2018年2月28日水曜日

記事紹介|大学改革の錯誤

平日は予算委員会で忙しく、ブログを書く時間もありません。週末に福岡に戻った時の早朝や深夜にしかブログを更新する時間もない日々が続きます。予算委員会が終われば少しはマシになると願いつつ、今日は移動中に読んだ本の感想文です。

知り合いの大学の先生が推薦されていた本、「反教養の理論:大学改革の錯誤」は、ぜひ安倍総理にお読みいただきたい本です。著者のコンラート・P・リースマンは、ウィーン大学の哲学の教授です。この本は、ドイツ語圏で2006年に出版されて各国語に翻訳されています。

近年の日本の「大学改革」や「教育改革」のことを言っているのかと錯覚しそうなほど、日本とドイツ語圏の大学教育をめぐる状況は似ています。新自由主義的な「大学改革」や「教育改革」は、ドイツやオーストリアの大学でも日本と同様に進行していることがわかります。そして同じような弊害をもたらしていることもわかります。

著者は、競争や評価を導入し、経済効率を重視して、目先の短期的な研究成果に力を入れることが、大学教育の質を落とすことにつながると指摘します。皮肉なことに「新自由主義的な大学改革」が、「学問の自由」をおびやかすという矛盾が生じます。ぜんぜん「自由」ではないのが、新自由主義的な教育改悪だといえます。

たとえば、安倍政権は、日本の大学の世界ランキング入りを教育政策の目標にしています。しかし、世界ランキングというものがいかにあてにならないかは私も以前から主張してきました(*下記のブログ参照)。リースマン氏も同意見だったので、意を強くしました。リースマン氏はこう言います。

ランキングのフェティシズム化は反教養に特有の現象形態、すなわち判断力の欠如の表れであり兆候である。

2016年6月24日付ブログ「大学の世界ランキングに意味はあるのか?」

英国の企業や出版社が出す「大学の世界ランキング」などというものは、英語圏の大学が圧倒的に有利です。理工系ならともかく、人文系の学問では比較のしようがないものを無理やり比較している点にそもそも無理があります。

世界ランキングの順位をあげるためには、外国人教員の比率を上げ、外部資金を獲得し、英語で論文をバンバン書かせる必要があります。しかし、言語のちがいが重要な意味をもつ人文系の学問では意味のない指標ばかりです。例えば、日本文学を研究する学科において、英語の論文引用数や外国人教員比率に意味があるとは到底思いません。

人文系ではそれほど外部資金も必要なく、英語で論文を書く必要もありません。母語で大学教育を受けられない国は数多いですが、日本やドイツ、フランス、ロシア等では母語で高度な研究もできるため、英語の論文引用数を競う意味はあまりありません。いわば「英語帝国主義」に染まる必要などありません。

最終章のタイトルは「教育改革との決別」という刺激的なタイトルです。リースマン氏は同章を「教育改革とともに教育が崩壊していく」と言います。市場競争を志向する教育改革が、「改革」という名のイデオロギーと化し、既存の学問体系を破壊していると指摘します。日本のことではないかと思うのが以下の記述です。

われわれの時代の改革者が為しているのは、その根本において改革ではなく転覆である。普段の会話から選挙戦略に至るまで、状況をむしろ慌ただしく唐突に転倒しようという雰囲気がすべてを支配し、時にはちょっとしたクーデターの気配すら漂い、法案は「強行採決」され、そしてその後で改革好きのメディアが書き立てるように、多くのことが「奇襲攻撃のごとく」やってくるのである。実際のところ現代の改革者は手早く事が進むことを好む。何であれ事柄が迅速に進行すればするほど、それだけいっそう良いこととされるのである。

オーストリアの国会でも「強行採決」という言葉を使うとは知りませんでした。しかし、日本と状況が似ていることがよくわかります。大学教育の「改革」の名のもとに、コスト削減、効率性アップ、市場競争力の向上、透明性の確保などが求められますが、長期的に見て大学教育の質の向上につながっているのか疑問です。

安倍政権の「大学教育改革」においては、人文系学問や教員養成課程が削減のターゲットにされています。理工系においては、基礎科学は軽視され、応用研究ばかりに予算がついています。応用研究であれば、あやしげなスパコンでも何十億円もの予算がかんたんにつきます。

リースマン氏の表現を借りれば「改革の狂信者」たちが、大学教育を良い方向にもっていっているか疑問です。立ちどまって昨今の「教育改革」を考え直すために、お薦めの本です。

コンラート・P・リースマン「反教養の理論:大学改革の錯誤」2017年 法政大学出版局

反教養の理論:大学改革の錯誤【書評】|山内康一ブログ から

2018年2月22日木曜日

記事紹介|人を育てる要諦

一、 人の長所を始めより知らんと求むべからず。人を用いて始めて長所の現わるるものなり。

二、人はその長所のみ取らば即ち可なり。短所を知るを要せず。

三、己が好みに合う者のみを用うる勿れ。

四、小過を咎むる要なし。ただ事を大切になさば可なり。

五、用うる上は、その事を十分に委(ゆだ)ぬべし。

六、上にある者、下の者と才知を争うべからず。

七、人材は必ず一癖あるものなり。器材なるが故なり。癖を捨てるべからず。

八、かくして、良く用うれば事に適し、時に応ずるほどの人物必ずこれあり。

荻生 徂徠(そらい)


江戸時代中期の儒学者である徂徠が唱えた人を育てる要諦です。

その人の良さは一緒に仕事をしてみて段々と分かるようになるものであり、その長所を伸ばすようにすれば、短所を気にする必要はないと。

自分の言うことを聞く人や自分の好みに合う人とばかり一緒に仕事をするのではなく、失敗があっても小さな過ちに目くじらをたてないこと。

上の立場にあるものは下の立場のものと知恵比べをしてはいけない。

若い人の方が新しいことを十分知っているのだから補い合うべき、任せるべき。

さらにそうして重用する人物は一癖も二癖もあると最初から理解しているべきである。

そうして人を用いていくことで、良い人材が育っていくというお話。

他人と仕事をするときは、肝に銘じていきましょう。

2018年2月21日水曜日

記事紹介|礼儀の基本は一対一の関係にある

目上の人に礼をいわれると、わたしたちはくすぐったいような、晴れがましいような、とてもいい気分になります。

たとえば上司に頼まれていた資料を届けて、はっきりとひとこと、「ありがとう」といわれたようなときです。

「ありがとう」といわれると、その上司の誠実さが伝わってきます。

自分の立場にふんぞり返らないで、部下にきちんと応対してくれるのがわかるからです。

それは、こちらをちゃんと認めてくれたということですね。

「仕事だから当然だ」ではなく、部下と一対一で向き合っている姿勢が伝わってくるのです。

わたしは礼儀の基本は一対一の関係にあると思っています。

相手が上司や目上の人間なら、だれでも礼儀を守ることを心がけます。

失礼のないようにふるまって当然です。

けれどもしばしば、部下や目下の人間に対しては、礼儀を忘れます。

自分の優位性を押しつけてしまいます。

そしてどちらの場合も、忘れているのは一対一の関係ですね。

社会や組織の上下関係をそのまま当てはめてしまって、相手も自分も一人の人間でしかないという気持ちをどこかに忘れてしまうのです。

反対に、高圧的な相手と向かい合ったときには、「この人は一対一の関係が苦手なのだ」と思ってください。

肩書や経験や実績といった後ろ盾をなくしてしまうと、不安になる人なのだと考えてください。

それによって、高圧的になる態度もわかってきます。

「なるほど、この人も大変なんだなあ」と思えるようになります。

それが性格的なものなのか、あるいは自信のなさの裏返しなのかわかりませんが、他人と一対一で向き合うのが苦手な人間なのは事実です。

だから、基本的な礼儀を忘れてしまうのです。


『「他人行儀」とは、よそよそしく接するという意味ではなく、ことわざにもある「親しき仲にも礼儀あり」ということです。

親も子どもに何かをしてもらったら、他人にお礼を言うようにきちんと丁寧に「ありがとう」と言う。

子どもを叱るときも「何やっているんだ!」と頭ごなしには叱らない。

たとえば、他人を諌めるときのように「あまり感心できることじゃないな」と、少し抑制して言う。

すると、不思議なほど家庭の中が穏やかになります。

家族関係に他人行儀を取り入れることは、家族円満の秘訣です。』

普通、親しい関係になればなるほど、言葉はぞんざいになり、 遠慮することもなくなり、なれなれしくなってしまう。

つまり、礼儀がなくなってくる。

親子間、友人同士、あるいは上司と部下であっても礼儀は必要だ。

「礼儀の基本は一対一の関係にある」

どんなときも、礼儀を忘れない人でありたい。

2018年2月20日火曜日

記事紹介|10年前の自分に、今ならどんなアドバイスをしてあげますか?

「せんせいあのな、ぼく ちゃんとしゅくだいやったんやで」

その日はお父さんの給料日で、「おいしいもんたべよ」という電話がお父さんから掛かってきて、駅で小さい弟と待ち合わせします。

3人で商店街を歩いています。

お父さんが「もうしゅくだいおわったんか?」と聞きます。

「これからやるねん。なんでか言うたらな、今日のしゅくだいは ほしのかんさつやねん」と言うのです。

「それやったらよていへんこうして よるのピックニックしようか」とお父さんが言います。

3人はコンビニで弁当や飲み物を買って、丘の上の公園に行きました。

上を見上げると、たくさんの星が見えます。

男の子がお父さんに言います。

「お父ちゃん、1こうねんってしってるか。1こうねんっていったらな。ひかりが1ねんかかってちきゅうにとどくキョリやねんで」

「ぼくな、せんせいのはなしきいて かんがえてん」

何を考えたかというと、ものすごく速い高速瞬間移動型ロケットで6,500万光年離れた星に行って、そこからものすごくよく見える望遠鏡で地球を見るというのです。

そしたら6,500万年前の地球が見えるから、恐竜が見えるというのです。

それからまたこんなことも考えました。

4光年離れた星に行く。

その星から地球を見ると4年前の地球が見えるというわけです。

「4こうねんはなれたほしから、ちきゅうの、にっぽんの、ぼくのいえをみたらな、そしたらな、きっとおかあちゃんがみえるな。おかあちゃんがせんたくほしてるのがみえるんやな。おかあちゃんがごはんつくってくれるのがみえるんやな」

それからこう言うんです。

「そやからな、ぼく、おおきくなったらえらいはかせになるねん。けっしんしてん」って。

「そうか、それやったらえらーいはかせに、カンパイやあーゆうて、とうちゃん、なんかいもカンパイしてん。きょうのビールはかくべつうまいのやって」

「4こうねんのぼく」(ひぐちともこ作・絵)


先日、光より速いもののことを書いたときに、このお話を思い出しました。

前回は2011年の11月にお届けしていたお話でしたが、色褪せないですね。

タイムマシンがあったら何をしたいか?

タイムマシンといえば、『今のあなたは10年後の自分が人生をやり直しに来ているのです』という言葉があります。

そう思うと今この瞬間の行動が変わってくるのではないでしょうか。

例えば10年前の自分に、今ならどんなアドバイスをしてあげますか?

2018年2月16日金曜日

記事紹介|こうありたいと思う未来に自分自身がなってしまう

しなければならないときに、しなければならないことをすれば、したいときにしたいことが出来る日が、きっと訪れるだろう。

君がもし、友人を探そうとして出かけたとしても、ほとんど友人を見つけることはできない。

しかし君がもし、友人になろうとして出かければ、友人はどこにでもいる。

ジグ・ジグラー


この世の中は「やりたいけど、出来ないことと、やりたくないけど、出来ること」で溢れているとも言われますが、一番良いのは、「やりたくないことをやりたいことに変える」ことではないでしょうか。

もちろんこのやりたくないこととは法律や倫理に反するようなことではありません。

たとえ面倒なことでも引き受けてみる。

自分で工夫して面白くしてみたり、効率化してみたり、自分の付加価値をつけてみる。

そうした努力がいつか来る自分のしたいことの準備になるのです。

そして、欲しい欲しいと貰い受けることに頼るのではなく、自分が与える側になることで、実は自分が手に入れたいものが自然と手に入って来ることも、人生の実体験としてあることでしょう。

あなたがこうありたいと思う未来に、自分自身がなってしまうことですね。

2018年2月13日火曜日

記事紹介|ありがたいと思って生きる

私どもの大学の正面玄関に、プロテスタントの牧師、河野進さんが書いてくださった、一つの小さな詩がかけられております。

天の父さま

どんな不幸を吸っても

吐く息は感謝でありますように

すべては恵みの呼吸ですから

学生でいるあいだは不幸の息をあまり吸わせないように、先生たちが配慮をいたします。

しかしながら、卒業をして、その正面玄関を背にして出ていけば、その先にある職場、結婚生活、社会には、往々にして思いもかけないような不幸がたくさん漂っている空気が待ち構えています。

生きていくためには、その空気を吸わなければなりません。

思わぬ不幸を吸い込んでしまったとしても、それをそのままで、吐き出す人になってほしくない。

さらに増幅して、大きな不幸にしてほかの人に吐きかけるような人になってほしくない。

それを感謝に変えて吐き出す人、それがある意味で本当に強い人であり、本当に優しい人だと思います。

ほかの人が吸う空気を汚さない、その強さと、ほかの人を思いやる優しさを学生たちに身につけて欲しいと願っています。

しかしながら、それは決してやさしいことではありません。

私たちが生きていくうえで、この不幸の息をどうしても吸い込んでしまうとしたら、人のせいにしないで、むしろその不幸を自分の中で感謝に変えていく。

そしてそれは、真珠がつくられていくのと同じプロセスだと私は思うのです。

真珠貝というものは、自分にとってあまり望ましくない異物が入ってきたときに、それをいやがって吐き出してしまわないで、その異物の刺激により分泌される液で、異物そのものを軟らかく、そして固く包んでいきます。

それを繰り返し大きくなったものが、真珠になるのです。

同じように、私も自分の生活の中に入り込んでくる異物、不幸を受けとめて、私しかつくれない真珠を自分の一生涯をかけてつくっていきたいと思っています。

苦しいこと、いやなこと、私たちにとってマイナスの価値しか持たないもの、それは必ずしも悪いものではありません。

それがなかったら真珠がつくれないのです。

それがなかったら感謝の息が吐き出せないのです。

そう思うときに、もしかすると、私たちの生活の中にいやなもの、苦しいこと、そういうものがあっても、それを受けとめて自分なりに、自分しかつくれない真珠に変えていける、そのことを、ありがたいと思って生きなければいけないのかもしれないと思います。

毎日の忙しい生活の中で、私たちが木を切る手を休めて斧を見つめるということは、ふだん気づかない、しかしながら身の回りにたくさん転がっているありがたいものをありがたいと気づくゆとりを持つ、ということかもしれないと思います。


「不幸は感謝のかくし味」

断食をしたあとの、食事のおいしさは格別だ。

それが、なにも味のないただのお粥(かゆ)であったとしても、この世にこんなに美味しいものがあったのかと思うほど。

「空腹は最高の調味料」という言葉があるが、空腹があるからこそ、食事をしたときの喜びを感じることができる。

これは、「病気が治ったとき、しみじみと健康のありがたさを感じる」というのと同じ。

病気や、不幸という(世間一般でいう)負の部分があるからこそ、健康や幸福を感じることができる。

つらいことや困難に出会ったとき、不平不満、愚痴、泣き言、文句を言ってまわりの人のテンションを落とすのか。

逆に、どんなに現在不幸にであっても、まわりに感謝し、周囲を明るくする人であるのか。

「どんな不幸を吸っても、吐く息は感謝」の人でありたい。

2018年2月12日月曜日

記事紹介|人は努力している間は悩むもの

君は1センチのものを1センチしかないものさしで測っていないか?

1センチのものは1メートルのものさしで測っておけ。

1センチが大して気にならなくなる。

人生も、いつだって百年のものさしで測れ。

そうしたら何も悩まんぞ。


1センチのものを1センチの物差しで測るとは、人生で言えば、目の前で起こっていることが全てだと勘違いしてしまうということ。

今辛いことがあっても、世界レベルで見れば衣食住の心配をすることがないというのは、それだけで奇跡的に幸せなこと。

たとえこの瞬間が苦しくても数十年の長さで見れば一瞬のこと。

成功した人の中には、数年から十数年の不遇の時代を過ごされた方も珍しくない。

悩みがあるということは、真剣に生きている証とも言えるかもしれません。

だからこそ、その悩みだけに囚われないことが大事。

大きな視点で自分を見つめ直して、今の試練をどう糧にするのかと考えれば力が湧いてくる。

ゲーテも、『人は努力している間は悩むものだ』と説いています。

2018年2月11日日曜日

記事紹介|目の前の難事から逃げずに、コツコツと取り組む

昔、江州(ごうしゅう・現在の滋賀県)の商人と他国の商人が、二人で一緒に碓氷(うすい)の峠道を登っていた。

焼けつくような暑さの中、重い荷物を山ほど背負って険しい坂を登っていくのは、本当に苦しいことだった。

途中、木陰に荷物を下ろして休んでいると、他国の商人が汗を拭きながら嘆いた。

「本当にこの山がもう少し低いといいんですがね。世渡り家業に楽なことはございません。だけど、こうも険しい坂を登るんでは、いっそ行商をやめて、帰ってしまいたくなりますよ」

これを聞いた江州の商人はにっこり笑って、こう言った。

「同じ坂を、同じぐらいの荷物を背負って登るんです。あなたがつらいのも、私がつらいのも同じことです。このとおり、息もはずめば、汗も流れます。だけど、私はこの碓氷の山が、もっともっと、いや十倍も高くなってくれれば有難いと思います。そうすれば、たいていの商人はみな、中途で帰るでしょう。そのときこそ私は一人で山の彼方へ行って、思うさま商売をしてみたいと思います。碓氷の山がまだまだ高くないのが、私には残念ですよ」


自分が携わっている仕事や、役職を、面倒だと思ったり、つらいと思ったりするときがある。

しかし、その仕事が面倒であればあるほど、つらければつらいほど、他からの参入障壁は高くなる。

これは、役職も同じ。

誰にでもできる役職だったら、とっくの昔に誰かと交代させられる。

「面倒なことの中に宝が埋まっている」

目の前の難事から逃げずに、コツコツと取り組む人に運の女神は微笑む。

2018年2月10日土曜日

記事紹介|自分自身を比較してみる

他人と比較して、他人が自分よりも優れていたとしても恥ではない。

しかし、去年の自分より今年の自分が優れていないのは、立派な恥だ。

ラポック


幸せは他人との比較で測るものではなく、すでに自分が持っている沢山の恵みに気付くことだと言われます。

同じように他人と比較しがちなのは能力でしょう。

他人と比較していては上には上がいてきりがない。

また、その相手とは環境や経験が異なるから、単純比較も出来ない。

それよりも去年の自分、先月の自分と比較してみるべき。

一見厳しい言葉ですが、成長に欠かせない大事な視点だと思います。

去年の自分とは違うことにトライしてみたとか、新しい知識を増やした、新しい経験をしてみた、新しい失敗をしてみたとか。

今年の自分はどんなことに挑戦していますか?