2014年7月31日木曜日

文句やグチを言う人は、自分では決して行動しない

ブログ「人の心に灯をともす」から文句を言う人」(2014-07-21)を抜粋してご紹介します。


自分に対して文句を言う人はいない。

だから、常に文句を言う人の矢印は、外に向かっている。

自分が正しくてまわりが間違っている、と思っている。

文句やグチを言う人は、自分では決して行動しない。

相手に要求するだけの、自己中心的な人のこと。

人を変えることはできない。

変えられるのは自分だけ。

文句やグチを止める方法はただ一つ。

「昨日より今日は、もっと立派な人なる」、と覚悟すること。

2014年7月30日水曜日

失敗をさせる

ブログ「外から見る日本、見られる日本人」から失敗は成功のもと」(2014年07月13日)をご紹介します。(下線は拙者)


ありきたりの言葉ですが、「失敗は成功のもと」というのは含蓄がある言葉だと思います。

「成功するためには失敗せよ」とも聞こえるのですが、そういうわけではないと思います。失敗は結果としてそうなったということでそこに至る「チャレンジ」を評価する言葉ではないでしょうか?つまり、今の場所に留まらず、次々と新たなる世界に飛び込んでいき、そこで大いなる失敗をするからこそ、より経験の年輪が増えていく、ということかと思います。

大経営者は多くを語らないと思いますが、失敗した数やとても恥ずかしい経験は大物になればなるほど派手になるのではないでしょうか?それはその世界の流儀を知らなかったということになりますが、扉を開けて踏み込まないと一生自分の身につくことはありません

ただ、大経営者と落ちこぼれになる境目は案外ここの地点にある気がします。

失敗した経験を必ずエキスにして更なる飛躍を遂げる前向きさ、ひたむきさを持つか、失敗した後悔の念に駆られ、その先、一歩も足が前に出なくなるか、というのが分かりやすいかもしれません。ゴルフの場合、ドライバーがスライスすると思い込み、いつまでたってもその癖から抜けられず、ドライバーが使えなくなるのか、どうやったらスライス病を治せるか徹底追及し、その間違いを見抜き修正できるか、と言ったらよいでしょうか?

日経電子版にあった起業者が失敗を語る「フェイルコン(Fail-Con)」。「フェイルコンは2009年、米サンフランシスコの起業家コミュニティーから生まれた。そのキャッチコピーとは『恐れるのはやめて、失敗を抱きしめよう』」という記事の説明になるほど、アメリカらしい発想だと思わず感心しました。日本では失敗を前向きに公表する動きはまずないでしょう。ユニクロの柳井正氏の著書「一勝九敗」は珍しい部類だと思います。

私も仕事人生の中で数々の失敗をしてきています。それこそ会社が無くなるのではないかというギリギリの状態や自分が追い込まれ、もう明日がないと思った時もあります。しかし、よくよく考えれば私の失敗人生というのは社会人になってから始まったわけではなく、かなり幼少のときからあったように思えます。気が小さいくせに大胆な行動をして、それが裏目になって取り返しがつかなくなったことは数知れず。しかし、その度に自分が「太く」なっていくことに気がつきます。

起業者向けに「失敗を恐れるな」とよく啓蒙していますが、社会人になってからそれを言われても案外遅いのかもしれません。日本の子供たちが異様に過保護のもとに育っていることが、起業マインドが足りないニッポンを作り上げたように思えます。それは学校ではケンカせず、体育で転んで血でも流せば親が怒鳴り込んでくるという自由度が効かない社会を子供の社会まで押し付けてしまった教育に私は疑問を感じます。

学校が荒れるのは抑圧された子供たちのマインドの爆発であると考えれば躾と失敗をさせる経験を持たせられなくなった親たちにもその原因はありそうです。日本は正に「よいこ」を作り出してきました。ですが、昔のコマーシャルではありませんが、「腕白でもいい、たくましく育ってほしい」の強さを磨くことも大事でしょう。

教育のスタイルというのは時代と共に変化しています。私が期待する変化とは子供達が経験を通じて失敗することにめげないようにさせることだと思います。今後いろいろなところで取り入れられてくれればと考えいます。親は子供を型枠の中にはめ込まない、という認識がまず、ありきだと思います。

失敗は成功のもと、これは小さい時から失敗を繰り返し、どうやったらダメになるのか、痛い思いをするのか、その限度を知ることがその人を太くさせると思います。

2014年7月29日火曜日

カリスマの功罪

ブログ「外から見る日本、見られる日本人」からなぜセブンイレブン?」(2014年07月09日)をご紹介します。(下線は拙者)


日経新聞の新特集「革新力 The Company」の第一回目はセブン&アイホールディングスの鈴木敏文会長。実は日経ビジネスでも6月16日号で同社を大特集しており、嫌でも目についてしまいます。

しかし、その記事を通じた私の第一印象は正に支配力であります。記事にもあるように一部では「鈴木会長を神のように祭り上げている。社員がロボットのようにトップに言われたことを加盟店に実行させようとする雰囲気は異様だ」という言葉がその社風を表しているでしょう。

日経新聞の記事にある「新商品の試食はしょっちゅうする。この前はラーメンだったけど正直おいしくなかった。担当はこの味は去年よく売れたという。ちょっと待て、去年と今年は違うよと。」とあります。日経ビジネスには、昨年「金の麺 塩味」の役員試食会で「しょっぱくないか」という鈴木会長の一言で発売直前の同ラーメンが廃棄処分、6000万円の損失が発生したとあります。外の目から見ると必ずしも腑に落ちないこともあるのです。

いわゆるカリスマについていくというのは日本人が比較的好きな行為だと思います。しかもその剛腕度が鮮烈であればあるほどむしろ、神聖化する傾向があるのはあながち間違ってはいないはずです。事実、カリスマ性を持つ経営者、例えば柳井正、孫正義、鈴木修、永守重信氏などなど社会から批判の声がある一方で神を守る親衛隊ががっちり固めるという組織体がそこに存在します。

私はこの体系について日本の戦国武将を重ねてみることがあります。民はより強い殿様についていくことがしばしばありましたが強さとはその場合は戦に勝つこと、そして現代においては売り上げ、利益で勝ち抜くことであります。ではそのカリスマ武将は全てにおいて正しい判断をしているかといえばそんなことはありません。結構間違えることも多いのですが社員を一方向にがっちりスクラムを組ませ、爆発的な力で突破する空気を作り上げるのがうまいことに間違えはありません。

「10人中8人が美味しいという商品ではセブンゴールドとして失格だ。10人中10人が声をそろえて美味しいという商品でないといけない。」という鈴木会長の発言はもはや別世界にあると言ってよいでしょう。美味しいという定義がないことに対してメンタルで抑え込む戦略とも取れます。勿論、年間18億7600万個も売れるおにぎりを相手に喧嘩を売るつもりはありません。が、この経営は一種のマクドナルド方式と言ってもよいのです。

北米に於けるマックは今でも圧倒的存在ですが、なぜかといえば「そこに行けばあの味がある」であってそれは美味しいというより「失望させない味」と言った方がよいのです。コンサバな人が多い東部カナダでは知らない街でランチを取るのに下手な店で変な挑戦をするよりがっかりさせないことが大事であるわけです。

つまり、セブンイレブンのおにぎりの攻略方法とは10人のうち6人が評価するとんがったものを作り出せばよいということであります。カナダでチェーン店がそっぽを向かれ始めたのはいつでもどこでも同じ味で特徴がないという表裏一体の評価に変わってきていることに注目すべきです。

カリスマの弱点とはその支配力が及ばなくなった時、ガラガラと音を立てて崩れることでしょう。多くのカリスマ経営者が後継者選びで悩んでいますがまさに本人たちにそれが分かっているからなのであります。

私がお仕えしたカリスマ経営者が私にぼそっと「考えない社員ばかりだ」と嘆いたのをよく覚えています。カリスマ性があればあるほど社員は判断力をなくします。当時副社長以下ほとんどの役員は「お上が決めるから自分たちは事実を漏れなく伝えること」という姿勢であり、「お上を信じていれば大丈夫」という雰囲気だったことには愕然とした気持ちがありました。そしてこの会社はお上が病気で倒れた時から一気に下り坂となり倒産に繋がりました。

そういえばサムスンの第2四半期の決算が予想を大幅に下回り下落に拍車がかかっていると報道されています。この会社も李健熙会長というカリスマが育て、けん引してきたのですが、急性心筋梗塞で倒れた頃と時を同じくして同社にやや陰りが出てきたことは偶然の一致でしょうか?

セブン&アイという巨大組織に盲点があるとすればそこにあります。そしてソニーやパナソニックという会社の凋落ぶりはかつての名経営者の神聖化が時代への変化力に対抗できなかったともいえるのではないでしょうか?

2014年7月28日月曜日

命のビザ-杉原千畝(スギハラチウネ)

いま語り継ぐスギハラの勇気」(2014年07月17日 NHK解説委員室)をご紹介します。


きょうのテーマは「いま語り継ぐスギハラの勇気」。第2次世界大戦中、迫害から逃れるユダヤ人を、いわゆる「命のビザ」で救った元外交官、杉原千畝。そのスギハラが、今あらためて脚光を浴びています。担当は高橋祐介解説委員です。



岩渕)

「命のビザ」の話は、私も最近、本やテレビドラマなどで聞いたことがあって、杉原千畝という名前は知っていますが、このタイトルはなぜカタカナで「スギハラ」なんですか?

高橋)

漢字が難しいというのもありますが、「スギハラ」の名前は日本よりも、むしろ海外で早くから知られてきたという側面もあるのです。



こちらがその杉原千畝。外国人の中には千畝という名前を発音しやすいように「センポ」と呼ぶ人もいます。1940年、昭和15年の夏、外務省から派遣されたリトアニアのカウナスにあった日本領事館で、迫害から逃れようとするユダヤ人のために、日本を経由することを認める通過ビザを発給し、6000人の命を救いました。

岩渕)

だから「命のビザ」というんですね?

高橋)

そのとおりです。私も10数年前に中東エルサレムに赴任したとき、「スギハラ」の知名度の高さに驚かされました。エルサレムには、ユダヤ人の虐殺、ホロコーストの犠牲者を追悼する施設があって、そこの庭園に、みずからの危険を顧みず、ユダヤ人の命を救おうとした各国の勇敢なひとびとの名前が刻まれています。「諸国民の中の正義の人」というのですが、現在その数は2万5千人あまり。この中でたったひとりの日本人が杉原千畝です。

しかし、もう今では70年以上も前の話ですから、当時、幼い子どもだった人も今ではかなりお年を召しています。実は、そうした「命のビザ」で救われた人たち、「スギハラサバイバー」と呼ばれのですが、そうした人たちのいわば「最後の世代」が、このところ日本を相次いで訪れています。

岩渕)

冒頭ご紹介した方もそのひとりなんですね?




高橋)

はい。レオ・メラメドさんという方で、世界最大規模の先物取引所グループの総帥です。シカゴの先物市場に、いち早く金融商品を取り入れたことで「金融先物の父」と呼ばれる人物です。アメリカの経済界では大変有名な方なんですが、実はこの人も「スギハラサバイバー」のひとりでした。

メラメドさんはいまアメリカ国籍のアメリカ人ですが、もともとポーランドの生まれです。7歳だった当時、ポーランドはナチスドイツとソビエトによって分割されました。そこで、戦火とユダヤ系住民への迫害から逃れるため、両親とともに中立国だった隣国のリトアニアに脱出しました。乗り込んだのは両国を結ぶ「最後の列車」でした。

(メラメドさん)

「真夜中の列車は何度も停車して大混雑でした」
「人々が押し合い怒鳴りあう光景を/幼い私は窓際の席で見ていました」。



岩渕)

ポーランドから隣のリトアニアに脱出して、そこで杉原千畝に出会うわけですね?

高橋)

そうなんです。こちらはリトアニアのカウナスという街にあった日本領事館です。




当時の建物はいまも保存されています。ここでも情勢は切迫していました。ユダヤ人難民はこの建物を取り囲み、杉原千畝に日本の通過ビザを発給してくれるよう懇願したのですが、東京・外務省からの指示は、厳しいものでした。ビザを発給するためには▼日本から出国する先の手続きも終わっていて、▼なおかつ相応のお金を携えていなければならないといった決まりがあったからです。



しかし、文字通り着の身着のままで逃げてきて、目の前で助けを求める人たちを見捨てるわけにはいかない。そこで思案の末、杉原はみずからが責めを負うのも覚悟の上でビザ発給を決断しました。寸暇を惜しんで書いたビザは、記録に残っているだけでも2139枚。1枚のビザでその家族が救われたケースも多かったので、少なくとも6000人が国外に脱出することが出来たとみられています。

岩渕)

メラメドさんのように、杉原からビザを得た人たちは、そのあと、どうやって日本までたどり着いたのですか?



高橋)

こちらが多くのユダヤ人がたどった脱出の経路です。リトアニアからモスクワまで行って、そこからシベリア鉄道でだいたい2週間かけて1万キロを移動。



首尾よく極東ウラジオストクに到着できた人たちは、そこから日本海を船でわたって現在の福井県の敦賀港に上陸しました。その後、神戸や横浜などから上海、中東、アメリカなど各地にわたりました。

岩渕)

危険にさらされながら、まさに「命のビザ」で日本までたどりついた人たちには、きっと敦賀はとても印象深かったのでしょうね?

高橋)

やはり特別な思いがあるようです。大陸への玄関口だった敦賀市には今、当時のことを記録した「敦賀ムゼウム」という施設が設けられています。



ムゼウムというのはポーランド語で博物館とか史料館といった意味ですが、そこには、船から降りてきたユダヤ人たちに、地元の人がリンゴを食べてもらったり、銭湯を開放してお風呂に入ってもらったりしたという話が残っています。

当時の日本では、ほかの多くの人々の尽力もあって、たとえ杉原が訓令に背いたビザであっても無効とはせず、ユダヤ人の入国と一時滞在を受け入れたのです。

(Vメラメド敦賀港を訪問)

それだけに、今回のメラメドさんの日本訪問に同行したのですが、彼はどこよりも特別な場所、敦賀を是非ともその眼に焼きつけておきたいと熱望し、73年ぶりにこの地を踏みました。その感動は言葉にならないとおっしゃっていました。

(Vメラメド小学校訪問)

岩渕)

こちらはどういう映像ですか?

高橋)

敦賀の地元の小学校も訪れました。敦賀市では「命のビザ」の話が小学校のカリキュラムにも取り入れられているそうです。「スギハラ」の名前はここでも広く知られているんですね。メラメドさんは子どもたちに、たったひとりの人間が勇気を出して行動に移せば、命は生かされ、つながれていく。そうした杉原千畝が教えてくれたみずからの信念を、語りかけていました。

(メラメドさんスピーチ)

「正しいことをする権利は誰にでもあります/誰もが社会を変えられるのです」

(ON子どもたち拍手)

(岩渕「子どもたちにも貴重な機会でしたね」)

(メラメドさん)

「命は貴重でかけがえのないものです/守り抜かなければなりません」
「それをスギハラは証明してくれました」

岩渕)

九死に一生を得た人の言葉は、心にぐっときますね?

高橋)

そうですね。私たちも杉原千畝のこと、そして難民たちにやさしく接した当時の多くの日本人のことも、もっと知らなければなりませんよね。



母校の早稲田大学には3年ほど前、こうした石碑が設けられました。「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」石碑に刻まれた言葉は、まさに杉原千畝の鋼のような意志の強さを物語っています。

人間として当然のことをするにも困難な時代には勇気が必要になるかも知れません。そんなときのためにも、かつてスギハラのような人がいたことを日本の次の世代に語り継ぎ、差別や偏見のない寛容な社会であり続けて欲しい。それがメラメドさんたち「スギハラサバイバー」たちからのいわば「ラスト・メッセージ」です。そうした声を私たちもしっかり受け止めていきたいですね。

2014年7月27日日曜日

本質を見失わない

ブログ「外から見る日本、見られる日本人」から功名と狡猾」(2014年07月20日)をご紹介します。(下線は拙者)


最近の社会事件を見ていると功名と狡猾をその背景に感じるのは私だけでしょうか?

本人は意識していなくても案外そうだったのが小保方さん。履歴書的には最高の水準にあった彼女が思ったことは功名なのでしょう。何か大きな功績をあげて名を上げたいと思うのは世の常、人の常。それが先走ることで学究の本筋をはき違えたのかもしれません。

狡猾の方はベネッセの名簿情報を第三者に売却したシステムエンジニアをまずあげましょう。数百万円の金を得るために犯した罪としては取り返しがつかない大きさとなりました。もうひとつ例を挙げれば全国最年少として有名だった美濃加茂市の29歳市長が収賄で逮捕された事件も恥ずかしい結果となりました。事実関係はまだ取り調べ中のようですが直接の容疑は30万円を貰ったばかりの結果でした。

私が感じるのは昔ほど世の中は甘くないということでしょうか?先日もこのブログで会社員の不正とその巨額化を取り上げさせてもらいました。何故、見つかるのかといえば世の中の監視体制、システム、倫理がより厳しくなってきている一方、複雑化した世の中の趨勢からどんどん離れていく人も増えているように見えます。

システムエンジニアの場合、ソフトやハードなどその世界に精通しているものの人間として持たねばならないバランス感覚が欠如していた訳です。同じことは美濃加茂市の市長も同様でしょう。

そういえば野々村竜太郎兵庫県元県議も不思議な人でした。あの日帰り出張が何のために使われていたのか、いや、本当に行っていたのかという点もしっかり調査してもらいたいものです。そもそも出張旅費が実質的に報酬の一部である様な管理の甘さが招いた問題ですが、彼の場合はそれを利用した狡猾さとも言えましょう。

功名と狡猾、この二つに共通するものは結果を急ぐことでしょうか?

努力する、汗を流す、日々の積み重ねとった言葉は今は流行りません。いかに簡単に、効率的に、上手に、というのが主流になりつつあります。しかし、要領だけで世の中乗り切れるものではありません。自分をしっかり磨き、失敗を繰り返し、それを乗り越えてこそ、人間が太くなるものです

残念ながら世の中の動きはあまりにも早く、人間の精神がそこについていかなくなりました。だからこそ、道を踏み外し、それがあっさりばれるようになっています。

私の周りにもそういう人はいます。本やネットで得た知識を雄弁に語り、いかにも出来そうに見えるけれど一皮むけばあれ?というタイプでしょうか?結局人はその饒舌さやプレゼンテーションに騙されやすくなっていると思います。そのような人たちもある分野においては優れた能力を発揮するけれどそれ以外があまりにもお粗末ということはより一層増えてきたのではないでしょうか?それは新しいことが増えすぎて我々自身がもはやついて行っていないということでもあるのです。

我々は物事の本質を追求し、じっくり腰を据えて考えることが重要になってきています。私は8割の時間で日々をこなし、2割を自分のための時間にすべく生活をシフトしつつあります。それは追われる人生ではなく、わが道を熟考し、ブレない人生を作り上げるためであります。

勿論、働き盛りの若い人にそんなこと言えば年齢がそうさせる、と反感を買いそうですが、どの人も少なくともそういう気持ちだけでも持ち続けてもらいたいものです。

2014年7月26日土曜日

子は親のいうようにはしないが親のするようになる

ブログ「教授のひとりごと」から子は親の鏡」(2014年07月17日)をご紹介します。


日経新聞(7/12付け)の「スマートマナー」欄に、マナーデザイナーの岩下宣子さんが『子どもの心遣い育む』として寄稿している。


始発ではない新幹線などに乗り込む時、信じがたい場面に遭遇することがあります。座席の下にお弁当や飲み物が捨てずに置いてあるのは、たまにあることです。でも窓の縁に食べ終えたガムが無造作に並べてあったのには、びっくりしました。
立つ鳥跡を濁さず。
電車を降りるときには、元通りにしていくのが原則です。リクライニングも元通りにします。近頃は、椅子を倒すとき、振り返って「倒していいですか」と聞く若い人がいて、礼儀正しいと感心しました。電車内では、騒ぐ子どもの姿をよく見かけます。私たちは、誰でも子ども時代があったのですから「うるさい」などと怒鳴ることはないと思います。とはいっても、周りの人に気遣いをすることも大事です。
かつて私が感動したのは、車内で泣きやまないお子さんをあやしていたお母さんが、下車する時、「うるさくしてスミマセンでした」と言って降りていったことです。子どもが騒ごうが泣こうが知らんぷりする親もいる中で素晴らしいと感動しました。子どもが迷惑をかけた時に、どのような気遣いをし、どのような言葉や態度に表すかが大事です。
電車内は、見知らぬ人とのマナーを育てるよい場所です。その行為がなぜ悪いかを、まずは子どもに教えることです。そのときにヒステリックな叱り方はNGです。親にも客観的に叱るコツを学ぶ良い機会だと思います。
新幹線などの電車は座席から離れたり通路を歩くのが自由だが、飛行機の場合には座席についていないといけない時間帯もあり、小さい子どもと連れたお母さんは大変そうだ。飛行機で、小さい子どもを連れたお母さんが隣や後ろの席にいることもたまにある。そうした場合、周囲にすごく気を遣っている親もいれば、周りを気にしてないように感じることもある。子どもは見ていないようで、親の言葉遣いや態度を見ている。子は親の鏡とはよく言ったものだ。


こちらのサイトでは、「子は親の鏡」には「鑑」の字がふさわしい、という。この字には「手本にする」という意味があるそうだ。

ドロシー・ロー・ノルトさんの詩『子は親の鏡』というのがあることを知った。


けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる
「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう
励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ
愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる
分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ
やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、
子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる(「子どもが育つ魔法の言葉」より)


大学ではもはや「子ども」とはいえないだろうが、大学生に接するときもこんな態度が必要なのでは、と最近思っている。

「学生は教師の鏡」?

2014年7月25日金曜日

「大学体質」からの脱却

「存亡の危機」と「存在の危機」 職員の“想い”が大学を変える」(ワオ・コーポレーション 文教ソリューション事業部)をご紹介します。(下線は拙者)


わが大学を輝かせる出発点は危機意識の共有化

まず、危機認識を持っているかどうか、これが大学の「存在」を強める改革への出発点です。そして改革を実行するためには、その危機感を組織的に共有していくことが必要です。簡単なことではありません。しかし誰かが始めなければなりません。それを実行していくのは、ここにお集まりの皆様に他ならないのです。そういう気持ちをぜひ持っていただきたいと思います。

立命館でも、危機意識を大学構成員が組織的に共有できたとき、初めて改革が始まりました。教員の巻き込みはもちろん、トップマネジメントのリーダーシップとコンセンサスが絶対に必要です。

ビジョンを作ること、そしてわが大学を輝かせていくための戦略を策定すること。そのためには、一切の甘えを捨て、厳しく自らの大学の位置を見つめられているかどうか(ポジショニング)、またコア・コンピタンス(強み)と弱みを自己認識できているかどうか、それらが前提だと思います。

国公立大学と私立大学の立つ位置と課題

ここで、国公立大学と私立大学とを比較し、基本的な立つ位置と課題を挙げてみましょう。立命館という私立大学にいた私が和歌山大学に来てまず思ったことは、「国立大学って“不思議の国”だな」ということでした。私大の様子とはまるで違ったわけです。国公立大の優位性は、安い学費と教員一人当たり学生数の少なさに集約されるでしょう。反対に言えば、私大は学費が高く、教員一人当たり学生数も多いということです。

では、私大はこの2つの格差を何でカバーしてきたのでしょうか。それは、学生を「お客様」、教育を「サービス」という観点で捉え、顧客満足度の向上、システムとしての教育の充実を図ってきたことではないでしょうか。そして「民」としての業務改善や人事政策なども。これらを実現してきたのは職員の研鑽でした。海外セミナーを含めた20年にわたる私大職員研修、そしてそれを実践に移す様々な経営努力がなければ、今ごろ私大はどうなっていたのかと、私大を離れてあらためて思わずにはいられません。

国公立大の弱点は、長い「官」としての体質であり意識です。ここから脱却できるか、そして先に述べた「強み」を活かした改革ができるかどうかが、各国公立大の課題であります。私大については全体として職員意識は高いのですが、大学ごとの改革の進み度合いは異なっています。ライバル大学が、今、少し先行しているとすれば、このままではその差は今後さらに拡がっていくと考えねばなりません。改革の時を逸しないこと、そして、そのスピードが大事なのだと思います。

その改革と言うか、手を打つことのスピードに関しては、予備校にいたときのことを思い出します。予備校と大学とでは、問題解決のスピードが大違いです。一言で言って、大学は遅い。予備校なら3日とか3か月というスパンで解決する問題も、大学では3年間かけるのが当たり前という感じですね。無論、大学と予備校の事情は異なります。

それから、予備校と並んで改革のスピードが速いのが、専修学校・専門学校です。この間の高等教育全体の学生争奪競争を見ると、大学・短大が専門学校に負けている状況があることが否めません。大学が「大学体質」からいかに脱却できるか、国公立・私立問わず、これが大学改革のスピードを決めます

2014年7月24日木曜日

大学のガバナンスと教授会権限

桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれた学校教育法の改正と大学ガバナンスへの影響」(文部科学教育通信 No343 2014-7-14)をご紹介します。(下線は拙者)


身近に感じた教授会万能意識

私は、筑波大学と広島大学とを合わせて20年間にわたり国立大学に勤務したが、その間、センター長という管理職を15年間務めた。その間にはさまざまな気づきがあったが、若手教員の意識と私のそれとの微妙な差異があったのも一例である。彼らに文書を起案させると、発信者について、私なら「○○センター長」と書くところを「○○センター」と書きたがる。また、私なら「教員会議申し合わせ」とするところをすぐに「教員会議決定」とする傾向がある。おそらく彼らには、意思決定の権限・責任の所在が管理職ではなく教員集団にあるという前提があり、これが無意識のうちに行動に出てくるのだと思う。彼らの多くは大学院生以来ずっと大学にいて、外の社会を知らない。したがって、組織の論理はすなわち大学内の論理であり、その大学内の論理に教授会万能的発想が染み付いているのは、ある意味でやむを得ないのである。彼らの行動を制約するのは、学長や学部長など縦のラインではなく、教授会に代表される横のつながりであることがよく分かる。

その教授会万能と深い関係を有するわが国の大学自治の原型は、戦前、帝国大学で起きた二つの事件にあるとされている。その一つは、東京帝国大学における戸水事件である。日露戦争当時に対ロシア強硬論を唱え続けた戸水寛人法科大学教授に対して行われた休職処分が、帝国大学総長の申出なしに行われたため、学問の自由、大学の独立を侵すものとして全学の教授が激しく抗議し、その結果、戸水教授は復職、これに関わった文部大臣と総長が辞職した。二つ目は、京都帝国大学における澤柳事件で、1913年、澤柳総長が7人の教授に対して不適任であるとの理由で辞表の提出を求め依願免官とした処分に対し、同大学の他の教授らが教授会の同意を得ていない等の理由で激しく抗議、その結果、総長は辞職、文部省は教官の任免について総長がその職権の運用上、教授会と協定するのは差し支えなく妥当である、との意見を発表した。これらにより、教員人事に限らず、大学の内部管理における教授会の優位性が確立したとされる。(以上は大崎仁著『大学改革1945~1999』による。)

制度に裏付けられた教授会

この教授会を核とする大学自治の慣行は、その後、滝川事件(1933)、平賀粛学(1943)などによって危機に瀕したこともあり、また戦後大学改革の中で米国流の大学管理運営制度の導入が試みられたこともあったが、学校教育法の中で、教授会の必置と重要事項の審議機能が法定され、さらに国公立大学については、教育公務員特例法の制定により、教員人事手続きに関する教授会等の関与が定められるなどの中で、多くの大学に受け継がれることになった。1960年代後半に全国を吹き荒れた大学紛争の嵐の中で、教授会の権威はかなり傷ついたが、それでも1990年代大学改革が始まるまでの問、教授会による部局自治は学長のリーダーシップを上回る勢いで、大学の管理運営の中心の座を占めていた。私がまだ文部省にいたとき、ある国立大学の学長が「教特法がすべての問題の原因だ」と会議の席でつぶやいたのを今でも覚えている。

その教育公務員特例法は、2004年の法人化に伴い国立大学には適用されなくなり、それでも当初はその精神が大学運営には受け継がれると理解され、そして現に国立大学法人法においても、学長自身の任命は法人からの申出に基づき文科大臣が行うことに変わりはないのだが、近年の文科省の説明では「学長・学部長の選考や教員の採用等の手続は、任命権者としての学長が自由に整備できることとなった」ということだから、これに深く関わってきた教授会の権限は大幅に制約されることになった(本誌No333、山本記事参照)。学長のリーダーシップの確立が、近年の大学改革の重要キーワードだと考えれば、その点では論理一貫していることが見て取れる。

さて先月、国会において学校教育法の一部改正を含む法律改正が行われた。このうち教授会に関する学校教育法上の規定は、従来「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない」(同法第93条第一項)とのみあったのを、二項新設し、教授会は教育研究に関する重要な事項で、学生の入学、卒業、課程の修了、学位の授与は必ず、それ以外は「学長が教授会の意見を聴くことが必要であると認めるもの」に限り、学長が決定を行うに当たり意見を述べるものとする(改正後の同条第二項)とし、このほか学長や学部長等がつかさどる教育研究に関する事項について審議し、及び学長や学部長等の求めに応じ、意見を述べることができる(改正後の同条第三項)と限定している。

随所に見られる合議制

ここからうかがえることは、学校教育法や国立大学法人法に定められた学長の権限、すなわち法律用語で言うならば「独任制」的意思決定メカニズムを維持・強化することに最大限の配慮をする一方、実質的に「合議制」的意思決定メカニズムの中に位置づけられていた教授会の権限をできるだけ縮小しようという政策意図である。ただ、それが当初の意図通りに動くものかどうかは分からない。それは、たとえ独任制的意思決定であっても、現実には多くの合議制的意思決定すなわち各種の会議体の力を借りなければ動かないことは、自民党、内閣、文科省などの政治・行政の意思決定の仕組みを見ても明白であるからだ。今回の法律改正においても、教育再生実行会議や中教審大学分科会など、大学界の重鎮を巻き込んだ審議が必要不可欠であったことを思い起こすべきである。

産業界においても、コーポレート・ガバナンスは社長の独裁ではなく、取締役会、監事、株主総会の役割が大きく、またそういう配慮をするのが優良企業の証しである。ましてさまざまな学問分野の専門家である教授らを動かすには、その専門職にふさわしい扱いをしなければコトが運ばないのは明白である。教授会は学長・学部長の意思決定のブレーキ役であると同時に、気ままな教授たちを動員し大学の活動を円滑に行うための重要な道具立てでもあるのだ。さらに言うなら、私立学校法では学校法人の意思決定機関は理事会であるとされ、理事長ですらその職務執行に際し理事会の監督を受ける(同法第36条)。このような合議による意思決定と国立大学を主として想定した今回の法改正とは、どこでどのように調整されるのであろうか

改正法は来年4月に施行される。教授会の扱いは、当面は各大学の実情に応じてなされるべきであろう。私立大学の中には、教授会が「審議決定」するという規定がある大学もある。また、教授会という名前は止めるが「教学会議」とか「大学委員会」などの名目で、現在と変らない扱いをする大学もあるかも知れない。それに政策当局はどう対処するつもりであろうか。いつものように行政調査を行って、改正法の趣旨に合わない教授会運営を指弾することになるのだろうか。また認証評価のシステムを通じて統一を図ろうとするのであろうか。さらにはどこかの教育委員会に倣って「教授会における採決禁止」のように珍妙な通達を考えているのだろうか。これらは、いずれも世界の一流高等教育入りを目指すわが国にとって得策ではない。もし、世界大学ランキングにおいて「教員・研究者の専門職としての立場を尊重しているか」などの評価項目が入ったらどうするつもりであろうか。関係者の冷静な判断を望むところである。


2014年7月22日火曜日

学制改革

「学制改革」に関する三つの記事をご紹介します。


教育の多様性広げる学制改革を進めよ(2014-07-05 日本経済新聞)

6・3・3・4制の見直しによる「平成の学制大改革」を-。安倍晋三首相が昨年の施政方針演説でこう意気込んだわりには、政府の教育再生実行会議がまとめた第5次提言は控えめで、現実的な内容となった。

しかし自治体の判断で「小中一貫教育学校」を設置できる制度づくりを求めるなど、いまの硬直的な仕組みに風穴を開けようとしているのは評価したい。中央集権的に、全国一律に学制を変えるよりも理にかなっていよう。

文部科学省は提言を生かし、教育の多様性と選択肢を広げる改革につなげるべきだ。

今回の改革案の柱である小中一貫校は、子どもの心身の発達状況が必ずしも6.3の区切りとは合わなくなっているという声を踏まえ、9年間の義務教育を同じ学校で展開できるようにする制度だ。これにより地域や学校ごとに「4・3・2」「5.4」などの設定が可能になる。

提言はこのほか、実践的な職業教育を担う新たな高等教育機関の創設や、高校の早期卒業、大学への飛び入学、大学間での編入を容易にすることなどを求めている。おもに不登校の子どもが学ぶフリースクールなど「学校外の教育機会」をどう位置付けるか、議論を促したのも注目すべきだ。

総じてみると教育コースの複線化、弾力化を強く意識した今回の改革案だが、具体化にあたって文科省が画一的な方向付けをするのでは意味がない。地域や現場がなるべく自由に切り盛りできる仕組みを心がけるべきである。

とりわけ2016年スタートが想定される小中一貫校には地域住民の関心が集まりそうだ。国があまり細かな部分まで口を出すのは避け、教育委員会制度改革で誕生する「総合教育会議」などでの議論を重んじてほしい。施設形態や学年の区切り方、カリキュラム編成など課題は山ほどある。

実行会議は今回の提言で3~5歳児の幼児教育の段階的無償化を訴え、さらに5歳児の就学前教育の義務教育化についても検討課題として盛り込んだ。

しかし5歳児の教育を無償化するだけで年に約2600億円かかるうえ、義務教育年齢の前倒しにはもっと議論が必要だ。実行会議が、いずれも将来的なテーマにとどめたのは妥当だろう。現時点では、少子化対策としても優先度が高いとは言えまい。


小中一貫校 課題をしっかり見すえ(2014-07-06 毎日新聞)

小学校と中学校を足して一つにするだけでは意味はない。そのメリットと可能性をどう引き出すか。

「学制改革」で、政府の教育再生実行会議第5次提言が柱とする「小中一貫教育学校」(仮称)の制度化である。学校、教育委員会だけでなく地域の参画、協力が欠かせない。

小中一貫校は、義務教育9年(小学校6年、中学校3年)を一体化し、発達状況を勘案して「4・3・2」や「5・4」などのように、柔軟に区切りをつけて編成する。

この制度導入の判断やカリキュラムの組み立ては、市区町村の判断に任せられる。

いくつか利点が挙げられている。

一つは、中学進学時、教育環境と内容の急変に子供が対応できず、不登校やいじめの原因になりやすいという「中1ギャップ」の解消だ。

学力面では、教員が小中段階にまたがって授業を工夫することで、円滑に学習指導しやすくなる。英語に期待が高い。また幅広い異年齢集団は、社会性を豊かにし、責任感や思いやりを育むとも指摘されている。

懸念もある。例えば、9年間固定的な人間関係が続く場合のデメリット。転校した先でカリキュラムが整合せず、混乱する可能性。高校との接続。教員の負担増−−などだ。

一貫校に適した教員養成や幅広く多様な教え方ができる新しい免許もいる。教科書はどうするか。施設整備などで、財政力など地域の条件によって格差が生じないか。

文部科学省は、中央教育審議会と国会での法改正を経て2016年度にも制度化の方針だが、これまでの論議は国民的な関心があまりついてこず、前のめり気味ではなかったか。きめ細かな説明がいる。

その意義と仕組み、地域での必要性や生かし方などについて広くコンセンサスを得ることが欠かせない。

この制度で肝心なのは、それぞれの学校が創意と多様性を確保できるかどうかだ。横並びでどれもが似たような形式になっては弾力性を失い、「一貫」の意義を失いかねない。

実行会議の今提言は小中一貫校のほか、幼児教育の段階的無償化や5歳児の義務教育化も将来の検討課題に挙げた。高度な職業教育の高等教育機関創設や、大学の編入学、飛び入学推進なども提起している。

財源の裏づけや具体性には欠けるが、総じて学制を弾力化し、幅広い選択と学習機会を多様化するという方向性は示したとはいえよう。

財源などの難題と切り結び、学制改革という大テーマで、政府が持続的な取り組みと国民的コンセンサス作りを進めるか、棚上げと忘却のかなたに遠ざけるか。

「教育立国」の真価が試される。


教育再生実行会議 羊頭狗肉の「学制改革」2014年7月 5日 (教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説

予想通りとはいえ、ひどいものだ。教育再生実行会議の第5次提言「今後の学制等の在り方について」のことである。客観報道を旨とする新聞各紙はさぞ大事のように報じざるを得ないのだろうが、本来ならまともに扱うような代物ではない。

「幼児教育の無償化」がいい例だ。本文をよく見ると、「財源を確保しつつ」「段階的に推進し」と逃げを打ってある。明らかに財務省サイドに負けた表現だ。5歳児の義務教育化に至っては、段階的無償化の「次の段階の課題」に位置付けられている。無償化が実現されなければ義務化もできない、と読むべきだろう。

議論する前から意図は見え見えだった。義務教育年齢の引き下げなどという大風呂敷を広げて、実際に狙うところはいかに幼稚園に落すカネを増やすかという話である。確かに幼児教育の充実は経済協力開発機構(OECD)も推奨しているように高い教育投資効果が見込めるのだが、だったら保育所も含めた2610億円の財源措置まで示すのが「国家戦略」(第5次提言「はじめに」)というものだろう。

敗戦直後に比べて子どもの発達が2歳ほど早まっていることは、議論するまでもなく明らかなことだ。それでも首相直属の会議で学制改革を見直すというなら、6・3制を改める提言ぐらいしてはじめて「戦後レジームからの脱却」と呼べよう。しかし最初から学制改革に手をつけるつもりがなかったことは、3月の段階で示した「論点」を見ても分かる。委員から積極的な見直し論が出なかったら、というのは隠れみのにすぎない。

代わりに出してくる目玉が小中一貫教育の制度化であることも、想定の範囲内だった。しかし中等教育学校と同様、実態として行われている一貫校を追認するものでしかない。しかも実施自治体から「義務教育学校」(仮称)の創設を要望されながら、民主政権下の2012年7月に中央教育審議会の作業部会が制度化見送りを結論づけていたことを忘れてはいけない。その時に「現行制度下でもだいたいのことはできる」と主張していた人が今回は一転して制度化の旗を振っているのは、理解に苦しむ。

「実践的な職業教育を行う高等教育機関」は確かに成長戦略としても、社会人の学び直しが要請されることからも意義はあろう。しかし、これも実際には11年1月の中教審答申にあった「職業実践的な教育に特化した枠組み」の再掲でしかない。提言は結局実現せず、今年度から専門学校の「職業専門実践課程」に姿を変えている。それでも新しい学校種の創設にこだわるのは、1条校化して国から助成金を流そうという意図があることは明らかだ。

評価すべき点があるとするなら、「所得連動返還型奨学金の充実」くらいだろうか。12年度から年収300万円になるまで返還が猶予されることになったものの、300万を1円でも超えた段階で全額返還となる「1かゼロか」の不十分なスタートだった。有識者検討会での審議も進んでおり、ぜひ年収に応じた返還額の設定や、どうしても返せない人には一定期間で返還を打ち切る「徳政令」も実現してほしい。

教育財源確保に関するくだりは、もろ刃の剣ではないか。苦学経験を持つ下村博文文部科学相が教育投資の充実を訴え、幼児教育や高校はおろか大学まで無償化したい考えを表明しているのは大いに共感できる。しかし独自財源の確保にまで踏み込むのは、それまでは予算が拡充できない危険性も伴う。現に第5次提言では「安定的な財源を確保しつつ」という一文が入っている。「社会総がかり」という言葉は心地いいが、裏を返せば政権は第一義的には責任を持たないということでもある。

実行会議はこれで実質的な審議を終えるようである。一連の過程で明らかになったのは、教育改革に対する安倍晋三首相の無関心ぶりではなかったか。これで「教育再生」に着手できたと胸を張られては、いつまでたっても疲弊した教育現場は真に再生できない。「改正教育基本法の趣旨」を盾にカネの掛からない政権の意向ばかり押し付けられては、むしろ将来に禍根を残そう。

2014年7月21日月曜日

老老介護が当たり前の時代

被介護人口の増加に伴い、様々な問題が新聞やテレビでクローズアップされるようになりました。
今回は、「認知症」に関する二つの記事をご紹介します。


「老老介護」初の5割超え 急速な高齢化浮き彫り 厚労省13年度まとめ(2014年7月15日日本経済新聞)

介護が必要な65歳以上の高齢者がいる世帯のうち、介護する人も65歳以上である「老老介護」の世帯の割合が51.2%に達し、初めて5割を超えたことが15日、厚生労働省がまとめた2013年の国民生活基礎調査で分かった。急速な高齢化の進展が改めて浮き彫りになった。

調査結果によると、介護保険法で要介護認定された人と、介護する同居人が共に65歳以上の高齢者である老老介護世帯は、10年の前回調査から5.3ポイント増の51.2%となり、01年の調査開始以来、最高となった。

介護が必要になった原因のトップは脳卒中で、認知症、高齢による衰弱が続いた。

団塊世代の約半数が65歳以上になっていることから、老老介護の世帯は今後も増加が見込まれるとともに、同世帯の高齢化も、より進むとみられる。

介護を担う人については、同居する家族が61.6%(前回調査比2.5ポイント減)、事業者が14.8%で同1.5ポイント増)。介護する人の約7割は女性で、性別の偏りが見られた。続柄では配偶者、子が共に2割を超え、子の配偶者が約1割だった。

介護している人の悩みやストレスの原因を聞いたところ、「家族の病気や介護」を上げる人が最多で、「収入・家計・借金など」や「自由にできる時間がない」を回答する人も目立った。

厚労省は「少子化対策とともに高齢者世帯への対策も重要になってくる」と指摘。介護を担っている配偶者や子など家族へのサポートも含めた体制整備が課題となりそうだ。

一方、全国の世帯総数は13年6月現在で5011万2千世帯だった。このうち65歳以上の高齢者だけか高齢者と18歳未満の子供だけの「高齢者世帯」は過去最多の1161万4千世帯で世帯総数の約4分の1を占めた。65歳以上の高齢者が1人でもいる世帯は、2242万世帯で、世帯総数の半数近くに達した。

調査は13年6月に全国の世帯から約30万世帯を無作為抽出して実施。介護の状況は、原則自宅で介護されている約6300人の家族から、世帯の人員構成については約23万4300世帯からの回答から推計した。


認知症の妻介護、75歳「自分がもつか」 細る家族の力、支援策は途上(2014年7月16日朝日新聞)

トイレ介助をする堀本平さん。認知症の妻が歩けた頃、
場所を間違えないように「トイレ」と書いた紙を張った
=熊本市、川村直子撮影

介護される人も、介護する人も高齢者。老老介護は、もはや例外ではなく、ごく普通の光景になりつつある。ただ家族を支える環境は整っているとは言い難い。

熊本市の堀本平さんは75歳。認知症で要介護5の妻、美都里さん(76)と2人暮らしだ。日中はデイサービスを利用しているが、それ以外の時間帯の食事や排泄(はいせつ)の介助は、平さんがすべて担う。そんな生活が12年間続く。

今年3月、平さんは妻を寝かせた後に貧血で倒れ、3週間ほど入院した。その間、美都里さんは介護老人保健施設に一時入所した。平さんは「このままで自分の体力がもつかどうか」と不安を募らせる。特別養護老人ホームにも申し込んでいるが、まだ空きがない。「1日でも長く一緒に暮らしたいが、在宅介護にも限界がある」

団塊の世代が75歳以上になる2025年には、65歳以上の高齢者人口は3657万人となり、高齢化率は30%を超す見通し。高齢者だけの夫婦や一人暮らしも急増する。家族の「介護力」は年々弱まる。

「介護の社会化」を目指してスタートした介護保険も行き詰まりを見せている。総費用は00年度の3・6兆円から9・4兆円(13年度)に増加。厚生労働省は、住み慣れた地域で暮らせる態勢をつくる「地域包括ケア」を掲げる一方で、サービス抑制にかじをきっている。例えば6月に成立した地域医療・介護推進法では、要介護度の低い「要支援者」向けのサービスを市町村事業へ移管。さらに52万人の待機者がいる特養については新規入居者を要介護3以上の高齢者に限ることにした。

老老介護の広がりで介護力が弱くなるのに、逆に家族頼みの介護政策に逆戻りしてしまうのでは-。そう心配する声もでている。

老老介護を支える態勢はまだ不十分だ。12年度に厚労省が「在宅介護の切り札」として新設した24時間の定期巡回サービス。採算面の問題などで参入が進んでいない。約462万人いると推計される認知症高齢者。徘徊(はいかい)中の認知症の男性(当時91)が07年に線路に立ち入って死亡した鉄道事故では今年4月、妻(当時85)に見守りの監督責任を認め、約360万円の賠償を命じる判決が出た。

高橋紘士・国際医療福祉大学大学院教授(地域ケア論)は、老老介護が当たり前になる時代に入ったとしたうえで、「毎日訪問する24時間対応の介護サービスに加え、孤立を防ぐために地域の支え合いも必要になる」と指摘している。

2014年7月20日日曜日

組織を強くする要諦

どこを犠牲にするか「着眼大局・着手小局」こそ命-コマツ会長 坂根正弘氏」(PRESIDENT 2011年4月4日号)をご紹介します。(下線は拙者)

大学経営にも十分通じる示唆に富む内容ではないでしょうか。大学の学長はもとより、理事、管理職は自戒が必要かもです。


トップは最初の一手を置くだけ

無難な平均点の商品などいらない、飛びぬけた力を持つ「ダントツ商品」をつくれ-。2001年、コマツ社長に就任した私は、社内にこう号令をかけ、商品力強化に乗り出した。

この年(02年3月期)、コマツは創業以来初の最終赤字に転落する。何が原因なのか。経営の数字を徹底的に「見える化」したところ、海外の競合メーカーと比べて本社部門などの固定費コストが高すぎることが判明した。その一方、変動費である製造コストは常識的なレベルに収まっていた。

ということは、固定費さえ正常化すればライバルと同じ土俵で戦える。そのための武器として、魅力ある商品を揃えようと呼びかけたのだ。ただし、私が求めたのは単なる「よい商品」ではない。他社の開発陣がどんなに頑張っても、3~5年は追いつけないほどの突出した性能を持つ商品である。

それを実現するには何が必要なのか。

まず自分たちの強みと弱みを知る。経営資源に限りがある以上、現実にはすべての機能をダントツにすることはできない。そこで強みとなる部分に磨きをかけて突出した性能を与え、他の部分は平凡な機能でよしとする

別の言い方をすれば、会社の将来のため重点分野へ大胆に投資する一方、その他の部門には、涙をのんで犠牲になってもらう。私はこの構図を明確に示し、着実に実行することを何よりも優先した。そして、そのときの指針としたのが「合理性」と「誠意」である。

合理性とは、常に組織の全体最適を念頭に置き、意思決定するということだ。本当に必要ならば、雇用調整など犠牲をともなう改革にも踏み込まなければならない。だが、相手は感情を持つ生身の人間である。理性では了解しても感情が納得しないこともあるだろう。その際は誠意を持って訴えていくしかないのだ。

また、とかく組織は世界の本質的な変化を見落とし、近視眼的な部分最適論に陥り、全体最適にブレーキをかけがち。全体最適を追求するには「どこを犠牲にするか」を決めなければならない。これこそトップにしかできない重要な決断となる。

たとえばコマツの国内販売比率はいまや15%にすぎない。しかし商品のラインアップを見ると、将来的にも国内市場でしか売れないような商品が含まれている。コストを考えると、このタイプは発売しないほうが合理的だ。

ところが、これを担当役員が主張しても「販売シェアが落ちたらどうするんですか」と反論され、結局は押し戻されてしまうだろう。だからこそトップ自身が「シェアは落ちても構わない。国内でしか売れないようなモデルからは撤退する」と、自分の言葉で犠牲を明確に示すのだ。

その一方、トップは現場の仕事にまで口を出すべきではない。とりわけ日本社会では、トップダウンが強烈すぎると、ほとんどの部下が待ちの姿勢をとるようになってしまう。すると結局は部下の自主性が阻害され、仕事の質や効率が落ちるのである。

ダントツ商品の開発に当たっては、初めに犠牲にする部分を決定した。では、どの機能に注力するか。私が示したのは「環境と安全と情報通信技術、この3つに集中せよ」。これだけだった。具体的な企画を詰めたのは、担当役員以下の現場である。

囲碁の世界に「着眼大局、着手小局」という言葉がある。トップの仕事も同じである。まずは現状を把握し、仮説を立てて将来のビジョンをわかりやすく示す(着眼大局)。そのうえで、何を犠牲にするかという具体的な指示を与える(着手小局)。しかし、トップは最初の一手を置くだけで、あとは部下の自発性に任せるべきなのだ。

そして、どのようなことを語るにせよ、トップは部下の作文を読み上げるのではなく、ぶれずに繰り返し自分の言葉で語らねばならない。経験のなかから紡ぎだされた言葉や数字は、借り物にはない説得力があるからだ。

リスクの先送りをしないこと、後継者を育てることもトップの大切な役目である。では、後継者をどう育てるか。

若いうちに「伸びる人」「リーダーになりそうな人」を見分けることは事実上不可能である。ポストにふさわしい器であるかどうかは、やらせてみなければわからないからだ。

よく冗談でいうのは、私は28歳のときに社内の海外留学制度に応募したが、大学時代の成績が悪いという理由で不合格になった。その男が後に社長になるのだから、若いときの評価など当てにはならないといえるだろう。

だが、その人がどういう器であるかは、課長から部長、部長から役員に引き上げていくうちにだんだん見えてくる。部長になったら以前よりはるかに仕事ができるようになる人がいる一方、責任が重くなればなるほど判断力が鈍り、決断できなくなる人もいる。

つまり、その人物の器を見極めるには、それなりの権限を与えてみないとわからない。だからコマツでは、「これは」という人材には、定められたキャリアパスを与えるようにしている。

敗者復活ありの後継者リスト

アメリカ企業には「サクセッション・プラン」といって、経営トップが後継候補を取締役会に対して早くから公開する制度がある。私はこれにならって、コマツの役員と子会社社長については、自分の次の後継候補とさらにその次の候補を本社社長に対して公開する制度を取り入れた。

対象になる役員と子会社社長は、次の候補者1人と、その次の候補者3人ほどを年1回リストアップして、本社社長と面談することになっている。

ところが、この後継者リストは毎年のように中身が入れ替わる。つまり選ばれる側からすると、敗者復活はあり、となる。「部下は上司を3日あれば見抜くが、上司は部下を見抜くのに3年かかる」という言葉があるとおり、部下の見極めは大変難しい。アメリカと違って次期社長の名前こそオープンにすることはないものの、社長候補の1人として会社が認め、次代のリーダーとしての自覚と奮起を促すよう見守るのである。

人材育成という観点では、1996年に始まった社内ビジネススクール「ビジネスリーダー選抜制度」も非常にうまく機能している。課長と部長クラス、それぞれ20人を選抜し、1年間にわたり根幹となる価値観、コマツグループで共有すべき価値観や行動指針をまとめた「コマツウェイ」を身につけてもらう。こちらも課長のときに選ばれなかった人が部長のときには選ばれるなど、敗者復活も珍しくない。

同様のビジネススクールは他社でもよく聞くが、「仏をつくって魂入れず」を避ける一番のポイントは、一度でも選抜されたメンバーは本社人事部預かりとすること。とかく上司は優秀な部下ほど離したがらず、ナンバーツーを出すことでお茶を濁そうとする。しかしこの制度では、直属の上司の人事権は及ばないため、上司の意向とは関わりなく、海外赴任など戦略的に異動させることができる。

コマツは売上高の85%を海外市場に頼るグローバル企業だ。今後も新興国をはじめ世界で人気が高いハイブリッド建機などダントツ商品を携えて、海外市場を開拓・深耕しなければならない。すでに役員の4分の3は海外駐在経験者となったが、経験者で社長になったのは私が初めて。人材という意味では海外の歴史は意外と浅いのだ。

企業経営に優れたトップダウンは欠かせない。だが、トップダウンを担うのは、優れた「ミドル」にほかならない。課長クラスを中心とする「ミドルアップ」あってのトップダウン。「ミドルアップによるミドルダウン」こそが、組織を強くする要諦なのだ。

2014年7月19日土曜日

人事管理とは人間を理解すること

吉武博通さん(筑波大学大学研究センター長・ビジネスサイエンス系教授)が書かれた人事管理を確立して強い職員組織をつくる」(リクルート カレッジマネジメント187 / Jul. - Aug. 2014)をご紹介します。(下線は拙者)


職員は教員と並ぶ大学の競争力の源泉

人材育成を担うべき大学は、その構成員である教職員の能力を十分に伸ばし、引き出せているだろうか。本連載では様々な角度からこの問題を論じてきたが、今回は職員の人事管理に焦点を当てて、現状の課題を整理し、今後のあり方を考えるうえでの視点と方法論を提示することにしたい。

経営的側面はもとより、教育、研究、学生支援、国際化、地域・社会貢献など大学の幅広い領域において、組織的な取り組みの強化が求められる中、職員の業務は多様化・高度化し、役割の重要性は飛躍的に増している。教員と並び、大学の競争力を左右する最大の経営資源であることは言
うまでもない。

国公私立を問わず、その認識は広く共有されつつあり、SD(Staff Development)はFDと並ぶ重要な能力開発への取り組みとなっている。大学や機関・団体等が提供するプログラムも増え、自ら積極的に自己啓発に励む職員も多い。

このような状況を、職員の能力や組織の生産性の持続的向上を通じて、大学の競争力強化に着実に繋げていかなければならないが、現状はどうであろうか。

4年前の調査であるが、東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策センターが、国公私立大学737校に調査票を配布し、5,909名(回収率33.5%)の回答を得てまとめた『大学事務組織の現状と将来-全国大学事務職員調査-(報告書)』(2010年6月)を手掛かりに検討してみたい。

否定意見が目立つ職場の人事制度に対する考え

その中で、「職場の人事制度に対する考え」で注目すべき回答結果が示されている。

回答は、「そう思う」、「ある程度そう思う」、「あまりそう思わない」、「そう思わない」の4つから選択させるものだが、「能力や適性が生かされた人事異動が行われている」に対して、「そう思う」はわずかに2.0%、「ある程度そう思う」の28.7%を加えても、肯定意見は約3割にとどまっている。国公私で大まかな傾向は変わらないが、私立大学では肯定意見が28.8%とやや低く、「そう思わない」が27.1%を占めている。

また、「一定のキャリアモデルが示されている」に対しては、「そう思う」1.4%、「ある程度そう思う」16.4%、「あまりそう思わない」50.4%、「そう思わない」31.1%と、否定意見が8割を超えている。国立における否定意見75.2%に対して私立における否定意見が83.9%に上っていることにも留意する必要がある。

この調査は、「全国の大学事務職員に、仕事やキャリア感についての実態や意識などについて尋ね、今後の大学経営における大学事務組織のあり方を検討することを目的とした」ものであり、25問の質問項目のうち、「自分の職場に対する考え」や「現在担当している仕事に対する考え」では、総じて肯定意見が否定意見を大きく上回っている。それだけに、職場の人事制度に対する否定意見の多さが際立つ。

また、「大学運営の現状に対する印象」では、「大学の経営方針が全学で共有されていない」が7割を超え、「企画調査能力をさらに強化する必要がある」が9割近くに達している点などは留意しておく必要がある。

組織は共通目的を実現する装置であり、その構成員はそれぞれに異なる能力、価値観、動機、パーソナリティーなどを有している。組織が掲げる目標とその構成員である個々人の目標をどう調和させるかに人事管理の本質がある。その点に重大な問題を抱えていることを本調査結果から読み取ることができる。

仕事にやりがいを感じ、自身の能力をさらに向上させ、経営や教育研究の高度化に貢献したいと考える職員は多く、学ぶ気持ちさえあれば学内外に様々な学習機会も用意されている。その一方で、大学や上司は自分に何を期待し、どうすれば評価され、どのようなキャリアを歩むことになるのか、職員の側から見て不透明な面も少なくない。

大学自体が大きな変革期にあることがその背景にある。国立大学は法人化から10年を経過し、部課長以上は異動官職、課長補佐以下は生え抜きという人事慣行が崩れつつあるものの、人事管理の発想を転換し、新たな枠組みを構築するまでには至っていない。公立大学も8割が法人化し、設置自治体からの派遣職員がプロパー職員に置き換わりつつあるが、キャリアモデルが明確に示されているとは言い難い。

私立大学についても、法人化のような体制変革こそないが、理事会、教員、職員の間で、あるいは世代間で、職員が担うべき役割、求められる能力、育成のあり方などに関する認識のギャップが生じ、それが前述の調査結果に繋がっているものと考えられる。この点は、国公立大学にもあてはまる面がある。職員に期待する一方で、積極的な行動や新たな試みを出過ぎたこととして抑えるような体質も残っているように思われる。

職員が担う機能の明確化と期待する職員像の明確化

これらの問題を解消するためには、次の2つの事柄を明確化し、立場や世代間で認識の齟齬が生じないように、大学全体で徹底し共有化する必要がある。

その一つは、職員が担う機能の明確化である。決定権限は事柄の性格と重要性により定められるが、職員組織の責任で起案または実施するもの、教員と職員が恊働して起案または実施するもの、教員の業務を支援するもの、という3つのカテゴリーで業務全体を再整理する必要がある。

特に、教学事項の多くは教員が合議で決し、職員はその支援や決定事項の処理に従事するという、上下ともいえる関係が続いてきたが、教員と職員がそれぞれの機能と能力を発揮し、恊働して企画し実施する方が効果的な業務は少なくない。また、支援業務も、専門性を活かした機能的な支援と、教員の指示に従う事務支援の2つが考えられる。業務の性格と職員の役割を明確化することで、当事者意識を持って能動的に判断し行動する職員が育つ環境も整う

もう一つは、大学が期待する職員像の明確化である。どのような大学でありたいのかを明示したものが大学の基本理念だとすると、そのために職員にはこうあってほしいと思う大学としての意思表明が期待する職員像である。育成や評価の大本となる人事管理の憲法ともいえるものである。単なる作文に終わらせることなく、全構成員が常にそこに立ち返るよう、徹底し定着させなければならない

経営の要請と個人の期待を如何に調和させるか

そのうえで、職員の人事管理を制度と運用の両面から点検し、改善・充実を進めるとともに、必要ならば抜本的な再構築を目指すべきであろう。移行期の措置や職員・組合の理解など配慮すべき点は多いが、競争力の源泉である職員の人事管理を、業務の高度化、個人のキャリア形成、経営の効率化という3つの視点から捉え直すことの意味は極めて大きい。

検討にあたっては、採用・退職等の雇用管理、配置・異動・昇進、育成、評価、報酬、福利厚生、労働時間管理など、人事管理全体の枠組みとそれを構成する制度・施策の目的を体系的に理解したうえで、多様な意見を聴取しつつ、自校の規模や状況に即した実効性の高い案を練り上げていくことが重要である。

また、部署、職階、年齢、性別などが偏ることなく、前述の東大が行ったアンケート結果で否定意見が多かった2項目に着目すると、人事管理の中でも、配置・異動・昇進、育成、評価などに、多くの職員が疑問を感じている様子が窺える。人事管理の根幹ともいえる部分であり、経営層、管理職層、人事部門と職員の間の信頼関係が十分に築かれていないと見ることもできる。

人事管理は、経営の要請と個人の期待・希望を如何に調和させ、全体のベクトルを合わせていくかが問われる領域であり、全ての個人の満足や納得を得ることはできないが、より良い解を見出す努力を続けること、職員の側にその真摯さが伝わることで、組織に対する信頼も醸成されていく。

重要なポイントは、職員に対して、①どのようにすれば評価され、より良い処遇が得られるのか、②どのようなキャリアパスが期待できるのか、を示すことであり、③部署、職階、年齢、性別等を超えて広く学習の場を整え、④人事管理に関わる経営層・管理職層・人事担当者に対する教育を徹底することである。そのうえで、⑤職員個々の貢献と処遇の均衡が図られているかを節目ごとに確認する必要がある。

職能資格制度で柔軟な役職登用を促進する

一つ目については人事等級制度をどう設計し運用するかという課題が中心となる。人事等級制度は、当該組織における従業員の相対的な位置を明らかにし、処遇に繋げるもので、制度として確立し、運用ルールを明らかにすることで、人事の公平性を担保し、個々の従業員の成長や貢献を促すことを目的とするものである。

人事等級制度には、能力を基準とする「職能資格制度」、職務の重要度を基準とする「職務等級制度」があり、最近では、職務等級を大括りにし、果たすべき役割に応じて等級を区分する「役割等級制度」も見受けられる。

それぞれに長短があるが、ここでは職能資格制度について検討してみたい。この制度では、例えば、主務補、主務、主任、主事補、主事、統括主事、参事補、参事、統括参事、参与などの職能資格を設定、それぞれに能力要件と最短経過年数を定め、給与も基本部分は資格を基準に決定される。下位資格の最短経過年数を短め(例えば2~4年)に設定することで成長を促すのが一般的である(下図参照)。



この制度の利点は、給与が職能資格に連動していることから、処遇条件の変更を意識することなく、異動を柔軟に行えることである。また、ポスト制約から昇進機会が限られていても、昇格により処遇できるため、知識や経験は豊富でも組織を率いるのが不得手な人材を組織単位長以外の立場で活用できる。組織上、いかなる役割を付与するかなど工夫が要るが、一般企業では部下を持たず、担当部長や担当課長として単独で仕事をこなす社員は多い。

その一方で、昇格運用が年功序列的になりがちという問題も指摘されているが、職能資格で序列や処遇の安定を一定程度保ちつつ、能力・適性に応じた柔軟な役職登用を可能にし、人事評価基準もより明確になるという点で、大学にとって導入のメリットは大きいものと思われる。

キャリアモデルを示し、キャリアパスを描く

人事等級制度を整備することで、昇格というタテの序列をどう歩むかが見え易くなり、ヨコの異動も行いやすくなる。キャリアの見通しが利くようになり、選択肢も増えることになる。それを受けて大学は、前述の期待する職員像に基づき、いくつかのキャリアパスモデルを検討し、職員に示すことが望ましい。慣行に縛られたり、その時々の事情に合わせたり、一貫性のある方針で人事を行うことは難しいが、当面の課題への対応と将来に向けた職員の成長という短期と長期の視野に基づく戦略性が求められる。キャリアモデルの検討は人事の基本方針を定めるプロセスの一環でもある。

また、職員自身も、自らの能力や適性、どのような働き方をしたいのかを考え、主体的にキャリアパスを描くべきである。ちなみに、前出の東大アンケートによると、職員の多くは将来も大学職員を続け、現在勤務する大学で働くことを希望しており、キャリアパスについては、約9割が幅広い業務を経験して、将来的に専門的な仕事をしたいと考えている。その一方で、「昇進・昇格を目指したい」は肯定意見と否定意見がほぼ半々で拮抗している。

職員がキャリアパスを歩みながら自らを成長させていくためには、OJTを基本に据えつつ、Off-JTが補完し後押しをする学習環境を整えていく必要がある。OJTについては、日々の業務経験や職場の支援が効果的な学習に繋がっているのか、ジョブ・ローテーションが成長を促進しているのかといった点に重きを置いて、大学として職員を見守り、支援していく必要がある。

Off-JTについては、学外で提供されている教育・研修機会に関する情報を幅広く把握・評価し、学内で用意できる研修と組み合わせ、体系性のある教育・研修プログラムを整備していく必要がある。特に、教育・研修の対象者や受講者は経験年数の浅い中堅以下の職員に偏る傾向にあり、経営層や管理職層をはじめとする中堅以上の職員が腰を据えて学ぶ機会は少ない

この点は、今後の教育・研修を考える上で大きな課題であり、前述の④で示した点とも深く関わってくる。中堅以下の職員の中には、学外の様々な教育・研修機会を活用し、自己啓発に励む職員がいる一方で、そうでない職員もいる。自己啓発にどう取り組むかは個人の選択の問題であるが、教育・研修機会の活用度が大きく異なることで、関心のずれや認識のギャップが生じ、組織運営に少なからぬ影響をもたらすことも危惧される。

人事管理は制度自体も重要であるが、運用が成否を決めるといっても過言ではない。考課・昇格や異動・昇進に関わる経営層、管理職層、人事担当者への一定の信頼がなければ、職員の力を引き出し、能力の持続的向上を促すことはできない。これらの観点から、教育・研修のあり方を根本的に見直し、再整備する必要がある。

貢献と処遇の均衡を見極める冷徹さも必要

最後に、教員も職員もその雇用のために費用が投じられていることを常に意識し、貢献と処遇の均衡がとれているかを冷徹に見極めることが不可欠であることを付言しておきたい。

年功序列的な組織では、経験・年齢を重ねるに従って処遇水準が高まる一方で、能力は頭打ちになり、処遇が貢献を上回り、その差が拡大していく傾向にあるといわれている。経験・年齢の低い時期はその逆で、トータルでは均衡がとれているともいわれているが、ある断面で処遇に見合う貢献が認められない職員が多く、その状態が続けば職場の士気は低下するだろう。

職能資格制度の活用で改善される面もあるが、最終的には処遇を切り下げるか、貢献度を引き上げるしかない。現実的に前者が困難であれば、処遇に見合う貢献を引き出さなければならない。それが学納金や税金で大学を運営する者の責務である。

人間は何歳になっても知性を高め、成長することができるという研究成果も示されている。個人差は大きいと考えられるが、職員の成長と貢献という点で、注目すべき見方である。

人事管理は人間を理解することから始めなければならない、とあらためて思う。

2014年7月18日金曜日

醇風美俗

ブログ「人の心に灯をともす」から日本のこころ」(2014-07-15)をご紹介します。


昭和20年8月15日、ついに日本も終戦を迎えざるを得なくなった。

8月30日、マッカーサーは進駐軍総司令官として日本に乗り込み、日本は軍政下におかれた。

ここでとりあげられたのが「3R・5D・3S政策」であった。

これを機に、日本の様相は一変した。

まさしく「日本を消す政策」による変化である。

マッカーサーは、日本の占領にあたり、管理する上での原則をこの「3R・5D・3S政策」においたといわれている。

3R 

1 リベンジ(復讐)

2 リフォーム(仕組みを組み直す)

3 リバイブ(復活。アメリカの都合にあわすように生き返らせる)

5D 

1 ディス・アーマメント(武装解除)

2 デ・ミリタリゼーション(軍国主義の排除)

3 ディス・インダストリアリゼーション(工業力の除去)

4 デ・セントラリゼーション(国力の中心をなした財閥の解体)

5 デモクラタリゼーション(日本的民族主義からアメリカ流自由主義へ)

3S 

1 セックスの解放

2 スクリーン(映画)

3 スポーツ

最近よく、「日本人が日本を知らない」と、いろいろのところで語られ、マスコミも機会ある毎にとり上げたりしている。

日本人が日本を知らないとは、「日本人としてもっとも大切にしなければならない“歴史”と“誇り”を失ってしまったこと」に関連するのではないだろうか。

一言でいいうるならば、日本人が歴史的に堅持してきた「日本のこころ」を身につけていないということであろう。

このような戦後の異様な状況から日本否定の自虐的価値観が生まれ、それに裏づけられて、「日本を見ない教育」「日本を消す教育」が当然のように推進されるに到った。

戦後50年が過ぎ、西暦2000年を迎えると、この危機的状況に対し、世の識者たちも何とかしなければと、やっと危機意識を高めはじめた。

その一人が、台湾の初代民選総統の李登輝氏である。

李登輝氏は戦前、日本人として育ち、日本の教育を受け、さらに京都大学で学び、日本の軍隊に志願入隊し陸軍少尉として兵役に服した。

氏は、

「まことに残念なことに昭和20年8月15日以降の日本においては、そのような“大和魂”や“武士道”といった日本・日本人特有の指導理念や道徳規範が根底から否定され、足蹴にされ続けてきたのです」

と日本の立場に同情しつつも、

「日本および日本人が『過去を否定する』自虐的価値観を捨て、『日本および日本人の醇風(じゅんぷう)美俗』や『敷島の大和心』、もっと単刀直入にいえば『武士道』について『大覚醒』してほしい」

と直言しているのである。

では、なぜそう望むのか。

それは二つの理由にまとめられるという。

一つは、日本国が世界の「人類社会そのものの羅針盤」の役割を果たすためであり、今一つは、日本社会のいろいろな腐敗現象を克服するためである…と。



「醇風美俗(じゅんぷうびぞく)」とは、現代において絶えて久しい言葉だ。

醇風美俗とは、素直で人情に厚い美しい生活態度や風俗習慣をいう。

また、本居宣長は大和心についてこう詠んだ。

「敷島の大和(やまと)心を人(ひと)問はば、朝日に匂ふ山桜花(やまざくらばな)」

大和心とは何か、と聞かれたら、それは朝日をうけ、そこで匂うばかりに咲く山桜の花、と答えよう。

桜は日本人が最も好む花の一つであり、そこに、「潔く生きる」、「正直に真っ直ぐに生きる」という意味も重ね合わせる。

武士道とは、「惻隠の情」、「卑怯を憎む心」、「弱い者への慈(いつく)しみの心」、「名誉を重んじる心」、「恥を知る心」、「勇気を持つこと」、「誠実さ」、「忍耐」、「正義感」、等々の徳目をさす。

失った日本のこころを、今一度大切にしたい。


2014年7月17日木曜日

他人と比較しない

ブログ「人の心に灯をともす」からフロイトの話」(2014-07-11)をご紹介します。


1939年にフロイトが亡くなりましたが、晩年にこのようなことを言っています。

「自分たちの時代の以前に、“幸せ”とか“不幸”を論ずる人はいなかった。

“幸せ”や“不幸”というものを人々が口にするようになったのは、自分たちの時代くらいからだ。

その前の人は、全く口にしていないし、話題にもしていない」

フロイトの時代以前は、人間の心の中に、幸せと不幸という概念が湧いてきていなかったのです。

どうしてかと言うと、情報通信が発達していなかったので、他人がどういう暮らしをしているかを、知るすべがなかった。

周りの人がどういう生活をしているかを知らなければ、皆それぞれ、嫁さんをもらって、子供をつくって、家族で普通に食事をして…というように自分の生活をしていた。

それを幸とか不幸とか言わなかった。

それが、普通の人の生活だったのです。

それが、ラジオや画像として情報が入ってきたり、新聞などでそれぞれの生活がわかるようになって、周りの人と比べるようになった。

比べるようになった結果として、幸せ・不幸という考え方が論じられるようになったのです。

幸せや不幸というのは、全部人との比べ合いから始まっている、ということです。

ここのところがかなり面白い。

幸・不幸というのが、宇宙的に存在しているわけではない。

比べる心、競う心、戦う心、争う心から全部始まっている。

それをやめればいい。

そしたら、いきなり幸せが手に入るということです。


嫉妬も、不満も、グチも、すべては他人との比較から生まれる。

しかし、情報化社会はどんどん進み、他人の情報はもっとわかるようになり、比較するすることはますます増えている。

そうして、年を追うごとに世の中に、嫉妬や不満やグチが渦巻くことになる。

比較しない唯一の方法は、ボーっとすることであり、力を抜いて生きること。

つまり、鈍(にぶ)くなることだ。

時に、間が抜けていたり、不器用だったり、バカになれたり、と自分を飾ることがない。

鋭(するど)すぎる人は、人から好かれない。

すぐに、イライラしたり、ピリピリしたりしてしまうからだ。

他人と比較しない人でありたい。

2014年7月16日水曜日

使われやすい人間になれ

ブログ「今日の言葉」から幸せの条件」(2014-07-10)をご紹介します。


「やりたいこと」

「やれること」

「やらなければならないこと」

この3つが揃うと幸せだ。


知人が恩師からいただいた言葉だそうです。

特に仕事をしていく上で覚えておきたい言葉です。

『人間は、心と体で構成されている。体は、今この瞬間しか生きられない。それに対して、心は過去へも、未来へも、当然、現在にも生きられる。そして、人間は、心と体が一致した時に、一番力を発揮する。』

という言葉を思い出しました。

やりたいことは心であり、やれることは体と言えるのではないでしょうか。

そして別のこちらの言葉にもつながっていく。

『仕事場の人間関係でも一番大事なのは人に好かれることで、もっと言えば「使われやすい人間になれ」ということでしょうね。あれをやれ、これをやれと上の人が言いやすい人間になれば、様々な仕事を経験でき、使われながら引き立ててもらうこともできるんです。』

幸せへの近道は「やらなければならないこと」をいかに自分の中で「やりたいこと」に変えていけるか。

どうせやるなら最高の結果を目指す。そんな気概で取り組んでみる。職業に貴賤なしです。

2014年7月15日火曜日

リーダーの資質

ブログ「人の心に灯をともす」から「心」を持っているかどうか」(2014-07-13)を抜粋してご紹介します。


リーダーとしての生き方は、なにもリーダーだけが持たなければいけないものではなく、人として生きるのに誰もが必要な考え方だ。

このことは、会津藩の武士の子どもへの教え、「什(じゅう)の掟」に見ることができる。

それは…

「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」

「虚を言ってはなりませぬ」

「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」

「弱いものをいじめてはなりませぬ」

というようなものだが、最後に「ならぬものはならぬものです」と締めくくっている。

礼儀を正しくし、嘘をつかない、卑怯なことをせず、弱い者いじめはしない、というごくごく当たり前のことだ。

しかし、現代ではこのことが欠けている人が多い。

特に、リーダーにこの資質がなければ、その組織は早晩崩壊する。

「心」を持っているかどうかは、人として最も大切なこと。


2014年7月7日月曜日

幸せになるために

ブログ「今日の言葉」から幸せ」(2014-07-02)をご紹介します。


「幸せ」かどうかを尋ねるときに

2種類の聞き方がある。

「あなたは幸せですか?」



「幸せになるために最善を尽くしているか?」

後者の聞き方をされた方が

その後の行動で幸せを感じやすい。

マーシャル・ゴールドスミス


ケネディ元大統領の名演説に、

「祖国があなたに何をしてくれるかを求めるのではなく、あなたが祖国のために何ができるのか考えて欲しい」

とあるように、

物事に対して、受動的でいるか、能動的であるかによって幸福度が変わってくるのです。

ちなみに

「あなたは幸せですか?」は受動的質問で、幸せではないと感じている人にこれを質問すると、

「幸せではない。環境が悪いから。あの人がいるから」

と不幸せの原因を外に求め、他責となる。

自分ではどうにも変えられないものに原因を求めるから、自分の幸せが増えることはほとんどない。

逆に「幸せになるために最善を尽くしているか?」

と能動的な質問を投げかけると主体が自分となり、自分の行動が変わってくる。自責となる。

結果として幸せになれるチャンスが増える。

「自ら変えられるものは変化を起こし、変えられないものは受け入れること。」

受け入れるとは、心を持って行かれないようにすると言っても良いでしょう。

不満を言っても不幸になるのは自分だけだから。

2014年7月6日日曜日

感謝して生きる

ブログ「人の心に灯をともす」から間違いなく出世する方法」(2014-07-03)を抜粋してご紹介します。


会社に限らず、学校や自分が所属する組織を否定する人がいる。

「たいしたことないんだよ」「いやなやつがいてさ」「毎日がっかり」と愚痴や文句を言う。

反対に、「入らせてもらって感謝している」「素晴らしい人が多い」「毎日が楽しい」と褒めたたえる人もいる。

上司とか、あるいはもっと上のレベルの、たとえば神様が見たら、どちらの人が好かれるだろうか。

愚痴や文句は暗くて冷たいが、感謝は明るくてあたたかい。

そして、ご縁を大事にする人は感謝が多い。

置かれた現状に愚痴や文句を言って暮らすのか、感謝して生きるのか。

ご縁を大事にする、あたたかで感謝多き人生を歩みたい。

2014年7月5日土曜日

もうひとつの幸せ

ブログ「今日の言葉」から生きる目的」(2014-06-30)をご紹介します。


人間が生きる目的は、「喜ばれる存在」になること。

他人と競ったり、比べたり、争ったりして、

「1位」になるためにあるのではない。

小林 正観(せいかん)


私には「知的障害」を抱えた長女がいます。

彼女は、普通の子どもよりも筋力が足りないため、速く走ることができません。

運動会の徒競走に出ると、1位はおろか、2位になることも、3位になることもありません。

いつも「ビリ」でした。

忘れもしません。彼女が小学校6年生のときです。

運動会の前に足を捻挫してしまった友だちがいました。

長女はその友だちと一緒に走ることになっていたため、友だちには悪いのですが・・・、

「はじめてビリじゃないかもしれない」と妻は期待していたようです。

運動会を終え、妻はいつも以上にニコニコしながら帰ってきました。

長女がビリから抜け出したのかと思いきや、「今回も、やはりビリだった」というのです。

ところが妻は、今回もビリだったことを嘆くどころか、ニコニコと嬉しそうにしていました。

徒競走がはじまると、長女は足を捻挫した友だちのことを何度も振り返り、気にかけながら走っていたそうです。

自分がゴールすることよりも、自分がビリから抜け出すことよりも、怪我をした友だちのことが心配だったのでしょう。

友だちは足をかばうあまり、転んでしまいました。

すると長女は走るのをやめ、友だちのもとに駆け寄り、手を引き、起き上がらせ、二人で一緒に走り出したそうです。

二人の姿をみて、生徒も、父兄も、二人に大きな声援を送りました。

そしていよいよゴールのとき、長女は、友だちの肩をポンと押して、自分より先に友だちをゴールさせたというのです。


著者 : 小林正観
ダイヤモンド社
発売日 : 2010-01-16

2014年7月4日金曜日

愚痴は否定、感謝は肯定

ブログ「人の心に灯をともす」から比較しないと決めること」(2014-06-26)をご紹介します。


よく、年をとった人がテレビを見ながら、いつも文句を言っているようなことがあります。

ニュースショーに登場するタレントの発言を聞くと、「なんだ、あんなタレントなんか何も知らないくせに」と怒ったり、若い女性が流行歌を歌うのを聴いて、「あんなバカ娘の歌のどこがよいのか」などと言ったりします。

また、政治家についてもいつも悪口を言います。

実は、これは自分と比較しているのです。

あのタレントは有名だけど、ほんとうはくだらないと思うことで、自分の優越感を満たそうとしているのです。

政治家に対しても、「くだらない」と言うことで、「自分もだめではないぞ」と思いたいのです。

自分のかつてのライバル、同僚、仲間、あるいは親族などについても同様です。

「あいつはくだらないやつだ」「あんなやつがうまくいっているなんて信じられない」などと言って、相手をおとしめようとします。

自分がだめだと思いたくないからです。

しかし、このように比較でものを考えようとすると、どうしても自分の現実に目が向かいます。

思ったほど成功しなかった、家族も昔の努力が報われず、ばらばらになってしまったなどと自分の現況を嘆き、自分を責める気持ちが強くなるのです。

このようなことは結局自分を不幸にし、晩年を苦しみで満たされたものにしてしまいます。

だから、まず、誰がテレビに出ても比較しないと心に決めるのです。

「あの人はあの人」とか、「世の中にはえらい人がいるものだ」とか、「才能がある人はいるなあ」と思うのです。

多くの高齢者、特にある地位にいたような人が晩年、何をしても、何を見てもおもしろくないなどと言っているのに驚くことがあります。

よく聞いてみると、たいていは自分と比較しています。

「あんなやつより俺のほうがえらいのだ」

「なんだ、あんなくだらないことを言ってテレビで有名になるなんて」と思うことが多くなります。

これらはすべて、比べることで起こります。

「自分なら」とか、「なんだ、あんなことを言って」などと考えやすいのです。

ある高校の剣道の先生と話す機会がありました。

彼は、「生徒の欠点を直そうとすると、それだけで3年たってしまう。むしろよいところを探し、伸ばそうとすると、悪いところが消えていく」と言っていました。

つまり、悪いところは気にせず、よいところ、得意なところに目を向け、そこを伸ばせば欠点は消えてゆくというのです。

長所を伸ばしていくと欠点は欠点でなくなり、逆に長所になるということは実際にあります。

人間には、本来無限の可能性が備わっているのです。


「嫉妬」や「ねたみ」という不幸は、他人との比較からはじまる。

嫉妬は、他人への批判や、悪口、さらには怒りという感情にもなってしまうからだ。

『「のに」がつくと愚痴になる』という相田みつをさんの言葉がある。

「あんなヤツ、たいしたことなかったのに」、「オレのが年上なのに」と、他人と比較すれば愚痴になる。

愚痴は否定だ。

欠点を直そうとするのではなく、長所を伸ばしていく、という方法は、「感謝する」ということに似ている。

すべての事象の中によいところを見つけ、今自分がここにあることに感謝する。

感謝は肯定。

「比較しないと決めること」

感謝の気持ちで日々生きてゆきたい。


2014年7月2日水曜日

教育は経済政策なのか

いわゆる骨太の方針「経済財政運営と改革の基本方針2014」が去る6月24日に閣議決定されました。

教育・大学関係部分を抜粋してご紹介します。



第2章 経済再生の進展と中長期の発展に向けた重点課題

1.女性の活躍、教育再生を始めとする人材力の充実・発揮

(2)教育再生の実行とスポーツ・文化芸術の振興

(教育再生)

経済成長の源泉は「人」であり、経済再生のためにも教育再生が重要である。「教育基本法」の理念の実現に向け、教育再生実行会議の提言を踏まえつつ、「第2期教育振興基本計画」等に基づき、学制改革に関する検討を進めるなど、総合的に教育再生を実行する。

世界トップレベルの学力と規範意識の達成を目指すとともに、知識だけでなく、思考力・判断力・表現力など社会を生き抜く力、我が国の伝統や文化についての理解、社会の責任ある一員として必要な公共心の養成を行う(*23)。

今後、少子化が更に進展する中、教育の「質」をより重視した取組を強化する。そのため、少子化の見通しも踏まえ教職員の計画的採用を進めつつ、教職員の質的向上や指導力の強化を推進する。

学校規模の適正化に向けて、距離等に基づく学校統廃合の指針について、地域の実情も踏まえつつ見直しを進める。また、専門人材やICTの活用等により効率的に教育の充実を図る。

大学の徹底した国際化(*)24、理工系人材の育成、教育研究基盤の確立などにより、グローバル化等に対応する人材の養成を行うとともに、大学改革を推進する。

国立大学法人について評価と運営費交付金の配分の在り方を抜本的に見直し、教育研究の質の向上に努力した大学に対して重点的・戦略的配分を行う仕組みを検討する。

また、大学による厳格な成績評価や卒業認定の厳格化を進める。

さらに、学生の教育費負担に配慮しつつ、産業界・大学双方の連携により奨学金等の支援拡充や授業内容の充実を図るとともに、各国立大学が一定の範囲内で授業料を適切に設定して教育研究の質の向上を図る取組や、各大学における授業料免除などの学生支援の取組等を充実する。

地域の大学において、各地域の得意分野を活(い)かす優れた教育研究拠点を創設・選定し、特色ある人材育成を図る。

また、奨学金、授業料減免等の就学支援を推進する。さらに、高度な職業教育のための専門学校支援を推進する。

第2期教育振興基本計画」等に基づき、幼児教育の無償化に向けた取組を財源を確保しながら段階的に進める。


*23:英語教育・理数教育・ICT教育・道徳教育・特別支援教育の強化や海外子女教育、都市と農山漁村の教育交流の推進等
*24:英語による授業の促進、文系・理系の垣根のないリベラル・アーツ教育の強化等に加え、官民協力による若者の海外留学環境の整備、外国人留学生の受入れを推進

2014年7月1日火曜日

公立学校のガバナンス問題

教員の選挙で校内人事決める!? 下村文科相「法を無視した運営だ」 全国実態調査へ」(2014-06-27産経新聞)をご紹介します。

大阪や兵庫などの公立学校で校内人事が教員間の選挙で決められていた問題で、文部科学省は27日、全国の公立学校を対象に実態調査を行うことを決めた。同日付で、都道府県と政令市の教育委員会に通知する。文科省は「学校教育法に規定されている校長の権限を侵すような不適切な人事は認められない」としている。

今年4月、大阪市生野区の市立中学校で校内人事を選挙で決めていた実態が発覚。その後、神戸市や滋賀県などでも同様の事例が明らかになった。

文科省はこうした実態が学校教育法に反し是正が必要と判断。全国の公立の幼稚園、小、中、高校、中高一貫校と特別支援学校を対象に調査に乗り出す。

調査項目は(1)教職員が組織を設置し校内人事案を作成する規程や実態があるか(2)校内人事について教職員の挙手や投票で、選挙や意向確認を行う規程や実態があるか(3)職員会議に校長以外から選んだ議長団を設ける規程があるか(4)挙手や投票で職員会議の議決を行う規程があるか-の4つ。

下村博文文科相は27日の閣議後会見で「法を無視した運営がなされているとしたら、学校現場で適切な教育ができない」と述べた。

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