2017年3月29日水曜日

記事紹介|財政健全化への王道

2000年以降に17人の日本人がノーベル賞を受賞したことで、我が国の学術研究力の高さが誇れる状態にあると人々は誤解している。これらの成果はあくまで20~40年前に得られたものだ。

日本の人口当たり論文数の世界順位は2000年以前の15~16位から13年には37位に転落した。台湾や韓国だけでなく、クロアチア、セルビア、リトアニアといった東欧諸国にも抜かれた。日本の研究力は00~03年をピークに低下し、現状は無残ともいえる状況にある。

その中核的原因は予算の減額だ。国立大学法人運営費交付金は04年度から毎年1%減額され、その影響は若手教員と基盤的研究費に顕著に表れた。10年前は若手教員の約63%が任期なしだったが、今や約65%が任期付きになった。不安定な処遇を目の当たりにして博士課程への入学者数は04年度比で約19%も減った。

教員は研究費獲得のための外部資金の申請や成果報告に追われ、落ち着いて研究することが困難な状況に置かれた。こうした中で20世紀にはほとんどなかった研究不正が多発し始めた。黒木登志夫博士(前岐阜大学長)によると、研究不正や誤った実験などによる撤回論文数の多い研究者ワースト10に日本人が2人、ワースト30には5人が入っていて、国別の論文撤回率で日本は5位にランクしている。

交付金削減の最大の理由は国の財政悪化だ。確かに国の負債は1000兆円以上に上るが、一方で対外純資産や日銀の金融資産を含めた政府資産は1300兆円以上となり、優に負債を上回る。財政健全化のためにも、こうしたお金をいかに活用するかを考えることの方が重要である。

少子化・人口減少問題を解決する道は国民一人ひとりの質を高める以外にはない。国力の基本は文化と産業、文明であり、これを伸ばす源は学術研究力と高等教育力だ。これらの振興こそが財政健全化への王道である。花を咲かせ、農作物や果実を実らせるためには、長い期間、畑を耕し、土壌を肥やし、種をまき、水をやり、新芽を育てることが必須である。

産業界・企業も将来の生き残りのために学術研究と高等教育の振興に身を切る努力をして大学と連携する必要があるだろう。すぐに製品化につながる果実ばかりを共同研究に求めるのではなく、畑作業にも加わり、その中から新芽を見つける役割を果たすことが求められる。

学術振興こそ日本を繁栄させる 総合研究大学院大学学長 岡田泰伸|2017年3月27日 日本経済新聞 から

2017年3月28日火曜日

記事紹介|社会へ羽ばたく君へのメッセージ

いまは亡きSF作家の小松左京の短編に『哲学者の小径』という作品があります。書名は京都の銀閣寺から南禅寺に向かう疎水べりの小径(小道)を指します。戦前、西田幾多郎など京都学派の哲学者たちがこの道を散策しながら思索を深めたので名付けられたとされます。正確には「哲学の小径」なのですが。

中年になった主人公が、大学時代を過ごした京都で友人2人と再会。久しぶりに哲学者の小径を歩いていると、生意気な3人組の大学生に出会い、遂(つい)には取っ組み合いのけんかになる。

翌朝、かつて似たような経験をしたと思い出し、大学時代の日記帳を引っ張りだすと、「俗物の中年と殴り合った」との記述があった。そうか、あの中年とは、いまの自分のことなのか……。


理想に燃え、正義感に溢(あふ)れていた若者も、いつしか俗物になっていく。学生時代、この小説を読んだ私は、そんな俗物にはなりたくないと思ったものです。ところが、いまや、そんな忌避すべき存在になった自分が、ここにいます。

この小説を思い出したのは、3月が旅立ちの季節だからです。今回は、小学校から続いた学生生活に終わりを告げ、いよいよ社会に出ていく君へのメッセージです。

世の中に出ていくことを、どう思っていますか。学生時代、あなたは、さまざまな人たちに守られて生きてきました。卒業して初めて、そのことに気づくはずです。

もちろん、これからも守ってくれる人はいるでしょうが、自分ひとりで歩んで行かなければならないことも増えてくるでしょう。その決意はできていますか。

いまの社会を見るにつけ、学校を出てからの人生は容易ではないだろうなあと正直なところ同情してしまいます。

と同時に、これから洋々たる人生が待ち構えていると思うと、嫉妬心を覚えます。若いということは、未熟であると共に、可能性に満ちていることでもあるからです。

「前途洋々たる若者たちよ」

東芝の不正会計に手を染めた人たちも、かつて学校を出て会社に入ったとき、そんな言葉をかけられたはずです。胸に社員証バッジをつけたときに覚えた感動は、どこに行ってしまったのでしょうか。

「国家国民のために尽くす公僕であれ」

そう言われて大蔵省(現在の財務省)の入省式に臨んだ人たちもいたことでしょう。大蔵省には、国民の財産である国有地を管理するという大事な仕事もあります。そんな貴重な財産をきちんと説明できない形で売却した人たちは、かつての自分に対し、恥じることはないのでしょうか。

日本という国を守ろうと防衛庁(現在の防衛省)に入ったはずが、自分の立場を守るために南スーダンの日報を隠蔽するようになっていた。


彼らがいま哲学の小径を歩いて過去の自分に出会ったら、殴り倒されると思いませんか。

かつて持っていた理想は、歳月が経(た)つとともに薄れていく。あれほど溢れていた正義感は、さて、どこへ行ったやら。

私が言いたいことはもうわかりますね。君がやがて中年になって哲学の小径を歩き、生意気な若者に出会ったとき、胸を張ることができるのか。そんな人生を、これから送ることができるのか。

健闘を祈ります。

池上彰の大岡山通信 若者たちへ 社会へ羽ばたく君に贈る 自らに胸張れる人生を|2017年3月27日 日本経済新聞 から

2017年3月8日水曜日

記事紹介|国立大学の自主性・自律性を高めるためには

国立大学の自主性・自律性は増してきたか

このような動きの背後には、厳しい財政状況にも拘らず可能な限りの措置を講じてきたと考える財務省、産業競争力会議や教育再生実行会議等を通して大学に変革を求める産業界等の存在がある。これらの主張や要望を受け止めながら、国立大学に改革の加速を迫る文科省の難しい立場に理解を示す声も少なくない。

その一方で、自主性・自律性を高らかに謳いあげてスタートした法人化が、ここにきて明らかに後退しているとの厳しい指摘も多い。石弘光一橋大学元学長は、「法人化後、大学の自主性がもっと増えると期待していた。しかしこれまでの経過を見るとそれとは逆に、政府の介入の度合いが一段と強まってきたといえよう」と警鐘を鳴らす(日本経済新聞2015年 6月29日朝刊)。

国と国立大学法人の権限関係は、法人化当初と何ら変わっておらず、国は、ガバナンス改革による法制度面の整備や「学長の裁量による経費」の新設などを通じて、学長がその機能を発揮し易いような環境を整えてきた。

他方で、大学の裁量で自由に使える予算が減れば、運営の弾力性が損なわれ、新たな改革施策を展開することも一層困難になる。また、競争的資金へのシフトが進むほど、文科省との関わりを強め、その意向に沿った提案・申請に注力することになる。さらに、国立大学に対する多方面からの要求や改革の遅れを指摘する声が高まれば、文科省は国立大学への働きかけを一層強めざるを得ない。

法人化時に意図した通りに国立大学の自主性・自律性が増してこなかったとすれば、このような背景によるものと考えられる。

大学の努力と工夫で健全な競争的環境を創出

その意味からも運営費交付金による安定的な財源の投入が何より不可欠となる。しかしながら、危機的とも言える財政状況を背景に、財務大臣の諮問機関である財政制度等審議会は国立大学法人予算の編成に当たり厳しい指摘を行い、それに文科省が見解を示し、国大協が声明を発表するという攻防が繰り返されている。

国立大学に投入される予算の総額を増加させることは難しいとしても、大学の裁量で自由に使える予算の比率を高めることは検討されるべきであろう。

教育研究を高度化するために競争的環境は必要である。しかしながら、意欲のある教員の多くは既に自らを厳しい競争環境に晒し、より高い研究成果を上げるべく努力を重ねている。問題は、研究力の底上げをどう図るか、組織としての教育力をどう高めるかである。

大学単位で取組構想を提案させたとしても、学内で推進を担うのは意識の高い教員や当該予算で雇用された任期付きの教職員である。多忙な教員はますます多忙化し、運営の中心となる教職員に任期があれば、組織的に知識やノウハウを蓄積することも難しい。

教員は国内外の学会で研究業績を競い、学部・研究科は競合する他大学の学部・研究科と教育の質を競う。そのような環境を整え、健全な競争を促すことが大学執行部の役割である。

競争的環境の創出に当っては学問分野の特性への配慮も不可欠である。人文社会科学と自然科学を同じ方法や尺度で評価することは難しく、教育方法や研究支援の仕方についても、それぞれの学問分野に相応しいあり方を検討する必要がある。そのためにも、専門分野を超えた率直で密度の濃い対話が学内で活発に行われなければならない。

自主性・自律性を高めるとは、各大学がこのような状況を自らの努力と工夫で作り上げることである。そのためにも、国立大学法人化の原点に立ち返らなければならない。

人材を中心に経営資源を如何に活かしきるか

法人化に当り、国立大学法人制度の概要として、
  1. 大学ごとに法人化し、自律的な運営を確保
  2. 民間的発想のマネジメント手法を導入
  3. 学外者の参画による運営システムの制度化
  4. 非公務員型による弾力的な人事システムへの移行
  5. 第三者評価の導入による事後チェック方式に移行
の5つが示されている。

これらの実施状況をどう評価し、どこを改善すべきか、国のレベルでも個別大学のレベルでも十分な検証がなされているとは言い難い。

民間的発想のマネジメント手法として導入された役員会や経営協議会について、各大学は積極的に活用しきれているだろうか。学長や理事に包括的な執行権限を付与することで、形式的な審議を減らし、実質的な審議を充実させることもできる。また、全学的な重点施策をそれぞれどのタイミングで役員会に報告するかを予め明確にしておくことで、改革の速度を上げることも可能になる。学外出身理事・監事や経営協議会学外委員等学外者の知恵や経験を、経営の高度化に活かすための工夫も必要である。

経営は、目的・目標を定め、経営資源の獲得と活用により、それを実現するプロセスである。中でもヒト、モノ、カネ、情報という経営資源を如何に効果的・効率的に活用するかは、経営の巧拙を決める重要な要素である。そのような観点で国立大学法人を眺めると、活かしきれていない経営資源は数限りなくある。

その中で最も重視すべき資源は当然ながら人材である。特に、職員については、教育改革、学生・キャリア支援、産学連携、社会・地域連携、国際交流など、高度な知識や専門性が求められる業務が増加するとともに、教職協働の機運も高まり、仕事を通して能力を飛躍的に伸長させる大きな機会が訪れている。

その一方で、多くの国立大学において、法人化以前からの人事慣行が根強く残り、仕事の仕方も大きく改善されない中、業務量の増加と人員の削減だけが進んでおり、結果として、この好機が活かされていないのは極めて大きな機会損失である。

本稿の執筆にあたりメールとSNSを用いて、全国の国立大学の20代後半から40代前半の中堅職員の意見を集めてみた。主な意見をできる限り原文のまま並べてみたのが左の表(略)である。筆者の認識と概ね共通しており、いずれも現場の状況を的確に捉えているものと考えられる。

大学ごとに改めて実情と課題を把握する必要があるが、徹底した仕事の簡素化・効率化による業務負荷の軽減、職員に期待する役割の明確化、キャリアパスの明示とより早期の役職登用を含む人材配置・育成方針の明確化、部課長層のマネジメント力強化、ワークライフバランスを含む働き方改革などの施策を総合的に検討・推進することは、国立大学共通の最重要課題の一つと言える。

これらの取り組みを含めて、学長や理事・副学長の役割は増す一方であり、より高いマネジメント能力が求められる。しかしながら、その養成は個々人に任されたままである。

経営の本質を理解するとともに、人を使い、組織を動かすための考え方や方法を学ぶ。そのための教育システムの整備は喫緊の課題である。

ある国立大学の医学系の女性助教から次のようなメールが寄せられた。「今後どのような基準で大学教員が評価され、選定され、身分が保証されていくのか全く不透明です。若い学生を基礎研究に勧誘することも無責任でできません。ますます実験・研究に携わる人材が不足し、業績が出せないという悪循環に陥ってしまいます。私もいつまで続けられるものか不安な気持ちでおります。」

このような不安を少しでも払拭できるための真の改革を加速させなければならない。

2017年3月7日火曜日

記事紹介|公務員の再就職問題と霞が関の働き方改革

「再就職規制違反」は厳然たる事実

文部科学省の「天下り問題」が、連日世間を騒がせている。

たしかに、国家公務員法が定める再就職規制に違反したという厳然たる事実は否めない。最初に指摘された高等教育局長の早稲田大学教授就任事案では、求職に省庁が直接関与すること、現職の公務員が求職活動を行うことの禁止事項2点に明らかに抵触しただけでなく、再就職等監視委員会に対して虚偽の説明を捏造ねつぞうした行為まであり、悪質との誹そしりを受けても仕方ないところだ。

さらに、OBと人事課や最高幹部とが結託した再就職紹介ルートが明らかになり、多数の違反事案が暴かれたとあっては申し開きのしようがない。過去にも国土交通省、農林水産省などに違反事例があり、消費者庁に至っては他ならぬ長官自身が現職中に求職活動を行っていたのだが、いずれも個人レベルの違反行為にとどまっていた。文部科学省の場合、組織的と認めざるを得ず、痛手は極めて大きい。

文部科学省OBの1人であるわたしとしては、後輩たちが指弾されている姿を見るたびに胸が痛む。10年以上前に54歳で中途退職した後もこの役所を愛し続け、おそらく本邦初の「文部科学省評論家」を自称して『文部科学省 「三流官庁」の知られざる素顔』(中公新書ラクレ)などという本を出しているだけに、今回の不祥事はわがことのように残念である。だが、法律違反は違反、猛省が必要だろう。

「天下り」のどこが問題なのか

ただ、わたしは、これを「天下り問題」と片付ける論調には従うことができない。

「天下り」という語には誰しも悪いイメージしか持たないだろう。天すなわち上に位置する者が、その権力を笠かさに着て下に位置する者に不当な好条件で雇用を求めるという意味合いだからだ。江戸時代から戦前まで、公権力を持つ者を「お上」と呼び、それ以外を「下々」として上下関係を歴然とさせていた考え方は、日本国憲法第15条で「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利」となり、公務員が「全体の奉仕者」としてパブリック・サーバント(国民の召し使い)とされた現在でも、なお色濃く残っている。

もし上下関係としての「天下り」とするならば、その弊害は明白である。上は、下に対して無能な人間を押しつけることも可能であり、受け入れ先の仕事に支障をもたらすおそれがある。それより深刻なのは、受け入れの代償に、上が下に不正な便宜を図ったり、下の不祥事への措置に手心を加えたりする可能性だ。これは明らかな犯罪である。

公務員が犯罪に加担するのは重大な不正だから、そう簡単にあり得る話ではないのだが、どうやら日本の公務員の信用度は低いようだ。加えて最近は、公務員バッシングが続く中、疑いの目で見られることが多い。前述の消費者庁長官の事案は組織トップの行為だけに、もし官僚が長官だったら激しい非難を浴びただろうが、民間人出身だったために、さしたる騒ぎにもならなかった。公務員の評判悪いことかくの如し。そうした国民の意識を肝に銘じておく必要があろう。

的はずれな「天下り」批判も

しかし、感情論を離れ冷静に考えると、「天下り」のような俗語でなく厳密な言葉で議論する必要があるのではないか。ここで定義を正確に、「公務員の再就職」としよう。

公務員の再就職自体は禁じられていない。そのやり方にいくつか規制がかけられているのである。大きくは、(1)官庁が再就職に関与すること(2)本人が在職中に求職活動をすること(3)再就職した者が離職後2年間の期間に元勤務した官庁に働きかけをすること――の3点だ。

逆に言えば、この3点さえ守れば、再就職は許されているわけだ。にもかかわらず、許されている範囲に対してまで問題視するのは明らかに行き過ぎだろう。今回の一件は国会でも取り上げられ、野党のみならず与党の議員からも厳しい指摘が続いている。自民党の河野太郎議員は衆議院予算委員会で国立大学法人(従来の国立大学)への現役職員の出向人事まで「天下り」と呼び、禁止すべきだと主張した。これは全く的はずれだ。国立大学法人を含む独立行政法人への現役出向は合法と認められているからである。

こんな調子だから、与野党政治家の感情的批判に従うならば、再就職に関する規制はいっそう厳しくなってしまいかねない。それでいいのだろうか。

規制厳しくすれば「派閥作り」横行の危険性

わたしが現役だった時代の先輩たちの再就職は、どの省庁でも役所が差配してくれていた。著書『文部科学省 「三流官庁」の知られざる素顔』にも書いた通り、他省庁に比べ民間企業・企業団体への道をほとんど持たない文部省(当時)であっても、特殊法人をはじめ関係団体の数が多く、なんの支障もなかった。

それが1980年代から90年代にかけ、行政改革により、関係団体の大規模な統廃合が行われ、再就職先が急減する。そして2007年の再就職規制、09年の民主党政権による特殊法人からの元公務員排除方策と続く中、文部科学省に限らず、全体的に再就職の条件はどんどん厳しくなっている。

現在では、役所が関与せずOB個人の紹介でルートをつなぐのが一般的な形になっていると見ていい。それをさらに厳しく規制するなら、全員が退職後に個人の力で再就職先を確保しなければならなくなる。有力OBと個人的関係がある者はなんとかしてもらえるかもしれないが、そんな状態になれば省庁内で現役時からOBに擦り寄るなどの「派閥作り」が横行する危険性が高い。かえってよくない結果を招くこと必定だ。

内閣府に置かれた官民人材交流センターはほとんど機能しておらず、実際は民間経営の再就職支援会社を紹介してくれるだけだ。しかも、最も「天下り」の追及を受ける局長級以上は対象外になっている。結局、個人での就職活動になる。そして、ハローワークはもちろん、再就職支援会社にも官僚経験者にマッチする求人は希まれだ。

大阪府ならい、「退職予定者人材バンク」設置を

キャリア官僚には同期の中から事務次官が出た際に、早期退職をするという慣例がある。こうして、次官をトップとしたピラミッド体制を維持している。

わたし自身はというと、同期が昇進するにつれて去らなくてはならないこの「早期退職慣行」により54歳で文部科学省を退職し、現役出向や役所の紹介による就職はあらかじめ断っていたから、退職と同時に無職の身となった。幸いすぐにさまざまな単発仕事の誘いがあり、日々忙しく過ごすことができたものの、現在の京都造形芸術大学に雇ってもらえるまでは組織に属さない心細さを感じていたのが正直なところだ。まして退職後なすべき仕事もなく新しい職を探さなければならないのなら、もっと不安だろう。

再就職の在り方をさらに改革するのなら、むやみに厳しい規制ばかり増やすのでなく、個人が求職する公平公正なシステムを新たに用意すべきだろう。公務員にひときわ峻烈しゅんれつな橋下徹・元大阪府知事が作った「大阪方式」ですら、府庁内に「大阪府退職予定者人材バンク」を設置して面倒を見ている。政府内に同様のものを作ったとしても構わないはずだ。それが、「天下り」の誹りを受けない新しい再就職の形を示していくに違いない。

労働者を守る労働法の適用も受けず、特に20代、30代までは民間の大企業より相当に低い給与水準に甘んじざるを得ない。勤務実態は「日本一のブラック企業」と揶揄やゆされる通り過酷で、残業時間は月100時間を超えることも珍しくない。残業手当は予算上の制約で、その何分の一かしか支給されない。それが霞が関の労働実態である。

そうした「働き方」の根本を変えようとせずに「天下り禁止」のスローガンで再就職の部分だけを締め上げる手法には、どう考えても無理がある。就職時から退職後までの長い期間を視野に入れて、公務員の処遇を抜本的に見直す時期に来ているのではないだろうか。今までより厳しくすべき部分もあるだろうし、改善してやるべき部分もあろう。その両方をバランス良く組み合わせて、「霞が関働き方改革」を議論してほしいものである。

「天下り禁止」に異論・・・“ミスター文部省”が見た問題点-京都造形芸術大学教授 寺脇研|2017年3月2日 読売新聞 から

2017年3月5日日曜日

記事紹介|大学のセンセイになる方法

大学の教授は、世間からみると社会的地位も高く(多分)、なれるならなってみたい職業の一つでしょう。昔は「末は博士か大臣か」とも言われたくらいだ。しかしなりたいからと言って、簡単になれるものではない。ところが今や大学が800を超えるほど増えており、当然そこで教える教員も多い。一種インフレなのだ(東京で石を投げたら大学の教員に当たるかも?)。でも通常は、大学院で博士号を取得し、オーバードクターや期限付き雇用で、身分の不安定な研究員や助手などを経てようやく正規の教員になれるのだ。ここまでは実に長く厳しい道のり。

しかし、いきなり教授になる道もある。一つは、企業の技術系の研究所などから大学にくるというケース(もちろんそれなりの学位や業績が必要)や社会人教員である。後者の一つが霞が関の官僚から大学のセンセイになる手があった! 今回、世間を騒がす「天下り」である。

そもそも、我が国では、大学数員には高校までの教員のように教職免許制度はない。大学設置基準という省令では教授の資格に「博士の学位を有し、研究上の業績を有する者」など定めている。だが、博士号取得を義務づけているわけではない。同等の能力があればいいとなっているのだ。見ようによっては抜け穴なのだ。この大学設置基準は1985年の改正で、資格要件に「専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認められる者」との条項が新設され、社会人が大学教員になる道が開かれたのだ。そこで「実務経験のある即戦力」として公務員、企業経験者、マスコミ関係者、タレント文化人ら社会人が教員に多数採用されるようになった。

そして教職課程のある大学では、退職した中高の先生が少なくない。教育実習の強化や実践的な教育力が求められているので、このような経歴の教員が求められるのは無理もない。採用試験に関しても、地元の教育委員会とコネがありそうな退職校長など強力な助っ人になりうる。おまけに彼らは少なくない年金があるので、ちょっとだけ足して年金が減額支給されない限度で給与水準を決めておけばいいので、安上がりだ。大学にはメリットだらけだよね。だが、退職教員中心だと、学科全体では数年でほとんど総入れ替え状態ということも起こるのは問題。また、大新聞など編集委員経験者クラスでは、教授というのはアガリの職場という説もあり、また、何が専門かわからない。

そこで、話を戻すと、「天下り」。これは、権限のある官庁から、何らかの見返りを期待しつつその退職者を受け入れるから問題視される。大学の監督官庁は文部科学省だ。だから文部科学省出身の官僚を大学教授にすることは、今回のような問題を生じる。しかし、財務省や経産省出身の官僚が経済学部などの教授に就く場合は、専門的知識を正当に評価されたとして、これはセーフになる。他省庁はよくて文科省だけダメなのだ。これに対応する手段としては、全省庁から「現役出向」してまた戻るシステムにすればいい。逆の、大学を含む民間から霞が関に交流する人事(「天あがり」)もOKにしたらいいのだ。ただし、民間企業からは「あんなに責任が重い割に給与が少なすぎる」として霞が関に来たがらない問題は何とかしなくてはなりませんな。アメリカみたいな「回転ドア」を上手に作らないと、ヘンな学者上がりの野心家?の経済学者などが政府のしかるべき地位を占めるのはろくなことになりませんが。まあ、今回のY氏は著作権の専門家だそうだから、教授になってもいいはず(手順が悪かったか?)。

教育ななめ読み「いきなり大学教授になる方法」ー教育評論家 梨戸茂史|文部科学教育通信 No.406 2017.2.27 から

2017年3月4日土曜日

記事紹介|大学職員の育成(2)

個人をどう高めるかと業務改善の関係

SD義務化により職員研修の在り方だけがスポットライトを浴びるわけではないということについて、前回までで述べてきました。

大学をめぐる昨今の財務状況にかんがみれば、多くの外部人材を一気に採用するというわけにはいきません。望まれる大学職員像に向けて、現在その大学にいる職員をどのように育成し、キャリアアップと専門性の向上を図っていくかという観点が重要な意味を持ちます。組織の在り方を再定義し、そこから抽出される的確な職員像を、と考えてみたところで、結局は今大学にいる人材をベースにHuman Resource Managementを考えていかざるを得ず、そうでないプランを単に「もっと頑張れ」という掛け声とともに声高に唱えても、職員育成の仕組みは非常に空虚なものに陥ります。

では、現在の大学職員の研修はどうなっているでしょうか。

現在の大学職員育成プログラム(=研修プログラム)は基本的に、今いる職員を底上げするような義務的内容(経験年数・階層別研修として実施されることが多い)と、希望者を対象にした特定の能力・専門性向上を狙った内容(例えば「IRについて」「学生の主体的学修を育む環境について」)または自己研鑽型の内容(ただし大学から支援されている場合と支援されていない場合(必要経費の補助制度がない、勤務時間外での実施を命じられる等)がある)で構成されています。

義務的な内容は、多くの職員が身につけるべきいわば最大公約数的な内容を元に、多種多様な職員に対し共通に実施されるものであり、対象職員の高い研修意欲や事前知識を前提にしたものとなっていないため、内容ないし職員側の受け止めによっては非常に形式張ったものになりがちで、高い研修効果が望みにくいものとも言えます。

他方、希望者制または自己研鑽型のものは一定の研修効果を見込みやすいものの、当該研修を受講したことがまったく考慮されない業務環境であったり、人事異動が実施されている場合は、研修内容をその後生かせるかどうかという点が各職員任せになっていて、これはこれで効果として不十分になるケースが出てきます。

一般に研修に意欲的でない職員というのはどうしても出てきてしまいますが、研修に出てこない職員にもそれなりの反論材料があります。曰く、研修内容が形式化していて面白くない、今の自分の業務に関係があるとは思えない、参加してもメリットがない等といったものです。そうはいっても研修なんだからもう少し前向きに捉えて、と実施側としては言いたくなるところでしょうが、再三にわたって声をかけたり無理やり参加させたりするのでは、課題解決どころか逆に負の効果をもたらす恐れもあります。

この場合は、研修の仕掛け方自体に課題があります。日常業務が定型的な処理業務でほぼ占められていたり、自分に判断権・裁量権がない事柄にばかり日頃向き合わされ、何か上司に提案しても「仕事を増やすようなものはだめ」と言われてしまう環境に置かれていれば、解決すべき大学の課題とその職員の業務との連動性もまったく見えておらず、そのような条件下で「大学としての人材育成像」を突然示したところで、職員にしてみればモチベーションの湧きようがありません。

大学職員の育成が重要である、若手の能力向上が大事だとマネジメント層が考えていても、当のマネジメント層や管理職、あるいはマネジメントの仕組みが結果的に能力向上を阻んでしまっている状態のままでは、何にもなりません。

職員の能力と個性を伸張させるためには、まずその組織における業務の在り方自体を問い直す必要があります。このことは、前々回で述べた、今回のSD義務化に際し重要な三要素ー①職員に必要な知識・技能の習得、②能力・資質を向上させるための研修、③関連して重要になる「その他の取組み」ーの中の三点目「その他の取組み」として検討・実施されることが期待されていると言えます。そして、SDに関係する様々な取組みを実質化する上で最も大切とも言えることです。

個人のキャリアパスの設計を諦める?

大学職員に求められる専門性は多様化・高度化しています。中途採用など人材の流動化が進み、職員のキャリアパス自体も非常に多様化する中で、職員の人材育成として必要なプグラムのすべてを大学が提供することは最早できません。

今後の職員育成にあたっては、大学が提供する研修プログラムを見直すほかに、あるいはそれ以上に、個々の職員のモチベーションや自己研鑽における主体性をどう体型的に喚起していくか、そのことにより職員が自身に必要な専門性のイメージを掴んでいき、多種多様な職員像の中から最適と思われるキャリアパスを突き進んでいけるか、という視点が重要になってくるように思います。これまで大学を牽引してきた優秀な諸先輩方の背中を見て育つ、という視点だけでは、職員育成の仕組みはこれからの状況では機能していかないでしょう。

そういう意味では、大学本部が個人のキャリアパスのあり方を示し、その設計を手伝うということに関して、ある種の諦めがあった方が逆にいいのかもしれません。「自分探し」という言葉だと違うコンテクストに陥ってしまいますが、それに近いともいえる、「職員としての将来は自分自身で探し、切り拓く」ということです。

昨今、中教審で「大学における専門的人材の育成、位置づけ」について議論されていますが、その能力が認知され、組織横断的に人材マーケットが形成されるような専門性を備えた人材層というのは、組織内でだけでなく組織外からも評価される人材の集合体です。

組織に所属し、組織に貢献する仕事とともに、それが大学業界全体、あるいは大学職員という業界全体の活性化と地位向上に資するような仕事ができる人材がどの大学でも求められていますが、そのような人材は果たして大学が提供する研修プログラムだけで育成できるのか、という風に捉えてみると、職員自身が主体的に歩みを進めていくための仕掛けの重要性が浮かび上がってきます。

ただ、当然ながら、主体性というものは他人から言われて涵養されるものではありません。そのきっかけは大学なり組織なりが提供すべきですが、その先は自身で考え、行動してもらわなければならない。このような視点で研修プログラムを組み直すと同時に、先ほど申し上げた「業務の在り方自体を見直す」、すなわち職員自身が考え、検討し、判断し、上司や教員集団に積極的に関わっていくことを促す業務の再構築が肝要です。ただし、この際に留意すべきこととして、大学の課題解決など組織の何らかの価値創造に具体的にリーチする業務でなければ、職員の能力向上が一層図られるどころか、かえって「自分探し」が加速化し組織の課題解決とは別の視点で動いてしまう職員の存在を生むリスクがあることが挙げられます。

SD義務化が問うものー早稲田大学 喜久里要|文部科学教育通信 No.406 2017.2.27 から