2013年2月10日日曜日

教育財政と財政規律(1)

平成25年度予算の政府案が去る1月29日に閣議決定され、現在国会において審議が行われています。

文教予算、とりわけ大学に関係の深い高等教育、科学技術関係予算案の内容については、既にこの日記でもご紹介したところです。

政権交代後初めて行われる予算審議になりますが、与野党は決して従前のような党利党略に走るのではなく、お金がないといって消費増税を国民に求めているのですから、真に国民目線の真摯な政策論議に緊張感をもって臨んでほしいと思います。



ふとしたことから、故大平正芳内閣総理大臣が書かれた「財政つれづれ草」(1953年10月発行)という本に目を通す機会を得ました。書かれてから随分時間が経過しておりますが、予算のバラマキに終始し、借金まみれになってしまった我が国には、今こそ当時のような財政規律を重んじ守り続ける覚悟が必要なのではないでしょうか。抜粋してご紹介します。


教育財政

教育というようなことは、勿論これに要する財源の多寡によって、その優劣を判断できるものではない。小さい塾の中で、新しい日本を打建てる基礎を培った松下村塾もあった。学校が輪かんの美を誇り、設備の充実と豊富な蔵書をかち得ても、それだけでは何も意とするに足りない。立派な教育内容をもち、立派な人物を養成しなければ、無用の長物になりかねない。

ところが、終戦の前後から、我が国の文教行政は、学校の新設拡充、教職員の待遇改善等、謂わば、外形的な充実を計るに急であって、教育内容のことはおきざりにされていた怨みがある。私が大蔵省主計局で文部省の主査をやっていた昭和17年、文部省は、何と15の高工、11の医専、4の高師を一挙に新設してもらいたいという不敵な要求を提出してきた。その他数多の研究所の新設も併せ要求してきた。

私はその尨大な要求を受けて、実のところ唖然とした。勿論予算の当初要求というものは、決してそれがそのまま通過する等とは考えていないこと位は、百も承知であった。だがもう少し真面目に提案してもらい度いと思った。学校を新設することを、株式会社の設立のように、無造作に考えられては、たまったものではない。学校というものは、その経営がうまく行かなければ、株式会社のように簡単に解散するわけにも行かない。卒業生と在校生とその父兄というものは、その学校に、利害と打算を超えた執着と誇りとをもっているものだ。それを簡単に解散させる等という離れ業は、到底できるものではない。過去においても、閉校した学校というものをわれわれは余り聞いたことがない。従って、学校を設立する等ということは、慎重の上にも慎重を期してやらなければならない性質のものである。それなのに、こんなに沢山の学校を一度に造ってくれ等というのは、何としたことだろうと天を恐れない大胆な要求に公憤を禁じ得なかった。私は、この学校新設予算と取組むに当り、どこにメスを入れるべきかを種々苦慮した揚句、こういう資料の要求を先ず文部省にした。当時の文部省の会計課長は、現東京教育大学長の柴沼氏であった。

「貴方の方では、高工を15新設してくれというのだが、一体どういう根拠でこれを要求されるのですか。大蔵省にしてみても、学校の数が多い程よいから作ってもらいたいというのでは、御相手になれないではありませんか。そこで、御面倒でも、これだけの学校の新設を目論まれる文部省としては、工業技術者を、どの産業にどれだけ配置できるようにし度いかという基礎的な計画がおありのことと思います。ついては、一つその資料をいただいて検討してみたいと思います。」

柴沼さんは暫く考えこまれていたが、やがて「なかなかむずかしいことだと思いますが、企画院の方とも相談して、お答えしますから、暫く猶予を願いたい。」と言った。二、三日して、柴沼さんは「御要求の資料の作成は、なかなかむずかしい注文です。われわれの間で、色々考慮しましたが、昭和14年という年が、日本の各産業が、最もよく技術者や技能者に恵まれた年で、労務者に対する技能者の割合が一番高い年です。その後は動員のため年と共に悪くなって来ました。文部省としては、結局、昭和14年の状況にまで早くとりもどしたいと思いまして、理科系統の学校の増設を考えているわけです。」

そこで私は、「それでは、現有施設に収容中の学生が、新増設の学級の完成年度(昭和22年度)において全部卒業した暁には、どういう状態になりますが。つまり、養成中の学徒が全部卒業して職業に配置された場合、文部省の要求されている昭和14年度の水準にまで到達できるかどうか、一つ調べてみていただけないでしょうか。それを見た上で大蔵省としての態度を決めましょう。」

文部省は、私の要求によって、完成年度に於ける技能者と労働者の比率を計算したのであった。その結果は、学校を増設したり、学級を増加しないでも、現存の施設で、既に文部省の要求を充たして尚余りがあることを確認したのであった。こういう寸法で、医専についても高師についても、同じ結果を得たので、私は、スッパリと学校増設案を一蹴してしまったのである。

ところが昭和17年もおしつまった大晦日の夕刻であった。昭和18年度の予算の計数整理を了え、1月4日の初閣議に提出すべき書類をまとめた上で、机の上を片付けて帰宅の準備にとりかかった時に、私は植木主計局長から呼出を受けた。今頃一体何だろう。大晦日で早く帰って一風呂浴びて、楽しい正月を待とうと考えているのに、局長は何と情のない人だろうと、心中不平を抱いて局長室に入った。局長は、言下に、「君、長野に高工を、前橋に医専を、夫々作ることにして予算を計上してもらいたい」と言った。私が、「それはどういうわけですか。私と文部事務当局との間には、既に学校を一つも造らないということで、ちゃんと話がついておりますのに」と殆んど反抗的に拒絶の姿勢で抗議した。局長は、浮かぬ顔をして、「いや、これは手の届かないところで決められたのだ。どうにもならんのだ。ともかくも計上してくれ」と繰返して言うのであった。高工とか、医専をつくる場合の初年度の経費は、当時の金で一校当り、5、60万円であった、私は学科、学級、教授、助教授の定員並に営繕費等を決めて、柴沼会計課長に来てもらった。

「長野に高工、前橋に医専を作れと上司が言うので一応このように格好をつけましたが、文部省はこの二つの学校を御受取りになりますか」と私は柴沼さんに尋ねた。内心私は、柴沼さんから、「それは折角だが御断りいたします。文部大臣(当時の文相は橋田邦彦氏であった)が知らないうちに、どこかの闇取引でできた学校などは、文部省としては迷惑です」という言葉を半ば期待しておったが、柴沼さんは、「有難うございました」といって町重に御礼を言って、二つの学校の経費をもって帰られた。柴沼さんの御立場としては已むを得なかったことであったろう。

この闇取引というのは、当時の蔵相賀屋興宣氏と、信州出身の青木一男氏(当時の大東亜大臣)並びに、上州出身の星野直樹氏(当時の内閣書記官長)との間に交わされた話合であったことは後で判った。折角の学校新設反対の私の立場は三人の政治家によって、部分的に改訂させられたわけである。その次の年は、最早、私は、文部省主査ではなかったのであるが、次々と専門学校が矢鱈に増設されて、栄養失調の学校が雨後の筍のようにふえたわけである。終戦後、我が国は、72とかの国立大学を擁しているが、学校の大量生産が、教育の振興にプラスになっているかどうかについては、私が殊更批評しなくても、世の識者がその解答を与えてくれる、であろう。


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