2017年1月29日日曜日

記事紹介|教育機会の不平等「意欲格差」

今年もまた、大学入試の季節である。センター試験に続いて間もなく私立大入試がスタート、来月下旬には国公立大の2次試験だ。長丁場の受験シーズンは話題にこと欠かない。新聞にセンター試験の問題が一斉に載るのも、世の関心の高さゆえだろう。

しかし、心すべき事実がある。数字のうえでは希望者全員がどこかの大学に入れる「全入時代」とはいっても、実際に大学へ行く若者は同年代の半分ほどなのである。

文部科学省の学校基本調査によれば、高校生の昨春の大学・短大進学率は54.7%。2000年代以降、往年の伸びにブレーキがかかり、特にこの10年ほどはほぼ横ばいである。大学入試をめぐるさまざまな話題に実感を持てぬ人々は少なくないはずだ。

そのなかには、悔しい思いをしている若者もたくさんいるだろう。

成績はよかった。やる気もあった。なのにお金がなくて進学をあきらめたという人は多い。入学しても後が続かず退学するケースも目立つ。12年度の文科省調査では、中退者7万9000人のうち2割が経済的理由だ。

それを思えば、政府が来年度から導入する給付型奨学金制度は画期的である。住民税非課税世帯の1学年約2万人を対象に、月2万~4万円を支給するという。規模は小さいが、救われる学生は間違いなく増えるだろう。

時を同じくして東京都も、世帯年収760万円未満の私立高校生の授業料を実質無償化するそうだ。さらに踏み込んだアイデアは、日本維新の会が改憲項目案に掲げる「幼児教育から高等教育までの無償化」だろう。つまり、大学の授業料を完全にただにするという話である。

こうした流れの背景にあるのは、もっぱら教育機会の不平等は経済的な問題に起因するという観念だ。

意欲と能力がある若者を支えれば教育格差は解消に向かう――。確かに一面の真理であり、公的支援の意味は大きいのだが、さて、ことはそんなに簡単なのだろうか。肝心の「意欲」自体に、成育環境などによって格差がつきまとってはいないだろうか。教育格差を語るなら、そこにも目を配らねばなるまい。

およそ子どもの学力を形成する要因として、教育社会学ではいくつかの「資本」を挙げる。ひとつは親の所得など経済的な資本だ。塾や家庭教師への支出も含め、子どもの教育にどれだけお金をかけられるかが学力を左右する。

もうひとつは文化的な資本である。たとえば家に本がどれだけあるか、幼児期に読み聞かせの習慣があったか。そして、親の学歴もその要素だとされる。吉川徹大阪大教授は著書「学歴分断社会」で、非大卒の親は子どもが大学に行くことに必ずしも価値を見いださず、それが次世代に受け継がれて社会は大卒と非大卒の2つの層に分断されていく――と指摘した。

大卒、非大卒といっても内実はさまざまだから注意が必要だが、総じて世の中はこの2つの層に分かれていて、互いが交わりにくい現実はある。この分断線の非大卒側から大卒ルートに向かおうとしたとき、見えない「壁」が立ちふさがるに違いない。

吉川氏によれば「『親が、子どもを大学に行かせたいと望むのは当たり前だ』という『教育格差』の大前提は、大卒層特有の発想に基づいている」(「中央公論」2015年6月号)。多少のお金があったとしても、あるいは奨学金が出ても、進学への意欲を持たない人々の存在を忘れてはならないのだろう。

しかし、こうした「意欲格差」は実証しにくいから、政策はいきおい経済的支援に傾く。それはそれで大切だが、社会の半分を占める層のメンタリティーの微妙さにもっと敏感でありたいものだ。

それにしても、高度成長期の日本は、親に学歴がなくても子どもは大学へという上昇移動が一般的だった。そのダイナミズムは弊害を伴いつつも社会に活力をもたらした。いま、非大卒層に属しながら潜在的な高い能力を持つ子どもが、それを生かすチャンスを狭められているとしたら不幸なことではないか。

最近では学力を形成する要因として、社会関係の資本も大切だといわれる。学校だけでなく地域が関与した学びの実践や生活のケアなどを指す。社会や他者とのつながりのなかに、教育の可能性を探る考え方である。

難しい環境に置かれた子どもを、社会が包摂する道はどこにあるか。「意欲の低い」子どもたちを置き去りにするわけにはいかない。

記事紹介|給付型奨学金

長年望まれてきた給付型奨学金については、文科省の検討チームによる制度設計が昨年12月19日付けで公表され、予算案にも盛り込まれたので、29年度からの先行実施が確実となっている。制度がスタートすることには大きな意義があると思うが、見切り発車的な制度設計には、種々の異論があるだろう。全体規模、給付額については、既に不十分だとする意見がある。29年度は、私立大学に入学する自宅外の学生のみが対象になっている点も、経済的に恵まれない学生が負担の大きな私立・自宅外を選択する場合のみに支援対象をわざわざ絞る理由が分かりにくい。国が用意した財源が限られており、高校推薦(最低1名は保証)による選考を採用したことから、月4万円(私立・自宅外の場合)という単価が導かれたのではないか?私立・自宅外の学生にとって、月4万円の持つ意味が、データに基づいて説明されていないために、財源からの逆算としか考えにくい。全体規模や給付額に関しては、あくまで暫定的な意味しかないと受け取るとして、制度設計の根本について、考えてみたい。

第1に、給付型の導入で、結局のところ何を実現したいのか、施策の想定成果が理解しにくい。かりに経済的困難な学生が進学するための後押しだとすれば、学生納付金のすべてと生活費(少なくとも家計からの仕送り分)を十分に支援すべきではないか?あるいは、同程度の条件に該当する学生には、すべて公平に支援を行うシステムにすべきではないか?施策の成功基準自体が不明確である。どのようにデータを取り、成功を証明して、施策の充実に持っていくのだろうか?今の制度設計では、小額を多数にばらまく形になっているので、確たる成果を立証するのは困難である。この程度の給付を受けられるからといって、就職から進学に進路を変更するような劇的な例はあまり期待できないのではないか?そうであれば、少しでも金をもらえるならば助かるという程度の話になる。国立大学法人さえも財政難で困窮してきている中で、効果の疑わしいことに予算を振り向ける余裕があるのだろうか?

第2に、高校推薦という選考方法は公平性の点で問題がある。同じ経済状態で、同じ大学学部に入学した者の間で公平が保たれる保障がない。大学入学後の成績チェックなど、人材育成の効果を担保する仕組みが不十分である。私学でも成績最優秀者への学生納付金無償等の優遇措置が行われており、国の財源と大学独自の財源をミックスして、最も効果的な支援を行う方が、はるかに公平性、効率性で優れた制度設計である。少なくとも、こうした大学等の機関による選考・配分システムを国が支援する形も実験するべきであろう。先行実施する29年度は、そのような実験をするチャンスだったにも拘わらず、高校推薦に決め打ちしているのは、理解できない。世界各国の給付型奨学金制度も一律ではないが、高等教育機関において選考・配分している例が多いのも、選考の公平性、予算執行の効率性の観点を重視しているからであろう。遠くない将来、高校推薦は見直すことになるのではないか?

第3に、給付型奨学金の制度設計を単体で検討するのではなく、国公私立の大学、高等専門学校、専門学校を通じて、公財政支出による機関・個人への種々の援助を全体として見直して、施策の効果・効率性を吟味したうえで、再構築する必要があるということである。種々の援助は一つ一つ意味があり、利害関係者があり、経緯もあるので、個別的には議論が進みにくいが、既存の制度をきちんと整理しないで、給付型について更なる妥協の産物のような設計が行われたのでは、瓦礫の上に急ごしらえの建物を新築するようなものである。個々の高等教育機関も高校も、人材育成機能は多様であり、制度設計上、一律に全てを対象にするのは、無理があるのではないか?国の予算を投入する以上、人材育成上の優先順位を判断して、重点的な配分を行っていく必要がある。そうした価値判断を避けていれば、給付型奨学金を充実する一方で、他の高等教育予算が削減されてもおかしくない。今回の制度設計は、そんな危惧を抱かせる内容である。

2017年1月28日土曜日

記事紹介|大学の事務職員等の在り方

大学の事務職員等の在り方について(取組の方向性案)

1 大学の事務職員等に関するこれまでの審議の経緯

大学運営の一層の改善・充実に向けて、事務職員及び事務組織(以下「事務職員等」という。)の在り方に関しては、中央教育審議会において審議が重ねられてきた。

「大学のガバナンス改革の推進について(審議まとめ)」(平成26年2月12日中央教育審議会大学分科会)においては、大学による組織的な研修・研究(スタッフ・ディベロップメント(SD))の重要性や、教職協働により、事務職員が教員と対等な立場で大学運営に参画することの重要性などについて指摘されてきた。

また、同審議まとめを踏まえ、「大学運営の一層の改善・充実のための方策について(取組の方向性)」(平成28年2月中央教育審議会大学分科会大学教育部会)が示され、「大学の事務組織及び事務職員が、当該大学の目標の達成に向け、これまで以上に積極的な役割を担い、大学運営の一翼を担う機能をより一層発揮できるよう、~(略)~、今後の在るべき姿について更に検討を深め、その結果を法令等に反映させることが適当ではないか。」との方向性が示されたところである。

これらを踏まえ、大学の事務職員等の在り方については、今後以下のような方向で取組を進めていくべきではないか。

2 事務職員等の業務の変化と規定の見直しの必要性

(1)事務職員等の業務の変化

大学の教育研究の高度化・複雑化に伴い、大学の事務職員等の業務に変化が生じている。

【具体的な事例】
○ジョイント・ディグリー・プログラムの推進
平成26年11月、我が国の大学等と外国の大学等が、大学間協定に基づき連携して国際連携教育課程を編成・実施し、共同で単一の学位を授与する仕組みとして、同プログラムが制度化された。
同プログラムの設置に当たっては、海外大学との密接な情報共有・調整を要するとともに、学内担当部局(法務、教学、国際等、各学部・研究科等)と連携を図りつつ、更には、文部科学省と法令上の解釈・運用に関する協議等が必要となる。
これらの一連の業務は、教員又は事務職員のみで対応することは困難であり、事務職員と教員が、以下のように業務を役割分担して取り組んでいる例がある。
(事務職員):学内担当部局や担当教員との連絡調整・とりまとめ、文部科学省と相談・調整し法令上の解釈・運用の確認、同プログラム設置に当たっての申請書類作成、海外大学との事務職員の人事交流、学生支援体制の構築 等
(教員):海外大学との学位レベル及び対象学問分野、プログラム対象者の選定、担当教員の選定、単位の取扱い、成績評価、卒業・修了要件、在学期間、学位審査の制度の検討・調整 等

その他、高大接続改革、大規模な産学官連携の推進、学問分野を超えた教育研究の展開、戦略的な大学運営などの事例においても、教員と事務職員等の協働による大学入試の運営、知的財産等の専門性を生かした研究管理への参画、専攻・学部等の専門分野を超えたカリキュラム編成・調整、学内情報収集・分析等の新たに生じた業務への対応など、様々な変化が生じている。

また、上述のような大学において新たに生じた業務のみならず、これまで事務職員が中心となって取り組んできた業務である学生支援やキャリア支援等の業務についても、教員と事務職員等の協働の重要性が指摘されている。

平成28年3月には、大学設置基準等の一部が改正され、全ての大学等で、その職員が大学の運営に必要な知識・技能を身に付け、能力・資質を向上させるための研修の機会を設けることが規定され、各大学においては、大学関係団体や関係学会が実施する研修等も活用しつつ、職員の能力・資質の向上に向けた取組の検討を進められている。今後、こうした取組を通じて、職員の大学のマネジメント能力などの向上を図っていくことが一層求められている。

なお、大学における専門性の高い職員の取扱いについては、「大学運営の一層の改善・充実のための方策について(取組の方向性)(平成28年2月中央教育審議会大学分科会大学教育部会)」において、「現状においては、各大学における専門的職員の配置は極めて多様な状況であり、また、専門的職員に求める資格、処遇等についてもいまだに確立されたものとはなっていない」ことから、「現時点においては、まずは、現状での各大学における専門的職員の活用状況に関するより詳細な分析や、各大学がその実情に応じて必要とする専門的業務の的確な遂行に資するための情報収集や環境整備に取り組むこととし、法令上の新たな職として専門的職員に関する規定を置くことについては、それらの取組を踏まえて更に検討する必要があると考えられる。」と指摘されている。

(2)事務職員等に係る規定の見直しの必要性

以上のように、大学の事務職員は、大学運営の一層の改善・実現に向けて、単に指示された事務を処理するような業務のみに従事するのではなく、既に、大学における様々な取組の意思決定等に参画し影響を与えている。

また、教員についても、単に教育研究に従事するだけでなく、大学の管理運営等に係る業務の増加に伴い、事務職員等と協働して業務に当たっている例がある。

このように、互いの業務の変化を通じて、教員・事務職員の垣根を越えた取組が一層必要となっており、各大学が教職協働の重要性を改めて認識し、適切な役割分担の下に、協働して業務に取り組むことが求められている。

また、高大接続改革、産業界や地域との密接な連携、教育研究の国際展開などの大学の枠を越えた取組を推進し、あるいはこれらの取組を束ね、戦略的な大学運営を実現するためには、職員個々人の資質向上のみならず、大学の事務の一層の合理化を図るとともに、大学総体としての機能を強化し、総合力を発揮する必要がある。

3 大学の事務職員等に係る規定の見直し

大学の教育研究の高度化・複雑化は現在進行形で進んでおり、上述の事例のような業務は今後更に増加していくことが予想される。これに伴い、事務職員等への期待は一層高まり、実際に担う業務は更に変化していくことが予想される。

こうした今後の変化を見据え、大学としてこれに十分に対応できるよう、SDによる事務職員の資質・能力の向上や意識改革と併せて、大学の事務職員の職務の現状を踏まえたものに見直すとともに、教職協働を推進し、大学総体として機能強化を図るべきことを、法令上明確に示していく必要があるのではないか。

なお、高等専門学校における事務職員の規定についても、大学における規定の見直しの状況を踏まえ、それぞれ実情に応じて検討を行う必要がある。

【法令上の規定の見直し】

(1)事務職員

事務職員が、大学の教育研究の変化に伴う業務の変化の現状に対応し、一定の責任と権限を持って職務に当たるという趣旨を明確にする観点から、学校教育法(昭和22年法律第 26号)第37条第14項の「事務職員は、事務に従事する。」との規定を見直すこととしてはどうか。

※初等中等教育段階の学校についても、「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について(答申)」(平成27年12月21日中央教育審議会)が答申され、学校教育法上の事務職員の職務規定等をより積極的なものに見直すことについて提言されている。

(2)事務組織

事務職員の法律上の規定の改正に伴い、大学の教育研究の組織的かつ効果的な運営を図るという目的を明確にする観点から、大学設置基準(昭和31年文部省令第28号)第41条の「大学は、その事務を処理するため、専任の職員を置く適当な事務組織を置くこととする。」との規定を見直すこととしてはどうか。

(3)教職協働

大学の教育研究の組織的かつ効果的な運営を図るため、教員と事務職員等とが連携体制を確保し、協働して業務に取り組むことの重要性について、大学設置基準に規定を設けることとしてはどうか。

大学分科会(第133回、平成29年1月25日開催)配付資料 から

記事紹介|続・続・根絶を願う、文科省の失態

平成29年1月26日(木)衆議院・予算委員会 10時14分から34分まで
(カッコ内は私(河野太郎)の解説です)

河野太郎君
自由民主党の河野太郎です。まず再就職等監視委員会にお伺いをいたします(委員長又は事務方のトップである事務局長のいずれかが答弁するということでした。委員長だと答弁書を全部読み上げることになって時間がもったいないなと思ったので、事務局長でもOKにしたところ、事務局長の答弁になりました)。今回の文科省の天下り問題の発覚のきっかけとなったのは何だったのでしょうか。

内閣府再就職等監視委員会事務局長
再就職等監視委員会は、内閣人事局が四半期ごとに公表しております管理職員の再就職届出情報、その他様々な情報について監視を行っております。平成28年3月当該再就職の届出が公表され、その中に、元文科省の高等教育局長が、早稲田大学に再就職した旨の報告が含まれておりました。(事前の説明では、退職してから再就職まで2か月足らずと短かったことが目を引いたとの説明がありましたが、それについてはこの答弁で触れていません。文科省の天下りには新ルール後で、退職の翌日再就職というのもあり、質問時間に余裕があればその件についても触れたかったのですが、そのためにはもう一度、監視委員会事務局長に退職してから再就職の期間について質問をしなければならなくなりました。結局、時間が足らず、これについては触れるに至りませんでした) この公表情報をもとに、文科省に対して照会の上、関係者への聞き取り、あるいは証拠を精査した結果、文科省の人事課職員が元局長の情報を早稲田大学に提供し、また、元局長自らが利害関係のある大学に求職活動していた疑い、そしてそれらを人事課が隠ぺいを図ろうとしていたことが認められたということでございます。

河野太郎君
総理の指示で、内閣人事局がこの問題を調査するということになっていると思いますが、霞が関が霞が関の調査をしただけでは、世の中の信頼を得られないわけで、内閣人事局の調査に当然外部の目が入ると考えておりますが、山本大臣それでよろしいでしょうか。

山本幸三国家公務員制度担当大臣
総理から今回の事案はあってはならないことであって、国民の疑念を払拭するために、全省庁に対して、徹底的に調査し、その結果を明らかにする、しっかり調査するよう、そして報告するよう総理から私に対して指示がありました。私としても徹底的な調査をしたいと考えておりまして、御指摘のように外部の目もしっかり入るという形でやっていきたいと思います(ここは山本大臣、はっきりと踏み込んだ答弁をしていただきました。ここがあやふやだと次の質問に影響します)。

河野太郎君
文科省も省内で調査をしていると思いますが、内閣人事局の調査に外部の目が入るということで、当然、文科省の調査にも外部の目が入るということでよろしいですね(そりゃ当事者の文科省の調査の信頼性を高めるためには外部の目が不可欠です)。

松野博一文部科学大臣
まず、内閣府再就職等監視委員会の調査によりまして、明らかになりました文科省における再就職に関する国家公務員法違反行為等につきまして、国民の皆様に文部科学行政に対する信頼を著しく損ねたことを心からお詫び申し上げます。文部科学省としては省として猛省し(省の省は反省の省ですね)、省全体として国民の信頼回復に努めていく次第でございます。(大臣としては当然、ここから入りますが、質問時間が短い場合、焦ります)ご質問の調査班についてでございますが、この調査班が行う調査については、国家公務員法第106条の16に基づいて、調査方針や調査項目に対して報告を求められており、その中で公正中立性を確保することが可能である(「調査への信頼性」を高めるための外部の目について聞いているにもかかわらず、役所の答弁書は「調査の公正中立性」にすり替えようとしています)と考えておりますが、委員御指摘のとおり、より国民の信頼を図る観点から、公務員制度等の有識者、弁護士等に調査に関与していただくということを考えております。(文科省には、大臣にビシッと言ってもらえるような答弁を書けよと言っていたにもかかわらず...)

河野太郎君
調査に関与では弱いのではないですか。泥棒に泥棒の見張りをさせても意味がないわけですから、松野大臣、関与というのはなんなのでしょうか。外部の目がきちんと調査をしなかったら今国民の信頼を得ることはできないんじゃないですか(信頼性だよ!)。

松野大臣
先ほど申し上げた公務員制度等の有識者、弁護士等の第三者の方に調査班の中に加わっていただく方が、より公正性(!)が、担保できるのか、また、調査班に対する監視体制を新たに作るほうがより公正性(!)を保てるのかということに関して、検討し早急に結論を出したいと考えております。(公正性の問題ではなく調査に対する信頼性の問題のはずなのに、文科省が大臣をミスリードしています。この日の予算委員会では天下り等に関する質問がたくさんあったでしょうから、大臣答弁の打ち合わせは、早朝に短時間でやらねばならなかったはず。そういうときの大臣の答弁は答弁書に頼らざるを得ません。文科省の答弁書が巧みに「調査に対する信頼性」を「調査の公正性」にすり替えていると、大臣がミスリードされかねません)

河野太郎君
調査班に入るどころか、調査班を外部の人間でやるのがいいに決まっているわけで、これは役所と相談しても良くなりません。きちんと大臣のリーダーシップでやっていただきたい。外部の目をしっかりいれて調査をしていただきたいと思います。
自民党の野党時代に、私は影の行政改革担当大臣(平将明影の副大臣とのコンビでした)を拝命しておりました。当時の自由民主党が提出をした法案の中には、あっせん禁止に違反をしたら刑事罰ということを2010年の自民党案には盛り込んでおりました。そのあと、私が本会議で造反をして(311の後、まだ東北や福島第一原発が大混乱しているときに、谷垣総裁率いる野党自民党が国会の会期延長に反対するということになり、私と岩屋毅代議士が「冗談じゃない」と会期延長の動議に賛成しました)役職停止(一年間!)になってしまったものですから法案とおさらばしてしまい、この法案は成立をしませんでした。こういう状況の中で、あっせん禁止には単なる懲戒処分ではなく、刑事罰を盛り込む、あの当時の自民党案を復活させるべきではないかと思いますが、山本大臣いかがですか。

山本幸三国家公務員制度担当大臣
現在の制度では(あっせん禁止に違反しても)懲戒処分(だけ)ですが、不正な行為がある場合は刑事罰もかかる(例えば基準を満たしていないものを許可してしまうといった不正行為を行って、その見返りに天下るなどの行為に対しては刑事罰もかかります)ようになっております。私たちとしては、こうした事案が起きないように今回のような再就職等監視委員会等の活動も含めてしっかりと対応したいと思います。

(野党から「議員立法でやるなら賛成するぞ」というヤジあり)

河野太郎君
今、野党の皆さんから賛成するという声もありましたので、政府ができなければ議員立法でやるということも考えないといけないと思います。
さらに、再就職等監視委員会の再就職等監察官、今は政令で常勤の監察官は1人ですが、こういう状況でございますから、期間を区切ってでも常勤の監察官を増やすべきだと思います。これは政令で対応できるわけですから、ぜひ山本大臣にリーダーシップをとっていただいて、常勤の監察官を増やしていただきたい。さらに、再就職等監視委員会の委員は今4人が非常勤でありますが(委員長は常勤です)、これは法改正が必要ではありますが、委員の中で、常勤のものを増やす必要があるのではないかと思います。また、今役人OBによるあっせんが抜け道になっております。現職の役人のあっせんは禁止されていますが、役人OBによるあっせんは禁止されていない。脱法行為の抜け道になっているという批判もございます。この際、役人OBによるあっせんも禁止するそういった措置をとる必要があるのではないかと思いますが、山本大臣いかがでしょうか(以上の措置を含めた提言を自民党の行政改革推進本部はすでに取りまとめ、来週にも山本大臣と菅官房長官に提出します)。

山本大臣
大事なのは天下りを根絶することでございます。したがいまして、それをしっかりとやるために、必要なことはなんでもやるという考えで、国民の信頼を取り戻していきたいと思っておりますが、どこまでできるのかについては、しっかりと検討していきたいと思います(必要なことはなんでもやるといったら、必要ならどこまででもやるのでは!?)。

河野太郎君
必要なことをなんでもやるならば、なんでもやる必要があるわけで、どこまでやれるかなんて大臣がへっぴり腰では困ると思います。そこはしっかりやっていただきたいと思います。
さて、再就職等監視委員会にもう1度お伺いいたしますが、今、役所のOBから役所の現職に対してなんらかの働きかけを行ってはいけないことになっておりますが、これまで再就職等規制委員会でそうしたことが行われていると指摘したことがございますか。

再就職等監視委員会事務局長
国家公務員法では、再就職した国家公務員のもといた職場に対して、離職後2年間職務上の行為を要求したり、依頼したり働きかけをすることは規制されております。そうした働きかけをうけた職員は委員会への届出義務が課せられております。当委員会が発足してからこれまで、当委員会に届出いただいたことはなく、違法を認知した事例は、現在のところ1件もございません(元の上司のような人から働きかけがあったからといって、届け出をする官僚がいるでしょうか)。

河野太郎君
再就職等監視委員会がもしそうしたルール違反を発見できるとすれば、それはどういうきっかけに基づいて発見できるとお考えですか。

再就職等監視委員会事務局長
一般的には通報等が考えられるところでございます(果たして通報するような官僚がいるでしょうか)。

河野太郎君
通報等がなければ分からないというのが現実なんだと思います。今回の文科省の天下りにあっせんがあったかどうかも、早稲田側から言われなければ分からなかったという現実がある中で、あっせんを禁止しているからいいんだということにはならないのではないでしょうか。違反したことが分からないということであれば、違反を禁止することは意味がないことでありますから、むしろ、役所の関係するところに何年間かは行けないという行為規制のようなものをいれなければ、抜け道は防げないのではないかと思いますが、山本大臣いかがですか。(今の法律では、役所の組織ぐるみのあっせんがいけないのであって、官僚だった人間がその能力を買われて新しい仕事に就くのは悪いことではないとされています。しかし、あっせんがあったことがわからないのが現実です。しかも、単なる天下りではなく、官民交流とか、独立行政法人の公募に応募した形にしてとか、はなはだしいのは現役出向のように装って、新しいポストに就くことが増えてきました。こうなると、調べてもわからないあっせんがあったかどうか、を問題にするよりも、退職後何年間は何々のポストについてはいけないという形で規制する必要があるのではないでしょうか)

山本大臣
先般の国家公務員法改正でしっかりと天下りをなくすという原則(つまり役所ぐるみのあっせんで天下るのはいけないという原則)を打ち立てて、そしてそれを再就職等監視委員会でチェックするということでやっております。まさに監視委員会の機能が発揮されたからこそ、今回のような事案が出てきたわけでありまして、私は機能しているという風に思います(通報されなければわからないと事務局長が答弁しているわけで、すべての事案に関して機能しているとはいいがたいですね)。そういう意味で、これを徹底し、そういった認識が国家公務員全体でしっかりと確立するというように、改めて調査をして、しっかりとしたところを打ち立てていきたい、そういうふうに思っております。

河野太郎君
今回たしかに、再就職等規制委員会が機能しているということを、明らかにしたわけですが(「今回の事案」では確かに再就職等監視委員会が機能しています!)、それでもすべて違反をチェックできているかどうかというのは分からないわけです。今、再就職等監視委員会事務局長がおっしゃったように通報がなければ分からないルールは見逃されている可能性があります。再就職等監視委員会が、全部分かっているという前提ではなく、分からないという前提に立つならば、少なくとも再就職に関して、なんらかの規制をする、行為規制そのものをやらなければ抜け道は防げないのではないですか。

山本大臣
改正する前はそういった形が一応あったんです(かつては退職後、何年間、どこどこへ就職してはいけないという規制でした。そう言う規制が、あっせんの有無を問題にするようになって、逆になくなってしまいました)。けれども、その時にやはり官民癒着という問題が指摘されて、我々としては天下りというのは絶対ダメなんだと。それで、これが原則ですよ(役所ぐるみのあっせんをしてはいけないというのが原則)という形に法律改正して、そしてそれがしっかりと守られているかどうかは監視委員会で監視するという制度で構築しなおした(つまり「あっせんを禁止して、あっせんがなかったかどうかを監視するという法改正をした」と強調しています)。私は、この点をしっかりと厳正にやっていけるようにすれば公務員もそういうものだということがはっきりしてくると思います。確かにその意味では、こうした問題がおきたことは大変重大な問題でありまして、この点を改めて、総理の指示を受けて、今後一切このようなことがないように、監視委員会の在り方とか、指導の在り方とかしっかりとやっていきたいと思います。

河野太郎君
内閣人事局の調査、あるいは文科省の調査の結果、あっせん禁止違反があったということになれば、あっせんを禁止しているからいいのだということには大きな抜け道があることになります(あっせんがなければよいということにしたのですが、あっせんがあったかどうかは今回の事例を見ても、わかりにくく、様々な抜け道があります。それならば、あっせんがあろうがなかろうがこういう再就職はダメという規制が必要ではないでしょうか)。そうなれば行為規制をやらなければ問題は解決しないということになりますので、きちんと調査をやっていただいてその調査の結果、あっせん禁止だけではだめだというならば、しっかりと踏み込んでいただきたいと思います。

さて、今回問題になったのは文科省の天下りでございますが、実は、文科省から国立大学法人に極めて多数の現役出向がございます。理事だけで76名、幹部職員に至っては241名を数えます。その他さらに大勢いるわけです(かつて国立大学は国の一部で文科省が人事権を持っていました。国立大学を国立大学法人という独立の組織にしたはずなのに、文科省がかつての人事権を手放そうとせず、文科省の官僚が現役出向で国立大学法人に行くという新たな仕組みを作って既得権を握っています)。
今、文部科学省が各大学に対して運営費交付金あるいはさまざまな補助金等のさじかげんを握っています。そういう状況にあって、現役出向がこれだけ大量に国立大学法人に行くというのは、かつては文科省と一体だった国立大学を、独立した組織にするために国立大学法人化をしたのに、全く各国立大学法人は独立していない、単なる文科省の植民地になっているだけではないんでしょうか。
今回の問題を奇貨として、この国立大学法人への現役出向をやめるべきだと思いますが、大臣の御見解を伺いたいと思います。

松野大臣
文部科学省から国立大学法人への出向は、国立大学協会の申し合わせを踏まえ、任命権を有する各国立大学法人の学長からの要請に基づいて行われており(完全な建前です!)、文部科学省から推薦された職員を実際に採用するか否か、あるいはこれらの者の学内での活用方法については、学長の判断により行われております。
文部科学省としては、国立大学法人職員への出向は、文部科学行政で得た知見を学長の意向に沿って大学改革や機能強化の実現に役立てる一方、国立大学法人で現場感覚を養い、その現場感覚を文部科学行政に反映することができるメリットもあると考えており、学長からの要請があれば適切に対応してまいりたいと考えております。(これは私の失敗です。天下り問題で大臣もてんてこ舞いしているときですから、それ以外の問題への答弁は、答弁の打ち合わせで議論する時間がとれるわけもなく、大臣の答弁は答弁書だよりにならざるを得ません。文科省の既得権をぶち壊すような話に関する答弁を文科省が書くわけですから、建前の答弁しか書くはずはありません。本来、質問の前に大臣に問題意識をじっくりと話し、大臣が資料を取り寄せたり、役所以外の人を呼んで話を聞いたりして、自分で考える時間がとれるようにしてから、質問に立たねば、しっかりとした大臣答弁は出てきません。とりあえず、予算委員会でこの問題を取り上げて、議論のテーブルの上に載せようとして、大臣に問題意識を伝える前に質問してしまいました)

河野太郎君
それは、国立大学時代に文部科学省が人事権を握っていた、その既得権を残すための、今おっしゃたのは単なる方便でしかありません。誰もそれが事実だというふうには、国立大学法人側も思っていないわけでございます。
そうおっしゃるならば、国立大学法人への現役出向と国立大学法人への補助金の金額、あるいはその増減、そういったものをきちんと調べて、この予算委員会に提出をしていただきたいと思います。
委員長、資料の提出をお願いしたいと思います。

浜田委員長
理事会で協議いたします(資料の提出要求に関しては、必ず委員長がこう答えて引き取ります)。

河野太郎君
今現在、国立大学の研究者は、国立大学の事務方がつくるさまざまなローカルルールで苦しんでおります(一時、文科省はこうしたローカルルールは幻だと主張しましたが、多くの研究者の皆様から具体的な例をいただき、文科省もこの問題と向き合わざるを得なくなりました)。アマゾンで買えばあした来るようなものを、さまざまな機関を通して、来るのは二週間後、値段は何割高い、あるいは立替払いは認めない、始発で間に合うなら前泊は認めない。さまざまなローカルルールを大学の事務局がつくって、その結果、研究者の研究時間がそがれ、研究効率は大きく低下をしている。

国立大学の事務局長を見れば、ほとんどの大学で文科省からの現役出向者が事務局長あるいは事務方の高いポジションを占めております(彼らは研究者の方ではなく任命権者である文科省の方を見ています。いかに研究が効率的にできるかではなく、いかに文科省や会計検査院から問題の指摘をされないようにするかが優先事項になっている人も多いでしょう)。この国立大学法人に対する文科省からの現役出向が大きな問題になっているのは、全ての研究者が共有している問題意識です。そうしたことが文科大臣にきちんと上がっていますか(実は私から直接、大臣にこの問題について話をしています)。

松野大臣
先ほど申し上げましたとおり、各大学のそれぞれのさまざまな運用に関しては、大学の自治によって決定をされている(文科省の定番の逃げ口上)と承知をしております。
しかしながら、委員からそういった実態をよく把握しろという御指摘もいただきました(大臣もこのローカルルールは問題だと認識されています。つまりいかに質問の前に大臣に問題意識を伝えておくか、大臣が自分で考えることができるかが、こういう質問では大事です。野党がよくやるように、意地悪して前の晩遅くに質問通告してみても、大臣は朝の短時間での答弁打ち合わせでしか問題の認識ができず、それでは答弁は答弁書を読むだけになります)。その面に関して、また改めて調査をさせていただきたいと思います。

河野太郎君
大きな問題になっていることは事実でございますので、与党としてもこの問題はしっかりと追及してまいりたいと思います。(ここで時間切れ。20分ではこれが限界かな)
以上です。ありがとうございました。

予算委員会の質問を解説します|2017.01.27 衆議院議員 河野太郎公式サイト から

2017年1月23日月曜日

記事紹介|続・根絶を願う、文科省の失態

文部科学省による官僚の天下りの実態が明らかになった。

政府の再就職等監視委員会が国家公務員法に違反する、もしくはその疑いがあると指摘した例は4年間で38件にのぼる。

組織ぐるみで法を曲げ、口裏合わせをして隠蔽(いんぺい)を図る。その姿勢に憤りを覚える。

教育を担う官庁が見せた無軌道ぶりは、文教政策への深刻な不信と疑念を招いた。この先どんな顔で、子どもたちに「道徳」を説くのだろうか。

監視委が調査を始めたきっかけは、大学の設置認可や私学助成を担当する高等教育局の前局長の動きだ。2年前の秋、退官からそう日をおかずして早稲田大の教授になった。

大学は、教授の業務を「政策の動向の調査研究」「文科省の事業に関する大学への助言」とウェブサイトで紹介していた。

少子化が進み、大学の経営環境は厳しい。いかに国の政策を先取りして予算を獲得するかに、多くの大学は懸命だ。

そこに有力な文部官僚が天下る。世間の目を気にしてしかるべきなのに、逆に関係を誇示するような記載は、感覚のマヒを雄弁に物語っている。

監視委によると、前局長は文科省在任中から求職活動をし、人事課は前局長の履歴書を作って早大に送ったうえ、面談日程の調整までしていた。

官民の癒着をなくそうと、07年に国家公務員法が改正された。現役の役人による求職活動も、省庁側による再就職のあっせんも禁止になった。前局長の例はこのどちらにも触れる。

さらに驚くのは、文科省が人事課経験のあるOBに、退職予定者の個人情報や外部の求人情報を伝え、マッチング作業をさせていたと、監視委が認定したことだ。辞任した事務次官もこの仕組みを使ってあっせんに関与していたという。事実ならば省をあげての脱法行為というほかなく、悪質度は極めて高い。

文科省は、監視委と連携して再就職の例を洗い直し、問題ありと判断した場合は、自主的な退任を求めるなどの対応をとるべきだ。再発防止に向け、職員や大学に対し、法の内容を徹底させることも欠かせない。

徐々に変わりつつあるとはいえ、中央官僚の世界には、同期入省者が次官に就任したら、他の者は定年前でも退職する不文律があり、再就職先の確保は大きな関心事になっている。

安倍首相は、他省庁でも違法な再就職がないか調査を指示した。当然の措置だが、官僚制度の大本や文化にまで切り込まねば、病の根を断つのは難しい。

2017年1月21日土曜日

記事紹介|根絶を願う、文科省の失態

今野浩(こんのひろし)さんが自分の学者人生をもとに書いた『工学部ヒラノ教授』は苦労話が満載である。研究費を申請するが何度もはねられる。ようやく認められたときには、文部省から天下った教授から、自分が口をきいてやったからだとにおわされた。

どこまでよくある話かは分からない。ただ、大学が文部科学省の意向を常に気にしているのはたしかだろう。学部の設置を認めてくれるのか。大学の予算はいくらつくのか。そんな影響力が、露骨な天下りの温床になったのだろうか。

文科省が大揺れである。組織的に再就職をあっせんしつつ、問題を隠すため口裏合わせの工作もしていた。OBを間にはさむ仕組みも作り、あっせんを見えにくくしていた。国家公務員法違反やその疑いが指摘される行為は30件以上にのぼり、官僚トップが辞任した。

あきれるのが、大学を担当する局長から早稲田大教授になった吉田大輔氏の例である。「国の政策の動向の調査研究」「文科省の事業に関する連絡調整や助言」などが大学での仕事とされていた。あからさまな大学と役所の仲立ちとしか思えない。

政府は他省庁でも問題がないかを調べるという。当然だろう。天下り規制が強化され10年がたつ。制度そのものに不備がないか、この際点検してほしい。

安倍晋三首相はきのうの演説で、明治の学制の序文を引いて「学問は身を立(たつ)るの財本(もとで)ともいふべきもの」と述べた。学問の場が役人の身を助ける道具に使われるなら、嘆かわしいというほかない。

(天声人語)文科省の露骨な天下り|2017年1月21日朝日新聞 から


文部科学省が国家公務員法に違反して、前局長の早稲田大学への「天下り」を組織的にあっせんした疑いがあることが分かった。前川喜平事務次官が引責辞任に追い込まれ、次官を含む幹部7人が懲戒処分された。これで一件落着なのか。

教育行政を受け持っているのだから、ほかの省庁以上に、次世代の範となる振る舞いが期待されているはずだ。

ところが、実際はどうだっただろうか。文科省が受け持つスポーツに例えれば、こういうことだ。スポーツには、どの競技者にも公平なルールがある。ところが、ばれてしまえば謝るが、ばれなければ構わないという「範」を子供たちに示してしまった。

もしくは、「うちには一般のルールは適用されない」という思い上がった意識があったのだろうか。

そんな役所がつかさどる教育行政が2018年度から順次、小中学校の道徳を教科に格上げし、子供たちを評価しようとしている。評価する資格があるだろうか。

それこそ、小中学校は授業で文科省の今回の天下り問題を取り上げ、子どもたちから道徳的な「評価」を受けるべきである。

(声)天下り、文科省に道徳あるのか|2017年1月21日朝日新聞 から



国と地方を問わず、公務員は襟を正すべきだ。文部科学省が元幹部の天下りを組織的にあっせんしていた。国家公務員法違反に当たる。氷山の一角ではないか。霞が関全体の徹底調査が欠かせない。

一線を退いた高級官僚が、利害関係のある民間企業や団体に再就職することを天下りと呼ぶ。かつては権限や予算を背景に、役所ぐるみでの押しつけが横行し、官民癒着の温床となっていた。

例えば、二〇〇六年に発覚した旧防衛施設庁の官製談合は典型例だった。天下りの受け入れ実績に応じて公共工事を割り振るという不正が、長年の習わしになっていたから驚かされた。

行政の公正性を保つためとして、〇七年に国家公務員法が改められ、主に三点が禁止された。

簡潔にいえば、現職職員による再就職のあっせん、在職中の利害関係先への求職、再就職した元職員による古巣への働き掛けだ。

今度の文科省の不祥事では、前高等教育局長が退職前に早稲田大学に求職し、人事課職員が履歴書を送ったり、面談日程を整えたりと面倒を見ていた。実態を調べていた第三者機関の再就職等監視委員会に対しても、うそで不正を隠そうとした。悪質極まりない。

看過できないのは、法の網から逃れるために、人事課OBを仲介役にして、再就職を世話する仕組みを構築していたことだ。

まるで反社会的集団ではないか。これでは教育行政を任せられない。一から出直すべきである。

もっとも、逆にいうと、いまの国家公務員法は、ルールさえ守れば堂々と再就職できる“天下り推進法”といえる。一五年度の管理職の再就職件数は約千六百七十件に上り、五年間で二・三倍に増えている。まさに証左だろう。

改正前まで、退職後二年間は利害関係先への天下りは禁止されていた。それが第一次安倍政権下で自由化された。その代わり役所によるあっせんを排して、内閣府に設けた官民人材交流センターに再就職支援を委ねた。

だが、事実上、野放し状態である。背景には、次官レースに敗れた幹部を押し出す早期退職の慣行や、それを後押しするような人件費抑制の圧力がある。公務員雇用のあり方を再考したい。

優秀な才能は、最後まで活用されるべきだ。公務員にも職業選択の自由がある。ただし、官民癒着の構造は腐敗を招きやすい。全省庁の速やかな調査と、国民に対する明確な結果報告を求める。

天下りあっせん 文科省だけだろうか|2017年1月21日東京新聞 から


文部科学省で組織ぐるみの天下りのあっせんが発覚した。教育行政への信頼を失墜させかねない事態だ。政府は、全容の解明を急ぎ、再発防止策を徹底せねばならない。

政府の再就職等監視委員会が文科省による職員らの再就職のあっせん行為10件について、国家公務員法違反と認定した。あっせんに直接関与した前川喜平文科次官が辞任したのは、当然だろう。

端緒は、元高等教育局長が2015年8月の退職の2か月後に、早稲田大教授に就いたケースだ。元局長の在職中に、人事課職員が大学側に再就職を打診し、経歴などの情報を提供した。元局長も、大学との面談日程を調整した。

公務員による他の職員らの再就職あっせんや、利害関係のある企業・団体に対する在職中の求職活動は国家公務員法に違反する。

高等教育局は、大学の設置認可や助成などに幅広い権限を持つ。そのトップが退職直後に私立大に再就職すること自体、癒着の疑念を招く。大学側も、文科省とのパイプ役を期待したのだろう。

調査では、特定の職員OBが仲介役を務める組織的な天下りの仕組みがあったことも判明した。

国家公務員法は07年、官製談合事件などを機に改正され、天下り規制を厳格化した。監視委は、文科省に規制をすり抜ける目的があったと断じた。こうした脱法行為が中央省庁で常態化していたことには、驚かされる。

前川氏も文科審議官当時、OBを通すなどして2件のあっせんに関与した。前川氏を含む7人が停職などの懲戒処分を受けたが、氷山の一角である可能性が高い。

監視委は、疑わしい事例が、ほかに少なくとも28件あるとして、文科省に詳細な調査を求めた。

退職から2年以内に大学に再就職した管理職は、11~15年度で79人に上る。文科省は省を挙げて、徹底的な洗い出しに取り組み、不正を根絶することが必要だ。

看過できないのは、人事課が早大の事案で、別のOBが再就職を仲介したとする虚偽の説明をして隠蔽工作を図り、大学側に口裏合わせを頼んだことだ。

不誠実な対応は、文科省への学校現場の不信感を増幅し、入試改革や学習指導要領改定など重要施策にも支障をきたしかねない。責任の重さを肝に銘じてほしい。

安倍首相は、全省庁にも調査を指示した。他省庁も再就職の在り方について真剣に点検すべきだ。定年前に早期退職する慣行の見直しも再発防止につながろう。

文科省天下り 組織的あっせんの解明を急げ|2017年1月21日読売新聞 から

2017年1月18日水曜日

記事紹介|大学の人材マネジメント

長期雇用の利点を活かしつつその問題を克服する

雇用の流動性について、大学教員はより良い研究環境を求めて大学間を移動するため、勤務する大学への帰属意識が低いといわれる。その一方で、帰属意識の問題は別にして、専門分野間、大学間、職階間で流動性に開きがあり、教授昇任以降は総じて定着率が高く、大学教員といえども年功序列的要素を含む長期雇用の傾向があることを認識しておく必要がある。また、職員については、近年、企業経験者等の中途採用も増えているが、定年までの長期雇用が概ね定着している。

長期雇用は安心して仕事に専念でき、知識・経験も蓄積されるなど優れた面を有する一方で、人事の停滞や一定の年齢・役職に到達して以降の動機づけの難しさなど、組織活力に負の影響をもたらす面も大きい。この問題の克服は大学マネジメントの重要な課題である。

雇用形態の多様化については、本連載(本誌 164号)でも取り上げたが、現在の大学は多くの非正規雇用の教職員の働きによって成り立っており、外部委託(例えば図書館や情報システムなど)への依存度も高まりつつある。特に非正規雇用の教職員の処遇は、労働法制の趣旨に則り適切に行う必要があり、正規雇用・非正規雇用・外部委託間の分担・協働のあり方は教育研究・学生サービスの質と経営効率に深く関わっている。

キャリア意識に対する共通理解がすべてのベース

大学は、国立大学職員の大学間異動などを除くと、転勤は少なく、季節性はあるものの、景気変動による業務量の増減なども少ないことから、仕事と生活を両立させやすい職場であるといえる。従って、職員の女性比率は高く、国公私立大学合わせた約8万人の事務系本務者の45%、私立に限れば男女ほぼ同数(平成24年度学校基本調査より)となっている。

一方、国公私全体の女性本務教員比率は21%、教授に限ると13%にとどまり(同調査)、外国人教員比率とともに、その引き上げが課題となっている。

このような状況の中で、役職登用を含めて女性の活躍を促し、男女を問わず仕事と生活の調和が保てる環境が整っているかについて、配置・育成・処遇、労働時間、管理監督者や職場の意識などを多面的に点検してみる必要がある。

最後に、職員のキャリア開発について考えてみたい。大学職員のキャリア意識は、就職動機と職場内外の環境・経験により形成されるものと考えられるが、個人ごとの意識の違いは大きく、そこに人材育成や組織運営の難しさがあると思われる。就職時に抱く大学職員像は時代とともに変わってきただろうし、どのような上司・先輩の下で働いたかによっても意識は異なってくる。

個々の職員が働くことの何に最も価値を置いているのか、それは仕事の与え方や処遇の仕方などで変わっていくものなのか、本人と上司の間で共通理解を図ることがすべてのベースとなると思われる。

有機的なシステムをどのように作り上げるか

多くの大学が改革の名の下に様々な施策を打ち出し、展開しているが、強固な人的基盤がなければ、それらを根付かせ、大学の価値向上に繋げることはできない。人材マネジメントの確立が急務であることは繰り返すまでもない。

教員については、自主性・自律性と教育研究の特性を尊重する観点から教授会自治が人事など重要な役割を担うことになるが、教育研究現場が抱える今日的な課題は、教員間の負担の不均衡、人事の停滞による閉塞感、管理運営業務の増大など、教授会だけで円滑に解決できるものばかりではない。若手教員が発言しにくい状況は常に起こり得るし、教員間の利害に関わる場合、部局内に摩擦や亀裂が生じることもある。

教授会が担う採用・昇任等の教員人事以外に、人材マネジメントとして何が必要かを改めて整理し直し、それらを教授会、部局長、大学執行部、法人等がどう分担・連携しながら、有機的なシステムとして全体を整合的に機能させることができるか、個々の大学の実情に即して検討していく必要がある。

そのために、例えば人事や教学を担当する理事の下に、専門分野・年代・職階などが異なる教員から成るプロジェクトチームを編成し、人事・教務部門等の職員が事務局となって、節目ごとに教授会の意見を聴きながら検討を進めるという方法も考えられる。

検討プロセス自体が経営層・教職員の育成機会

職員に関する人材マネジメントについては、職員組織の規模や経営層の関心・見識などにより、大学間で差異が生じる可能性が高い。

事務系本務者約8万人を学校数783で単純に割れば 1校あたりの事務系職員は100名程度になる。大規模校は人事制度を企画できる専任の部署を持ち、独自の人材育成システムを整備することもできるが、職員数で見る限り、それが難しいと思われる大学のほうがはるかに多い。

もちろん、規模の大小だけで育成力が決まるものではなく、経営層の関心の深さやロールモデルとなる人材の存在なども育成環境に大きな影響を与えるが、人材マネジメントをシステムとして整え、それが職員に見え、適切に運用されることで、持続的に能力を高め、引き出すことができる。

人事制度を企画する専任部署の有無に関わりなく、教員の場合と同様に、担当理事の下、部署・年代・役職などが異なる職員を集め、先進的な大学や企業の事例なども学びながら、自校にふさわしいシステムを検討させる方法もある。

節目ごとに部課長に報告し、意見を求めることで、この層の育成や意識づけに繋げることもできる。

人材マネジメントの確立をプロジェクトとして捉えることで、検討プロセス自体を経営層や教職員の育成の機会とすることもできる。その中で、雇用と働くことのこれからを考え、大学教育の改革にも活かしてほしい。

2017年1月17日火曜日

記事紹介|学長の器

国立大学法人の経営には、明らかに構造的な課題があり、その解決に取り組んでいるつもりの学長もいるかもしれない。しかし、実際のところ、その経営には、これから述べるような傾向があり、経営改革の成果が上がらない原因となっている。特定の大学法人、学長の経営能力や経験値の問題というよりも、思いのほか進歩しない状況があると感じている。国立大学法人がめでたく構造改革を成し遂げるのは、いつのことになるのだろうか?その経営上の傾向について、考えてみたい。

第1に、経営上の本質的な課題を先送りしているということである。例えば、人件費マネジメントに関して、取り組みのスピードが遅い。ようやく、主要大学でも予算不足から重い腰を上げつつあるが、そもそも人件費抑制の手順が合理的でなく、教員の人員削減は時間ばかりかかって計画策定になかなか至らない。学長が部局の要望を踏まえて再配分もするとリップサービスすれば、最終形がどのようになるのか、誰にも分からなくなる。財務的に持続可能なゴールの姿を示さずに、包括的な人件費改革ができるはずはない。また、人事院勧告準拠は、国の予算不足で無理になっているにもかかわらず、準拠の基本線を維持しようとするために、一部の大学では、地域手当の増額など、無益な人件費増を実施している。今日、世界で進みつつある大衆迎合主義の弊害は、しばしば学者からも指摘されているが、学問の府たる国立大学法人において、人件費マネジメントが進まないのは、大学人自身が大衆迎合主義に流されているからである。

また、物件費が削減されているため、空調など設備投資が先送りされており、施設本体とともに老朽化が進行している。今後、電力料金が上がってくれば、財務的にも一層苦しくなる。非効率組織、不要資産の切り捨てを含む経営判断がないままに、予算の範囲内でやれることだけをやるのでは、全体として大学が陳腐化するだけである。捨てるものを特定して、何に資源を集中するかを判断している学長は稀である。国からの予算が減額になれば、維持・再生するのが難しい組織や施設に関して、積極的に切り捨てる判断ができないのでは、すべてが後手になる。自分の任期中に破綻しなければ、後は野となれ山となれなのだろうか?

さらに、国立大学法人の多くが抱える本質的な課題として、給与制度改革(混合給与の導入、企業とのクロスアポイントメント等)、附属学校の統廃合、事務職員の専門性育成、強みのある分野での研究力強化、広報機能の抜本的充実などがある。こうした課題に関して、失敗を恐れずに、具体的なアクションを起こした大学は、まだ救いがあるかもしれないが、取り組んでいる振りに終わっている法人が大半ではないか?根本的には、事務職員の能力・意欲レベルが全体的に低いという問題が、すべてに悪影響を及ぼしている。最重要の経営課題であるが、教員出身の学長・副学長だけで画期的な成果を挙げられるとは思えない。現実から目をそむけていても、説教だけで事務職員の組織・個人の力量は一向に改善しない。

第2に、学長が自分の経営力を過信して、十分な計画を練らず取り組みを始めてしまうことである。計画自体の適合性に関する検討、特にマーケティングが十分に行われることがない。学長自身が思いつきを次々と手がけようとすれば、所要の体制・資源の確保が二の次になる。そのアイデア自体が、法人にとって長期的にプラスになるのか、分からないものが多い。財源を含む企画案が、役員会に諮られないという信じられないことが当たり前になっている法人もある。その場合は、プロジェクトの目的、成果目標、資源配分、評価基準など、一切が不明確になる。国立大学法人の経営に関する責任と権限を集中し過ぎたために、勘違いした学長が、こうした「暴走」をすることになったのではないか?経営者としての基礎基本ができていない人がトップに居るのだから、まともな経営になるはずがない。国の予算措置が切れれば、維持が困難な事業・組織も多い。財務面の持続可能性は往々にして無視される。結局、引き継いだ者が後始末をすることになるのだが、当初の経営判断が間違っていれば、すべての努力が無駄になる。かつては文科省が大学の概算要求を厳しく吟味していたが、昨今は、その力量がある職員がいなくなっており、法人の自主性の名の下に、誰も学長の「暴走」をチェックしない無責任体制になっている。こうした事態は、法人の財務に余裕がなくなっているからこそ、非常に危険である。

第3に、学長が個性を発揮するつもりで、組織いじりに走る傾向もある。特に、事務組織の作り方と教員・職員の協働体制において、標準となるモデルがないために、本部に集中してみたり、部局に職員を1人ずつ配置したり、行き当たりばったりの状態になる。組織を解体してしまえば、人材育成ができなくなる。独断で進めた組織再編は、碌な結果にならない。他方で、人に仕事を付けるという傾向もある。信頼して使える人が限られるのである。この副学長にやらせたいから、業務をその部に移すというようなことをやっている学長がいれば、本人の経営力は知れていると見なければならない。組織を経営する上で、力量がある人に任せて成果を挙げられるようにサポートするのが、上に立つ人間の役割である。しかし、世の中には、そうしたことができない人間もいる。器が小さいからである。そうした人が、国立大学法人の学長になっているとすれば、悲劇である。私は、国立大学法人評価委員会の唯一無二の役割は、学長の器ではない人物をその職から退かせることだと思っている。法人の経営協議会は学長がやろうとすることに助言こそできるが、経営者としてやるべきことをやっているかどうかを、逐一チェックすることまでの期待はできない。

第4に、教員出身者は、総じて組織としての利益相反に無頓着である。文科省・経産省の合同で、最近策定された産学官連携ガイドラインでも、この点は、要注意とされている。特定の構想について、特定の業者とだけ情報交換して、その知恵を借りて企画案が作成されれば、公正な競争が損なわれていることは明らかである。そうした行為が、極めて問題であるという感覚が希薄なのは、嘆かわしいことである。コンサルがほしければ、きちんと業者と契約して、金を支払って情報を得る癖をつけなければ道を誤る。以上のような問題が起きるのは、トップである学長個人にも原因はあろうが、副学長・学長補佐・事務職員を含む補佐体制が弱いこと、大学としての情報収集・分析力が弱いこと、研究室程度の運営しかしてこなかった教員に大きな組織のマネジメントに関する知識・経験が浅いことが、根本的な要因である。学長に責任と権限を集中したのだから、何をしてはいけないのかをきちんと教えた方が良い。学長が経営者としての倫理規範を逸脱すると、国立大学として致命的な傷を負う可能性がある。ある程度好きなようにやってもらって、失敗から学んでもらうのが、基本的には望ましい。自ずと実行困難でストップするかもしれない。しかし、他人の意見を素直に耳に入れることができない人もいる。学長や副学長になる人には経営知識が欠けていることを前提にシステムを作るべきだろう。

最後に、以上の分析に基づいて、構造改革を適切に進めるためには、企業で当然に行われている組織変革のためのマネジメントの手法に学ぶことが最も重要である。まず、近未来の財務状況予測を、より精度高く示して、危機感を共有する。何が課題かについても、きちんと討議して、経営陣が共通認識を持つ。その上で、構成員にも、きちんと説明して、危機感を共有させる。次に、予測を踏まえて、改革シナリオを複数用意して、副学長以上のレベルで、総合的な議論をする。最終的には、組織・人員の最適な規模・形態を詰めて、完成型と手順を含む改革プランを策定する。さらに、改革プランに関して、大学の構成員に示して、その理解のもとに実行に移す。その際、事務職員の中からリーダーとなる人材を抽出して、業務を遂行させつつ、育成する。以上のような組織変革をリードできないと判定された人は、文部科学大臣の見識として、学長に任命しないことである。これ以上、時間を浪費してほしくない。

2017年1月15日日曜日

記事紹介|地方大学の振興

政府が「地方創生総合戦略」を改訂し、地方大学の振興を新たな目玉策に掲げた。

地元で進学した人への奨学金の充実や、地元企業でのインターンシップへの支援などを行う。

地方大学には、地域を担う人材を育成する役割がある。地元企業と連携し、大学が持つ技術を実用化に結びつけた事例も少なくない。「知の拠点」としてさらなる発展を望みたい。

首をかしげるのは、東京における大学や学部の新増設の抑制を同時に打ち出したことだ。今夏をめどに具体的な検討を進める。

地方の若者の多くが、大学などへの進学や就職時に東京圏へと流出している。これに歯止めをかけて、一極集中を是正するのが目的だという。

だが、東京での受け皿を増やさないことが、直ちに地方大学の振興につながるだろうか。

都会での進学を希望する受験生には、「地元の大学には学びたい学部がない」「大学で学んだことを生かせる仕事が地域にない」といった切実な思いがある。

全国から人材が集まる大都会で学びたいという「若者のエネルギー」から目をそらし、地元への進学を増やしたところで、卒業後に都会へ向かう動きに歯止めをかけることが可能とは思えない。

どこで何を教えるのかは大学経営の根幹だ。地方の陳情を受けて、政府が口出しするのが妥当だろうか。学問の発展や大学の国際競争力向上を阻害しかねない点も認識しておくべきである。

ましてや、地方大学の生き残り策と考えるなら大きな誤りだ。18歳人口が減少する中で、私立大学の多くは定員割れを来している。この問題に向き合わず、小手先の改革を講じる意味は小さい。

地方大学が腰を据えて取り組むべきは、真に学生に必要とされる存在となることだ。それは、大学が地域の発展にどう関わっていくのかを明確にし、地域に残りたい人を増やすことである。

同時に、大学卒業後に就職したくなる「魅力ある仕事」をつくるよう、地域全体での取り組みを強めることが重要だ。

政府や自治体には、高い技術力や成長性などを備えた中小企業やベンチャー企業の育成を急いでもらいたい。それなくして、地方大学が真に活性化することを望むことはできない。

東京の大学抑制 まず地方の受け皿作りを|2017.1.15 産経新聞 から

2017年1月9日月曜日

記事紹介|国立大学の質保証が機能するためには

1 評価から質保証へ

最近、大学の「質保証」という言葉が頻繁に用いられるようになっている。さらに、「内部質保証」という言葉も登場し、大学業界、特に国立大学界隈ではある種の流行語のようになっている。

そもそも大学の「質保証」とは何か。ごく単純化して言えば、大学評価に代わる言葉として用いられている感がある。そして、「内部質保証」は大学による自己評価、「質保証」は評価機関による第三者評価(あるいは評価全般)をさしている。

しかし、その具体をみると大学評価と大学の質保証との間の相違もみえてくる。まず、その対象だ。大学評価の場合には、研究と教育の双方をさしているが、質保証の議論の実際は主に大学教育に焦点が当てられている。また、大学評価の場合には、ある時点での合規性やパフォーマンスに着目する。だが、質保証の場合、入学から卒業までの教育サービスの提供とそれを可能にあうる体制や運営などトータルに、パフォーマンスのみならずそのプロセスも着目している。

2 なぜ「質保証」なのか

日本で「質保証」を取り上げられるようになったのは、海外の高等教育界の影響が大きい。英国や欧州諸国で用いられた quality assuranceという言葉が直訳され、日本の高等教育政策や教育学の世界で用いられるようになった。

では、欧州はなぜこの言葉を用いるようになったのか。歴史的検証を行う必要があるが、筆者は次のように考える。第一に、1994年のWTOの「世界貿易機関を設立するマラケッシュ協定」の影響である。この協定の附属書として「サービスの貿易に関する一般協定」が作成されたが、これにより、教育サービスを含むサービス分野がWTOにおける貿易交渉の対象として取り扱われることとなった。つまり、大学教育を、”サービス”として捉えることが国際的に公認されたのである。しかし、多くの大学関係者にとってこの言葉はショックだったに違いない。大学教育にビジネス用語が用いられ、さらには自らが顧客に奉仕することを連想させるような言葉だったからだ。

第二に、学生からのプレッシャーが挙げられる。英国では2012年に授業料が大幅に引き上げられた。学生たちはデモを繰り返し不満の声を露にした。そうなると、大学側は高い授業料の代わりに、何を提供できるのかをより明確に学生に説明し、証明することが求められることになる。

また、若者の慢性的な失業問題は欧州諸国に共通する社会問題となっている。例えば、フランスの修士号取得後18カ月以内の就職率は6割にとどまっている。高等教育を受けたものの職を得られない若者の数は増加傾向をみせている。

こうしたプレッシャーを受け、フランスでは大きな試行がおこなわれようとしている。専門職養成(グラン・ゼコール)のみならず、一般学士課程(大学)においても、そこで学んだ者が身に着けるものを具体的に明記することが、大学に義務付けられたのである。明記の内容は、専門分野の能力、言語能力、ジェネリックスキル(汎用的なスキルで思考力やコミュニケーション力など)、そして、職業準備能力だ。職業準備能力では、どのような業務をできるようになるのか、そこで使える技術・能力、そしてどのような職種への就職が可能になるかを記すことが求められる。

こうなると、学生を主軸に捉え、求められる知識、技術、能力を定義し、それに見合う教育サービスの提供が可能になるように、カリキュラム、教材、教員、運営を見直すことが大学に求められることになる。さらに、学生の要望に応えられなければ、改善を余儀なくされるわけで、恒常的に見直しが求められることになる。

このようにみると欧州の大学の「質保証」の構図は明快だ。大学教育をサービスとして捉えた時、その先にある顧客としての学生の存在がより鮮明になり、彼らへの要望に大学が応える術として、「質保証」というコンセプトが登場してきたのである。

3 顧客なき日本の大学「質保証」

日本の高等教育政策に「質保証」という言葉が登場したのはいつなのだろうか。

中曽根政権、橋本政権、小泉政権の内閣関連文書(経済財政諮問会議、規制改革会議、行政改革会議など)と府省文書(中教審、大学審議会などの答申)をデータ化し分析を行ってみた。

すると、この言葉が登場したのは小泉内閣からであることがわかった。先の3政権はニュー・パブリック・マネジメントの考え方の下、大規模な行政改革を行っているが、特に、小泉政権は「官から民」「聖域なき構造改革」を掲げ、国立大学もその対象となり国立大学法人化が施行された。こうした中で、海外で議論されていた「質保証」という言葉が登場するのも頷ける。

しかし、「質保証」の関連用語を抽出してみたところ、「大学生」という言葉が検出されなかったのである。26件の言葉が検出されたが、多く検出されたのは「大学」「評価」「国際化」「自律的」、次いで「大学教育」であった。

一体、誰に向けた「質保証」なのだろうか。

4 私立MBA関係者が突いた「内部質保証」の矛盾

ある私立大学のMBA関係者に「内部質保証」について尋ねたことがある。すると「何を言っているのかわからない」という答えが戻ってきた。高額な授業料を求めるMBAにとって、学生の批判は、大学の収入や経営にすぐさま跳ね返ってくる。したがって、常に、学生の学習成果や反応、そして国際的な潮流に鑑みて、カリキュラム、教材、教員構成を見直さざるをえないというのである。したがって、わざわざ「内部」という言葉を加える意味がわからないというのだ。ちなみに、このMBAコースは海外の認証評価機関の評価を受けているが、あくまでも国際舞台に出るためのパスポートと位置付けている。

5 国立大学の質保証が機能するための条件

2016年3月、文科省は、内部質保証の確立を重視した評価への転換を掲げた。その背景には、いわゆる”評価疲れ”や評価の形骸化があり、大学の自主的な取り組みをより重視すべきであるという意見がある。しかし、果たしてうまく機能するのであろうか。特に、国立大学の場合には、それを妨げる構造的な性質を抱えているようにみえる。つまり「質保証」の対象(顧客)がどこまで意識されているのかがよくわからないからである。先のデータ分析が示すように、日本の場合には、質保証の対象が不在なまま、政策的な言葉として使われてきた感がある。顧客のニーズがわからず、そこからのプレッシャーもなければ、質保証の必要性を肌身で感じることは難しいだろう。また、それで済んでしまうのは、国立大学の収入が学生からの授業料ではなく、国からの運営費交付金で成り立っているからだ。したがって、国立大学が「質保証」は運営費交付金を獲得するために課せられた条件と捉えたとしても、ごく合理的な反応である。だが、そこで記された「質保証」の報告書は運営費交付金獲得のための作文となってしまうだろう。

制度化する前に、誰のために何を保証するのか、一度原点に戻って再考する必要がないだろうか。

※下線は拙者

記事紹介|大学研究者の役割

第一生命が主に小学1〜6年生を対象にして毎年行っている「大人になったらなりたいもの」の調査において、「学者・博士」が男の子の間で2位になったそうだ。第一生命はレポートの中で「大隅氏がノーベル賞を受賞したころから人気が再燃」と解説している。子供の「未知のことを発見する」、「社会を変える」、「それらによって名を残す」という知的欲求は素晴らしいものであり、そういう心は大切に育てたいものだ。

一方で、近年高学歴ワーキングプアが問題になるなど博士の就職難が日本社会に影を落としている。大きな夢と厳しい現実の狭間で、博士をとり学者を目指す子供やその親はどのようにキャリアを考えていけば良いのだろうか。

日本の一番大きな問題は、「学者・博士」になりたいという子供や若者たちが、いつしか「未知のことを発見する」「それによって社会を変える」という本来の意味を離れて、「大学の中で閉じこもって好きなことだけやる」という狭い意味の「学者・博士」を目指しているというところにあると思う。

確かに戦後、日本ではたくさんの人が大学や国立の研究所に雇われて研究者となり、その一部は世界的に活躍してノーベル賞を取ったりした。しかし、多くの研究者がそうしたキャリアを築けたのは日本が右肩上がりで成長していた時代の産物でもある。

近年、多くの分野で大学教員などのアカデミックポストの競争は熾烈を極めている。アカデミックを目指す40代半ばくらいまでの多くの人達は、年配や引退した研究者を見て「昔は良かったのに」とか「自分たちはなんと不運なのか」と思ったことが一度や二度ではないのではないか。

しかし恵まれた時代に大学教員になった人は、その時代の流れに乗ってキャリアに成功したのである。もし彼らが50年後に生まれていたら、大学教員を目指したのかすら定かではない。逆にいまアカデミックを目指している人は、確かに研究能力が高いかも知れないけれども、50年も前に流行った職業にいまだにとりつかれているという意味で社会の流れを読めていないのである。

これからの社会で、真の意味での学者・研究者がどんな職業に就くのかは全く明らかではない。米国などの大手企業の研究者たちが起こすイノベーションの大きさは、長期的に見ても大学の研究者のそれよりもずっと大きなものになる可能性がある。あるいは、同じアカデミックでも資金に恵まれた資源国が多くの研究者を雇うことになったり、教育需要の拡大する人口の多い発展途上国の大学でキャリアを積むのが流行るかも知れない。あるいは、大きな戦争が起こり軍の研究所がイノベーションに大きな役割を担うことになる可能性もある。

別に大学研究者の役割が終ったと言っているのではない。そういうキャリアも依然としてあるけれども、日本はそれを目指す人だけが多過ぎるのである。

こういうことはここ20年くらいずっと言われているが、遅々として状況は改善されていない。若手研究者は企業に行きたくないと言い、企業は博士は役に立たないと言う。それは、人が若い頃に考えていた夢にどうしても捕らわれるからだろう。私自身、24歳の時には大学を去って一般企業に就職したのに、結局は大学に戻ってきてしまったのだからそれは痛いほどわかる。数学科で優秀だった同期の中には、そういうことに苦しむのが嫌だからという理由で敢えて学部を出てすぐに就職した人もいたくらいだ。博士を終え30歳くらいになってそういう事を言われて転身するのはものすごく大変だろうと思う。

だから、もっと若い人に私は言いたい。60年前の人がノーベル賞を取ったのを見てそれを目指すのは、電話交換手だった大好きなおばあちゃんを見て電話交換手を目指すようなものだと。これからどんな人がイノベーションを起こして社会を変えるのか、自分の頭で考え、勇気を持って進むことが大事であると。

2017年1月7日土曜日

記事紹介|骨太の産学連携

日本の大学や研究機関に対する企業からの研究費支出を2025年には、現在の3倍にするという政府目標を達成するためには、産学官連携機能を強化しなければならない。文科省、経産省は共同で、産学官連携による共同研究強化のためのガイドラインを公表した。

日本の大学等と企業との共同研究は小規模なものが多く、約8割が300万円以下にとどまっているが、欧米の大学では1000万円以上の大規模な共同研究が多い。様々な要因があるが、その一つが日本では共同研究を実施するための基本的な体制が整備されていないことである。

企業からは、進捗管理ができておらず、いつまでにどのような成果が出るのかが曖昧なため、大型の共同研究契約を組むことが難しいという声を聞く。また研究者からは、本部からやれと言われるが、自分の研究が進まないため、あまりやりたくない。大学本部は、多くの共同研究を受け入れてもあまり実入りが多くないし、特許維持費が経営を圧迫している。様々な不満の声がある。

適切なコスト計算や共同研究を行うためのスキーム、研究者評価などの課題があり、それらがトータルシステムとして機能していないために、こうした不幸な状況が生まれてしまう。

ガイドラインは、そうした環境を整備するための考え方や具体的な事例などを示しており、適切に使えば機能強化に役立つだろう。もちろん、大学によって規模や機能が異なるため、全てを一律にはできないが、最低限満たすべき条件はあるだろう。指定国立大学ではなおさらだ。

2017年1月6日金曜日

記事紹介|平等とは

災害に遭う。昨日まで当たり前のように思われた営みが奪われ、困難の中に放り込まれる。どうやって日常を取り戻せばいいのか、どう生きればいいのか、分からない。

個人だけでなく、大災害は地域全体を破壊してしまう。過去の被災地がそうであったように、阪神・淡路大震災でも人々は途方に暮れるばかりだった。


20年前のことだ。被災地の神戸市長田区をドイツの市民団体が訪れた。滞在経験がある作家の小田実さんが招いた。

小田さんは被災者への公的支援を求める運動に取り組んでいた。一人一人の住まいや生活を再建することが被災地の復興につながる。国は支援金を支給すべきだと訴えた。

国はかたくなだった。「支援金を支給すれば震災で失われた個人財産を国が補償することになる。それはできない。阪神・淡路の被災者だけ救済すれば平等の原則にも反する」

国の主張について説明を受けたドイツ人たちは言った。「私たちは神の目から見て平等と言えるのかと考える。地震で被災者は不平等な状態に陥った。支給は当然だ」

キリスト教社会には、人間を超越した「神」という存在がある。私たちの社会ではどうだろう。

居合わせた被災者は語り合った。そして一つの結論を導き出す。

「私たちには憲法がある」

法整備を促す力に

憲法は、国の壁を突き崩そうと声を上げた被災者の支えとなった。

第13条「個人の尊重と幸福追求権」、第14条「法の下の平等」、第16条「請願権」、第25条「生存権と国の社会的使命」…。条文の理念が運動の血となり、肉となる。

国は逆に憲法が定める「平等」を盾に個人補償はできないと拒んだが、超党派の国会議員が運動を後押しし、国会の法制局も知恵を絞った。

出来上がった法案の審議で、小田さんは参考人として意見を述べた。「人間の国を造ろうじゃないか。法案はそのたたき台だ」

1998年、被災地の声を受けて新たな法律が生まれた。「被災者生活再建支援法」である。

阪神・淡路の被災者は対象から外れたものの、復興のために被災者に現金を支給するという考え方は、広く社会に認識された。

法律は支給の増額や使途制限をなくすなどの改正を重ね、最大300万円を支給する制度となる。自治体独自で支援する動きも広がる。自然災害だけでなく、新潟県糸魚川市の火災でも適用されることになった。火災での支援金支給は初めてだ。

被災者は一人一人、被害の状況が違う。一律に扱うだけでは、結果として新たな不平等を生む。それぞれに寄り添い、平等に支えるにはどうすればいいのか。

東日本大震災の発生で先延ばしになっている支援法改正に向けて昨年、日本弁護士連合会が出した意見書が一つの道筋を示す。

平等に大事にする

災害は住宅だけでなく、仕事などを含む生活基盤全体に被害を与える。全壊、半壊などの判定で支援の中身を決めることには限界がある。

意見書が描くのは、介護保険のシステムのように、個別の事情に応じて計画を立てる仕組みを被災者支援にも生かすものだ。個々の被害を詳しく把握し、支援員が立てた計画に沿って生活再建を目指す。

作成に関わった兵庫県弁護士会の津久井進弁護士は「一人一人を平等に扱うとは、平等に大事にするということだ」と言う。

支援の拡大は財源が壁になるが、意見書の指摘は明快だ。「東日本大震災の復興財源25兆円のうち、被災者生活再建支援金が占めるのはわずか1.2%。人間の復興に向けて、さらに手厚くするのは当然である」

昨年、阪神・淡路の被災地では借り上げ復興住宅をめぐり、自治体が20年の期限を迎えた入居者に部屋の明け渡しを求め、裁判所に訴えた。

復興住宅の入居者募集は自治体などの「一元化募集」という形で実施された。同じ建物でも、神戸市が借り上げた住宅に申し込んだ人もいれば、兵庫県の住宅に入った人もいる。たまたま、そうなった。それが今、大きな差を生んでいる。

神戸市と兵庫県では入居の継続に関する条件が違うためだ。県は「判定委員会」を開き、個別の事情にも配慮する。神戸市と西宮市が一律に入居者を提訴する一方、兵庫県や宝塚市、伊丹市は入居の継続を認めるなどの対応を模索した。

これではすべての人を平等に大事にしているとは言い難い。財政的に自治体の対応に限界があるのなら、国が手だてを考えるべきだろう。

憲法は国と行政、そして社会を構成する私たちに強く求める。幸福追求権や生存権など、盛り込まれた理念を実現するために努めよ、と。

2017年1月5日木曜日

記事紹介|最底辺層 子ども放置しないで

沖縄で風俗業界の女性を調査・上間陽子さん(44)

沖縄県の中でも貧困のきつい地域で育ちました。繁華街が近く、同級生たちは中学時代から暴力と性の世界へのみ込まれる。かっこよくヤンキー(不良)しているように見えた友達が性被害に遭い、傷ついた姿を見た時、本当に絶望的な気持ちになりました。

そういう生活しか選びようのない層が、社会にある。キャバクラやソープランドなど沖縄の風俗業界で未成年から働いてきた十五人の女性に継続的にインタビューする調査を五年間行い、あらためて見えたのは、生いたちの厳しさでした。

安定した家庭で育った人はまれ。貧困でアルコール依存症や暴力を振るう父親がいたり、母親の恋人に邪魔にされたり。居るのがつらくて、「性」を、生きるための掛け金(手段)にして家を出ます。自分の家族を作ろうとしますが大抵うまくいかない。相手の男性に失神するまで殴られ、ひどい浮気をされ、子どもを抱えて風俗へ戻っていく。

不安定な家族から、次の不安定な家族が生まれる。そうなるのは自己責任だという視線を浴び、本人たちも思い込んでいますが、違う。家族はもろくて弱いのが当然。だから社会が支えなければならないんです。

最底辺層 子ども放置しないで

沖縄には、地域のきずなを大事にするイメージがあると思いますが、それは中間層の人々のもの。最底辺層は日常のリズムを破壊する危険な存在としてはじかれてきました。さらに女性にとって厳しいのは、男性のネットワークが強固なことです。風俗の女性たちは、知られたくない個人情報をやりとりされ、ますます地元で生きづらくなる。

社会の支援が必要な状態なのに、遠い。公立の夜間保育所に子どもを預けたくても、就労証明書など多くの書類をそろえる手続きでつまずき、劣悪な施設しか選べません。本人たちも「自分のせいだから」と助けを求めない。

他人にも同じように「自己責任」を求めるので、生活保護たたきや差別発言にも抵抗がない。将来や社会を考えて正義を語る場もないから、辺野古や高江の米軍基地建設なども「長いものに巻かれた方がいい」と簡単に受け入れます。

最底辺層の放置は価値観の分断を深め、社会を不安定にする。転換のかぎは、社会が子どもを支え、貧困や困難の連鎖を止めることです。沖縄は子どもの貧困率が全国平均の二倍と深刻で、県も取り組みを始めましたが、支える意味が浸透していない。ある貧困地区で、病院が子どもたちへ毎朝ご飯を百食分無料で提供すると申し出ましたが、小学校長に止められました。「親を甘やかすな」と。「自己責任」だと切り捨てては、何も変わらない。

多くの子どもが通う保育所と学校こそ、支えの基盤になるべきです。専門職である保育士や教師らが子どもに向き合い、話を聞く。何を言っても排除されない、ばかにされないと子どもたちが安心できる、豊かな環境にしてほしい。そのためにこの国がきちんと予算を割き、質を高められるか。そこにかかっています。

<うえま・ようこ>
琉球大大学院教育学研究科教授。沖縄で女子中学生が集団レイプされ自殺した事件を機に、社会理論・動態研究所の打越正行研究員と風俗業界の女性らを調査。調査をまとめた書籍「裸足(はだし)で逃げる」(太田出版)が31日に発売予定。

<包容社会 分断を超えて>(下) 暴力に苦しむ貧困女性|2017年1月4日 東京新聞 から

2017年1月4日水曜日

記事紹介|貧困を生み出すしくみ

今日から仕事始めの人もいるでしょう。今日は、新年始まったことですし、もうそろそろいい加減に今年こそはぶっ壊したい、この日本の不条理を紹介します。ムカつきますが、注意くださいね。どうぞっ!

生活保護家庭の子どもは大学に行っちゃダメ

憲法でうたう「健康で文化的な最低限度の生活」を過ごすため、我々には生活保護というセーフティネットを頼る権利があります。例えば病気や怪我などで働けなくなってしまって、実家も頼れない時。働いても賃金が低すぎて、とても家族を養えない時。役所に言って相談すれば、我々は支援を受けることができます。

こうした「最後のセーフティネット」と言われる生活保護ですが、重大なバグがあります。それは、生活保護家庭の子どもたちは、大学進学できない、というものです。

昔は大学に行くことがある種の特殊な、ともすれば贅沢なことだったので、税金を使ってそこまでは、ということだったのでしょう。しかし現在では、安定した仕事につき、貧困の連鎖から抜け出すためには、大学進学という道は非常に有効です。

にも関わらず、国が貧困の再生産を強化するような政策を、いまだにとり続けているのは、バカバカしいにもほどがあります。

少し正確に述べますと、生活保護を受けていても、「世帯分離」と言って、進学する子どもだけ世帯から外してしまうことで、その子は大学に進学することはできます。確かに抜け穴はあります。

けれど、世帯分離した分だけ、生活保護費は数万円減ります。すると、進学した子どもはその分をアルバイト等で稼がなくてはなりません。削減された保護費と、そして学費や生活費のために勉強する時間を削らざるを得ない、生活保護家庭の子どもたち。こんな不公平はあるでしょうか。

「子どもの貧困をなんとかしたい」って政府が言ってるんだったら、寄付金とか集めてないで、こういう大昔のバカげた制度を直してくれ、と声を大にして言いたいです。

妊娠したら高校退学させられる

全国の高校において、妊娠した場合、退学させるというルールになっています。例えば、岩手県教育委員会の制定する『岩手県立高等学校の管理運営に関する規則』の中には、懲戒規定があり、具体的事例表を定めています。 その中には性的暴行(レイプ)と並んで、妊娠を退学処分としています。(出典:「第189回国会 予算委員会 においての泉健太議員による妊娠退学についての質問」 http://bit.ly/2hPdHDP)

え、ちょっと待って待って。レイプと妊娠って、なんで同列?しかも、妊娠「させた」方じゃなくて、「妊娠」「した」方を、ですよ。

ありえんでしょう。

また、京都の高校では、妊娠した生徒にハードな体育実技を要求して、できないなら休学しろ、と「勧めた」事例もありました。(「妊娠中の高3女子生徒に体育の授業を要求 京都の高校、休学勧める」 産経新聞 http://bit.ly/2hPj5Xm )

これ、高校生で妊娠した女の子が、退学させられて、その後どういう人生歩まないといけなくなるか、想像つきますか?

ほぼ99%、妊娠させた方の男はバックれます。女の子はシングルマザーとして、働きながら子どもを育てていきますが、高校中退で安定した仕事につける確率は相当低くなります。

当然貧困化するリスクが上がり、子どもに教育投資できず、子どももまた貧困化していく可能性が高まります。

学校が貧困を生み出しているじゃないか!

あまりにもおかしいので、知り合いの文科省の官僚に聞いたんです。そしたら「駒崎さん、実は、『妊娠退学』の統計もないんですよ。各都道府県の教育委員会、そして各学校の校長に任せているのですが、彼らは『自主退学』として処理しているようなんです。ですから、妊娠退学が存在している、という公的な証拠はないんです」ということでした。

おいおいおい。本来だったら、妊娠した生徒にこそ、スクールソーシャルワーカーが寄り添って、なんなら保育もしっかりつけて、むしろなんとか高校は卒業してもらわないとダメなんじゃないんですか。学校は教育機関で、福祉は関係ないです、って、それで良いんですか。

全国の教育関係者の皆さん、この状況を放置していて、良いんですか?

低所得のひとり親に出される給付金支給が4ヶ月に1回

低所得のひとり親には、児童扶養手当という給付金が支給されます。月最大で4万2000円、子ども2人目は1万円というわずかなものですが、これがひとり親家庭のライフラインになっています。

さて、この児童扶養手当、役所から振り込まれるのが、4ヶ月に1回なんです。4ヶ月に1回!それで途中、カツカツにならずにやっていけるかって?

やっていけないんですよ。3ヶ月目の最後の方はもうほとんど手持ちのお金がなくて、でもガス代は払わないといけなくて、しょうがないから消費者金融や闇金に借りてしのいで、そうすると利子がすごいことになって、雪だるま式に借金が増えて、破綻して行く、と。

そうやってにっちもさっちも行かずに、県営団地を立ち退きさせられるその日に、中1の娘を運動会のハチマキで母親が首を絞めて殺した事件が銚子市でありました。

「4ヶ月分計画的に使えば、なんの問題もないじゃないですか」

役所の人は言います。そういう役人の人には、「あなたの給与の支払いを4ヶ月に1度にしてもなんの問題もないんですよね?」と問いたい。

厚労省さん、年金が2ヶ月に1回、生活保護は毎月支給なんだから、児童扶養手当も毎月支給にしてください。そんなこともしないで、マイナンバーとか言ってんな、と。

義務教育でも金がかかりすぎ

娘がもうすぐ小学校1年生なんですが、びっくりしましたよ。ランドセル、高いんですよね。7万とか、高いやつは10万とかするんですよ。最低ラインでも、3万円代。

それ以外でも、絵の具とか、習字道具とか、体操着とか色々あるんですよ。ちなみに、中学行ったら制服とか買うんですが、これも3万〜7万円くらいするんですね。

おいおい、義務教育って、無料じゃなかったんですかね?貧富の差なく、誰しも平等に学べることで、身分の固定化を防ぎ、誰しも生まれに関係なく活躍できる社会をつくろう、ってのが義務教育の理念じゃなかったんですかね?

しかもなんですか。習字道具って、この「すずり」って何で新品じゃないとダメなんですかね。別に石だし。6年生が使い終わったやつ、学校で回収して洗って、一年生にあげれば良いんじゃないですか?

あと、何ですか、この「学校指定」って。何で学校指定の文房具屋で買わないとダメなんですか?これって、地元の文房具屋への、制服だったら洋品店への公共事業ですよね?その公共事業を、なんで子育て世帯の財布から出さないといけないんですかね?

まず、ランドセルは選択制にしましょうよ。別に6年間ずっと使わなくて良いし。体の成長に合わせて、安いリュックとかナップザックを買い換えれば良いんだし。僕の留学していたアメリカはそういう仕組みで、誰も困ってなかったです。多分世界中でランドセル使ってるの、日本くらいじゃないですかね。

あと、制服も高すぎでしょ。イギリスだと民間アパレルメーカーが価格競争してくれて500円台のものもあるそうです。(出典:朝日新聞「学校の制服、価格競争進む英国 セットで500円台も」 http://bit.ly/2iG3IjD」)

でも、そうあるべきでしょ。何で何万もするんですか。しかも地元の洋品店を延命させるために。

義務教育なんだから、教育関連費も無償にしましょう。

参考:「制服の価格、安くするには 東京都、業者の独占にメス」 http://www.asahi.com/articles/ASJBP1CTPJBNUPQJ00W.html

医療的ケア児は普通に学校に行けない

鼻からチューブを入れたり、気管切開をしている「医療的ケア児」。こうした障害のある子達が特別支援学校に行こうとすると、「親が同伴で付いてきてくれたら、通学できますよ」と言われます。

親は学校で教育を受けさせたいと思うので、仕方なく一緒に通学します。そして教室の端っこで、6時間座って待っています。待機児童ならぬ、「待機親」です。

当然仕事は辞めざるを得ません。だいたいの場合、母親が辞めます。共働き家庭は、片働きになり、収入は激減します。医療的ケア児家庭は、公共交通機関での移動がしづらいため、車を持たなくてはなりません。そうした費用も家計を圧迫します。

ひとり親だったら、生活保護しか道はありません。医療的ケア児の介護に心身ともに負担がかかるのに、我々の社会は更に経済的にも追い打ちをかけているのです。

これって、学校に訪問看護師が行けるようにして、親の代わりに医療的ケアをしてあげれば、ある程度解決する話なんです。でも、訪問看護は健康保険法っていう法律で「居宅(家)だけ」って決められてるんで、それができない、っていう話なんです。

バカげてます。法律ができた時に、医ケア児を想定されてなかったわけで。そこは変えていきましょうよ。障害児家庭をわざわざ貧困化させて、誰が得するんでしょうか。

(参考)「安倍総理に「医療的ケア児が普通に学校に行ける」ようにお願いしました」 http://www.komazaki.net/activity/2016/10/004840.html

「「医ケア児も親同伴なしで学校に!」記者会見がNHKニュースで取り上げられました! 」 http://bit.ly/2i836zQ

以上、2017年にはぶっ壊したい、貧困を生み出す日本の5つの仕組みでした。人がつくった仕組みは、人が変えられる。「いいかげん、変えようぜ!」っていう声が高まれば。みんなで声をあげていきましょう。

2017年01月04日 2017年にはぶっ壊したい、こどもの貧困を生みだす日本の5つの仕組みとは|駒崎弘樹 から

記事紹介|あなたが闘争しないと社会は変わっていかない

1 消費主義に支配されるな

現代の消費主義に支配されてはいけません。でもこれは、言うのは簡単です。消費主義は、蜘蛛の巣に引っかかるようなものです。企業はこれを買え、あれを買えとあなたにお金を使うように仕向けてきます。それに甘んじてモノを買い続ければ、あなたはもっとお金を稼ぐために、もっと長い時間を、お金を稼ぐために費やすことになるでしょう。そうなると、あなたの自由な時間はどんどん減ってしまいます。

本当に必要なものだけを買うようにしてください。そうすれば、あなたの自由な時間はもっと増えます。貧乏とは、多くのものを必要だと思ってしまう心のことです。無限にモノをほしがってしまう欲こそが「貧しい」ということなのです。

2 歩き続けよ

人生でもっとも重要なことは、勝つことではありません。歩き続けることです。それはつまり、転んでも毎回起き上がること、新たに何かを始める勇気を持つということ、何かに打ち負かされたときにまた立ち上がるということです。

私は若い時、世界を変えるために戦いましたが、残念ながら世界を変えることはできませんでした。そして私は牢獄に入れられて10年以上を過ごしました。これは私にとって非常につらい時でした。でも、その辛い時間がなかったら、今の自分はなかったと思っています。

3 同じ志を持つ仲間を見つけて闘争せよ

社会は集団というツールがないと変わりません。もしあなたが今の現状に不満を持っているなら、同じように不満を持っている人を見つけて仲間にしてください。仲間を集めて集団を作って主張すれば、大きな力はなくても、社会に意識を植えつけることができます。

これまでも、社会はこうして少しずつ変化してきました。100年も前は、労働者は15時間も18時間も長時間の労働をするのが当たり前でした。そんなとき、ある人がこんなことを言い出したのです。「1日の労働時間が8時間にして、寝る時間は8時間必要で、それ以外のプライベートな時間が8時間は必要だ」と。当時の人々の多くは「コイツはなんて頭のおかしいことを言うんだ」と思ったことでしょう。

でも、その人は仲間を集めて、闘争を始めたのです。今では8時間労働が当たり前になっていますが、自由な時間のために戦った人がいたから。今ではそんな闘争をした人は忘れ去られているのかもしれませんが、彼らは闘争することで他の人の意識を変えたのです。

社会が変わり続ければ「1日の労働時間は4時間が当たり前」になることも十分起こりうることです。

日本では、人々があまり希望が持てないと聞きました。若者の多くが投票にいかないそうですね。彼らは、社会が変化するということを信じていないのでしょう。

何か魔法のようなものが社会を変えてくれると考えないでください。あなたと同じ志を持つ人はたくさんいます。仲間を見つけて集まってください。そして、戦ってください。

4 自分の利己主義を抑えよ

私は「最後の審判」を信じていません。でも何らかの人生の時点で、鏡の前に立ち止まって自分自身を見つめるときが来ることはあると思っています。そんなとき、これまで何かをやろうとして、何度も失敗したけど、行動に移した数々のことを思い出すかもしれません。「100やりたかったことがあるとすれば、5しかできなかったけど、行動に移すことができて有意義だった」と思えるかもしれません。

でも反対に、「私は人生で何もしてこなかった」「私の人生は浪費の連続だった」、「誰に対しても、手を差し伸べなかった」、「誰かのために時間を費やすことなんてなかった」と思うこともあるかもしれません。そんな人は、鏡の前に立ち止まったとき、自分の姿を見て失望するでしょう。そこに映っているのは、自分のエゴイズムでしかないからです。

すべての生命はエゴイズム(利己主義)を持っています。それは自分自身を守るために、自然が私たちに与えてくれたものです。でも、人間はひとりでは生きていけません。必ず他者を必要とする生き物なのです。

他人に勝つために戦うのはやめてください。そうではなくて、自分自身の心の中にあるもののために戦うのです。

「世界でいちばん貧しい大統領」が日本の学生に語った4つの人生訓|lifehacker から

記事紹介|自分の現在の義務を完全に尽くす

真に優れた人物は、世間的な名誉や地位に拘泥(こうでい) しない。

今、目の前に与えられた仕事を、完全にやり遂げる。

その仕事が自分にとって、小さいとか、 不釣合いだとかは一切言わない。

しかし、往々(おうおう)にして、ある地位まで上り詰めた人は、 その切り換えができない。

まわりからチヤホヤされたり、 立てられることに慣れてしまったからだ。

坂本龍馬は西郷隆盛と初めて会ったときの印象を、 勝海舟に次のように語ったという。

「西郷というやつは、わからぬやつでした。

釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、 大きく叩けば大きく響く。

もし、バカなら大きなバカで、 利口なら大きな利口だろうと思います」

今、目の前に与えられた仕事を、完全にやり遂げる人でありたい。

2017年1月1日日曜日

記事紹介|振り回されるのではなく使いこなす

米国の大学で、新学期になると学生にこんな問いかけをする経済学の教授がいた。「10年前には存在しなかったが、いまは身の回りにあるモノを思いつく限り言ってみて」。技術の進歩がいかに人間の暮らしを変えるのか、実感させるためだ。

10年前なら夢物語としか思えなかったものが、どんどん実用化しつつある昨今である。自動運転の乗用車の開発が進み、無人機ドローンによる宅配が検討される。会社の経営判断に人工知能が関わる日も近いかもしれない。ただ心配もある。

「十年後存在しないかもしれない本と言葉と職種と我と」。書店に勤める若き歌人、佐佐木定綱(さだつな)氏の作である。紙の本という存在、書店員という仕事はこの先どうなっていくのか。似たような不安は程度の差はあれ多くの仕事に当てはまるのではないか。

人工知能は職を奪うだけでなく、いずれ人間を支配すると恐れる学者がいる。遺伝子操作で親の望む赤ちゃんをつくるのは是か非かの議論も起きている。今年、来年、あるいは10年先、科学技術は人間をどこに連れていくのだろう。

「一本のナイフはパンを切るためにも喉(のど)を切るためにも使用できる」と、社会学者ジグムント・バウマン氏が対談書で述べている。社会を便利にしたIT革命が、誰かから監視される仕組みを生むかもしれないという指摘である。あらゆる技術に通じる例えだろう。

技術に振り回されるのではなく使いこなすにはどうすればいいか。考え続けなければいけない問いである。

10年先への歌|2017年1月1日 朝日新聞 から