方が非常に強いところであると知られておりますが、ほかの州についてもある程度当てはまると考えていただければと思います。

実際に例えば一つの調査ですが、先ほど申しました研究大学で教員がどの程度の意思決定ができるかというような調査があります。17ページを見ていただきますと、カリキュラムの決定とか、学位要件の設定というのは8割~9割できるわけですが、セナットのメンバーシップ、それから、キャンパスのガバナンスにおける教員というのは、少し文字が切れておりますが、これが実際にキャンパスのガバナンスの意思決定にどの程度関与できるかということです。

むしろこれから申し上げたいことは、先ほど申しました具体的にこういったガバナンスとかマネジメントを支えるツールがたくさんあるということです。例えば権力のチェック・アンド・バランスということが非常に考慮されておりまして、一方で、政府からの自律性を保証する。他方で理事長や理事会、学長の恣意的な意思決定や活動を制限するということをやっております。

その一つの例が任期でありまして、カリフォルニア大学の理事の任期は12年です。これは、知事の任期が4年ですから、はるかに長いということで、違う知事によって任命された理事によって構成されているわけです。これによって政府からの相対的な自律性を獲得しているわけです。

他方で、先ほど言いましたようにセナットのほうに学長、副学長が加わっているということで、教員についても恣意的に一方的な決定をすることはできないようになっているわけです。

それから、先ほど申しました委員会という仕組みがありまして、選考委員会というものが実質的には学長や理事、あるいは主な教員を選考している場合もあります。その中に教員の代表も加わっているわけです。

さらに、特に学長の選考になりますと、外部のサーチ会社がありまして、そこに学長の候補者を何人か選んでいただくということをしております。これは、例えば世界の中で学長を探すということになると、当然、大学の能力を超えるわけでありまして、サーチ会社が行っているということで、先日、香港に行ってきたのですが、香港理工大学でも全く同じように、世界中から学長候補を探すためにはサーチ会社を使わざるを得ないということを言っておりました。

2番目の仕組みといたしまして、理事は素人ですので、ガイダンスとか研修が非常に盛んに行われております。理事会を支えるために多くのスタッフがおりまして、カリフォルニア大学で言いますと1,500人のスタッフがいるわけです。セナットについても、バークレーのセナットだけでもスタッフが7名おりまして、これが実質的に活動を行っているわけです。

もう一つ大きな仕組みといたしまして、多くのレビューがなされております。学長自身がレビューされるわけでありまして、これは、いろいろなケースがありまして、非公開、非定型の場合もあります。ただし、テンプレートといいますか、ある程度決まった書式がありまして、それに書き込むということをやっている場合もあります。注意していただきたいのは、評価するのは理事会が自ら選んだ学長をサポートするために行うわけでありまして、決して批判するために行うわけではありません。

それから、同じようなことで、それぞれの教育プログラムのレビュー、あるいは教員のレビューというようなことも行われるわけです。ただし、理事会自体のレビューというものは非常に難しいとされています。

それから、理事と教員の交流を図るような機会を設定したり、理事と教員の協働作業というものを設定するということで、20ページには、学長の評価にどのような人が参加しているかということで、見ていただくとわかりますように、例えば学生とか、コミュニティとか、様々なステークホルダーが参加していることがわかります。

交流機会についても、グラフがちょっと読みにくいかもしれませんが、上から2番目にはサーチ委員会に参加していることを示しておりますし、下のほうでも学長のサーチに相当の割合で理事会と教員が協働していることがわかります。

最後になりますが、23ページのところで、小道具といいますか、様々なツールがあります。例えば戦略的計画というものがアメリカの大学で多くつくられるわけですが、これが先ほど上山教授からありました、長期的な視野を持つために長期的な計画を立てます。もう一つは、大学全体を一つの方向に向けて合意形成するために戦略的計画をつくっていくわけです。日本の計画というのは、総花的で、たくさんの項目を挙げますが、5とか10ぐらいしか目標は立てられません。その優先順位もついているのが普通です。非常に明確なわけです。

それから、インスティチューショナル・リサーチというもので、最近、日本でも紹介されるようになりましたが、大学の情報を共有したり、客観的な分析を行っている、こういったものも非常に大きなツールになっているわけです。あるいは、大学のベンチマークも同じようなツールです。

アメリカの大学について分権化とか、集権化という言い方をよくされますが、現実の問題としては、どちらでもないと考えるべきだろうと思います。もちろん大学によって大変違いますが、実際の構造は大変ハイブリッド構造です。集権化できるところは集権化するし、そうでないところは分権化するということで、例えばスタンフォード大学のベンチャーのやり方というのは、非常に大きな予算を下のほうで動かせるという仕組みをつくっております。それから、多くのステークホルダーが関与するような仕組みもつくっているということです。

私が本日一番申し上げたかったのは、アメリカの大学というのは全体像をつかむのは難しいわけですが、こういった様々な仕組みがありましてガバナンスが行われているということ。日本にとって、こういった仕組みを十分に整えることがこれから重要になってくるのではないかということです。


【質疑応答】

(有信委員)

小林委員に質問なのですが、アメリカの例で例えば理事会が学長を選ぶときに、結局、選ぶということは理事会が学長に対して具体的な役割、権限を委託するということがガバナンスの観点からすると一番重要なことになるわけで、それに対して選ばれた学長は委託された役割、権限をそのとおりに実行する責任を理事会に対して負うという構造になるわけです。

ですから、そこの部分の関係が具体的に明確になっているのか。あるいは、ある意味でアメリカの中では、常識的に学長の役割、権限というのは明確になっているのかという点について、もしおわかりであれば教えていただければと思います。

(小林委員)

今の御質問に対してですが、両方あると思います。つまり、ある程度常識的にわかっている部分というのは当然あります。それ以外に様々な法や規程で学長の権限というものは規定されておりますので、その面では明確になっていると思います。

日本との違いは、日本の場合には非常に抽象的に学長の権限というものを書いていると思いますが、アメリカの場合は幾つかの規則、あるいは今言いました常識というものを活用して、ある程度明確になっているところが一番違うかと思います。

(有信委員)

一番重要なところは、むしろ権限というと、それを制限する側の観点になるわけですが、ガバナンスという観点から言うと委託された権限を実行して目的を達成しなければ、いわば責任を果たしていないということになって、学長を首にすべきだというぐらいのことになるはずなのです。ですから、その辺の感覚がちょっと違うのではないかという気がするのです。

(小林委員)

まず、理事会が選んだ学長については、それを首にするという権限は持っております。これは明確です。ただし、それはまれにしか行使されないわけです。今、有信委員が言われたことですが、言葉としては非常に様々な言葉が使われまして、これは私もそれほど詳しくわかるわけではないのですが、権限移譲という言い方もされますし、承認という言い方もされますし、様々な言葉で語られますが、それぞれの大学の中で規則として明確に書かれていることは事実です。ですから、そういう意味では明確になっていると思います。

(北城委員)

小林委員に御質問したいのですが、学長の選考に関してサーチ委員会がつくられると書いてありますが、このサーチ委員会の構成はどのようになっているのかということと、それから、学部長は総長、学長の任命、プロボストによる選出と書いていますが、この学部長の任命についてサーチ委員会のようなものが使われているのか、あるいは日本のように教職員の選挙とかが行われるのかということで、カリフォルニア大学の例でも結構ですし、あるいはカリフォルニア大学とスタンフォード大学と両方わかれば、教えていただきたいです。

(小林委員)

まずサーチ委員会ですが、これは、それほど大きな委員会ではありません。大体理事がメンバーです。それから、カリフォルニア大学の場合では、それに教員の代表が加わるということでできておりまして、詳しい構成につきましてはメンバーが公表されておりますので、それを調べればどのような理事が入っているかということまで、全てわかります。今、そこまで詳しいものは手元に持っておりませんが、いずれにいたしましても理事で構成され、それに教員の代表が加わっている形になっております。

学部長に関してですが、実質的にはプロボストが選ぶ形ですが、当然、プロボストも学内の全部の人間を知っているわけではありませんので、サーチ委員会が大きな役割を果たすことになります。

選挙が行われるかどうかということですが、私が調べた限りでは、学部長レベルに関しては選挙はありません。学科長に関しては選挙があると聞いていますが、学部長については選挙で行っているとは聞いておりません。