2012年10月22日月曜日

言葉というもの

最近日常生活で聞く日本語に唖然とすることが多い。

例えば、「ワタシ的には」、「文部科学省的には」という「的」の使い方である。二十代の部下から言われ新人類の言葉かと思っていたが、五十過ぎの同僚までこう言うので驚いている。「私は」というのを婉曲に言いたいのだろうか。それとも英語の”as far as I am concerned”のような調子で、自分の見解だということを強調したいからだろうか。日本人の心性からして多分前者かと思うが、よく分からない。確か柳田國男が何かの文章で「最近の人はやたら『的』を使う。『悲愴的』などと言われると虫唾が走る」と書いていた。柳田翁は天国で現在の「的」をどう見ておられようか。

もう一つの例は、ファストフード店、コンビニエンスストア(それにしてもカタカナというのはなんと我々の語彙を豊富にしてくれるのだろう!)等で聞く「これでよろしかったでしょうか」という対応である。昔なら「これでよろしゅうございますか」と言うところなのだが。恐らく、多国籍企業の顧客マニュアルあたりにある丁寧表現の”Would it be suitable for you?”を過去形に誤訳したからではないかというのが筆者の推測。

さらに、東日本大震災後よく聞く「元気をもらいました」「力をもらいました」という言い方。以前ならば「元気づけられました」「力づけられました」と言ったところだが、最近は元気や力はもはや我々の内にはなく、授受の対象になったかのようである。もっとも、これには大震災の惨禍とそれにもかかわらず努力する人々への応援の気持ちが背景としてあるのかもしれない。

言葉は時代と共に変わる。しかし言語の規範性を担保しておかないと、一部の者しか分からぬ表現が横行することになりかねない。その意味で国語政策は重要である。正確な言葉の使い方についての啓発パンフレットや、ウェブサイトを作ったらよいのである。表現の自由は重要だが、誰もが理解できなければコミュニケーションの手段としての言語の役割を果たせない。また、言語は我々の思考方法を規定し条件付けるのだから、明晰な思考のためには厳密な言語の使用が求められる。

言語の使用法に注意しなければならないのは、マスコミの脚光を浴びる人たちのみではない、我々一人一人なのだとワタシ的には思う。(出典:文教ニュース「文部科学時評」 第2210号 平成24年10月15日)