2015年3月26日木曜日

子どもの貧困問題 覚悟が問われている

視点・論点 「子どもの貧困対策 問われる"覚悟"」」(2015年3月18日NHK解説委員室)をご紹介します。


日本の所得の分布は、この30年間で大きく変化しています。かつて、日本は「国民総中流社会」と呼ばれましたが、今、日本はかつてないほどの「格差社会」に変容しています。ジニ係数と呼ばれる、社会全体の格差を表す指標で見ると、日本の格差はOECD諸国34ヶ国の中で、悪いほうから数えて10番目となります。同じく、相対的貧困率で見ると16.1%と、6人に1人が貧困状態にあると推計されています。

大きく変化したのが、年齢層別の貧困の状況です。
 


これは男性の年齢層別の貧困率です。1985年に比べて、2012年においては、60歳より下の年齢層の貧困率が増加し、65歳以上の年齢層の貧困率が減少していることがわかります。特に気になるのが20-24歳をピークとする子どもおよび若い男性の貧困率の高さです。かつて、日本の貧困は高齢者の問題と考えられてきました。しかし、現在は、男性のライフコースの中で、もっとも貧困のリスクが高いのは24歳以下の年齢層となります。

 


女性の貧困率も同じように若年層で増加し、高齢層で減少する傾向があります。
しかし、男性と違って、女性の場合は高齢期の貧困率が男性ほどは減少せず、代わりに貧困全体が高くなる時期が5年ほど遅くなっています。
1985年から2012年の約30年間にかけて、男性も女性も、子ども期においては、約5%の貧困率の上昇、20歳から24歳では10%、25歳から50歳代は3~5%の上昇がありました。高度成長が止まったあとの日本は、不況や緊縮財政のつけを、若い世代におしてつけているのです。

もっとも活力があり、夢や希望に燃えているはずである若年層において、貧困が増えていることは、日本社会の根幹を揺るがしています。ある大都市の小中学生各4100人を対象として、将来の夢についての調査を行ったところ、こんな結果が出ました。
 


小学校5年生で既に「夢がない」という子どもが約2割も存在することがわかりました。
それ自体非常に悲しいことですが、貧困層の子どもに限ると、夢がない子どもは24%、すなわち4人に1人という高い数値になります。中学2年生になると、この割合はさらに高くなり、貧困でない子どもでは38%、貧困の子どもでは44%が「将来の夢はない」と答えています。その理由を聞くと、「具体的に、何も思い浮かばない」「夢が叶うのが難しいと思う」といった答えがかえってきています。

それだけではありません。日本の貧困層の子どもや若者は、栄養や健康、住宅といった「衣食住」、友人や家族といった人間関係さえも脅かされていることが、次々と日本のデータでも確かめられています。

例えば、栄養に関しては、小学5年生の食事を入念に調べた結果、貧困層の子どもは、タンパク質と亜鉛の摂取が少なく、代わりに、炭水化物に偏りがちな食事をとっていることがわかりました。やさいや肉・魚は、値段が高いため、代わりに、比較的に安く満腹感がえられるごはんや麺類を多くとっていることが考えられます。インタビューに答えてくれたある高校生の男子は、ごはんにふりかけをかけただけの夕食で、済ませていました。その子のお母さんは「「おなかいっぱい食べていいよ」と言ってあげたい」とポツンともらしていました。

医療サービスについても、同様に、貧困層におけるアクセスの問題が指摘されています。まず、公的健康保険の保険料が払えないために、健康保険という制度そのものから脱落してしまう人が増えています。法の改正により、子どもについては無保険の問題は解消されましたが、若者については依然として問題が残っています。また、たとえ、健康保険に加入していても、3割の自己負担が払えないという理由で、受診を控える、いわゆる受診抑制がおこっていることもわかってきました。多くの自治体は、子どもの医療費を軽減していますが、年齢の高い子どもや若者はその対象となっていません。また、貧困層の家庭は、ひとり親世帯や共働き世帯が多いため、子どもが病気であっても、病院に連れていくことが遅れたり、世話をすることができなかったりします。貧困率が50%を超えるひとり親世帯では、母親が非正規雇用である率が52%にもなっています。そのため、たとえ子どもが病気であっても、仕事を休むことができないことも問題として指摘されています。学校の保健室からは、高熱でも、ケガをしても、医療機関に行けない、行かないという子どもたちの報告が次々となされています。
 
このような子どもたちは、発展途上国で貧困に悩むこどもたちのように、飢えているわけでも、路頭に迷っているわけでもありません。しかし、だからといって、現代日本の貧困は問題でないと言うことができるでしょうか。戦後70年、社会保障制度が全国民をカバーするように整備されて50年、つまり半世紀たったいま、現在の日本の社会において、食べ盛りであっても「おなかいっぱい食べる」ことができない、病気になっても医療サービスを受けられない、そのような子どもたちが今現在います。私たち国民はこのことを「『経済のグローバル化』や『格差社会』のせいだから、いたしかたがたない」そういって受け入れるべきなのでしょうか。

受け入れるか、受け入れないか。これは、価値判断です。どれだけ、この問題が深刻で、その解決のために、どれだけ本気で社会を変えていくか、その「覚悟」の度合いが、子どもの貧困を放置するのか、それに対して対策を打つのかを決定します。

今、日本の財政は危機的な状況にあります。政府の支出の半分が借金でまかなわれている状況です。国の借金は、将来世代への「つけ」ですから、ますます、子どもたちを苦しめます。このような中、どんなにすばらしい政策、どんなに必要な制度、どんなに効果がある施策であっても、その財源を捻出するためには、何らかの犠牲をはらわなければなりません。何らかの犠牲とは、ほかの政策や制度の縮小か、国民への増税です。この「犠牲」の「覚悟」ができない限り、子どもの貧困対策は一歩も進みません。「問題は認識しているけれど、その解決のための犠牲を払う気はない」では子どもの貧困対策は進みません。
 
昨年8月、政府は「子供の貧困対策に関する大綱」を閣議決定しました。しかし、いざ、大綱に予算をつけるという段階になると、及び腰となっています。特に、食や医療サービスといった子どもの基本ニーズに直結する経済的支援については、殆ど拡充なされていない状況です。

メディアでは、ほぼ毎日のように、児童虐待など、子どもが犠牲になるニュースが、報道されています。ニュースを見るたびに、いたたまれない思いをなさっている方も多いと思います。このような事件の背景には、多くの場合、貧困が陰を潜めています。このような事件が起こる社会をつくってしまった私たち大人にも責任があるのではないでしょうか。すべての子どもの基本ニーズを保障し、親が金銭的にも、時間的にも、心身的にも余裕をもって子育てをすることができ、すべての子どもが将来の夢を描いている、そのような社会を創ることは、いま、日本の最大のプライオリティではないでしょうか。私たち国民1人1人の「覚悟」が問われています。(国立社会保障・人口問題研究所 部長 阿部彩)