2016年12月24日土曜日

記事紹介|「深い学び」の実現、考える力を問う選抜へ

憂鬱の「鬱」の字を書けますか。御成敗式目の成立はいつ? 原子番号26の物質は何でしょう。球の体積の求め方は……。

といった問いに答えられたら世間でちょっと尊敬されるだろう。学校教育が人々に与える、こうした知識の量は膨大である。だからわたしたちは、学校で学んだ知識自体を「知」であると思い込んでしまう。「高学歴芸能人」が競うクイズ番組など、その典型だ。

AI時代の教育とは

しかし、本当はもっと大切なことがある。知識や体験を基に、物事を多面的に見る力や考える力、そしてひらめきを生む感性を持つことだ。単なる知識を超えた、ゆたかな「知」と呼びたい。

それは人工知能(AI)が進歩する時代の要請でもあろう。ただ知識をため込んだり、事務をこなしたりする営みはAIに取って代わられる。だとすれば、人間にしかできない仕事が問われる。そんな時代を前に、学校教育は相当な危機感を持たねばなるまい。

ところが現実はどうか。明治初年の学制公布以来の、欧米に追いつけ追い越せを目標とした知識注入教育が役割を終えた現代になっても、日本の学校教育はあまり変わることがない。授業が文字通り、教員によって「業を授ける」スタイルを抜け出せないのだ。

その意味で、こんど中央教育審議会が答申をまとめ、文科省が改訂を進めている新しい学習指導要領は注目すべき内容といえる。

2020年度から小中高校で順次導入されるこの指導要領は、教員が「何を教えるか」ではなく、児童・生徒の側に視点を移して「何を学ぶか」を示すことになる。それにより「何ができるようになるか」を問い、さらに「どのように学ぶか」を掲げるという。

その手法が「アクティブ・ラーニング」だ。一方通行の授業を脱却し、討論への参加や体験学習を通して「対話的・主体的で深い学び」を実現する。知識だけでなく、思考力・判断力・想像力の育成をねらう。こんな理念をちりばめた指針となるはずだ。

方向性も、こめられた問題意識も、まずは是としたい。

かねてアクティブ・ラーニング的な学びは先進国を中心に普及してきたが、日本では立ち遅れていた。改革がうまくいけば、柔軟な思考と感性で問題に向き合える人材の育成が進むかもしれない。主権者教育でも重要なことだ。

もっとも、そのために取り除くべき障壁があまりにも多い。

まず試されるのは、文科省が指導要領の趣旨を学校現場に丁寧に説明しつつ、教員一人ひとりの自主性と創意工夫を重んじた「学び」をうまく見守っていけるかどうかである。アクティブ・ラーニングに決して特定の型はない。

すでに教育界では新指導要領の先取りが始まっており、中央からの指示を待つ空気も漂う。そんななかで文科省が不用意な対応をすれば、新指導要領の趣旨とは相いれぬ画一化が進むだろう。

そもそも学校現場の多くが、経済的困窮とも関連する低学力層の底上げに悩んでいる。そうした子どもたちを救いながら「深い学び」の実現は可能なのか。教員にはかなりの力量が求められるが、掛け声だけでは人は動かない。

質と量の両立は困難

もうひとつの心配は、学習の量を削らずに「深い学び」がどこまで追求できるかという点だ。教員が真摯に取り組むほど、知識自体の伝授は不十分になる恐れがある。思い切って「質」を優先し、「量」は後回しにするような現場の裁量も認めたらどうだろう。

こうした課題克服に加えて、欠かせないのは教育条件の整備だ。多忙を極める教員に、いまの環境のままで新指導要領の徹底を求めるのは酷だ。長期的視点に立った教員定数と処遇の改善がきわめて重要である。体験豊富な社会人の力も、もっと借りたい。

視野を広げれば、大学入試の抜本改革が必須だ。どんなに小中高校の授業が変わっても、選抜のあり方が旧態依然では意味がない。私立大の大規模入試も含め、手間がかかっても考える力を問う選抜へと転換すべきである。

問題を挙げればきりがない。それでも学びの変革は、学校にゆたかな「知」をもたらすと期待をつなぐだけの価値はあろう。

米国の哲学者ジョン・デューイは19世紀の末に「学校と社会」のなかで、子どもたちを機械的に集団化し、画一化する教育からの解放を説いた。学校教育のコペルニクス的転回を――。100年以上前のこの言葉を、いま改めてかみしめるべきである。

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