2017年5月29日月曜日

記事紹介|人間を利益を生み出す道具のように評価しとり扱う態度

人間の価値は稼ぐ力で決まるのか。重い問いを巡る裁判が東京地裁で始まりました。障害の有無にかかわらず、法の下では命の尊厳は平等のはずです。

2年前、東京都内の松沢正美さん、敬子さん夫妻は、15歳の息子和真さんを福祉施設での事故で失いました。重い知的障害のある自閉症の少年。施設から外出して帰らぬ人となって見つかった。

その損害賠償を求めた訴訟が動きだし、最初の口頭弁論でこう意見を述べました。

逸失利益ゼロの衝撃

「過去の判例や和解は、被害者の収入や障害の程度によって加害者に課せられる賠償額に差をつけてきましたが、到底納得できません。不法行為に対する賠償は、当然、公平になされるべきです」

施設側は事前の交渉で、事故を招いた責任を認めました。けれども、提示した賠償額は、慰謝料のみの2千万円。同年代の健常者の4分の1程度にすぎなかった。

障害を理由に、将来働いて稼ぐのは無理だったとみなして逸失利益をゼロと見積もったのです。慰謝料まで最低水準に抑えていた。

逸失利益とは、事故が起きなければ得られたと見込まれる収入に相当し、賠償の対象となる。

同い年の健常者と同等の扱いをと、両親が強く願うのは当然でしょう。男性労働者の平均賃金を基に計算した逸失利益5千万円余をふくめ、賠償金約8千8百万円の支払いを求めて提訴したのです。

同種の訴訟は、実は全国各地で後を絶たない。なぜでしょうか。

最大の問題は、逸失利益という損害賠償の考え方に根ざした裁判実務そのものにあるのです。高度経済成長を背景に、交通事故や労働災害が増大した1960年代に定着したと聞きます。

司法界の差別的慣行

死亡事故では、生前の収入を逸失利益の算定基礎とし、子どもら無収入の人には平均賃金を通常は用います。ところが、重い障害などがあると、就労は困難だったとみなして逸失利益を認めない。

人間は平等の価値を持って生まれてくるのに、不法行為によって命を絶たれた途端、稼働能力という物差しをあてがわれ、機械的に価値を測られるのです。重い障害のある人はたちまち劣位に置かれてしまう。

逸失利益を否定するのは、生きていても無意味な存在という烙印を押すに等しい。昨年7月、相模原市で多くの障害者を殺傷した男が抱いていた「障害者は不幸を作ることしかできない」という優生思想さえ想起させます。

この差別的な理論と実践を長年積み重ねてきたのは、本来、良心に従い、公正を貫かねばならないはずの司法界そのものなのです。

正美さんは「障害者の命を差別してきた司法の慣行を覆さねばなりません。差別の解消に貢献できる判決を勝ち取りたい」と語る。

すでに半世紀前、逸失利益をはじく裁判実務について「人間を利益を生み出す道具のように評価しとり扱う態度」として、厳しく批判した民法学者がいた。元近畿大教授の西原道雄さんです。

65年に発表した「生命侵害・傷害における損害賠償額」と題する論文は、こう指摘する。

「奴隷制社会ならばともかく、近代市民社会においては人間およびその生命は商品ではなく交換価値をもたないから、一面では、生命には経済的価値はなく、これを金銭的に評価することはできない、との考えがある。しかし他面、人間の生命の価値は地球より重い、すなわち無限である、との観念も存在する。生命の侵害に対しては、いくら金を支払っても理論上、観念上、これで充分とはいえないのである」

それでも、民法は金銭での償いを定める。法の下の平等理念をどう具現化するか。生命の侵害をひとつの非財産的損害と捉え、賠償額の定額化を唱えたのです。

同じ電車の乗客が事故で死亡した場合、一方は100万円、他方は2千万円の賠償に値するとみるのは不合理ではないか。100万円の生命二つより2千万円の生命一つを救う方が重要なのでしょうか。

西原理論の核心はこうです。

被害者個々人の境遇は、収入はもとより千差万別なので考慮する必要はないのではないか。むしろ、賠償の基本額を決め、加害者の落ち度の軽重によって増減する仕組みこそが理にかなう、と。

かけがえのなさこそ

障害の有無で分け隔てしない社会を目指し、日本は障害者の権利条約を結び、差別解消法を作った。西原さんの考え方は今、一層重みを増していると思うのです。

稼ぐ力ばかりが称賛される時代です。存在のかけがえのなさを見つめ直すべきではないか。そういう問いかけが、社会に向けられているのではないでしょうか。

人間の価値は稼ぐ力か|2017年05月21日 東京新聞 から

2017年5月28日日曜日

記事紹介|人は命令では動かない

多くの人がカン違いしているのだが、「おれのいうことを黙って聞いていればいい」という日本でありがちなリーダーのやり方は、決して「トップダウン」ではない。

では、真のトップダウンとは何か。

情報を隠すことなくオープンにしてすべての人と共有すれば、誰もが同じ判断にいたる。

すべての情報を上から下まで共有することで、誰もが同じ判断のもとで動き、社が一丸となって同じ目的に邁進する状況をつくり出せる。

その上で、早い判断をしていく「トップダウン」なのである。

アブラショフ氏は、艦長時代、同じようにすべての情報を部下に対して開示し、情報を共有した。

無線で上司と話をするとき、全艦にそのやりとりをオープンにして部下に聞かせた。

上司を説得してくれと、部下たちは手に汗を握りながら聞いていただろう。

説得できなければ、「残念だな!」となるし、うまくやったら全員がワ―ッと声を上げ、手を叩いて喜ぶ。

その一体感が、全員の士気を上げ、艦全体を盛り上げていったのである。

アブラショフ艦長は、与えられた環境を最大限に活かし、味方につけていく天才であり、同時に艦の成果を何倍にもする素晴らしいリーダーであった。

日本のリーダーシップのあり方というのは、いまだ「GPS指導型」が主流だ。

「ホウ・レン・ソウ」、つまり「報告・連絡・相談」を重視する。

「現状を報告しなさい」「では、まずこの問題に、このように対処して、できたらまた報告しなさい」といった調子で、上司はさながら部下の「GPS」であるかのように、現在地点から次のステップへ行く方向も、手順も、すべて導いてしまうのである。

部下は「GPS」にしたがうだけ。

みずから考えて行動する機会を与えられず、答えだけを知ってしまう。

その仕事で成果を出したとしても、なにも学べず、なにも身につかない。

まさに「指示待ち人間」を一生懸命につくり出しているのだ。

本来、リーダーシップとは、「AI育成型」であるべきなのだ。

「AI」とは文字どおり、「人工知能」のこと。

人工知能は、そこに人間が知識を詰め込んだだけでは、人工知能たり得ない。

知識をもとに、AI自身に「学習」させるというプロセスを踏む必要がある。

人間も同じなのだ。

その仕事に明確な正しい解があるなら、マニュアル化して誰でも間違いなくこなせるようなしくみをつくればいい。

いわゆる「形式知」である。

しかし、「暗黙知」、つまり言語化できない、経験やカンをもとにした知識を自分のものにするには「AI」のごとく自分で習っていくしかない。

仕事における暗黙知の比重は、とても大きい。

「舵をとれ。ただし航路は外れるな」と、アブラショフ氏は書いている。

リーダーは部下に対して、自由に裁量できる権利を増やすと同時に、絶対に越えてはならない一戦を示さなければならない、という意味だ。

「ここへ到達するまではお前に任せるから、やりたいように舵をとれ。ただし、航路から外れないようにチェックは入れるぞ」

これこそ「AI育成型」のリーダーだ。

しかし、「GPS指導型」の上司は、「おい、ちょっと右に行きすぎだぞ」「今のうちに、左に舵を切っておけ」と、途中でいちいち指示を出す。

いわれたとおりに動くだけの部下は、なにも学べない。

この「AI育成型」のやり方で仕事を叩き込まれた人間は、自分で考え、行動し、失敗も成功もその経験を糧にしながら、着実に成長していく。

昨日反発していた部下たちが急に慕ってくるような、速効性のある一発逆転の“魔法”のようなリーダーシップなどこの世に存在しない。

彼は、日々、地道にコツコツと、部下のことを思い、部下のためにできることを考えて、前例のない行動を起こし続けた。

海軍兵学校を出たばかりの新人は、配属される艦が決まると、自己紹介をかねて艦長に手紙を書き、返事をもらうのが習わしなのだそうだ。

しかし、彼は新人のとき、艦長から手紙の返答をもらえず、不安な日々を過ごした。

その経験から、自身が艦長になったとき、彼は新任の乗組員の配属が決まると、彼らの便りをまたずして、自分から歓迎の手紙を送った。

仕事の内容や配属までに準備をしておくこと、赴任地の情報、それに艦名入りのキャップまで送ったそうだ。

こうして迎え入れられる新人たちは、どれだけ心強かっただろう。

艦に足を踏み入れ、艦長と言葉を交わすその日を楽しみに待ったのではないか。

アブラショフ艦長は、このように地味で手間のかかるやり方を各方面で貫いて、部下を味方につけていった。

軍隊には、強烈なトップダウンが必要、と思ってしまう。

しかし、軍隊も会社も、およそ組織という組織の基本は変わらない。

部下やチーム全員と揺るぎない信頼関係をつくることにより、その組織の方向性や理念に従って、個々人が自律的に考え、学習し、行動する組織をつくることだ。

ただ上から命令し、「黙って俺の言うことを聞いておけばいい」というような組織からは、ギスギスした冷たい関係しか生まれない。

本当のところは、人は命令では動かないからだ。

「ロバを水辺まで連れていくことはできるが、ロバに水を飲ませることはできない」ということわざのごとく、のどが渇いていなければ無理矢理水を飲ませることはできない。

つまり、人が動きたくなるような状況に持っていく、このことこそがリーダーシップの要諦だ。

最強のリーダーとは|2017年05月21日 人の心に灯をともす から

2017年5月27日土曜日

記事紹介|そんな大学に、国民の血税から投資を増やしますか

教育無償化政策の哲学

思うに、教育の無償化に代表される投資増加策の根本にある発想は大きく二つでしょう。一つは、21世紀という時代が知識や情報が人々の生活に直結する時代であるということ。この時代には、教育にこそ投資をし、教育の機会をこそ均等にすることが国家の興隆にも、格差の是正にも最も効果があるという発想があります。この大きな時代認識は、おそらく正しい。現に主要国のほとんどが類似の発想と政策にたどり着いています。

もう一つは、少子高齢化社会の人口構造の下で、日本が高齢者の発想に引きずられた社会となっていることへの危機感でしょう。シルバー・デモクラシーにおいて圧倒的な多数派を形成している高齢層の有権者は高齢者福祉の減額を許容しません。高齢化社会の弊害が叫ばれてすでに何十年も経っていますが、改革の必要性が叫ばれても、実際の改革はほとんど前に進まないわけです。

教育への投資増加を訴えるウラには、そんな膠着状態に風穴を開けたいという願望があり、それは正しい思いであると私も思います。ただ、結論から言うと、現在の日本の制度における、①義務教育以前の幼児教育、②義務教育以後の高校教育、③大学や大学院などの高等教育、のうち、①や②の無償化には賛成でも、③の無償化には反対というのが私の考えです。

大学教育の無償化には反対

では、何故に大学教育の無償化には反対なのか。理由は大きく3つあります。第一は、高卒で働く者との間の不公平を正当化できないからです。現在の日本の大学進学率は約5割です。これを高いと見るか低いと見るかは論者によって異なるでしょうが、現に、国民の半分しか大学には行っていません。そんな中で、大学教育を無償化することは、高校を卒業して働き納税もしている層から、大学へ通っている層へと所得移転することになります。子女が大学に通っているのは相対的には恵まれた層ですから、何とも頓珍漢で不公平なことではないでしょうか。

推進論者からは、大学を無償化することですべての人が大学に通えるようにしたいのだと反論があるかもしれません。この点については、すべての人が高等教育を受ける必要があるかという点に帰着します。少々乱暴に言ってしまえば、文系にせよ理系にせよ、大学教育の意義は抽象思考を養うか、専門教育を施すかのどちらかです。抽象思考とは、高校までに身に着けたその時代なりの「読み書き算盤」というツールを使って考えるための訓練を行うことです。抽象思考を行う適性と必要があるのは、どれだけ社会が複雑化してもそれほど大きな割合ではありません。

専門教育については、果たして大学という形態によって担われるのが最適なのかという疑問があります。この辺りが、大学教育の無償化に反対な第二の理由とつながっています。21世紀は、確かに教育の重要性が高まっている時代です。ただ、専門教育については大学以外にも、企業内教育、生涯にわたって社会において行われる生涯教育や社会教育、労働者への教育として行われる職業訓練など多様なものを含みます。大切なのは、国民各層が自らの人生を豊かなものとするために必要な時期に、必要な教育を受けられることであり、大学教育に偏重して国家資源の投入を増やすことではないのです。

もちろん、投資を増やすには現在の日本の大学が多くの問題を抱えているという現状認識もあります。指標に多少のバイアスがかかっているにしても、世界的な競争力は右肩下がり、中高年の研究者には必ずしも競争原理が働かない中で若手研究者は不安定な身分の下で本筋の研究になかなか時間を割けない。研究の点からも、教育の点からも学問の足腰はどんどん弱くなっています。個別には改革の努力が行われているし、キラリと光る成功例もあるけれど、全体としては現状に利益を見出す教授会という互助会組織によって抜本的な改革の芽を摘まれていく。当の本人たちを含め、日本の大学教育の未来は明るいと胸を張って言える人はほとんどいないでしょう。問われているのは、そんな組織に、国民の血税から投資を増やしますかということです。

大学教育の無償化に反対する第三の理由は、不必要な国家の拡大を招くからです。教育は、人にとっても、社会にとっても不可欠の営みです。自由に思考し、行動できる市民を作るのは教育によってです。私から言わせると、そんな重要な分野は政府には任せておけないという感覚があります。教育への国費投入の増加は間違いなく、国家による介入と統制を伴うでしょう。現状においてさえ、文科省から大量のお役人さんが大学に天下っています。政府という仕組みは、議論にもイノベーションにも向かないのです。国費投入の拡大と、政府によるコントロールの強化は、大学から自由さも斬新さも奪う結果になるのではないでしょうか。

教育無償化と加計学園問題をつなぐもの|2017年05月21日 山猫日記 から

2017年5月26日金曜日

記事紹介|民衆の憎しみに包囲された軍事基地の価値はゼロに等しい

沖縄は5月15日、本土復帰45年の節目を迎えた。基地問題をめぐり、亀裂が深まる「本土」との関係修復は可能なのか。

5月初めの沖縄は、梅雨入り間近を予感させる特有の湿気をまとっていた。静寂が覆う密林地帯。うっそうとした茂みの中で、そこだけが柔らかな光に包まれていた。献花台を埋め尽くす花々やお菓子、ぬいぐるみ、ペットボトル……。数日前、この現場で一周忌の法要が営まれた。

元海兵隊員の米軍属による暴行殺人事件が発生したのは昨年4月29日。犠牲者は20歳の女性会社員だった。自宅近くでウォーキング中、事件に巻き込まれた。

一周忌の法要で女性の父親は、遺体が遺棄された雑木林に向かって、娘の名前を何度も呼び、「一緒に帰るよ」と呼び掛けた。父親は4月27日、書面で現在の心境を明らかにしている。

「今なお、米兵や軍属による事件事故が相次いでいます。それは沖縄に米軍基地があるがゆえに起こることです。一日でも早い基地の撤去を望みます。それは多くの県民の願いでもあるのですから」

献花台のすぐ近くを通る県道104号線は、「キセンバル闘争」で知られる反基地闘争の象徴的な場所だ。復帰翌年の1973年から97年まで180回にわたって実弾砲撃訓練が繰り返された。その都度、県道は封鎖され、砲弾が着弾地の山肌をえぐり続けた。

森の奥から響く射撃音 復帰は間違いだったか

森の奥から乾いた射撃音が響く。一帯は米軍演習場のレンジが幾重にも連なる。この演習場内の工事現場で、工事車両や水タンクが破損し、車両付近や水タンク内から銃弾のような物が見つかったのは、つい先月のことだ。5月2日、沖縄県議会が原因究明や再発防止を求める抗議決議と意見書を全会一致で可決した。

こうした異常な出来事が、沖縄では日常的に起きる。演習場周辺の民間地への被弾などは今回を除き復帰後27件繰り返されているが、日米地位協定の「壁」に阻まれ、いずれも立件には至っていない。ほかにも、復帰後の米軍機の墜落・不時着は709件、米軍関係者による事件は5919件、事故は3613件(昨年末現在)に上る。

敗戦と占領の残滓が色濃くにじむ沖縄で、復帰は何だったのか、との問いが繰り返されるのは必然といえる。「祖国復帰運動」は、基本的人権や平和憲法を明記した「憲法の下への復帰」がスローガンだった。

「だれもが評価する『戦争放棄』はピカピカに輝いていましたからね。しかし結局、ピカピカの平和憲法の下に帰るということをもって、復帰の真相が覆い隠された面もあったのではないでしょうか」

復帰運動を牽引した屋良朝苗主席の下、琉球政府職員として「復帰措置に関する建議書」の策定に携わった宮里整さん(84)=那覇市=は、淀みない口調でこう続けた。

「私は今、冷静に振り返れば、復帰運動は間違いだったという結論に行き着いています」

危機感訴える「建議書」 缶詰めになり作成

「建議書」は、復帰準備作業が本土政府ペースで進められ、県民の意向が反映されていないことに危機感を抱いた当時の琉球政府が、沖縄側の反論と要望を日本政府に訴えるためにつづった全132ページの文書だ。

復帰を翌年に控えた71年10月。那覇市の八汐荘の畳敷きの大広間は男たちの熱気に包まれていた。顔を真っ赤にして議論する者、食事時間も惜しんでどんぶり鉢を片手に黙々と資料をあさる者……。顔ぶれはさまざまだったが、共通の使命を負っていた。琉球政府の若手職員ら約30人と学識経験者からなる「復帰措置総点検プロジェクトチーム」の中に、行政管理課から選ばれた宮里さんもいた。建議書は彼らが缶詰め状態で1カ月足らずでまとめた。

翌11月17日、屋良主席は建議書を携えて東京に向かう。しかし、羽田空港に到着する直前、衆院特別委員会で自民党が沖縄返還協定を強行採決した。これが、のちに「幻の建議書」と呼ばれるゆえんとなる。

建議書の印象的な一節を紹介したい。

「県民が復帰を願った心情には、結局は国の平和憲法の下で基本的人権の保障を願望していたからにほかなりません。(中略)復帰に当たっては、やはり従来通りの基地の島としてではなく、基地のない平和の島としての復帰を強く望んでおります」(建議書「はじめに」)

97年11月の沖縄の施政権返還25周年を記念する復帰式典。大田昌秀知事は「当時、政府が建議書を真剣に受け止め、県民の願いをその後の沖縄政策に生かしていたら、わが県はもっと違った姿になっていたのではないかと思われてならない」と発言した。

宮里さんは13年前の筆者の取材に、建議書をこう総括している。

「復帰時点に指摘された問題は積み残しの状態で、本質の解決は図られないままメッキを塗ってごまかして今があるのではないでしょうか」

今やメッキもはがれ落ちてしまった感が否めない。沖縄県内の全市町村長や議会議長が参加した要請団が2013年1月、米軍普天間飛行場の県内移設断念などを求める「建白書」を政府に提出した。しかし、その後の選挙でも示された民意はことごとく踏みにじられ、先月25日、政府は辺野古埋め立ての第1段階である護岸工事に着手した。

「政府は沖縄を領土の観点でのみ捉え、いかに軍事利用するかということだけに集中しているように見えます。ただ、こうした政府の処遇は今に始まったことではありません」(宮里さん)

信託統治か潜在主権か 独立への道も存在した

日本政府は明治期に、安全保障上の所要を満たすため、武力威嚇を伴う「琉球処分」によって沖縄を日本国家の版図に組み込んだ。太平洋戦争で沖縄は、本土決戦のための時間稼ぎの「捨て石」として住民が根こそぎ動員された揚げ句、4人に1人が亡くなる地上戦に引きずり込まれた。そうした歴史の連なりの中に今がある。

そう捉える宮里さんの視座は、政府批判にとどまらない。矛先は自身を含む「沖縄」にも向けられている。

敗戦時、宮里さんは12歳だった。軍国主義一辺倒の皇民化教育を受け、島くとぅば(沖縄方言)の使用も禁止されていた宮里さんは、沖縄にかつて王政が存在したことや、独自の文化や歴史が育まれてきたことも知らなかった。

戦後沖縄の教育は、収容所での青空教室に始まり、米軍の指示で沖縄独自の教科書編集が行われた時期もあった。沖縄の歴史が記述されたガリ版刷りの教科書が配られるまで、宮里さんは「首里城」の「首里」という文字を、「みやざと」という自分の姓と重ね、「くびさと」と黙読していたという。

日本という国家の中で沖縄は取るに足りない地域──。「そういう頭づくり」がされた延長のまま復帰運動に接続した、と宮里さんは振り返る。

「つまり、親元に帰る、祖国復帰という言葉で、私も一緒になって復帰運動に傾注しました。そういう範囲でしか物の判断ができなかったというのが、今の沖縄の状況を生み出す背景にあったと思うんです」

宮里さんが「歴史的な反省点」に挙げるのが、52年発効のサンフランシスコ講和条約の第3条に関する解釈だ。講和条約と日米安保条約の発効によって日本本土は「独立」し、沖縄は米軍占領の継続・再編成という状況に置かれた。

講和条約第3条はこう規定する。沖縄などは米国を「唯一の施政権者とする信託統治制度の下におく」との提案が国際連合に対してなされた場合、日本はこれに同意する。さらに、この提案までは、米国が沖縄などに対して「行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有する」。そのうえで、日本には「潜在主権」が残るとされていた。

宮里さんは「信託統治制度」についてこう言及する。

「敗戦までは日本が南洋諸島を委任統治していましたから、その感覚が頭にあって、南洋諸島みたいに差別された地域にされる、という反発が先に立ったのです」

一方で、「日本の潜在主権」が認められた点は、「希望」だったという。

「潜在主権が認められたことで、いずれ日本に復帰できるんだ、それが沖縄県民にとっては救いだという錯覚を起こしてしまったんですよ」

「錯覚」という言葉に、筆者は内心動揺した。宮里さんの心域はそこまで「日本」から離れてしまったのか。

かつての南洋諸島は戦後、米国の信託統治を経て独立している。

「つまり当時、沖縄自らが信託統治を欲し、そこから独立につなげる道を選んだほうがよかったんじゃないかということです。そのチャンスを逃がしたばかりに、沖縄は本土に軍事利用され続ける、今日の混迷と不幸があるのです」

沖縄を守らない9条と 憎しみに包囲された基地

宮里さんは今、戦後沖縄のテクノクラートの一人として沖縄社会を「日本復帰」に誘導する一端を担った過去を心の底から悔やんでいるのだ。

安倍晋三首相は5月3日、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と明言。戦争の放棄を定めた9条に自衛隊の存在を明記した条文を追加することなどを挙げた。

「日本を軍事国家にしたいのでしょうが、結局、本土による沖縄の軍事利用強化につながるのでは」

そう受け止める宮里さんの視点は、本土の改憲派、護憲派のどちらにもくみしない。

「そもそも9条は沖縄に適用されてきたのか。本土は9条を生かすために沖縄を利用してきた、という解釈もありますよね。そういう意味では、これからも9条にぶら下がるというのは、私は非常に違和感をもっています」

沖縄の政治潮流に詳しい獨協大学地域総合研究所の平良好利特任助手は『戦後日本の歴史認識』(東京大学出版会)で、「沖縄と本土の溝」の章を担当。かつてないほど沖縄と本土の政治空間に隔たりが生じてしまった根本要因として、沖縄に偏在する基地負担を戦後日本が解決できなかったことにある、と分析している。

本土で米軍基地が縮小されていった50年代後半に、本土から沖縄に移駐した米海兵隊が在沖米軍基地の約7割を占める現状を、本土のどれだけの人が知っているだろうか。

平良氏は言う。

「日米同盟の本質は、基地を提供する代わりに守ってもらうことです。しかし、基地という最も重要な『実』の部分の大半が沖縄に局地化されて見えなくなり、その『実』の部分を脇に置いたまま、『日米同盟』は深化・発展していったのではないでしょうか」

米軍統治下の沖縄で弾圧と闘った政治家、故瀬長亀次郎氏の軌跡を展示する資料館「不屈館」が那覇市にある。

「復帰して良かったことはいっぱいあります。パスポートなしで本土に行けるし、医療保険制度や年金の恩恵も受けられます。基地付きの復帰になったことで、すべてダメだと言って、本土の人と喧嘩しても始まりません」

そう話す館長の内村千尋さん(72)は亀次郎氏の次女だ。内村さんは辺野古新基地建設など政権の強権的な姿勢に強い反発を覚えながらも、本土の人たちにも粘り強く理解を得る努力が必要だと考えている。

亀次郎氏が残した言葉は今も沖縄の反基地闘争を鼓舞する力をもつ。今年3月の辺野古のキャンプ・シュワブゲート前での集会。大会決議文で引用された「弾圧は抵抗を呼ぶ。抵抗は友を呼ぶ」もその一つだ。

帰り際、内村さんが亀次郎氏の言葉をもう一つ、教えてくれた。

「民衆の憎しみに包囲された軍事基地の価値はゼロに等しい」

本土に向けられた言葉でもある。

本土復帰45年の沖縄で「幻の建議書」関係者が語る「復帰は間違いだった」|AERA 2017年5月22日号 から

2017年5月24日水曜日

記事紹介|日本の大学は、ゆでガエル状態

「高大接続」という言葉が独り歩きしている。目まぐるしく変わる世界で、私たちの子どもはどんな力を求められるのか、それにふさわしい教育を創っていこう。そんな思いで始めた改革だったが、その方向に進んでいるのだろうか。議論を進めてきた責任者の一人として、改革に込めた思いを語りたい――中央教育審議会会長として改革を世に送り出した安西祐一郎氏が語り始めた。


心のスイッチを切り替える

先日、人工知能の性能を競うコンテストで審査委員長を務めた。料理の写真を見て、人工知能に料理名を当てさせるのだ。

人が料理の写真を見てその名前を当てるときには、画像だけでなく、今まで食べてきた経験がものをいう。だが、料理を食べたことも、作ったことも、買ったこともない人工知能が、写真を見せられただけでその料理の名前を当てられるものだろうか。5月22日に大阪で開かれる人工知能のシンポジウムで表彰式が行われるので、結果は次回に譲るとしよう。

人間はその経験に横串を刺し、知識として体系化し、さらに枝葉をどこまでも広げることができる。人工知能は、いったいどうすれば「多様な経験を積む」ことができるのだろう? 多様に広がる世界の情報にどうやって「横串を刺す」ことができるのだろう? これらの問いへの答えは、まだ出ていない。

人工知能にまだできない多様性への対応こそ、主体性と並ぶ「2045年の学力」の大きな柱だ。

一瞬で情報が地球の裏側まで届くこれからの時代に求められるのは、多様性への対応だ。画一的にものごとをとらえ、狭い社会の規範や前例だけで判断していては、思考の広がりは望めない。だから、2014年の中央教育審議会答申「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」には、「主体性をもって多様な人々と協働して学ぶ」という字句を盛り込んだ。学校教育法には「主体性をもって学習する態度」とあるが、「多様性」ということばはどこにもない。画一的から脱するためには、主体性だけでなく、「多様な人々」と学び合う環境が大切だ。国籍や言語、文化など全く異なる人々と学び合うことが、学びの場を大きく変え、子どもたちの心を広く豊かにし、柔軟な判断力を育ててくれる。

だが、そうした人々を育てるには、今の大学はあまりに「画一的」だ。たとえば国立大学の関係者は、口を開けば「運営費交付金」という。2004年に国立大学が法人化された後、収入の不足分を補うため、学生数などをもとにそれぞれの大学に金額をはじき出し、機械的に分配されてきた。それでは不合理だという政財界からの指摘などもあり、「頑張っている大学には手厚い」重点配分が始まったが、そのため、国立大学関係者の口から「運営費交付金」の言葉が飛び出す頻度がますます上がっているようにみえる。「部局」も同様だ。国立大学関係者は「部局」ということばを頻繁に使う。しかし、この用語は国立大学あるいは公立大学以外の大学には通用しない。「部局の壁を越えられない」「部局のタテ割り」「部局の合意を得る」.........否定的な場面に使われるケースもあるが、関係者の間での用語の使い方はともかくとして、使う言葉が同じ人々は思考の方法もそう変わらない、ということだ。ともあれ、国立86大学の中だけで通用する用語を使っていると、その中だけの思考法になってしまう、という点は、当の国立大学の関係者はあまり気づいていないように見受けられる。

では、私立大学はどうだろうか。国立大学を凌駕するほどに個性的といえるかといえば、やはり「画一的」を否定できない。私立大学の個性は、建学の精神にあるはずだ。なのに、建学の精神に基づいて入学者受け入れの方針を定め、入試をしている大学がどれほどあるだろうか。大量の入学者を短時間の画一的な試験によって無造作に入学させ、ところてんのように押し出すところが目に付いてならない。

「日本の大学は、ゆでガエル状態」と自嘲気味に語る、心ある大学人が少なくない。曰く、徐々に温度が上がっても「いい湯だな」とのんきに構えているうちに、すっかりゆであがってしまう......。前を見ても、横を見ても、「画一的」にのほほんと温泉につかっている仲間と一緒であれば、安心していられるのかもしれない。あるいは安心していることにさえ気づいていないのかもしれない。つまり、「画一的」とは、思考停止の結果なのだ。

そうした大学の姿は、これまでもたびたび問題視されてきた。哲学者で批評家の三木清が1936年2月に、以下のような指摘をしている。

「試験制度はまた我が国における教育機関の画一化によって強化されている。(略)各学校の特色がもっと明瞭であり、各々その特色を発揮することに努力するならば、試験の激烈さも緩和され、その弊害も減少するであろう。ところが現在では、例えば官立学校と私立学校とにおいて教授内容は同一であり、ただ後者は設備その他の点で劣っているというだけで前者と相違するといった状態であるために、試験制度も強化されるのである。画一主義の教育と試験制度とは相互に関連している。そして今日我が国の風潮が教育における制度主義、画一主義を強化しつつあることは見遁せない」(「三木清 大学論集」講談社文芸文庫より)

激烈な試験が次世代の育成にどれほどの弊害をもたらすか、という問題指摘の中で書かれている。2・26事件の起きた時期に書かれた三木の指摘がやや特殊だという言い方はあるにしても、「官立学校と私立学校とにおいて教授内容は同一」と大学の画一性を強調しているところに目をひかれてしまう。中身が同じであれば、受験生は設備や、ここには書かれていないが「知名度」「官立か私立か」など外形的なことで選ぶのは当然だというわけだ。

教育の自由化・多様化を全面に打ち出した1971年の「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」(四六答申)では、大学の体質改善を迫っている。

「高等教育の大衆化は、単にその進学率の上昇というだけでなく、現に社会で働いている人が、その学歴水準にかかわらず再教育の必要を感じているという事実が示すとおり、さまざまな年齢や職業の人にまで拡張して考えなければならない。それは、急激に変化する社会が、たえず人間能力の再開発を求めているからである。このような国民の要請にこたえるためには、多様な資質を持つ学生のさまざまな要求に即応する教育の内容と方法を備えた高等教育機関が必要となる」と問題提起をしている。

その16年後、1987年の「臨時教育審議会」の最終答申でも「高等教育の個性化・多様化」が強調されている。「高等教育の個性化、多様化、高度化、社会との連携、開放を進める、また、学術研究を積極的に振興する。これらを裏付ける条件として、組織・運営における自主・自律の確立、教職員の資質の向上、経済的基盤の整備を図る」と提言する。

大学の個性化、多様化を妨げる要素は、受験生側にも根深く横たわっている。依然として偏差値で大学選びをする傾向だ。偏差値とは、ある試験を受けた受験者全員を母集団として、その中でどの程度の位置にいるかを示した数値で、それ以上のものではない。「難易度」に使われているのは、「入試合格者」の偏差値で、「入学者」の数値ではない。にもかかわらず、それで「行ける大学」が決められ、人生が決まってしまうかのような仕組みが社会に埋め込まれている。

偏差値ばかりを気にして若い人たちの一生を台無しにしているのが、今の高大関係だ。健康を維持するために体重ばかりを気にしていたら、摂食障害を起こしたり、精神的に病んだりもする。食事や運動、生活リズムなどのバランスの中での体重管理、たった1本のものさしだけで健康を測らないことが大切だろう。

いまの試験制度自体にも大きな問題がたくさんある。社会では多様な能力を持った多様な人たちが必要なのに、覚えたことの多寡を1本のものさしで測って優劣をつける仕組みになっているからだ。それぞれ異なる能力を磨いてきた人たちの優劣を同一の試験で判断するのはそもそも意味がない。

18歳人口は1992年約205万人、現在は約120万人。にもかかわらず、大学生の数は減っていない。高校を出て就職する人たちの数が25年間で激減した。したがって今は、大学に進んで何をどう学ぶのかがより重要な問題になる。大学には50%以上の高校生が進学する時代だから、大学を出ただけではもはや「価値が高い」といえないからだ。進路は実に多様なはずだ。だが、社会全体が「大学にいけば何とかなる」、もっといえば「いい大学に入れば、いい会社に入れて、幸せな人生を過ごせる」と画一的に思い込んでいる。その結果、画一的な高校と、その延長の大学がシステムとして用意されることになる。社会では多様性への対応が要求されている。この矛盾をどうとらえるかが問題だろう。

「画一的」は、新卒一括採用で入試合格者の「偏差値」を重視する企業にも当てはまる。この偏差値は入学前の偏差値だから、その大学でどのような教育をしているかとは全くかかわりがない。にもかかわらず、偏差値を使うのは、効率がいいと踏んでいるからだろう。1人ひとりを丁寧に面談し、どの業務に向いているか、社風と合うかを考えて選ぶのは大変手間がかかる。それで妙な新人を入社させたりしたら、人事担当者は責任を問われることになると心配し、「とりあえず東大卒業生」を重く見て採用する風潮があるようだ。

平時はそれでいいかもしれないが、いまは「乱世」。かつて有名大学卒業者をぞろぞろと集めていた企業が危機的状況に陥っている。それを、企業は、またこれから大学を選ぶ受験生やその保護者、進路指導の教員は、やはりぬくぬくとぬるま湯につかりながら見ているのだろうか。

「1億総ゆでガエル」――想像もしたくない。

「1億総ゆでガエル」にならないために|2017年5月19日 読売新聞 から

2017年5月23日火曜日

”植民地”国立大学への出向(天〇り)に関わるQ&A

役人言葉の見事な文章。信じるか信じないかはあなた次第です。

国立大学法人への文部科学省職員の派遣および出向等の状況に関する質問主意書|衆議院

国立大学法人は、国立大学法人法第1条で「大学の教育研究に対する国民の要請にこたえるとともに、我が国の高等教育及び学術研究の水準の向上と均衡ある発展を図る」ことが目的であると示され、国立大学法人法第3条では、「国は、この法律の運用に当たっては、国立大学及び大学共同利用機関における教育研究の特性に常に配慮しなければならない」と規定されている。

政府は、このように国立大学法人の教育研究の特性に常に配慮すべきであるにもかかわらず、文部科学省職員の国立大学法人への派遣および出向等の実態は不透明であり、国民は不信を抱かざるを得ない。このような観点から、以下質問する。

1 文部科学省職員の身分を有する者、あるいはかつて文部科学省職員の身分を有していた者が、派遣、出向など形式の如何を問わず、国立大学法人で教育職、研究職、事務職あるいは理事などの役員として勤務されていると承知しているが、何を目的にして、政府はそうした勤務を行わせているのか。教育職、研究職、事務職および役員のそれぞれについて、政府の見解を示されたい。

2 1の勤務は、どのような法的根拠で行われているのか。政府の見解を示されたい。

3 全国の国立大学法人で、教育職、研究職、事務職および役員として勤務する者のうち、文部科学省職員の身分を有する者、あるいはかつて文部科学省職員の身分を有していた者は、現在、何名なのか。政府の見解を示されたい。

4 文部科学省職員の身分を有する者、あるいはかつて文部科学省職員の身分を有していた者が、国立大学法人で継続的かつ特定の職種で勤務することは、国立大学の自主性を失わせるなど弊害があると考えるが、政府の見解を明らかにされたい。


国立大学法人への文部科学省職員の派遣および出向等の状況に関する質問に対する答弁書

1から4までについて

御指摘の「文部科学省職員の身分を有する者」、「かつて文部科学省職員の身分を有していた者」、「派遣」及び「教育職、研究職、事務職」の具体的に意味するところが必ずしも明らかではないが、文部科学省から国立大学法人への出向は、国立大学協会の平成21年6月15日付け「国立大学法人の幹部職員の人事交流について(申合せ)」を踏まえ、任命権を有する国立大学法人の学長からの要請に基づいて行われており、同省から推薦された職員を実際に採用するか否か、あるいは採用した者を学内でどのように活用するかについては学長が判断していると承知している。

同省からの出向者は、国立大学法人法(平成15年法律第112号)第10条第2項の理事である「役員」又は同法第35条において読み替えて準用する独立行政法人通則法(平成11年法律第103号)第26条の「職員」として、それぞれ学長の指揮監督の下で職務を遂行することから、同省からの出向によってお尋ねの「国立大学の自主性」が損なわれることはないと考えている。

同省職員の国立大学法人への出向は、同省における業務を通じて得た知見を学長の意向に沿って大学改革や機能強化に役立てることができる一方、国立大学法人での業務を経験することにより現場感覚を養い、その後の同省での業務に反映することができると考えている。

お尋ねの「1の勤務は、どのような法的根拠で行われているのか」の趣旨が必ずしも明らかではないが、当該「役員」については国立大学法人法第13条第1項の規定に基づき、当該「職員」については同法第35五条において読み替えて準用する独立行政法人通則法第26条の規定に基づき、国立大学法人の学長がそれぞれ任命していると承知している。

国立大学法人の学長の要請に基づき同省から当該国立大学法人へ出向し、平成29年1月1日現在、当該「役員」又は「職員」として、当該要請において遂行することを求められた職務を引き続き遂行している者は、276名である。

2017年5月22日月曜日

記事紹介|「希望職種は大学職員」が意味するもの

「希望職種は大学職員」が意味するもの

「今の若手に人気なのは、大学職員なんですよ」

先日、ある転職エージェントのキャリアアドバイザーから聞いた話です。第二新卒の人たちは、どんな求人に興味を持つのか、という話になった時に真っ先に出てきたのがこのセリフでした。多くの若手社員が、今の会社を辞めて、大学職員になりたいと思っているのだそうです。

かつての若手社員の人気職種といえば、「新3K」が思い起こされます。企画、広報、国際の頭文字をとった用語です。バブル時の80年代後半から2000年代中頃までは、こうした華やかな職種、舞台で働きたい、と考える若手が主流を占めていました。外資系企業や急成長しているメガベンチャー企業も人気を博していました。大きな舞台やビジネスの最前線で、自分の持てる力を使って活躍したい、という意識がはっきりと感じられました。

しかし、少しずつ様相は変わっていきました。バリバリと働き、前向きに挑戦していく志向が減退し、ほどほどの無難な生き方を志向する若手が増えてきたのです。世界を舞台に働きたいという人が激減し、地元で職を得たい、という人が増えたのは好例です。

その典型は、公務員志望の増加でしょう。昔から、不況時には安定志向が高まり、公務員志望が増える、という傾向が顕著にありましたが、リーマンショック前の好景気の時から、公務員志望はじわじわと増え始めていました。大手企業志向も高まりました。

こうした変化を考えれば、若手の中で、大学職員が人気というのも頷ける話です。大学は公共財に近い存在ですから、公務員同様に雇用が安定していると考えているでしょうし、公務員のように試験があるわけではありませんので、ハードルも低いと感じているのでしょう。大学は全国にありますから、地元志向にもかなっています。

さらに、第二新卒たちが大学職員の仕事に惹かれるのは、「残業がなさそうだから」「定時に帰ることができるから」なのだそうです。自身のプライベートな時間を大切にしたい、という意識の表れでしょう。

若手は、「生き生きと働いている」か?

ここまでをお読みいただいて、何を思われたでしょうか? 「これが、今の若手のホンネなのか」と、ショックを受けられたでしょうか。「やる気が感じられない」「今の若手が使えないわけだ」と思われたでしょうか。

確かに、若者らしい前向きさのようなものは、ここからは感じられないかもしれませんが、実は彼らは、やる気がないわけではありません。自分がやる気を出せる場所を、真剣に探しています。

しかし、今働いている会社、職場では、やる気になれてはいません。むしろ彼らは、今いる会社、職場でのやりがいや成長といったものを、最初から放棄しているように見えます。やる気はあるのに、やりがいや成長を放棄している―これは一体どういうことなのでしょうか。

私は、現代の若手社員を、高い可能性を秘めた貴重な人材だと考えています。意欲、能力が低いとは、まったく思っていません。しかし、彼らの多くが、残念ながら、「生き生きと働いている」とはいえない状況にあると思っています。

そして、その原因の多くは、彼らの側にあるのではない、と考えています。彼らの中に「希望職種は大学職員」という意向を持つ人が少なからずいる、という実態は、もっと奥深いことを物語っている、と思っています。彼らは、大学職員の仕事を、単に楽な仕事だ、などと考えてはいないのです。大学職員の仕事であれば、「生き生きと働ける」のではないかと思っているのです。

社会は変わる、人も変わる。でも会社は変わっていない

社会人となって以来、私は30年以上にわたって日本の若者たちを見つめてきました。キャリアの前半は、求人広告、就職情報誌を作る仕事に携わり、大学生や若手社員が、会社や仕事に何を期待しているのか、どのような情報を求めているのかを探索してきました。

キャリアの後半は、研究者として、大学生、若手社会人の就業意識や行動をリサーチしてきました。多くの若手社会人、大学生にインタビューし、対話を重ねてきました。講演・講義という形での接点も、数多くありました。

多くの日本企業も、見つめてきました。従業員数十万を超える超大手企業から社員3人の超零細企業まで、数百の企業の実態を見てきましたし、採用や育成にかかわる人事の方々との出会いの数は、数千人に及んでいると思います。

そうした探索を続ける中で、ある時から、大きな問題意識が生まれました。それは「多くの若手社員が、職場で活かされていない」「企業が、若手社員を潰している」という想いです。

いつの時代も、新たに社会にデビューする若者は、「今どきの若者は……」と、批判されてきました。最近であれば、「これだから、ゆとりは……」と、ゆとり世代を非難する言説が繰り広げられています。そして、そのように問題を抱えた若者が、社会に適応できるように対策を講じる、ということが繰り返されてきました。

会社という舞台においては、仕事ができる人材になるように、上司や先輩が指導したり、研修を受けさせてきました。会社の中で、「使える人材」となるために、能力を高めたり、大切なものの考え方、仕事に対する姿勢を植え付けてきました。

「組織社会化」という言葉があります。会社などの組織に、新たな人材が入ってきた時に、その人材に、組織の一員として必要な意識、行動などを身につけさせていくプロセスを指す言葉です。新入社員研修を実施する、新人にインストラクターやメンターをつける、先輩に同行させて仕事を覚えてもらう、上司が面談する、職場のメンバーで飲み会をする……こうしたことすべてが、組織社会化のプロセスです。

この構図は、今日的な言い方でいえば、「上から目線」です。変わらなくてはならないのは新人・若手であり、会社が彼らにあわせて変わる必要はない、という図式の上に成り立っています。

私も、ある時までは、そのようなとらえ方をしていました。会社の側にも、いろいろと問題はあるけれど、そうはいっても、新人・若手の側に、大きな問題があるのだから、そちら側を変えなくては、と考えていました。

しかし、ある時から、「会社の側にある、いろいろな問題」のほうが、実は大きな問題なのだと考えるようになりました。社会は変わる、人の意識・行動も変わる、なのに、会社は変わっていない。その変化のずれが、特に新しく会社に入ってくる人たちとの間で、大きな問題になっているのではないかと、考えるようになりました。

会社は「今どきの新人・若手は、どうにも使えない」と見ています。しかし、新人・若手は「こんなところでは、生き生きと働くことができない」と、息苦しさを覚えているのです。彼らは今の仕事で「力を持て余している」のです。それは、若手社員の問題なのでしょうか。それとも、彼らの職場や上司が抱える問題なのでしょうか。

変わるべきは、どちらか一方ではないでしょう。双方が変わる必要があります。しかし、先に変わらなくてはいけないのは、会社の側です。特に、新人・若手を預かるマネジャーが、考え方や行動を変えることが急務です。

変わるべきは社員か? 会社か? 成長を放棄する若手社員たち|2017年5月16日 PHP人材開発 から

2017年5月15日月曜日

記事紹介|日本の新分野開拓力を妨げているのは大学組織の慣習である

オープンサイエンス時代の到来

交通手段の発達、情報通信技術の進展が時空間の制約を解き、新たな「知の共創」が可能になりつつある。かつては個人による思索、知識創造の営みであった科学研究も、いよいよオープンサイエンスの時代を迎えた。

最も個人知が冴える数学界にさえ、フィールズ賞受賞者T.ガウアーズが2009年に創設したPolymath Projectの動きがある。証明困難な数学問題を多くの数学者のコミュニティで協働して解決策を導き出そうとする活動で、発想は「一人のダ・ビンチが世界を変えた。しかし、もし千人のダ・ビンチを集めたら?」であった。すでに大きな効果をもたらし、与えられた問題の答を出すだけではなく、この熟議で新たな問題をつくり出せることも明らかになった。さらに、インターネットの発展は、遺伝子研究、天文学、鳥類観測、環境モニタリング、古文書解読などデータ駆動型のさまざまな分野で、一般市民参加の「シチズン・サイエンス」の成功例をもたらした。もとより人数の多寡ではなく、目標に応じて一定の秩序が必要で、広い視野をもつ優れたリーダーの存在と多様な才能の参加が不可欠である。

「科学は一つ」であるが、わが国では科学者たちの縄張り意識があまりに強い。「知の共創」の重要性の認識が欠けるため、「分野連携」「分野融合」が遅々として進まない。さらに「地球は一つ」の流れの中で、長年にわたる国際交流の不調は依然として続き、国際共同研究は30%以下にとどまり、他の先進国の平均値50-60%に全く及ばない。文科省科学技術・学術政策研究所がつくるサイエンスマップによれば、日本は全844領域の32%にしか参画しておらず、新領域の共同的開拓力が著しく不十分という。

現代社会が求める複雑系の問題の解決は、いかなる天才、秀才といえども一人では難しい。誰が解決するかではなく、いかにすれば解決できるかを考えるべきで、近年の社会との関係の深まりを考えれば、文理融合は不可避である。わが国の問題はすでに文理選択を促す中等教育に発しているが、多様な優秀人材を擁する総合国立大学は、なぜに組織的協調を試みないのか。公的資源配分の方法や専門家たちの評価、学協会のあり方が邪魔をしてはいないか。もはや事態は待ったなしである。近くNature、Science誌も世界の趨勢を見据えて、この方向の姉妹誌を相当数創刊するが、この新たな潮流の中で、特徴ある文化をもつ日本からの注目される成果発表を期待している。

生活共同体(グループ)と社会的組織(チーム)

日本は民族的均質性が高く、異質を排除する風土がある。研究体制においても「グループ」と「チーム」の違いの根本認識がない。英語由来のグループとは「群れ」のことである。蟻や蜂、魚、鳥、動物など同一種の生き物、あるいは血縁、地縁、同質の人たちの集団であって、その形成は環境に適応して生存するために有効であるとされる。一方、チームは明確な行動目的をもち、社会的に意図してつくられる組織である。スポーツでわかるように、明晰な指揮官のもとに勝利に必要な優れた専門技能をもつ選手を集めて戦う。たまたまそこに居住する人たちの力だけでは、到底勝ち目はない。

かつての日本の大学は、平穏な群れ的風土を尊重した。その特色ある学術研究や後継者育成は、牧場経営にも例えられた。しかし、慣れ親しんだ牧場で安定した生涯を送り、群れを存続することは、乳牛たちが望むところかもしれないが、時を経て草原が劣化し、また有限の投入資源と出荷額が不均衡となれば、酪農自身が成り立たない。個人はもとより社会的に同質の集団の力はごく限定的であり、喫緊の重要課題が山積する現代は、牧畜式体制だけでは成り行かない。現代の研究体制には、静的な「構造秩序」から動的な「機能秩序」への転換が強く求められる。対象が科学であれ、技術であれ、より広い社会であれ、多くの課題の解決は均質ではない、異能チームの編成による総合機能力の発揮なくしてあり得ない。

日本の新分野開拓力を妨げているのは大学組織の慣習である。継続性の偏重、新陳代謝の欠如が、重要課題研究の本格着手に10年の遅れをとらせている。思い切って新たな潮流に生きる若者の育成を促進すべきである。まず、すべての教員の独立性の保証であり、筆者が繰り返し2007年の改正学校教育法の遵守を求めるのはそのためである。大学教員たちの「独立」は決して「孤立」を意味せず、むしろ自律的な研究ネットワーク形成の前提である。諸外国で共同作業が盛んなのは、個人の独立に根ざしており、わが国のような同学科内での類似価値観者による共同研究は極めてまれである。

最適化チームが価値を創る

大学とは異なり、公的機関や企業の科学技術研究の多くは、明確な戦略目標をもつ。これらはスピード感あるプロジェクト方式で行われるが、旧来の自前主義、全日本(All Japan)方式への執着は、大きく競争力を損なう。価値の共創にむけたチーム形成に不可欠なものは、見識あるリーダーの存在、国内外の頭脳循環の促進である。わが国のラグビー、サッカーの大学、高校選手権大会は素晴らしいが、ワールド・カップ戦は日本人ヘッド・コーチ、選手だけでは戦えないのと同様である。

昨今、世界は移民問題に揺れるが、優秀なグローバル人材獲得の絶好機である。外国籍の高度人材は、決して平凡な技能提供者ではなく、名誉と信頼をもって処遇されるべきであり、米国、英国、スイス、オランダ、シンガポールなどの科学界の活力の源はここにある。博士研究員に圧倒的に外国人が多いことは当然であるが、まず指導者の選定が最重要である。ドイツのマックス・プランク協会も、研究所長(Director)は四人に一人は外国人である。わが国では内閣府傘下の沖縄科学技術大学院大学(OIST)が先行するが(現学長は実績あるペーター・グルース前マックス・プランク協会会長)、文部行政下にある一般の大学の動きは何故か全く鈍い。

フリーランス研究社会は訪れるか

いかにすれば目標達成のための最適人材を選抜、採用できるか。米国シリコンバレーのベンチャー企業が一歩先んじるが、「自らが持たざるが故に」野心的目的に合わせて、いずこからでも、いかなる人にでも好条件を提示して獲得できる。今後は、あらゆる研究組織で偶然の機会への依存ではなく、広く「ヒューマン・クラウド」を活用するといわれる。

情報通信技術の進展によるが、具体的な挑戦的課題研究の中核が、現在の(好ましいとされる)定年制機関所属者、正社員たちから、優れた専門的職能をもつフリーランスに移る可能性がある。彼ら、彼女らは多様な国籍や背景をもち、研究機関への所属意識は薄く、むしろ自らの専門能力を誇りに生きる。課せられた目的の達成意識は高く、プロジェクトは才気あふれるリーダーのもとで迅速に進む。産官学の壁は確実に低くなり、国際連携も密になる。研究者、技術者の複数機関、組織への関与、「副業」ならぬ「複業」も増えることになる。

しかし、生産効率性の重視は、必ず労働環境に厳しい競争性を引き起こす。社会の健全性を維持すべく、個人能力の格差拡大に対するセーフティネットの用意が必要となる。人工知能を含む技術革新が、真摯に働く、しかし旧来型の教育を受けた機関所属研究者や学位取得者たち、さらに機能性を欠く大学、研究機関自体を「負の社会的存在」におとしめることがあってはならない。たゆまぬ再教育が、環境順応力を高める。

このハイブリッド型の知識基盤社会に、伝統的大学は知の府であり続けられるか。日本の命運を握る若い世代が憧れ、納得する多様な教育研究の場を構築する必要がある。

2017年5月13日土曜日

記事紹介|憲法は義務教育以外の教育の無償化を禁じているわけではない

教育費の無償化を巡る議論が与野党間で加速している。生まれた家庭の経済状況などに左右されず、教育の機会を得られる環境を整えようというものだ。子どもの貧困が社会問題となる中、重要なテーマである。

3日の憲法記念日には、安倍晋三首相が新憲法を2020年に施行したい考えを唐突に表明し、その中で高等教育無償化に言及した。

家庭の経済的理由で、進学を諦めたり、中途退学したりするケースは少なくない。所得の低い家庭の子どもが十分な教育を受けられずに育ち、その結果、低所得の仕事に就くという「貧困の連鎖」は社会問題化している。

国内総生産(GDP)に占める教育の公的支出割合で、日本は経済協力開発機構(OECD)加盟国で最低水準という現実もある。意欲ある子どもがきちんと学べる仕組みづくりに異論はあるまい。

問題は財源である。文部科学省によると、無償化に必要な費用は、幼稚園、保育所、認定こども園で計7千億円、高校は全日制だけでも3千億円、国公私立大分が3兆1千億円で、計4兆円を超す。

捻出方法を巡って、自民党の文教族らが考えているのが「教育国債」だ。使途を教育に限り、財政法で発行が認められた建設国債の考え方を応用する。だが、これだと危機的水準にある国の借金はさらに膨らむ。親世代が負担を逃れ、次世代につけを回すだけだとの批判もある。

小泉進次郎衆院議員ら自民党の若手は「こども保険」を提言した。企業と労働者が保険料を負担して子育て世代に分配する。会社勤めなら、労使折半の厚生年金保険料率に将来的に1%を上乗せして1兆7千億円を確保する。これなら借金の膨張は抑えられるが、子どもがいない人、子育てを終えた世代に理解が得られるかが課題だろう。

消費税率を10%に上げる際にその一部を回す案もあるが、増税分を充てる予定の社会保障に支障が出かねない。

各党は、国民に受けが良いテーマと考えて踏み込んでいるように見受けられる。とはいえ、現実的な財源の裏付けをしっかりと示せなくては理解は広がるまい。

旧民主党政権では、高校授業料無償化が実施された。自民党はその際、選挙向けのばらまきだと批判してきただけに整合性が問われよう。

無償化は首相が改憲項目に挙げたほか、日本維新の会も改憲での実現を主張する。ただ、憲法に踏み込むまでもなく、一般の法律で可能だとの異論は多い。憲法は義務教育の無償制を定めるが、それ以外の教育の無償化を禁じているわけではないからだ。

国民の多くの賛同が得られそうなテーマで改憲の突破口を開こうというのなら筋違いだろう。いたずらに憲法論議とからめず、子どもがよりよく学べる環境づくりへ真摯(しんし)な議論を進めていくべきだ。

2017年5月11日木曜日

記事紹介|文科省によって歪められた大学や研究者のあり方を正常化する

前川喜平事務次官が引責辞任する事態に発展した、文部科学省の組織ぐるみの「天下り斡旋」。このような事態を招いた“温床”として、自民党行革推進本部長の河野太郎氏が問題視するのが、現役の文科省職員による国立大学への「現役出向」だ。理事だけで75名、役員・幹部職員全体で241名にのぼる「現役出向」の驚くべき実態を明らかにする。

文部科学省をめぐる「天下り斡旋」問題が、世間を騒がせています。

国会でも審議されたのは、吉田大輔元高等教育局長が早稲田大学に教授として再就職したケースです。文科省人事課が組織的に斡旋していたという、明らかに違法と認定できるケースでした。この問題で、前川喜平事務次官が引責辞任する事態に発展しました。

さらに2月21日には、文科省による全容解明調査の中間報告が発表されました。そこで、新たに17件の違法な天下りがあったことがわかりました。事務次官から人事課員まで16名もの文科省職員が関与する大規模な構図が明らかになったのです。

早大のケースを聞いたときから「1人だけのはずがない」と思っていましたが、まさかここまで堂々とやっているとは――。長年公務員制度改革や行政改革にかかわってきた私にも想像すらできませんでした。

「隠蔽マニュアル」「引継ぎ文書」の存在が明らかに

中間報告で明らかになった具体的な手口は、きわめて悪質でした。

筑波大学、上智大学などを舞台に、文科省OBを求める大学に文科省側がリストを提供したり、文科省人事課職員が再就職の条件を大学側と協議するなど、文科省が天下りを組織的にバックアップしていたのです。さらには、天下りの仲介役を務めていた文科省OB・嶋貫和男氏の存在も判明しました。文科省内では、彼の名前が表に出ないようにするための「隠蔽マニュアル」や「引き継ぎ文書」まで作っていたのです。

そもそも「天下り」とは、国家公務員を辞めた人間が、その省庁と関連する企業や公益法人、団体等に再就職することです。

その中で、国家公務員法で違法とされているのは、現役職員が同僚やOBの再就職を斡旋するケースや、現役職員自らが在職中に補助金や許認可などで関係のある企業・団体に求職活動するケースなどです。文科省をめぐっては、中間報告までに27件が違法と認定されました。

私は、2015年10月から昨年8月まで、国家公務員制度担当大臣を務めていました。当時のことで鮮明に覚えているのは、中央官庁の幹部たちに「いま天下りはどうなっているの? 斡旋はあるの?」と問い質したときのことです。彼らは一様に「それはもう違法ですからできません」と、堂々と答えていました。

ところが、それからときを置かずして、今回の事態が判明しました。残念なことですが、公務員制度担当大臣であった私は、明らかな「嘘」をつかれていたわけです。

文科省職員の1割以上が「現役出向」

私はいま、この「天下り斡旋」問題の温床ともいうべき、ひとつの慣例を問題視しています。

それは、国立大学への「現役出向」です。現役の文科省職員が、本来は独立したはずの全国の国立大学に出向という形で数多く“派遣”されているのです。

昨年来、私は現場の研究者との対話を続けてきました。その中では、現役出向に関して数多くの証言が寄せられました。そこで、自民党行革推進本部として文科省に事実関係を問い合わせたのです。その詳細が、次頁に掲載した表です。

驚くのはその数です。理事だけで75名、役員・幹部職員全体では、実に241名が計83大学に出向しています。北海道から沖縄まで、全国津々浦々の大学に文科省職員が出向している。その数は文科省職員の1割以上にあたります。

国立大学が「文科省の植民地」になっている

さらに問題なのは、出向先の大学で就いているポストです。

表を見ても分かる通り、理事や副学長、事務方のトップである事務局長、さらには財務部長、学務部長といった、大学運営の中枢を担う役職が目立ちます。表の冒頭にある北海道大をみても「理事(兼)事務局長」「学務部長」「総務企画部人事課長」「財務部主計課長」などの要職を文科省からの出向者が占めています。旧帝大を中心とした大規模の大学は出向者数も多く、最多の東京大、千葉大は10名ずつ受け入れている。

彼らが主要なポストを担っている全国の国立大学は、いわば「文科省の植民地」ともいえる状態なのです。

そもそも国立大学は、文科省の内部組織でした。それを大学の自由裁量を増やし、独立性を高めることを目的に、2004年に「国立大学法人」に衣替えしました。学長の権限を強めて、民間組織のようにトップダウンで変化できる体制を目指したのです。ところが実態としては、文科省による強固な国立大学支配が続いているのです。

国立大学への現役出向者(役員・幹部職員)ならびに運営費交付金

※「現役出向者数」「役職」は2017年1月1日現在のデータ。
※運営費交付金は、平成29年度予算案の各目明細書より見込額を抜粋、四捨五入した。



60件以上もの違反事例が発覚した、文部科学省をめぐる「天下り斡旋」問題。自民党行革推進本部長・河野太郎氏は、現役の文科省職員による国立大学への「現役出向」が、「天下り斡旋」の温床となっていると指摘(第1回参照)、241名が計83大学に出向していた実態を明らかにした。2004年に「国立大学法人」に衣替えし、独立したはずの国立大学が文科省からの出向を受け入れる理由とは――。

「大学の自治」を逆手に

なぜ独立したはずの国立大学は、文科省の出向を受け入れるのでしょうか。

文科省は、「各大学の学長からの要請に基づいて送っています」という説明を貫いています。国会でも、文科省は同様の答弁をしています。

大学側に人材を求められて派遣している――「大学の自治」を逆手にとった建前論です。昨日今日に独立した組織ならば人材不足という事態も想定できます。しかし、各国立大学法人は発足して10年以上が経過しています。それでもなお「事務局長になる人材が内部にいません」と言うのであれば、育成できなかった学長の職務怠慢以外のなにものでもありません。

文科省からの現役出向を受け入れる本当の理由は、私は「お金」だと考えています。

国立大学には、年間1兆円を超える「運営費交付金」が国費から投入されています。各大学の収入の3割から4割を占める、この運営費交付金を配分するのは、相変わらず文科省です。

運営費交付金は各大学が自由に使途を決められる安定的な補助金です。文科省に設置された「国立大学法人評価委員会」が各大学の中期目標を評価し、その評価が交付金に反映されます。2016年度からは大学間でさらに競わせようと、運営費交付金の約1%にあたる100億円程度を、各大学が定めた改革の実行状況に応じて、配分し始めたのです。

私は、複数の大学教授から直接、「文科省から来ている人が大学にいると、情報が早いから補助金を取りやすい」という話を聞いています。つまり「補助金を配分する評価基準」という情報を持っているのは文科省です。それを早く耳にすることができれば、大学側も迅速に対応することができるわけです。

今日、教育分野での競争的資金が増え続けています。その結果、本省との橋渡しができて、また情報を持っている文科省官僚の価値が高まってしまったのです。

事実上の天下り支援制度

教育現場を文科省の支配下に置きたい――その意識は、現役出向の問題でも、天下り斡旋の問題でも共通しています。

実際に「現役出向」と「天下り」がリンクしていることも明らかになりました。

東京新聞の報道によれば、2008年末から昨年9月末までの間に、文科省から大学などへ現役出向した管理職経験者26人が、現役出向から文科省に復職した当日に文科省を退職。翌日に大学などに再就職していたのです。うち4人は出向先の大学にそのまま天下っていた。つまり、「現役出向」という名で事実上の天下りが行われていたのです。

かつては、文科省以外でも同じようなケースが続発していました。霞が関の「官民人事交流制度」の悪用です。若手官僚に民間企業での経験を積ませることが狙いだったこの制度。実際調べてみると定年間際の50代が民間企業に出向しているケースが多かったのです。そして、今回の報道と同じように一旦官庁に戻ってきて、即日退職して出向先に再就職する。民間への出向が役所ぐるみの天下り支援制度になっていました。

20代、30代の職員はスキルを磨くために積極的に外に出るべきですが、50代は明確な必然性がなければ認めないルール変更を自民党の行革推進本部の提案で実現しました。しかし、国立大学への現役出向からの直接再就職に関しては、ルールが徹底されておらず、温存されてきたのでしょう。

学会で看板と「記念撮影」

現役出向者や文科省からの天下りOBが大挙して国立大学に押し寄せている割には、彼らが「本省との橋渡し」以上の役に立ったという話は聞きません。

現役出向している事務方の幹部が活躍しているおかげで国立大学の研究環境は向上しているとか、文科省とのパイプを生かして、現場の問題点を吸い上げて業務を効率化したなどという事例は、私の知る限り皆無です。

むしろ、文科省からきた事務方の指導の下、補助金を差配する文科省の顔色を窺っている大学事務局の話ばかり耳にします。現役出向している大学職員の多くは、研究者や学生の方を向いて仕事をしているとは思えません。文科省や会計検査院から指摘を受けないように、どんどん自主規制を進めています。

その結果生まれるのが、実にバカバカしい“ローカルルール”です。

例えば、購買分野。研究に必要な海外の専門書を研究費で購入する場合、インターネットで注文すれば数日で届きます。しかし、ある大学では「大学の指定業者を通して買いなさい」と指示してくるといいます。すると届くまでに1カ月かかる。文具にしても、隣のコンビニなら500円で買えるものが、指定業者を通すと2週間後に1000円の請求がくる。どれも法律や政令で決められているわけではありません。あくまで管理を強めたい大学の事務方が、自主的に定めた非合理的なルールです。

学会への出張に関しては、とりわけ細かい規則の宝庫です。大学ごとに「始発で間に合う場合には、前泊は認められない」「特急列車を利用した場合は、改札で無効印を押してもらった特急券を提出すること」などと定められています。

もっとも厳しいのは、過去にカラ出張による研究費不正請求があった東京工業大学。学会に参加したことを証明するために「隣に座った人と一緒に写真を撮る」、もしくは「学会の看板の前で写真を撮る」ことが義務付けられているそうです。この子どもじみた特異なルールは学会では有名で、最近は隣席の人に写真撮影をお願いしても、「あ、東工大の先生ですね」と応じてくれるのだとか。

こうしたローカルルールや研究環境の効率化についての情報提供を求めたところ、研究者から山のようにメールが届きました。とにかくフラストレーションが溜まっているのです。文科省とやりとりしていても、こうした現場の声は入ってきません。


241名、計83大学の文部科学省職員の国立大学への「現役出向」の実態を明らかにした(第1回参照)自民党行革推進本部長の河野太郎氏は、「現役出向」が事実上の天下り支援制度と化し、教育行政に負の側面をもたらしていると指摘する(第2回参照)。「文科省不要論」を唱える河野氏がこれからの教育行政の在り方を提言する。

文科省不要論

私は、これまで「文科省不要論」を唱えてきました。昨今の惨憺たる有様を見るにつけて、その考えをより強くしています。

文部科学省は、解体して国の教育行政をスリム化すべきです。初等中等教育は、財源とともに地方自治体へ移行させる。また、高校についても、都道府県に委譲する。大学については、国が管轄するしかありませんが、文科省からの現役出向は禁じて、本当に必要ならば出向ではなく「転籍」させる。現在のように、文科省にお伺いを立てなければならないようなシステムは壊し、国立大学法人化したときに目指した原点に立ち返るべきです。

科学技術行政についても、文科省が足を引っ張っています。私は、科学技術政策は文科省から引きはがし、官邸主導の国家戦略とすべき分野だと考えています。すでに、省庁の垣根を超えた司令塔となるべき内閣府の総合科学技術・イノベーション会議があります。

文科省は「ナショナル・プロジェクト」と銘打って新しい予算をどんどん獲得しようとしています。ときに文科省が「こういう方向性の研究が大事だ」などと力説しますが、それは文科省が判断すべき事項なのでしょうか。また、文科省にその能力があるのでしょうか。例えば、高速増殖炉の原型炉「もんじゅ」に、毎年200億円を垂れ流し続けてきた責任官庁は、まぎれもない文科省です。

科学研究費補助金(科研費)に象徴される競争的資金の本質は、研究者自身が「こういう研究をやりたい」と計画を立てる点にあります。

今日、一部の研究者の間でも誤解されていますが、我が国の科学技術研究予算の総額は決して減っていません。むしろ、科学技術振興費は平成元年比で3倍以上に増加しており、これは社会保障費の伸び率より高くなっています。科学技術立国を目指して予算を配分してきた結果です。「日本は基礎研究の予算を削っている」という指摘も俗説にすぎません。つまり、文科省は研究者に誤解されるようなお金の使い方しかできていないのです。

基礎研究はプロジェクトを1000件やって発見が一つあるかどうか。そこには継続的に予算を投入する必要があります。

研究とは関係のない無駄な書類記入のような非生産的な作業を増やしている間に、日本の大学や研究機関の国際競争力はどんどん低下しています。

文科省によって歪められた大学や研究者のあり方を正常化するに当たっては、まずは効率的な研究環境を整備する必要があります。

研究者が使う競争的資金のルールを統一

自民党の行革推進本部が再三申し入れを行った結果、動き出したこともあります。

研究者が使う競争的資金は、文科省だけではなく各省庁が予算を持っていますが、すべてルールが違いました。書類の提出期限、出納整理期間、消耗品を買っていいかどうか、そしてもちろん書式も省庁ごとにバラバラでした。提出する研究者からすれば、そのたびに書類も作成し、ルールを把握しなくてはいけませんでした。

そこで大学を管轄する文科省を呼び出して統一を迫りましたが、「他省庁については、うちからは言えません」。そこで内閣府の担当者を問い質しても「統一を図ろうと思って3年やっていますが失敗しています」。

まったく埒が明かないので、全省庁の競争的資金担当者を行革推進本部に呼び出しました。そして、私から「来週までに統一ルールを決めなければ、こちらで決めたルールに従ってもらう」と告げました。すると、翌週にはキチンと案が出てきました。2015年度の募集から、各省の競争的資金は統一ルールで運用されています。そうやって一歩一歩、変えていくしかありません。

バッシングで終わらせない

今回明らかになった天下り斡旋を防ぐためには、退職後2年間は関係団体に再就職してはいけないという外形的な行為規制をもう一度、きちんと導入するべきです。

違反者に対するペナルティは、民主党政権時代に「懲戒処分だけ」と決まりましたが、役所を辞める人間への抑止力にはなりません。刑事罰を盛り込むべきでしょう。

唯一の救いは、早稲田大学のケースが再就職等監視委員会の調査によって明らかになったことです。同委員会が一応、機能していることが分かりました。

監視委員会の調査に対して、文科省と早稲田大学は当初口裏を合わせていましたが、微妙な矛盾点を突っ込んでいったら、早稲田側が「申し訳ありません」と折れてしまったといいます。早稲田側も、天下りを押し付けられて内心では困っていたから、「これ幸い」とばかりに厄介払いをしたのかもしれません。ただ、文科省との関係がより深い国立大学のケースでは、そう簡単に進むとは思えません。

再就職等監視委員会には常勤監察官が実は1人しかいません。継続的な調査を行うためには、政令改正でできる監察官の増員を図るべきだと思います。

私がいま懸念しているのは、いたずらに霞が関バッシングが盛り上がることです。

もちろん法律違反は論外です。しかし、「天下り」が必要とされてしまう、霞が関の人事の仕組みを改革する必要があります。

年功序列を維持し、ピラミッド型の組織を守るために、定年前の肩叩き、天下りが行われてきました。定年まで本省で働けるのはほんの一部、40代、50代で肩叩きにあって役所から放り出され再就職をすべて禁止されれば、食うにも困ってしまいます。

天下り規制の強化を受けて、2008年、国家公務員の再就職を一元化して支援する内閣府の「官民人材交流センター」が設置されています。しかし、民主党政権下で制度変更されて、利用できるのは、組織がなくなった場合と早期退職制度に応募したときに限られ、自主的な退職や定年退職では利用できなくなりました。その結果、ほとんど利用された実績がありません。

人材の流動化を

いまの霞が関のシステムを放置したまま、天下りだけをやみくもに厳しく取り締まれば、優秀な人材が霞が関に集まらなくなり、行政機関の能力低下を招いてしまいます。

ですから、きちんとキャリアパスを提示して、官僚のモラルを向上させることが、私たち政治家の役割です。

クリントン政権下の1993年から97年までアメリカ軍統合参謀本部議長を務めたジョン・シャリカシュヴィリという人物がいます。彼は、一兵卒として陸軍に入りましたが、入隊後に「士官学校に行ってみろ」と勧められて士官になり、大将になり、最終的には米軍全体のトップにまで上り詰めました。

ところが、22歳の試験でキャリア、ノンキャリアが一生区別される日本の国家公務員には、そんなキャリアパスは絶対にありえません。おかしな話です。

今後は、どんどん霞が関の人材の流動化を図るべきです。キャリア、ノンキャリアの区別なく採用し、能力主義で登用する、霞が関の門戸を開放して優秀な民間の人材に各省庁に転籍してきてもらう、もちろん、年功序列も廃止します。例えば、局長以上の幹部職員を政治任用にして、それ以外の職員は定年前の肩叩きを受けない終身雇用にするのも一つの手です。

今回の事件を奇貨として、文科省だけの問題で終わらせず、霞が関のキャリアシステムを大幅に見直すべきだと考えています。

文科省国立大「現役出向」241人リスト 問題は天下りだけではない。これが“植民地化”の実態だ|文藝春秋2017年4月号・全3回

2017年4月30日日曜日

経済財政諮問会議:人材投資と文教施策の在り方

経済財政諮問会議(4月25日開催)において、人材投資と文教施策の在り方についての議論が行われています。議事要旨から抜粋してご紹介します。

<新原内閣府政策統括官>

資料1をご覧いただきたい。

1ページ、ダボス会議のデータであるが、左側にあるとおり、日本の国際競争力は8位で、分解すると、インフラや初等教育の順位は5位であり、右側にあるとおり、高等教育システムの質については37位と評価が非常に低くなっている。これは経営者に対する大量アンケートに基づく順位なので、実社会からの評価が良くないことが反映されていると思われる。同じく2ページの人的資本の指標を見ても、健康、労働・雇用、制度・インフラ等環境に比べ、教育は28位と低くなっている。

他方、3ページ、民間企業の教育訓練支出は1991年をピークに減少傾向にあり、4ページ、特に従業員の少ない小企業ほど人材育成に余裕がない状況にある。5ページ、従業員自身も8割近くの人が、自分の能力開発に問題があると認識している。

以上のように、教育は会社で行うから高等教育に期待しない、といった考え方は通用しなくなってきており、就業に結びつく、役に立つ高等教育への期待が高まっている。

その一方、6ページ、25歳以上の大学入学者は、OECD平均が16.8%に対し、我が国では2.5%しかおらず、再チャレンジがしにくい構造となっている。

8ページ以下は、上位大学の研究能力についてである。アジア域内で見ると、2014年までは上位100校にランキングされている数は22校と1位で、トップの東大のランキングも1位であった。しかし、直近の2017年は中国、韓国に抜かれており、これは9ページを見ていただくと、シンガポール国立大学、北京大学、清華大学といったアジアの大学の質が大学改革で改善したことが影響している。

<伊藤議員>(学習院大学国際社会科学部教授)

資料2-1を使って説明させていただきたい。資料2-2が関連する資料である。今回は大学の改革に関して、アクセスの機会の均等あるいは教育の質の向上、大学改革等をお話させていただきたい。

最初に「1.高等教育へのアクセスの機会均等」が極めて重要で、データを見ると、所得水準と大学進学率あるいは自治体レベルでも財政力と教育行政サービス水準の間に強い相関が見られているということで、意欲と能力のある学生に対する機会均等が求められる。1つには、貧しくても高等教育を受けられるよう、居住地や所得などに関わらず高等教育へのアクセスが確保される制度を整備していくことが重要だ。もう一点、第二子以降の高等教育段階の教育負担のデータを見ると、子どもの数、少子化にも影響を及ぼしている可能性があるということで、第二子以降への教育費負担減免は特に効果的・効率的に充実すべきである。

「2.教育の質の向上」で、教育の質を高めることは言うまでもないが、現状では大学の中だけの教育だが、いわゆるリカレント教育の充実が今強く言われている。最初のポツにあるように、自治体や地元産業界を含めた官民連携のプラットフォームを立ち上げて、その中でリカレント教育の充実に向けた調整あるいは新しい仕組みを構築することが必要である。もう一点、教育の質を上げるための当事者である大学に対するインセンティブということで、現状では私学助成は教職員数や学生数等で配分される数字が決まるが、もう少し踏み込んで、教育の成果、アウトカムを反映した大胆な傾斜配分を行う仕組みが必要であると考えている。大学も、学生の教育の成果あるいは卒業後の生活の質等を把握・公表して、大学が提供した教育の質について説明責任を果たすことが重要だ。

「3.大学改革」について、2018年以降18歳人口が減り始めて、2040年までには3割減少する。地方によっては半分にまで減少するところもあるわけで、相当大胆な踏み込んだ行動調整が必要だと思う。そういう中で3点資料に書いているが、1つは人材面・資金面の話で、クロスアポイントの拡大や外部人材の更なる登用を進めることによって大学の質を確保するということ。大学の財政運営に関わる寄附の促進や保有資産の有効活用あるいは出資機能の強化についていろいろ課題があると思うので、これについても洗い出し、しっかり対応することが必要だ。ガバナンスについては、安倍内閣の中でもコーポレートガバナンス等いろいろな形で当事者にいかにしっかりやってもらうか取組が進んでいるが、大学のガバナンスについても、学長の選出の方法や補佐の体制等に関して、しっかりと検証し改革していく。組織再編については、人数、子どもの数がどんどん減っていく中で、残念ながら日本の多くの大学は小規模であるわけで、スケールメリットを生かすためにも、現在の大学の組織の在り方を少し見直していく必要があるのではないか。特に設置者、国公私立の枠を越えた経営統合や再編が可能となる枠組みを構築するいわゆる一大学一法人制度の見直しを真剣に考えていくべきだろう。ここは重要な点になるわけだが、これから18歳の人口が減っていく中で当然経営困難な大学がたくさん出てくると思うが、ここはどういう形で円滑に撤退あるいは事業承継できる仕組みを作るのかということが早急に問われると思う。

最後の3ページに地域人材の育成の話が書いてあり、都道府県が中心となって、関係する大学や公設試験研究機関、地域の高校、地元企業と連携する仕組みをしっかりと作る場を設置すべきである。東京への大学・学部の移転が行き過ぎるかどうかという議論が当然出てくると思うが、基本的に人数が減っていくわけだから、東京の大学・学部についてはいわゆるスクラップ・アンド・ビルドを前提に、要するに、より必要なところに資源を集中する形のものが必要である。

<松野臨時議員>(文部科学大臣)

配付資料2の1ページをご覧いただきたい。今後のイノベーションを創出し、生産性を向上させるためには、一人一人の能力の高度化が不可欠であり、このための教育投資が重要である。具体的には、教育の質の向上と幼児期から高等教育段階までの切れ目のない教育費負担軽減を両輪として加速することが必要だ。

2ページをご覧いただきたい。教育の中でも、イノベーション創出と人材育成の中核として特に重要な役割を担うべき高等教育について、「システム改革」「教育研究の質の向上」「アクセス格差の是正」を3つの柱とする一体改革に取り組む。そのため、2040年を見据えた将来ビジョンの策定が急務と考える。

3ページをご覧いただきたい。今後、18歳人口は大きく減少する。特に、小規模大学が多い地方では、経営悪化により教育機会の確保が困難になるおそれがある。全国で、特色ある「足腰の強い」大学づくりに向けたシステム改革を早急に進めなければならない。国公私立の枠を超えた連携・統合、経営力の強化、大学と自治体や産業界との連携強化等に取り組むとともに、改革が進まない場合の円滑な撤退手続について検討する。

また、地方創生に向けて、地方大学の教育研究の水準の向上や特色ある取組の支援など、地方大学の振興にしっかりと取り組む。東京23区の大学の新増設抑制については、国際競争力や教育研究の質など、教育政策の観点も含めた総合的な検討が重要だと考えており、山本まち・ひと・しごと創生担当大臣ともしっかり連携しながら進めていく。

4ページをご覧いただきたい。イノベーション創出に向けた国際競争力の激化の中で、論文生産の伸び悩みなど、我が国の教育研究力は危機に瀕している。教育の質向上と実践的教育の強化や、社会人・女性の学び直し支援策に取り組む。あわせて、オープンイノベーション創出などの取組を推進する。

5ページをご覧いただきたい。大学の授業料が高額化していることも踏まえ、家庭の所得による進学格差を解消し、少子化を食い止めるためには、高等教育段階の教育費負担軽減が不可欠だ。給付型奨学金の充実や授業料減免の拡充等にしっかりと取り組み、高等教育へのアクセス格差を是正する必要がある。

これまでの取組を更に加速するとともに、少子化や第四次産業革命といった新たな時代に対応すべく、より踏み込んで改革に取り組む。

<山本(幸)臨時議員>(まち・ひと・しごと創生担当大臣)

配付資料3をご覧いただきたい。
平成29年度は、まち・ひと・しごと創生総合戦略の中間年であり、「人材への投資を通じて経済社会の生産性を上げる」との骨太方針2017を貫く基本的考え方等に沿って、地方創生の新展開を図っていく。

次に2ページについて。地方大学の振興のため、地方大学は「特色」を出した大学へ改革すべき、との問題意識から、首長の強いリーダーシップの下、産官学が連携して「本気度」をもって取り組む優れたプロジェクトを、数を絞って選定の上、支援していく。

また、人口が過度に集中する東京は、出生率も全国最低であり、「市場の失敗」だと言え、行政介入の余地がある。学生の過度な東京への集中は、地方大学の経営悪化や、東京周縁で大学が撤退した地域の衰退が懸念されるため、東京23区の大学の学部・学科の新増設を抑制するとともに、地方へのサテライトキャンパスを推進していく必要がある。

さらに、若者雇用の創出のため、国・地方としても取り組んでいく。

<高市議員>(総務大臣)

資料2-1の3ページ、特に地域人材の育成という点について申し上げる。
地方からの人口流出は、「大学進学時」と「卒業後」の2つの時点において顕著である。総務省では、平成27年度から、文部科学省と連携して、地方公共団体と、国公私立を問わず地方大学が、具体的な数値目標を掲げた協定を締結し連携して行う雇用創出と若者定着の取組、地方公共団体が地元企業に就職した学生の奨学金返還を支援するための基金を造成する取組の実施に要する経費に対して、特別交付税措置を講じている。

また、学習指導要領に盛り込まれることに先立ち、プログラミング教育も進めてきたが、各地で大変良い成果が上がっている。特に教材と教える人材が課題だが、クラウド上の教材などの活用も含めて、良い成果が出つつある。

<世耕議員>(経済産業大臣)

人生100年時代に対応しながら、第四次産業革命を経済成長につなげるためには、産業界や働く人のニーズを踏まえた、社会人の学び直しを設計することが重要である。第四次産業革命は、製造業とITの合流ということで、コネクテッド・インダストリーズを構想している。その観点からは、セキュリティ・データサイエンティスト・AIなど、IT企業以外の分野も含めてIT人材のニーズが高まっており、対策が喫緊の課題である。

その皮切りとして、今般、産業ニーズに近い立場から、経済産業省において、厚生労働省と連携して、ミドル層がIT・データ等のスキルを身につけられるよう、民間事業者や大学等が提供する社会人向けの教育訓練講座を認定する、「第四次産業革命スキル習得講座認定制度(仮称)」を創設することにした。これらを含め、政府を挙げて、ニーズに合った「生涯の学び直し」を強力に推進していきたい。

また、大学については、産業界や社会のニーズに合った教育の質の向上を図るガバナンス改革とセットで行うことが不可欠だ。加えて、大学経営に携わった立場から申し上げると、学校会計というのは本当にわかりにくい。今年の経営状況がわからない。合併しようと思っても相手の価値が全く読み取れない。学校会計を普通の企業会計と同じ土俵にすることが、ガバナンス改革や合併・撤退の促進にもつながっていくのではないか。

<塩崎臨時議員>(厚生労働大臣)

前々回、大学改革がいかに日本の将来にとって大事かということを申し上げたが、とりわけガバナンス改革について、学長選挙の規定の見直し並びに学長等による学部長の任命が重要である。大学としてのガバナンスがきちんとできるためには、選挙をやめて、学長が学部長を任命することができなければならない。それもこれもリソース・アロケーション、これから行く方向はほとんどみんな共有しているわけであるが、それが動かないのはガバナンスに問題がある。松野大臣がお配りをいただいている資料にも、ガバナンス改革の中で学校教育法及び国立大学法人法の改正が挙げられているが、学校教育法第93条によって教授会の位置づけが変わったことを、ぜひ内規を変えることで徹底して、リソース・アロケーションが未来志向でいけるようにしていただきたい。

<麻生議員>(副総理兼財務大臣)

意欲と能力のある若者の教育機会の均等確保は、間違いなく最も重要な課題である。他方で、内閣府の資料で示されている通り、高等教育を受けた人は、それを受けなかった人、高卒の人に比べて、生涯獲得賃金で見ると6,000万円から7,000万円違うということであれば、高卒で働き、税を納める人たちの公平感を損なうことがないようにするという点も、頭に入れておいていただかなければいけない。

次に、18歳人口が減っている中、私立大学の約半数、44.5%は、今、学生が定員まで集まっていない。つまり、学生のニーズに応えられない大学が相当の数あることになる。そうすると、当然のこととして、質を上げろ、大学の改革が急務、といったことが言われるが、どうやってそれを測定するのか、これは容易にできる話ではない。これは昔から言われている話であり、大学改革が中々進まない最大の理由である。大学の質に関する見方について、あくまで一例だが、いわゆる私立大学の奨学金を出しているが、奨学金の延滞率と定員充足率には相関が見られる。ただ、芸術学部などについては、一概に言うわけにはいかないことはよくわかっているが、そういった点も頭に入れて、きちんと整理しないといけないのではないか。

<松野臨時議員>(文部科学大臣)

現在、国立大学の約半数は、既に意向投票を実施しない、もしくは意向投票の結果と異なる形で学長が選ばれている状況にあるが、大学のガバナンスの問題が大学改革に直結するという意識は持っているので、学長を中心とした大学の経営意思決定の在り方については、更に突っ込んで提言していきたい。

世耕大臣からお話をいただいた学校の財務上の問題、透明性が確保されていないということは、重大な問題だと考えているので、どういった方式がとれるか検討させていただきたい。

<高橋議員>(株式会社日本総合研究所理事長)

松野大臣の御説明を伺い、大学改革の基本的な方向性は同じだと感じた。ただ、教育改革については、これまでもエビデンスベースのPDCAが欠如していたことが問題である。したがって、大学のガバナンスなども含めて、具体的に数値的な目標を明確化していただいて、効果の高い政策を実行することが必要である。例えば、私学助成のどの程度の割合を教育成果で配分するか、あるいは経営のガバナンスの強化に当たって外部人材をどのぐらい入れるか、そういった数値目標をぜひ掲げていただきたい。

それから、今まで議論が出ていないことを追加で申し上げたい。資料2-2をご覧いただきたい。

2ページの図表3をご覧いただきたい。問題として申し上げたいのは、私立高校の無償化について、各県はそれぞれ年収の上限を設定しているわけだが、東京都は760万円で、隣の神奈川県は250万円ということで、非常に大きな差がある。この場合、横浜に住んでいて東京の学校に通っている家庭は、760万円の対象にならない。

いわば教育行政サービスの格差について、文科大臣はどうお考えになるのかということを、ぜひお聞きしたい。

もう一点、5ページの図表10をご覧いただきたい。先ほど東京に学生が集中することの問題点が指摘されたが、一方で、これは1大学当たりの在学者数が非常に少ない県について見たものである。固有名詞は良くないと思うが、例えば、一番右側の北海道は、学生数は非常に少ないが大学の数が37ある一方で、これから学生数が大幅に減っていくと見込まれているわけである。そういう意味では、東京問題もある一方で地方問題もあり、こういう地域については、地域ベースで大学の再編というものが必要なのではないか。その辺についてもお考えをお聞かせいただきたい。

<新浪議員>(サントリーホールディングス株式会社代表取締役社長)

地方大学は大変重要だと思うが、特色を出していくのであれば、旧帝大以外の国立大学はすべて県立大学でも良いのではないか。山本大臣が発言されたように、地方大学は地方創生に大変重要な要素がある。国がやると、どうしても標準化されてしまう。都道府県のメッシュはそれなりに大きいとは思うが、地域に密着し、標準化ではなく差別化を目指すことが、非常に重要なのではないか。観光や農業など、まだまだ雇用が生み出せる。地域で活躍する人材作りをもっと真剣に考えるためにも、旧帝大以外の国立大は全て県立にしていくべきではないか。

また、既にある県立大学については、県内に複数ある場合は統合すべきではないか。私立大学についても同じで、これは国公立大学だけの問題ではない。

そして、地方の産業を、産官学で一緒に地域に密着して振興することも必要である。例えば、ある県では麺類が県民食で、さらに糖尿病患者も多いが、そういった県では、県内の医学部が糖尿病の徹底的な研究をする、または糖質をとらないような小麦粉を開発する等の取組を推進してはどうか。

そして、人生100年になっていくので、一般の学生数は減らして、ぜひともリカレント教育の枠を増やし、地方の県立大学に入れるようにしていくべきである。

もう一つは、ガバナンスの件だが、産業界が国際的な人材を採用する際になぜGPAを使わないかというと、GPAと思考力が全くマッチしていないからである。

高校までは暗記も大変重要だと思うが、大学に入ったら、暗記だけではなくて、考える力を引き出さなければいけない。国際的に通用するためには、答えのないものをどう考えていくかという力を大学で身に着けるべき。マイケル・サンデル氏のような教授が日本にいるか。生徒にソクラテス式問答法で教えられる教授がいるのか。こういった教授が本当に必要である。

マイケル・ポーター教授を始めとして、教えることも大変重要である。生徒が勉強する気がないから教えようがない、とよく言われるが、そうではなく、おもしろければ、勉強するというよりも、非常に前向きに取り組むのではないか。そのためには、ガバナンスの1つとして、学生に教授を評価させる仕組みも検討すべきではないか。

<松野臨時議員>(文部科学大臣)

様々なアウトカムによって私学助成等の変更をという御指摘に関して、1点問題なのは、例えば定員の充足率であるとか、就職、学業、研究等のアウトカムが低い大学は地方の小規模大学という現実があり、例えば地方に多く学生をということであっても、地方の国立大学は定員超過の状況であって、私学を進めていくしかないわけであり、そのときに地方私学小規模校の充実がテーマになっていくのだろうと考えている。

また、リカレント教育は、今後、少子化の中で日本が高等教育を維持して発展させていくには必要不可欠な要素であるが、いつも省内でも議論になり最大のネックとなっているのが、日本の企業は欧米のように学位を評価しない傾向があり、例えば修士号や博士号を取ると企業に帰ってそれなりの待遇やポジションに直結するということであれば、リカレントにいそしむ動機があるが、今の日本の評価方式でいうとリカレント教育になかなか結びつかないという根本的な問題もあるので、様々なお知恵をいただければと思う。

高校の無償化の問題は、国として全体のミニマムをどう支えていくかということに現状はなっており、各地方の財政力の差であるとか、首長の教育に対する思考の問題で差が出ているというのが事実だと思う。この問題は、文部科学省の範疇だけで解決ができない部分もあるので、総務省を始め総合的にしっかりと議論を進める必要があると考えている。

<安倍議長>(内閣総理大臣)

本日は、第一に、人材投資と文教分野の在り方について議論した。

人材への投資や教育の質の向上は、労働生産性を上げ、成長と分配の好循環を加速させる上で重要である。

民間議員からも大学改革を中心に意見をいただいた。

関係大臣におかれては、民間議員の意見も踏まえ、議論を深めていただきたい。

未来投資会議:イノベーションエコシステムの構築

少し前になりますが、政府の「未来投資会議」(3月24日開催)において、「イノベーションのエコシステム構築」について議論が行われていますので、議事概要から抜粋してご紹介します。

<五神議員>(東京大学総長)

今後、本格的なデータ活用、いわゆるスマート化によって世界経済や産業の構造は大きく変化する。産業においていわばゲームチェンジが起こるわけである。そこで我が国がどう勝ち抜くかという観点で、すぐできること、やるべきことについて検討した。これから向かう知識集約型社会においては、人口減少は経済成長にとって、もはや脅威ではなくなる可能性がある。今持っているストックを活かして、下段に書いてあるような人、知識、インフラの3つで強みを持てるかどうかが勝負の鍵となる。

これまで産業構造は労働集約型から資本集約型へ移行してきたが、今後、知識集約型への移行を加速させるために、先行投資を行うべき領域は3つある。1つ目は潜在能力の高い中堅・シニア人材の活性化。2つ目は、研究投資。国際求心力としての基礎科学研究力の維持、そして、超スマート社会に必須であって、かつ我が国が強みを発揮し得る技術群。

現在、世界では本格的IoT化の動きの中で史上最高の半導体投資ブームが到来している。日本にはストックがたくさんあるが、それが活用できるかどうかが今の勝負どころになっていると思う。3つ目として、非常に重要だと思っているのは、セキュアで超高速のネットワークとデータプラットフォーム。これはビッグデータを使うときに必須になる基盤。大学などを活用してインフラを整備し、それを民間開放するべきだと考えている。地方創生との関係でも、各地の大学キャンパス周辺に知識集約型の産業集積拠点を作るという点で、大学の活用の仕方があると思っている。

3ページは、こうした先行投資が進みつつある、東京大学の「つくば-柏-本郷イノベーションコリドー」の状況を示したもの。経済産業省と文部科学省との連携で進めている。前回この会議で議論になった大学資産の活用についても、先行的な取組を進めているところである。

知識集約型産業への移行に関しては、知とその活用の主軸となる人材ネットワークを持っている大学を活用すべきと考えている。もちろんそのためには大学改革を一層加速せねばならない。特に大学の投資価値を高めるための「プロデュース機能」の強化がポイントとなる。そして、大学の経営基盤の強化が重要。その点については資料の右下に「大学資産の有効活用」「評価性資産による収入確保」「イノベーションの成果の大学への還流」として整理した。この3点での制度改革を迅速に進めるべきと考えている。

最後に、未来への投資として私の立場から強調したいのは、やはり若手支援である。特に大学院強化や若手ポストの確保などが大学セクターでは非常に重要な課題。若者が研究する人生に夢を持てるような環境整備が必要。

(資料)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai6/siryou5.pdf

<松野文部科学大臣>

大学・研究開発法人こそがイノベーションの源泉であり、知識集約型経済社会を構築する鍵となる。このため、基盤的経費をしっかり確保した上で、意欲ある取り組みを妨げる課題を打破していく。具体的には、第1に、平等主義から脱却して、意欲ある組織や人材を伸ばすよう、スピード感を持って産学官連携体制を抜本的に強化する。このため、共同研究を集中管理し大型投資を呼び込む「オープンイノベーション機構」の整備や起業志望学生の海外武者修行支援などに取り組む。第2に、イノベーション力強化に不可欠な基礎科学力を強化する。このため、世界最高水準の基礎研究を実現する国際研究拠点の構築、人材育成、研究情報基盤の整備に取り組む。また、ベンチャーへの出資や新株予約権の取得の拡大等により、大学等が改革に必要な資金を自ら獲得できる環境を整備していく。

(資料)



http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai6/siryou6.pdf

<鶴保IT政策担当大臣兼内閣府特命担当大臣(科学技術政策)>

昨年12月、経済財政諮問会議との合同委員会で、科学技術イノベーションの活性化に向けた官民投資拡大イニシアティブを取りまとめさせていただいたが、その具体化の取り組みを進めさせていただいている。

予算編成プロセス改革では、官民投資拡大に向け、各省庁の取り組みに対し、内閣府が追加的に事業費を拠出できる制度を設けることとし、現在、そのターゲット領域の検討を行っているところ。制度改革アクションとして、国立大学へ土地や株などの評価性資産を寄附する際の譲渡所得を非課税とする要件の緩和、公共調達の活用等による中小・ベンチャー企業の育成や強化、技術ニーズとシーズのマッチングを推進し、各事業間の横断的な連携・交流を促進する科学技術イノベーションマッチングフォーラム、仮称だが、「サイエンスIMF」と名づけてこれを立ち上げたい。この検討をしている。

さらに、科学技術イノベーションの発展には、先ほど来、お話があるとおり、データの利活用は不可欠。来週、官民データ活用推進戦略会議を設置する予定。先ほど御説明があった農業分野のデータプラットフォームは、これまで取り組んできた標準化をベースとするものであり、今後、農業分野の他、医療・健康・観光分野等を含め、分野横断的な官民データの活用に、関係府省と連携して積極的に取り組んでまいりたい。

以上の取り組みを加速し、官民がともに成長のエンジンを最大限にふかし、科学技術イノベーションによる成長戦略の具体化を強力に推進していきたい。

(資料)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai6/siryou7.pdf

<松村経済産業副大臣>

イノベーション創出について、産学官連携を推進するため、柏にグローバル拠点を整備するなど取り組んできた。一層の加速を図るため、来年度より、文科省と連携し、共同研究による特許数などのデータを積極的に公表し、各大学の産学連携の状況を客観的に見える化していく。産業界におかれては、是非大学の優れた取り組みを評価していただき、積極的な投資をしていただけるよう、お願いいたしたい。加えて、特に産学連携の体制が弱い地方大学に対しては、先進的な技術移転機関などが契約や事業化のノウハウの伝授を行っていく。さらに、世界のトップ人材獲得に向け、日本版高度外国人材グリーンカードの創設など、我が国の極めてオープンな入管制度や生活環境の改善を海外へPRし、さらなる対応や受け入れ目標を具体化していきたい。

<南場議員>(株式会社ディー・エヌ・エー取締役会長)

イノベーションエコシステムについて、こちらに関しては大学の改革が不可欠だと思う。日本は人材が最大の資産であるにも関わらず、大学の競争力は相対的に高くない。そして、運営資金にも汲々としている状態。私は、大学はもっと開かれるべきだと思う。産学連携の促進は長く謳われているが、実際、企業が資金を提供しようとしても、様々な問題がある。大学に民間企業の視点や優れた経営人材の投入をすることで改革を牽引しない限り、何も変わらないと思う。

これまで政府においても様々な施策が動き始めているが、個々の施策のマグニチュードが小さ過ぎると感じる。例えば、運営費交付金の重点配分だが、そもそも評価方法が定性的で曖昧な上に、交付金の1%が配分対象になるなど、これでは大きな改革が望めないのではないか。

例えば、企業からどれだけ調達できたかに応じて交付金を割り振るなど、既得権益に絡まない合理的な配分方法を大胆に取り入れるなどして、経営マインドの巧拙を大学の死活問題にしてしまう方が早いのではないか。そのような本質的な議論をするべきだと考える。

<中西議員>(株式会社日立製作所取締役会長 代表執行役) 

もう一つだけ、オープンイノベーションについて。これもポジティブな話だが、五神先生から御紹介があったような話の一環として、私どもは、日立東大ラボというものを開設させていただいた。これ以外にも北大・京大を含めて、国内3大学とやっているが、その考え方は、最初からサブジェクトが決まっていることを共同研究にするのではなくて、いずれもSociety 5.0とか社会課題の解決に大学と企業がどう取り組んでいったらいいのかというテーマのディスカッションから始める。そうすると、大学の先生方も、経済学部の先生も法学部の先生も工学部の先生も理学部の先生も1カ所に集まって、非常に力のある素晴らしい方々にダイナミックな議論をしていただける。その中からテーマを拾い出して、具体的な研究ターゲットにし、我々からするとそれが一つの事業目標になっていくという展開が始まった。これは大いに期待しているし、こういうことが実際にできていくようにするためには、今はまだあまりお金がかからないが、その次は投資という観点がある。今、大学というのは投資というと、これは私どもがお話を聞くとびっくりするぐらいいろいろな制約条件があり、これもやはり規制改革だと思うので、こういう課題に是非真正面から取り組んでいきたいと、企業側も思うし、政府の方もどうぞよろしくお願い申し上げる。

<五神議員>(東京大学総長)

これからの大学改革で重要なことは、創造した価値を「売る」という観点で経営を行うこと。したがって、そういう意味でのプロデュース機能を強化することが肝になると思う。

Society 5.0における知識集約型経済は、ある意味で日本にとっては大きなチャンス。先ほども述べたが、産業構造の転換に伴い、いわばゲームの枠組みが変わるため、今までの状況を飛び越えてゲームに勝てる可能性がある。あらゆる面でのスマート化と産業の融合が進むので、第1次産業、第2次産業、第3次産業といった産業の境界も意味を失っていくことになる。その移行に際して、先ほどお話のあった農林水産業のスマート化には、これまで投資があまりなされてこなかったゆえに大きな伸びしろがあると感じている。

先日、東日本大震災で犠牲になられた方の追悼式に出席するため、本学の大気海洋研究所の研究施設がある岩手県の大槌町を訪問した。そこで聞いた話によると、震災後、海洋環境の変化が大きくなり長年の経験を持つ漁師さんでさえ、さまざまな予測が難しくなっているそうだ。ある養殖業について、ある時すごく良いものがたくさん獲れたと思えば、次の年にはまったく獲れないという状況だという話も聞いた。そこで、環境計測データをもとに、AIと大学の知とを組み合わせることで、効率の高い漁業を実現できるのではないかと考えている。その際、地方の公設試験研究機関や大学を拠点として活用していくことは非常に意味があると思う。

<安倍内閣総理大臣>

本日は、大学を中核としたイノベーションについても議論を行った。世界トップレベルの大学研究拠点が産業界と連携してイノベーションを生み出せるよう、2018年度中に2カ所程度に絞ってリソースを集中投下する。企業が連携相手となる大学を選べるようにする、各大学の産学連携への取り組みを比較評価できるデータを整備し公開する。

AI開発やビッグデータ処理を加速できる大容量の情報通信網を各大学が利用できるようにするとともに、大学構内で共同研究に取り組む企業も活用できるようにする。

関係大臣は連携して、以上を直ちに具体化してまいりたい。

2017年4月29日土曜日

記事紹介|大学の活動は、基本的に中立、社会全体に資すべきである

大学の使命

科学と社会の関わりは時代の宿命である。わが国は68万人の研究者を擁し、大学、国や自治体の公的機関、産業界などで様々な形態の科学技術研究が行われている。機関組織の社会的役割は多様であるが、個々の研究者が、どの組織において、誰の意思で、何の目的のために、いかなる具体的な研究をするかを明確にすることなく、秩序ある科学技術イノベーション振興のエコシステムは成り立たない。公的研究費総額は3.5兆円に上るが、諸府省の役割、推進方向は複雑に交錯する。産業経済界、国際社会の要請とも呼応しながら、国全体の活動の成果最大化に向けて整合的に制度設計し、司令塔としての指揮をとるのは内閣府であろうか。

今や研究者のほとんどは組織に所属し、個々の研究は意思者との契約のもとに行われる。従って、例え全く同じ具体の課題であっても、産業界であれば当該企業の方針に従う技術開発、ビジネス展開を目指す研究活動であるはずであり、府省庁傘下の公的機関であれば各々が定めた政策目標実現のための研究である。大学においては、当然「学術研究」である。

学術研究を支えるのは、広く国民社会からの(暗黙の)要請と期待である。その上で、憲法23条の精神に則り、大学には学問、研究の自由が保証されている。その対象は決して基礎科学とは限らず、工学、農学、医薬学などの分野では社会実践を目指す応用研究も盛んに行われる。多様な学術研究に共通するところは、研究者自らの「内在的動機」による駆動であり、制約を受けない自由闊達な営みが、真理の探究と人類福祉に大きく貢献してきたことは明白である。引き続き自律的な学術活動を維持するためには、大学が本来の社会的責任を強く認識することが不可欠であり、成果公開を通して、その特別な存在の正当性を担保しなければならない。良俗に反する活動のみならず、時代の流れに無関心な過度に自己中心的な振る舞いは、一般社会の支持を喪失し、さらに無用の権力介入を招きかねない。

大学教員は官民の戦略研究にどうかかわるべきか

大学は自治主権を堅持すべきであり、そのためにも今一度、教育と学術の府であることを再確認しなければならない。国の財政難の折から、資金源の多様化は不可避であるが、活動は基本的に中立、社会全体に資すべきである。国内外の限定的な資金提供者、経済強者への奉仕に偏ることは望ましくない。

筆者は産学連携の推進に強く賛同する者の一人であるが、1960年代後半に、産学癒着問題を争点とする激しい大学紛争にも遭遇した世代でもある。大学組織も個人も言われなき指弾を受けることなく、本来の使命に沿い規律を保ちながら活動することが求められる。

近頃世間が注目する防衛省による具体的な課題指定の軍事技術研究は、特定企業が主導する排他的な商業化研究などとともに、その意思の所在に鑑み、大学人の活動を束縛し、また大学組織の本来の整合的教育研究運営に支障をきたす恐れがある。従って内発的創意を尊重する学術には全くなじまない。

一方で、世界のパワーバランスの変化、国家間の衝突、高まるテロ、サイバー攻撃の脅威に対する危機感は、国の安全保障を司る防衛省に、自らに必要な科学技術知識の獲得を強く促す。であれば、まず防衛省が責任をもって充実した研究の場、研究者、資金その他の必要資源を用意すべきである。研究者は様々な専門能力をもち、価値観に基づく職業選択の自由もある。その政策に共感する大学人は、身分を防衛省に移し、確信をもって活動に専念するべきである。場合によっては、機関同士の一定の契約のもと、エフォート管理の上、兼業するなども可能であろう。国の存立にかかわる必須事項であれば、実現を可能にするための明確な法整備が必要であろう。さらに当該研究者の意向とは別に、関係する大学院生の教育には、特に慎重な配慮が求められる。

教員の利益相反、責務相反の回避

官民を問わずタスクフォース型の戦略研究には厳しい目標管理が必要であり、参画者には責任・義務が課せられる。教員が外部の職務活動に過剰に専心する結果、大学が定める本務時間の大幅縮減による不都合が生じてはならない。

外部連携活動による利益相反、責務相反の疑念は避けるために、ぜひ法的、倫理的に受容される仕組みを整備すべきである。米国では、大学教員には年間9ヶ月分の給与を払い、残り3ヶ月は教育義務から解放する。週1日の自由という選択肢もある。わが国でもクロス・アポイントメントのための法整備の上、教員が大学との契約に基づき、一定の期間外部組織ないし学内外に設置する「共同研究施設」において「非学術的研究」に専念すれば、責務相反は明確に回避できる。加えて、大学の人件費負担の軽減にいささかなりとも貢献することになる。

国民の信頼に足る科学技術イノベーションのエコシステムを樹立しなければならないが、その秩序の要は、大学人の使命の自覚、そして社会と大学の契約の精神の徹底である。

大学は公教育と「学術研究」の場である|2017年3月15日野依良治の視点 から

2017年4月28日金曜日

記事紹介|大学は本来の使命感を堅持しつつも、教条的な原理主義を排して、環境変化に責任をもって対応しなければならない

大学の本来の使命は、近未来を見据えた有為の人材の養成と、優れた学術研究である。しかし、社会の要請は時代とともに変化する。現代の「知の共創」の時代に、もはや旧来の象牙の塔的な存在に止まることなく、より発展的に機能を発揮し、多様な社会的価値の創造(イノベーション)へ貢献することが期待されている。大学は本来の使命感を堅持しつつも、教条的な原理主義を排して、環境変化に責任をもって対応しなければならない。

大学における自律性尊重の「学術研究」は、実は特例的な営みであり、官民を問わず一般社会における研究のほとんどは、組織の使命,目的により一定の制約を受ける。従って、大学が異なる制度下の組織と協力作業を行う場合には、それぞれの役割の本質を損なうことなく最大の効果を生むべく、予め明確な取り決め(法整備、契約)が必要になる。

大学と産業界の規律ある協力関係

「第4次産業革命」にともない、世界では破壊的な社会変革が急激に進む。米国においてはグーグル、アップル、テスラ社などのグローバルなプラットフォーマー企業が、圧倒的な資金力と人的ネットワークを背景に、基礎研究から技術開発、ビジネス展開までを包括したイノベーション活動を展開する。対抗企業群が不在のわが国では、現実を直視しつつ、産学連携を軸とする競争力ある社会横断的な共同活動が不可欠である。

わが国の研究費総額は世界3位、対GDP比3.57%比と極めて高い。ただし民間投資が72%、国の負担は僅か19%で、イノベーションに向けた両者の有効な混合が望ましい。実際、産学連携の強化は、現内閣における最重要の課題として議論されており、その結果、2025年までに、企業から大学、公的研究機関への投資額を現在の3倍の3,500億円に拡大する目標を掲げた。しかし、この投資が産業界の経営意志に基づくものである限り、その主たる目的は短中期的な産業力強化にあり、教育や学術振興のための自由資金(unrestricted fund)の「寄付行為」ではないであろう。

異なるセクターをまたぐ協同作業は、特定の目標を掲げかつて大学が経験したことのない形で実施されよう。大学と企業の価値観と慣習は著しく異なるので、同床異夢のご都合主義の産学連携は、本来の目的達成を阻み、またなし崩し的に大学組織の秩序混乱をもたらす。そこには互恵的効果を生む最も合理的かつ規律ある制度が必要となる。大学に旧来の役割の変化を容認、さらに積極的に推進を要請するのであれば、大学側にはそれに応じた組織の再編と新たな部署の用意が必要になる。また研究教育の波及効果の評価(impact assessment)についても、従来の論文至上主義を超えて自律的に議論すべきである。

国境を超えた資金提供への対応

研究は連続的であり、活動を支えるのは現行予算だけではく、それに先立つ実績である。かつて生物医学分野の優れた研究で有名な米国スクリプス研究所の経営方針をめぐって、知的財産の国外流出の観点から激しい議論が巻き起こった。私立の同研究所は、主に連邦政府機関である国立衛生研究所(NIH)から資金を得て研究成果をあげてきたが、経営危機に見舞われ、他国スイスの製薬会社サンド社(のちにノバルティス社)から多額の自由研究資金の提供を受けることとし、その代わり自らの発明の商業化の第一優先権を与えたからである。

日本国民から大きな負託を受ける国立大学法人は約6万人の教員を擁するが、その名の通り、身分や研究教育環境の相当部分が国費で保障されている。ならば、上記の様な研究成果の商業展開を企図する国外企業からの資金提供にいかに対処すべきであろうか。納得できる原則を定めて欲しい。

もとよりわが国の大学には、多く科学的発見、独自性ある技術発明があるが、しばしば潜在的価値が認められることなく、死蔵しがちであることは残念である。むしろ海外で注目、実用化された事例も少なくない。日本企業には是非とも鋭い鑑識眼を磨き、先見性をもって実用技術、ビジネスへと結実してほしい。さらに積極的に多くのスピンオフ企業の誕生をも期待している。

産学連携、人材養成、教育の整合性

大学がかかわるオープン・イノベーションは、単に個々の企業体、大学機関、研究者の経済利益だけに資するものではない。民間資金の提供も、大学組織の延命のためではなく、公共的存在意義を高めるためにあるはずである。多様な連携活動は、わが国の「超スマート社会」構築を通して、経済発展はじめ長期的な国益の持続に向けた制度として位置づけられる。従って行政には、連携を特定の企業と大学の当事者だけに委ねるのではなく、さらに高等教育に関わる法的整備も含め総合的な指導力を発揮して欲しい。

産業界は、短期的な目標達成を目指しがちであるが、さらなる未来の課題解決、知識資本時代を担うイノベーター育成こそが大学の最も重要な責務の一つであることを理解しなければならない。上記の新たな特別な環境で研究に携わる学生への学位授与問題、処遇と将来のキャリアーの保証は特に大切である。決して彼らを労働力として消耗させてはならない。大学院の教育研究のあり方にも密接に関係する。

国益に向けた大学と産業界の協力体制(その1)|2017年4月13日野依良治の視点 から


前回のコラムで述べたように、産学連携を効果的に進めるためには、双方が互いの立場を理解し、共同作業に関わる明確な取り決めが必要である。ここには公的機関を含む官の統合的役割があるはずである。今回は、さらに具体的な課題について考えたい。

産学官連携プラットフォームの整備

「知の共創」により多様な研究成果を最大化し、広く社会の繁栄をもたらすには、できるだけ多くのステークホルダーが、自らの資源を効果的に共用できる相当規模の公的プラットフォームの整備が必要である。多くの企業が集う国立研究開発法人の日本医療研究開発機構(AMED)とともに、国の研究戦略実現の要である理化学研究所、産業技術総合研究所、物質・材料研究機構、科学技術振興機構などには、その広範かつ高度な専門性を生かして、強力なハブ機能を発揮してほしい。

ドイツのフラウンホーファー協会は、国民の信頼にたる公的な産学連携制度の一例である。所長権限の所在、研究者たる資格(例えば企業経験など)、学生の進路も明確であり、円滑に運営されている。米国NSFなどの様々なプログラムとともに、英国の工学・物理科学研究会議(EPSRC)の先進製造センター(CIM)の仕組み(特定分野に焦点を当てた産学連携のための製造業プラットフォーム)も参考にしてはどうか。

「イノベーション特区」の設置

産学官連携を促進するには上記の公的ハブ機構の整備とともに、個々の大学機関に「イノベーション特区」を設置する必要がある。複数大学による共同運営もありうる。教育、学術研究を旨とする大学本体とは連携しつつも、価値観を異にする独立組織である。共同研究には、非競争的、前競争的、競争的と様々な段階があり、目標課題により実施形態も異なる。それぞれを如何に効率的に進めるか、この特区はメリハリを利かせた法的、倫理的に整合性ある組織でなければならない。当然、参加者の身分、職務管理の明確化が必要である。

研究立案、実行のみならず、資金の調達と運用、人事、渉外、安全管理、知財権などにかかわる、民間的な強靭かつ迅速な意思決定が求められる。組織内の円滑な管理運営にかかわる「バックオフィス」とともに、多様な外部連携を司る「フロントオフィス」機能が求められる。欧米のみならず、中国、韓国の大学におけるイノベーション事情を仄聞するに、旧来の縦割り行政的措置、学術的価値観や短期的な商業化視点だけでは、とうてい運営不可能である。

残念ながら、現在のわが国の経営者不在の大学組織では、イノベーションを目指す産業活動への対応は困難である。大学に残された時間は少ないが、個々の具体的課題の実践についても、大学人ではなく、例えば米国のDARPA研究のように敏腕のプログラム・マネージャーの登用が鍵となる。さらに国内外のイノベーション業務経験をもつ責任者の確保と有能な専門人材の育成が不可欠となる。

大学で発生する情報リスク

大学は公器であり続ける。主に文部科学省と「日本学術振興会」からの公的資金に支えられる「学術研究」には中立性と公開性が求められる。大学内における様々な外部組織との共同研究も同様に扱われるはずである。他方、他省庁の特定政策目的研究、さらに私的資金による、時には国境を超える経済産業活動はこれとは一線を画し、知的財産権の独占、発明技術の秘匿や不正流失への対処も不可欠となる。研究成果公表の制限もあろう。オープン・イノベーションとは、目的実現にむけて知識や技術を広く持ち寄ることであり、決して公開で共同作業することではない。外部に広く開かれ、データ管理の不統一、情報機器の公私取り扱いの区別も怪しい現行の大学研究室で、果たして知財、情報セキュリティーが守れると断言できるか。

世界経済フォーラムは「グローバルリスク2017」の中で、情報通信技術の普及に伴って、データ不正またはデータ盗難を最も発生可能性が高いリスクTop5の項目の一つとして挙げている。教員とともに博士研究員、大学院生にあまりに危機意識がないが、問題が起こってからでは取り返しがつかない。「危なくて、大学とは共同研究できない」との企業の声もあり、再度しっかりと職務研修を実施し、安全、安心を保障する強靭な共同プラットフォームを構築してほしい。

国益に向けた大学と産業界の協力体制(その2)|2017年4月21日野依良治の視点 から

2017年4月27日木曜日

記事紹介|危機打開のためには意識変革とともに、根本的な研究体制改革の工夫がいる

創造の源は研究者の多様性と流動性

大学は未知に挑む研究を行い、明日の社会を担う若者を育む。そして、近年の社会情勢を鑑み、さらに移り変わる将来を見据えれば、教員、学生の画一化が研究教育の停滞を招くことは当然である。背景の多様性こそが想像力を刺激し、創造に向かう活力の源となる。意図して、教員と学生の多様化を図るとともに、教員の内部昇進は一定割合にとどめて、格段に流動化を促進しなければならない。

有能な教員は流動する。ドイツでは、21世紀初頭までは学内昇進は禁止されており、現在でも特例的に許容されているに過ぎない。この国では有名大学からの招聘は大きな名誉とされ、受諾しなくても履歴書にその事実を載せる人は多い。周知のごとく米国の有名大学では、一学科内の教員の出身大学は様々で、母校の学位取得者は非常に少ない。わが国でも岡崎の分子科学研究所は創設以来、内部昇格を禁止して国内の人事流動に大きく貢献してきた。

大学、研究機関は外部者を、礼を尽くして招聘するのであり、有名機関であっても「採用してあげる」のではない。実は、多くの大学にとって、外部、とくに外国籍の有力候補者に対して就任を要請し、受諾を取りつけることは容易でない。すでに魅力ある環境で相当の処遇を受けていることが多いからである。彼らが新たな環境で、家族とともに日々誇りをもって活動できるか否か、研究環境と生活環境の双方が大切で、俸給や研究費は条件の一部でしかない。大学所在の地域社会を含め、わが国全体で総合的に克服すべき課題である。

もとより学閥や年功序列は避け、広く若者に挑戦の機会を与えるべきである。私が長じて、いささかなりとも評価される業績を残せたのは、学位取得後間もなく29歳で、母校である京都大学の工学部を後にし、全く縁のなかった名古屋大学の理学部に転じ、新たな独立の場を得たからである。決して優秀だからと選ばれたのではない。まだ年功を重んじる時代であったが、名古屋大学がある種の直観により、実績ある年配者ではなく、若く未知数な私に賭けたにすぎない。あとは最大限に自由を与え、適宜支援をしつつ、幸運を待つだけであった。ハーバード大学の名学長であったジェームス・B・コナントの方針にも通じるが、海外では、外部の若手の登用は、ごく当たり前で特別な出来事ではない。

テニュア・トラック制度とは

しかし、いかに慎重であれ、若手の採用は大学にとってリスクが伴う。もちろん若手教員自身にも責任が伴う。そこで、多くの国の大学がテニュア(終身在職権)制度をとる。例えば米国では、教授(Professor)と相当割合の准教授(Associate Professor)にテニュアが与えられるが、30歳前後の新採用の助教授(Assistant Professor)に、いきなりテニュアが与えられることはほとんどない。独立裁量権をもつPIとしてテニュア・トラックに乗り5~7年後に業績審査を受ける(有能者には途中で外部招聘がかかる)。審査後の処遇は「Up or Out」で、合格すればテニュア付きの准教授、時には一挙に教授に昇格し、不合格ならば転出する。問題先送りの助教授留任はない。もとより外部の評価意見も含め判断は主観であり、不合格は決して失格を意味しない。創造的であれば、他大学に転じて成功する機会は少なくない。また教育重視の小規模大学への転職を望む人も多く、大学も当人の意向を支援する。まことに明快な制度ではないか。

研究社会は基本的に競争的である。わが国でも、若者は自立して自らの活動に責任を取らねばならない。テニュア・トラック制度は、適切な条件のもと評価を経た上で、内部昇格を認めるものである。公正かつ躍動感あるこの制度を全国的に徹底させるべきである。

ポストをめぐる激しい競争

自然科学系の多くの博士号取得者は、研究分野の幅を広げるため、また新たな技術を獲得するために博士研究員として、国内外に武者修行に出かける。分野によっては不可欠条件のようである。しかし、彼らの多くが望む大学、公的研究機関のポストは限定され、世界的に需給バランスの乖離が深刻な状況にある。分野により開きが大きく、多機関を歩く人も少なくない。最近では、新しい遺伝子編集技術CRISPR-Cas9システムの発見者の一人として注目されるエマニュエル・シャルペンテイエ女史(現マックスプランク感染生物学研究所長)が、25年間にわたり5カ国9機関移動してきたことが話題になっている。

近年の米国では、環境工学が最も競争が厳しく19人に一人、多くの人数を抱える生物医学系では、6分の1以下しかテニュア・トラック雇用の機会はない。通常の工学分野では2分の1以下程度とされるが、MIT(マサチューセッツ工科大学)の助教授職には400名の応募者が殺到する。日本の自然科学分野においては、約15,000名の博士研究員、ほぼ同数の新規博士号取得者たち、そして潜在的には相当数の海外研究者を候補者として、年間推定8,000程度の大学・公的機関雇用のポストが用意される。うち、テニュア職は3,000程度にとどまる。厳しい競争率を緩和すべしとの声は大きいが、公的資金で維持するアカデミアの現体制が続く限り、大幅な改善は望めない。若手研究者もぜひこの統計値を直視してほしい。危機打開のためには意識変革とともに、何らかの根本的な研究体制改革の工夫がいる。

社会流動性が不可欠である

多大の資金を投入して特別に育てた知性を、「社会総掛かり」で有効活用することが、唯一の抜本解決への道である。若者の救済雇用のためではなく、国力の維持、向上のためである。研究界はスポーツや芸術界と同じく、精神の解放に向けて若者にとって魅力的ではあるが、同時に極めて選択的、厳しい世界でもある。博士研究員たちには、これまでの公的支援に感謝しつつ、政府、産業経済、教育界などに広く目を見開き、社会のリーダーとして活躍する気概をもって、そのための研さんを積んで欲しい。他に魅力ある職業は多い。一方で、科学を先導するPIは博士研究員を単なる労働力として消耗し、使い捨ててはならない。アカデミアに留まる者がごく少数派であることを再認識のうえ、採用時から責任をもって指導し、有為の人材として社会に送り出す義務を負う。「学学流動性」だけでなく、より開かれた「社会流動性」の実現が待たれよう。もとより、先立つ大学院教育は分割細分化を避け、彼らの幅広い社会適応能力を培わねばならない。

研究者の多様性と流動性、そして若手の機会|2017年1月10日野依良治の視点 から

2017年4月26日水曜日

記事紹介|学長は「学部の自治」を超えて、いかに自らの命運を握る人事選考の正当性を担保しているのだろうか

優れた若者、女性、外国人の登用

世界に輝く大学にはそれぞれ特有の伝統があり、それを担う存在感ある年配教授、躍動感ある若手がいる。現代社会は様々な才能を求めており、わが国の大学もそれぞれに、夢多き入学希望者に対して特徴ある教育研究の方針と誇れる成果を開示して欲しい。そして、それを生み出す教授、准教授、助教たちの適切な登用制度と活動の条件を整備しなければならない。価値観の画一化を避けるためには、まずは「若者、女性、外国人をlabor からleaderに」の積極的施策が必要である。

大学はそれぞれに一貫した理念をもつはずである。学務の総責任者である学長の指揮の下、任命された学部長(研究科長)や学科長(専攻科長)は、中長期の「将来計画」を立て、ときには修正しながらも、理念実現に向けて適正かつ柔軟な人事を行わねばならない。具体的な研究教育活動は、それぞれに自立した教員に委ねられるので、人事の機会こそが将来の発展の鍵を握る。固定化した教員組織ありきでは、時代が求める研究教育の設計と実行はありえない。

グローバル化時代に、もはやいずれの国の大学も、優れた教員の必要数を、自国だけでは充当できない。幸いにして、世界には日本国内の十倍程度の研究者がいる。ある分野の教員任用に際して、身近な者が最適任であることは、特殊な例を除き、ごくまれである。

開かれた人事制度の確立

もとより人事には秘匿事項が多い。しかし、開かれた公器である大学は、それぞれに招聘、昇任、公募人事を問わず、プロセスの原則を明確にすべきである。まず、人事権行使と候補者評価の分離が必要であり、両者の混同は利益相反を招く。教員を採用するのは法人である大学であって、各々の学部や学科、ましてや年配教授個人ではないからである。ところが、わが国では大学の一構成員に過ぎない教員たちの間で、勘違いが甚だしい。さらに、大学人事が余りに内向き、密室、場当たり的で公正感に乏しく、不透明感が著しい。

現実には専門性が高いので、人事委員会等の助言を経るが、研究者の評価は世界標準で、広く意見を求めるが良い。私も外国の多くの大学の教授招聘、昇任、若手採用などの評価作業にかかわった(日本の大学からの依頼はない)。しかし、私の役目はあくまで、候補者の専門的研究業績、能力、国際社会の評判、同年代者間の将来性比較などの陳述に止まる。私は当該関係者と利害関係がなく、また責任ももちえない。実際の任用にかかわる諸々の境界条件を提示し、人事行使できるのは当該大学に限られるからである。

教官人事は、当該研究科(学部)、専攻(学科)等の組織の研究教育の質、分野のバランスの向上、取捨選択のために行われ、すでに在籍する特定の教員のためではない。科学は迅速、時に非連続に進展拡張するため、組織の現状維持は相対的退歩、老化を意味する。若手教員の新規採用こそが、一定規模の組織の「代謝」を促す絶好の機会を提供する。職位を問わず「独立研究者」として評価する人事プロセスの繰り返しが、体質改善に決定的効果をもたらすのである。

日本の人事制度の課題

2007年以来、法により教授、准教授、助教は独立した存在と定められている。一方、日本の旧来の垂直統合型体制においては、研究室主宰の教授が、ともすれば若手准教授、助教を自らにとって都合の良い「協力者」として選び勝ちである。その結果、他国に比べ各研究室の教員数は多いが、専攻(学科)組織全体としての知の幅は広がらず、当然新領域も生まれ難くなることは当然である。慣習がもたらす累積効果の差は明らかであり、わが国が世界の潮流に遅れがちな大きな原因でもあることを強調しておく。

さらに重要な教授人事も慣例に流され、選考プロセスと実質的意思決定主導者が不明確な場合が多い。大学の自治を統括する国立大学学長は、「学部の自治」を超えて、いかに自らの命運を握る人事選考の正当性を担保しているのだろうか。

大学は一義的には教育機関であり、社会もまず良質の教育活動を求めている。それぞれの教員に対する役割に応じて実績評価とともに人物評価も欠かせない。特別な「研究教授」がいても良いが、万人が尊敬するような研究者は例外である。学長から見れば、教員は大学が掲げる目的の実現に向けて「掛け替えのない存在であるか」、円滑な組織運営のために「感謝すべき存在であるか」であって欲しい。「自分に勝手都合が良いから住みついている」教員の存在は、大学にとっては迷惑至極である。教員活動の評価は、まずは独立した法人である大学が自らの視点で評価すべきで、行政が画一的かつ事細かに指示すべき性質のものではないはずである。そして、大学その消長の鍵を握るのは、社会とともに生きる自らの意思である。

あるべき大学教員人事|2016年12月19日野依良治の視点 から

2017年4月25日火曜日

記事紹介|旧態依然の文部科学行政の優柔不断と大学内の理不尽な慣習を排し、抜本的改革を断行する

日本の科学研究活動は劣勢にある

今世紀初頭に、日本の科学研究活動が米国、欧州とともに世界の三極の一つに位置していたことは明確である。近年のノーベル科学賞受賞状況は、往時の活動の反映である。今日でもわが国の多くの研究者が、世界を先導する素晴らしい研究成果を出し続けており、さらに若い世代の研究の斬新さにも感銘を受けることは少なくない。

一方で、わが国の大学ランキング、理工系研究論文指標は全般的に著しい低迷を続ける。この10年間に、Times Higher Education誌における上位200位以内の大学は10校あまりから2校に減った。アジア圏においても旗色は芳しくない。研究論文の被引用数についても、トップ10%論文は4位から今や10位に低下し、イタリア、カナダ、オーストラリア、スペインの後塵を拝する。さらに1%論文では12位に甘んじる。中国は米国に次ぐ2位で、もしこれを論文の質と捉えるならば、質量ともに劣後することになった。残念ながら、この低落傾向は分野を問わず全面的かつ経常的である。これらの数値と研究力の関係には疑問が残るものの、より総体的な見地からも、わが国の相対的地位の低下は間違いない。

日本の教育研究体制は世界標準ではない

いったい、この劣勢の根本原因はなにか。もとより公的財政支出の不足が一因であるが、私はむしろ、わが国の大学の世界標準でない異形の教育研究体制によるところが大きいと考える。確かに日本の制度に多々良いところはある。しかし「The World Is Flat(トーマス・フリードマン)」の時代に、世界の共通の体制に背を向けた昔ながらの特殊性だけでは、国際競争力をとうてい保ち得ない。旧態依然の文部科学行政の優柔不断と大学内の理不尽な慣習を排し、抜本的改革を断行する以外に再生の道はない。

若い世代が明日を創る。彼らに十分な機会を与えることが最も大切である。この観点から私が最も強調したい不都合は、2007年の学校教育法改正の不履行である。国立大学の教授、准教授、助教は全て独立裁量権を得て、教育研究を行う権利と義務をもつことになった。旧来の教授、そしてその業務を助ける助教授、助手からなる垂直統合型の講座制からの転換であるが、その後10年経つ今も、実態としてこの法律がほとんど守られていない。しばしば教授たちからは「うちの准教授には自由に研究させているよ」と聞くが、「うちの」と「させている」は余計で、自由独立はすでに法的に保証済みである。

次世代が未来を設計する。囲い込まれた若手研究者が、日々の受動的業務に追われ、日進月歩の科学全体を俯瞰する習慣、あるいは科学技術政策に触れる機会が乏しいのではないかと懸念している。

若手研究者が活躍できる環境とは

「昔からこうだった」は通らない。私も50年前には大学の助手であった。当時の任務は、講座担当教授の職務を助けることと法的に定められ、講義をすることはなく、学部学生の実験を指導し、先生の分野の研究とともに大学院学生の相談に乗ることが仕事であった。従って、英文の履歴書には職名をInstructorと記してきた。現在でも分野により助手の職名は残るが、理工系の助教は国外にはAssistant Professorと名乗るようなので、独立した立派な教育研究者である。

もとより個人が孤立しては意味がなく、高い目標を定めた共同研究の推進が必要である。そのためにこそ、大学所属の各人は職位を問わず、責任研究者(Principle Investigator, PI)として自立し、自らの発想と意思で柔軟に「チーム」を組織しなければならない。PIは定義上、自らの能力で研究費を用意し、研究協力者を集めることは当然である。研究費を取得しない教員は、学内外のPIの協力者として研究するか、教育に専心することになる。これもまた自由である。

一方で、大学院生は教授の無給の所有物ではなく、すべてのPIの有給研究協力者たり得るはずである。旧来の、予め固定化した徒弟制の「グループ」が、時代の変化に迅速に対応できないことは明白である。そして、若い研究者たちの自律的な学際、国際、産官学共同活動が最大の成果をもたらすことも、すでに証明済みである。なお、大学機関に所属せず、研究費による契約雇用の博士研究員については、その自由な発想が尊重されることは当然ながら、制度上は課題達成のために当該PIの指揮下にある。

若手研究者の創造を促す支援体制を

日本と異なり諸外国の大学においては、同じ大学、同じ専門学科内の徒弟的共同研究は極めて少ない。なお、これからの変化を牽引する現在25-35歳のミレニアル世代の若者たちは、特に価値創造に適した対等型、自律型、協同型の組織を好むとされている。決して、彼らの自主性を阻むことがあってはならない。

大学院研究科のそれぞれの専攻は、一定の理念を共有しながら教育研究にあたるはずである。しかし、封建的旧制度の講座、研究室主宰者が若手教員の自由を束縛すれば、当然独立PIの総数を限定する結果となる。当該研究グループは一定の規模を維持するものの、当然専攻全体の教育研究の幅を著しく狭め、また生産性も減少することになる。昨今わが国では、若手の挑戦機会が限られるため、他国に比べ新領域開拓が極めて低調である。常に先端科学、技術の開拓に出遅れるのはこの理由による。例えば、急速に発展する人工知能(AI)関連の論文のシェアもわずか2%(他分野並に7%を期待)で、米国の57%、欧州の18%に大きく差をつけられている。

若者特有の柔軟な発想、そして他との連携こそが創造を生むことは間違いない。従って、若手、外国人が独立して十分に活躍できるように研究体制を抜本改善せねばならない。加えて、大学はいずれの職階の研究者も、9割以上の時間を教育研究に傾注すべく、十分な支援体制を用意すべきである。現在「忙しすぎる」教員があまりに多い。

なお付言すると、自律的研究がすべてではないことは自明である。ある種の国家的戦略研究については、目標管理型に必要規模の強力な組織を編成することにより、是が非でも一定期間内に実現しなければならない。しかし、これは大学には馴染まず、国立研究開発法人の役割である。

大学は「徒弟制度」からの脱却を|2016年12月5日野依良治の視点 から

2017年4月24日月曜日

記事紹介|大学研究者に責任ある経営は難し過ぎる

昨年のノーベル生理学・医学賞受賞者である大村智博士が「研究の経営」の大切さを指摘されたことが、強く印象に残る。自らの微生物化学研究をもとに、科学の発展のみならず人類社会に大きな貢献をされ、さらに北里研究所の財政を再建された。大学人ながら文部(科学)省からの研究支援は極めて少なく、しかし国内外の社会の共感を引き寄せながら、自らの研究哲学を実践された。温厚なお人柄ゆえに、控えめに発言されるが、わが国の行政と国立大学への目は非常に厳しい。自らの経験を踏まえて、社会の様々な局面を片手間ではなく猛勉強しなければ、通常の大学研究者に責任ある経営は難し過ぎるとされる。

日本の教育研究の不振の原因が問われて久しい。大学教員や研究者がこれほど勤勉に働くにもかかわらず、成果が思わしくない。日本経済における最大の問題点である労働生産性の低さと軌を一にしないか。先進7カ国の中で最低で、労働者一人当たりの付加価値が、米国の7割以下に過ぎないのは、多くが真面目な勤労者の能力が原因ではなく、経済界全体、企業経営の仕組み自体に問題があるとされる。

大学の経営は営利目的ではなく社会的責任の遂行を原動力とするので、時代に適応できる経営なくして存立し得ないことは当然である。私はまず、経営を司る理事長職と学務に責任をもつ学長職の機能分離が不可欠と考える。わが国には、個々には優れた研究者、教育者はいても、残念ながら求められる指導者が欠如、leadership crisisの事態にある。組織全体も財政構造が脆弱であり、国際関係を含め機能的にも不全である。今回、国立大学は機能別に3類型化されたが、社会の負託に応えて生き続けるには、それぞれに異なる格別の経営的技量、経験が必要である。当然、旧来の内向きの教育研究者の統括能力を超えることが多い。特に大学院経営には、様々な社会の要請との整合が求められる。

一方、学長は組織の経営基盤と状況を理解しつつも一定の距離感を保ち、学問的、教育的観点から一貫性ある理念を具現すべく大学の学務を指揮することになる。一般に、国立大学に比べ、私立大学において優れた経営がなされているようにみえる。共産党一党支配の中国では、大学の経営政策を握るのは党から派遣された書記で、学長は教育研究運営に専念する。少なくとも自然科学系については、今のところ不具合は見当たらず、着実に発展を遂げている。

学長は、外部招聘を原則とすべきだと考える。広範な調査を経て、最適の人を任命することが望ましい。安易に学内選挙あるいはそれに準じる方法で選出しているようでは、世界に伍して生きていくことはできない。現在、ほとんどの選出者が学内出身であることを見れば、制度的に国内外を広い視野で把握し、最適者を選んでいるとは、到底思えない。

諸外国では、国境を超えて激しい指導者争奪戦が繰り広げられる。国により一定の境界条件はあるものの、文化的に近い米英間のみならず、諸国の国立大学でも外国人を登用するところは多い。シンガポールの南洋理工大学(NTU)学長はスウェーデン人、サウジアラビアのアブドラ王立科学技術大学(KAUST)は、初代学長をシンガポール国立大学から、ついでカリフォルニア工科大学から招いて成功している。

わが国の学長は聡明であっても、しがらみに囚われて総じて内向きで慎重、迅速な決断力を欠く傾向にある。より広い視野と経験が必要であろう。中国では中国科学院傘下の研究所長および重点大学の学長の約7割は留学経験者であるとされ、しかも40歳代から50歳代が多く活力に満ちている。翻って日本の状況を省みれば、日本でも早急に専門職業的な学長候補者の育成と、少なくとも最適者任命に向けた国内の流動化が求められる。

教育研究を経営する|2016年9月28日野依良治の視点 から

2017年4月23日日曜日

記事紹介|国立大学の「国立」の呼び名は、国家や国民の誇りを意味する格別に賦与された名称である

今後とも大学は「文化的存在」ではあり続けるであろう。しかし、今日では加えて「文明の牽引者」であることが求められる。そして残念ながら、日本国民の教育研究に対する信頼性は万全とは言い難い。

わが国は1,000兆円を超える公的債務を抱え、きわめて厳しい財政状況にある。にもかかわらず、巨額の公的資金が高等教育、科学技術社会へ投入されるのは、いまだ大学、公的研究機関に対し期待をつなぐ証拠ではある。今年度の一般会計歳入の実に35%が国債に依存するが、国立大学運営費交付金、科学研究費ともに、前年度水準を維持した。合わせて第5期科学技術基本計画発足に際し、従前を上回る26兆円の政府研究開発投資の目標を設定した。しかし、消費増税先延ばしで、来年以降財源をどこに求めるのか。加えて、英国の身勝手なEU離脱も、わが国を含めて世界経済に大きな影響を及ぼすであろう。国内外の諸事情を勘案すれば、過大な国費依存からの脱却はもはや不可避と思えてならない。

もともと憲法23条が規定するアカデミアは、二つの「じりつ」自立と自律を旨としており、国家の介入は最小限にとどめるべきである。自治的存在であるアカデミアは社会のためにあるが、社会と国家は同義ではない。旧態依然たる国有、国営的な依存体制ではなく、変化する時代に適応しながら、自らの知恵、能力で気概をもって生きる人材を輩出する研究教育システムを編み出さなければならない。世界水準の教育を行い、卓越した研究成果を生み、さらに「Society5.0」の標語のもと超スマート社会の形成に向けて貢献して欲しい。

国立大学法人の3類型化と国立研究開発法人制度発足による制度改革は、中央集権から分権、あるべき分散への移行を促す。とくに第1類の小規模国立大学が外に目を向け、柔軟かつ大胆な連携により、独自に輝く存在たり得ることを期待している。果たして国力の源泉たる人材養成と研究成果の創出の機会となるか。さもなければ、公的教育研究制度としての持続可能性は予断を許さない。

国立大学、国立研究開発法人の「国立」の呼び名は、国家や国民の誇りを意味する格別に賦与された名称である。国力の源泉であり、その価値は広く公共社会から認識されるものであるべきであり、国益のみならず、人類益に向けた役割を自ら実行する機関である。英国では「国立(national)」の代わりに「王立(royal)」と呼ぶが、決して王室や国家が財源を措置するものではない。つまり「国立大学」は象徴的名称であって、国が全面的に責任を負い管理運営する「国有大学」を意味するものではない。昔「日本国有鉄道(国鉄)」があり、創立当初は国家の建設発展に大きく寄与した。しかし、時を経てその運命は惨めであった。わが国が世界に誇る新幹線開発を始め、技術的には高水準を保ったものの、疲労した経営体制は、変化する時代に対応できなかった。あらゆる既得権者の保護は、必ず負債を残す。

時代は変わった。現代のあるべき教育研究を阻むものは何か。もはや一国では生きられず、国内外のあらゆる資源の活用が必要である。しかし、なぜか行政は国営の慣習にこだわり、外的資源の獲得、利用に消極的である。ここに独立した法人格をもつ国立大学に、変わらぬ行政とのもたれ合い、国家依存症がまん延してはいまいか。心して、国鉄の轍を踏むことは回避したい。

国立大学は「国有大学」ではない|2016年9月6日野依良治の視点 から

2017年4月22日土曜日

記事紹介|パノプティコンの独房

首相官邸の裏のビルに国家安全保障局(NSS)がある。安倍晋三首相が外交・安全保障政策の司令塔として設置した国家安全保障会議(NSC)の事務局でスタッフは約70人いる。

数年前、ある男性はスタッフになることが決まった直後、こんな経験をした。

「中には監視カメラがありますから」

説明役の参事官から言われた。監視カメラはコピー機の近くを映すようになっている。

採用が決まって数日、居酒屋や喫茶店に入ると、いつも近くに同じ人が座っていた。声をかけられるわけでもない。ただ、近くにいた。

早朝、日課の散歩に出ると、日頃は見かけない場所に黒い車があった。自宅近くに戻ると、また同じ車があった。家族がゴミ袋を捨てた。自宅にもう一つの袋を取りに帰り、ゴミ捨て場に戻ると、直前に出していたゴミが消えていた。それも家族が捨てたものだけ。

単なる思い過ごしや偶然かも知れないが、男性は気持ち悪さを感じた。

NSSは、情報を漏らしたら罰せられる「特定秘密」を取り扱う。関わる公務員や民間人は「適性評価」を受ける。例えば、家族の国籍、飲酒の節度、病歴、借金の有無なども調べられる。

採用する職員は口が軽くないか。外部のどういう人間と接触しているか――。情報漏れを防ぐため、管理を徹底することは組織の性格上、当然だろう。こうしたことは数日だけ。だが、最初に感じた気味悪さは、なかなか消えない。

NSSで働くスタッフは携帯電話を持ち込めない。報道機関の記者からかかってきた卓上電話には出にくい雰囲気になり、居留守を使うスタッフがいる。

徹底した情報管理はNSSだけに限らない。

経済産業省で2月、職員へ二つの決定が周知された。執務室を日中も原則施錠すること、そして「プレス対応の改善」と題した内部文書だ。こう書いてある。「取材は、広報室を通じて申し込むことを原則にする」「取材対応は、管理職以上に限る」

この措置の背景に、ある「事件」との関連性が、省内でささやかれている。

2月の日米首脳会談に先立ち、朝日新聞など複数の報道機関が日米経済協力の検討案を報じた。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の資金活用などを盛り込んだ案で、経産省が関わっていた。

報道が出た途端、野党から「年金は国民のお金。トランプ大統領に日本から、おみやげのように出すのは、どうか」と批判が噴出。首相は国会で否定の答弁に追われた。首相官邸幹部によると、この一件で菅義偉官房長官が経産省に対して激怒したという。

世耕弘成経産相は記者会見で「個別案件とはまったく関係ない」と述べ、この件との関連性を否定。「企業情報や通商交渉に関する機微情報を扱っている。私が就任当初から問題意識を持っていた」と施錠の正当性を強調した。

報道機関でつくる記者クラブ「経済産業記者会」は、施錠や内部文書の撤回を世耕氏に文書で求め、取材対応は一部緩和されたが、施錠は現在も続く。取材内容に関わる担当職員の在席が確認できず、取材は制約を受けている。

経産省は通商産業省時代から、開け放たれた大部屋の入り口から他部署の職員や民間企業の社員まで入ってきて自由に議論を交わし、縦割りの弊害を減らす。そんな気風があった。今回の措置で、過去のものとなりつつあることを同省幹部は嘆く。「息苦しい。風通しのいい経産省はどこに行ったのか」

別の幹部は「今回の対応について大臣や事務次官に官邸からの指示はなかった」と明かす。「1強」官邸におびえ、自ら内に閉じこもろうとする。「パノプティコン」の独房を自ら作るかのようだ。

菅長官激怒、すくむ経産省 報道対応、自ら突然の規制|2017年4月22日朝日新聞 から

記事紹介|大学の淘汰と再編

政府の経済財政諮問会議(議長・安倍晋三首相)の民間議員は25日、「国公私立大学の枠を超えた経営統合や再編」を提言する。若者の都市部流出などで私立大の経営悪化が深刻さを増しているため、国立大学法人が救済する形で経営安定を目指す。国立大を受け皿にした異例の集約化を通じて乱立する私立大の整理・淘汰を進め、大学教育の機会と質を確保する。

文部科学省の「私立大学等の振興に関する検討会議」が5月にまとめる報告書にもこうした検討課題を盛り込む。提言や報告を受け、6月に政府が策定する経済財政運営の基本方針(骨太の方針)で、大学教育の見直しを訴える。今後、中央教育審議会で議論を進めていく。

民間議員の提言は、教育の質を高めて地方創生やイノベーションを担う人材を育てると同時に、大学を淘汰・再編して有望な研究開発に資金を回す狙いがある。従来は教職員数や学生数で配分を決めている私学助成も、教育の成果に見合った額を出す仕組みに転換。大学が自主的に資金を集められるように、土地などの形で寄付を受けやすくする制度作りも促す。

これらの取り組みで経営改善が進まない場合は、大学同士の再編も強く押し進めていく考えだ。

現在は1つの国立大学法人が1つの大学を運営するが、傘下に複数の大学を抱えられる「アンブレラ法人」に移行することを認める。国立大学法人法を改正し、制度改革を可能にする。将来は国立大を持ち株会社のようにして私立大を傘下に入れる統合も視野に入れる。分野や地域ごとに大学を集約する狙いだ。

私立大は国立大の傘下に入ることで信用力を高め、教員などの人材を派遣してもらうなどして経営の効率化をはかる。民間出身の経営者を受け入れ、産業界との連携強化も探る。再編のメリットが少ない場合は、円滑に閉鎖するために教員や学生、習得した単位を引き継ぐ方法も検討する。



2000年以降、少子化にもかかわらず四年制大学は2割(130校)増えた。乱立による経営悪化で10年以降に10校以上が閉校・募集停止している。「文科省はいい事例をつまみ食いするだけで全体像を見せない」(経済官僚)との声も高まった。教育基盤の劣化は研究力低下などで長期的に国の成長減速にもつながるため、踏み込んだ措置が必要と判断した。

地方では大学進学や就職時に地元を離れる若者が多い。4割強の私大が定員割れしているが、教職員の確保や先端研究に投資ができず、さらに人気が低下する悪循環が強まる恐れがある。地方自治体も地方創生を担う人材が育成できなくなる危機感があり、地元産業界とも協力できるプラットフォームとして大学の経営支援を国に求めている。

実現に向けては課題も多い。文科省は進学率の低さを理由に、大学は必ずしも過剰ではないとの立場だ。大学の見直しでも、国立と私立間の人材の融通など緩い連携案を模索するにとどまる可能性がある。国立大を軸に再編することには私大側の反発も予想される。

同日の諮問会議では社会資本の整備もテーマとなる。各省庁が別々に整備しているインフラデータの集約や、遊休小中学校を活用して地域全体で高齢者を支える地域包括ケア拠点にすることも提言する。遊休不動産や所有者の把握が難しい土地を地図データとして整備することも目指す。

私大再編、国立傘下で 地方で定員割れ深刻 諮問会議の民間議員提言へ|2017年4月22日日本経済新聞 から

記事紹介|国立大学経営のモデルチェンジ

世界の科学技術に関する種々の指標において、我が国の地位低下が顕著になっている。その原因は複合的であるが、簡潔にまとめれば、論文生産で中核を担っている国立大学法人への運営費交付金が抑制されてきたことが、研究活動に振り向けられるマンパワーの総量を大きく削減してしまっているので、論文指標による成果の伸びが競争相手の国々に比して、見劣りする状況が続いているということである。その結果、博士課程に進学する者が減少する珍しい国になっている。産学連携の規模は一部拡大傾向はあるが、大半が2百万円程度の小規模に止まっている。危機感を強めている大学人からは、予算措置の充実を求める論説がさまざまな場で展開されている。真っ当な意見であるとは思うが、国の予算不足は科学技術や高等教育の分野だけではない。何度でも主張することで世間の理解は深まるかもしれないが、平成30年度予算編成の中で、特に重点措置を期待しても、実現は困難だろう。国の予算措置を期待する戦略がうまくいかないのならば、別の方向に、資源獲得、効率執行の新たな手段を求めるべきではないか?そのためには、旧来の経営モデルを改革する必要があるので、正しい方向に舵を切るというのが、経営責任者のなすべきことではないか?従来から指摘してきたことも含むが、具体的な論点を以下に述べたい。

第1に、受益者負担の強化である。授業料収入で最大限の増を、中期的に確保することである。外国人留学生の授業料も2~3倍にすればよい。国に対しては、収入増に伴う交付金減額措置を一切しないこと、家計からの授業料支出を所得税控除対象にすることを要望すればよい。国の財政状況に鑑みれば、施設整備に対する支援が追い付かず、残念ながら老朽化・陳腐化が急速に進むことになるので、私学と同様に、授業料のほかに、施設整備費を名目にした受益者負担を求める必要も強くなる。

第2に、産学連携による収入の強化である。このところ、国の重点施策としても展開されているので、経営方針として取り組みが既に強化されているとは思うが、適切に体制整備をした上で、大型の連携事業に持っていけるネタがどれほどあるのか、大学の実力が試される。国に対しては、大学が主体的にスタートアップに関与して、株式上場等で大きな利益が得られた場合に、研究活動を支える収入源にできるよう、仕組みの整備を要望すればよい。

第3に、寄付募集の強化である。国に対しては、大学への寄付を税額控除の対象にすることを要望すればよい。ふるさと納税のような仕組みが参考になる。

第4に、土地資産の活用による収入増である。国に対しては、特定目的会社への出資を可能にするよう要望すればよい。大学にとっては、資産の売却による一時的な収入よりも、毎年度の収入として当てにできる資産の貸し付けによる事業展開が合っている。それゆえに、単に土地を賃貸するのではなく、事業主体の一員として参加する形が可能になれば、収益最大化への工夫の余地が大きい。

第5に、附属病院の大学法人からの切り離しである。病院経営から収益が上がっていた時代は、大学本体にとって病院部門が存在するメリットがあったが、病院経営を黒字に維持することは容易ではなくなっている。岡山のように地域の病院群との一体経営に踏み込んでいるケースも出ているので、可能性として、病院部門(特に連続赤字の病院)の経営切り離しを認めるべきだろう。

第6に、教員人件費を運営費交付金ですべて支えることが難しくなっていることに鑑みて、教員個人が稼いだ外部資金収入の一部を組み合わせる給与構造を実現すべきである。産学連携収入はもちろん、科学研究費等の競争的資金も外部資金の一部として、教員人件費に活用すればよい。こうした構造改革により、若手の雇用拡大への資源を捻出できる。また、所得にある程度の格差が生じることは、刺激になるだろう。運営費交付金が伸びなければ、人事院勧告に準拠した給与体系を維持することは不可能であるが、外部資金収入を加えることで、貢献度に応じて、研究者それぞれに適切な所得を保障することができる。国にも、こうした新たなモデルを、交付金や競争的資金の制度に組み込むことを要望すればよい。

第7に、法人の経営規模を拡大することである。もはや1大学1法人に拘る意味はない。同じ地域に立地している国立高等専門学校と経営統合しても良いのではないか?公立大学はもちろん、私学とも経営面で連携したらどうか?実現には、国立大学法人法改正が必要になる。大学として生き残るのも大変だと思うが、それぞれ体力が失われてから、救済策として文科省が合併の仲介を始めるのを待つようでは、大学としてあまりにも無策ではないか?

以上は、私が気付いている論点であり、ほかにも経営強化の観点から、自由を求める提案があれば、国に対して出せばよい。もちろん、国立大学にとって運営費交付金は最重要の予算である。しかし、いかに現場から苦境を述べようとも、恒久的にその水準を維持することは難しい。したがって、その目減りを遅らせつつ、経営的には自立性を早く高めるしかあるまい。それが分かっているなら、その方向に即した要望を展開して、未来のビジョンに合った改革を直ちに進めなければならない。運営費交付金に拘って、経営のモデルチェンジを拱くことは、自滅への道ではないか?

記事紹介|教授昇任の要件

科学技術・学術政策研究所(NISTEP)では、科学技術振興機構(JST)の協力を得て、JSTが整備・運用する研究者データベース(researchmap)を用い、日本の大学に所属する研究者の研究業績や属性、経験等がアカデミアでの昇進に与える影響についてイベントヒストリー分析を行いました。

分析の結果、学術分野によって昇進の際の評価要素が異なること、また近年では大学以外での研究・勤務経験等多様なバックグラウンドも昇進の際に考慮される傾向に転じつつあることが明らかになりました。

3. まとめと考察

分析の結果、すべての学術分野において、論文数や書籍数、競争的資金の獲得件数が教授になる上で正の影響を与えていることが明らかになった。特に、競争的資金の獲得件数は、人文社会学系をはじめとするすべての分野において教授昇進に有意に強力な説明力を有することが明らかになった。一方で、受賞歴数は、理工系や医学・生物系では正の影響を与えるのに対し、人文社会系では負の影響を与えるなど、分野によって教授になる上で影響を与える要素には違いがあることが明らかになった。性別による違いに関しては、男性研究者にとっては、共著者数や受賞数、競争的資金の獲得件数などが教授昇進に影響を与えている。一方、女性研究者については、医学・生物学分野では書籍数や競争的資金の獲得件数、論文数が教授昇進にポジティブな影響を与えている。このように、男性研究者と女性研究者では、教授昇進において影響を与える要素が異なることが明らかになった。

社会的要素については、すべての学術分野において、女性研究者は男性研究者よりも教授昇進の確率が低いことが明らかになった。この結果は先行研究とも一致する (Fotaki,2013)。女性研究者の活躍促進に関する大学改革の効果に関してみると、予想通り、女性研究者ダミーは、ネガティブからポジティブへと転じていたものの、統計的有意ではなく、政策効果という点では大きな変化がまだ観測できていない。

経験的要素に関しては、組織間移動は人文社会学系や医学・生物系分野において教授昇進にポジティブな影響を与えるのに対して、非アカデミアでの経験や海外での勤務経験は人文社会学系においてネガティブに働いている。海外への移動経験が教授昇進にネガティブに働くというのは、スペインの理工系分野での教授昇進に関する先行研究とも一致する(Sanz-Menéndez etal., 2013)。多様なバックグラウンドの尊重という大学改革の趣旨に関しては、非大学での勤務経験が教授昇進に与える影響において変化が確認された。すなわち、2004年以前は、大学以外での勤務経験は教授昇進にネガティブな影響を与えていたのに対して、2004年以降はポジティブな影響へと変化したのである。

また、一連の大学改革始動によるファカルティ人材の多様化推進に関しては、第一に、論文数や書籍数の説明力は低下しているものの、人脈的要素の強い共著者数の影響も低下していることから、人とのコネクションを重視する傾向が緩和されているのではないかと考える。第二に、女性研究者の活躍促進については、先述の通り、女性研究者であることが昇進に与える影響は、ネガティブからポジティブへと変化したものの、統計的に有意ではなく、政策効果があったとまではまだいえないと考える。第三に、人材の流動化の促進については、組織間の移動回数が教授昇進に与える影響は、2004年以前はポジティブであったものがネガティブへと転じており、組織間の移動回数の多さは昇進に不利に働く傾向にあることが明らかになった。第四に、教員の多様なバックグラウンドの尊重という観点からは、大学改革により、大学以外での勤務経験が明らかに重視される様に変化していることが確認され、政策効果があったといえるのではないかと考える。

一連の大学改革と教授の多様性拡大に関する一考察~研究者の属性と昇進に関するイベントヒストリー分析~の公表について|2017年4月17日科学技術・学術政策研究所 から

2017年4月19日水曜日

記事紹介|国際産学連携の実態と課題

科学技術・学術政策研究所(NISTEP)では、国際産学連携について、これまで「共著論文から見た日本企業による国際産学共同研究の現状」、「アンケート調査から見た日本企業による国際産学共同研究の現状」を取りまとめてきました。

本報告書では、日本国内の大学等と外国企業との間で実施された国際産学連携の実態や課題を明らかにすることを目的とした質問票調査を実施し、国際産学連携プロジェクトの実現には、研究者を通じた継続的な人的ネットワークの形成が重要な役割を果たしていること、国際産学連携を実施している大学等にとって大きな課題と認識されている事項は、業務を担当するスタッフの不足、連携相手との接触機会獲得の難しさ、国際産学連携に対応した規則や規約の未整備の3点であること、などが明らかになりました。

<まとめと考察>

本調査においては、近年注目の集まっている日本国内の大学等と日本国外に所在する企業等との間で実施された産学連携の実態や課題を明らかにするため、質問票調査を実施し、国際産学連携のより詳細な実態や国際産学連携を実施するに当たっての各大学等の持っている考え方や抱えている課題点といった面について明らかにした。

まず、国内の大学等の国際産学連携の実施状況を考えると、回答機関のうち、国際的な産学連携を行っているのは13.8%に留まっている。国内の産学連携も含め何らかの形で産学連携を実施している大学等だけに絞ってみても、国際産学連携を実施している機関の割合は2割程度であり、未だ国際的な産学連携に取り組む機関は少ないといえる。

未実施の機関においては、「国際的な産学連携を試みたが、実施に至らなかった」とする回答は3.6%に留まり、その他のほとんどの機関は様々な理由から国際的な産学連携を試みていない。最も回答の多かった理由は「国際的な産学連携を行うのに十分な体制がない」というもので65.0%を占めている。

体制面の不足を理由とした機関に、具体的な不足が何なのかを尋ねたところ、所属する研究者や経営層の問題でなく、国際的な産学連携のコーディネート機能、国際的な契約等の事務処理機能における問題が多く挙げられる結果となった。この傾向は私立に比べ国立、公立大学等で特に強くなっている。これに関連して、「どのような支援があれば国際的な産学連携に前向きに取り組むことができると考えるか」という質問に対する、最も多い回答は「事業を推進する内部スタッフの育成支援」であり、国際的な産学連携を行っていない機関においては、これを推進するスタッフの育成を支援することで国際産学連携に取り組みやすくなると考えられる。

次に、実際に実施された国際産学連携プロジェクトについて見てみると、連携の種類としては共同研究が最も多いこと、連携先企業の所在する国・地域については米国が最も多く、次に韓国が続き、以降、アジアでは中国、タイ、台湾が、ヨーロッパでは、フランス、ドイツ、スイス、英国が比較的多くの連携先が所在している国・地域となっていること、活用された大学側の技術シーズとしては工学や医学の分野に属するものが特に多くなっていることなどがわかる。

どのようにプロジェクトが形成されたのかを見ると、「相手方からの照会・引き合い」が多数を占めており、国内大学等側からの積極的な売り込みはあまり行われていない、あるいは、行われてはいるがプロジェクトの成約に結びついていないものと考えられる。

また、国際産学連携の形成された具体的なルートについて尋ねたところ、大部分は研究者の持つネットワーク経由となっている。但し、人的ネットワークのない相手方からの照会・引き合いがあるのは、学会・シンポジウムが契機となっている場合も比較的多くあり、研究成果や技術シーズの積極的なアピールも重要であるものと考えられる。

国際的な産学連携の目的については、研究資金の獲得やシーズの実用化の推進が最も多く挙げられた。また、いずれの目的においても、期待通りか期待以上の成果を上げているプロジェクトが大部分を占めており、国内大学等による国際産学連携の実施は一定の成果を上げているものと考えられる。

さらに、国際産学連携に関する機関レベルの分析によると、共同研究や受託研究については、その連携先が国内であるか国外であるかには拘らず、ニーズ・シーズの合致する相手先を探索する機関が多い一方で、ライセンシングについては、同様に考える機関はやや少なく、まず国内の連携先を優先して探すと回答した機関の割合が共同研究や受託研究と比べると高かった。

国際的な産学連携に関する業務に従事する人材の状況についてみると、必要な知識を持つ人材を確保していないとする回答が目立ち、国際産学連携の実施においては、必要な人材の確保が十分に進んでいない機関が多いことが浮き彫りになった。

連携先の決定にあたっては、技術力や実績等以上に、自らと相手方とのニーズ・シーズが合致するのか、という点を重視している。この点は、相手方が自校に対し重視していると感じている点でも同様であった。今後、特に連携先企業の決定においては、ニーズ・シーズの合致に加えて、卓越した基礎研究力を基に獲得した優位性をベースに、連携相手の国外企業をより戦略的な視点から選択し関係を構築していくことも、効果的な連携活動を長期に渡って継続する上で重要になってくるものと考えられる。

国際的な産学連携が国内での連携に比べ、どのような負担を生じさせるのかについては、最も多かったのが事務作業や手続きに関連する事柄である。内部スタッフについては、多くの機関が不足感を持っていることを考えると、必要なスタッフの不足が、事務手続きの大変さ、場合によっては研究者自らが行う事務作業等の負担につながる可能性がある。

最後に、国際産学連携の実施における課題と国や地方自治体などの公的機関からの支援のあり方について考える。国際産学連携に関する課題について、特に課題意識が強かったのは、外国語能力が充分な職員や事務手続きを担当する職員の不足であった。

また、国や地方自治体によるサポートとして必要と感じるものを尋ねたところ、事業を推進するスタッフの育成支援については必要性が高いとする回答がやはり多く集まった。

国際的な産学連携を推進する土台であるスタッフの育成支援ニーズは非常に高いことが改めてわかる。この点は国際的な産学連携の実施に際してのボトルネックと考えられることから、今後の支援、または適切なスタッフの育成手法の提示といったバックアップが有効と考えられる。

人材面以上にサポートの必要性が高いという結果となったのは「国際的な産学連携に対応した標準的な規則・規約や約款の提供・アドバイス」や「会計年度に縛られない、複数年契約に利用可能な公的予算」である。標準的な規則・規約等は、全てのケースに当てはまるものではないとしても、参考情報として各機関が接することができる。現在、国際的な産学連携に取り組んでいない機関が多数あることを考慮すれば、今後、国際的な産学連携を実施する大学等が増加していく場合、各機関が積み重ねた経験やノウハウを蓄積・共有することは有用な取り組みと思われる。

2017年4月16日日曜日

記事紹介|大学の活力をそぐ政治・政府こそ改革を

日本は科学技術立国を堅持できるのか。そんな不安を抱かせる指標や分析が発表されている。なかでも新しい産業の芽や社会的価値を生む役割が期待される大学で、活力の低下が指摘されている。

人口が減る日本では研究者数や研究費を右肩上がりでは増やせない。科学技術立国を標榜し続けるには、研究の多様性を保ちつつ、生産性を高めるという難題を乗り越えねばならない。遅々として進まなかった大学改革に、いまこそ危機感をもって取り組むときだ。

年功崩し若手登用

「日本の科学研究はこの10年で失速し、この分野のエリートの地位が揺らいでいる」。英科学誌「ネイチャー」は3月、日本の科学研究の弱体化を厳しい表現で指摘した。

同誌によれば、この10年間に世界で発表された論文数は80%増えたが、日本は14%増にとどまる。日本の世界シェアは2005年の7.4%から、15年には4.7%に低下した。お家芸だった「材料」や「エンジニアリング」などでもシェア低下が目立つ。

国連の専門機関である世界知的所有権機関によれば、日本は研究開発の産物である特許の登録件数で長く世界首位だったが、15年に中国に抜かれ2位に落ちた。有力研究機関が公表する競争力ランキングでも日本はじりじりと順位を下げている。

日本では研究開発投資の約8割を企業が担い、科学技術全体が急速に弱っているかどうかは議論の余地があろう。だが大学の活力低下は国際化の遅れなど他の指標からも見て取れる。ネイチャーの警告は重く受け止めるべきだ。

何が活力を奪っているのか。大学関係者からは、国が支給する運営費交付金の削減をあげる声が多い。交付金は教員数などに応じて配分され、大学運営の基礎となってきた。政府は04年度の国立大学法人化を機に毎年減額し、この10年間で約1割減った。

しかし、大学予算全体はそれほど減っていない。政府は交付金を減らす代わりに、公募方式で研究者に資金獲得を競わせる「競争的研究費」を増やしてきた。本質にあるのは研究費不足ではなく、もっと構造的な問題とみるべきだ。

ひとつが研究者の高齢化だ。ノーベル賞級の独創的な成果は若い頭脳から生まれやすい。1980年代、大学では40歳未満の若手教員が4割を占めたが、いまは25%にまで下がった。代わりに50~60代が半数近くを占める。産業界などでは崩れてきた年功序列が、大学ではいまだに残ったままだ。

政策も失敗が続いた。文部科学省は博士号をもつ若手を任期付きで雇用する「ポスドク」を増やしたが、任期後の就職先がなく、収入や身分が不安定な「高学歴ワーキングプア」と呼ばれる若手研究者が増えてしまった。

閉塞感を打ち破るには、若手を積極的に登用する政策が欠かせない。政府は科学研究費補助金を若手に重点配分したり、国のプロジェクトで登用したりする制度を始めたが、これだけでは足りない。

各大学が若手に責任あるポストを用意し、意欲を引き出す改革が不可欠だ。企業の研究との兼業を認める「クロスアポイントメント」という制度も活用すべきだ。

企業の資金生かせ

研究費を国だけに頼るのではなく、企業などから受け取れるように「稼ぐ力」もつけるべきだ。

日本は欧米に比べ産学共同研究が大幅に少なく、金額ベースでは米国よりも1桁少ない。連携を仲介する専門人材を増やしたり、企業の設備を借りたりすることで共同研究を増やす余地は大きい。

研究評価の方法も見直しが要る。公募型の研究が増え「数年先に実用化が見込める研究ばかりが評価される」との声があがる。実用性が不透明な基礎研究はさらに資金を得にくくなる心配がある。

研究の多様性を保つには、研究費を配分する日本学術振興会などの役割が重くなる。欧州では「経済効果は基準に含めない」「論文の本数だけでは評価しない」などと、10年単位の長い目で研究の価値を評価する例が増えている。日本でも参考にしたらどうか。

政府の総合科学技術・イノベーション会議は昨年度から5年計画で始めた科学技術基本計画に数値目標を盛った。大学についても「40歳未満の若手教員を3割にする」「企業などからの資金調達を5割増やす」などと掲げた。

それらの達成に向け、政府が細かく指示を出し、研究活動を縛っては、かえって大学の活力をそぐ。大学の自発的な改革を加速させるときだ。

2017年4月13日木曜日

記事紹介|第二の人生

この春、何人もの知り合いが職場を去った。中には転退職した若手もいる。勇気があるなと感心すると同時に、自分もそういう決断ができていればと「タラレバ」人聞になりかける。

東大から経産省に入り30代で「組織に頼らず自力でやれるはず」と退職した元官僚が『肩書き捨てたら地獄だった』という本を書いている。ありがちな勘違い。冷静に考えれば、一丁前の給料をもらえるのは組織のお蔭。私も一人ではコンビニのバイト以上に稼げる自信はない。

定年で去る人の多くが「次の仕事は未定」と力なく笑う。「第二の人生」などというのは何かを売りつけようとする側のコピーで、実際に充実した「第二の人生」を送れている人は滅多にいない気がする。

「定年って生前葬だよな」。そう思いつつ、退職後も生き甲斐を求めさまよう主人公が登場する小説『終わった人』を書いた内館牧子さんがインタビューで語っている。「男の人も東大法学部行くのと高校までで就職するのでは18歳の段階ではすごい差なんだけど、60歳で集まると着地点は一緒なのね。だからね、やっぱり好きなように生きた方が得ですよ」。きっとその通りだ。だが、「好きなように生きる」ことの難しさよ。

「毎日毎日同じ仕事するなんて信じらんねえ」「やりたいことがあるなら、迷うな、やってみればいいじゃん」と自由に生きるホリエモン。嫌いだが、内心では共感する。…だったら「やってみればいいじゃん」。でも、できない。そこが決定的な差だ。嫌いなのは嫉妬かもしれない。

いろんな不満を腹一杯に溜めながら、結局、辞める決断などできないまま定年を迎えるのだろう。その先、私は何をしよう? 本当は南の島で悠々自適といきたいが、多額のローンが許さない。

恰好いいのは起業だが、金儲けの才覚があるとは思えない。できれば仕事の経験を活かしたいが、そういう職に就ける見込みも薄そうだ。

年寄りを雇ってくれるところでバイトでもしながら、少しは好きだと思えることもしたい。「こども食堂」か小さな塾でも始めようか。何年かかけて文化財修復か何かの修業をするのもいいかもしれない。近所で「怪しい人」と疑われながら、家で実験や研究にいそしむのも面白そうだ。学生時代は食わず嫌いだった歴史の本も、齢を取ってから好きになった。

豪クイーンズランド大学の「ピッチドロップ実験」は1927年から続いている。ある粘性の高い物質が液体だと証明するため、漏斗から滴が落ちるのをひたすら待つ(だけ)。これまでに9滴落ちたらしい。

京大の「暗黒バエ実験」は1954年からハエを1500世代以上にわたって暗室で飼い続け、暗闇適応等に関わる遺伝子の変化等を調べている。研究者の体も暗闇適応で変異していないかと心配になる。

以前はどうにかなるだろうと軽く考えていた「第二の人生」を、そろそろ真剣に、深刻に考えねばならない齢になってきた。もっと早くから生き方の幅を広げておけばよかったな、と今頃になって思う。

文部科学時評|平成29年4月3・10日文教ニュース から

記事紹介|日本学術会議の限界と大学の自律性

日本学術会議が半世紀ぶりに、大学などの軍事研究に否定的な声明を発表した。13日からの総会で報告される。学術を取り巻く環境が変化するなかで出された新しい声明をどう受け止めたら良いのか。議論をまとめた「安全保障と学術に関する検討委員会」の杉田敦委員長(法政大学教授)に聞いた。

▶今回の声明は、大学側のあり方まで踏み込みました。

大学などの研究機関での軍事的手段による国家の安全保障に関わる研究が、学問の自由や学術の健全な発展と緊張関係にあることを示し、大学や学会に対応を求めた点が大きなポイントです。

重大な問題であるにもかかわらず、軍事研究は行わないとした1950年と67年の声明から半世紀。日本学術会議は、議論を継続せず、考え方を示してこなかったという反省があります。今回の声明は、過去の声明を『継承』しました。

▶過去の声明を「堅持」するとすべきだとの声もありました。

堅持とは、そのままにするということ。でも、過去の声明のもとで事態はかなり進行しています。2015年度に防衛装備庁が大学などに研究を委託する『安全保障技術研究推進制度』を始めたことが、今回の議論のきっかけになりました。いま、米軍からの大学や学会などへの資金援助は8億円を超えている状況です。

今回の声明は、学術と軍事の間の緊張関係や大学が負う責任を明確にして、大学や学会などに対応を求めることまで踏み込みました。過去の声明を発展的に継承すると考え、継承という言葉を使いました。

▶学術と軍事の緊張関係とはなんでしょうか。

何よりも学問の自由が脅かされます。学問の発展にとって、自主性、自律性、そして研究成果の公開性が大事です。一般に軍事研究では、それらが保障されません。委員会でも学問の自由が学術の健全な発展につながることに異論はありませんでした。

日本の場合には特に軍部が台頭した1930年代を中心に、憲法学などの学問が弾圧される一方で、戦争遂行のために科学者が動員され、核兵器につながる研究さえしていたわけです。その反省が日本学術会議の原点です。

▶「学問の自由」は、なぜ大切なのですか。

学問の自由は、研究者が個人的な判断だけで何でもやっていいことと誤解されがちですが、それは憲法学などの知見から言っても間違いです。学問が政府などから過度に介入されてはならないという意味であり、国内外に開かれた教育・研究環境を維持する責任が大学にはあります。

大学を聖域化するな、との意見もありますが、大学の研究者は自分で研究テーマを決められる点で、企業などとは立場が違います。いかに民主的な政治権力であっても、社会のすべてをコントロールすることは、長期的にみて社会のためになりません。大学という自律性を持った空間は残しておくべきです。

▶明確な軍事研究は認めないが、自衛のための研究なら許されるとの意見もありますね。

この声明はそうした立場をとっていません。1928年の不戦条約で戦争が違法化されて以来、国際法上ほとんどの戦争が、『自衛権の行使』などとされ、戦争と呼ばれなくなりました。自衛という概念が非常に拡張され、戦争という概念が縮小している中で、自衛目的ならいいとか、狭い意味での戦争目的でなければいい、とかいう安易な基準では、軍事研究の全面解禁につながります。

▶憲法9条に照らした議論に踏み込みませんでしたね。

たとえば集団的自衛権が認められるか認められないかという問題も、国論を二分し、個々人でも判断が分かれています。9条があって自衛隊があって日米安保がある、ということの帰結で、日本学術会議が学術的に特定の結論を出すことはできません。

▶声明では、防衛装備庁の制度について「問題がある」と明記しました。なぜでしょうか。

防衛装備庁の制度の目的は、防衛技術の開発につながる基礎研究と明示されています。研究成果は公開できるし、介入はしないと言っていますが、防衛装備庁の職員が研究の進捗(しんちょく)管理をし、助言をするのはかなり強い関与になる。学問の自由から見て著しく問題があります。軍事的な目的が主眼でなければ、明確な軍事的な研究ではないという意見もありますが、この声明の考え方とは異なります。

▶軍事研究には、ほかに、どんな問題がありますか。

国防や国民の安全に関わるような問題である、と言われると、断るとか、途中から協力をやめるのが難しい。企業に対して、自分の研究をそういう用途に使ってもらっては困る、と言えても、防衛問題となると、断ることは事実上、非常に難しいでしょう。

また、軍事研究は秘密と結びつきやすく、緊急かつ絶対的なものとされがちで、他の研究分野とは違います。軍事や防衛は予算がつきやすく、ブレーキをかけられなくなり、他の研究予算を圧迫することにもなります。これも学術の健全な発展を妨げかねません。

▶そこまで、問題があると指摘したのに、なぜ声明で明確に禁じなかったのですか。

学問の自由を制度的に保障する、大学の自治との関係です。学術会議は大学に命令する立場にはない。大学は自律的な機関なので、学術会議は助言はできても、強制はできません。強く禁止したほうが良いという議論がありますが、そうではないと思います。むしろ、そこまで大学の自律的な判断に介入してくるのか、という反発が出てくるかも知れません。

▶学術会議の限界ですか。

そうも言えるかもしれません。しかし、軍事と学術との関係は、本来、学術会議だけが考えることではなくて、さまざまな研究機関、そして個々の科学者が、科学者の社会的責任に関する歴史的な議論もふまえて考えていくべきことです。さまざまな論点を審議し、声明や報告の形で考える材料を提供したつもりです。学術会議が可否を全部決めるのでは、研究者や大学が思考停止になりかねません。

▶声明をガラス細工のように精緻(せいち)な表現だ、と評価する声もあれば、玉虫色との声もあります。自治の名のもとに、軍事研究に踏み切る大学も出てくるかもしれません。

声明をよく読めば、できないと受け取るのが自然ではないでしょうか。防衛装備庁の制度は、政府による介入が著しく、問題が多い、としているわけです。極めて問題が多いと指摘された制度を利用するなら、なぜ可能なのか、開かれた研究や教育環境を維持できると判断した根拠は何か。利用する大学や研究機関が説明責任を負います。そもそも、大学の自治は、政府との緊張関係のうえに成り立つことを大学は意識すべきです。

▶防衛装備庁の問題ですか。

違います。防衛装備庁の問題に限られません。研究者の意図を離れて攻撃的な目的に使われる懸念も指摘し、研究に入る前に資金の出どころについて、まずは慎重な判断も求めています。問題が多い機関の資金をもらっていいのかどうか。米軍はだめと明示的には書いていなくても、米軍の性格を考えれば、攻撃的に転用される懸念は、自衛隊以上に大きいとも考えられる。さまざまな資金について、こうした観点から各大学が判断することになります。

今回の声明は、研究目的なども厳しく審査するよう求めています。資金の出どころだけでは割り切れないことは委員会の審議でも明らかになりました。軍事的な機関以外を経由する形で事実上の軍事研究が進むこともありえます。だからこそ、声明は個別の機関や制度の是非よりも、審査制度の整備を求めているのです。自分たちの研究がどのように使われるか、大学や学会で継続的に議論することが大事です。

▶技術の使われ方の議論には想像力も必要ですね。

その通りです。若い人は抵抗感が薄いという報道もあり、危惧しています。研究の適切性は、これまで研究不正や研究費の不正使用ばかりが注目されてきましたが、科学技術と倫理との関係といった問題について、対話を広げていく必要があるでしょう。

▶軍事と学術の関係は、どれだけ危機的な状況でしょうか。

研究費不足、ポスト不足などの厳しい状況の中で、研究を続けるために研究資金を選べないという声があります。防衛など、特定の目的に役に立つとされる研究だけに資金投入が続くと、学術全体の健全な発展に悪影響が及び、ゆがみが生じます。そういう危険性が見えてきた。研究者の自主性を生かす民生資金が非常に大事なのです。

極端な例とはいえ、米国のように研究費全体の半分ぐらいが軍事的色彩を持つようになると、軍事的な研究資金をあてにしないと研究ができなくなり、研究全体に関する軍の発言力が強まります。それでいいのか。今が分かれ道なのです。

すぎたあつし 1959年生まれ。法政大学教授。専門は政治学、政治理論。著書に「権力論」「境界線の政治学」など。

学術と軍事研究 日本学術会議検討委委員長・杉田敦さん|2017年4月13日朝日新聞 から

2017年4月12日水曜日

記事紹介丨大学というシステムが抱える問題の解決を

どの指標をとっても退潮の一途

「なにを今さら」と大学などで研究している人たちは思っただろう。それに対して、一般の人たちは、「えっ!そうなのか」と驚かれたに違いない。

英科学誌ネイチャーに、日本の科学研究がこの10年間で失速していることを指摘する特集が掲載された。

ブレーキがかかった、などという生やさしい状況ではない。飛行機ならば今すぐ手を打たないとクラッシュしかねない失速状態にまで追い込まれていると言われたのだ。

論文データベースScopusによると、15年までの10年間に、世界中では論文数が80%増加しているのに、日本からの論文は14%しか増加していない。

特に、コンピューターサイエンス、私が関係する生化学・分子生物学、そして、驚いたことに、日本の得意分野といわれる免疫学で、その傾向が顕著である。

数が減っても質が保たれていればまだしもなのだが、ネイチャーが選定した各分野の超一流雑誌への日本からの論文数も残念ながら低下し続けている。また、日本の研究者が参加する国際共著論文の比率も続落と、どの指標をとっても退潮の一途であることが見て取れる。

特集のメイン記事は、北海道大学が、経費削減のために教授クラス205名のリストラが必要だと発表したことから始められている。次いで、若手研究者へのサポートがうまくいっておらず、その将来が不安定であることが指摘される。

そして、その要因として、国からの予算削減と、90年代のポスドク1万人支援計画は民間への優秀な人材の提供が目的であったのに、多くがアカデミアに残留した影響があげられている。

このような状況を見てであろうか、大学院博士課程への進学者は2003年をピークに下降線をたどっている。なので、どの時点かで平衡点が訪れてポスドク余剰が解消されることになる。

しかし、それだと、いずれそのツケがまわって日本の研究能力に大きな溝ができてしまうこと必至である。

他にも、大学の常勤ポストについている教員の高齢化や、日本の若手研究者にはPI(Principal Investigator:研究室主宰者)になる意欲が高くないことが問題としてあげられている。

紹介していて情けなくなってくるような話ばかりだが、ここ何年かの間に感じてきたこととそう大きなズレはない。いや、もっと正直にいうと、まだこれくらいで踏みとどまれているのか、という印象の方が強い。

競争力低下の最大要因とは

ちょっとしたきっかけがあって、最近、血液学のBLOOD誌、循環器学のCirculation誌という、それぞれの分野での一流雑誌について日本からの論文数を調べてみた。

そうすると、15年ほど前の全盛期に比較して、どちらも3分の1から4分の1に激減していた。これは、超一流雑誌での論文と比較してはるかに著しい減り方である。

文科省は世界トップ拠点プログラム(WPI)などで、トップ中のトップ機関には多額の研究費を配分しているが、先端をとがらせただけでは不十分なのではないだろうか。

数も多く、分野の基盤を形作るべき、おそらくは安定した科学インフラには最も重要なレベルへの手当が不十分になっていて、そのような層が総崩れになっている可能性があるのではないかと危惧している。

元三重大学学長の豊田長康・鈴鹿医療科学大学学長が15年に報告された「運営費交付金削減による国立大学への影響・評価に関する研究」というレポートがある。

2002年頃から日本の論文国際競争力が低下し始めていて、13年には人口あたり論文数が世界35位、先進国では最低である、などという内容を含んでおり、今回のネイチャーのレポートよりも衝撃度が高かった。

年次推移などから考えると、競争力の低下は、よく言われるような国立大学独立法人化の影響よりも、公的研究費の削減が最大の問題である、と結論づけられている。

ちなみに、世界中が研究費を増額している中、わが国の科学技術予算は、2001年からほぼ完全に横ばいだ。

研究手法の進歩は著しいが…

確かに、研究費の相対的な低下が競争力低下につながっているのは間違いないだろう。では、増額したらそれだけでキャッチアップできるかといえば、それほど甘くないのではないか。

研究というのは継続性が必要で一朝一夕にできるものではないし、研究レベルに応じたそれぞれの研究室の足腰の強さとでもいうものが必要である。

生命科学分野に限定したことかもしれないが、近年の研究手法の進歩には著しいものがある。それ自体は喜ばしいことなのだが、それに伴って必要な研究費も急速に増大している。だから、超一流とまでいかなくとも、そこそこの雑誌に掲載されるような論文を書くには、相応の研究費が必要である。

いまの公的研究費の総額と配分法から考えると、そのレベルから振り落とされてしまった研究室、いわば、半倒産状態に陥ってしまっている研究室は、地方国立大学を中心に相当な数あるに違いない。

不思議なことに、そういった声は全く聞こえてこないのだが、一旦、そういった状況に陥ってしまうと、再起するのは非常に困難だ。はたして、この十数年の低落傾向を立て直すには何年かかることだろう。

日本人のメンタリティーとして、寄らば大樹の陰的な考え方がしみこんでいるのだろうか、若手のPI志向が低いというのは由々しき問題だ。

PIになると、確かに、研究費の取得や人集め、研究室の運営など苦しいことが多いのだが、私が思うところでは、PIになってからが本当の意味での研究者である。欧米では、優秀な研究者は、ずいぶんと若い時点でPIになっていて、それが大胆な発想の研究につながっているようなところもある。

そのために、欧米ではテニュアトラック制が広く取り入れられている。テニュアトラック制とは、まず優秀な若手研究者を任期付きのPIとして雇用して、PIとしての経験を積んでもらいながら、そのアチーブメントを確認し、何年か後に終身ポストを付与する制度である。

日本でも文科省が導入を推奨していて、いくつもの大学で取り入れられている。しかし、あくまでも小規模であって、大々的にテニュアトラック制を取り入れている大学はほとんどない。

大阪大学のテニュアトラック制の世話役を務めた経験から、大学側にも研究者側にもさまざまな問題点があることはよくわかっている。なので、わが国において、現状の大学システムのままで、テニュアトラック制を広く取り入れるのは難しいと考えている。

若手研究者の大学離れを食い止めるべく、若手教員に対して終身ポストを積極的に付与する方策がとられ始めている。もちろん結構なことだ。

しかし、それだけならば、結局のところ昔の状況に後戻りするだけではないのか。それに、限られた人件費でそのようなことをおこなったら、そのツケを次にどこにまわすのか、という自己撞着のような問題が生じてくる。

大学というシステムが抱える問題の解決を

研究費が足らないから競争力がなくなった、ということに全く異論はない。しかし、そのことは必ずしも、研究費を増額したら競争力が蘇る、ということを意味しないのだ。

もちろん、他の国が研究費を増額し続けているのであるから、研究費の増額は必要条件である。ただし、それは十分条件ではない。十分条件を満たすには、大学というシステムを根本的に見直す必要がある。

適正な競争原理の導入、積極的な任期制の導入、研究者の流動性の向上、使命を終えた部局の統廃合、テクニカルスタッフの充実、高額研究機器の効率的な利用、無駄な会議や書類作成といった意味のない雑用の減少などなど、すでに指摘されている数々の問題点を、これまでやってきたような小手先だけの改革ではなく、本気でクリアしていかなければ、たとえ研究費を増額したところで十分条件が満たされはしない。

そのようなことができれば苦労はしない、と言われるかもしれないが、それは認識が甘いのではないか。そうしなければどうしようもない時期に来ているような気がしてならない。

北海道大学が本当に大規模な人員削減に踏み切れるのかどうかは知らない。スケールメリットが重要なこともわかっている。

しかし、高齢社会における福祉・医療という喫緊の問題があるわが国において、大幅な大学・研究予算の増額は望めないだろう。

かつての社会主義国家のような悪平等主義は捨て去って、教育と研究と業務を合理的かつ効率的に分配する、部局の壁を取り払って教育や運営に取り組む、優秀な人材にはその研究能力を最大限に発揮できるように処遇する、など、人員を削減してもやっていけるようなシステムを構築しなければ、大学が瓦解しかねないところまできている。

このままいくと、日本の科学の将来を論じることの意味すらなくなってしまう時代がやってこないとも限らない。

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