2013年1月22日火曜日

ここが変だよ、日本の大学(1)

IDE-現代の高等教育」(No.547 2013年1月号)から、ブルース・ストロナクさん(テンプル大学ジャパンキャンパス学長)が書かれた論考「日本の大学の課題-外国人学長の視点」を抜粋してご紹介します。

個人的には、久々に価値観を共有する論考に出会えて喜んでいます。やや長文ですので3回に分けてご紹介します。


「どこにあるか・何をするか」より「いつやるか」

1985年には15~19歳人口900万人に対して大学数は460校だった。2009年には同600万人に対して大学数は773校にまで増えた。この影響は大きい。私大の46%が定員割れとなり、学力偏差値は下落。1991年から2011年の間に、私大の平均志願倍率は13倍から7倍に下がった。このような事態を招いたのは、文部科学省を含む日本の大学関係者が、質の高い高等教育制度を維持するために不可欠の、しかし困難を伴う決定を先送りしてきたためである。

大学改革の名の下、制度や手続きの改変を行った大学は多い。しかし、もっと根源的な問題は手付かずのままだ。課題の認識やその解決策の考案という段階は、もう過ぎている。何をすればいいかわかっているのに、組織もリーダー個人もその実行ができない。それが、大学だけでなく今の日本社会全体が抱える根源的な課題だと思う。

バブル崩壊、そして社会経済システムの急速なグローバル化開始から20年。日本はいま、組織の構造も考え方も劇的な変化を迫られている。それは、過去の開国や敗戦に匹敵するインパクトのものだ。しかし今回、東京湾には黒船も戦艦もいない。日本人自身が日本のために改革を成し遂げる必要がある。

私は日本の高等教育界を内側から見るという特別な機会に恵まれた外国人として、上記のような観点から本稿を執筆したいと思う。以下、①グローバル化と国際化、②教務改革、③リーダーシップとガバナンス、そして④資金調達について見ていきたい。

グローバル化と国際化-内なる競争を生み出す

日本で「自由競争」という言葉が持つ意味は、たとえば米英のそれとは文化的に異なると思う。大学の世界にも「競争原理」が持ち込まれて久しいが、その原理はどれほど機能しているだろうか。改革が進まないことの直接的な原因は、大学同士の、そして大学内部の競争の欠如にある。

本格的グローバル化元年ともいえる1990年以降、先進国の教育制度に求められるものは劇的に変化した。ビジネスもマネーも技術も情報も、一瞬にして国境を越える時代、英語によるコミュニケーション能力だけでなく、海外の文化・商慣習を吸収する能力も重要になった。だからこそ「グローバル化/国際化」は大学改革の合言葉になったのであるが、にもかかわらず、日本の大学の多くが時代の要請に応えているとは思えない。

まず言葉の意味を考えたい。私は、大学にとってのグローバル化を「学生・教員・資金をめぐる世界競争」と定義する。日本の大学はここ数年、学生の獲得競争のための手段は開発してきた。しかし残りの2つ-教員と資金-については、これからもっとシビアな世界的競争を覚悟する必要がある。

グローバル化が外との競争なら、その競争に勝つために必要な「大学としての特質・属性の開発」が「国際化」の持つ意味である。つまり国際化とは、大学内部の問題なのである。しかし、そもそも大学の内部には積極的なイノベーションや競争を促す環境がほとんど醸成されていない。学生は成績不振でも退学させられる心配はほとんどない。教員がクビになることもまずないし、そのパフォーマンス評価も適切な手法で行われているとは言いがたいのが現状である。

「勝つための属性」としての国際化を進めるためには、教務も事務も国内外の競争相手を見極め、ベンチマークし、そのベストプラクティスを採り入れる必要がある。たとえば、外国人留学生や外国人教員の数は国際化を測る一指標ではあるが、数だけ競っても無意味である。大事なのは、外国人の存在が「お客様」ではなく、学術プログラムや組織の一部にきちんと組み込まれているかということ、つまり大学全体の多様性や公開性(これらはベストプラクティスの基本要件である)の一部として評価されるべきである。そしてそこには、必然的に公正な競争と正当な評価という仕組みが組み込まれているはずなのだ。(つづく)