2017年3月28日火曜日

記事紹介|社会へ羽ばたく君へのメッセージ

いまは亡きSF作家の小松左京の短編に『哲学者の小径』という作品があります。書名は京都の銀閣寺から南禅寺に向かう疎水べりの小径(小道)を指します。戦前、西田幾多郎など京都学派の哲学者たちがこの道を散策しながら思索を深めたので名付けられたとされます。正確には「哲学の小径」なのですが。

中年になった主人公が、大学時代を過ごした京都で友人2人と再会。久しぶりに哲学者の小径を歩いていると、生意気な3人組の大学生に出会い、遂(つい)には取っ組み合いのけんかになる。

翌朝、かつて似たような経験をしたと思い出し、大学時代の日記帳を引っ張りだすと、「俗物の中年と殴り合った」との記述があった。そうか、あの中年とは、いまの自分のことなのか……。


理想に燃え、正義感に溢(あふ)れていた若者も、いつしか俗物になっていく。学生時代、この小説を読んだ私は、そんな俗物にはなりたくないと思ったものです。ところが、いまや、そんな忌避すべき存在になった自分が、ここにいます。

この小説を思い出したのは、3月が旅立ちの季節だからです。今回は、小学校から続いた学生生活に終わりを告げ、いよいよ社会に出ていく君へのメッセージです。

世の中に出ていくことを、どう思っていますか。学生時代、あなたは、さまざまな人たちに守られて生きてきました。卒業して初めて、そのことに気づくはずです。

もちろん、これからも守ってくれる人はいるでしょうが、自分ひとりで歩んで行かなければならないことも増えてくるでしょう。その決意はできていますか。

いまの社会を見るにつけ、学校を出てからの人生は容易ではないだろうなあと正直なところ同情してしまいます。

と同時に、これから洋々たる人生が待ち構えていると思うと、嫉妬心を覚えます。若いということは、未熟であると共に、可能性に満ちていることでもあるからです。

「前途洋々たる若者たちよ」

東芝の不正会計に手を染めた人たちも、かつて学校を出て会社に入ったとき、そんな言葉をかけられたはずです。胸に社員証バッジをつけたときに覚えた感動は、どこに行ってしまったのでしょうか。

「国家国民のために尽くす公僕であれ」

そう言われて大蔵省(現在の財務省)の入省式に臨んだ人たちもいたことでしょう。大蔵省には、国民の財産である国有地を管理するという大事な仕事もあります。そんな貴重な財産をきちんと説明できない形で売却した人たちは、かつての自分に対し、恥じることはないのでしょうか。

日本という国を守ろうと防衛庁(現在の防衛省)に入ったはずが、自分の立場を守るために南スーダンの日報を隠蔽するようになっていた。


彼らがいま哲学の小径を歩いて過去の自分に出会ったら、殴り倒されると思いませんか。

かつて持っていた理想は、歳月が経(た)つとともに薄れていく。あれほど溢れていた正義感は、さて、どこへ行ったやら。

私が言いたいことはもうわかりますね。君がやがて中年になって哲学の小径を歩き、生意気な若者に出会ったとき、胸を張ることができるのか。そんな人生を、これから送ることができるのか。

健闘を祈ります。

池上彰の大岡山通信 若者たちへ 社会へ羽ばたく君に贈る 自らに胸張れる人生を|2017年3月27日 日本経済新聞 から