2007年11月30日金曜日

大学教員の意識改革

前回ご紹介した大学教育の質の保証をはじめとして、大学の教育改革を進めていく上で避けて通れないのが、人材養成の最前線にいる教員の「意識改革」の問題ではないかと思います。

法人化によって、国立大学の教員の意識改革がどこまで進んだか。


ある報告書*1で、教員の意識に関する学長へのアンケート調査の結果が披露されていました。

結論的には必ずしも学長の評価は高いとは言えない内容で、また、学長や理事といった執行部と一般の教員の間に、法人化に伴う改革の必要性や現実についての認識にギャップがあることについて指摘されていました。

法人化は、国立大学における教員集団の意識改革(集団無責任体制から代表民主制による機能的な自立運営体制)への大きな契機のはずだったが、大学により、それが進んでいるところと、そうでないところの差が大きくなりつつある。

法人化後数年経過した現在でも、多くの国立大学にこのような状況があり、制度設計上の法人化の理念や目的は思うように達成されていないようです。

教員の意識改革の遅れに起因する諸問題


また、別の報告書*2では、教員の意識改革の遅れに起因する諸問題について、主として次のような指摘がなされています。

民間企業等から国立大学の経営に参画している外部人材から見た教員の意識改革の遅れは、決して放置しておくことができない状況に至っているようです。
  • 学長の権限が拡大したはずであったが、十分に機能していない。大学の古い体質、また全学一丸となって改革に取り組むという教員の意識が低いことが主たる要因ではないか。
  • 全学で危機意識を共有しているようには思えない。私学の理事を務めているが落差を感じる。
  • 旧来の大学自治組織の残影が払拭されていない点は改善の余地がある。
  • 「象牙の塔」にとどまらず、もっともっと社会の意見を吸収する柔軟さが必要。
  • 教員は既得権を守るのに必死である。
  • 「変わりたくない」という意識が強い。
  • 組織防衛的な考えが先にたつ。
  • 教員に改革マインドが薄く、現状維持派になりやすい。世の中のグローバル化が進む中で、当然ながら講義は英語でやらなければならない時代が来ている。しかし、これは教員の抵抗が強く改善できないでいる。
  • 将来に対しての教員の危機意識が薄い。
  • 道州制の議論がかなり現実味を帯びてきている昨今、生き残りをかける存在感がある大学を実現できるか、あるいは吸収合併されるのか、全教員が真剣に時代と向き合わなければならない。
  • 大学運営には、リーダーシップの下、教員の協力が重要であるということと、ボトムアップを基本にした運営との違いをはっきりと教員に理解してもらうことが求められている。
  • 国の機関であった時の慣習を切り捨てられないため、法人化したメリット面を十分活用できない。
  • 教員の意識改革が不十分であり、大学全体の改革が進まない。
  • 法人化に関する理解が不十分であり、特に教員の意識は旧態依然たるものがある。
  • 学問の自治を拡大解釈している。そのため、大学運営の効率化・スピードが遅くなっている。
  • 教員に多く見られる自己中心性の強さ、大学あっての自分という感覚は薄い。
  • 問題は、学部や学科における古い体質だと思う。若手及び役員会の教授は現状を明確に認識しているが、現場の教授達の中には、自分の研究にしか興味のない方もいる。国立大学だけではないが、大学教育が「学会」での研究成果以外では評価されにくいところが、大学運営の難しいところだと感じている。一部には、教授自身が、自分の所属する大学に愛着を感じていないのではないか・・・と思うことが他大学を見ていてあり、大学を挙げて・・・ということが難しい。
  • 大学改革で一番の障害となるのは教員の意識(保守的・独善的・非協力的態度等)。この問題解決のためにはショック療法的なものが必要。
  • 国立大学における教員の意識改革の立ち遅れ、既得権への固執、改めきれないでいる数々の旧弊など、諸悪の根源は本質的に旧態依然とした学長選挙のシステムにあると考える。学長は選挙の功労として驚くほど能力が欠如している役員を指名せざるを得ず、抜本的な改革に取り組む姿勢の学長は、多くの大学で再選されていない。かくして一部教員の危機感を尻目に大多数の教員はなんとかなるだろうと惰性と既得権に安住しているかのごとくである。
  • 法人化されて「改革」が必要とされていながら、改革の意識に欠ける教員がブレーキをかける印象がある。まだまだ学部意識が強い。
  • 大学全員入学時代の到来に対して、大学の存立の危機に対する意識と行動が弱い。
  • 横並び、わが教室・学部、唯我独尊・・・から「法人化」へ移行したのは何のためか。新しい時代への対応はどうするのか等の認識が甘い。

*1:「国立大学法人の財務・経営の実態に関する総合的研究」(天野郁夫氏)

*2:「国立大学法人における外部人材活用方策に関する調査研究」(代表者本間政雄氏)


2007年11月29日木曜日

大学教育の質の保証

大学再生 勉学意欲引き出す教育を(平成19年11月26日 産経ニュース)

大学教育について、文部科学省の中央教育審議会が卒業認定の厳格化など抜本改革を検討している。学生の質や意欲の低下が心配されるアンケート結果もでている。全入時代を迎え、高等教育の質向上を真剣に考えるときだ。

「入るのは難しく出るのはやさしい」「受験勉強はするが入学後は勉強しない」という日本の大学、学生の実態は以前から批判されてきた。

中教審では10年前の旧大学審議会時代、授業に出なくても「優」が取れる大学教育には警鐘を鳴らし、単位認定の厳格化などを求めた。

その後、大学によっては、取得単位の平均成績が一定基準に満たないと進級させない米国型の「GPA(グレード・ポイント・アベレージ)」を導入するといった取り組みもみられる。
だが、成績が悪ければ退学を勧告する厳しい姿勢の大学は一部だ。大学は変わっていないという不信が強まり、逆に大学生の質低下への懸念はさらに広がっている。

総務省などの調査*1によると、学生の学習時間は1日平均3時間足らずで、学外での予習勉強は「ほとんどしない」学生が半数にのぼる。海外の大学生では考えられない数字だ。

東京大学の研究グループが全国の学生を対象に実施したアンケート*2では、「授業はきっかけで後は自分で学びたい」という回答は約25%にすぎず、「必要なことは授業のなかですべて扱ってほしい」が約74%と圧倒的に多かった。「難しくてもチャレンジングな授業」を敬遠する傾向もでた。

学生を受け入れる企業側には大学教育への不満が強い。むしろ期待しない風潮の方が定着しつつある。

就職活動も早期化し、4年生の初めには内定してしまう。こうした状況にあって、大学で何を学ぶか、高等教育のあり方そのものが問われている。
中教審小委員会が卒業認定の厳格化などを提言した報告の中では、就職を過度に意識するあまり、大学が資格取得や専門学校のような教育に走る傾向にくぎをさしている。

大学は「入るのもやさしい」という全入時代を迎え、各学部・学科が教育方針を明確にして卒業させる責任がより高まっている。大学本来の責任と教育内容を再考してほしい。


厳格な成績評価


全入時代を迎えた今、我が国の高等教育の将来や、社会を支えることとなる人材の養成を考える上で、避けて通れないのが「大学教育の質の保証」の問題であり、中教審や文科省が現状に懸念を持ち、将来に向けた対応策を真剣に考え始めたことはとてもよいことではないかと思います。

でも、この課題、上記記事でも触れてありましたが、実は10年ほど前の大学審議会(現在の中央教育審議会)答申でしっかり指摘されていることなのです。
大学現場ではそれなりの工夫や改善が図られてきていると思われますが、取組みの遅れについては十分反省すべきなのかもしれません。

この大学審議会答申*3のうち、関係部分をご紹介します。


教育方法等の改善-責任ある授業運営と厳格な成績評価の実施-

1 授業の設計と教員の教育責任

我が国の大学制度は単位制度を基本としており、単位制度の実質化は教育方法の改善にとって重要な課題である。
現在の単位制度は、教室における授業と事前・事後の準備学習・復習を合わせて単位を授与するものであり、学生の自主的な学習が求められる。
このため、教室における授業だけでなく、授業の前提として読んでおくべき文献を指示するなど学生が事前に行う準備学習・復習についても指示を与えることが教員の務めである。
このことについて、大学当局はもとより各教員が十分自覚して授業の設計と学習指導を行うことが必要である。
同時に、学生の側においても主体的に学習に取り組むことが求められる。

2 成績評価基準の明示と厳格な成績評価の実施

大学の社会的責任として、学生の卒業時における質の確保を図るため、教員は学生に対してあらかじめ各授業における学習目標や目標達成のための授業の方法及び計画とともに、成績評価基準を明示した上で、厳格な成績評価を実施すべきである。
なお、厳格な成績評価の実施の結果、留年者による収容定員超過が生ずる可能性があるが、こうした定員超過については大学の設置認可や私学助成の際に弾力的に取り扱うことが適当である。

3 履修科目登録の上限設定と指導

学生の履修科目の過剰登録を防ぐことを通じて、教室における授業と学生の教室外学習を合わせた充実した授業展開を可能とし、少数の授業科目を実質的に学習できるようにすることにより、単位制度の実質化を図る必要がある。
このため学生が1年間あるいは1学期間に履修科目登録できる単位数の上限を各大学が定めるものとする旨を大学設置基準において明確にする必要がある。
また、個々の学生に対して履修指導を行う指導教員等を置くことも重要である。

4 教員の教育内容・授業方法の改善

各大学は、個々の教員の教育内容・方法の改善のため、全学的にあるいは学部・学科全体で、それぞれの大学等の理念・目標や教育内容・方法についての組織的な研究・研修(ファカルティ・ディベロップメント)の実施に努めるものとする旨を大学設置基準において明確にすることが必要である。
なお、個々の授業の質の向上を図るに当たっては、シラバスの充実等の取組が重要である。

5 教育活動の評価の実施

教育の質の向上のため、自己点検・評価や学生による授業評価の実施など様々な機会を通じて、継続的に大学の組織的な教育活動に対する評価及び個々の教員の教育活動に対する評価の両面から評価を行うことが重要である。
その際、教室における授業及び教室外の準備学習等の指示、成績評価などの具体的実施状況を評価の対象とすることにより、単位制度の実質化と教育内容の充実を図ることが重要である。
また、教育活動の在り方については、卒業生が働いている職場など外部の意見も聞き、それを踏まえて更なる改善につなげていくことが有効である。

6 学生の就職・採用活動に当たっての大学及び産業界の取組

大学と産業界は、学生の就職・採用活動が秩序ある形で行われるよう、適時、情報交換等を行うとともに、それぞれ適切な取組を進めることが重要である。
大学は、学生の卒業時における質の確保を図るため、教育内容及び教育方法の改善を進め責任ある授業運営を行うとともに、学生が自己の責任において主体的に就職活動を行えるよう就職指導の充実に努める必要がある。
また、産業界においては、大学の教育活動を尊重し、可能な限り休日や祝日等に採用活動を実施するとともに、過度に早期の採用活動を行わないよう期待する。
さらに、採用に当たっては、学校歴ではなく学生の大学における学習歴を一層重視した人物・能力本位の採用の取組が更に進められるとともに、男女雇用機会均等法に沿い、女子学生の雇用の機会均等が図られることを期待する。

2007年11月28日水曜日

給与法の改正と人件費改革

給与法改正案が成立、審議官以上の手当引き上げ見送り

今年度の人事院勧告を受けた改正給与法が26日、参院本会議で全会一致で可決、成立した。
勧告に従い、国家公務員の初任給など若年層に限定した月給や、期末・勤勉手当(ボーナス)などを引き上げる。
一方、厳しい財政状況や相次ぐ官僚の不祥事を受け、政府は勧告のうち審議官級以上の「指定職」の期末・勤勉手当などの引き上げを見送った。(平成19年11月26日 日本経済新聞)


平成19年の人事院勧告に対する給与法の改正は11月30日に公布・施行されることになっています。
4月1日に遡って適用され、報道によれば、総額で約440億円の人件費が追加発生するそうです。
なお、これは国家公務員に限った数字ですから、連動して実施されることになる(であろう)独立行政法人や地方自治体など公的セクターを含めた全体では想像を絶する大きな数字になることでしょう。

国立大学における給与改定

国家公務員の場合は、追加財政需要としての補正予算が組まれ、4月に遡及した差額が支給されることになりますが、つい4年ほど前まで同じ国家公務員であった国立大学の教職員については、国家公務員に準じた給与体系とはなってはいるものの、安易に追従することは大変難しい状況にあります。

その理由は、法人化後の国立大学の財政構造にあります。

国立大学の経営は、主に、学生納付金、附属病院収入、寄付金など自己努力で確保する財源と、国から交付される運営費交付金という税金*1により賄われています。

このうち、運営費交付金は、いわゆる渡しきり経費として交付され、使途が特定されない裁量性の高い資金である反面、年度途中に国から追加交付を受けることはできない資金でもあります。

つまり、今回のように国家公務員の給与の引き上げが行われ、それに準じた取り扱いをしようと思っても、国家公務員のように補正予算が組まれ、そのための財源が自動的に配分されるようなしくみにはなっていないわけです。

したがって、既に交付された運営費交付金の範囲内で、自助努力によって財源を捻出しなければならないことになります。今回のように若年層に限定した増額改定であっても、中規模大学では数千万円の財源を調達しなければならないことになります。

国立大学における人件費管理

法人化後の国立大学は、国(税金)に経営財源を依存しつつも、完全に親方日の丸であった国の時代とは違い、自己責任において健全かつ安定的な経営を行うことが求められるようになりました。

このため、ほとんどの大学では、中・長期将来を見通した財政計画を策定し、特に支出に占めるウエイトが最も大きい人件費*2については、詳細なシミュレーションを繰り返し実施するなど、徹底した人件費管理が行われています。

このように、現在の国立大学には厳しい経営努力が求められており(民間企業にしてみればまだまだ甘いのかもしれませんが)、今後、その成果如何によっては、国立大学間の給与格差が次第に拡大していくことになるのだろうと思われます。(既に昨年あたりから、国立大学の教職員の間に給与水準の格差が生まれているとの情報もあります。)

国立大学における人件費改革

さて、国家公務員の給与改定を例にとり、国立大学の財務構造に起因する人件費管理の課題をご紹介しましたが、国立大学が内包する課題の解決だけでは適切な人件費管理は維持できないことについてご紹介したいと思います。

現在、我が国では、財政危機からの脱却を目指し、「国家公務員の総人件費改革」*3 *4 *5が進められており、多くの税金が投入されている国立大学にも適用(国立大学の教職員の人件費も削減の対象と)されています。

この改革により、現在国立大学は、平成18年度から22年度までの5年間で5%の人件費を削減することが義務付けられており、平成16年度の法人化以降、既にノルマとして課せられてきた運営費交付金の毎年度1%の効率化減と合わせると、中規模大学では毎年1億円を超える予算の削減を実行していかなければなりません。

大学が行う「ヒトづくり」と企業が行う「モノづくり」とは、使命、役割、機能といった面で基本的に異なるものではないかと私は思うのですが、残念ながら、国が現在進めている重点施策は、企業あるいは行政機関と、大学という人を育む教育機関を同列に位置づけ、大幅な人件費の削減を求めることなのであり、これが我が国の将来にとってどれだけ意味のあることなのか疑問に思います。

国立大学の人件費の在り方

さて、ここで、国立大学の人件費の問題について書かれた報告書*6をご紹介したいと思います。

国立大学の人件費の現状と課題が浮き彫りにされ、今後の在り方について確かな示唆を与えてくれるものではないかと思います。


文部科学省を通じて各国立大学法人に配分される運営費交付金、ひいては各法人の経常支出の主要部分を占めるのは人件費である。経常支出に占める人件費比率が80%を超える大学も少なくない。

教職員が国家公務員であった時代には、人件費は職種・職階別に人事院によって定められた給与表に基づき算定された額が、各教職員に支払われていた。
その教職員の職種・職階別の数も、例えば教授何人、助教授何人というように定員法により、各大学・部局毎に定められていたから、大学にとって人件費それ自体が大学運営上の重要問題とされることはなかった。
ただ、新しい教育研究活動を始めようとすれば、その都度人員、つまり新しい定員要求をしなければならず、それが新規概算要求の最重要の目標とされてきたことは周知のとおりである。
その一方で、行財政改革の一環として(特に事務職員の)定員の計画的削減が早い時期から進められており、定員削減を回避することが可能になる(はず)というのが、法人化に反対する国立大学側の説得材料とされた時期もあった。

こうした人件費の在り方は、法人化によって一変した。
今や人件費は、どの国立大学法人にとっても、経営上の最重要課題になったといっても言い過ぎではない。

何よりも、教職員が国家公務員身分を失うとともに定員法は廃止され、従来支払われてきた人件費の各大学分の総額が、運営費交付金の主要部分として配分されることになった。
その額は、標準的な学生・教員比率を基に文部科学省が定める算式によって計算されることになっているが、実際にはその総額は、法人化された2004年時点の各大学の実態にほぼ沿った額になるよう配慮がされた上で算定された。
各大学はこの法人化初年度の算定・配分額を出発点に、それぞれ独自に給与水準を設定し、教職員数を決める「自由」を獲得したのである。

ただ、この人件費については、人事院の定める国家公務員の給与水準が算定のベースとなっているから、国立大学法人の教職員は非公務員化したといっても、その枠から全く「自由」ではあり得ない、というより、実質的にそれに強く拘束されている。

その上、法人化当初は効率化係数の対象外とされていた人件費にも、中期計画中に5%の削減が求められるようになり、各大学ともそれを前提に、人件費の削減に向けたシミュレーションの実施や計画の策定を、文部科学省から強く求められている。

「全学的な経費節減方策を持っているか」という質問に対して、「人件費全般」の節減策を持っていると答えた大学(財務担当理事)が86%と、「一般管理費全般」のそれ(77%)を上回っているのは、そうした厳しい現実の表れと見てよいだろう。
ただ、その節減策がどこまで「長期的な予測や推計」に立ったものになっているのかとなると、法人化2年目ということもあり、各大学の立ち遅れた現状が見えてくる。
すでに長期的な予測・推計を行っている大学は約3割(31%)にとどまり、残りの7割(67%)は、ようやく検討を始めたところだからである。
対応策を立てているとはいっても、退職者の後のポストの不補充や採用凍結、欠員補充の留保などが中心であり、長期的な展望に立った人件費対策を実施しているのは、まだ一握りの大学に過ぎないのである。

国家公務員としてのポストと給与が、安定的に保証された「親方日の丸」の時代は終わった今、長期的な展望に立った、人件費の合理化政策が差し迫って必要とされていることは言うまでもない。
しかし同時に大学は労働集約的、しかも人材の質が決定的な重要性を持つ、プロフェッションとしての教員・研究者主体の経営体である。
その大学の、経営合理化のしわ寄せが、人件費に最も強く及び、収支のバランスが人件費を「浮かせる」ことで保たれるというのは、どう見ても望ましい状況とは言えない。

「運営費交付金に占める人件費の割合が75%とかなり大きい。経営の視点からはかなり厳しい数字であると思われる。しかし、高等教育機関における人は「コスト」ではなく「リソース」である。大学の競争力は、どれだけ優秀な教員(研究力と教育力に秀でた各分野のトップランナー)と、専門性の高い事務職員を集められるかにかかっているのである。

運営費交付金の減額分のダメージをできる限り押さえるためには、一般管理費の節約と外部資金・競争資金の獲得に、より一層励むことが課題であると認識している」(某財務担当理事)
そうした「正論」が、大学経営に貫かれるためにも、運営費交付金制度の中核部分である人件費の、政府による一方的かつ長期的な削減策は、再検討される必要があろう。


*1:例えば、東京大学の場合収入総額の約半分、自己収入の少ない単科大学の場合には、より高い割合
*2:例えば、東京大学の場合支出総額の約4割、中規模大学では概ね平均6割程度
*3:「行政改革の重要方針」(総人件費改革の実行計画等)(平成17年12月24日閣議決定)
*4:「簡素で効率的な政府を実現するための行政改革の推進に関する法律」(平成18年5月26日成立、同6月2日公布施行)
*5:「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2006について」(平成18年7月7日閣議決定)」
*6:「国立大学法人の財務・経営の実態に関する総合的研究」(平成19年3月天野郁夫氏)

2007年11月27日火曜日

大学の倫理観とディスクローズ

「目安箱」で大学変えます 全入時代に向け広がる

庶民の声を施策に生かそうと、江戸時代に将軍徳川吉宗が設けた「目安箱」。
その大学版とも言える取り組みが広がり始めた。学長に学生や職員が「直訴」できる仕組みだ。
間近に迫る「全入時代」や国立大学の法人化で、一層の経営改善を求められている昨今の大学。享保の改革ならぬ平成の大学改革に、学生らの声を生かせるか。

「学長直行便」。成蹊大(東京都武蔵野市)は05年11月、そう名付けたポスト型の箱を学内3カ所に設置した。
直行便は、栗田恵輔学長の発案で始まった。今や電子メールが全盛の時代。学生の意見をメールで募る大学は珍しくないが、なぜ本物の箱を置いて手書きの意見を投函してもらうのか。

栗田学長は「メールだと、あまり深く物事を考えないで惰性で人に意見を伝えることがあると思った。きちんと字を書いてもらうことに意味がある」。
原則記名式で、月に2度回収。これまでに240通が集まった。意見にはすべて栗田学長が目を通し、必要ならば関係部署と相談して回答する。意見と回答は学内のウェブで公表される。

「成蹊大は社会活動やボランティアへの支援策が手薄では」。そんな意見を受け、学内に外部の団体との連絡窓口となる「ボランティアセンター」の設立準備室ができた。
「不親切」などの意見が目立った職員の対応を改善したら、学内の調査で学生の不満度がほぼ半減した。成果は表れてきている。

広島経済大(広島市)は03年12月に意見箱「聞いて学長!」を食堂など学内3カ所に設置。
「学生の声を改革に生かしたい」という石田恒夫学長の思いを実現させた。
これまでに寄せられた意見は約500件。すべて学長が目を通し、回答と一緒に箱の近くなどに掲示するようにしている。

山の中腹にキャンパスがあるため、通学に苦労していた学生から改善を求める意見が多く寄せられ、約500台分の駐車場を整備する大規模事業につながったことも。
ただ、これだけ集まれば、単なる「わがまま」のような意見も少なくない。同大はそんな意見にも、「懇切丁寧に、学生でもわかりやすいよう回答しています」(入試広報室)という。

東京大(文京区)は06年7月、小宮山宏総長の発案で目安箱制度を始めた。
ウェブ上で書き込む形に加え、象徴の意味も込め、同年8月に本物の箱を三つ設置。

当初は教職員を想定していたが、徐々に学生からの意見も増えてきた。ウェブも含め、これまで寄せられた150件超の意見のうち、学生が寄せた分は約10件。環境保全のため、「冬は20度、夏は28度」という空調設定の徹底を総長に求める意見や、「煙害」への対応を求める意見など様々だ。(平成19年11月25日付 朝日新聞)

三重大学長がブログ開設 「発信力が試される時代」


三重大の豊田長康学長(57)が、インターネットでブログ(日記)を始めた。
学内の日々の行事に参加して思うことや、国立大学への国の補助金にあたる運営交付金の配分に競争原理を導入する見直し問題などへの見解をつづっている。学長ブログは県内の13大学・短大で初めて。「これからは学長の発信力が試される時代」と意気込んでいる。
タイトルは「ある地方大学長のつぼやき」。「つぶやき」と「ぼやき」を掛け合わせた。
10月22日にスタートし、これまで12回更新した。カメラ付き携帯電話で撮影した写真も掲載している。

きっかけは今年5月に浮上した国立大学の運営費交付金の見直し問題。
地方大学への交付金が激減し、三重大にとっても存続の危機に立たされるだけに、学長自ら緊急記者会見や県議会での意見陳述で見直しを訴え。
そのかいあって、県や県議会など県内6団体の要望書につながった。
「トップ自ら考えを発信すれば、分かってくれる人がいる」と“目覚めた”という。

今月19日に書き込んだブログでは、野呂昭彦知事に同行した文部科学省への陳情をテーマに「県民と地方大学が心を合わせて行動し、中央にものを言う形ができた」とつづった。
最新の20日分は、体育会応援団の公演を見て「どの大学にも負けない胸を張って誇れるものを増やそう」と書いた。

目標は2日に1回の更新。「秘書が書いたような飾り物ではなく、私の人柄が出るブログにしたい」と話している。 ブログのアドレスは、http://www.mie-u.ac.jp/blog/(平成19年11月25日付 中日新聞)

情報公開に向けた意識改革


社会、とりわけ学生や保護者、地域などのステークホルダーから意見や提案を収集し、ミッション達成に活用する大学が増えてきました。
さらには三重大学のように、学長自らが大学の社会的責任、説明責任を果たすことに努力している大学もあります。
国の時代にはなかった素晴らしい取り組みだと思いますし、少しでも社会と大学の垣根が取り払われることを期待したいと思います。

さて、大学は、上記のような取組みだけではなく、学校教育法や大学設置基準にも書かれてあるように、大学の教育研究活動の情報の公表・公開という基本的な責務にも真摯に対応していくことが求められています。

残念ながら現状においては、透明性の確保に向けた教職員の意識レベルがまだまだ低く、閉鎖性を取り除くための地道な努力がまずは必要なのかもしれません。

情報公開制度について一例をご紹介します。

国や独立行政法人(国立大学法人を含む。)には、法律により、保有する法人文書等の情報を国民に公開し、説明責任を果たす義務が課せられています。このため、国立大学の場合には、情報公開窓口や開示・不開示の判断を行うための会議体(例えば「情報公開委員会」)が設けられています。

時代を反映してか、最近では開示請求件数が増え続けているようです。
当然、関連する事務負担も増えるわけですが、国民の利益につながることですから、税金によって経営が支えられている国立大学としては、積極的な情報公開に取り組んでいかなければならないわけです。

聞くところによると、最近、多くの国立大学で、製薬会社や医療法人との関係が問題視されている医学部(又は附属病院)への寄付金に関する情報公開(寄付者名、寄付金額、受入教員名などの開示)を報道機関から求められているケースが増えているそうです。

ある大学では、開示・不開示の判断(最終的には学長の判断ですが)を行う委員会では、積極的な情報公開を行うべきという意見(主に事務職員)と、不開示を主張する意見(教員)とに分かれ、結果は一部開示となったものの、開示すべき法人文書がどういう文書なのかわからなくなるほど、真っ黒な墨塗りになってしまったそうです。

また、この委員会で交わされた議論の中には、まるで後ろめたいことをやっている悪者達の談合のように、国民が聞いたらびっくりするような閉鎖的、保身的な意見が数多く、まさに「大学の常識が社会の非常識」という言葉がぴったりの状況だったようです。

さらに、一部開示の決定に当たっては、不開示部分についての不服申し立てを受けることが前提となっていたとのことで、このような法律の目的や趣旨*1に従わない確信犯的な決定をした大学の責任は極めて重いのではないかと思います。

大学は、憲法により保障された神聖な学問の府として、こういった社会の求めに反した、あるいは国民を愚弄するような行為を決して行うべきではありませんし、社会との垣根をより高く頑強な壁にしてしまうこのような愚かな行為は、自ら堕落の道を目指して突き進んでいるようなものではないでしょうか。


*1:独立行政法人等の保有する情報の公開に関する法律の目的(第1条):この法律は、国民主権の理念にのっとり、法人文書の開示を請求する権利及び独立行政法人等の諸活動に関する情報の提供につき定めること等により、独立行政法人等の保有する情報の一層の公開を図り、もって独立行政法人等の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする。

2007年11月26日月曜日

科学技術の振興

「研究開発人材」5年で質量とも低下 文科省調査

国内の研究開発人材が、この5年で質量ともに低下していると、第一線の研究者が感じていることが、文部科学省科学技術政策研究所の意識調査で分かった。
国は96年から5年ごとに科学技術基本計画を立て、10年間で科学技術分野に約38兆7000億円を重点配分してきたが、人材育成に関しては期待したほど成果が上がっていないようだ。

調査は昨年11~12月、大学の学長や研究所の管理職、基本計画で重点の置かれた生命科学や材料科学、エネルギーなど8分野の一線の研究者ら約1400人に実施。研究資金や人材、産学連携などの現状を質問し、約1200人からの回答を分野ごとにまとめた。

研究者の数や質を5年前と比較する設問では、「質が上がった」という分野は皆無。
情報通信やものづくり、エネルギーなど5分野では「やや低くなった」と評価された。
研究者の数もほとんどが「横ばい」か「やや減った」とされた。

自由記述では、「ポストの減少で数も質も劣化」(環境)▽「博士号取得者は増えたが、全体として質は低下」(ナノ・材料)▽「分野内の領域ごとに偏りがある」(生命科学)--などの回答があった。

同研究所の桑原輝雄・総務研究官は「現場の実感では、政策の効果が十分に表れていないと受け取れる。
今後、聞き取り調査などで理由を探りたい」と話している。

現在必要な取り組みとしては、各分野とも「人材育成と確保」がトップ。
特に、基礎研究を担う人材育成が急務とされた。
また、若手育成では、博士やポスドク(任期付き博士研究員)の就職支援を求める声が多かった。(平成19年11月23日付毎日新聞)


科学技術基本計画の成果は

平成7年11月、「科学技術基本法」という法律が制定されました。

この法律は、議員立法により全会一致で可決成立した法律で、21世紀に向けて我が国が「科学技術創造立国」を目指して、科学技術の振興を強力に推進していく上での大きなバックボーンとなるものとして作られました。

また、この法律の制定を受け、平成8年7月には「科学技術基本計画」が策定されました。

これは、科学技術の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るための基本的な計画で、現在、平成18年3月に作られた第3期計画により関連施策が進められています。

この「科学技術基本計画」に盛り込まれている施策の一つに、「大学・大学院等の研究施設及び研究設備の拡充・高度化、老朽化対策等」があります。

科学技術基本法や科学技術基本計画が策定された当時の大学、特に国立大学の研究環境は極めて劣悪で、経年20年以上の建物は、全体の49%(平成6年)もあり、老朽化が著しく進んでいました。

参考までに、朝日新聞発行の「アエラ」の記事の一部(平成3年)をご紹介しておきましょう。

=頭脳の棺桶国立大学=

国立大学が、日本の繁栄から、取り残されている。

廊下で実験する狭さ、資料室に虫がわく汚さ・・・。そんな劣悪環境の中で、日本の頭脳が、疲弊しはじめている。

日本は急速に豊かになったが、その豊かさは、国立大学を素通りしてしまった。

その繁栄と高度技術社会の明日を支える基礎研究と教育の場所は、まるでタイムカプセルをのぞくように、どこも、狭く、古く、雨漏りがし、その分、士気が低い。

時代に見合った研究設備の購入、そのための施設の拡張どころか、老朽施設の改修も、ほとんどなされていない。

国立大学のあえぎは、文部省予算の推移を見れば、一目瞭然である。

国立大学に高等専門学校と共同利用機関を加えた計168の「国立学校」の施設整備費は、昭和54年度をピークに激減。平成3年度の898億円は、物価上昇を勘案すると、昭和39年度(261億円)の水準さえ、大幅に下回っている。

「文部省予算は、人件費の割合が大きい。マイナスシーリングで総枠が抑えられ、物件費にしわ寄せがきた。大学の施設は、橋や道路と違って、議員さんにとっては、票にならないですからねェ。学者先生たちも、最近は少しは動いてくれますが、とても圧力団体にはならないのですよ。」と文部省課長。


以上のような状況からの早期脱却や科学技術創造立国を目指した科学技術政策が、これまで、厳しい財政事情の中、膨大な税財源を投資し進められてきたわけですが、冒頭の記事によれば、「モノの豊かさによってヒトを育てる」ことはできなかったようです。


財政制度等審議会の建議


現在の科学技術政策に対する一つの検証結果が、上記記事を裏付けるように、去る11月19日にとりまとめられた財政制度等審議会の「平成20年度予算の編成等に関する建議」において示されています。


科学技術予算については、これまで他の経費を上回る高い伸びが確保されており、科学技術振興費は過去10年間で1.6倍、過去15年間で2.5倍に増加。

我が国における研究開発費(民間を含む。)の対GDP比は主要国中でも際立っており、科学技術・研究開発に対するインプット(資源投入)の面では国際的にも高い水準に達しているが、その投資効果については、未だ十分に示されているとは言えない状況。

特に、競争的研究資金については拡充を図ってきたところであるが、過大な経費の見積りや、執行の年度末集中等、予算の効率的な配分・執行に疑問を抱かせる事例も指摘されている。

また、昨今問題となっている研究費の不正使用についても、対策は端緒についたばかり。

こうした状況の中、科学技術予算について量的な拡大のみにとらわれるのではなく、投資の効率化と成果の実現を重視した、質的な改善こそが求められている。

特に、後年度の国庫負担をもたらす大規模プロジェクトについては、投資効果について国民への説明責任を十分に果たすとともに、一定の必要性が認められる施策であっても、その相対的な優先順位を峻別することが重要。

研究費についても、まずは不正対策や、不合理な集中・重複排除の取組の実効性を検証することが先決であり、予算総額の伸びを抑制しつつ、その中での直接経費・間接経費の区分の見極めや執行の効率化によって、研究支援効果を高めていくべき。

科学技術振興費の約7割は独立行政法人によって執行されているが、これらの中には、事務系職員を中心として給与水準が高い法人も多くみられる。

国家公務員の総人件費改革を踏まえ、国民の理解が得られる適正な給与水準とするよう聖域なく徹底した効率化を進めるべき。


我が国の科学技術政策が真の成果を得るためには、霞が関の政策立案者の視点と、研究現場である大学などの力とが相まって進められていくことが何より必要であり、そのためには、現場が今何を必要としているのかを霞が関は十分に汲み取り政策に反映させていくことが重要であり不可欠なことだということではないでしょうか。

2007年11月24日土曜日

大学事務職員の役割と意識改革

事務部門の運営上の問題点

最近、大学事務職員の役割・機能を論じる記事や、能力開発に関する活動を紹介した記事等を読む機会が増えました。

少子化社会の到来とともに、大学経営の重要性が従来以上に認識されてきていることの表れなのかもしれません。

特に、法人化によって、国の附属組織から、独立した経営体として自分の足で歩き始めなければならなくなった国立大学にとっては、事務職員の担う役割が非常に重要になってきており、平和な公務員生活を送ってきた事務職員は大きな意識変革を迫られることになりました。

既に法人化後4年目を迎えていますが、彼らは期待どおりの役割を果たすことができているのでしょうか。

法人化後の国立大学の事務職員の役割や当面する課題については、これまでもいろんな形で有識者による分析が行われていますが、今回は、国立大学の内情に詳しい天野郁夫氏(国立大学財務・経営センター)のレポート*1をご紹介したいと思います。

教員頼みの大学運営は、事務機構の整備や職員の能力開発の遅れと深くかかわっている。これまでの教授会自治を基盤にした、教員中心の運営方式の下では、事務局に求められたのは、定められた諸規則にもとづくルーティン化した事務処理が大部分であり、職員に大学運営に直接かかわる企画立案等の能力や責任が求められることは、ほとんどなかった。

文部科学省の厳しい官僚主義的な統制が、それをさらに強化する役割を果たしてきたことはいうまでもない。また、具体的な個別の業務にかかわる能力についても、ゼネラリスト重視の官僚の世界を反映して、総務・人事・会計・施設といった大まかな領域設定はあっても、それぞれの職員の専門性が重視され、系統的な人材の育成や能力開発が図られることはなかった。

それだけでなく、法人化前の国立大学では、事務局の指揮命令権限は、人事を含めて文部科学省から異動官職としてやってくる、事務局長をはじめとする幹部職員にあり、学長には何の権限も認められていなかった。

法人化後、事務局の編成から人事まで、権限は文部科学省から大学・学長に全面的に移譲されることになった。その結果、事務局長を置くか置かないかを含めて、各大学とも、事務局の再編や人事について様々な工夫を凝らすようになったことを、調査の結果から知ることができる。

例えば事務局長制についてみれば、従来どおり事務局長を置き事務の一元的統括を行っている大学が3分の1(33%)、事務局長を兼ねる担当理事による一元的統括に変えた大学が約4割(39%)ある一方で、事務局長を置かず、総務等の担当理事が一元的に統括する大学(7%)や、各担当理事が部門ごとに統括する大学(11%)など、多様化が進んでいる。

また、担当理事制が一般的になる中、財務担当理事のうち31人が文部科学省の異動官職でなく、教員出身者で占められていることは既に述べたが、人事担当の理事についても34人が教員出身者となっている。文部科学省からの異動官職が、依然として財務・人事・総務等の主要ポストを占めているものの、役員会、引いては学長と教員出身の理事主導の大学運営が、事務部門にも及びつつあることがうかがわれる。

ただ、法人化から2年が終わった段階で、事務部門の再編はある程度進んだものの、これまで完全に別組織であった事務部門と教学部門を、法人のもとにどのように有機的な関連付け、「イコール・パートナー」として位置付けていくかについて、多くの大学が手探り状態にあることが、「事務部門の運営上の問題点」についての学長たちの自由回答結果からうかがわれる。

【自由回答結果】
  • 法人化後、直面した新たな課題に対応していくためには、事務部門の縦割り構造や、これまでの業務のやり方に拘泥するような意識では対応していくことが困難。管理職からの意識改革が必要。

  • 6名の理事と事務の部門は直結しているため、この縦割り制が部門間の連携を阻害している。総務担当理事の一元的統括は、人事等に限らざるを得ない。

  • 事務局長所管の事務部門と担当理事所管の部門間の調整が十分とはいえない。そのため、事務局長を理事とし、事務組織の統括と全体調整に責任ある立場から当たることができるようにする予定。

  • 指揮系統の明確化を図るとともに、部課ごとのセクショナリズムの軽減を図る必要がある。

  • 異動官職と学内職員との融和が不十分。

  • 各理事の職掌の下で事務が進行するため、横の連絡が十分に取れなくなってきている。大学運営を戦略的に進めていく中で、その総括的組織が整備されていないため体系的な取組みが不十分。

  • 教員出身の理事と事務部門の連携が円滑に動いていない場合がある。

  • 学長の多くが、法人化により「管理運営の合理化・効率化」が進んだと考えていることは、最初に見たとおりである。しかし、その過程で執行体制、とりわけ実働部隊である事務部門の抱える様々な問題が見えてきたというのが、法人化から2年後の現実といってよいだろう。

  • 教員出身の学長や理事にとって、また役員会にとって、事務部門の指揮命令も、経理や人事等の実務も、全てが新しい経験であり、真に合理的で効率的な管理運営の在り方を求めて、手探り状態が続いているのである。

事務職員の意識改革

現在、多くの国立大学において事務改革に向けた取り組みが進められていることは既にご紹介しましたが、なかなか抜本的かつ迅速な解決には至ってはいないようです。なぜならば、改革に最も重要とされる意識改革、というより意識のない者への意識付けに相当手間取っているからのようです。

先日ご紹介しました外部人材レポート*2でも、次のような事務職員の意識改革の遅れに関する厳しい指摘が記述されていました。

大学という閉鎖社会に身を置く人々の感覚の甘さに対する社会の厳しい批判として真摯に受け止め、速やかに具体的な行動に移すことが求められています。

  • 法人化に伴い求められる自立意識がまだ芽生えていない。

  • 法人になって3年あまりになっても、まだ意識改革が不十分。

  • 事務長の事務職員に対する権威・権限が強く、事務サイドが萎縮している。

  • 法人経営に対する意識改革が遅々として進まない。

  • 組織としての意思決定のプロセスに時間の概念が欠如している。また、組織としての意思決定があっても、不満であれば実行しない(従わない)ことが許される雰囲気がある。権限、リーダーシップ、予算などを駆使して、このような意識改革を早急に進めることが必要。

  • 長い国立大学時代の仕事の進め方が身にしみついている。

  • 未だ国家公務員意識を持ち、大過なく働くことを第一とする傾向大。愛校心よりも文科省が絶対になっている(経営の意味を解せず)。

  • 中期計画及び年度計画を本気で遂行しようとする者はごく一部。

  • 長期的に物事を考えるのが不得手。

  • 危機意識が少ないためにリスク感度が甘い。

  • 経済合理性で物事を判断する習慣がない。

  • 勤務時間に対するメリハリに乏しい。

  • 管理職(課長、課長補佐等)の態度が保守的であり、現状を変えることに絶えず抵抗がある。多くの意思決定がなされるが、これを実行する段になると腰砕けになる。

  • 公務員感覚から抜けきっていないところがあり、法人の経営という意味での意識が十分ではない。意識改革のために教育・訓練、経営に適した人材の育成・登用、経営に向けての教員・職員の一体感・チーム意識の醸成・高揚に一層の努力が必要。

  • 法人化の目的が学長や一部の教職員を除いて理解されていない。

  • 様々な問題を抱えているにもかかわらず、全般に危機意識は必ずしも高くなく、民間から積極的に学ぼう、外の意見を積極的に取り入れていこうとする意欲も高くない。特にそれが最も必要な事務局において甚だしい。

  • 日々の業務執行に当たって目標達成意識を持っていない。

  • 国立大学法人のスタッフに進取の気概が欠けている。

  • 「忙しい」が口実になり、合理化・効率化が進んでいない。

  • スピード感が遅く、その際、ネックになっているのが公務員意識が抜け切れない点にある。

  • 目標達成に向けた戦略や戦術が不足。意識が低い。

  • 公務員体質や事なかれ主義等組織の活性化を阻害する体質が醸成されている。

  • 個人の独立意識が強く、協調性が乏しい。

  • 全学一丸となって改革に取り組むという意識が低い。

  • 法人化しても、役所・役人・親方日の丸の意識が抜けていない。改革しようとしている学長の意向が、教授から受付職員にまで全体に及んでいない。全体として相変わらず役人である。

  • 意識が以前とあまり変わっていない。新しい役割・仕事に積極的に取り組もうとしない。

  • 事務改革・組織改革においては、抜本的な意識改革による大幅な削減がもっとできるはず。

  • 将来に対しての危機意識が薄い。

  • 事務部門における、いわゆる「お役所仕事」からの脱皮が必要。

  • 事務幹部の責任感不足。異動官職制は即刻廃止すべき。

  • 自分の立場に対する認識が欠如。

  • 目的は何かという発想を身につけていない。そのように育てられていない。

  • 危機感が希薄な者、自己本位の者がおり、一層の意識改革への取り組みが必要。

  • 旧態依然の考え方で物事を進めようとしている。

  • 地域性のためか、時代の流れを認識していない。

  • 経営責任があることをもっと認識すべき。

  • 国の機関であった時の慣習を切り捨てられないため、法人化したメリット面を十分活用できていない。

  • 意識改革を末端にまで徹底することが必要。


*1:「国立大学法人の財務・経営の実態に関する総合的研究」(2007.3月)

*2:「国立大学法人における外部人材活用方策に関する調査研究」(2007.4月)

2007年11月22日木曜日

地方国立大学の役割と存在意義

地方国立大学の挑戦

来る12月14日(金)、15日(土)に岐阜大学において、「地方国立大学の挑戦」と題したシンポジウム(岐阜大学、国立大学協会主催)が開催されます。
■日時 2007年12月14日(金)~15日(土)
■場所 岐阜大学講堂(入場無料、申し込み不要)
■主催 国立大学法人岐阜大学、社団法人国立大学協会
■目的 地域社会の活性化を担う知の拠点としての地方国立大学の大学像について、大学長らを中心とする専門家による討論の場を設け、大学関係者及び市民等に地方大学の活動と役割について広く意見を発信し、深い理解を得ることを目的とします。
■日程等
岐阜大学ホームページ

競争原理VS経済効果


今夏6月に経済財政諮問会議によって取りまとめられた「骨太方針2007」への道のりで、財務省と文部科学省が特に力を入れたテーマの一つが「大学・大学院改革」であり、「国立大学への競争原理の導入」でした。国立大学の運営費交付金を研究実績に応じて傾斜配分する「競争原理」の導入を迫る財務省に対し、文部科学省は国立大学の地方貢献を強調することにより成果主義導入案に対抗しました。

中でも、文部科学省は、これまでの「地域の知の拠点」一点張りの論法に変化を加え、これまで未検証だった「地方国立大学が地域に与える経済効果」という経済面でのアピールを行いました。文部科学省が財団法人日本経済研究所に委託した調査によって、地方国立大学が地域に与える経済効果(1大学当たりの生産誘発効果)は400億円~700億円、雇用創出数は6000人から9000人に上ることが明らかになりました。

これは、地方に立地する附属病院を持つ総合大学が当該県に与える経済効果をシミュレーションしたものですが、例えば、生産誘発額、雇用創出数で見た場合、
  • 弘前大学 406億円(6774人)
  • 群馬大学 597億円(9114人)
  • 三重大学 428億円(6895人)
  • 山口大学 667億円(9007人)
となっており、雇用創出数は各大学とも県全体の1%を占め、鹿児島県での九州新幹線開業による効果166億円、九州地方のJ1リーグサッカーチームによる効果 24億円よりも経済効果があるとしています。このほかにも、九州大学、高知大学などでは独自に経済効果を算出し地域に根ざす大学としてのアピールを行っています。

地方国立大学の本質とは


この一連の経済効果報道に対する国民の受け止め方には賛否両論あったようですが、あるブログでは次のようにコメントされていました。

大学に対して経済効果があるならいくらでもお金を出して良いというわけではないはず。
大学でも、ほとんど成果を上げていないのなら、つぶれて然るべきだと思う。
大学として良くないのであれば、例え経済効果があったとしても存続させるべきではない。
学校はやはり、教育や研究に対する貢献度で評価されるべきであって、その他の要素はあくまでも二次的なものにすぎない。

大学の本質から考えてみれば当然のご指摘であり反論の余地はありません。
しかしながら、この一連の経済効果報道、実は、文部科学省が伝えたかった趣旨から相当はずれたものになっていたようです。
文部科学省が作成したプレス発表資料によれば、プレスに強調したかったのは、実は経済効果ではなく、地方の国立大学が教育や研究活動を通じ、地域においていかに貢献しているか、地域における役割がいかに重要かについてのようなのです。

例えば次のような内容についても発表しているのに、マスコミは経済効果しか取り上げていません。

いずれも、我が国の国公私立大学のうち、「東京都、京都府、大阪府、政令指定都市に立地する国立大学」と「その他の地域の国立大学」とを比較した場合として、
  • 研究論文数(日本国内上位30大学中) → 都市11大学:地方13大学
  • 地域の知の拠点を形成する大学 → 文部科学省の競争的資金である「21世紀COEプログラム」の採択状況(平成14~16年度)では、都市24%:地方31%
  • 人材養成の面から見た大学 → 地域別に見た理工分野での大学院在学者の状況(平成18年度)では、修士課程で、都市27.8%:29.3%、博士課程で、 37.5%:32.5%
  • 産業界の研究開発に寄与する大学 → 大学発ベンチャー実績(上位50大学中)では、都市16大学:地方21大学、共同研究実績(金額ベース上位50大学)では、都市19大学:地方25大学、中小企業との共同研究実績(件数ベース上位50大学)では、都市34.2%:地方62.1%
と、地方大学の活躍が強調されています。


ある新聞社説に次のようなコメントがありました。

地方の国立大学にも一層の改革努力が求められる。
他県からも学生が集まるような特色ある教育をし、強みと言える研究分野を持つことが肝要だ。
地域経済への貢献や、地元自治体などへの人材輩出で存在意義をアピールする必要もある。


現在、来年度予算の編成作業真っ只中。財務省VS文部科学省の熱い闘いが繰り広げられていることでしょう。
国立大学の運営費交付金の行方は、我が国の高等教育の将来はもとより、地域に根ざした地域と共生する大学づくりを目指す地方国立大学の存在意義に大きな影響を及ぼすことになるかもしれません。

地域における国立大学の存在意義


学長に前文部科学事務次官の結城章夫氏が就任したことで何かと取沙汰された山形大学。
報道の取りあげ方が大学のイメージを少々下げることになってしまったわけですが、実はこの大学、これまで様々な素晴らしい改革を遂げてきています。その改革を先導してきたのが、前学長の仙道富士郎氏であり、山形大学を地域に根ざした地域とともに発展する大学として育ててきた手腕は高い評価を得ています。

仙道氏は、地方大学の存在意義について次のようにコメントされています。


現在、わが国の経済は好景気を保っていることが言われておりますが、それは中央に限ったことで、地方の景気は決して良くなっていないとも言われております。
この現象を経済の構造から見てみますと、グローバルな経済にリンクしている企業は好景気を保っているが、ドメスティックな企業の景気は決して良くないということになり、中央には前者の企業が多く、地方の企業は後者が多いことがわかっています。
この地域格差をいかに克服するのかが地方の行政や経済界の大きな課題となっていますが、この課題解決の第一条件としては、地域の差別化をいかに行いうるかがポイントになります。
つまり、どこかで行われた改革をなぞるようなことでは差別化は不可能であり、常に変化していく社会に適応すべく、地域も新しい差別化を模索し続けなければならないことになります。


そのためには、地域は常に学び続けることが必要になります。OECDの大学の地域貢献に関する報告書の中で述べられている「learning economy」という概念の誕生であります。そして、「learning economy」を可能にするためには、「learning area」、「学習する地域」の存在が必須であります。その「learning area」の中心的な役割を果たすのが、21世紀の知の拠点としての大学ではないでしょうか。


つまり、地域の活性化のために地方大学は重要な位置を占めており、それが地方大学の存在意義を物語っているのだと思います。

2007年11月21日水曜日

役員の役割と存在意義

軍需専門商社と防衛省の守屋前事務次官との疑わしい関係に東京地検特捜部のメスが入り事実関係の解明が進められていますが、この過程で閣僚の関与が取り立たされ、現在、福田政権は、安倍前内閣同様、閣僚の品格にかかわる問題で大変難しい舵取りを迫られています。

さて、例えが正確かどうかは別として、法人化後の国立大学には、内閣に相当するしくみが法律によって整備されています。
学長を総理大臣とすれば、閣僚に相当するものが「理事」といわれる役員ということになるでしょう。

現在の国立大学には、前回ご紹介した、いわゆる「外部人材」により指摘された数多くの問題点や課題が山積していますが、解決のための重要なポイントの一つが「大学のトップマネジメントの在り方」ではないかと思います。


(参考)現在の理事体制について「外部人材」が指摘した主な内容

  • 法人のトップは、「運営」と「経営」の違いを本質的かつ根本的に理解し、真の意味の「法人化」を実現しようと心底コミットしているようには見えない。

  • PDCAのサイクルがなかなか定着しない。執行部がその模範を示すべきではないか。本当の意味での法人化を希求するのであれば、執行部並びに事務の中枢部門に複数の人材を採用すべきであろう。経営のわかる人間が組織の一部となり、旧来の官僚主義と闘う必要がある。

  • 組織経営の基本や方法に関する知識や認識が経営陣に不足している。外部の人材をより一層活用し、組織改革・方法論取得を加速させる必要がある。

  • 学長・理事・部局長のリーダーシップと率先垂範が不十分である。

  • 経営について、もっと専門家を入れるべき。教員では経営はできない。

  • 理事の経営者としての意識が欠如しており、無難な道を選択したがる。

  • 学長・理事を含めた執行部の体制が弱い。

  • 理事に直結した事務組織体制をとっているが、理事間及び事務組織間の連携が十分取れていない。

  • 学長、理事は、経営責任があることをもっと認識すべきである。

  • 大学の運営能力のあるメンバーが極めて少なく、高等教育論的な知識も欠けている。

  • 学長が学部長を任命する人事など、学長のリーダーシップを発揮できる環境を整備すること。

今回は、経営資源の大半を国民の税金に依存している国立大学で、その税金から高額の報酬を得ている経営者たる理事について考えてみたいと思います。

国立大学法人における理事とは


国立大学には、法人化後、役員として、学長、監事(2人)及び国立大学法人法で定められた員数(法定数)以内の理事が置かれています。

国立大学法人法によれば、「理事は、学長の定めるところにより、学長を補佐して国立大学法人の業務を掌理し、学長に事故あるときはその職務を代理し、学長が欠員のときはその職務を行う。」(第11条第3項)とされ、理事は、「人格が高潔で、学識が優れ、かつ、大学における教育研究活動を適切かつ効果的に運営する能力を有する者のうちから行わなければならない。」(第12条第7項)とされています。

また、学長が理事を任命するに当たっては、「任命の際現に当該国立大学法人の役員又は職員でない者が含まれるようにしなければならない。」(第14条)と規定され、このいわゆる学外者の登用に関して、文部科学事務次官通知では、「例えば経済界や私学関係者、高度専門職業人など広く学外から国立大学法人の経営に関し高い見識を有する者や各分野の専門家を登用することが期待される」とされています。

これは、その国立大学の教職員などの学内者だけでは、国立大学法人法が期待する効率的で効果的な大学運営が難しく、また学内者だけではどうしても大学運営が閉鎖的になりがちであることを踏まえたものと考えられます。

法人化前の国立大学では、学長を中心とした執行部が制度的に存在せず、教学と経営の両面にわたる大学の重要事項は、教授会の審議を経て、最終的には評議会で決定されることになっていました。
学長を補佐するため、学校教育法に基づく副学長を置く大学もありましたが、これはあくまでも補佐機能の強化という視点に立った措置であり、学長、副学長に最終的な決定権限は持たされていませんでした。

理事は法の趣旨に応え十分に機能しているのでしょうか


学長や理事には、大学の理念に基づく自学の在るべき姿を具体的に描き、そこに行き着くための戦略を明確にすることが立場上求められており、そのためには、企画戦略を強化するとともに、責任と権限が伴った執行体制の整備が必要となってきます。

しかしながら、法人化以降の3年半、理事を間近で見てきた者の一人としては、まだまだ理事としての役割や使命の達成度、そのために必要な資質の充実度の面において満足のいく状態にはないと実感しています。前回ご紹介した「外部人材」からの指摘でも同様のことが伺えます。

意思決定責任と権限が不明確です


法人化後の国立大学における最高意思決定機関は、学長、理事で構成する役員会であり、これは法律上も明確にされています。
したがって、大学経営面での責任と権限は、学長、理事にあります。

しかしながら、現実には、教学側教員で構成される「教育研究評議会」や、各部局の利害調整機関として多くの国立大学で運用上設置されている「部局長会議」、さらには各部局の「教授会」の了承なしには、実質的に物事を前に進めることはできないという実態があります。
特に前2者の主要な構成員である部局長(学部長や研究科長等)は、相変わらず「部局の自治」を振りかざし、法人経営の最高責任者である学長の方針と対立する場面が繰り返されているのです。

まさに「部局あって大学なし」の思想が常態化しており、そのために、当然ながら「役員会」の役割・機能、学長や役員会のリーダーシップを十分に果たすことができなくなっているのです。

理事職の立場が不安定です


国立大学では、制度上、学長が「法人組織の長」(役員会の長、私立大学の場合の理事長)と、「教学組織の学長」を兼ねることになっており、理事は、少数の民間企業や官公庁等からの登用を除いて、大半が学内の教員出身者で占められています。
私立大学が経営組織と教学組織を明確に分離していることと大きく異なる点です。

学長が任命権を持つ理事は、専任職が制度上の原則になっていますが、上記のように、大半の理事が、教育研究の場である「部局」から法人の「執行部」へのいわゆる出向者(教員出身)であるため、多くは任期終了後には再び出身部局に戻って教育研究の職に就くことになります。

このため、在職中でも、授業や研究活動を続ける理事が多く、結局は、出身部局に後ろ髪を引かれながら、また、出身部局との円満な関係に神経を使いながらの職務遂行となり、全学的視点に立った戦略を体を張って遂行するような勇気のある理事は皆無に等しいわけです。

この点については、教員による人気投票によって選出される学長においても、出身部局や学長選考における支援部局への配慮、授業や研究など教員としての活動を続ける面において同様のことが言えると思います。

経営のプロが不在です


国立大学では、法人化後、特に学長のリーダーシップの発揮や強化が求められていますが、理事の大半が前述のように教員出身者で占められており、「和を尊ぶ雰囲気」や「なかよしクラブ的経営」の傾向が強く、理事同士の厳しい議論や、その結果としての強力な連携が不足しています。

副学長、学長補佐などといった職を設け、学長補佐機能を強化することも無意味ではありませんが、いずれも学内教員出身者からの起用にとどまっている場合が多く、今後教員出身の理事は、教学から完全に離れて、大学経営に関する専門家、有識者として自立しスキルアップに心がけ、当該大学の発展のために骨を埋める覚悟を持つことが不可欠なのではないでしょうか。

また、学長は、理事の資質に不十分な状況があれば、学内教員に替え外部人材を登用するなど、大学経営に責任を持った勇気ある行動が必要なのではないでしょうか。

さらに、現在、全国の国立大学の理事にほぼ例外なく文部科学省出身の職員が出向していますが、彼らは国立大学が文部科学省の地方出先機関であった時代には、事務局長という立場で文部科学省と国立大学の重要なパイプ役を果たしてきたのでしょうが、自主的・自律的経営を目指す法人制度や理事体制が導入された現在においては、従来の行政手法よりも民間的経営手法が求められており、今後は、自分のキャリアパスという側面だけで国立大学を腰掛的に転勤するのではなく、その大学の一員としての自覚を深めることや、経営者としての資質を備える努力を行っていくべきだと思います。競争と淘汰は免れない時代に入っていることを十分認識すべきです。

2007年11月20日火曜日

財政審の建議

財務大臣の私的諮問機関である財政制度等審議会は、19日、平成20年度予算の編成等に関する建議を取りまとめました。
毎年のことではありますが、この建議を機に、今後予算編成が本格化していきます。
高等教育関係については、これまでの審議経過でも明らかなように、財務省の思惑どおりの内容になっています。
事項立ては例年どおりのようですが、今回の建議における主な内容(抜粋)は次のようなものです。


公務員人件費(国家公務員等)
  • 国立大学法人等においても、国家公務員の総人件費改革を踏まえた改革を引き続き推進し、財政支出の抑制に反映させなければならない。また、国家公務員の給与水準を考慮して国民の理解が得られる適正な給与水準とするよう必要な見直しを行うべき。
国立大学法人運営費交付金
  • 「基本方針2006」に則り、▲1%の削減は行うべき。

  • 学長のリーダーシップの問題や教職員の意識改革の遅れ、業務・人事・組織の非効率性などが学外関係者から指摘されていること(注1)、民間から海外研究機関への研究費支出は伸びており、これを国内大学へ引き寄せる余地があることなどから、改革努力を更に進めていく必要。

  • 現行の配分ルールのままでは、国立大学法人間でのダイナミックな資源配分のシフトを行い、世界で通用する大学を実現していくことには大きな制約があるため、平成22年度以降の第2期中期目標・計画に向け、「6月建議」(注2)でも述べたとおり、国立大学法人運営費交付金の配分ルールについては、国立大学法人の教育・研究等の機能分化、再編・集約化に資するよう、大学の成果や実績、競争原理に基づく配分へと大胆に見直す必要。平成19年度中にこれらの見直しの方向性を示すべき。


(注1)学外から見た国立大学の改革意識*1

<経営協議会学外委員>
学外委員は、経営協議会などを通じて「教員、職員の意識改革の遅れ」などの課題を看取する一方、運営費交付金の削減、法人化後も残る政府の規制、財務面での制約などに懸念をもっている。事務組織の非効率性、職員の親方日の丸意識や、幹部職員が短期で交代していくことの問題なども少なからぬ指摘があった。

<学外理事>
学外理事の多くは企業出身者であり、企業人としての経験から国立大学の教職員の意識改革の遅れや、意思決定システムの問題、学長のリーダーシップ不足、事務組織の非効率性、教職員の人事評価の不備、法人化による旧帝大・大規模総合大学と地方の中小規模大学の格差の拡大、運営費交付金の削減への懸念などをかなり強く感じている。

<監 事>
職務上、多くの常勤監事は大学の教育研究や運営の実情を間近に見る機会が多いと考えられるが、実際に「教職員の意識改革の遅れ」や「業務の非効率」、「政府の規制の強さ」、「学長のリーダーシップを発揮できない環境」といった指摘が多く見られた。

<学外経営スタッフ>
学長や理事を補佐する立場の「経営スタッフ」が、事務祖域の硬直性・非効率性、意思決定システムの非効率性や幹部職員の姿勢や能力を問題にしていることは示唆的である。

 (平成19年10月12日財政制度等審議会財政制度分科会財政構造改革部会資料から抜粋)


(注2)平成20年度予算編成の基本的考え方について(平成19年6月6日財政制度等審議会建議)


私学助成
  • 「基本方針2006」に則り、▲1%の削減は行うべき。その際、私学は、学生数が減少を続ける中で、定員割れが全体の4割に上っている状況に鑑み、今後、教育内容も含め戦略的な経営の在り方を構築していくことが求められている。

  • このため、一般補助においては、単に定員割れか否かというだけでなく、より一般的な私学の経営・財務状況を表わす指標を用いるなど、その状況を配分に反映させ、経営の効率化に資するような改革を推進、特別補助については、経営戦略を明確にする私学支援への改革を推進する必要。
奨学金事業
  • 所得要件が緩く、親の世代に当たる40代、50代の世帯の概ね7~8割が貸与の対象となり得ること、貸与率は、10年前には大学等の学生数の1割程度であったが、近年の大幅な拡充により、既に3割となっていることなどの現状にかんがみ、「能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置」を講ずるという教育基本法の目的から乖離しつつあり、その在り方をよく考える必要。

  • これまで当審議会が指摘したとおり、金利リスク・回収リスクへの対応が急務。特に、有利子事業につき、3%の金利上限を付していること、就学中の金利分を事後的にも一切賦課しないことについては、金利上昇に伴い、他の高等教育予算を大きく圧迫する可能性や制度の持続可能性を損なう可能性があることから、その早急な見直しが必要。

  • 回収強化については、貸与人員の拡充もあり、3か月以上の滞納額が大幅に増加し平成18年度末で2,000億円を超える水準(要返還債権に占める割合7.3%)に上っている。日本学生支援機構に対しては責任をもって回収に当たるよう厳しく求めたい。法的措置の一層の強化・拡大とともに、民間委託を推進する必要。また、貸し倒れによる損失を安易に国民全体に転嫁することなく、まずは機関保証の拡充を図っていく必要。ただし、その際は、機関保証が単なる債務の付け替えとならないよう、厳格な回収努力と適正な保証料率の設定が求められる。
科学技術
  • 科学技術予算については、これまで他の経費を上回る高い伸びが確保されており、科学技術振興費は過去10年間で1.6倍、過去15年間で2.5倍に増加。我が国における研究開発費(民間を含む。)の対GDP比は主要国中でも際立っており、科学技術・研究開発に対するインプット(資源投入)の面では国際的にも高い水準に達しているが、その投資効果については、未だ十分に示されているとは言えない状況。

  • 特に、競争的研究資金については拡充を図ってきたところであるが、過大な経費の見積りや、執行の年度末集中等、予算の効率的な配分・執行に疑問を抱かせる事例も指摘されている。また、昨今問題となっている研究費の不正使用についても、対策は端緒についたばかり。

  • こうした状況の中、科学技術予算について量的な拡大のみにとらわれるのではなく、投資の効率化と成果の実現を重視した、質的な改善こそが求められている。

  • 特に、後年度の国庫負担をもたらす大規模プロジェクトについては、投資効果について国民への説明責任を十分に果たすとともに、一定の必要性が認められる施策であっても、その相対的な優先順位を峻別することが重要。

  • 研究費についても、まずは不正対策や、不合理な集中・重複排除の取組の実効性を検証することが先決であり、予算総額の伸びを抑制しつつ、その中での直接経費・間接経費の区分の見極めや執行の効率化によって、研究支援効果を高めていくべき。

  • 科学技術振興費の約7割は独立行政法人によって執行されているが、これらの中には、事務系職員を中心として給与水準が高い法人も多くみられる。国家公務員の総人件費改革を踏まえ、国民の理解が得られる適正な給与水準とするよう聖域なく徹底した効率化を進めるべき。

納税者の立場としては、建議の内容は当然のものとして受け止めることができます。

国立大学は、平成16年度から始まった中期目標期間(6年間)の業務実績評価を、中期目標終了(平成21年度)を待たずに、平成20年度に前倒しで受けなければならないことになっています。
これは、評価結果を平成22年度から始まる次期中期目標期間の運営費交付金の算定に反映させる必要があるためで、実質的には、平成19年度までの4年間の実績の評価によって次期中期目標期間の運営費交付金の配分額が決まってしまうことになります。

6月建議に続くこのたびの建議の内容は、次期中期目標期間における国立大学に対する運営費交付金の削減をねらった財務省の巧妙かつタイムリーな作戦なのであり、未だ生ぬるい体質の国立大学に対する国民的批判や、国立大学に対する運営費交付金の配分の在り方に関する議論を醸成し、歳出削減の切り札にしようとしているものです。

国立大学に関する議論や報道は、国立大学に対する国民の興味・関心が高まるという意味で、国立大学の法人化が国民的議論にならなかった、あるいはそうすることができなかった私達大学側の反省に立てば、大いに歓迎すべきなのかもしれません。
しかし、現在財務省が進めようとしている歳出削減の手法は、「高等教育に対する公財政支出が先進国中で最低である」という我が国の財政政策の欠陥に目をつぶり、真剣に議論し早急に解決しなければならない教育予算の拡充という政策課題から逃げているだけでなく、経済的弱者でも良質な教育を受けることができるという教育の機会均等を我が国で唯一果たし得る国立大学の存在意義や、使命・役割をほとんど無視し又は誤解して行われているものではないかと思います。

また、第1期中期目標期間の途中であるこの時期に、法人化そのものの検証もないままに、次期中期目標期間を見越した経済原理・財政原理の側面のみからの議論が財務省を中心とした政府レベルで進んでいることは国立大学として、あるいは国立大学の運営資金を負担している国民として納得してはならないことであろうと考えます。

現在財務省主導で行われようとしている政策の行き着く先は、毎年減額され続けている国立大学への運営費交付金をこれまで以上に削減することであり、結果として、大学間格差が拡大し地方大学が切り捨てられることになることは明白です。

さらに、国立大学への資源配分を極端な競争原理により行えば、現在設置されている国立大学の約半分が経営破綻するという財務省の驚くべき試算が現実のものとなりかねないばかりか、引いては国立大学の設置形態そのものの危機となり、法人化の際に危惧された国立大学の民営化論に再び火がつくことになるでしょう。

国立大学に十分な資金を与えないということは、国立大学の設置者である国が高等教育に関する国民への責務を自ら放棄したことになるのではないでしょうか。


*1:2006年11月から12月にかけて、全国立大学と外部人材(経営協議会学外委員、学外理事、監事、経営スタッフ、事務組織における外部専門家)に対しアンケート調査(「国立大学法人における外部人材活用方策に関する調査研究」結果から抜粋-立命館副総長、立命館大学教授(高等教育政策論、大学経営論)本間政雄)

2007年11月19日月曜日

社会の目

国立大学の法人化に伴い、外部の視点や知恵を大学経営に活かすための仕組みがはじめて整備され、現在、学外の有識者・専門家の方々が大学内部の様々なポジションで活躍されています。

彼らの目線はまさに社会の目線であり、社会の常識がいかに国立大学に通用していないかという実態が前回、彼らの指摘をご紹介したことでおわかりになったのではないかと思います。

今回は、それをより深化させ、国立大学法人法において文部科学大臣が選任することとされている「監事」の方々のご意見の一端をご紹介します。

本年6月、文部科学省は、全国の国立大学法人から抽出した20人の監事さんに対しヒアリングを行いました。その主な趣旨は、
  1. 監事と文部科学省との意思疎通を図るため

  2. 学外者という立場から国立大学の法人化以降の取組みに直接関与した監事が、法人化後4年目を迎えた現在どのように国立大学を捉えているかを伺うため
のようです。監事さんの厳しくも鋭いご指摘から国立大学と社会の常識の乖離を垣間見ることができます。

教職員の法人化に対する意識について


  • 執行部に参画する教員や学部長等の役職にある教員、また本部の事務職員については、程度の差こそあれ、全般的に意識改革は進んできている。逆に、法人経営に参画しない一般の教員については、変化がない、悪く言えば変化の必要性を認識していない。

学長のリーダーシップについて


  • 徐々に発揮されつつあるものの、スピード感には物足りなさを感じる。

  • 教育研究の特性から、企業組織とは違い、全ての事柄にわたって本部が部局に対してイニシアチブを発揮できる仕組みとはなっていないため、本部と部局との関係がリーダーシップ発揮の際の大きなファクターとなる場合が多い。

  • 学長に期待される役割が「大学の教育研究の代表」から「国立大学法人のマネジメントの責任者」へと変わってきている。しかし、教員出身の学長は必ずしも法人経営に求められるマネジメント能力を持つわけではなく、半数が学外委員で構成される学長選考会議を設けたものの、実態は変わっていない。

経営協議会について


  • 会議の運営に関して、審議事項の説明でほとんどの時間がとられ、質疑応答も資料の意味など枝葉末節の確認のみに終始している。

大学職員について


  • 職員の意識改革については、徐々に浸透しつつあるものの、旧国立大学時代のカルチャーから抜け切れていない部分がまだ依然多い。

  • 国立大学法人改革のためには、学長や理事の法人経営を支え、各大学のマネジメントの中核となるスタッフの養成が急務。

  • 国の施設等機関時代の行動様式からの転換ができておらず、教員や文部科学省から指示を受けることに慣れすぎてしまっている。定型業務はそつなくこなすが、今必要とされている企画力・発想力・開発力の面が弱い。

  • 改善のためには、地道にOJTを進めていく以外ない、あるいは、民間企業・私立大学など外部機関との人事交流研修が有効。また、同時に、職員へのインセンティブ付与も重要。適宜な人事評価に基づく処遇面での改善や、法人内部から幹部に昇進できる仕組みが必要。

  • 異動官職制について、内部の職員には無い視点から物事を判断できる点でメリットもあるが、各法人で中核となるスタッフを育てていくためには、幹部職員に占める割合の低下が求められる。また、異動官職職員自身の帰属意識という点では在任期間の長期化が求められる。

国立大学法人の「経営」について


  • 組織の経営とは、経営責任者の将来展望を組織全体が共有し、組織が所有するリソースを組織自らの判断でその将来目標に向かって活用し、次の展開につなげるということ。しかし、国立大学法人の場合、将来展望が明確でなく(中期目標を見ても漠然としている)、ヒト・モノ・カネというリソースの全てにおいて何らかの制約があるため、現状制度下においては、国立大学法人に「経営」はなく、組織の「運営」があるのみ。

2007年11月18日日曜日

大学と社会の垣根

国立大学が法人化され早いもので約3年半が経過しました。
国立大学の法人化が意外とすんなり実現に至ったのは、当時の小泉政権の強力なリーダーシップが背景にあったこともありますが、おそらく真の理由は、国民のほとんどが年間1兆2千億円もの税金が投じられている国立大学についてほとんど興味・関心を持っていなかったこと、大学現場の教職員自身が、国の一行政組織という立場に安住し、自分達の将来について緊張感を持って真剣に考えることを怠ったことなどがあげられると個人的には思っています。

また、そういった状況が起こりえたのは、大学は、学生という顧客に社会が求める付加価値をつけ輩出することを使命とする教育機関でありながら、実は、悪しき民主主義の根幹である「自治」の名の下で、一般社会ではとても通用しないような非常識が、常識としてまかりとおっている極めて特殊な社会であり、自ら社会との接点を拒絶する極めて強い閉鎖性が国民との距離を遠ざけ、税金を負担している国民の側からは大学の内部は全く見えないということが続いてきたことが大きな原因ではないかと思います。

残念ながら、法人化後の現在においても、社会と大学との垣根は相変わらず高く、「大学の常識は社会の非常識」という名言が過去のものとなるのはまだまだ時間がかかりそうです。

改革進まぬ「象牙の塔」 法人化4年目の国立大学


国立大学が法人化され4年目になったが、教職員の意識改革や組織改編が進んでいないことが全国の国立大学法人の学外委員を対象に行われたアンケート調査で分かった。

「象牙の塔」と呼ばれた閉鎖的な大学の活性化を目指し法人化が導入されたが、民間企業の「社外取締役」にあたる学外委員の目からは「改革意識が薄い」「新しい仕事に積極的でない」など不満が相次いだ。

調査は昨年11月、国立大の職員らで作る「国立大学マネジメント研究会」のグループが、大学経営を審議する「経営協議会」の学外委員677人(87大学)を対象に実施し、286人から回答があった。

調査結果によると、学外委員は企業関係者や官公庁・法曹界などで構成され、「国立大の経営が期待通りに機能しているか」をたずねたところ82%が「そう思う」と回答し、表面的には順調な進展がうかがえた。

だが、自由記述では厳しい意見が相次いだ。
教職員の意識改革については「変わっていない。特に事務職員は新しい仕事に積極的でない」「(学外委員が)具体的な提案をしても議事録に書かれるだけ」など消極的な姿勢を批判している。

学長がリーダーシップを発揮しての改革が必要だが「親方日の丸意識が抜けていない。学長の意向が教職員に及んでいない」「学長選考会議を通じて『変わりたくない』との意識が強いと感じた」としている。

法人化後も「国の関与が強すぎる」と批判も多かった。文部科学省からの幹部事務職員について「人事は相変わらず文科省直轄。本省ばかりを向いて地域や学内に目が向かない」と苦情もあった。

国からの運営費交付金が毎年削減されていく事情を踏まえ、「旧帝大以外の研究費が少ない」「教員養成大学では自主財源の 確保は難しい」と研究費増額を求める声も相次いだ。

研究メンバーの上杉道世・元東大理事は「批判が多いのは教職員に現状維持の志向が強いからだ。ただ、学外委員は民間の基準で断定しすぎる側面がある。大学が変わるにはまだ時間がかかり、学内外のコミュニケーションが必要だ」と話している。

<天野郁夫・元国立大学財務・経営センター研究部長の話>

法人化によって大学自治に経営の視点が入ったのは大きな変化だ。

人、モノ、カネの再配分が自由になったが、職員は独創性を発揮する意欲に乏しく企画立案能力がない。

これまで何もしてこなかったのだから、すぐには変われない。

ただ、地方大学では『ミニ東大』から脱却しようとする意識が根付いてきた。地域との連携も進んでいる。

国立大学発足以来の大変革なので結論を出すのは時期尚早。長い目で見守るべきだ。(2007年8月15日付産経新聞)

国立大 学外者 経営に存在感 教職員と意識差、摩擦も


法人化された国立大学で、学外出身者の経営参画が目立ってきた。大学の閉鎖的な体質に風穴を開ける一方で、教職員との間で摩擦も生じている。社会に開かれた経営の在り方を巡って模索が続きそうだ。

国立大学法人法では、大学に対し、経営上の重要事項を審議する「経営協議会委員」、学長を補佐して経営に直接あたる「理事」、業務を監査する「監事」に、必ず学外出身者を入れることを義務付けている。社会に開かれた大学の実現という理念に基づいている。

本間政雄・国立大学マネジメント研究会長(立命館副総長)らの研究グループが、昨秋に実施した調査によると、87大学に経営協議会委員が677人、理事が151人、監事174人が学外から就任していた。

常勤の理事は文部科学者を主とした官庁出身者が多いが、非常勤を含めた3つの職全体では、民間企業、法曹、他大学出身者など多岐にわたっていた。監事には公認会計士や税理士ら民間の専門家も多かった。

研究グループが、これら3つの職に就く学外出身者にアンケートをとったところ、経営協議会委員286人、理事64人、監事123人から回答を得た。

それによると、仕事への満足度は、総じて高めだったが、「教職員のほとんどに、法人になったことの意識が薄く、大学の諸施策に無関心、非協力」と、学内の危機感の低さを指摘する意見が出た。

やたら会議が多く、長く、結論が出ず、経営にスピードがない」「民間企業的発想で発言すると、議論がかみ合わないことが多い」「監事制度の位置づけが学内でほとんど理解されていない」などの不満も多かった。

さらに、「不要業務の洗い出し、効率化に一層の努カが望まれる」「学長のリーダーシップを発揮しやすいようにする」などの意見や、「教員との話し合いの場が少ないので不安がある。パイプはあったほうがよい」といった要望もあった。

他方で、学内出身の理事や学長らに「学外出身者を活用できていると思うか」と尋ねた質問では、肯定的な回答が、3つの職いずれについてもほぼ9割以上に達していた。

こうした学外出身者との意識差は、7月の山形大学長選出でも表面化した。教職員投票では、文部科学省の次官だった結城章夫氏の獲得票数は2位にとどまったが、学外者がメンバーの半数を占める学長選考会議は、結城氏を新学長に選んだ。この決定に対し、教員の中から反発の声が上がっている。

旧文部省の総務審議官や京都大副学長も務めた本間会長は「国立大はまだ、学外者と教職員が反発し合っている段階。お互いの不満を出し合い、理解を深めていくことが必要だ」と話している。(2007年8月31日付読売新聞)



国立大学の改革は、当該大学に勤務する者に突きつけられた最も重要な社会からの要請であると思います。

上記報道で紹介された調査結果は、正確には「国立大学法人における外部人材活用方策に関する調査研究」と言い、2007年4月に、法人化後の国立大学運営における外部人材活用方策に関する調査研究プロジェクト(研究代表者本間政雄氏)により実施されたものです。


国立大学の法人化のねらいの一つは、硬直化した組織から大学の運営を効率的にすることです。
そのためには、民間での経験やノウハウを積極的に取り入れ、よりよい大学への改善を自ら行うような在り方を実現することが必要であり、法人化に伴い人事制度が格段に柔軟になったことにより、外部の視点や知恵を内部に取り入れること、つまりは、学外の有識者・専門家を大学内に入れることが容易になりました。
それが、国立大学法人法に定められた「経営協議会」であり、「学外理事」であり、「監事」です。また、学外の有識者や専門家を「学内スタッフ」として採用できるようになりました。

上記の調査結果は、これら外部人材といわれる方々が、法人化後の国立大学と関わる中で、国立大学をどう見ているか、何が問題で、何が必要と捉えているかなどについて、浮き彫りにしたものなのです。

2007年11月17日土曜日

事務改革と事務職員

最近、あちこちの国立大学で、事務改革への取組みが加速しています。一つの要因として、今夏、教育再生会議が策定した「第2次報告」や、経済財政諮問会議が策定した「経済財政改革の基本方針2007」において、「大学事務局の改革、事務職員の一層の資質向上と合理化等経営の効率化」が国の重要政策として明確に位置付けられたからなのかもしれません。

国立大学における事務改革は、私立大学や民間企業に比べればかなり遅れているような気がします。これまで手をこまねいていたわけではないのでしょうが、事務改革の主役たる事務職員の多くに改革に向けた意識や緊張感が不足し、スピード感のない取り組みの結果が現状に至っているのでしょう。

国立大学財務・経営センターの天野郁夫氏は、国立大学事務職員の現状について次のように述べられています。

「教員中心の大学運営の下、しかも文部科学省所属の国家公務員としてルーティンワークに従事してきた職員たちは自立的な大学経営に必要な職務能力に欠ける、というよりこれまで能力開発の機会を与えられてこなかった。企業会計原則による新しい会計システムにせよ人事・労務管理にせよ、また経営体としての新規事業の企画立案にせよ、事務局にとってはすべてが新しい挑戦であり、それに対応しうる人材は質・量ともに十分でない。」

このように、法人化以前の国立大学の事務職員は、法律上文部科学省の地方行政組織として位置付けられた大学という名の役所の中で、国の定めた法令等を遵守し、与えられた任務のみを適切に処理するということを業務の中心としてきました。このため、法人化後に求められる自主・自律の精神の下、大学の将来を見据え、自分の頭で考え企画立案し、自分自身で行動するという意識を持つ、あるいはそういう文化を持つ事務組織に変容させることはなかなか容易ではありません。

また、平成19年6月4日に開催された経済財政諮問会議では次のような議論が行われています。

「事務局・事務職員の改革・合理化が必要ではないか。国立大学の事務局・事務職員の比率は、私学に比べてはるかに大きい。なぜそんなに多くの事務職員がいるのか。こういうところは自然減を活用するなど、まだまだ切り込む余地があるのではないか。」(平成19年第16回経済財政諮問会議議事要旨から抜粋)

上記は、東京大学、国際基督教大学にお勤めの現職教員の発言です。客観的事実としてはそのとおりだと思います。国立大学の事務職員数については、私立大学との比較により非難を受けることはこれまでもたびたびあったわけですが、それにはやむを得ないそれなりの理由があると思います。何が問題となってそういうことになっているのか、お二人はちゃんと分析、理解した上で総理大臣の前で発言されているのか疑問に思います。

現在の国立大学は、法律上は独立した法人となっていながら、与えられた裁量権が極めて限定的であり、文部科学省を中心とした国の関与がほとんど減っていません。このことが、思い切った人員削減ができない大きな理由の一つとして挙げられるのではないかと思います。国立大学は、未だに文部科学省という中央の役所の出先機関としての業務を行っていますし、そのために膨大な調査資料、要求資料の作成などを課せられています。調達業務を例にとっても、煩雑な国の制度が適用されていますし、会計検査院の検査対象機関にもなっています。

また、私立大学と国立大学では教員の業務の範囲、量がかなり違うようです。国立大学では事務職員が行っているような業務(の一部)を、私立大学では教員が行っており、事務職員の数を最小限に抑えることができる効率的な体制になっているようです。

このように、国立大学では、文部科学省など国との関係において膨大な業務を強いられていることや、教員との役割分担の違いなどによって、私立大学のようなスリムな事務体制になっていないのです。

今後、国立大学は、毎年の運営費交付金の削減や、総人件費改革による人件費削減に対応した業務改革、組織改革をより進めていかなければなりません。法人化後3年半が経過した今、国立大学は、もはや甘えの通じない状況に置かれていることを十分認識し、すぐにでも改革に着手、あるいは加速しなければ、10年後の将来は極めて危ないものになるでしょう。社会から淘汰されるかもしれないという危機感を持って変革への努力を積み重ねていくことが必要なのだろうと思います。

2007年11月15日木曜日

国立大学の法人化

国立大学が法人化され、3年半が経過しました。いよいよ来年度は、平成21年度までの中期目標期間(6年間)に係る法人評価が前倒しで実施されます。

現在、文部科学省に設置された国立大学法人評価委員会、大学評価・学位授与機構の両者による周到な準備が進められており、評価結果は、第2期中期目標期間の運営費交付金の算定に反映されることになっています。初の中期評価の成果やいかに。

でもその前に、国立大学が法人化されたことそのものについては何の検証もなされなくていいのでしょうか。
この制度改革がどれだけの成果を我が国、あるいは国民にもたらしたのか。人材育成、学術研究の進展にどれだけ寄与したのか。それとも単なる人減らし、金減らしで終わったのか。文部科学省はしっかり検証してその結果を国民の前に明らかにしてもらいたいものです。

以下は、国立大学財務・経営センターの天野郁夫氏のレポートの一部です。


国立大学の法人化は、さかのぼれば明治以来の課題であり、第2次大戦後も何度か検討されてきた。
その狙いは、戦前期には何よりも大学の自治・学問の自由の確立に、戦後は教育研究の活性化にあったと見てよいだろう。
ところが、21世紀に入ってようやく実現された、その積年の課題である法人化の強い推進力となったのは、そのいずれでもなく、行財政改革の強い圧力であった。
それは、今回の法人化が、教育研究の活性化を謳いながら、実際には、管理運営の合理化・効率化を最優先の目的に実現されたものであることを示唆している。
「法人化の効果」についての学長たちの意見は、そのことを裏書するものといってよいだろう。
つまり、今の時点で法人化がもたらした「効果」は、何よりも大学の経営、組織運営にかかわる部分で大きく、それが教育研究の自由化や活性化にどのように結びつくのかは、まだほとんど見えていないのである。

科学技術立国のための大学改革の必要性を強調する一方で、政府は厳しい財政事情を理由に、物的にも人的にも新たに資源を投入することなしに、国立大学の法人化を推進してきた。
これまで行政機関の一部であり、「親方目の丸」で文部科学省の全面的な管理下にあった国立大学を独立させ、自律的な経営体にすれば、さまざまな新しい費用が発生する。政府はその費用について、それぞれの大学が自力で捻出し、負担することを求めてきた。

新たにコストが発生するのは、何よりも「国立・大学」が「大学・法人」化した、その「法人」にかかわる部分においてである。
財務担当理事対象の調査結果によれば、法人化前と比較して、増加した経費は1位が「全学的な重点・競争的配分経費」(71%)、2位「学長等による裁量的経費」(5%)、3位「全学共通経費」(46%)の順であるのに対して、減少した経費では「各教員の基盤的な研究費」(76%)、「各教員の基盤的な教育費」(50%)が、他を大きく引き離して1位、2位を占めている。
つまり法人化のしわ寄せば、教育研究の基盤的な部分に最も強く及んでいるのである。

法人化に伴って激増した、たとえば経営戦略・計画の策定、自己点検評価の実施、実績報告書の作製、財務諸表の作成や分析といった、管理運営関連の業務が、職員だけでなく教員の時間を奪い、「法人」への出向者を増やしていることも、すでに指摘したとおりである。
教育研究活動の活性化に向けられるべき資源は、その点でも奪われているといわねばなるまい。

今回の私たちの調査は、初めに断ったように、あくまでも学長・理事という、経営体化した国立大学の最高経営層を対象としたものである。
現場の教職員、とりわけ教育研究活動(さらには新たに加わった社会貢献活動)の直接の担い手である一般の教職員が、法人化の現実をどう見ているのかは、当然のことながら、今回の調査結果からは明らかではない。
ただ、学長の「法人化の効果」に関する意見に見られた、「教員の意識改革」に対する、相対的に低いプラス評価の数値は、経営層と教員層、「法人」と「大学」の間に、法人化の現実についての認識と評価について、大きなズレがあることを予想させる。
一般の教員が法人化された大学をどのように見ているのか、また別種の調査が必要とされるだろう。

いずれにせよ、2002年に法人化が決定されてからの、嵐のような4年間のあと、いま国立大学法人に必要とされているのは、さらなる変動ではなく安定であろう。
中期目標・計画の策定は、6年間の自律的な大学経営を保障する、政府と国立大学法人との「契約」だったはずである。
にもかかわらず毎年、予算編成のたびに人件費をはじめとする運営費交付金の減額や、自己収入の中核を占める授業料の増額が取りざたされ、実際にもそれが起こる現状では、長期的な展望にたった大学経営は難しい。
何よりも、教育研究活動のあり方を、じっくり考える時間と資源を持つことは不可能である。

運営費交付金の相次ぐカットで、経営の強制的な合理化に成功しても、教育研究活動の衰退を招いたのでは、科学技術立国の基盤づくりが目標だったはずの、法人化の意義は失われる。
安定的な、教育研究活動の活性化を可能にする大学経営の確立のために、いま何をすべきなのか。
これまで見てきたような現実と課題を踏まえて、大学以前に政府・文部科学省自身が、立ち止まってじっくり考えてみるべきときが来ているのではないか。

2007年11月14日水曜日

教育における規制緩和

大学間で学部共同設置を可能に、文科省が法改正へ

文部科学省は複数の大学が共同で学部や大学院の研究科を設置することを可能にするため、来年の通常国会に学校教育法改正案を提出する方針を固めた。早ければ2009年度から申請を受け付け、10年度からの入学を認める。少子化時代の到来で地方の小規模な国公立大や私立大が厳しい経営状況にある中、共同設置で費用負担を低く抑え、人材や施設を共用する狙いがある。
現在の学校教育法は「大学には、大学院を置くことができる」などと定めているが、複数の大学が共同で設置することは認めていない。改正案では、同法に共同設置に関する新条項を設ける。
複数の大学が共同で設置した学部や大学院の入学試験は、設置主体の大学が共同で実施し、学位も連名で授与する。国公立大と私立大の組み合わせによる共同設置も可能にすることを検討している。(2007年11月11日付読売新聞)


文部科学省が今後進めたい改革の方向性の一端が公に示されました。同様の話は既に先手を打つ形で国立大学協会にも持ち込まれています。
これは、経済財政諮問会議により策定された「経済財政改革の基本方針2007」(平成19年6月19日閣議決定)、あるいは教育再生会議が策定した「社会総がかりで教育再生を(第二次報告)」(平成19年6月1日教育再生会議)を踏まえた政策であり、今後政治日程に乗ることになります。(勿論これらの政策は実質的には役人がこしらえたものであることは明白ですが)

報じられた内容は、最近流行の国公私立大学を通じた政策の一つではありますが、特に文科省直営の国立大学法人にとっては、「法人の経営基盤を強化し、教育基本法に定めるその使命を円滑に遂行し、社会に対して一層貢献できるようにするための一つの方策」という文部科学省の耳ざわりのいい宣伝文句によって、国民の多くが賛同し、今後、4年前の法人化のように行政主導の強力な誘導策が展開されることになるでしょう。また、このことは、今後の我が国の高等教育の将来を大きく変容させる契機にもなることでしょう。

4年前のことを思い出します。

2004(平成16)年4月、当時の小泉政権の強力なリーダーシップを背景として、全国に設置された国立大学は、「自主性・自律性を発揮した特色ある大学づくりを目指すため」という謳い文句の下で「法人化」されました。この制度改革は、明治維新以来の歴史的大改革という御旗の下に、私立大学出身者が多くを占める国会議員や文部科学省の役人主導で強引に進められたものでした。しかしこれはまぎれもなく「単なる国家公務員の数減らしという行政改革」の手法として断行されたものです。

また、その半年前には、今回同様、文部科学省のしたたかな誘導により、16の地方国立大学が隣接大学との統合を余儀なくされました。(現在の福井、山梨、島根、香川、高知、大分、佐賀、宮崎大学)。歴史、文化、学問分野、運営方法などが全く異なる大学が統合することは、利害の一致を見出しやすい民間企業の統合とは状況が全く異なります。それぞれの大学では、現在、統合のメリットを生かした工夫と改善に向けた懸命な努力が続けられていると聞いておりますが、内情は、4年経過した今でも、統合前の2つの大学の対等関係、対立構造は完全になくなっておらず、随所に歪が現れているそうです。

文部科学省が今回強力に推し進めようとしている「機能分化の推進」、「再編統合に係る国立大学法人の自主的な取組の促進」、具体的には、「国公私を通じ複数の大学が大学院研究科等を共同設置できる仕組み」、「国立大学の大胆な再編統合」、「学部の再編や学部入学定員の縮減」、「一つの国立大学法人が複数の大学を設置管理できる仕組み」づくりは、表向きは耳ざわりのいい言葉ではありますが、大学現場に生きる者としては、4年前と同様、経済・行政のご都合主義、役所の机上論が、またもや学問の府をだめにしてしまうのではないかという危惧、不信感をいだかざるを得ません。これ以上、高等教育の現場に無用な混乱を持ち込んでもらいたくないというのが正直な気持ちです。

もちろん「新しい組み合わせによる新たな価値創造」というメリットを否定するものではありません。特に、旧帝大のように経営力、教育研究力のない、通称駅弁大学といわれるような地方国立大学の今後の展望を考えた時に、地域に根ざす国公私立大学が連携し、地域の知の拠点として生き延びる道を模索することは必須のことです。

だからこそ、教育の規制緩和は、大学自身の意思やニーズに基づいて行われるべきものであり、背後に経済や行政の原理が見え隠れするような形で行われるべきものではないと考えます。この国では、将来を担う尊い若者達を育てる高等教育機関を単なる目先の数合わせ、金減らしのための道具としてあまりにも軽く考えてはいないでしょうか。

税金の無駄遣い

税の無駄遣い―検査院は侮られるな

残業をしていないのに、残業代をつける。予算を流用して裏金をつくる。入札をせず随意契約で発注する――。

会計検査院の昨年度の検査報告には、公務員による税金の無駄遣いや不正経理の事例がずらりと並んでいる。その数は451件、総額310億円にのぼる。
毎年のことだが、こんなにでたらめに税金が使われているのかと思うと、驚いてしまう。
さらに今年の報告で驚かされるのは、検査院が無駄遣いなどを指摘していたにもかかわらず、それを無視する事例があることだ。

山形県の置賜(おきたま)農業共済組合による補助金の不正受給もその一つだ。組合の加入者を水増しする手口で、国から負担金を余計に引き出していたことが指摘されたのは、3年前のことだった。
ところが、農林水産省も山形県もほったらかしにしていた。今年になって検査院から再び問題にされ、ようやく県と組合が調査に乗り出した。しかし、国への返還が決まったのは、不正受給が報道されたあとだ。この問題では組合長の遠藤武彦・前農水相が大臣を辞任した。

検査院は3年前、国立大学に対し、教員個人が受けた教育・研究への寄付金についても、大学で経理処理をするよう求めた。それにもかかわらず、いまだに教員が自分で処理をしていた事例が見つかった。検査院は再度是正を求めた

無視だけでなく、検査を妨害するところまで出てきた。
カラ残業の問題で、長野労働局では局長が証拠となる文書を破棄するよう職員に指示していた。各県にある労働局は厚生労働省の傘下だが、今年の報告では、22の労働局がカラ残業を続けていたことを検査院から指摘されている。

こうした役所の対応を見ると、会計検査院は侮られているのではないかと心配になる。
検査院は指摘したあとも、きちんと是正されるまで何度でも指摘し続けなければならない。それでも改めなかったり、証拠を隠したりする公務員について、所管する省庁に懲戒処分を求めるのは当然のことだ。
だが、それだけでは手ぬるい。

会計検査院法では、検査の結果、犯罪があると認めたときは検察庁に通告しなければならないと定められている。ところが、この半世紀、通告は一件もない。悪質な不正をした公務員については、検査院は積極的に通告し、刑事罰を求めるべきではないか。

一方で、会計検査院は我が身を律することを忘れてはならない。検査対象の独立行政法人などに、検査院の職員が天下るケースがある。そうした天下り先には手心を加えるのではないか。そんな疑いの目で見られかねない。
他の省庁から軽んじられないためにも、不正を調べる側の厳しい節度が求められている。(平成19年11月13日付朝日新聞社説)

例年のことながらこの時期になると類似の記事が新聞に並びます。納税者としては憤りを通り越してもはや諦めの境地です。
これまで、会計検査院も検査手法を進化させ、税金の無駄使いの抑止に努めておられるのでしょうが、まだまだ検査の深化が足りないように感じます。検査報告に掲載されるのは、検査院が把握した不正のごく一部、氷山の一角だからです。

会計検査院の検査対象は、税金が投入されている組織、つまり公務員組織あるいはそれに準じる公的組織ですが、彼らは、会計検査院の検査となると必ずといっていいほど組織防衛に徹します。不正あるいはそれに近い不適切な処理をしているという自覚がありながら、会計検査院の指摘を受けることを極度に嫌い徹底して抵抗します。悪しき慣行です。

彼らとて公務員ではありますがれっきとした納税者であり、一納税者の立場で考えれば、是は是、非は非としての判断ができるはずなのですが。

公務員体質に起因する怠慢、あるいは組織防衛的な利己主義はこの世から断固排除する必要がありますし、それができるのは、独立した強固な地位や権限を与えられた会計検査院しか現行制度上ありません。

大学に関して言えば、今年も例年のように一部の国立大学における不正の数々が検査報告により明らかにされました。
しかし、検査報告そのものが、納税者である国民に容易に理解しやすい姿で書かれていないし、直接目に触れる機会も十分に用意されていません。
また、より深刻なのは、氷山の一角とはいえ、検査報告により指摘を受けた大学が、国民から負託された税金の不適切な使途について、どれだけ真面目に罪の意識を持っているのか、あるいはそれを恥辱だと認識し改善しようとしているのかが国民には皆目わかるようにはなっていません。

このことを納税者の目にわかるようにすることこそが、今後の再発防止にとって真に必要なことではないでしょうか。
また、仮に会計検査院のフォローアップの結果、改善されていないような悪質な状況であれば、当該組織あるいは当事者に対して、会計検査院に与えられた権限を駆使して強制力を持った厳罰を課すべきだと思うのですがいかがでしょうか。

2007年11月12日月曜日

教育に対する公財政支出

教育に対する日本の「公的支出」は高い?低い?

経済協力開発機構(OECD)は先頃、2007(平成19)年版の「図表でみる教育」を発表しました。加盟各国を中心に、教育制度に関するデータを比較したものです。
このなかで、国が教育にお金をかける「公的支出」の割合が、国内総生産 (GDP)比で見ても日本は非常に低いことが、改めて浮き彫りになりました。教育の在り方に対してさまざまな議論があるなかで、公的支出をどうするかも今後、大きな課題となりそうです。

自他ともに先進国であると認められるOECDの加盟国は現在30カ国あるのですが、2004(平成16)年度のGDPに占める公的な教育支出の割合は、日本が3.5%で、ギリシャに次いで下から2番目という結果でした。
保護者が払う授業料など「私的負担」を加えても4.8%で、下から5番目です。国際的に見ると、日本はその経済力からすれば決して教育にお金をかけている国とは言えない、というわけです。

それでは、もっと増やせばよいではないか、と考えたいところですが、反論もあるようです。6月に財政制度等審議会(財政審)がまとめた来年度予算に対する建議では、「教育予算の対GDP比のみを以(もっ)て、その多寡(たか)を議論するのは適当ではない」と指摘しています。
その根拠は、1989(平成元)年以降、小・中学生1人当たりの公教育支出は1.5倍以上に増えているのにもかかわらず、「学力低下」に代表されるよう に、教育の問題はむしろ深刻化しているではないか、というものです。それよりも、現在の予算にメリハリをつけて配分するほうが先決だ、というわけです。

もちろん、財政審は大幅な債務を抱える国家財政の再建を重視する立場に立っていますから、教育にせよ何にせよ、「支出を増やせ」という主張は到底のむことはできないわけです。あとは政治的な論議と判断にかかっている、ということでしょうか。

ここで注目したいのは、先の財政審のような論議は、「教育再生」のスローガンの下で教育予算にもメリハリをつけようとした安倍前内閣の下で行われた、ということです。安倍晋三首相の突然の退任を受けた福田康夫新内閣がどのような教育政策を取るのか、まだ明確にはなっていません。

教育再生担当の山谷えり子首相補佐官は留任し、教育再生会議も存続が決まりましたが、新任の渡海紀三朗文部科学相は就任直後の記者会見で教育バウチャー制度に慎重な姿勢を表明するなど、早くも再生会議と距離を置いています。
一方で、伊吹文明前文科相は自民党幹事長に転じ、内閣官房長官には元文科相の町村信孝前外相が配されるなど、福田政権では教育政策に明るい陣が敷かれたと見ることもできます。

総選挙をめぐる与野党の駆け引きも激しくなるなか、教育政策の在り方も焦点の一つになっていくでしょう。国民的な論議の盛り上がりを期待したいものです。(2007年10月11日付ベネッセ教育情報サイト)


高校・大学で1人1000万円超=教育費負担

国民生活金融公庫総合研究所が11日発表した「教育費負担の実態調査」によると、高校入学から大学卒業までに必要な教育費は平均で子供1人当たり 1045万円に上ることが分かった。

世帯年収に占める教育費(小学生以上の在学費用)の割合は34%に達し、旅行・レジャーや外食を控えたり、奨学金制度を利用したりして対応しているケースが多い。

高校・大学の累計費用を高校卒業後の進路別に見ると、私立大学の理系学部に進学した場合は1176万3000円、私立文系では1019万円、国公立大学では866万7000円。1人暮らしをしている子供への仕送り額は平均で年間104万円(月8万7000円)だった。

今年2月に国民公庫の教育ローンを利用した勤労世帯を対象に7月にアンケート調査を実施し、2677件の回答を得た。(2007年10月11日付 時事通信)


そろそろ来年度予算の編成が本格化しはじめてきました。
毎年のことですが、この時期、財務省の魂胆が少しずつ見え始めてきます。
去る10月12月には、財務大臣の私的諮問機関である「財政制度等審議会財政制度分科会財政構造改革部会」での議論の様子が財務省のホームページを通じ公表されています。
財務省が何をもくろんでいるのか、公表された資料が何を意味しているのか、経済財政諮問会議に何をつなごうとしているのか、注視しておかなければなりません。

文科省所管の予算を議論する前提として、毎年必ず取沙汰されるのが、我が国の初等中等教育、あるいは高等教育に対する、いわゆる公財政支出の割合が高いか低いかの議論です。裏を返せば、私的支出、つまり、保護者の負担が国際的にみて高いか低いかの議論です。

ここ数年、OECDによる調査によって「我が国の教育に対する公財政支出は先進国中最低」という結論が明確にされているにもかかわらず、財務省は、あるいは政治家は、教育予算の充実を図る努力を怠っています。
国家財政の危機を後ろ盾に、国家の将来を見誤っているのではないでしょうか。
国家を形成しているのは「金」ではなく「人」であることを改めて認識すべきです。

随意契約-天下り-不正

会計検査院の指摘放置 5国立大病院 給食の随意契約

5つの国立大学付属病院が、99年度の会計検査院の決算検査で見直しを求められていた患者への給食業務での随意契約を、現在も続けていることが11日、わかった。

5病院はいずれも、今後一般競争入札などに切り替えるとしている。5病院は東京医科歯科、千葉、東京、岡山、広島の各大学病院。

いずれも随意契約の相手は各病院内に事務所がある財団法人で、大学職員のOBが役員を務めているケースもあった。

中でも悪質だったのが東京医科歯科大。同大は給食のほか、財団法人にベッドメークや白衣の洗濯などの業務を委託している。しかし、この財団法人は、給食以外の業務でマージンを取り、実際の業務は別会社に再委託していた。(2007年10月11日付朝日新聞)

国の16機関で随意契約6割、契約先に天下り1万人

中央省庁など国の機関が2006年4~12月に締結した契約件数のうち、随意契約が6割近くを占め、その支払総額は1兆3770億円に上ることが17日、会計検査院の調べでわかった。

随意契約では予定価格に対する契約額の割合が97・3%と高く、契約先で所管する財団法人など962法人に約1万人の省庁OBらが天下りしていることも判明。

検査院は「契約の競争性や透明性の確保に努める必要がある」と指摘している。(2007年10月17日付読売新聞)

工事めぐり6点の法令・内規違反 東北大入札逃れ問題

東北大学病院(仙台市)の契約をめぐる一連の問題を調査していた同大の調査検討委員会(委員長・渡辺誠副学長)は30日、手術室工事の契約の過程に法令・内規違反が6点あったとする調査結果をまとめた。

また、都内の医療機器販売会社が大学への多額の寄付を足がかりに関連病院への販売実績を上げようとした営業攻勢が一連の問題の背景にあった、と指摘した。

調査報告は、手術室工事の随意契約を公表しなかったことが公共工事入札・契約適正化法に違反したと指摘。入札を逃れるために工事を3分割発注して随意契約した▽契約書類を工事後に作成した――など5点が大学の会計規程などに違反すると結論づけた。

また、同病院が医療機器販売会社から06、07の両年度に現金1100万円と、約2500万円相当の医療機器や備品などの寄付を受けていたことを明らかにした。(2007年10月30日付朝日新聞)

独立行政法人4割が関連法人と契約 行革事務局公表

101の独立行政法人(独法)のうち、一般企業の子会社などに相当する関連法人と契約を結んでいる独法が40にのぼることが分かった。その40法人と関連法人との契約のうち、随意契約が約9割を占める。

8日に開かれた政府の行政減量・効率化有識者会議に行政改革推進本部事務局が提出した資料から明らかになった。

同事務局は、連結決算の対象になるなど、一般企業の子会社に相当する特定関連会社と、理事などのうち独法の役職経験者が3分の1以上を占める関連公益法人などを「関連法人」と規定。

独法と関連法人とが随意契約を結ぶなどの不透明な契約が無駄遣いの温床になっているとみて、独法から関連法人への契約の流れを調べた。
関連法人と契約を結んでいる40法人のうち、すべてが随意契約だった独法は17。9割以上が随意契約の独法も9あった。随意契約を交わしていないのは3法人にとどまった。
40法人の所管官庁のうちわけは、文部科学省と経済産業省で9法人、厚生労働省が7法人、農林水産省が5法人などとなっている。

また、同事務局は独法から関連法人への「天下り」についても調査。関連法人は独法全体で計236社あり、05年度は独法から関連法人役員に230人が天下っていた。(2007年11月09日朝日新聞)


世間を騒がせている防衛省をはじめとする「随意契約と不正」の関連性を指摘する報道は後を絶ちません。

国をはじめ公的セクター(国立大学も含まれる)は、競争入札による契約を行うことが大原則になっていますが、例外的に入札によらない契約(随意契約)が法的に認められています。随意契約は、競争入札と比べて、契約業務の効率化や迅速化が図れる、比較的規模の小さい業者に対しても契約の機会を与えることができるなどの利点があります。その一方で、悪質な不正を誘発する可能性が極めて高い制度でもあります。

随意契約を行うためには、国の場合、会計法や予算決算及び会計令などの法令(公的セクターの場合には、国の法令に準じて作成した内部規則)に定められた要件を満たさなければなりません。
ただし、要件を満たせば何をやってもいいという発想が関係者の脳裏にある場合には、随意契約のメリットが全く活かされないことになります。
そればかりか社会に対して説明のできない不正につながることになります。

これまで、随意契約の悪用による様々な不正が発生していますが、その手法を大きく2つに整理してみました。

一つ目は、法令等に定められた随意契約によることのできる要件を満たすための屁理屈が、契約権限を有する者や担当者によって捏造されているということ、二つ目は、本来であれば、一括して競争入札を行わなくてはならない事業を複数の小事業に分割することにより予定価格を随意契約の要件となる少額に落とすといった操作を行っていることです。

その結果、競争がないため相手方の言い値的価格で契約することになる、さらに相手方の恣意的な選定が可能となるためにOBなどの天下り先や癒着した業者を相手方とすることが容易となるなどの温床が生まれ、やがては実行されていくのです。
予算(税金)の無駄遣いとなることは言うまでもありません。

財務省をはじめ監督官庁や会計検査院(国立大学においては内部監査機関)などによる指摘にも自ずと限界があるでしょう。
根絶に向けた競争性や透明性の確保とともに、そろそろ厳罰化に向けた検討を行う時期にきているのではないでしょうか。

2007年11月11日日曜日

はじめに

18歳人口の減少、全入時代など、今、我が国の高等教育の在り方が大きく問われています。

このブログでは、大学関係のトピックをご紹介しながら、大学のあるべき姿を考えていきたいと思います。

また、そのことを通じ、社会と大学との間に存在する「常識の乖離」を少しでもなくしていけたらと思います。