2014年2月26日水曜日

名脇役

学校法人東邦学園愛知東邦大学 理事・法人事務局長/学長補佐の増田貴治さんが書かれた「大学職員の力量を高める」(文部科学教育通信 No333 2014.2.10)を抜粋してご紹介します。


石垣のように個々人を活かす

教職員の協働作業は、互いの立場や役割を認識するだけでなく、性格や専門的な能力などを、認識し合える機会となる。こうした機会を多く作り出し、教職員の相互理解、一体感の醸成へとつなげることである。職員には協働性を高める役割、”人や組織をつなげ、ひろげる”任務があり、重要性はますます高まるだろう。

教職協働を考えるに当たって、もう一つは組織の組み立て方を”レンガ作り”か、”石垣”にたとえるかである。異なる個人の持ち味や能力を活かそうと考えれば、同種の石や同型のレンガ造りよりも、石垣を積み上げる発想の方が、柔軟かつ強固な構造につながるのではないか。個々人の能力を最大限に発揮できるように組み合わせてこそ、最高のパフォーマンスが発揮されると考える。ただ、石垣はもう一つの特徴がある。窮屈でなく、息苦しくない代わりに、必ず”隙間”ができることだ。隙間が広がり過ぎると、石垣は崩れる。

それには、隙間を埋めていく目配りが欠かせない。実は大きな隙間が生じて、本学の未熟さを学外にさらけ出す手痛い失策があった。しかも、本学が重視してきた地域と連携した教育実践の中で起こしてしまった。

互いの眼差しを変えてみる

愛知東邦大学は2011年度、地元の名古屋市名東区役所から、区をPRするDVDの作成を依頼された。名乗りを上げた専門ゼミが中心となり、意気込んで取り組んでいるものと思い込んでいた。ところが昨年9月、学園の地域担当課長が打合せに区役所へ出向くと、地域担当の責任者が言いにくそうに、「少々申し上げにくいことですが・・・。実は完成した品物をまだ受け取っていないんです」と切り出し、本学職員は仰天した。2013年3月末に納品されるべきDVDを、期限から半年過ぎても届けていなかった。

調べてみると、完成させた作品を一旦は見てもらい、区長をはじめ幹部職員にプレゼンテーションをしていた。その場で数箇所、変更要請が入り、手直しを加えて最終版を納品するところまではこぎつけていた。ただ学生にとっては、意に沿わない修正だったようで、頓挫したという。やる気を失って放置していたとの説もある。プロジェクトに関わった当時の4年生は既に卒業。大慌てで担当教員が修正作業を行い、完成版を届けた。今は区役所のロビーで放映されている。

反省すべきは、職員を通じて区役所が頼んだプロジェクトを、大学執行部が担当ゼミに割り振れば役目を果したと、安直に済ませたことだった。進捗管理などはほとんど行われず、担当教員任せだった。学外と関わるこうした事業こそ、教職協働で取り組む必要があった。

失策は起きるべくして起きた。多くの教員が、ゼミ活動に職員が関与することを良しとせず、しばしば職員は用事・注文を聞いて回る”御用聞き”になることがあった。さまざまな教訓を踏まえて成功裏に終えられたのが、冒頭の少年サッカー大会である。

名脇役に話を戻そう。真っ先にイメージするのは、女優の故沢村貞子さん。名エッセイストでもある沢村さんは、実生活を「ほかに能がないからね。せめてせっせと働かなけりゃ」「母は自分が自分がと思わないで、みんながみんなが、と思っていた」と振り返っている。ひた向きで控えめな生き方が、名脇役としての演技にもつながったのだろう。教員との間合いの取り方は難しいが、沢村さんのように考えれば、職員としての仕事への向き合い方も変わっていくのではないだろうか。


2014年2月25日火曜日

学長のリーダーシップと教授会の機能

桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれた中教審の『ガバナンス改革論』を読む」(文部科学教育通信 No333 2014.2.10)をご紹介します。


開始半年でまとめの公表へ

大学のガバナンス改革を審議してきた中央教育審議会大学分科会組織運営部会は、去る12月24日、このことを表題とする審議まとめを公表した。5月に行われた教育再生実行会議の第三次提言「これからの大学教育等の在り方について」を受け、6月に審議を開始してわずか半年で具体的な改革方策に踏み込んだ「まとめ」の公表にこぎつけたということは、政策当局の並々ならぬ決意がそのバックにあるようだ。その決意が大学の教育・研究の活性化にどのようにつながるのか、という問題意識でこれを読んでみた。

本文46ページからなる長文のまとめである。全体を通じるトーンは「学長のリーダーシップ」の確立にあると見て間違いあるまい。学長に適任者を得て、彼らが大学を思うように動かしていくのを、中教審(つまりは政策当局)はこれからの大学経営・運営のあるべき姿と考えているのであろうか。ただし、「リーダーシップ」は役所的な「指揮・命令」でもなければ、従来の大学にありがちであった「調整」型のガバナンスでもない。大学という組織がもつ特性にある程度の配慮がうかがえる言葉であると思う。

それにしても、学長のリーダーシップの発揮は簡単なことではないだろう。さまざまな分野かつ多数の教職員を抱える総合大学を想定すると、これを一人の学長がリーダーシップを発揮して全体をまとめていくということの困難さは容易に想像できる。仮に学長の補佐体制を確立し、部局自治の拠り所とみなされる教授会の力を殺ぐのに成功したとしても、果たして学長の下に教職員の持てる力を集約することができるだろうか、またそれが望ましいことであろうか? 私も経験あることであるが、実務的な仕事をする場合、相手方の責任者が誰であるかが明確であることは、仕事の当事者としてはありがたいことである。いわば「窓口の一本化」である。しかしその窓口を一本化するのと同じ発想で学長のリーダーシップを形式的に確立しても、多様な大学内の実情を知る者としては、これははなはだ不安定なものではないかと思える。

容易でないリーダーシップ確立

その不安定な学長のリーダーシップなるものを、実質的に支える役割をこれまで教授会は担ってきたのではあるまいか。昨年秋のこの連載(No324)でも触れた通り、日常的な教授会は、学長や学外の諸勢力に対抗するパワーの源泉であると同時に、多様な行動特性をもつ教授たちに自己規律を促し、また彼らを動員して大学の諸活動を円滑に進めるような機能も果たしてきた。学校教育法でいう「重要な事項」には、教育・研究を遂行するために必須のさまざまなことがらが含まれており、ここから学長の経営権限を明確に分離することは不可能に近い。また強いて分離すればガバナンスの空洞化を招く恐れがある。

ただし、今回のまとめで提言されている教授会の機能制限すなわち、①学位授与、②学生の身分に関する審査、③教育課程の編成、④教員の教育研究業績等の審査等がその具体的審議内容であることを明確化するとともに、これらの事項についても学長が最終決定を行うことを明示するような方向で所要の法令改正を行うべきであるとしていることについては、すでに法人化以前の国立大学設置法施行規則に似たような規定があった。これについても今回と同様の議論があっての末に施行規則が改正されたものと聞いているが、当時の国立大学において、この施行規則改正が国立大学運営に特段の効果を及ぼしたという話は寡聞にして承知していない。

教特法の精神は今も重要

特段の効果を及ぼさなかったというのは、すでに当時から国立大学の教授会機能は従前に比べて弱体化しつつあったからである。私が勤務した筑波大学や広島大学においても、教授会の審議事項は施行規則改正の前後、それほど大きな変革があったという実感はなく、毎年決まった時期に審議される教務的事項を中心に淡々と議事が進行し、議論というよりは議長である部局長の説明に対して同意を与え、多少の注意点を指摘する程度のきわめて事務的なものであった。月一回の会議自体も二時間を超えることはめったになく、当時教育系の単科大学では教授会が数時間以上に及ぶといううわさを聞いて、あまりにも自大学と相違していることに驚いた記憶がある。その大きな要因は学長のリーダーシップそのものにあるのではなく、1990年代から始まる本格的な大学改革の動きの中、選択的予算配分や競争的資金の増加を前に、横並び意識の強かった国立大学が.自らの選択によって、硬直的な自治よりも予算獲得を優先することとし、教授会の機能を自己抑制したからではなかったかと、私は理解している。

もっとも当時と今との大きな違いの一つに、教育公務員特例法によって教授会が関わっていた人事に関する審議事項が、法人化によって制度上は無くなったことがある。しかしながら、教育・研究上の深い専門性に裏付けられた人材を教員として採用・昇任させるには、その妥当性を審査するのにふさわしい手続きが必要である。不利益処分の審査にも教授会が関わっていたのは、そのことが憲法上保証された学問の自由を実質的に担保するための不可欠な過程だと皆が理解していたからであろう。今回の審議まとめで、「法人化された国公立大学においては、教育公務員特例法が想定していた公権力の行使に対して、特に人事に関する大学の自治を守るための教授会という構図はなくなり、各国立大学法人・公立大学法人は、学長・学部長の選考や教員の採用等の手続について、任命権者としての学長又は理事長の下で、自由に整備できることになった」という認識・・・を示していることは、法制度論としてはともかく、大学の特性に対する配慮をいささか欠いているのではないだろうか。学長のリーダーシップにこだわるあまり、大学の特性への配慮が乏しくなるようでは本末転倒である。

審議会内にも多様な意見が

ただ、まとめ全体を読んでみると、審議会の中にもさまざまな意見があることが分かる。一方で教授会の審議事項を特定すべきであるという主張があると同時に、他方では「専門家集団として自律的な活動を行うことのできる教授会のような合議制の組織は、大学固有の組織である。重要な改革を行う場合、教授会での議論を経ることが一般的である」とし、意見調整の機能を持つ教授会を大切にすることによって、教授会の理解と協力を引き出し、また大学の構成員をやる気にしていくことの重要性も指摘している。さらには、諸外国とのガバナンスを比較した結果、各国で実質的に教員の関与が大きいとの記述が、この審議まとめにはある。「アカデミックな事項については、教員組織(教授団)に広範な権限が認められている」とのくだりを読む限り、教授会の機能制限論の影に隠れ、教員を企業の従業員のような扱いにするならば、世界の一流校の仲間入りは不可能であることが分かる。大いに自戒しなければならない。

紙数が尽きそうなので、あとは省略せざるを得ないが、今回のまとめの中で大いに評価すべきことが一つある。それは学長補佐体制の強化について、多くのスペースを割いていることであり、たとえば米国の大学で一般的な「プロボスト(総括副学長)」、高度専門職としての「リサーチアドミニストレーター」など、これまであまり議論がなかった事柄に触れていることである。これらは大学ガバナンスの改革には有効と思われる人材であり、いずれ稿を改めて論じてみたい。


2014年2月11日火曜日

日々をおろそかにしない

ブログ「今日の言葉」からEvery single thing」(2014年2月5日)をご紹介します。


Every single thing that has ever happened in your life

is preparing you for a moment that is yet to come.

Nathan East


私の尊敬するベーシストであるネーザン・イースト氏が

ネットに投稿していたフレーズです。

訳してみれば、

「人生で日々起こる些細なことは、

これからやってくる思いがけない出来事につながっている。

だから日々をおろそかにしないこと」

という感じでしょうか。

平生(へいぜい)が大事ということ。

普段出来ないことが、いざという時ときに出来るわけがなく。

スポーツで言えば、「練習は嘘をつかない」ということでしょう。

スティーブ・ジョブズがそのスピーチで

「今やっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶ。

将来を見据えて点と点を結びつけることはできないが、

後からつなぎ合わせることは可能だ」

と語っていることにも通じるのだと思います。

日々の出来事に真剣に当たることで、

物事に動じない「泰然自若(たいぜんじじゃく)」の姿勢を身につけられるように。


著者 : 山崎拓巳
サンクチュアリ出版
発売日 : 2005-06-10

2014年2月10日月曜日

物事を自責で考える

ブログ「今日の言葉」から魅力」(2014年2月7日)をご紹介します。


魅力とは

他人に何かを与えることによって生じ、

他人に何かを求めることによって消滅する。


これにこの言葉を合わせてみると良いと思います。

「与えた恩は水に流し、

受けた恩は岩に刻め。」

魅力を出すために人に何かを与えても、

その見返りを求めては、結局は人に何かを求めていることになってしまう。

「自分はこんなにしてあげているのに」

というのは自己満足でしかない。

イチローも

「誰かのためにやることと、誰かを思ってやることは違う」

と言っていました。

ただし、根源が自己犠牲ではいけない。

自分を愛し認めるその自己充実感から、

相手に与えられる余裕を持つことが必要。

言い換えると、

物事を自責で考える人の魅力は増し、

周りや環境のせいだと他責でいる人は

魅力を減少させてしまうとも言えるでしょう。

自分を信じる力が、自信になっていきます。

昨日の自分は魅力を増しましたか?減らしましたか?

今日は魅力を増せそうでしょうか。

人に与える専門的なものが無くても、

元気な挨拶や返事、笑顔、「ありがとう」、「ごめんなさい」を

素直に言えることも与えることの一つだと思います。


2014年2月9日日曜日

日本の社会の本質

ブログ「外から見る日本、見られる日本人」から少年よ、大志を抱け!」(2014年2月9日)をご紹介します。


今さらながらウィリアム・クラーク博士のこの言葉を引き出したいと思わせたのが日経電子版の「就活最前線を行く、学業、学歴再び重視?」という記事、そして「創論、時論」では「今の若者は元気がないのか」という読者参加型特集が組まれていることにふと引っかかることがあったからでしょうか?

折しも受験シーズンで私の周りでも子弟の受験状況があちらこちらから聞こえてくるのですが、親も子供が目標校に合格してホッとしていている一方で、都立は受験日まであと二週間となり、最後の追い込みで親としては何が何でも受かってもらいたいという願いからか、パソコン対話型塾では通常は一時間いくらのところを「勉強やり放題パッケージ」なるものも登場し、その過激なる受験戦争もいよいよ最後の追い込みとなっているようです。

親が子を思う気持ちというのは程度の差こそあれ、昔と変わらないかもしれません。親としては「有名校」に入ってもらい、「履歴書の泊」や就職活動を有利に進める「長期戦略」のもと、最終的に安心できる企業に入ってもらって安泰なるライフを送ってもらうという気持は時代が変わろうともさほど変化していない気がします。生活費は削ってでも子供の塾代は出す、という家庭が多いのは日本独特の家族の絆のあり方なのかもしれません。

それは言い換えればやり直しが効かない日本の社会構造ともいえるかもしれません。子供から見ればなぜ、いま、こんなに勉強し、ワンランクでも上の学校に行かねばならないのか、正直、自覚がどこまであるかは疑問です。学校の先生から、あるいは塾の先生や仲間から、そして親からはっぱをかけられ、とにかく試験でよい点を取るということに自分のマインドが完全に支配されている人も多いでしょう。私だってスパルタ塾で「君たちの正月は合格発表日だ!」という熱い掛け声のもと、目の前の模擬試験に集中し、将来のビジョンなど何も考えていませんでした。

ところが一旦学校に入れば親は学校環境については著しく口を出すものの勉強そのものについてどうこうするというケースは私はあまり聞いたことがありません。それは親としては押し込んだ学校に任せてしまうというスタンスであとは親の描いたピクチャー通りに子供が就学してくれればそれで結構なのであります。

しかし、子供にとって将来のビジョンについてハタと気がつく時が必ずしも就学時代に来るとは限らず、もしかしたら就職してからやり直したい、と思う人も多いはずです。ところが日本の企業の人事部は就職希望者が多いこともあるのでしょうけれど、履歴書という美人コンテストで「美しい!」と思う人につい、目が行くのです。英語はTOEICで何点取っているという申告に「君って英語ができるんですね」というナチュラルな評価がついて回るようになっています。

逆に立派な履歴書を持っていると自分は成功への道を進んでいるという気持が大きくなり結果として履歴書がfragile(壊れやすいもの)として自分への賭けをしなくなることも事実でしょう。「僕はこの会社の名刺を手にすることが夢だったんだ!」ということかもしれません。

昨今、ハングリー精神という言葉を聞くことはほとんどなくなりました。自分で自分の道を切り開くなんてありえないわけで出来合いの線路に乗っかって超特急で快適に進むことを当たり前としてきたのが日本の社会の本質ではないでしょうか?

日経ビジネスの特集「シリコンバレー4.0」にベンチャー活動世界最下位の日本が大きく取り上げられています。そしてシリコンバレーのおひざ元、スタンフォード大学では卒業生の29%が起業し、約4万社が卒業生により作られ、280兆円の年間収入を生み出すとあります。この数字を見た時、一流企業の名刺に喜びを感じるために青少年時代を犠牲にしてきたことが果たして正しかったのか、という疑問を感じているのは案外自分自身であります。


2014年2月8日土曜日

骨太な生き方

日本経済新聞に掲載された記事仕事を通じて社会にどう貢献するか 原田泳幸・日本マクドナルドHD会長兼社長 経営者編」(2014年2月3日)をご紹介します。


●経営陣が若者を育てるための議論を活発化させるべき。
●ビジネスで活躍できる人の育成には、民間企業で働いた人間を教壇に。
●若い皆さんが社会に必要な価値を作り上げ、社会に貢献ができるかどうかを考えて。

まずは、経営者を代表して若い読者の皆さんに反省の弁を述べたいと思います。経営者に課せられた仕事の一つに人材、後継者の育成があります。しかし、そのことに真剣に取り組んできたと言えるのでしょうか。本当に若い人たちの能力を引き出そうと見守ってきたのでしょうか。もっとストレートに言うなら「若者をちゃんと使いこなしてきたか」ということです。

成長を妨げる上司

残念ながらそうなっていないのが今の経済社会なのです。上司が部下の成長を妨げるブロッカーになっていることが往々にしてあります。「失敗を恐れずチャレンジしろ」と言ったところで、リスクを恐れ、保守的な考えに立つ上司の下にいる若者がチャレンジ精神を発揮できるはずはありません。定年近くなればその管理職は大過なく企業人としての人生を終えようとします。その管理職の部下は同じ行動をとるでしょう。部下の失敗を許す度量を持っていません。マネジメントの原則は「自分の部下がおかしいと思うなら、(そうさせた)自分がおかしいと思え」です。責任は上司にあるのです。

経営者は常日ごろから人材のグローバル化、多様性、流動性、女性の活用の必要性を訴えています。これから社会に飛び出そうとする学生の皆さんにも同じ言葉を投げかけることがよくあります。ところが自分の会社の経営陣に外国人や外部から迎えた人材がどれほどいるでしょうか。誰一人としていないのが一般的です。そんな環境の中でグローバルなどの議論ができるはずがありません。

今、私がいる会社には海外の人材や私を含めフードビジネスと畑違いの分野の人材が多くいます。それでも事業会社の社長を約10年も務めてきた私は後継者の育成に失敗してきたと言っていいでしょう。変わらなければいけないのは、まずは今のニッポンの経済社会を設計した国や経営陣ではないのかと痛切に感じています。若者の意識を変える前に経営陣がもっと若者を育てるための議論を活発化させなくてはいけない。国が「社長は5年まで」といった期限を設けてもいいかもしれません。それくらいしないと変わらないと思います。

教育現場の改革は待ったなしです。多くの若者が学校を出た後に企業で働くにもかかわらず、教育現場にビジネス感覚をもった先生が少ないのはおかしいと言わざるを得ません。ビジネスとは価値(バリュー)を提供して、対価(リターン)をもらうのが基本です。ビジネスの世界で活躍できる人間を育てるとするなら、教壇に立つ必須条件として民間企業で働いた経験を加えるべきだと考えます。

ここまでは大人の反省ですが、若い皆さんも甘ったれていては困ります。世の中は刻々と変わっているにもかかわらず、皆さんたちは誰かに守ってもらえるという意識があるように思えてなりません。企業は変化に対応しないと巨大企業でも社会からはじき出されてしまいます。社員のコンピテンシー(能力要件)も変わっていかなくてはなりません。社会に求められるための変化に対応できるように皆さん自身はどうやって変わっていこうとするのですか。

日本を忘れるな

皆さんが社会に必要な価値を作り上げ、社会に貢献ができるかどうか考えてみてください。国の成長に国民がどう貢献するかです。日本人としての誇り、国家観なくしては成長も変化もできないし、議論も深めることができません。

グローバルな人材になるためには英語を話せることも大事ですが、相手の異文化を知るコミュニケーション能力も求められます。日本語と英語の言い回しは異なり、翻訳できない言葉も多い。自分がどのように振る舞ったら相手がちゃんと自分のことをわかってもらえるのかを考えるべきです。「微力ながら頑張ります」を直訳したら、相手が戸惑ってしまいますよ。外資系の会社に入り、海外で働く日本人は多くなりましたが、思うように活躍できない人もいます。そうした人たちは「日本を忘れてしまった」のだと思います。だったら、本国からの人材を登用すればいいだけです。日本人としてのアイデンティティーを持ち、異文化を理解することが、新しい価値を生み出す力になると確信しています。

皆さんは社会に出て会社やその先にある国にどのように価値をもたらし、貢献できるのか、キャリアアップのような小手先ではない「骨太な生き方」を考えていただきたいと思います。

2014年2月5日水曜日

大学のガバナンスと国際競争力



企業人からの大学運営に対する厳しい批判

2013年6月から7回にわたり、中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の大学分科会組織運営部会において、国立大学を中心とする日本の大学のガバナンス改革について議論がなされてきた。その結果として、12月24日に答申がまとめられた。

日本私立学校振興・共済事業団理事長の河田悌一氏(元・関西大学学長)を座長としたこの会合では、学界および実業界の有識者が集まり、日本の大学の硬直化した組織をどのように改革すべきかについて活発な議論が交わされてきた。何よりも問題となったのは、旧態依然として変わらない大学の運営システムに対する強い批判である。実業界のメンバーからは、日本の大学は社会からの付託に応えていないばかりか、そもそも健全な組織が有すべきガバナンスの体をなしていないという声さえあがった。

すでに高度知識基盤社会に突入した我が国において、グローバルな市場での生き残りを迫られている企業の現場は、高度な専門知識とクリエイティブな能力を備えた人材の育成を求めている。その期待に応えていない日本の大学は、運営システムの根本的な改革が必要ではないかというのである。

一方、大学関係者の中からは、企業人は大学という組織をそもそも理解できていないといった声や、利益を最大化することを唯一の目的としている企業とは異なり、大学のステークホルダーはさまざまであり社会の多方面のニーズへ応えなければいけない、いわばマルチな目的を持つ組織なのだといった反論がなされたが、その声は高まる批判の前に大きな説得力を持たなかった。

結果として、最終的な答申には次の論点が盛り込まれた。まず、大学の自己統治能力を高めるために、コーポレート・ガバナンス(企業統治)ならぬ「アカデミック・ガバナンス」の視点を導入する必要があるとされた。そして、そのためには学長を中心とした大学本部がより強固な指導力を発揮できる体制を構築すべきであること、また、米国の大学で学内の研究と教育の責任を担っているプロボストのような存在を設けるべきである、といった主張を中心にまとめられた(プロボストとは、大学の学長と各教員との橋渡しをする役割を果たす、教務担当の学長補佐のこと)。

日本の大学ガバナンスの硬直性

筆者はかねてから、日本の国立大学に自らの将来的ビジョンを作り出す力が欠如していることを実感し、大学のガバナンスとマネジメント改革が急務だと主張してきた。その意味で、今回の答申の方向性は間違っていないと考えている。それにしても、なぜ日本の大学は外から改革を求められ続けるのだろう。自らの力で組織を統治する権限と能力を与えられていないからだろうか。しかし、大学の現場を知れば知るほど、問題は法的な権限ではなく、法律と現実の乖離にあることが分かるのである。

日本の学校教育法92条には、大学の「学長は校務をつかさどり、所属職員を統督する」とあり、大学の学長は、行政機関の長と同じく「大臣またはこれに準ずる機関の長と部下の職員との関係」と同じ力を持っていると定められている。つまり、これらの法律により国立大学の学長には、一般企業ならびに行政府の組織と同様かそれ以上に、人事と組織統治に関する強固な権限が与えられている。法律にのっとるかぎり、学長に強い意志さえあれば、組織の改変も含めたいかなる改革も断行することができるはずなのである。

しかしながら、現実の大学本部(office of president)に学内でイニシアティブを取るだけの力はない。それどころか、学部自治・学問の自由をうたい文句に、大学の意思決定が教授会を中心とした部局にほぼ完全に委ねられているために、大学全体の将来ビジョンを作り上げることは極めて困難だ。もし、そのビジョンが学部の利害に反するようなら、大きな抵抗が待っているからである。教職員の選挙で選ばれる学長の任期は、米国と比べると短く、学内の反発はそのまま学長の交代につながってしまう。上記の組織運営部会では、そのことを念頭に、元々は審議機関にすぎない教授会が実質的に決議機関となっている現状を変えるために、法律の文言の改正を行うべきだと主張する企業人も多かった。

だが、大学本部が強い指導力を発揮できない最大の原因は、本部に与えられている財務上の権限が限定されていることだと筆者は考えている。米国の大学では、授業料収入、寄付金、さらには競争的資金に付随して本部に納入される間接経費、大学基金の運用益などで構成される大学本部の資金が大きな基盤的経費となっており、それぞれの大学の将来計画を支える柱として活用されている。

一方、日本の国立大学の場合には、大学の最大の資金源は年度ごとに文科省から供与される運営費交付金である。しかもそのほとんどは、各部局での人件費と経費に配分されており、大学本部が独自の裁量で動かすことのできる経費は、米国のそれと比べてはるかに小さい。その財務基盤の弱さこそが、個々の大学から独自のマネジメントを発揮する力を奪ってきたのである。

米国の大胆な大学経営改革

もちろん、米国のエリート大学の多くが私立大学であり、国家的な人材育成の要請によって作られた日本の国立大学と比較することはできない。それでも、米国における研究大学の研究費の70%以上は、国立衛生研究所(NIH)、全米科学財団(NSF)、国防総省(DOD)などの連邦政府からの研究資金である。そして、歴史を振り返れば、この公的資金が急速に減少し始めた1970年代の中ごろから、各研究大学はその対応を迫られ、産学連携や研究成果の特許化を押し進め、加えて大学基金のグローバル投資によって巨額の運用益を獲得するようになった。つまり、大学が自ら経営上の大胆な自己改革を行ってきたのである。

大学のグローバル市場における現在の米国の優位性は、そうした改革の成果だと見るべきである。2000年代に入って、欧州諸国のさまざまな機関と中国の上海交通大学が発表し始めたグローバル大学ランキングでは、どの指標でも米国の大学がトップ20位内の3分の2を占めるようになっている。

日本では政府の政策と大学人の意識が乖離

では、グローバルに競争しなければならなくなった日本のエリート大学に対して、政府はどのように対応したのだろうか。法制面から見るならば、まず1998年に大学等技術移転法(TLO法:TLOはTechnology Licensing Organization「技術移転機関」の略)が制定され、同法に基づいてTLO事業の認定実施機関「承認TLO」が全国各地に設置された。また、1999年には産業活力再生特別措置法(日本版バイ・ドール法)など、米国流の産業育成法が相次いで制定された。さらには、2003年7月に、各国立大学に法人格を付与する国立大学法人化の法案が可決、2004年に法人化が実施されたことで、大学の「民営化」が本格化した。それでも、今回の答申が指摘するように、日本の大学はこれらの政策にうまく対応できなかったのである。

その主たる理由は、1970年代の後半から80年代にかけて米国のアカデミアで生まれた新たな知識基盤型大学政策を、歴史的文化的文脈の全く異なる日本の国立大学にそのまま適用し、その方針を唯々諾々と受け入れざるを得なかった大学人の意識がそれについて行けなかったからだろう。同時に、日本の大学にとって不幸だったのは、国立大学法人化という荒療治と、産業構造の知識基盤型社会への変化を求める政策とが、ほぼ同時期に重なったことである。米国ですら、70年代から80年代に約20年をかけて到達した新たなアカデミアの形を、いくつかの法律の可決だけで、ごく短期間に達成しようとした行政当局の稚拙さと、その政策的意図を真剣に受け止めようとしなかった大学人の側に、それぞれの立場で問題があったと言わざるを得ない。

そのため、上記の答申が日本の現在の硬直化した大学システムを根底から変えていく力を持つのかについては、予断を許さない。日本の大学行政の問題は、どこかの国で成功したその制度的な表面をなぞろうとする傾向が強いことであり、今回の答申も大学人の意識そのものに届かなければ、「絵に描いた餅」になってしまう恐れがある。

国立大学ベンチャー支援ファンドは成功するか

文部科学省の国立大学法人評価委員会の官民イノベーションプログラム部会において、2013年の春から年末にかけて作り上げられた国立大学法人法改正の政策も、また同じ轍を踏む可能性が高いのではないか。

新聞などの報道によれば、今回の案では、産学連携による研究開発をさらに促進するために国が国立大学に大規模な出資を行い、同時に、大学発ベンチャー支援ファンドに国立大学が投資できるように国立大学法人法を改正するという。その意図は、研究開発の拠点を、これまでの大企業を中心とした民間企業から、知識の基盤としての大学の研究へと軸足を移し、それによって新産業の創出を可能にすることにある。すでに2012年度の補正予算(2013年2月に国会で成立)で国から大学に総額1000億円の出資を行うことが盛り込まれており、出資先としては東京大学、京都大学、大阪大学、東北大学の各研究大学が指定された。

大学の基礎研究から、全く新しい革新的(破壊的)なイノベーションが生まれることが多いこと、それに基づく大学発ベンチャーが欧米とりわけ米国で活性化していること、その動きを大学として統括する組織力を高めなければならないことを考えれば、その狙いは決して間違いではない。

しかし、現在の大学人に、この構想を実現するだけの能力と気概があるだろうか。多くの大学での産学連携といえば、これまで通りの大企業との共同研究しか念頭にないだろうし、大学発ベンチャーとは、破壊的なイノベーションの発露というよりはむしろ、小さな技術に基づく社会のニッチを埋めるような活動としか見なされていないはずだ。米国で80年代以降に活性化したベンチャー企業のイメージは、そこにはない。現場の大学人の意識がそのような状態で、これほど大きな改革が実現できるであろうか。

今回の案ではまた、大学法人の担当理事と外部有識者で構成される「共同研究・事業化委員会」を大学内に設置することや、国から出資された100億円単位の資金を事業化委員会経由で投資ファンドへ拠出することも規定されている。その資金を、大学の研究成果を生かしたベンチャー企業へと出資するという。さらには、こうした活動から利益を上げ、大学の財務と国庫への返納を行わなければならないとも記されている。

だが果たして、今の大学のマネジメントとガバナンスの状態で、生き馬の目を抜くような激しい競争を勝ち抜くベンチャー企業を設立したり、大学外の事業化構想に出資したりするノウハウを大学本部が作り出せるだろうか。筆者はその実現については懐疑的である。

そもそも政策とは、それに関わるアクターたちのインセンティブを見極め、彼らの積極的な行動を促すことができるような組織の環境作りから始める必要がある。理想は理想でいい。だが、そこに至るプロセスの装置を構築することこそが、大学ガバナンス改革の実現に際してまず求められているのではないだろうか。


著者 : イ・ミエ
東洋経済新報社
発売日 : 2003-09-19

2014年2月4日火曜日

肯定的に受け止める

ブログ「今日の言葉」から最高の機会」(2014年2月3日)をご紹介します。


「人生の苦しい時期は、有益な経験を得て内面を強くする最高の機会」

生きていると本当に苦しい時期がやって来ることがあります。

後から振り返れば「そんなことで」と思うこともしばしばあるでしょう。

でも苦しみの渦中にいるときは心に余裕が持てないもの。

そんなときでも自分の運命を嘆くのではなく、

「この経験から学べることは何だろう」と捉えることが大事。

「朝顔」と「蓮の花」と、「昆布と鰹節としいたけ」に共通することはなんでしょうか。

それはどれも厳しい経験をして、その価値を高めているということ。

「朝顔」は太陽と水だけでは花を咲かせられず、

その前に夜の暗闇と寒さがあって初めて発芽するそうです。

「蓮の花」はお釈迦様の台座にも添えられますが、

泥が無ければ綺麗な花を咲かせることは無い。

綺麗な清水だけでは咲かないそうです。

でもひとたび咲けばどれも咲き損じがないとのこと。

「昆布と鰹節としいたけ」はいずれもダシの材料ですが、

良いダシとなるためには、一度思いっきり干からびることが必要。

言われてみればどれも固く乾燥していますよね。

だからこそミネラルが凝縮する。

人間以外にもこうして苦しみを乗り越えているのだから、

人間に出来ないはずはありません。

やはりその状況を肯定的に受け取れることが大事ですね。


2014年2月2日日曜日

変化に立ち向かう意志と知恵

学校法人東邦学園愛知東邦大学理事・法人事務局長/学長補佐の増田貴治さんが書かれた論考「大学職員の力量を高める」(文部科学教育通信 No332  2014.1.27)をご紹介します。(下線は拙者)


目的を理解した上での達成目標として

P.F.ドラッカーの著書『マネジメント(下)」に、"三人の石切り工"の昔話がある。彼らに何をしているのかと聞くと、第一の男は、「これで暮らしを立てているのさ」と答えた。第二の男は、つちで打つ手を休めず「国中で一番上手な石切りの仕事をしているのさ」と答えた。第三の男は、その目を輝かせ、夢見心地で空を見上げながら「大寺院を造っているのさ」と答えた、という。

三人の目標は、一定数の石を切ることにおいて共通する。しかし、目的は異なる。第一の男はお金を稼ぐため。第二の男は自分自身の成長のたあ。第三の男は世の中のため、他人のためである。

私たちは、仕事をあてどなくすることはまずない。何らかの"目標"を設けるだろう。目標という理想の姿は定性的・定量的に表される。その目標を何のために掲げて、何のために取り組むのかと考えていけば、意義にたどり着く。それが"目的"である。時に行き詰まったとしても、私たちを内面から突き動かす。目標達成にとって不可欠の要素である。

ただ、学校組織においては、利益追求という企業のような分かりやすく定量的な目標は立てにくい。他人の指示や目標に従って動くのか、自ら見いだした意義や目的に基づいて行動するのか、この違いは大学職員の力量形成上、大きな差異となってくる

中途採用者が組織を刺激する

目的意識盛んな職員の集団に変えたい。そう願っても、にわかには困難である。そこで、筆者の所属する東邦学園は2008年度以降、新たな職員採用では新規学卒者を控え、他の大学職員や民間企業出身者の力を借りようとした。"即戦力"であり、特に異業種からの中途採用者は、異なる社会経験が魅力的だった。学校の文化に馴染みにくい、学内でチームワークが図れるだろうかという懸念の声もあったが、踏み切った。

まず4年前、他大学から志願してきた職員は、面接で移籍理由についてこう切り出した。「金魚は容器の大きさだけ泳ぎ回るから、その分お腹も減ってエサをたくさん食べるので、大きく成長します。でも、小さな水槽では、運動不足で小さなままです

それまでの勤務先に不満があったわけではない。専門職である大学職員として、より大きな組織で今までの経験がどこまで通用するか自分を試して、もっと成長したいとの思いが強く沸き上がったという。正式採用までの空いた時間は、本学の図書館へ通い、学園史や規程集など学校法人全体の情報を読み込んだと聞く。

財政的にも、学生確保の面でも苦労することのなかった大学から、あえて困難や苦労の大きい大学への転職。高い専門知識やスキルレベルと、何より改革マインドを備えた動機・意欲が極めて旺盛である。「個人の力」から、「連帯・協働による組織力向上」へ新たに挑戦すると断言した職員は、まさに"即戦力"として期待を裏切ることなく大きな活躍を見せている。

共通に目指す職員像を可視化する

転職もうまくいくとは限らない。結果として、以前の職場のほうが労働条件や人間関係が良かったというケースも往々にしてある。本人にも周囲にも相当な覚悟とエネルギーを要する。

やはり他大学から本学園へ転職した別の職員は「転職組は"カゼ(Wind)"でなければならない。時には強く、時には弱く。被害を及ぼさないような風でなければならない。決して、根を下ろすことを考えてはいけない。根を下ろせば元からあった木の根と絡み合い、その成長を妨げるから」と語った。

生え抜き職員にとって、異なる組織風土や文化で育った職員との業務運営は、目標設定や方法の選択、達成のスピードなど、そのズレから衝突することが多々ある。摩擦は、新たな刺激や緊張感を生む必要なプロセスだとすれば、最終的には相乗効果を生み出すきっかけとなり、組織力向上につなげられる個の力量を形成していくことになると考えた。問われたのは、摩擦を抱えられるだけの許容性と、ベクトル合わせが図れるか否かだった。

2012年度、本学園では、複数のハイパフォーマーに共通する行動特性を自校の職員として必要とする資質や能力を可視化した。また、自己で点検・評価できるようレベルを5段階で示した。最終的には「東邦学園事務職員に求められる18のコンピテンシーと5つの領域」(図参照:略))として、理事会で決定、組織として求める職員像を明確に表した。コンピテンシーの導入は、全職員の行動の質・効果を高めることであり、成果をあげる要素、ノウハウを組織的に共有することがねらいである。

課題を設定し、組織をつなぐ力を

「一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり」と考え迎えた新年、新聞広告に載った数研出版株式会社のキャッチフレーズが、筆者の目に留まった。

未来に向かって歩んでいく人には、ふたつの選択肢があります。よく考えない人になるか。よく考える人になるか。問題を避けて通るか。問題に立ち向かうか。出来ない理由を見つけようとするか。出来る理由を追い求めるか。失敗を悔やむか。失敗から学ぶか。夢を笑うか。夢をかなえて笑うか。(以下省略)」

事に取り組む際の考え方や姿勢、体験や経験の受け止め方がどうあるかによって、成長度合いに大きな影響を与える。

ドラッカー教授は「三人の石切り工」の話の中で、二番目の男についてー熟練技能は必要なものである。事実いかなる組織もその構成員に対し、それぞれが持つ技能を最大限に発揮するよう要求しなければ、その組織は退廃してしまう。しかし、職人や専門家は、実際には石を磨いたり、脚注を集めたりしているにすぎない場合でも、何か大きなことをやっているのだと気負いこんでしまう危険がある。確かに熟練技能は企業でも奨励しなければならない。ただし、それは常に全体のニーズとの関連の下においてでなければならないと指摘する。

変化に立ち向かう意志と知恵を持つこと、公共組織の変革戦略理論となる「戦略思考法」を持つこと、日々の実践と中長期の目標計画とを同時に視野に収め、問題発見の分析手法のみならず問題解決の開発手法を現場で適用できること、組織や人をつなぐ役割を担うことなど、"大学の事情に則した"経営・教学との連携や一体感を醸成するイニシアチブを発揮しうる大学職員が求められている

それぞれの大学において、職員がどのような力量を形成する必要があるのか、組織全体として問い直すことが必要である。そして、求める能力や資質を明示した上で、各職員が目標を具体的に掲げ、学生や保証人など自大学のステークホルダーからの期待や要望に大学全体として応えられるよう、自己成長を図らなければならない


アーリー・アダプター

鹿児島国際大学の橋口圭太さんが書かれた「大学職員が輝けば、大学改革は進む」を抜粋してご紹介します。

全文はこちら


第3章 大学職員の今日的役割

〈教員中心の歴史〉

日本の大学制度は明治以来、ドイツの大学に範をとった帝国大学を中心に成立・発展してきた歴史がある。それとは別に多様性を持ってスタートしたはずの私立大学も、帝国大学をモデルとする発展の努力が重ねられ、帝大の制度や慣行、文化等が色濃く反映されて私学の「官学化」が進行。よって、大学運営の面でも、教員団を中心とする意思決定のスタイルが私学も含めて確立していった。

このような中で、事務・技術職員は長い間、教員団の意思決定した事項を忠実に実行する役割しか与えられてこなかった。山本眞一(現広島大学高等教育研究開発センター長)は『IDE』(2002年5-6月号)の「なぜいまSDなのか」の項で、「職員という立場からみると、教員の指示を一方的に受けざるを得ない『従属的な立場』か、教員の活動を学内外の規則に照らして事細かにチェックする『管理的立場』のどちらかしかなかったのである」と述べている。

〈職員への期待の高まり〉

長く続いたそのような職員の位置づけに変化を生じさせたのは、18歳人口の急激な減少という最大の環境変化にある。大学は「知の共同体」から「知の経営体」への変革を迫られ、優れた経営トップを選ぶことができるのか、また、強力な経営陣を構成できるのかが、生き残りをかけた大学の命運を左右する大きなポイントになってきた。

しかし、教授会主導の大学運営を改めて、経営トップや学長が単独で意思決定と経営執行のすべてを担うことは不可能である。それらのトップを支える有能な専門的スタッフの存在がきわめて重要となる。その人材として、大学の管理運営や経営のための職種にある「大学職員」に対する期待が高まってきた。そして一方の教員には、その本来業務である教育研究にもっと専念させるべきとの声が大きくなってきている。

〈改革推進への「三輪車論」〉

高等教育の大衆化時代の到来で、学生の意識やレベルは多様化している。学生の変化に対応したきめ細かな教育支援・学修支援機能の充実は必須課題になってきた。研究の学際化・共同化・国際化に伴う推進機能や支援機能の強化もますます重要性を増している。

こうした業務の複雑化・多様化の結果、教員・職員のどちらの範疇にも属さない業務領域は増える一方で、職員が積極的に対応することが求められる。職員が教員とイコールの立場で仕事できる環境の構築が、大学改革を推進するカギとなろう。いわゆる「教職協働」だが、船戸高樹(桜美林大学大学院教授)は、「教員」「職員」が両輪となり、大学の方向性を位置づける前輪の役割である「理事会」の重要性を指して、「三輪車論」を説く。

第4章 大学職員に求められる力量

〈事務屋からの脱却〉

これまで論考してきたように、これからの大学経営や運営において、大学職員の役割の重要性が浮かび上がってきた。ただ言えることは、それぞれの仕事に必要な知識や技術はどんどん進歩しており、従前のような「単なる事務処理」という感覚ではついていけなくなる。自己研鑽を積み、知識・技術のレベルを上げる努力を怠ってはならない。

各大学は、教学・施設面における改革を休む間もなく進めている。しかし、改革の意味することを理解していない教職員が少なからず存在。職位の高い職員いわゆるベテランの中には「俺たちは事務屋だ」と豪語し、前例踏襲主義やカン・経験に大きく依存する硬直した業務スタイル・発想から抜け出せないでいる傾向にあるという。

〈求められる問題解決能力〉

今後、大学職員に必要な能力は何か。前出の山本眞一は『IDE』(2008年4月号)の「これからの大学職員」の項で、自身が一昨年に全国の事務局長に対して行ったアンケート調査の結果を元に、「職員に必要な能力は何といっても問題解決能力である」とし、その能力を育成するために、研修や大学院での教育の重要性を指摘している。さらに、「大学の経営環境が激しく変わる中、ジェネラリストと称する職員が、実は部下から上がってきた書類をチェックするだけであったり、学長や理事からの指示を部下に中継ぎしたりするだけであれば、その存在価値が疑われよう」と、戦略と業務を結ぶ管理者の力量が大きな影響力を持つことに言及している。

〈求められる職員の役割〉

大学の改革スピードよりも、社会の変化が早い時代にあっては、トップが方針を示し、改革を断行しなければならない。当然、学内には抵抗が生ずる。だからといって問題を先送りし、改革を進めなければ、解決はますます困難になる。

改革を進める人材の組み合わせについて、清成忠男(法政大学学事顧問)は『カレッジマネジメント146号』で、「イノベーターとアーリー・アダプター」という視点から論じている。イノベーターとは、創造性に富み、個性的。新しい事業を構想する、とがった人物であり、安定性に欠ける。説得力に問題があり、多くの人々の信頼を必ずしも得られない。それでも、カリスマ的存在である。これに対して、アーリー・アダプターはいち早くイノベーターの主張を理解し、多くの人にイノベーターの主張を翻訳する。安定的な性格であり、多くの人々に信頼される。したがって、改革のオーガナイザーになる、というものである。

鹿児島国際大学におけるイノベーターは学長であり、広い視野に立ち、長期的な視点から構想や戦略を提示。それをオーガナイズすべき、学部長や大学職員幹部といった層がアーリー・アダプターであろう。この層に、とりわけ大学職員に、専門性と自主性さらに創造性を持ったアドミニストレーターが求められている。