2012年11月28日水曜日

親父のほほえみ

魂が震える話」というメルマガ(ブログ)から。感じ方は人によって違うと思いますが、私は泣きました。



父親のお弁当

小1の秋に母親が男作って家を出ていき、俺は親父の飯で育てられた。

当時は親父の下手くそな料理が嫌でたまらず、

また母親が突然いなくなった寂しさもあいまって俺は飯のたびに癇癪おこして大泣きしたりわめいたり、

ひどい時には焦げた卵焼きを親父に向けて投げつけたりなんてこともあった。

翌年、小2の春にあった遠足の弁当もやっぱり親父の手作り。

俺は嫌でたまらず、一口も食べずに友達にちょっとずつわけてもらったおかずと持っていったお菓子のみで腹を満たした。

弁当の中身は道に捨ててしまった。

家に帰って空の弁当箱を親父に渡すと、

親父は俺が全部食べたんだと思い涙目になりながら俺の頭をぐりぐりと撫で、

「全部食ったか、えらいな!ありがとうなあ!」

と本当に嬉しそうな声と顔で言った。

俺は本当のことなんてもちろん言えなかった。

でもその後の家庭訪問の時に、担任の先生が俺が遠足で弁当を捨てていたことを親父に言ったわけ

親父は相当なショックを受けてて、でも先生が帰った後も俺に対して怒鳴ったりはせずにただ項垂れていた。

さすがに罪悪感を覚えた俺は気まずさもあってその夜、早々に布団にもぐりこんだ。

でもなかなか眠れず、やっぱり親父に謝ろうと思い親父のところに戻ろうとした。

流しのところの電気がついてたので皿でも洗ってんのかなと思って覗いたら、親父が読みすぎたせいかボロボロになった料理の本と遠足の時に持ってった弁当箱を見ながら泣いていた。

で、俺はその時ようやく、自分がとんでもないことをしたんだってことを自覚した。

でも初めて見る泣いてる親父の姿にびびってしまい、謝ろうにもなかなか踏み出せない。

結局俺はまた布団に戻って、そんで心の中で親父に何回も謝りながら泣いた。

翌朝、弁当のことや今までのことを謝った俺の頭を親父はまたぐりぐりと撫でてくれて、俺はそれ以来親父の作った飯を残すことは無くなった。

親父は去年死んだ。

病院で息を引き取る間際、悲しいのと寂しいのとで頭が混乱しつつ涙と鼻水流しながら

「色々ありがとな、飯もありがとな、卵焼きありがとな、ほうれん草のアレとかすげえ美味かった」

とか何とか言った俺に対し、親父はもう声も出せない状態だったものの微かに笑いつつ頷いてくれた。

弁当のこととか色々、思い出すたび切なくて申し訳なくて泣きたくなる。


2012年11月27日火曜日

大学情報公開の現状と課題(2)

川嶋太津夫(神戸大学教授)さんが書かれた「教育情報公表の現状」(IDE-現代の高等教育 No.542  2012年7月号)を抜粋してご紹介します。


2 教育情報公表の課題

平成22年6月に文部科学大臣政務官名で出された学校教育法施行例の一部改正の通知文書によれば、改正の趣旨は「大学等が公的な教育機関として、社会に対する説明責任を果たすとともに、その教育の質を向上させる観点から、公表すべき情報を法令上明確にし、教育情報の一層の公表を促すこと」である。

しかし、教育情報の公表の現状を見る限り、社会に対する説明責任も質の向上への効果も道半ばの感が強い。特に、今回対象とした国立大学の現状には、筆者自身が国立大学に勤務している当事者として強い不満を感じざるを得ない。公立大学は、「教育情報公表ガイドライン」をいち早く策定し、各大学ウェブのトップページの分かりやすい場所に、同じフォーマットで教育情報を公表することとし、すでに実施するとともに、公立大学協会のウェブから各大学の教育情報の公表サイトへのリンクを張っている。「国民への約束」として機能強化を謳う国立大学こそ、率先して国民への説明責任を果たすべきであろう。

最後に、設置形態に関わらず、教育情報の公表をめぐる課題を整理して、小論を終えることとしたい。

第一に、今回の改正の趣旨のポイントは、「公開」ではなく「公表」にある。公開は、「情報公開」と言われるように、情報を必要とする側が情報を利用できる状態にしておくことである。たとえば、学生による授業評価の報告書を図書館の参考図書コーナーに置いておけば「公開」したことになる。評価結果を知りたいと思う人は、図書館に行けば情報を入手できる。言い換えれば、図書館に行く人だけが情報を得ることができ、図書館に行かない限り情報を入手できない。それに対して、「公表」とは、その情報を必要とするかどうか に関わらず、世間に発表し、広く周知することである。つまり、情報を有する側が、積極的に情報を提供することが「公表」である。このように考えると、多くの大学の現状は、「公表」には程遠く「公開」の状態に止まっている。

第二に、受験生、保護者、企業などのステークホルダーが求めている「情報」とは何であろうか。法定の情報はステークホルダーの希望を満たしているのであろうか。たとえば、保護者や受験生が必要としているのは、就職者数や就職率といった単なる「データ」ではなく、就職先が大企業なのか、中小企業なのか。大学の地元の企業なのか、それとも東京なのか、といったより具体的な情報である。また、なぜ、A大学は、他の大学より中退者が多いのかについての「説明」であり、就職率は、何を意味するのか。どのように算出されるのかについての「知識」である。現状は、せいぜい「データ」の公開に止まっているのではないだろうか。

第三に、これまでも何度も指摘してきた、3つのポリシーと教育情報公表の義務化との関係の曖昧さが依然として存在する。アドミッション・ポリシーの公表は既に義務化されているが、ディプロマ・ポリシーとカリキュラム・ポリシーについては、公表は制度化されていない。これについては、国あるいは大学団体での検討が必要であろう。

それに関連して、第四に、教育情報の「比較可能性(標準性)」の要求と大学の「機能別分化(個性)」の強化をどのようにして折り合いをつけるのかという問題がある。現在、一覧性や比較可能性を重視した「大学ポートレート(仮称)」の構築が検討されているが、このシステムによって、比較可能性は実現されるかもしれないが、教育情報の公表について、機能別分化(個性化)の観点からどのように実現していくのか。この点は、米国での大学団体ごとの教育情報の公表の取組が参考になるであろう。

最後に強調したいのは、教育情報の「公表」は、教育機関に本質的に存在する「情報の非対称性」を解消するためには不可欠の要素だということである。学生は、実際に大学に入学し、教育を受けてみないと、その大学の教育の質の評価ができない。その意味で、経済学では教育は「経験財」と位置付けられる。特に、高等教育は、高額の費用を必要とする。100万円以上の入学金と授業料を支払って、入学してみたところ、その大学の教育に満足できないからといって、すぐに他の大学に再入学することはできないし、一度支払った入学金や授業料は戻ってこない。受験生ができる限り適切な進路選沢を可能にし、大学間で公正な競争を促すためには、各大学がその教育活動について、正確で適正な情報を積極的に公表することが避けては通れないのである。

2012年11月26日月曜日

大学情報公開の現状と課題(1)

黒田壽二(金沢工業大学学園長・総長、日本私立大学協会副会長、中央教育審議会大学分科会大学教育部会副部会長)さんが書かれた「日本における大学情報公開の理念と展開」(IDE-現代の高等教育 No.542  2012年7月号)を抜粋してご紹介します。


1 大学の情報開示を求める社会的背景

社会は情報化時代になり、国際化、グローバル化の急速な進展により社会活動のあり方が大幅に変革してきた。国内では少子化、高齢化が深刻さを増している。そのような中で大学の教育研究活動も大きな改革を求められるようになり、平成3年に始まった大学設置基準の大綱化は数次に亘り実施され、各大学の画一化から多様化、個性化、特色化へと舵が切られた。このことにより大学が従来から社会一般に理解されていた大学像に大きな変革が起きてきた。もはや、大学の実態が社会から見えなくなってきたといっても過言ではない。同時に日本での少子化の影響も出始め、定員充足率が問われるようになり、一方では大学進学率は先進諸国に近づき50%を越え、所謂ユニバーサル段階の時代に至っている。大学は、「学生を選ぶ立場」から「学生に選ばれる立場」となってきた。このような時代には、大学自らが発する情報の質が重要な意味を持つようになる。

また、今回行われた教育基本法改正では、大学の項が設けられ、その第7条において、「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与する者とする」と規定された。また、学校教育法83条には大学の目的として、「大学は学術の中心として、広く知識を授けるとともに'深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。大学は・・・その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。」と規定され、大学は研究・教育に加え社会貢献が求められるようになった。一般社会活動の一つに大学が位置づけられ、これまでのような社会と係わりが希薄な「象牙の塔」的振舞いが出来なくなった。

2 大学教育改革の促進

前述した大学設置基準の大綱化や簡素化によって大学自身での改革が可能になったのを受けて、大学設置基準や学校教育法では、大学が自ら行う自己点検・評価の義務化、機関別認証評価の7年以内での受審義務化、教育情報公表の義務化及び財務情報公開の義務化が法的に規定された。国立大学法人や公立大学法人はもとより、特に学校法人では、経営の安定性・継続性をステークホルダーに分かりやすく示す必要性から、私立学校法上に、財務諸表、財産目録、監事の監査報告書、事業報告書の備付と公開の義務が規定された。各大学は大学経営の質を保証し、機能分化を図りながら教育の質保証・向上発展を自ら行うこととされたのである。いいかえれば、卒業生に与える学位に相応しい資質と能力(ラーニング・アウトカムズ)を保証するシステムの構築を促進し、大学経営業務の透明性やガバナンスの強化を図ることが求められるようになったのである。これらの法的改革は、大学自身の自己責任を追及し、多様化する社会、グローバル化する社会、予測困難な社会への、いち早い対応を促すことを狙いとしているものと考えられる。

不易流行という言葉があるように、大学は、大学としての新しい質を担保しながら何を守り、何を改革・改善していくのかを熟慮し、ことに私立大学においては建学の理念に基づく教育目的・目標を定め、どの様な人材を育成するのか、「学生は何を学び、何が得られるか」について、自ら社会や国民に訴え、理解を得なければ、多様に変化する中で埋没しかねない。大学の広報力も合せて問われる時代でもある。

3 大学教育情報開示の必然性

大学が機能分化を図っている現状において、大学は多様化し重層化が進展している。その中で各大学の持つ個性や特色の違いが鮮明になってきており、私が以前から提唱している、「富士山型大学群」、すなわち画一的方向を持たせ裾野を広げる手法から、「八ヶ岳型大学群」、すなわち各個別に目標を定めオンリーワンを目指す方向に、大学改革の舵は切られている。このことこそが多様化する社会に多彩な能力を持った人材を送り出す源泉であると考える。この様に考えれば、大学情報の開示の義務化を超えて、大学が自ら教育情報や財務情報の開示をしなければならない必然性がここにある。

もはや大学自身が情報開示の意義を考え率先して大学の営みを公開すべきであるが、公教育を担う大学のステークホルダーは在学生や保護者、卒業生、取引業者、国民一般、報道機関等々と多岐に亘り、一形式の公開内容で済むものではない。たとえば、学生募集のための情報公開とマスコミや社会・国民に向けた情報開示では、その内容や深度が違ってくる。国が求めている教育情報は、定性的なものから定量的なものまで多岐に亘るが、国としての統計情報の蓄積を必要としている観点から、大学の一覧性的側面をも考慮して規定されているものである。しかし、情報を必要としている対象者の求めに、大学は必ずしも的確に対応していない。大学は対象者と対峙しながら「誰が何を求めているのか」、その必要性と価値を分析し、正確・公正な情報を発信していかなければならない。その際、当然ながら大学の持つ負の部分の公表も求められることを理解し、信頼性・公正性の確保に努めることが重要であることは言うまでもない。

おわりに

大学の教育情報の公表を主体とした必然性について記述してきたが、日本の大学教育の約8割を担う私立大学が、社会の要請に応え、情報化やグローバル化の時代に相応しい「21世紀型市民」として多様な分野で先導的に活躍できる人材を育成していくことで、やがてそうした人材が、日本社会を支える原動力になることは間違いない。

私立大学が自らの持つあらゆる情報を社会に公表し、建学の精神に基づく教育の目標を示し、どのような人材を育てようとしているのかを、率先して世に問うことが大切であり、私立大学がそのように発展することこそが、日本にとって今もっとも重要なことである。

大学に公表が求められている教育情報の中には、中退率、留年率、就職率、進学率、S/T比など各種の数値がある。これらの数字は、時にはひとり歩きしてランク付けに利用される恐れがあることば否定できず、それに対する不安があって公表に疑問を呈する声も多い。しかしながら、それぞれの数値には結果に対する原因が存在する。その原因や理由を合わせて公表することで多くの誤解は解消され、大学自身にとっても、その分析は教育の質の向上に役立つことになる。大学は、ランク付けや悪用を恐れることなく正確で公正な公表をすべきであり、究極的にはそれが大学の発展につながることを理解すべきであろう。


2012年11月25日日曜日

大学改革を困難にしているものは何か(3)

前回に続き、黒木登志夫(日本学術振興会学術システム研究センター相談役、前岐阜大学長・名誉教授、東京大学名誉教授)さんが書かれた「大学は自らの力で改革できるか」(IDE-現代の高等教育 No.545 2012年11月号)を抜粋してご紹介します。



5 旧帝大はガバナンスの模範になっているか。

わが国の大学の中で、旧帝大系の7大学は圧倒的な存在である。しかし、大学のガバナンスという観点から見たとき、自ら改革を重ね、社会に開かれた新たな大学像を造るべく努力をしているであろうか。残念ながら、むしろ他の大学よりも遅れている点が少なくない。いくつかの例をあげてみよう。

東北大を除く旧帝大では、過半数に至るまで選挙を行い、学長(法人法には「総長」という呼称はない)を選考している。このため、学長選考に外部の意見が入る余地はなく、選考会議は形骸化している。東北大は、学長選考にあたり意向投票を排除しているように思われているが、実際には、教育研究評議会が意向投票を実施している。外部からの理事を置かず、文科省の移動官職を外部理事として扱っている旧帝大も、複数存在する。

部局の力、教授会の力が一番強いのも旧帝大ではなかろうか。部局の圧力のため、人事管理に関しても、いまだ定員制にしばられ、戦略的な人員配置のできない大学が少なくない。私が知っている限り、学長を初めとする執行部はみな改革に熱心であるが、部局の壁に妨げられ、ほとんど実行できないでいる。

旧帝大は、教育と研究だけではなく、ガバナンスにおいても他の大学の模範となって欲しい。

6 事務局は専門家集団になれるか

大学のガバナンスの中心となるのは、事務官である。事務がしっかりしていなければ大学は動かない。しかし、事務システムの制度改革は、まだほとんど手がつけられていない。ジェネラリストを養成するという方針によって、専門家が育たないのも大きな問題である。

法人化により、病院は企業的経営をせまられた。しかし、病院経営についてきちんとしたトレーニングを受けた事務官は非常に少ない。私が学長の時、病院経営専門の公認会計士を病院長補佐として、週の半分来てもらった。国立大学中第3位という巨額な借金(557億円)を抱えながら、病院が何とか経営できたのは、外部から来た専門家の力が大きかった。

英語で仕事ができるような事務官はほとんどいない。外国から招待状が来ても、日本語に直すようにいわれる。これでは、いくら国際化を唱えても、実行できるはずがない。世界トップレベル研究拠点では、英語を公用語としている。このため、英語のできる人でないと事務が務まらない。WPI拠点は、学内からそのような人を集め、さらに非常勤で雇用している。そのようなシステム改革を大学全体に広げようというのも、WPIプログラムの目的の一つである。

大学ガバナンスの中心となる事務官に対する教育の場がないことも大きな問題である。社会人の教育を一生懸命に行っている大学が、事務官の教育をおろそかにしているのは不思議な話である。

7 公立大学、私立大学のガバナンスの問題点

本稿は国立大学を対象にガバナンスの問題を取り上げた。公立大学、私立大学においても教授会、教員の意識は、国立大学とそれほど大きな違いはないのではなかろうか。加えて、それぞれには、それぞれの問題があるのも確かである。私が見聞きしたなかから、問題点を指摘しておこう。

公立大学のガバナンスの問題の一つは、事務官の資質である。自治体から公立大学に派遣されてきた事務官は、高等教育についてほとんど知らない。科研費も知らず、文科省のプログラムに申請しようとしてもノウハウを知らない。彼らの多くは、地方公務員の主流である本庁に帰る日をひたすら待っている。その点、国立大学の事務官は、高等教育の専門家であり、任せることができる。

私立大学の問題点は、時として、理事長と同窓会の力が強すぎることである。創立者、理事長一家の独裁となったり、同窓会が教授選考に口を出してきたりする。国立大学の学長は、法人の理事長を兼務している形であるが、本当の理事長は、文科大臣ではなかろうか。そのため、オーナーと言うほどの指導力を発揮することができない。同窓会は、学部毎にばらばらのため、全学同窓会まで発展できないでいる。

8 われわれは、3.11から何を学んだか

M9地震と巨大津波、それによって引き起こされた福島原発のメルトダウンは、われわれの意識、価値観に大きな影響を及ぼした。特に、原発事故では、ガバナンスに大きな問題があることが明らかになった。政府、電力会社、学会など原子力に関わる組織と人々の間の心地よい相互依存関係、外からの意見に耳を傾けない内向きの姿勢、危機に対する想像力の欠如などが相まって、人災といわれる事故を引き起こしたのだ。大学のガバナンスを考えるとき、3.11から学び、反省しなければならないことが多いことに改めて気がつく。(おわり)


2012年11月24日土曜日

大学改革を困難にしているものは何か(2)

前回に続き、黒木登志夫(日本学術振興会学術システム研究センター相談役、前岐阜大学長・名誉教授、東京大学名誉教授)さんが書かれた「大学は自らの力で改革できるか」(IDE-現代の高等教育 No.545 2012年11月号)を抜粋してご紹介します。



3 戦略的な予算と人事が実行されているか

私は、法人化の最大のメリットは、運営交付金に積算根拠がなくなった(つまり「袋」でくる)ことと、非公務員化により定員制がなくなったことだと思っている。「袋」でくる予算は、大学が自らの判断で戦略的に使える。しかし、その額が年々減っているため、戦略よりも大学を維持するのがやっとというのが現状である。これ以上予算が減ったときには、大学は教職員をカットし、組織を「リストラ」するという困難な決断を迫られることになりかねない。そのような状況に備えるためには、大学教職員が危機感を共有し、部局よりも大学全体のガバナンスを考え、教育と研究の質を維持しなければならない。同時に、文科省も、様々な規制,たとえば上述したような予算と学生定員に関する規制を緩和し、迫りつつある困難な状況に、大学自らの考えで対応できるようにしなければならない。

そもそもの問題は、教育予算が一方的に減額され続けていることである。国が財政的に困難な状況にあることは十分に理解しているが、財務当局は、高等教育に対するグランドデザインを明らかにすべきである。われわれは、将来に対する展望をもてないのでいるのだ。

法人化前、非公務員化が問題になったとき、私にはその是非が判断できなかった。しかし、法人化してすぐに、非公務員化は定員制の廃止につながることを理解した。そのようななかで考えたのが「ポイント制」である。すなわち、教授100ポイント、准教授78ポイント、講師73ポイント、肋数60ポイントとし、定員の代わりに、ポイント数を各部局に割り当てるのである。

「ポイント制」は、全国の大学に普及しつつある。しかし、「ポイント制」により、承継職員定員以上に教職員数が増えたときには、退職金が手当てできなくなるのではないかと危惧するあまり実行できない大学もあると聞く。私の理解するところでは、大学の職員には背番号がついているのではなく、人数に見合った「座布団」が積まれているだけである。したがって、たとえ人数が増えても退職金が出なくなるような状況にはならないはずである。

私がプログラム・ディレクターを務めている「世界トップレベル研究拠点(WPI)」は、大学の運営制度改革も目的としている。その一つが、教員の雇用を複数の機関でシェアする”joint appointment”あるいは”split appointment”“といわれている制度である。東大Kavli IPMUの拠点長は東大とUC Berkeleyとの間で、九大12CNERの拠点長は九大とイリノイ大学間で、エフォートに応じて給与を分担できるようになった。東大では、この制度を、国内の研究機関間、さらには大学内にも展開しようと進めており、事実、可能になったいくつかの例がある。

法人化以前から承継した教職員は終身雇用である。一方、外国の大学の多くでは、あるレベルに達したと評価されると、ポジションが保証されたテニュア(tenure)制度を導入している。テニュアには評価を伴うため、大学の活性化につながるはずである。文科省が進めている「テニュアトラック」制度は、若手研究者登用の道を開くと同時に、大学当局に承継職員の終身雇用、テニュアについて考え直す機会を与えたのではなかろうか。

4 大学は部局、教授会支配から抜け出されるか

私が学長のとき、監事は、教職員の意識についても調査し報告してくれた。監事報告には次のようなことが指摘されていた。
  • 法人化に伴う教員の意識改革が十分に浸透していない。
  • 学部意識が強く、教授会決定がすべてという法人化前の意識が根強く残っている。
  • 教授会が大学全体の改革にブレーキをかける場合がある。
  • 学長のリーダーシップにより、学部の自治が侵されるという被害者意識をなくす必要がある。

まさに監事の指摘の通りだと思う。もとより、部局は大学の重要な構成単位であり、教育と研究の現場である。その運営のために教授会を置くことが学校教育法で定められている。したがつて、部局の意見は基本的には尊重されるべきである。しかし、教授会決定を部局の自治の盾とし、部局の利害を第一に考えて行動されたのでは、大学全体としてのガバナンスなどできないことになる。学長裁量予算とポジションを作っても、その使用には部局が目を光らせ、学長に勝手に使わせないようにする。

教員一人一人が、それぞれに物事に応対し、異なる意見を持ち、束縛されず自由に発言できるのは大学の最大の長所であると、正直思う。それは、学問の自由の一つの反映でもある。しかし、ぞれぞれの意見を尊重し、原点に戻って議論するために、民主的ではあるが、なかなか物事を決められないことになる。

私が学長の時、いくつも改革案を学部に対し提案し続けた。しかし、改革を受け入れるかどうかは、学部、特に学部長によって大きく異なった。学部長が代わって初めて実行できた改革も少なくない。特に、工学部のような大きな学部では、「学科の自治」が主張され、学部長は学科間の調整役になってしまっている。

教授会のメンバーである教員も、改革を進めようとすると手強い相手である。英語教育について、たとえばTOEICなどの検定を導入しようとしたとき、反対したのは英語担当の教員であった。教養教育についても担当している教員の反対で手がつけられない。入試改革として過去間活用宣言への参加を他大学に呼びかけたが、入試を担当している教員、入試担当職員の反対で参加できないという大学が多かった。もちろん、彼らの意見にも一理がないわけではない。しかし、その多くの意見には、大局観がないように思う。

墓場の移転と同じで、大学改革には内部の力が頼れないと嘆いた、カーの気持ちがよく理解できる。(続く)


2012年11月23日金曜日

大学改革を困難にしているものは何か(1)

黒木登志夫(日本学術振興会学術システム研究センター相談役、前岐阜大学長・名誉教授、東京大学名誉教授)さんが書かれた「大学は自らの力で改革できるか」(IDE-現代の高等教育 No.545 2012年11月号)を抜粋してご紹介します。


カリフォルニア大学の名学長といわれたクラーク.カー(Clark Kerr. 1911-2003)は、大学改革が困難であることを嘆いて、次のように言ったという。

「大学を改革するのは、墓地の移転と同じで、内発的な力に頼ることはできない」。

確かに、改革の必要性が繰り返し言われながら、大学の改革は遅々として進んでいない。大学に期待している政府、行政、財界のいらだちも分からないわけではない。しかし、正直な話、ガバナンスに一番問題があるのは、国会であり、政治家ではなかろうか。「政局」と「選挙区」という一字違いの二つの「キョク」にしか関心のない政治家が、国会という墓場の改革に取り組むなど期待できない。しかしこの問題にはこれ以上触れないでおこう。

カーが言うように、大学のガバナンスが一向に変わらないのは、大学の内部に改革への意欲がないためであるのは事実だが、同時に、それを困難にしているシステムがあるのも確かである。ここでは、それらの問題を、私なりの観点で考察してみたい。

1 文科省・大学の相互依存関係から抜け出せるか

大崎仁(元文化庁長官)著『国立大学法人の形成』は、国立大学法人化についての正史とも言うべき内容である。この本の中で、法人化によって、大学が「法人格」を獲得したことが繰り返し強調されている。「法人格」とは、権利義務が法律によって保証されていることを意味している。すなわち、国立大学は、一つの独立した存在として法律的に認められたことになる。法人化前、国立大学は、文科省の一地方組織に過ぎなかったことを考えれば、これは大きな進展である。

問題は、法人格の獲得を、文科省、大学の双方がどの程度認識し、実行しているかである。少なくとも、国立大学法人の発足当時は、多くの大学、学長たちには、文科省に対して新たな関係を樹立しようという意気込みがあったし、事実、文科省と緊張関係になったことも少なくない。『落下傘学長奮闘記』(中公新書ラクレ、2009)にも書いたように、私はそのような立場から、文科省に対しても、大学内部に対しても率直な意見を述べてきた。しかし、法人化の第二期に入ったあたりから、文科省、大学はともに、「お互いが依存し合う心地よい関係」に戻ってしまったように思えてならない。

法人格を獲得したといっても、予算を握られている以上、最後には政府の言うことを聞かねばならないことが少なくない。そのよい例が、今回の国家公務員の給料カットであった。独立した法人である以上、必ずしも従う必要はないのだが、結局、国立大学は給与カットを受け入れざるを得なかった。それでも、病院経営を考えて、医療職の一部の給与を据え置くことができたのは、法人になったことのせめても証しであった。

最近、東大は全学秋入学という思い切った方針を打ち出した。国際化の一環として、文科省は、秋入学の拡大を推進していたが、せいぜい大学院の一部にとどまっていた。それを、全学の学部、大学院まで徹底するというのである。これは、法人化後、大学が自らの判断で行った最大の決断であろう。

法人化されても、文科省による規制は続いている。大崎仁氏も指摘しているように、「理解しがたいような学生定員管理の厳しさ」もその一つである。社会の価値観が変わり、少子化が進む今日、大学は社会の要望に応え、あるいは先取りして、教育を変えていかねばならない。しかし、少しでも学生定員に変更を加えようとすると、文科省の認可が必要となる。

そもそも、概算要求の交渉にも、大学と文科省のなれ合いが見られる。企画段階では、教員が理念に基づき立案したにもかかわらず、肝心の大学・文科省間の交渉段階になると、大学の事務官と文科省の事務官の間の交渉になる。文科省を通ると、今度は、文科省と財務省との交渉となる。教員は説明に行くこともできず、透明性も、公開性もない中で、大事なことが決まってしまうのだ。

2 国立大学は外に開かれているか

国立大学法人法は、社会から孤立した「象牙の塔」の反省から、外に開かれた運営を一つの目的として制度設計された。理事、監事、経営協議会、学長選考会議に外部委員を加えることが明記された。

私は、岐阜大学学長を辞めてから、二つの国立大学の経営協議会委員となったが、外部委員は、大学内部の問題に余計な口出しをする「よそもの」として必ずしも歓迎されていないようだ。しかし、われわれは、大学から一歩離れた立場で、どうしたらよい大学にできるか一所懸命考えている。外部委員は、外に開かれた窓口であると同時に、大学にとっては「サポーター」なのだ。

学内の教員たちは、学長選考会議を無力化し、学内の「選挙」だけで学長を選出するべきであると主張する。それでは、学長選考に外部の意見が入らないことになる。「意向投票」を行ったとしても、法人法にしたがい、それを一つの参考資料として、学長選考会議が主体的に選考すべきであると主張しても聞き入れてもらえない。

法人法は、理事に外部委員を含めなければならないと明確に規定している。しかし、私の調べたところでは、33.7%(30/89)の大学(大学院大学、共同利用機関を含む)で、移動官職である事務局のトップ(事務局長など)を「外部理事」として参加させ、それ以外の人を外から入れなくてもすむような体制をとっている(2012年9月現在)。移動官職は、任命時には外(文科省)の人間かもしれないが、常識的には内部の人間である。法の精神にそぐわないといわざるを得ない。

外部の意見を聞く制度を軽視し、時には排除し、その一方で文科省にすり寄っているのでは、法人化前に戻ったのも同然ではなかろうか。(続く)


2012年11月22日木曜日

国立大学の予算を考える

財政制度等審議会・財政制度分科会(財務省)により行われた「財政について聴く会」(文教・科学技術関係予算、平成24年11月1日開催)に係る「記者会見概要」及び「議事要旨」が公表されていますので、国立大学関係部分について抜粋してご紹介します。

ちなみに、当日の配付資料は、次の2点。


記者会見(分科会長会見の模様)

(田近分科会長代理)

26ページからが国立大学の問題です。ここに書かれたように、国立大学における人的資源、物的資源の配分の見直しを促す仕組み。それから、資金配分の現状と国立大学運営費交付金のめり張りのある配分。それから、セグメント情報等の開示、授業料ということです。これはさっと行かせてもらいますけれども、別に国立大学の人間だからというわけではないのですけれども、27ページ、これが国立大学が目指してきたもの。皆さんもご存じだと思いますけれども、平成13年、遠山プランというのがありました。これは大学をある意味で集約化して、公私トップ30を世界最高水準にと。それから平成16年に国立大学が法人化して、第1期というのが6年間だと思いますけれども、16年から21年。そして、現在は第2期に入っていると。そうした法人化の成果がどれだけ国立大学の運営に反映されたのかというのが、このペーパーのポイントになります。

ポイントだけですけれども、28ページに、国立大学というのは、評価されます。例えば教育水準の評価で、下ですね、教育の実施体制、内容、方法云々で、実は期待される水準を下回るものというのは、どれも1%。就職状況が1.8ですか。基本的にわずか1%で、これが評価になっているのかというような話。つまり何を言っているかというと、予算のめり張り、法人化した後、国立大学がどれだけ改善されたのかということです。

29ページが、メリハリの話になります。この表の一番左が一般運営費交付金。これが平成16年から24年度の合計で、したがって、非常に大きな額になるのですけれども、これは3兆になって、トップ10のシェアが42%。というか、見ていただきたいのは、右側に特別運営費交付金と書いてあって、これは各大学が文科省にこういうことをしたいということで申請して、ある意味で文科省から選ばれてと、これが、メリハリということでは左と右がほとんど同じだし、トップ10のシェアもこれだということで、メリハリづきの予算になっているのですかと。

一方、科学研究費、3番目が公私立補助金というのは、我々の世界だと要するに競争的な資金です。グローバル何とかとか、そういうことです。グローバルCOEとか。科学研究費の補助金の方は、ごらんになっていただくと、トップ10で68%のシェアという風にメリハリになっているのではないですかと。

以上、説明していくと長くなりますから、そういうことで、これまでの国立大学の運営というのが、法人化された後、競争を促して、中から変わっていくメカニズムが必ずしも見られなかったのではないですかということです。

授業料です。授業料は36ページからですけれども、国立大学の授業料というのは、53万5,000円と。86大学のうち、標準と異なる授業料を設定したのは5大学と。5大学全て標準よりも1万5,000円安くしているということで、こういう横並びでいいのかと。法人の努力というのはここに反映されているのですかということです。

あとは、授業料に関しては、所得別というのはどこだっけ。授業料については、それをフレキシブルにしていくと。一方、それに関しては、所得の低い人にはまけてあげるというメカニズムも必要ではないかということです。

それから、あとは簡単で、させてもらいます。奨学金については、これは金利が・・・、そこ言ってくれる?

(諏訪園主計官)

40ページでございますけれども、独法の日本学生支援機構が行っている奨学金の無利子のものと、それから、有利子のものでございますが、その貸与基準の   でございまして、その下の日本政策金融公庫の政策融資として行っております教育ローン、これに比べて貸与基準が緩やかであると。無利子ですら政策金融公庫の有利子2.35%ですが、これよりも上限基準が緩いので、どうなのだろうかということを問題提起させていただきまして、本来、例えば平均所得700万以上の人は有利子ではないですかという議論もあるのではないでしょうかということをご紹介いたしました。

(田近分科会長代理)

そういう要するに貸与基準のあり方と。

それで、科学技術費については、これが43ページからですけれども、基本的には研究費の配分シェアの固定化というところで、予算自身は44ページをごらんになっていただくとわかるのですけれども、その他の予算と比べて、元年100にしたときに、伸び率はこうなっていると。ただ、それに対して、配分というのが、どこを見ていただいてもいいのですけれども、その次のページが国際的な比較ですけれども、配分は46ページですね。46ページをごらんになっていただくと、変わっていないと。等ということで、この予算が戦略的に使われたのかという議論です。ちょっとアバウトですけれども。以上が義務教、大学予算、奨学金、科学技術ですけれども、そのテーマで報告されました。

それで、ディスカッションですけれども、・・・大学の方は、もちろん、一部の委員、議論の活発さからいうと、義務教育の今言った議論のところよりは非常に活発に出ました。大学については、もちろんそれは競争的にさせて、集中というか、競争を高めるのは大切ですねということでありましたけれども、授業料については、やはり多くの、かなりの議論が出て、やはり53万幾らで一定というのは、それはおかしいねと。それが国立大学の努力で反映するようにしていったらどうだという意見がありました。

それから、奨学金については、さっき言ったように資格要件ですから、特に意見はなかった。

科学技術については、何人かの、ビジネスサイドの人だったと思いますけれども、やはり国家戦略が重要なのではないか、あるいは国策に基づく集中と選択、同じことですけれども、顔の見える科学技術戦略というのが必要ではないかというのは、それぞれのお立場というか、お仕事されてきた背景から、そういう議論が出ました。というわけで、文教についても活発な議論がされました。


議事要旨

  • 大学は情報公開をすべきというが、大量に資料を作ることが重要なのではなく、実績・パフォーマンスをもって評価すべき。
  • 科学技術については、長い目で見て、ボトムアップではなく、国策に基づいてトップダウンで実施すべき。
  • 文教予算については、OECDの提言を踏まえた検証を進めていくことが必要。
  • 外部資金が増えたとの指摘があるが、外部資金の大半は研究に向けられ、教育にはほとんど回らない。したがって、大学への運営費交付金の議論を行う場合は、教育についても着目することが必要。
  • 現状、大学は学部・学科ごとの計画が定められていないため、評価を行うにしても、何を基準にすべきかが不明確になっている。目標・計画をしっかりと定めることが重要。
  • 所得水準に応じた授業料の設定は是非推進すべき。優秀な人材が良い教育を容易に受けられないということとなれば、将来の日本にとって非常に大きな損失となりかねない。
  • 大学授業料を、所得ではなく成績に応じて変えることも考えられるのでないか。学習へのインセンティブも図られる。大学の運営は、運営費交付金もあるが、まずは授業料を持って考えるべき。
  • 大学について何を基準にするかという問題はあるが、当初の想定よりも評価が低かった場合には交付金を削減するなど、ペナルティを設けることが重要ではないか。
  • 全ての大学が研究を行う必要があるのか。教育に特化する大学があってもいいのではないか。また、研究に関する予算の対象を主要大学に限定し、集中的に投資すべき。
  • 科学技術振興費について検討するに際しては、その効果(特にポジティブな効果)を示されたい。
  • 大学・科学技術振興費の評価について、きちんとした評価システムが必要。
  • 科学技術の国家戦略が必要。短期・中期・長期のプランを定め、いかなる分野を振興していくべきかを決定した上で、当該分野に集中的に投資を行うべき。
  • 国立大学の授業料については、これを増額すると交付金が減らされるとの観念が大学側にあるので、これを変えていく必要。良い教育成果をあげれば、交付金額にも結び付くというインセンティブ付けが大事。また、大学におけるマネジメントのプロフェッショナルも必要。
  • 所得に応じて学費を決めるという制度は理想的ではあるが、真の所得を把握することは非常に難しい。学生の成績に応じて学費を決めるという制度の方が現実的ではないか。
  • 予算全体を考えて、各予算間のバランスを取る必要。将来への投資である文教予算と高齢者への予算である社会保障予算との額のアンバランスを是正していくという視点があってもよいのではないか。
  • 研究開発予算について、きちんと評価をしてきたのか、SABCで評価をしても、どれもいいとなってしまい、今はその方式をやめている。評価方法を見直す必要があるのではないか。


2012年11月21日水曜日

大学のガバナンス(2)

前回に続き、大崎仁(人間文化研究機構 機構長特別顧問・IDE大学協会 副会長)さんが書かれた「大学のガバナンスとは」(IDE-現代の高等教育 No.545 2012年11月号)を抜粋してご紹介します。


4 国立大学のガバナンス

国立大学のガバナンスの構造は、大学自治を軸に形成されてきた。日本の大学自治の原型は、戦前、東京、京都両帝国大学で形成された強固な学部教授会自治である。その基本は、教授全員が参加する学部教授会の決定を教員人事はじめ大学運営の基盤とするところにある。全学的事項を審議する評議会は、各学部教授会の代表による調整機関であり、総長・評議会が学部教授会の意に反して学部の運営に干渉することはない。総長は全学の教授の選挙によって選ばれ、学部長は学部教授会が選任する。日本の大学自治が学部教授会自治と言われた所以である。注目すべきは、このような自治の在り方は法令に基くものではなく、教授側の要求を設置者である政府が容認する形で形成されてきたことである。

戦後の新制大学形成を主導した米占領軍は、この教授会自治を大学が自らの特権を守る仕組みとして強く批判し、国家代表、自治体代表、同窓会代表、教授会代表各3名と学長で構成する管理委員会を大学の意思決定機関として各国立大学に置く、「大学法試案」を文部省に発表させた。しかし、教授会自治と180度異なるこの案はず大学関係者・関係団体の一致した強い反対と学生の反対運動により、棚上げとなる。以降、国立大学の内部管理の法制化が何回が試みられたが、実を結ぶにはいたらなかった。

その一方、学校教育法で教授会が大学の重要審議機関として法定され、教育公務員特例法で教授会による教員人事の慣行が法制化されて、戦前に形成された教授会自治が、新制大学全体に定着していった。

この学部教授会中心の自治体制は、1960年代半ばに始まる激しい大学紛争により大きく揺さぶられる。学部教授会にはこのような事態に対応する能力のないことが露呈され、学長を中心とする執行部強化の必要性が、広く認識されるようになる。それとともに、大学に対する社会のそれまでの寛容な態度が一変し、学部の閉鎖的な縦割り体制が批判され、大学の社会的責任が問われるようになってきた。

紛争に触発された大学改革構想を実現するため新構想大学として創設された筑波大学は、①全学自治-学長・副学長を中心とする中枢的管理機能の強化、②教育組織と研究組織の分離-学部の解体と学群・学系の創設、③開かれた大学-学外者で構成する参与会の設置、を新構想の柱に掲げた。国は、筑波方式を他大学が採用できるように、副学長職の法定や学部以外の教学組織の容認などの法改正も行ったが、当時の騒然たる状況下で、筑波方式は学生の反対運動の標的となり、大学間ではタブー視されるにいたった。

しかし、大学紛争を契機に、学長を中心とする中枢的管理機能の強化、学部教授会の機能の限定、学外者組織の設置の3点が国立大学の学内管理改革の基調となり、副学長制の導入など学長中心の執行部体制も次第に整備されるようになった。

このような曲折を経て、長い間懸案となっていた国立大学学内管理の法制化が実現したのは、新制国立大学発足後50年を経た、1999(平成11)年のことである。この年、大学審議会の「21世紀大学像」答申に基づく国立学校設置法改正により、国立大学の学内管理体制が法制化された。学部等各部局代表からなる全学的審議機関である評議会が法定機関となり、教授会を置く組織が明示され、教授会の審議事項は教学に関する事項に限定される。教員人事についても、同時に行われた教育公務員特例法の改正により、学部長等教授会が置かれる組織の長が、大学の方針を踏まえて教授会に意見を述べることができる。学外者だけで構成される運営諮問会議が必置の機関として法定され、大学運営の重要事項に関し、学長の諮問に応じるだけでなく、学長に対し助言、勧告をする権限を持つ機関となる。これまでの論議の集大成といえる学内管理体制の整備である。

5 法人化による激変

2003年の国立大学法人法(平成15年法律112号)制定により、国立大学のガバナンスは激変する。国立大学は、国の行政組織から分離され、国の管理を直接管理から目標設定による間接管理に移行する。それまでの国の直接管理は、数学関係に対する大学自治尊重と事務局を通じての行政管理の二元的管理だった。それが数学関係を含む大学運営全般にわたる目標管理となる。ちなみに大学運営の全般にわたり国が目標管理を行うのは、他国に例を見ない。

国立大学法人の管理体制では、法人の最終意思決定とその執行の権限は、教学、人事、資金配分、組織等、法人・大学運営の全般にわたって、法人の長となる学長に集中する。学長を補佐する理事が置かれ、学長が重要事項について決定するときは、役員会と略称される学長と理事で構成される会議にかけることが義務付けられているが、役員会に決定権があるわけではない。理事は全員学長任命であり、役員会といっても、学校法人の理事会とは全く性格を異にする。法人化前に法制化された全学的審議機関の評議会は、教育研究評議会となって、審議事項は教育研究に係るものに限定される。学外者だけで構成される運営諮問会議に代わって、学外・学内半々の委員からなる学長が主宰する経営協議会が設けられ、審議事項は経営関係に限定される。

法人化の制度設計の当初は、前述の法制化された学内管理体制が、法人化後も継承されることになっていた。それが大きく変化したのは、「構造改革」の強い流れの中で策定された文科省の「国立大学構想改革の方針」が、「国立大学に民間発想の経営手法を導入する」ことを掲げた影響であろうか。

制度論として問題となるのは、国立大学法人法の定める内部管理システムは、法人のシステムであって、大学のシステムではないことである。国立大学法人化の制度設計は、当初から一貫して、国が国立大学の設置者であることを前提として、大学に法人格を付与するものであった。大学と法人は一体であり、大学の学内管理組織がそのまま法人の管理組織になるというものであった。そうであれば、学長が法人の長になるのは当然のことであり、ヨーロッパ大陸諸国の国立大学に共通する構造でもある。それが、法案策定の最終段階で国立大学法人が国立大学を設置するという構造に一変した。内閣法制局の強い意見によるものと聞く。大学の管理組織がそのまま法人の管理組織になる前提で設計したものが、法人だけの管理組織にされたわけである。法人が大学を設置するという方式は、学校法人が大学を設置する私立大学の場合に一見類似しているが、私立大学の場合には、大学のステーク・ホルダーを代表する理事会が法人の意思決定機関であり、学長は理事の一人として、大学の運営に当たり、理事会に対して責任を負う。英米系の大学に共通する構造であり、国立大学法人の構造とは異質のものである。

大学・法人一体であれば、学長・法人の長が責任を負うのは、当然設置者である国に対してであるのに、国立大学法人を設置者としたことにより、理論的には、学長は国立大学法人の長としての自分に対して責任を負うことになる。これも他に例を見ない特異な構造である。

この最終段階での急変が、国立大学のガバナンス構造に歪を生じさせたことは否定できない。法人の長としての学長を補佐する理事と、大学の長としての学長を補佐する副学長の役割分担や位置づけが、大学によりよりまちまちなことや、設置者である法人と、大学を分離させるため、本来大学の仕事である学生相談、受託研究、公開講座などをわざわざ法人の業務として法定したことなどが、その例である。国立大学法人に対する運営費交付金が義務的経費にされないのも、国立大学法人を設置者としたためと思われる。

ガバナンスの見地からの最大の問題は、法人と大学を分けたことにより大学自治を担う学内管理組織の整備が白紙に戻ったことである。.国立学校設置法でせっかく法制化された教授会の役割や位置づけが、法人の機関ではないということで、国立大学法人法の対象になっていない。大学の意思決定構造と国立大学法人の意思決定構造との関係をどう設計するかは、各国立大学法人の手に委ねられている。(おわり)


2012年11月20日火曜日

大学のガバナンス(1)

大崎仁(人間文化研究機構 機構長特別顧問・IDE大学協会 副会長)さんが書かれた「大学のガバナンスとは」(IDE-現代の高等教育 No.545 2012年11月号)を抜粋してご紹介します。


2 大学ガバナンスの構造

本稿では、大学のガバナンスとは、大学運営の意思決定と執行手段の構造と考える。そこでまず頭に浮かぶのは、学校教育法第5条の「設置者管理原則」である。「学校の設置者は学校を管理し、法令で特別の定めのある場合を除いては、その学校の経費を負担する」という規定を鵜呑みにすれば、国立大学の運営は国立大学法人が、公立大学の運営は設置者である地方自治体あるいは公立大学法人が、私立大学の運営は設置者である学校法人が決めるということになる。しかし、ことはそう単純ではない。設置者のみならず、国と大学が大学のガバナンスの重要な主体だからである。

国は、国立大学の設置者であるだけではなく、国、公、私を通じて大学の公共性を保障する責任を負う。そのため大学の管理運営の枠組みとなる大学制度を設定し、制度の運用に責任を持つ。大学は、大学自治を保障された独立性の強い組織であり、大学の運営に関する意思決定の多くは大学自身が下している。大学の学内管理体制を大学のガバナンスという場合も少なくない。設置者が大学の運営を一方的に管理するのではなく、国、設置者、大学の三者の意思が相互に関連して、大学のガバナンスを形成していると見なければならない。その中で、特に、国・公・私を通じて大学のガバナンスを特徴づけているのは、大学の自治的性格、独立性の強さである。大学のガバナンスの解明は、まず、大学の自治的性格をどう理解するかにかかっている。

3 大学自治とは

大学は、単なる設置者の教育事業ではない。大学の運営は大学自身が決めるという大学自治の尊重は、先進諸国に共通する原則である。

ヨーロッパ大学協会(EUA)は、2009(平成21)年、「大学が社会により良く奉仕するためには、自治の強化が必要である。特に、大学のリーダー達が、大学のミッションと特色に即して学内組織を効率的に構成し、スタッフを選任・訓練し、教育・研究のプログラムを策定し、財政資源を使用することを許容する適切な規制の枠組みが必要である」と宣言し、ヨーロッパ34か国の大学自治の状況を調査した。昨2011年には、そのうち26か国について採点表を発表している(University Autonomy in Europe Ⅱ The Score Card)。

日本では、大学自治は憲法が保障する学問の自由(23条)の制度的保障と位置付けられてきた。学術の中心である大学における教育研究の自由が学問の自由の中核であり、それを保障するために大学の自治が認められているということである。この憲法に基づく法的保障とともに大学自治を支えるのが、大学の活動内容の特殊性である。大学が担う複雑高度な教育・研究は、大学自身にその運営を任せることで、より良い成果が得られるという認識が、大学自治尊重の実質的基盤である。EUAの宣言もそのような認識に基づくものであろう。付言すれば、大学自治が社会的責任、説明責任を伴うものであることもまた国際的に共通な認識となっている。

ドイツやフランスでは、大学が自治的施設であることを法律で明示しているが、日本では大学自治を正面から規定した法律はない。学校教育法が大学を「学術の中心」と規定している(83条1項)ことが、大学自治を学問の自由の制度的保障とする解釈を補強している。2006(平成18)年の教育基本法の改正で、大学に関する条文が追加され、次のような規定が設けられた。「大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」(7条2項)。現時点では、これが国・公・私立大学を通じる大学自治尊重の根拠規定といってよい。

大学の運営をめぐる国、設置者、大学間の関係は、国、公、私立で大きく異なっている。紙数も限られているので、公立大学については後日に譲ることとし、以下、国立と私立それぞれについて考察を進めたい。(続く)


2012年11月17日土曜日

大学の自主・自律と教特法

国立大学の法人化移行の際検討された「教職員の身分の扱い」について、興味深い記事(文部科学教育通信 No.303  2012.11.12  国立大学法人法コンメンタール(歴史編)第39回)がありましたので抜粋してご紹介します。


残された課題

・・・(文部科学省の調査検討会議が公表した)中間報告では、法人化後の運営組織のあり方や中期目標の作成手続などについていくつかの選択肢が並び、結論は最終報告まで持ち越しとなったが、大学関係者以外からも高い関心が寄せられていた法人化後の教職員の身分の扱いについても結論が出ず、最終報告に向けての論点として残されていた。・・・

教特法の適用問題

その一つは、非公務員型になったとしても、教員には教育公務員特例法と同趣旨の規定を適用すべきかどうか、という問題であった。

教育公務員特例法は、法人化前の国立大学の教員に対し、国家公務員の一般法である国家公務員法が適用されることを前提に、大学という機関の特性を考慮し、国家公務員法の一部の規定を修正して適用させるための特例法であった。特に、各学長の任命権が文部科学大臣にあることを前提に、実質的な学長選考の権限を各大学に置かれる評議会に付与することや、個別教員の任命権が文部科学大臣ないし学長にあることを前提に、実質的な選考権限を各学部の教授会に付与することなど、いわゆる「大学の自治」を人事面で保障するものであった。

国立大学協会からは、この問題に関連して、急遽追加意見書が提出されたが、そこには、「制度設計において、仮に教員の身分が非公務員型になったとしても、国が設置者・管理者である大学においては『学問の自由』を担保する仕組みとして、教員人事に関する最小限の基本的事項は、各法人の就業規則等内部規則に委ねるのではなく、実質的な設置者たる国民全体の意思の表現として、法律の形で明確に規定されるべき」と主張していた。

連絡調整委員会での主要なやり取りは、次のようなものであった。

○(事務局の)説明では非公務員型では教特法を特例として規定ということは困難であるということであった。国大協では、これについて国立大学法人法等で規定することが必要ではないかと主張している。

(事務局)教育公務員特例法の規定は、基本的には文部科学大臣が人事権をもっということに対する、大学の自治への制度的な保証ということであり、大学の場合は職員や教官の任命については、直接文部科学大臣が任命権を行使するのではなく、まず大学で選任し、それによって学長が申し出て任命するという規定になっている。もう一つは大学の場合にも、通常、機関のトップである学長は当然大臣が任命することとなるが、その学長の選任にあたっては、大学の評議会で選考し、大学が申し出るという形になっている。これは文部科学大臣に任命権があるということを前提として、それに対する大学の自主性への保証としての規定が数特法の規定であり、今度仮に法人化されるということになれば、そもそも任命権自体が大学に移り、大学の長が任命権者になるということで、当然そのような関係で言えば、文部科学大臣の任命権を前提とした規定をそのまま置くということは非常に難しいということである。まして公務員でなくなってしまえば、そもそも公務員としての任命権の前提自体がなくなってしまうわけであり、法制上の整理から言えば、そういう規定を置くというのは法制上理屈がなかなか立たないのではないでないかということをここで記載しているということである。

○国大協の意見が、すべて何でも認められるとは思っていないが、われわれとしては、これは機関決定したものであり、無視されるということは非常に問題であるということは、公の立場から言えると思う。

(事務局)前からのご懸念であるが、なぜ教特法が設けられたかという経緯については、ご存じのように戦前、教員の人事関係については確たる規定がなく、そういう中でいくつかの事件、紛争があり、学問の自由を守るために教員の人事というものはアカデミアンの自主性に任せようということで、そのプロセスを規定するために作られたのが数特法である。特例法とあるように、国家公務員法、地方公務員法の特例という形での法律であり、今回、こういう人事形態になれば、文部科学大臣の任命権が及ばない教員の部分の人事について、法律でそのプロセスを規定することは、学長なり学内の自主性を侵害するというか、いかがなものかということである。国立に限らず私立でも伝統ある大学は、それなりの教員人事についてのルール、良識をもって行っているわけである。もう一つ、法律上の担保としては、運営協議会、評議会というものが置かれ、学内の評議会が何をするところかという任務規定のなかで、人事に関すること、人事の基本方針に関することのような任務は規定されることになると思うので、そこで教員人事のルールをどうするかということは、学長が勝手なことを行うということではなく、十分学内のアカデミアンの意向を聞きながら、就業規則というか法人内の勤務条件の規定の中で反映されるということで、実質、適切なルールが確立されていくと思う。この教特法が適用されないからといって、不安であるというのは杞憂ではないかという気がしている。

○問題は、学長の権限が非常に大きくなってくるわけであり、それをガバナンスするために役員会の在り方や外部の人たちがどういうふうに良い意味でうまく監視しながらアドバイスをしていくかということであり、こういったこととの一体なのではないのかと思う。

○議論が非常に重要な局面にきていると思うが、ただ今の発言を含めて、もう少し本音で語る必要があると思う。今までの教特法があり、文部科学大臣が任命権を持っているわけだが、実際の個々の教員の任命権というものは、形の上で持っているだけにすぎず、実際にはご承知のように学部、教授会に選考委員会がある。つまり学部自治だったわけである。企業のようにトップがそれぞれの人の任命権を持っていたわけではない。つまり、本音のところは別にあって、形の上ではいかにも文部科学大臣が任命権を持っているようにしていたところに実は問題があるわけである。そこで、学部自治とか大学の自主・自律性ということがいわれてきたわけだが、もしも各大学が本当に人事においてもすばらしい人事をやっていれば、日本の国立大学がこんなにかすんでいるはずがないわけであり、世界のトップの大学と伍して、当然それだけの知的基盤の伝統があるわけだが、それがなくなってきている。そして、何らの競争原理が入らない。建前だけはこういう形で法律で保護されていて、まさにファシズムの時代かのように教特法というものが隠れ蓑になって大学を聖域化していた。そして、ひとたび国立大学の教官になれば、全くの競争原理にさらされずに一生身分が保障されていたわけである。こういうことは世界の大学にはあり得ないわけである。したがって、本当は国立大学がもっときちんとした人事をやっているだろうという、その前提自身あるいは国立大学の自主・自律性ということ自体が問われているのだと私個人としてはずっと思っている。

結局、教育公務員特例法の適用問題は、国大協から書面による意見提出はあったものの、連絡調整委員会の中では必ずしも積極的な支持の発言はなく、大勢は、不要、あるいは、むしろ有害、との認識で一致した。

2012年11月16日金曜日

リーダーたる姿勢

日本私立大学協会私学高等教育研究所研究員の岩田雅明さんが書かれた「リーダーの機能とは」(文部科学教育通信 No.303  2012.11.12)をご紹介します。


リーダーはスピードを上げる

大学という組織の特徴の一つとして、物事を決定したり、実行したりするスピードが遅いということが挙げられる。「今年度は間に合わないので、次年度からにしましょう」ということで、せっかくの施策が先送りされるのを目にしたことのある人は多いのではないだろうか。これも大学が長い間、常夏ともいえる恵まれた環境にあったため、無理をしてスピードを上げる必要性がなかったためといえる。

ところが大学を取り巻く環境が常夏から氷河期といわれるまでに急変し、今後も激しい変化と競争が予測されるようになってくると、それに合わせて大学のスピード感も変わらざるを得なくなる。十年経たないうちに十八歳人口は、再度、減少し始めることになる。そして大学の成果というものは、出るまでにある程度の時間がかかるものであるから、今回の減少期に生き残っていくことができるかどうかは、ここ何年かの大学の戦略と行動にかかっているといえる。ここで環境の変化に対応した行動を起こすのか、それとも一年先送りにするかどうかが、勝敗を分けるといってもいいと思う。

人間というものは、自分の部門のことを中心に考えやすいので、組織はどうしても部分最適になりやすい。大学全体としてどうした方がいいのかという視点は、なかなか持ちにくいといえる。このため、全体を見るべきリーダーが、全体の視点から各部門の行動のスピードを調節していくことが必要となる。その一つのやり方が、行動に期限を設定するということである。これが無いと、行動に移せなかった事情の説明さえうまくできれば、いつまでも行動を起こさなくても済んでしまうからである。また、リーダーが行動のスピードを上げていくことで、スピード重視の組織風土をつくっていくことにもなる。組織風土がスピード志向に変わってくると、そこでなかなか行動を起こさないでいるということは難しくなってきて、おのずと各人の行動速度も速くなってくることになる。

リーダーは決断する

組織のスピードとも関係することであるが、リーダーには組織の進む方向についての決断が求められる。これからどうなっていくのかが分からない将来のことについて、決断するということは非常に難しいことである。決めるということは、選択しなかった選択肢と、その背景にある可能性を捨てるということになるからである。卑近な例でいえば、お昼に何を食べるかといった決断でさえ、決断力の乏しい人にとっては、簡単にはいかない問題なのである。

決断するためには、できるだけ多くの関連情報を集めることが必要となる。そしてそれらの情報を整理し、分析することにより、これからこうなるのではないかという仮説を立てることになる。いくつかの仮説がある場合には、その中から最も確率が高いと思われるものを選ぶことになる。そしてその仮説が現実のものになる可能性が相当高いと判断したときに、決断が生じることになる。しかし、それはあくまでも予測であるから、100%の確率になるということはあり得ない。このため、どの段階で決断できるかどうかが決断力の差となるのである。情報を集め続け、かなり高い確率という段階になるまで待つことにより、決断の精度は高くなるが、「時すでに遅し」となる危険性も高くなってしまう。また、リーダーの遅い決断や、決断しない態度は、部下の行動意欲を減退させ、信頼関係を失うことにもなってくる。

減点を恐れるリーダーは、当然ながら決断のスピードは遅くなる。無理してリスクを取ることをしないからである。一方、行動力のあるリーダーは、6、7割の可能性が感じられた時点で決断することになる。もちろん結果の重大性によるので一概には断ぜられないが、今日のように求められる人材ニーズや、社会の変化が速い環境下にあっては、時すでに遅しとなる前に、決断するリーダーが求められているといえる。

リーダーは舵を切る

決断をし、その決定に従って行動していく中で、修正が必要な事態も出てくるであろう。思惑が外れることもあるだろうし、決定後にも、絶え間なく環境が変化していくからである。このような場合には、リーダーに果敢な舵取りが期待される。迅速な決断は、迅速な修正を前提として成り立つものだからである。進む方向性が違っていると感じた時には、面子にこだわることなく、また惰性に流されることなく、新たな方向に舵を切ることが大切である。

どういう方向に大学の歩みを進めていったらいいのか、規模を大きくすることをめざすべきなのか、それとも徹底的に質にこだわっていくのか、どのような学部内容にしていけばいいのか、教職員の働き方をどうしたらいいのかなど、大学を取り巻く、先行きが不透明な課題は山積している。誰にも、どの道が正解なのかということは分からない。そうであるならば、取りあえず正しいと思われる道を選び、そこを進んでいき、壁に当たった時点でまた考える。そしてまた、新しい道を模索していくということで進めていくしか、適切な方法はないのではないだろうか。

もちろん慎重な検討は必要なことであるが、サントリーの『やってみなはれ精神』ではないが、果敢にチャレンジし、果敢に修正するという姿勢が、これからの大学では必要になると思う。

リーダーは責任を引き受ける

だいぶ前のことであるが、金融機関から大学の幹部職員に転身した人の感想を、雑誌で読んだことがあった。それによると、大学では、責任者が責任を取らなくていいということが、大きな驚きであったと書かれていた。一般の企業では、自分の失敗だけでなく、部下の失敗についても責任を取らされ、減俸といったことも少なくない。企業のトップであっても、業績不振が続けば交代ということも、よくあることである。評価の厳しい業界にあっては、昨日まで店長だった人が、売り上げが伸びない責任を取らされて、一店員となるというようなことも珍しくないようである。

確かにそのような企業の状況と比べたら、大学は無責任体制といってもいいような状況であろう。学生募集状況が芳しくないので、その責任を取って学長や事務局長が辞任したというような話は、幸か不幸か間いたことはない。これは責任ある立場の人だけということでなく、教職員全般に当てはまることである。これはある意味、いいことでもある。いつも緊張した環境の中で働くということでなく、他人を責めることのない伸び伸びした環境で働けるということは、精神衛生上も好ましく、幸せなことである。

しかし、それは起こすべき行動を起こしている、ということを前提としていなければならない。リーダーが取るべき行動を取って失敗したとしても、それは責められるべきではない。教職員が取るべき行動を行って失敗した場合も同様である。したがって、リーダーが取るべき行動を取らずに状況が悪化した場合は、自ら責任を負うべきであるし、教職員が取るべき行動を取らずに状況を悪化させた場合には、責任を取らせるべきである。そうすることで、失敗を恐れて行動を起こさないということをなくすことができ、何もしない責任というものを強く感じられるようになるからである。

責任体制といつものを、何事にもチャレンジしていくという方向性の中に位置づけていくことが、リーダーに求められる決意といえる。


2012年11月15日木曜日

教員としての真の力量を高めるためには

文教ニュース・文部科学時評(平成24年11月5日、第2213号)に掲載された「教員養成の修士レベル化」をご紹介します。


8月末に中央教育審議会から「教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について」と題する答申が出され、これを具体化するための議論が始まっている。答申が打ち出した「学び続ける教員像」や「教育委員会と大学との連携・協働」の理念は、今後の学校や教員のあり方を考えれば理に通った方向性であると思う。

議論が分かれるのは、教員養成の修士レベル化だろう。一部に批判もあるが、学校現場に山積する諸課題の幅広さと対応の難しさ、各種資格の高学歴化や諸外国の動向などを考えれば、養成期間の延長は自然な流れだと思う。それに大学の教員養成系のお寒い内情を見ると、失礼ながら学部四年間だけをいくら改革しても実効が上がるかどうか。

反対意見で多いのは「大学院で学ぶより、早く現場に出て実践力を鍛えるべき」という声だ。一理あるが、これでは今と変わらない。それでは不十分だからこそ見直すのではないか。教育活動は多様で複雑であり、不登校児への対応一つをとってみても、本人や家庭・学校の状況によって大きく異なってくる。いわゆる暗黙知の比重が高く、単純なマニュアルは通じない。それゆえ教員としての真の力量を高めるためには、経験を積むだけでなく、それらを通じて本質的な要素を一般化・普遍化し、理論的に深化させる営みが必要になる。経験則だけでなく理論に裏打ちされた実践を伴ってこそ、初めて高い視点から備轍して多様で複雑な課題に効果的に対処できるのではなかろうか。

だが、こうした営みは、多忙を極める現場に席を置いたままでは難しい。退職校長を雇用して新人教員を個別に指導すれば相応の効果も期待できようが、慌ただしい現場にあっては目の前の問題への対応に追われ、自らの実践を振り返る余裕は殆どないはずだ。多忙な日常から切り離され、学びを深めることのできる時間と空間が必要である。

そのような学びに相応しい場が大学院ではないか。ともすると現実の課題とかけ離れた研究に陥りがちな従来の“アカデミックな“ 大学院とは一線を画し、「理論と実践の架橋」を目指す教職大学院こそ、その中核として期待される。現に兵庫教育大学や福井大学などの教職大学院は意欲的な取組を進めており、教員採用実績でも成果を挙げている。

これからは教員養成の場が大学院か学校現場かという二元論ではなく、答申が示すように大学と教育委員会が連携し、さらには地域の教育力も広く結集して、社会全体で教員を育てていく環境を醸成の構築していくことが不可欠である。学位と直結した「修士化」ではなく、多様な学修を含めて「修士レベル化」としているのもそれゆえだろう。

とは言え、一部に定員割れがあるなど教職大学院にも課題は少なくない。文部科学省は、まず有識者会議で教職大学院の設置基準やカリキュラムのあり方を具体的に示し、ここでどのような力が付くのかを早急に明らかにすべきである。それによって教職大学院が教員志望者の有力なキャリアパスになり、教育委員会も現職派遣を積極的に考えるようになるだろう。設置に二の足を踏んできた大学の前向きな検討も促されよう。この課題には政権がどうなろうとも、ぶれずに腰を据えて取り組んでほしい。 


2012年11月14日水曜日

介護とは、生きるとは、何か

母親の遠隔介護をしている立場から、心打たれた記事がありましたのご紹介します。


寄り添うことも介護 認知症の母に学んだこと 詩人 藤川幸之助氏(2012年11月9日 日本経済新聞)

母親の介護をテーマに詩を書き続けている詩人がいる。藤川幸之助氏(50)。介護をまだ経験していない人たちは、介護の美しい部分だけをすくい取ったり、つらい部分から目をそむけたりしがちだが、藤川氏はつらいことも、楽しかったことも、すべてを詩にして伝えてくれる。藤川氏の母親は、長い闘病生活の末、先ごろ亡くなった。藤川氏の様々な詩から、「介護とは、生きるとは、何か」が伝わってくる。

「じっと見つめる」ことでコミュニケーション

- まず、藤川さんのお母様に対する思いのこもった一編の詩をご紹介します。

「そよ風のような幸せ」

母が死に向かって
一歩一歩
歩いている
私は見えない幸せを探して
一歩一歩
歩いている

時には私の道を
母の道に重ねて歩く
いつか必ずと言える
幸せが見つからない
死に向かっている母の中に
どんな幸せを
見つけていけばいいのか
母の死を見つめている私の中に
母とのどんな幸せを
願えばいいのか
食べ物を飲み込めなくなった母
やせ衰えてしまっている母
胃瘻を通すことになった母
こんな毎日に
どんな幸せが待っているというのか
死が待っているだけじゃないか

口を閉ざし、何も食べない母と
それを見て困惑している私に
寝たきりの隣のお婆ちゃんが
「心配ですね お母さんもがんばってね」
と励ましてくれた
母が私を見て笑った
そよ風のような微かな幸せを感じた

目指す幸せなどいらない
母が死にたどり着くまで
母と一緒に
生きていることに
幸せを感じていけば
これが幸せなのだ
そよ風のような幸せを
感じていけばいい
それでいいのだ

- 藤川さんのお母様は闘病の末に9月30日に亡くなられました。

続き



2012年11月9日金曜日

汝なんぞ指をみてしかも月をみざると

朝日新聞の天声人語(2012年11月9日)をご紹介します。


月を指(ゆび)さしているのに、肝心の月を見ないで指ばかり見ている。つまり、目の先のものにかまけて、ことの本質に目が向かない。分かりやすいからか、似た例えは世界にあるようだ。親鸞にも「汝(なんじ)なんぞ指をみてしかも月をみざると」のくだりがある。

高名な宗祖と暴走大臣を並べるのも何だが、田中真紀子文科相をめぐる騒動にも同じことがいえないか。非難の声は高く、野党からは問責決議の声も上がる。だが政争の具にするばかりでは、指の先の月を見ないことになる。

たとえば、大学を新設するプロセスも一般にはわかりにくい。認可が下りる前から建物が造られて、募集のPR活動が行われる。これを奇異に感じる人も多いのではないか。

大学の設置認可制度の手引を文科省が作っている。見ると、「新規参入のハードルは格段に低くなっている」「不認可とされる事例は極めてまれ」といった文言がある。これでは乱立もやむを得なく思われる。

そして今、総定員が進学希望者より多い全入時代である。独自の試験をせずにセンター試験ですませ、中には学力審査がない大学もある。仮に学生の頭数がそろえばいいという了見なら、学ぶ者のための大学か、経営者のための大学か、わからなくなる。

迷惑きわまる真紀子台風だが、暴君キャラをあげつらって終わり、にはしたくない。政治もメディアも、「文教ムラ」の空にかかる月を、一度よく吟味する必要があろう。教育は国の基(もとい)だから、くすんだ月であってはいけない。


2012年11月8日木曜日

国立大学法人の改革推進状況

去る11月7日(水曜日)に開催されました国立大学法人評価委員会総会において、国立大学法人の平成23事業年度に係る業務の実績に関する評価結果が確定しました。

文部科学省からの通知には次のような記載があります。(下線は拙者)

平成23年度に係る業務の実績に関する評価結果等について(抄)

1 評価結果の取りまとめの考え方

(1)全体評価について

第2期中期目標期間における評価については、中期計画や年度計画に掲げられた事項が達成できたかどうかだけでなく、いかに高い目標を掲げて意欲的に取り組んでいるか機能強化に向けて各法人の個性や特色をより明確にしていくよう取り組んでいるかなどについても留意し、各法人の質的向上を促す観点から、年度評価、中期目標期間評価のいずれにおいても「戦略性が高く意欲的な目標・計画等は、達成状況の他にプロセスや内容を評価する等、積極的な取組として適切に評価する」ものとしており、評価委員会において、これに該当する計画と判断した取組については、全体評価の中で記述しています。

(2)項目別評価

これまでは、当該年度に各法人が取り組んだ事項を幅広く、注目される事項として記載していましたが、今回からは、取組の結果として具体的な成果が認められたものなどに精選し、各法人の取組の進捗がより見えやすいようにしました。

これに関連して、具体的な成果が認められるに至っていないものの、他法人の参考となる取組は、「国立大学法人・大学共同利用機関法人の改革推進状況」に別途取り上げています。

なお、今回、以下の課題について複数の法人に対して指摘が行われています。
  1. 会計検査院の決算検査報告において、職務上行う教育・研究に対する教員等個人宛ての寄附金についての不適切な経理処理を指摘されたもの。
  2. 平成23年度中に研究費の不適切な経理処理が確認されたものや利用していない土地・建物等の処分及び有効活用に関して改善を求められたもの。

(3)東日本大震災への対応について

平成23年度においては、各法人とも震災からの復旧・復興等に向けて様々な取組がなされていることが国立大学法人全体の取組として評価されています。その観点から、新たに「Ⅲ 東日本大震災への対応」を設け、各法人の代表的な取組を参考に記載することとしました。

また、これらの取組については、国立大学法人等全体の取組として、「東日本大震災からの復旧・復興等に向けた国立大学法人等の取組」として整理しています。

2 今後の留意点

(1)研究費の不適切経理処理に関する評価については、「研究費の不適切な経理事例に対する評価の取扱いについて」のとおりとされていること。

(2)経営協議会の学外委員からの意見を積極的に取り入れ、法人運営の改善等に活用しているものの、その状況を公表していない法人(38法人)がありました。これらの法人にあっては経営協議会の学外委員の意見とそれへの対応を一覧表などで、分かりやすく公表するなどの取組が求められます。

(3)学校教育法施行規則第172条の2に基づく「教育研究活動等の情報の公表」について、すべての法人がウェブサイトで公表していますが、当該情報がウェブサイト上で分散して掲載され、分かりやすく1箇所に集約していなかった法人が見られたため、さらに活用されるよう、利用者の視点に立った工夫が期待されます。


次に、評価結果の概要等について、文部科学省のホームページを引用しご紹介します。


(関連報道)東工大に業務運営の改善求める(2012年11月8日 NHKニュース)



2012年11月7日水曜日

文部科学省の政策目標

このたび、文部科学省の実施する政策評価に関わって、目標・指標シート(平成25年度に実施する施策【概算要求版】)が公表されましたのでご紹介します。


文部科学省では、「行政機関が行う政策の評価に関する法律」(以下「政策評価法」という。)などに基づき、所管する政策の評価を行うとともに、客観的かつ分かりやすい評価が行われるよう、毎年評価の実施方法を改善しています。

平成13年1月の中央省庁等改革に伴い、政策評価制度が全府省に導入されました。14年4月からは、政策評価法が施行され、各府省において、政策評価の適切な実施に取り組んでいます。

政策評価は、次のような点を目的としています。
  • 国民本位の効率的で質の高い行政を実現すること
  • 国民的視点に立った成果重視の行政を実現すること
  • 国民に対する説明責任を果たすこと

これらの実現に向けて、政策評価を「企画立案(Plan)」、「実施(Do)」、「評価(Check)」、「企画立案への反映(Action)」というマネジメント・サイクルの中に、制度化された仕組みとして明確に組み込んで、客観的かつ厳格にこれを実施することが求められています。

実績評価の実施に当たっては、政策の体系を明らかにするため、「文部科学省の使命と政策目標」を設定し、政策目標、施策目標及び達成目標を設定ごとに達成度合いを測定するため、できる限り定量的データなどを用いて分析を行い、施策の効果について検証しています。(文部科学省ホームページから引用)


政策目標4 個性が輝く高等教育の振興



その他の政策についてはこちらをご覧ください。


2012年11月6日火曜日

求められる官僚の自浄作用

「会計検査院報告 増税を強いる状況か」(2012年11月5日 東京新聞社説)をご紹介します。


会計検査院が2011年度の国の決算検査報告を公表した。税金の使われ方が問われている時に、相も変わらぬ省庁や独立行政法人の無駄遣いがあぶり出された。納税者に対する背信行為である。

財政は危機的状況と叫び、復興増税や消費税増税を強行する一方で、官僚のでたらめな予算消化や甘すぎる事業見通しがまかり通っている。増税を行う前に行政の無駄を省いてほしいという納税者の切なる思いを踏みにじるものだ。

たとえば、民主党の看板政策である農業者戸別所得補償制度で実際は対象作物を耕作・販売していないのに交付金を数千万円も配り続けていたり、防衛省では電子機器をカタログ価格の十倍で賃貸契約したり…。独立行政法人・日本原子力研究開発機構は次世代型高速増殖炉「もんじゅ」と関連事業に人件費約440億円などを計上せず、公表した総事業費(10年度までに9,265億円)は実際より1,546億円も少ないなど極めて不正確だった。

今回の検査院報告で、不適切なお金の使われ方と指摘したのは513件で、金額は過去二番目の5,296億円に達した。あらためて官僚の無軌道ぶりと、それを許してきた政治の体たらくに嘆息する思いである。

官僚は予算獲得には必死になるが、取った予算を適切かつ効果的に使おうという意識は薄い。予算が適切に使われたかをチェックする内部監査もない。民間ではとても許されない甘さだ。

本来なら税金を預かる官僚こそ、正確性や透明性はもちろんのこと、より少ない費用で実施できないかという「経済性」や同じ費用でも最大限の成果を得る「効率性」の原則が求められるべきだ。民間では当たり前の問題意識が決定的に欠けているから、漫然としたまま無駄なお金の使われ方が後を絶たない。

検査院は今回、民間にならい省庁に内部統制が機能するよう改善を求めた。検査院の担当官は約千人いるが、調べられるのは決算の一部である。指摘した案件は氷山の一角に違いない。官僚に“自浄作用”を期待するのも分かるが、過剰な期待は禁物だ。

検査院はもっと各省庁に無駄減らしを迫り、必要なら検査院の権限強化など制度の改正も求めるべきである。行政刷新会議の「事業仕分け」との連携も視野に入れるなど、納税者の期待に応える無駄削減に全力をあげてほしい。



2012年11月3日土曜日

社会の変革エンジンになるということ

文教ニュース(平成24年10月22日)に掲載された「木を植えるというミッション」をご紹介します。


大学という”装置”の最大のアウトカムといえば、何と言っても「有為な人材の社会への輩出」であろう。古今東西の大学の一番の目的もそこにあると考える。つまり、教育機能である。これは、叡智が生み出し、今日まで維持されている最適の教育装置である。

現在、学部のミッションの再定義が話題になっているが、その議論の一つの出口を、まさに、「出口」の問題として考えたい。

社会人のすべてが大卒ではなく、かつ、学問と職業はすべてがつながっているとは言えないものの、国内外の各産業は、その職種・業種に関連のある、いずれかの学部なり大学院を出た人が支えていると言ってもよいであろう。議論を転回すると、当該産業を支えているのは関連する学部で、当該各産業が我が国の社会を支えているとすれば、畢竟、我が国を支えているのは各の学部教育ということになる。

そこで思うのは、宮城県や広島県で行われている牡蠣の養殖のための植樹事業だ。牡蠣の美味しさの秘密は、その湾が養殖に最適な地理的環境とともに、その好餌となる植物プランクトンが豊富ということも挙げられ、海の漁場環境を守る為には森林の環境保全が不可欠となるらしい。そこで、美味しい牡蠣を作る=植樹ということになる。

社会の変革も、もっと奥深く、泉源から醸成していくことが必要だ。いうところの「植樹」=大学教育で、そういう意味で大学が社会の変革エンジンになるということなのであろう。ただ、国立大学法人法では、大学の経営について、経営協議会や学長選考方法という装置によって社会の声を反映する仕組みが備わっているが、学部は依然閉じた箱だ。だからこその再定義なのでもあろう。

改革、そして教育の現場である学部に焦点をあて、閉塞した社会を再度切り開くための植樹事業として、世を挙げて大学・学部教育の充実方策を財政や法制度、システム、ガバナンスの面から再検討し、大学の機能強化に結びつけねばならない。

我が国の近代化は大学の「学部」のいずれかの門から始まっている訳だが、国家百年の大計の下、創設当初から各時代において、時には当時の為政者の英断により、国力不相応の財政投入までしてきた。その投資は、大学人たちの魂を揺り動かし、近代化と人類の福祉向上に貢献してきた。今日、900億の削減や人件費・退職金の減は、国立大学の将来の見通しを不透明にしているが、今こそ、山中先生はもちろんだが、数多の赤ひげや金八先生を輩出し、または各地の地場産業、そして世界の主導産業たる自動車産業、繊維産業を牽引し、さらにはスマホの開発者を世に出してきた、等という幾多の具体的な輝かしいエピソードをデータを含めて社会にアピールし、そのことによって学部教育の来し方行く先を世に誇示し、問うてはどうか。それが、国を挙げて「森林の環境保全」をするための「てま・ひま・かね」を再投入するきっかけとなることを冀望する。


2012年11月2日金曜日

大学改革の行方

民主党の大学改革ワーキングチームが策定(平成24年7月20日)した報告書から、気になった部分を抜粋してご紹介します。


今、成熟社会・知識社会において、我が国は、「知的創造立国」の時代、高等教育機関や学校が社会を牽引する時代になっている。民主党大学改革ワーキングチームは、さらに「頼れる(伸ばす)学修大学(ラーニングユニバーシティ)、「強い研究大学(リサーチユニバーシティ)」を形成するための次のステップに向けた戦略について審議を行った。

その結果、今直面する課題への対応だけではなく、これから5年から10年先も見通した上で、成熟社会である我が国を高等教育機関がリードするための国家戦略としての大学改革を中心に以下のとおり取りまとめた。

各論4 日本の高等教育機関の改革のための基盤形成

(4)高等教育の機能別分化と流動性の向上

大学教育の多様な機能を発揮するためには、個性や特色を明確化していく必要がある。大学といっても、真理を探究する人材を育成するための大学もあれば、高度の専門能力を身につけ、職業資格を取得するための大学もある。例えば、これから雇用増が見込まれる医療・福祉・保育・教育などの分野では、その職につくための資格として、そもそも大学卒や大学院卒を前提・標準としているものが数多くある。情報通信分野についても、大学卒業が採用の標準となっている産業分野も増えている。

このようにそれぞれの大学の機能を明確にし、機能別分化を進めることは、第一に、高度な知識基盤社会に見合ったユニバーサル・アクセスの環境、すなわち世界の常識となっている「いつでもどこでもだれもが高等教育を受けられる」環境を整備することにつながる。特に、これからの時代は、高校を卒業して一度社会に出た人がもう一度大学・短期高等教育機関に入って学び直すことが就業構造の変化に対応していくためには不可欠であるにもかかわらず、大学生のうち25歳以上の平均在籍比率は、OECD諸国の平均は20%だが、我が国はわずか2%という状況にある。大学には社会人あるいは留学生の存在が非常に大事であり、この世界の常識を日本社会の常識にしていかなければならない。日本の大学教育を「少数で特定の層」に限定するのではなく、知的基盤社会のグローバル化に耐え得るよう大学教育の質の向上を図りつつ、個性や特色ある多様な大学・短期高等教育機関が知的市民を「分厚い中間層」として幅広く育成することが、我が国の高等教育政策上の重要課題である。その場合、工業社会時代の職能や技術の伝授・再訓練の場にとどまっている職業能力開発のリソースを省庁の壁を越えて大学・短期高等教育機関を舞台に産業構造の変化に応じたケア人材や新しいタイプのホワイトカラーの養成に活用することも必要である。

第二に、教員や学生の国内外にわたる流動性の向上も要請される。教員や若手研究者の海外への派遣や外国人研究者の受入れによる研究の国際力の向上、機能別分化が進む大学間の教員や学生の移動、特に、学生が渡り鳥のように大学を移動することは若者の自立と主体性の育成の観点からも有益であり、大学の定員管理の柔軟化などの検討が必要である。

大学が個性・特色を明確化し、その機能を果たしていくためには、大学においても大胆な経営を行っていくことが求められる。学内においては既存の組織について不断の見直しを行っていく必要がある。また、大学間の連携をこれまで以上に強化することによって経営資源を持ち寄り、単独の大学ではなしえないような教育研究環境の改善に向けた投資が可能になる。大学間連携を大胆に進め、大学の強みを結集することにより、結果として個々の大学の機能強化が図られる。効率的かつ大学の質が向上する大学運営への答えは、大学の統廃合ではなく、大学間連携であると考える。そのため、例えば、国内外の大学等と連携した教育研究を支援することはもとより、国立大学が一法人で複数の大学を設置することや、国公私の設置者を問わず複数の大学が出資することによって共同の教育研究組織を立ち上げることが可能になるような環境整備を検討することが必要である。

(7)大学マネジメントの改善とガバナンスの確立

大学のマネジメントは複雑である。なぜなら、利潤を生み出すというわかりやすい目標ではなく、人材育成、研究、社会への還元をはじめその目的が多元的であり、その成果も測り方を含めて多元的だからである。加えて、大学の構成員である教員の自律性が教育研究の成果を生み出す前提となっている。大学のマネジメントは、組織力を生かすのではなく、自律性を強みとした教員社会と向き合いながら、その能力を最大限引き出しつつ、一方で、実社会と協働していくことが求められるといった難しさと特性を有している。このような大学のマネジメントを行うためには、単に民間企業経験者を外部から迎えるというだけではなく、大学マネジメントの特性を理解し精通した「人財」を育成し、大学が配置していく必要がある。

このように、大学の特性を踏まえ活かしつつ、大学が社会のニーズを聞き、それに応えていくことは極めて重要である。これまでも、大学の経営陣は社会の動向に対して反応し、また職員も執行部を支えて連携を深めるようになっているが、一般の教員に対してどれだけ社会の動向や大学のビジョンを共有できているかが課題である。

本年3月に経済同友会教育委員会がまとめた「私立大学におけるガバナンス改革」は、大学のステークホルダーを学生・保護者・国だけではなく卒業生の9割が働く実業界や高校などより幅広くステークホルダーを意識し、社会への大学からの現状・ミッション・改革方針等の発信を強化するとともに、こうした関係者からの評価と対話と協働を深めていくという観点から的確な分析と極めて当を得た提言をなされており、この提言なども参考にしながら、私学の特色である建学の精神や多様性を十分生かしつつ可能なマネジメント改革を進め、我が国の成長と公正の鍵を担う高等教育の責任を果たしていくことが重要である。

国立大学については、法人化後、法人化のメリットを活かした組織運営ができているかについて、問い直す必要がある。特に、国立大学法人の教職員は非公務員型を採用したにもかかわらず、法人化前の給与体系が維持されている。優秀な研究者の獲得競争が世界規模で激化している中で、例えば、兼職兼業の大幅な弾力化、1年の限られた月数のみ勤務する教員といった多様なタイプの勤務体系、国の俸給表を使わない多様な給与制度など、柔軟な勤務体系、給与制度を各大学が採用することが求められる。その際、柔軟な給与体系が可能となるよう、国は、大学の教職員のラスパイレス指数に着目することを止め、世界から優秀な研究者をしかるべき処遇で迎えられるようにすべきである。

また、国立大学が自治的な運営を行っていくことに対し今後も国民の信頼を勝ち得るためには、大学の自主的・自律的な経営判断によって、社会から期待される機能を果たしていくことができるよう、国立大学の学長がリーダーシップを発揮できるような体制づくりも必要である。現在大学に置かれている理事や経営協議会、教育研究評議会がより機能するために、コーポレートガバナンスの議論も参照しつつ、大学がその実情に応じてガバナンスの仕組みを選択できるように、複数の選択肢を用意することも考えられる。例えば、学長及び理事で構成される役員会の執行権限を明確化することにより、学長を支える経営組織を強化するとともに、経営協議会などの合議体組織については、執行機関が行う大学経営に対する監査・監督機能を強化することにより経営の公正性・透明性を確保していくなど、それぞれの組織の権限と関係を明確化することも考えられる。