2012年1月29日日曜日

国立大学の学長に求められる力量

最近、東京大学の「秋入学」が話題になっています。全国の国公私立大学はもとより、政財界も巻き込んだ国民的な議論に発展しそうな様相です。賛否両論あるようですが、グローバル化社会に対応したこの国の在り様を考える絶好の機会になっているという点では大きな意義があり、歓迎すべきことではないでしょうか。

一連の報道によって、私たちは、東京大学という我が国を代表する高等教育機関の考えや行動がもたらす社会への影響、あるいは存在感の大きさを改めて感じることになりましたが、私は、最近の東京大学の動向に関して、「秋入学」以外に気になったことがありました。「東京大学の理事に文部科学省の高等教育局長が着任したこと」です。東京大学には、従来から、理事、あるいは事務局長として、文部科学省の審議官、課長級の官僚が出向していましたが、今回は、高等教育行政の実質的な最高責任者である高等教育局長という大物だったという点で、注目を集めているようです。


(関連記事)文科省局長の東大出向、学長「悪いと思わず」(2012年1月26日 日本経済新聞)

文部科学省が大学政策の実務の責任者である高等教育局長を東京大の理事に出向させる異例の人事を行ったことについて、浜田純一学長は26日の報道各社との懇談会で、「文科省からの出向が悪いとは思わない。基本は学長が理事を使いこなす力を持ち、言うことを聞かないなら辞めさせるというスタンスを取れるかが大事だ」と述べた。
文科省からの出向人事は、自主性向上や民間的な経営手法を取り入れるとした国立大法人化の狙いを損なうとの指摘がある。浜田学長は「高等教育に十分な視野を持ち、東大がグローバルな展開をしていける人をという希望を出し、ふさわしい人物に来てもらった」と経緯を説明した。


(関連記事)国際化への地ならし、学内改革始動 東大秋入学の行方-山上浩二郎の大学取れたて便(抜粋)(2012年1月28日 朝日新聞)

前回のこのコラムでは「法人化で総長の権限が強くなったことが秋入学を提案できた背景にある」と指摘したが、今回の懇談会でもその見方を裏づける発言があった。1月7日付で文部科学省高等教育局長から東大理事(人事労務など担当)に出向、就任した磯田文雄氏の人事について、官僚の天下り人事だとして「おかしいのではないか。ねらいは」という質問があったことに対し、浜田総長は「この先の高等教育全般についての視野を持っている、ふさわしい人物。私の指示に従わない理事はすぐに辞めてもらう。文科省からの出向人事が一概に悪いとは思わない。総長には使いこなす責任がある」とにこやかに話していた。


今回の人事の背景やねらいの本音の部分は、知る由もありませんが、「秋入学」を含む様々な戦略達成のための手法の一つなのかしれませんし、人事そのものは、濱田総長の権限と責任において行われたものですから、周りがとやかく言う筋合いのものではありません。私が注目したのは、「私の指示に従わない理事はすぐに辞めてもらう。文科省からの出向人事が一概に悪いとは思わない。総長には使いこなす責任がある。」との濱田総長の発言です。

法人化によって、文部科学省が有していた多くの権限と責任が国立大学に委譲されました。中でも、学長の権限が強化されたことは、大学の自主性・自律性を担保する意味で極めて重要なことです。しかし、実際はどうでしょうか。人事面や財政面など、未だに国立大学の経営は、文部科学省の権限や規制に縛られている部分があり、”手足を縛られて泳げと言われているようなもの”という、とある学長の名言が実態を表しています。

そのような中で、学長のリーダーシップの強化をいくら求めても土台無理なことですし、そもそも、学長や学長を補佐する理事の資質が、大学の経営責任者にふさわしいレベルに至っていない大学では、濱田総長のようなリーダーシップは残念ながら期待できません。そのため、行政経験の豊かな文部科学省からの出向者を受け入れ、頼らざるを得ず、理事又は事務局長として大学経営に参画することが必然となっているのです。

しかし、そのような状態がいつまでも続いていいはずがありません。そもそも国立大学の法人化とは何だったのかを考えれば、答えは明らかです。事務局長をはじめとする幹部事務職員の人事権は、法人化によって学長に委譲されたにもかかわらず、未だに文部科学省の手によって直接行われています。そして文部科学省の意向に沿った人事を、文部科学省から出向した理事又は事務局長が、学長を傀儡として行っています。つまり、濱田総長のような学長は別として、ほとんどの大学では、教員を除く事務職員の人事については、末端の職員に至るまで、文部科学省から出向した理事又は事務局長の独断に近い判断によって行われているのです。このようなことで法人化の趣旨は生かされているといえるのでしょうか。

さて、文部科学省による出向者の問題点については、この日記でも何度か触れました。例えば、
(過去記事)文部科学省の広域人事に関する問題(2011年5月7日)

理事又は事務局長は、大学経営にとって極めて重要なポストです。したがって、これまでのように文部科学省によるお気に入り・年功序列人事をいつまでもやっていては、緊迫したこれからの時代に必要とする実力ある人材の登用が困難です。文部科学省の人事担当者の意識が変わらない以上、国立大学の斬新的な改革は望むべくもないでしょう。一日も早い古い体質からの脱却が望まれます。

文部科学省からの出向者、特に事務局長の在り方については、様々な考え方があります。現在、多くの国立大学では、文部科学省からの出向者が理事と事務局長を兼務しています。これは、法人化によって、学長・理事を中心とした運営体制が基本とされたものの、官僚組織としての事務組織を横串的に調整し総括する機能として事務局長を残すことを選択した大学が多かったことによるものと思われます。そういう意味で、事務局長は、法人化直後の新米理事の職務に対する不慣れを補完する意味でも重要な役割を担ってきたとも言えます。

しかし、法人化後数年を経過した現在では、理事と事務局長との役割や責任と権限の所在が不明確であるために、指揮命令系統の複雑化といった弊害も指摘されるようになりました。このため、理事と事務局長の関係を整理する必要が生じています。事務局長を廃止する場合に、どのようなメリットとデメリットがあるのでしょうか。

一般論ですが、事務局長を廃止する場合には、次のようなメリットが考えられます。
  • 意思決定のための決裁システムである稟議制が”無責任の体系”と言われてきた観点に立てば、事務局長を廃止し決裁の階層を低くすることによって、意思決定に参加する一人当たりの決定に対する重要性が増すとともに、意思決定にかかる時間を短縮する可能性が高まります。
  • 事務局長を廃止し、地位の格差を改善することは、下位の者の意思決定への参加を促し、主体性・自律性・満足度・貢献意欲の向上とともに、有効な問題解決や合理的な意思決定の可能性が高まります。
  • 事務局長を廃止することにより、理事と事務局長との責任と権限の所在の明確化が図られるとともに、事務組織を理事の役割分担に直結させ、指揮命令系統の一本化を図ることにより、理事の業務支援をより強化する可能性が高まります。
一方、事務局長を廃止する場合のデメリットとしては、次のようなことが考えられます。
  • 現在の官僚(ピラミッド)型事務組織では、トップが集権的に組織全体をコントロールすることにより、組織活動の統一性や合理性を確保することが可能ですが、事務局長を廃止することにより、権限と命令による事務組織の統制力(コントロール)を弱める可能性があります。
  • 事務局長を廃止することにより、組織や構成員間の目的に対する認識の相違や意見の不一致などの紛争を回避・調整するための権限が無くなる可能性があります。
  • 事務局長を廃止することにより、幹部事務職員の人事に関する文部科学省や他大学との調整を行う機能を代替する仕組みを用意する必要があります。
  • 以上のようなデメリットを克服するために、学長や理事の資質、リーダーシップの更なる強化を図る必要があります。

学長・理事を中心とする大学経営が漸次定着してきている現状に鑑み、事務局長の在り方に関しては、以上のような考え方を含め、様々な考え方があります。大事なことは、大学改革がより強く求められている今、改革の加速化を図るためには、学長の卓越した経営手腕が必須であるということです。中でも、改革を進める上で、どのような能力や大学への貢献を文部科学省からの出向者に求めるのかを明確にした人事戦略を描き、実行できるかです。

全ての国立大学がそうであるとは言えませんが、まだまだ、大学の最高経営責任者としての自覚が不足している学長が多いような気がします。ガバナンスやマネジメントの構築・強化に向けて、学び、実行する姿勢に欠けている学長が多いような気がします。だからこそ、いつまでたっても文部科学省からの出向者を頼らなければならないのです。2~3年の腰掛け人事で出世していくことを是とする人に、大学への帰属意識を求めることはいささか困難です。大学に骨を埋める気持ちをもって日々汗を流す出向者がどれだけいるのか疑問です。学長は、濱田総長の言うように、大学の発展よりも私利私欲を優先し、そのために在任中の功績を残すことを何より重視する出向者を見抜く眼力を持つべきです。

そんな力量もなく、法人化前のように、出向者から言われるままに大学を経営するような不甲斐ない学長、事務職員が書いた説明メモを常時必要とするような学長、そして、次期学長選挙で負けないことを全ての判断基準にしているような学長は、即刻退陣すべきでしょう。そのような学長に、大学、学生、教職員の未来を委ねるわけにはいきません。多額の税金を運営資源として提供してくださっている国民や、子息のためにと厳しい家計から授業料を納めてくださっている保護者に、胸を張って説明できる経営努力を全力を傾注して行っているのかどうか、謙虚に自省することも時には必要なのではないでしょうか。

2012年1月28日土曜日

教育の現場で金儲けはおかしい(土光敏夫)

私立高校の校長が別荘を7つも持っていたり、補助金を不正に受け取り私服を肥やしているような教育者が、立派な学生になれ、と言ったところで、誰が聞くものか。説得力がない。教育の現場が、金儲けの場になっているのはおかしい。


2012年1月25日水曜日

人事の原則(ドラッカー)

非営利組織においても、人事は究極にしておそらくは唯一の管理手段である。組織の成果を定めるのは人である。組織は自らの人材を超えて仕事をすることはできない。しかも他の組織よりも優れた人材をリクルートし、とどまってもらうことは容易ではない。弦楽四重奏団のような極小の組織は別としても、通常は平均的な人材しかリクルートできず、またとどまってもらえないことを覚悟しておいたほうがよい。

したがって、すでにいる人材からより多くを引き出すことに全力を尽くさなければならない。人的資源からどれだけ引き出せるかによって組織の成果が決定する。それは、誰を採用し、誰を解雇し、誰を異動させ、誰を昇進させるかという人事によって決まる。

それら人事の質が、組織が真剣にマネジメントされるか否かを決める。掲げるミッション、価値、目的が口先ではなく、本物で意味のあるものであるか否かを決める。

優れた人事の原則はすでに明らかである。問題はそれらの原則を守る者がほとんどいないことにある。人を見分ける力に自信のある人ほど、間違った人事を行う。人を見分けるなどは限りある身の人間に与えられた力ではない。百発百中に近い人事を行う人は単純な前提に従っている。人を見分ける力などありえようはずがないとの前提である。彼らは人物診断のプロセスを忠実に踏んでいく。

医療教育者は優れた診断力をもつ者こそが問題だという。自らの目に頼ることなく、診断という忍耐を要するプロセスを踏むことを身につける必要がある。さもなくば患者を殺す。人事も同じである。自らの知識や眼力に頼ることなく、退屈なプロセスを実直に踏んでいくことを学ばなければならない。

人事は第一に、なされるべき仕事からスタートする。

第二に、候補者を複数用意する。通常われわれは誰が最も適任かは自明と思う。だが感覚で決めてはならない。複数の候補者を観察することによって、親しさや先入観で目を曇らせることを防がなければならない。

第三に、成果の実績を見る。性格を見るのではない。「人とうまくやっていけるか」「イニシアチブをとれるか」などのくだらないことで評価してはならない。それらのことは、人を描写するには役立つだろうが、いかなる成果をあげるかは教えない。正しい問いは、「最近の三つの仕事をどうこなしたか。やり遂げたか」である。

第四に、強みを見なければならない。「最近の三つの仕事で、何ができるかを示したか」を見る。

ここでマリー・アンが適任と判断したら、第五のステップとして、彼女と働いたことのある者二、三人と会う。マリー・アンを手放すのは困るといわれたら、彼女に決めてよい。戻さないでもよいといわれたら最初からやり直さなければならない。

人を選んだからといって、人事のプロセスが終わったわけではない。三か月後に二幕目がある。マリー・アンを呼び、「三か月経った。これから何をやるつもりか書き出してください」という。彼女が何を書き出すかによって人事が正しかったかどうかがわかる。


2012年1月23日月曜日

独法改革の断行を

政府は、去る1月20日、「独立行政法人の制度及び組織の見直しの基本方針」を閣議決定しました。

今回の改革では、残念ながら、旧文部省と旧科学技術庁の各所管法人の組織統合は実現しませんでした。類似の事務事業をやっているところがあるんですけどね。単なる数減らしではなく、もっと突っ込んでやってほしかったですね。省益追求、縦割組織の弊害は今後とも続いていくことでしょう。ですが、少しづつでも、天下り、無意味な政策、税金の無駄遣いが減ってほしいものです。

それと、今回の閣議決定では、「この改革の実施に必要な措置については、平成26年4月に新たな法人制度及び組織に移行することを目指して講じるものとする。」と、なんだかわけのわからない役人言葉が使われています。いつものように時間の経過とともに、うやむやにするのではなく、必ず「実行」してもらいたいし、厳格なチエックも行ってほしいものです。

閣議決定(各独立行政法人について講ずべき措置)の中から、文部科学省所管の組織について引用してご紹介します。

国立特別支援教育総合研究所

成果目標達成法人*1とする。

大学入試センター、日本学生支援機構、大学評価・学位授与機構及び国立大学財務・経営センター

大学入試センター及び大学評価・学位授与機構については統合し、大学連携型*2の成果目標達成法人とする。
国立大学財務・経営センターについては廃止し、その業務のうち当面継続されるものについては、統合後の法人に移管する。
統合後の法人については、学位授与に係る手数料の引上げ等により、自己収入比率を高め、将来的に運営費交付金に頼らない構造での運営を目指す。
日本学生支援機構については、その機能を整理した上で、統合後の法人への統合、事務・事業の他の主体への一部移管等、その具体的な在り方について平成24年夏までに結論を得る。なお、売却を進めている国際交流会館等のうち、やむを得ない事情により売却が困難なものについては、廃止の進め方について現行中期目標期間終了時までに結論を得る。

国立青少年教育振興機構

成果目標達成法人とする。
国立青少年交流の家等の自治体・民間への移管等に向けた取組や稼働率の低い施設の廃止に向けた検討を積極的に進め、その上で、将来的な独立採算制への移行、他法人との統合等を検討する。

国立女性教育会館

成果目標達成法人とする。
女性教育及び男女共同参画の推進という政策目標の達成に向けて、本法人の機能、在り方及び効率化に関する抜本的な検討を関係者等の参画を得て行い、平成24年夏までに結論を得る。

国立科学博物館

文化振興型*3の成果目標達成法人とする。

物質・材料研究機構、防災科学技術研究所、科学技術振興機構、理化学研究所及び海洋研究開発機構

上記5法人については、以下の措置を実施するとともに、研究開発の特性に応じた制度が構築されることに併せて統合し、研究開発型*4の成果目標達成法人とする。
物質・材料研究機構については、ニーズ主導を徹底し、更に具体的なイノベーション創出を図るため、産学官共同事業に関する計画策定及び資源配分等の判断を企業・大学と合同で行う意思決定システムを新たに整備する。また、国際的水準での成果を更に実現するため、世界材料研究所フォーラム等の国際協力の枠組みを活用して主要な材料研究所の運営に関する国際的基準を新たに採用・実施し、本法人の運営戦略へ反映する。
科学技術振興機構については、業務内容を、1)ニーズ主導への転換による科学技術イノベーションの創出に向けて基礎研究から応用研究までを効率的に実施、2)日本全体の研究基盤としてのソフトインフラの整備、の大きく2つに再編する。また、内部組織を大くくり化・再編して効率化するとともに、組織横断的にニーズ主導・イノベーション志向を徹底するため、全体の統括機能を強化することで、ガバナンス体制を整備する。さらに、本法人と理化学研究所の実施している研究について、プロジェクトスタート時及びプロジェクトの進捗途中にそれぞれの研究テーマに重複・無駄がないか、あるとすればどちらの法人において実施することが望ましいかを調整する、理事クラスの合同コーディネーション会議(仮称)を設置し、定期的(年2回程度)に開催することとする、といった組織改革を実現する。また、本法人については、研究開発の資金配分機関としての性格を有しているが、資金配分実施機関については、事業仕分け等の議論を踏まえ、その在り方を抜本的に見直す必要があることから、その見直しの中で本法人の機能、役割及び在り方についても検討する。
理化学研究所については、独創的シーズ創出のみならず、科学技術イノベーション創出のため、ニーズ主導への転換に向けて、研究分野の融合・総合化等の見直しを行い、併せて、現在、本法人に設置されている組織の再編整理を進める。その上で、組織横断的にニーズ主導・イノベーション志向を徹底するための統括組織を整備してガバナンスを強化する。さらに、本法人と科学技術振興機構の実施している研究について、プロジェクトスタート時及びプロジェクトの進捗途中にそれぞれの研究テーマに重複・無駄がないか、あるとすればどちらの法人において実施することが望ましいかを調整する、理事クラスの合同コーディネーション会議(仮称)を設置し、定期的(年2回程度)に開催することとする、といった組織改革を実現する。

放射線医学総合研究所及び日本原子力研究開発機構

研究開発型の成果目標達成法人とする。
今後行われる中長期的な原子力政策及びエネルギー政策の見直しの議論等の結果を踏まえるとともに、事故対策・安全確保対策への重点的取組の必要性に伴い、国の組織と一体になって、事故の収束へ向けた中長期的な取組や安全対策に関する人材の確保・養成等の重要課題に効果的に取り組むことができるよう、平成24年末を目途に成案を得るべく、原子力関連の独立行政法人の将来的な統合等も含めた在り方について検討する。

国立美術館、国立文化財機構及び日本芸術文化振興会

上記3法人は統合し、文化振興型の成果目標達成法人とする。
統合に際しては、「独立行政法人の事務・事業の見直しの基本方針」(平成22年12月7日閣議決定)において「国の負担を増やさない形での事業の充実に向けて、制度の在り方を検討する」とされた趣旨を十分踏まえ、必要な職員数・予算を確保するとともに、真に自己収入の増加に向けたインセンティブが確保されることが不可欠である。このため、統合に際しては、1)一定の自己収入を美術品等の管理等を行う専門職員の確保に使用できるようにする、2)目的積立金が運用上、弾力的に認定されるようにする、3)我が国の美術品や文化財等の海外への流出等を防ぐとともに魅力ある収蔵品を機動的・効果的に購入できるように、また、トップクラスの伝統芸能の伝承者や現代舞台芸術の実演家等を招へいする際に2年ないし3年後の公演となる契約等ができるように民間資金等を活用した「基金」を設置する、4)シナジー効果を十全に発揮するため法人本部機能を拡充するといった制度設計・運用を行う。

教員研修センター

学校教育関係職員に対して、国による実施が必要不可欠な研修を行う等の事業は、国の判断と責任の下で実施すべき業務である。更なる教員の資質能力の向上は国の重要課題であることから、必要な定員・予算を確保した上で、本法人の機能を一体として国に移管するとともに、併せてその機能強化を図る。

日本学術振興会

大学連携型の成果目標達成法人とする。
本法人については、研究者向け学術研究の資金配分機関としての性格を有しているが、資金配分実施機関については、事業仕分け等の議論を踏まえ、その在り方を抜本的に見直す必要があることから、その見直しの中で本法人の機能、役割及び在り方についても検討する。

宇宙航空研究開発機構

研究開発型の成果目標達成法人とする。
宇宙基本法(平成20年法律第43号)の趣旨を踏まえ、国民生活や産業等の視点を宇宙開発に導入することにより、防災研究との連携強化や経済成長への寄与を図るため、独立行政法人宇宙航空研究開発機構法(平成14年法律第161号)を改正し、本法人の業務内容を見直す。

日本スポーツ振興センター

成果目標達成法人とする。
施設管理やスポーツ振興投票業務において、民間への委託等により、更なる効率化を図ることとし、民間委託方法の検討を含めた具体的な効率化策を平成24年夏までに作成する。また、民間委託等による効率化が十分な効果を挙げられないと認められる場合には、他法人との統合、業務の再編等の可能性について引き続き検討する。

国立高等専門学校機構

成果目標達成法人とする。

(関連記事)

独法・特会改革-組織いじりでは困る(2012年1月21日 朝日新聞)
独法・特会改革 肝心なのは政府支出の削減だ(2012年1月24日 読売新聞)


*1:成果目標達成法人は、多種多様な事務・事業を実施しており、それぞれに期待される政策実施機能も様々であることから、各法人が行う事務・事業の特性に着目し、一定の類型化を行った上で、当該類型に即したガバナンスを構築することとし、その具体的な内容については、別紙で示した類型に即し、必要に応じ個別法も含めた法制的な対応(ふさわしい名称を含む。)を行う。なお、一つの法人において複数の類型に跨る事務・事業を行っている場合には、法人の経理を区分するなどした上で、複数のガバナンスが適用されることもあり得る。また、いずれの類型にも該当しない事務・事業を行う法人については、「2.新たな法人制度に共通するルールの整備」に示すガバナンスが適用されることになる。

*2:大学との連携の下で、大学の運営等を支援する事務・事業を行っている法人類型

*3:美術品・文化財の保存・活用や芸能の振興等文化・芸術等の分野の振興に関する事務・事業を行う法人類型

*4:法人の主要な業務として、高い専門性等を有する研究開発に係る事務・事業を実施し、公益に資する研究開発成果の最大化を重要な政策目的とする法人類型

2012年1月19日木曜日

お金は使うべきところに使う(土光敏夫)

人それぞれに生き方があるのだし、それを押しつける気はないけれど、おカネは有効に使うことですよ。ネオンの街に消えてしまうのじゃもったいない。贅沢な生活になれてしまうと、だいいち健康によくない。


2012年1月14日土曜日

大学改革の方向性

伝聞ですが、去る1月10日(火)に開催された国立大学協会主催の「臨時学長等懇談会」で、文部科学省の幹部は、こぞって「大学改革が今ほど社会的文脈の中で問われていることはなく期待と関心が強いこと、目に見える形で、スピード感をもって改革を進めていく必要があること、そして、国立大学こそがトップを切って走っている姿を見せることが重要であること」を力説したようです。今年は、本腰を入れて「大学改革の加速化」に邁進する必要がありそうです。

さて、昨年末のことになりますが、あるIR関係のセミナーで、文部科学省高等教育局政策室長の榎本剛さんのお話を聴く機会がありました。個人的な見解を含め、国の教育政策の動向をとてもわかりやすく説明されました。配付された資料の一部をご紹介します。


大学改革の座標軸

本日は、議論を喚起するために、私見を述べたいと思います。
人々が大学で学ぶ理由はいろいろあると思うのですが、年齢・国籍・性別に関わらずさまざまな人にとって、大学が、知識・技能を修得し、そうした知識・技能を活用できるようになり、さらに、新しい知を生み出す創造性を身に付ける機会となることが重要です。
大学は極めて多様です。それぞれの大学が、研究者養成、幅広い分野の職業人の養成、地域の様々な活動に貢献できる市民の育成などに取り組み、それが社会全体として多様な人々が学びの機会につながることが求められます。(→本年1月の大学分科会の審議まとめ)
各大学では、学生や社会のニーズを踏まえながら、様々な改革が進んでいます。(→これまでの改革の進展例)
その一方で、「大学改革が進んでいない」または「進んでいるように見えない」との指摘は強いです。(→仕分けの論点と方向性)
なぜなのでしょうか。

ここで、すべての論点をあげることばできませんが、大学における教育の課題について、次で、いくつか考えてみたいと思います。

なお、現在の大学分科会の議論も、こうしたことを焦点化しようとしています。その際、大学が、一人ひとりの学生の社会的・職業的自立にどのように貢献できるのか、また、社会との関わりの中で、その公共的な役割から導かれる役割をどう果たすのかが課題になると思っています。

1)平成20年の「学士課程答申」では、「3つの方針」(学位授与←カリキュラム←学生受入れ)を各大学が定めることが提起されました。この4月からの「教育情報の公表」もあり、各大学でそうしたことへの取組が見られます。

一般的には、そうした方針が抽象的な記述にとどまっていたり、その方針を具体化する手段がはっきりしなかったりすることはないでしょうか。「方針を明らかにすることが求められている背景は何なのか」という文脈とあわせて考える必要があるように思います。

2)また、「学士課程答申」(ほかにも、平成10年の大学審議会「21世紀答申」など)は改革を進めるための具体的なやり方も提起しています。関連する大学設置基準の改正や、GP事業などを通じた支援もなされています。

そうした手法が、別々のものとして受け止められ、大学として、何を目指しているかが曖昧になっていることはないでしょうか。例えば、あるテーマに関して、「本来は、この改革のためには、全体的なカリキュラムの見直しが必要なのだが、それを待っていては始まらないので、まず着手する」というお話を伺うことがあります。携わっている方々の御尽力は並々ならぬものがあり、そうした姿勢は大事にしたいと思います。一方で、そうした努力が、大学教育の充実にどう貢献しているか見えにくい場合もあるように思います。

「学士課程答申」では「諸手法(シラバス、セメスター制、キャップ制、GPAなど)を相互に連携させて運用する」と述べていて、この共通理解をさらに考えたいと思っています。

なお、この答申の括弧書きに挙げられている用語が、すべてカタカナやアルファベットであることも難しい問題をはらんでいます。

3)上記の1)や2)は、どちらかというと(重要ではあるものの)技術的な内容です。それと別に(1の内容と近いのですが)、それぞれの大学で、どういう教育をするか、そして、それが実現できているか、それは誰に評価されるべきなのか、など学内で十分に議論できているでしょうか。

「学問の自由」とそれを背景とする「大学の自治」は、大学制度の根幹をなすものです。それを前提に、大学における教育が、自主的・自律的に充実していくことが大切です。

IRは、そうしたことを推し進めるために、いろいろな役割を果たせると思います。ただ、「IR」という用語は、それが何を指し示すのか、それによって何ができるのかが、IRに直接に携わるかたがただけでなく、教職員一人ひとりに届かなければ、教育の充実を具体的に進め、社会の期待に応えていくのは難しいかもしれません。

IRへの期待はとても大きいですし、そうした期待に応えるためにも、さらに工夫していく余地があるのではないかと考えます。


(参考)文部省「学制50年史」(大正11年(1922年))

我が国現今の制度は外国のものに比して、大いなる遜色を有しないと信ずるが、なお時勢の推移に応じて、絶えず修補改訂を加える必要のあることは論を特たぬ。それと同時に今後大いに力を用うべき点は教育内容の充実である。この点に向かって、朝野を問わず、国民一同に一層奮励努力して、先人に恥じざる功績を挙げ、我が国文化の向上を図るとともに世界の進運に貢献することを期すべきである。(注:旧字体等は適宜修正)

2012年1月13日金曜日

成果に責任をもつ(ドラッカー)

大義を奉ずる者からなる非営利組織には、本書においてマックス・ドプリーがいっている課題が常に存在する。組織の中の人に成果をあげてもらい、成長してもらうことである。こうして自己実現が行われ、組織としての成果が実現される。それが基本である。

非営利組織にとって重要なことは「それは得意とするものではない。われわれが行ったのでは害をなすだけである。ニーズがあるからというだけで手掛けるわけにはいかない。われわれとしては、われわれの強み、ミッション、価値観をマッチさせなければならない」といえることである。

よき意図、政策、意思決定はすべて行動に転換させなければならない。「これがわれわれのミッションである」とのミッション・ステートメントだけでは不十分である。「これがわれわれのやり方である。われわれの期限である。われわれの責任者である。われわれが責任をもってやることである」と続けなければならない。

プランだけでは仕事は行われない。方針だけでも行われない。仕事として行って初めて行われる。生身の人間が行って初めて行われる。期限を切られた者が行って初めて行われる。トレーニングを受けた者が行って初めて行われる。評価される者によって行われて、初めて行われる。成果に責任をもつ者が行って初めて行われる。

非営利組織に働くあらゆる者が何度も何度も繰り返すべき究極の問いは、「自分はいかなる成果について責任をもつべきか、この組織はいかなる成果について責任をもつべきか、自分とこの組織は何をもって憶えられたいか」である。


2012年1月12日木曜日

教員が変わらない限り

この日記には何度も登場する、吉武博通(筑波大学大学研究センター長、ビジネスサイエンス系教授)さんが書かれた論考「教員の力を大学の競争力にどう結びつけるか」(リクルート カレッジマネジメント 172 Jan.-Feb.2012)を引用しご紹介します。


教育研究の質を支える大学教員の意識・力量

あらゆる組織に共通することだが、組織が環境変化の中で社会的存在価値を高めつつ、存続・成長していくためには、戦略、構造(組織構造・制度・システム)、人材の3つの要素が整い、それらが有機的に組み合わされて、全体として機能することが不可欠である。

大学の場合も同様であるが、大学改革に関する論考を見る限り、人材について職員のあり方に焦点があてられることはあっても、教員、とりわけその意識と力量を正面から論じたものは少ない。大学の研究者にとってみれば自らもその一人である教員を客観的に論じることへの躊躇もあるだろうし、学問分野間での違いも大きい。

その一方で、「教員がかわらない限り大学は良くならない」と考える大学関係者は多く、社会の側にも「大学教員の意識は旧態依然」、「教員がますます狭い専門領域に閉じこもり、社会に役立つ教育ができていない」とのイメージが形成されているように思われる。

これらの認識の当否を検証することは困難だが、当事者であるはずの大学関係者自身が慨嘆するだけでは何の解決にも繋がらないし、社会に一つのイメージが定着しているならば、実績を示す中で、それを払拭していかなければならない。

教育研究の質を左右する最も重要な要素が大学教員の意識と力量であることは明らかであり、それらが如何なるレベルにあるかを点検し、その維持・向上のために不断の努力を行っていくことは学生と社会に対する大学の責務である。


大学・学部ごとに教員に求める要件を明確化

「教員がかわらない限り」との大学関係者の認識は、今いる教員自身が変わることと、教員が入れ替わることのいずれかを意味するはずである。前者であれば教員のどこが変わらなければならないのかをはっきりさせ、それを促す施策を具体的に展開しなければならない。また、後者であれば、定年や転出で教員が入れ替わることを見通しつつ、長期的・計画的に教員の底上げを図っていかなければならない。

いずれにしても大学改革が進まないことの原因の一つが大学教員の意識と力量と考えるならば、何が問題なのかを具体的に明らかにする必要がある。

意識についていえば、当該大学・学部における教員の役割の理解、教育や学生の重視、研究への情熱、新たなるものを取り入れ工夫・改善を重ねる姿勢、他の教員や職員との協力、大学・学部運営への貢献、異なる専門分野への関心と連携、社会の動向の理解と対話・連携の姿勢、などが主たる評価の視点となるだろう。

力量という面では、教育の内容・水準、授業・指導の技術・方法、研究の構想力・遂行力と成果の発信力、学生・教職員などとのコミュニケーション能力、自己管理能力などが求められるほか、教育研究活動に付随する業務を処理する能力や組織内の役割に応じた管理運営能力なども問われることになる。

これらの要素をすべて満たすことを求めるのは酷であり、教員の個性や持ち味が多様であるからこそ、多様な学生のニーズに応えられ、教育研究活動が活性化するという面もある。大学や学部によっても濃淡の置き方が変わってくるだろうし、教員のキャリアステージや職階に応じて重視される要素が変化していくこともある。

重要なことは、これらの要素を基礎にしたうえで、教員に求める要件を、大学または学部(本稿では学部・研究科などの部局を学部と総称)ごとに、その置かれた状況や目指す方向も踏まえて明確化しておくことである。このようなベースがなければ、教員の意識・力量のどこが問題なのかは明らかにならない。


大学教員に関する具体的な課題について考える

次に、大学教員の意識と力量について、具体的にどのような課題があるのかを考えてみたい。

まず挙げられることは、採用や昇任を含めて教員の評価が研究業績を中心になされるため、研究偏重や教育能力の不足から教育の質が十分に保てていないという指摘である。研究への情熱や高い研究能力があって初めて質の高い教育が実現できるという面もあるため、一律に論じることはできないが、採用・昇任審査等において、教育に対する意識や能力をこれまで以上に重視する必要があることは確かである。

二つめは、学問分野の分化に伴い教員が一層狭い領域に閉じこもりがちになることから、教育も個々の教員の狭い専門領域の寄せ集めとなり、体系的な理解や俯瞰的な視野が身につきにくいという点である。これまでも指摘され続け、国・大学それぞれのレベルでさまざまな取り組みが展開されてきた課題である。

三つめは、研究活動が低調な教員の存在についてである。過去数年間で一本の論文も書いていない教員がいるという話をきくことが少なくない。教員業績を公開している大学についてはその検証も可能であるが、教授昇任後にしだいに研究活動が低調になるというケースがあるようである。その分が教育や管理運営面での貢献に置き換わるならばよいが、全般に活動が低調になった教員に対する対処の仕方とそのような状況を少しでも食い止める動機づけなどの方策を検討する必要がある。

四つめは、新たな取り組みや組織運営への協力度合いに教員間で大きな差が生じ、負担が集中する教員とフリーライダーともいうべき教員の間で不公平が生じるという問題である。FD活動、教育GP、共同での競争的資金獲得、国際交流など、組織的な取り組みの機会が増える中、特定の教員に仕事が集中する状況が従来以上に顕著になっているように思われる。このような状態が続くと、当該組織の活力や活動レベルを低下させる可能性がある。

五つめとして、教員の組織内行動や人間関係によっては、組織の円滑な運営や健全な職場環境の確保に支障が生じることもあるという点を加えておきたい。表に出にくい問題だが、限度を超えるとハラスメント問題への発展、教育研究や学生への影響など、教員間で解決できない状況に至ることもあり、事態収拾に時間や労力を費やすことになる。


どのような人材を求め、それをどう見極めるか

あえて否定的な面を取り上げてきたが、ここに挙げたものの中には一般的な傾向といえるものと特定の組織や教員層に生じている問題があり、大学や学部によっても状況が大きく異なると考えられる。

個別に見ていけば、研究も教育も熱心で、大学や学部の運営にも協力的な教員が数多いことも事実である。休日もなく働いている教員、研究者らしい好奇心と純粋さで会う人を魅了する教員も少なくない。

ユニバーサル段階にある大学を一律に論じられないのと同様に、教員も一括りにして論じられないということである。

先に述べたとおり、それぞれの大学や学部が求める教員の要件や教員に期待するものを明確にしたうえで、それに対する個々の教員の活動実績や教員組織の状況を的確に把握することができて、初めて教員に関するさまざまな施策を具体的に検討することができる。

個性化や機能別分化が叫ばれ、多くの大学が自校や学部ごとの特色を如何に打ち出すかに腐心しているが、教員の意識や教える内容・方法が変わらないままに組織を組み替えたところで、それは単なる看板の掛け替えでしかなくなる。新設や改編された学部にはこのようなケースが少なくない。

教員を採用する場合でも、論文本数など研究業績を中心にした審査だけでは、教育能力の評価は難しいし、より優秀な教員はいわゆる有力校に集まりがちになり、受験の偏差値と同じような序列に自校の教育力を位置づけてしまうことになる。

大学教員にとって研究への情熱や研究を遂行できる力は必須であり、それが教育の原動力にもなり、学生の興味・関心を惹きつけることにもなる。しかしながら、教員審査の公平性や客観性を担保せんがために、論文本数などの形式要件に過度に依存すれば、教育能力の評価が疎かになるだけでなく、その裏打ちともなる真の研究能力すら見極めることができない恐れもある。

国内外を問わず、研究者を取り巻く環境が厳しさを増せば増すほど、学術雑誌に受理されやすい論文を数多く投稿しようとする意識が強まる。本当にやりたいことを追究しながら、業績を積み上げられるキャパシティをもった研究者がいる一方で、いわゆる業績づくりに翻弄される研究者もいる。

また、学生に個性の豊かさや幅広い教養を求めるのなら、教員についてもバックグラウンドの多様性がより求められていい。米国で見られるように人文科学や自然科学を学んだあとに社会科学を専門とする教員、一定の実務経験を経たあとに大学院で学び学位を取得した教員などが集まることで、教育研究内容は豊かさを増し、学生の多様なニーズに一層応え得る組織になるのではなかろうか。

これらのことを十分に踏まえたうえで、自分の大学や学部はどのような人材を求めるべきか、そのような人材を如何にして見極めるべきかを真摯に問い直す必要がある。このことは採用だけでなく昇任審査においても同様である。


データベースと対話を通して教員と活動を理解する

近年、教員評価を導入する大学が増えているが、専門が異なるものを的確に評価できるのか、評価結果はどう用いられるのかといった疑問も根強く、形だけ整えた結果になっているケースも少なくないのではなかろうか。

教員評価の是非や方法論は別にして、教員の活動実績を把握することは、教育研究の質の保証と適切な組織運営の観点から不可欠である。学校教育法施行規則等の一部改正で教育情報の公表が明確に位置づけられたことも踏まえると、その基礎となる情報をデータベース化し、その維持・改善を定着させていかなければならない。

学部長はそれをベースに学部内を調整し、教育研究の質の確保・向上、将来構想の立案などを行うことになる。このような情報を手元にもたない学部運営は感覚だけに頼ったものとなり、気の合う教員や声の大きい教員の意向に左右される可能性もある。そうなると、次の学部長は自分たちのグループから出そうといった動きも起き、教育研究よりも学内政治に興味をもつ教員も出てくる。

データベースに乗らない情報をどう集めるかも重要である。その基本は対話である。教授会や教員会議で得られる情報は限られたものでしかない。専任教員が50人程度までなら学部長が全教員と個別に対話の機会を持つことも可能だろう。面談などという形式をとらず、相手の研究室を訪ねてもいいし、学部長室に珈琲を飲みにきてもらうのもいい。年最低1回、話し足りない教員とは回を重ねてもよい。相手が年長者ならば知恵を借りるといったスタンスで臨めば会話もスムーズに進む。

対話のポイントは、その教員が最も興味をもち、取り組んでいる研究テーマ、どのようなことを学生に教えたいと思っているのか、学部の現状と将来をどう見ているのか、などであろう。

このような対話を通して、個々の教員の考え方を知り、相互理解を深めることができるし、データベースで得られた情報と合わせることで教育研究の力量を把握することもできる。

このように見てくると学部長の役割がきわめて重いことに気づく。自学部の実力や実態を正しく理解し、学部の将来像を構成員と共有しながら、それに向けた諸施策を着実かつ効果的に推進することが、厳しさを増す環境下で学部長に求められる最大の任務である。教員の意識や力量を知ることはこれらすべてのベースになるものである。


採用・昇任の審査基準とプロセスの有効性を高める

採用・昇任等の人事を中心に大学教員に係る事項は学部自治の領域として、大学ましてや法人には関与させないとの考え方が根強いが、学部自治を尊重したうえで、そのあり方を冷静かつ論理的に考えてみる必要がある。

学部自治にすべてを委ねるべきとする根拠は、憲法が保障する学問の自由と専門領域を同じくする教員による審査などであろう。その一方で、学位授与や認証評価の受審は大学の名において行われ、設置申請、雇用契約、法令遵守などの責任は法人が負っていることも踏まえておかなければならない。また、教員に係る事項を教員だけで完結することはできない。諸手続きの多くは職員が担っており、法人と大学で事務体制が一本化されていることも多い。

学問領域が分化すればするほど、専門領域を同じくする教員の定義や要件も曖昧になるし、同じ領域でも研究方法が異なると互いの評価が難しくなる。さらに、学際的に編成された学部では同じ領域の教員を探すことも困難な場合がある。また、論文業績についても査読付き学術雑誌が少なく、投稿機会自体が限られるといった学問領域もあり、形式要件にこだわりすぎると人材を得られないことも起こり得る。

このような学問領域ごとの特性と学部が求める人材の要件を合わせて、採用や昇任の審査基準をつくるとともに、より的確に見極められる選考方法を設計しなければならない。

これらは学部の責任において自律的に行われることが望ましい。その上で、大学が教育の質の保証に責任を負う以上、審査基準と選考プロセスを定めるにあたっては大学の助言と承認を要件とすべきであろう。そのために全学レベルで人事委員会を設置するなどして、その承認プロセス自体の透明性を高めることも必要と考える。

これらの委員会で確認するのはあくまでも基準やプロセスであり、個別人事はこれまでどおり学部の自律性に委ねることになる。同時に、このような場を活用して、若手教員の育成を含むキャリアステージに応じた人事施策、教員構成の多様化に対応した支援策などを議論することも重要である。

法人はこれらのフレーム全体が適切かつ有効に機能しているかどうかを経営の視点から把握しておかなければならない。学長による理事会への報告や監事監査を
通した確認などがその手段となり得るが、理事会と学部長が率直に対話する機会を設けることなども有益な方法と考えられる。

大学教員といえども個々人は一般の組織で働く人々と本質において大差ないはずである。興味あることをしたい、認められたいといった気持ちは同じである。確かに個人差はきわめて大きく、他者との接点も限られる。だからこそ個々人を丁寧に見ていく必要がある。

大学院や学会のあり方を含めて、研究をどう評価し、教育研究力のある教員をどう育てるかといった大きな課題もある。

18歳人口120万人時代も残り10年足らずである。教員の力を大学の競争力にどう結びつけるか。時間のかかる課題だけに早急な着手が求められる。
http://souken.shingakunet.com/college_m/2012_RCM172_46.pdf

2012年1月10日火曜日

日に新たに、日々に新たなり(土光敏夫)

一つだけ座右の銘をあげろといわれれば、躊躇なくこのことばをあげたい。中国・商時代の湯王が言い出した言葉で、「今日なら今日という日は、天地開闢以来はじめて訪れた日である。それも貧乏人にも王様にも、みな平等にやってくる。そんな大事な一日だから、もっとも有意義に過ごさなければならない。そのためには、今日の行いは昨日より新しくよくなり、明日の行いは今日よりもさらに新しくなるように修養に心がけるべきである」という意味。湯王は、これを顔を洗う盤に彫り付け、毎朝、自戒したという。

神は万人に公平に一日24時間を与え給もうた。われわれは、明日の時間を今使うことはできないし、昨日の時間を今とりもどすすべもない。ただ今日の時間を有効に使うことができるだけである。毎日の24時間をどう使っていくか。

私は一日の決算は一日にやることを心がけている。うまくゆくこともあるが、しくじることもある。しくじれば、その日のうちに始末する。反省するということだ。今日が眼目だから、昨日の尾を引いたり、明日へ持ち越したりしない。昨日を悔やむこともしないし、明日を思いわずらうこともしない。このことを積極的に言い表したのが「日新」だ。昨日も明日もない、新たに今日という清浄無垢の日を迎える。今日という一日に全力を傾ける。今日一日を有意義に過ごす。これは、私にとって、最大最良の健康法になっているかもしれない。(「私の履歴書」、「経営の行動指針」)


日本経済新聞社
発売日:1983-01

2012年1月9日月曜日

成人の日に考える 前へ、明日へ、未来へ

2012年1月9日(成人の日)付、東京新聞社説から引用

時代が二つに分かたれました。震災前と震災後。新成人の皆さんは、震災後の希望を担う初めての大人たち。だから、特別におめでとうございます。
「実感がわきません」。福島県いわき市の避難先のアパートで先々月、二十歳の誕生日を祝うことになってしまった長峰真実さんの本音です。
自宅は福島第一原発にほど近い浪江町の請戸地区。潮騒の音に親しみ、七キロ先にそびえる原発の夜の明かりを「きれい」と思ったこともありました。

振り袖に思いを託し

その海があの日突然荒れ狂い、集落が丸ごと流されてしまうとは。放射能という見えない壁が、生まれ育ったまちの風景や、お世話になった親しい人を、こんなにも厳しく隔ててしまうとは。
勤め先のコンビニエンスストアから同僚の車で逃れ、翌日、高台の避難所でようやく両親や弟たちに会えたときのことを思うと、今でも涙が止まりません。
被災後、二本松市の体育館で二十日間、新潟県南魚沼市の旅館で四カ月近くを過ごし、いわき市の借り上げ住宅に移ったのが七月末。帰る土地があるのに帰れない。体の中で余震が続いているように、なかなか心が定まりません。
そんな真実さんが先月、成人式の振り袖をインターネットで予約しました。赤地の裾に花を散らした古典柄。浪江町役場の仮庁舎がある二本松市で、昨日、ふるさとの成人式が開かれました。ちりぢりになった旧友たちと、あらためて無事を喜び合いました。再会のための晴れ着です。
大人になって何をすべきか、自分に何ができるのか、未来はかすんで見えません。でも震災の次の年、この新しい年に成人の日を迎えることが、何やら特別な巡り合わせに思えてなりません。真実さんは、決めました。
「成人の日を区切りにし、一歩、前に踏み出します」
自動車の運転免許を取得して、就活を始めよう。幼いころの夢だったパティシエにも挑んでみよう。今日は、自分のための自分の中の区切りの日。自分に向き合い、自分で何かを決めてみる。成人の日とは本来、そういうものなのかもしれません。
失った大きな家は十年前、建築業三代目の父、勝さん(53)が自ら手がけた家でした。
「それなら、おれももう一度、もっとすごい家を建ててやる」
家族にとっても、特別な日になりそうですが。

自分自身が動かねば

宮城県気仙沼市の佐々木志保さんは、五月に二十歳になりました。震災後洋菓子店を解雇され、七月から気仙沼復興協会の福祉部に勤めています。
市内の仮設住宅を巡回し、炊き出しの手伝いをしたり、お茶会を開いて住人とコミュニケーションをとるのが仕事です。
「震災があって二十歳になるのと、なくて二十歳になるのとでは、大人としての自覚がまったく違っていたはずです」と、志保さんは考えます。
志保さんも被災者です。しかし、家も家族も無事でした。はじめは恐る恐る仮設住宅の扉をたたき、住人と言葉を交わし、打ち解け、やがて「ありがとう」の言葉を聞くようになり、志保さんは自分が少しずつ、大人になっていくように感じています。
志保さんは今、「自分自身が動かなければ、結局何も変わらない。がれきの山も片づかない。でも動けば動いた分だけ、まちは変わる。良くなっていく」と信じています。
今この国の冬空を、もしかすると、被災地のそれより、もっと大きな閉塞(へいそく)感が覆っています。
新成人の皆さん。経済の力におぼれ、科学の威力を過信して、ふるさとの森を枯らし、川や海を荒らしてきたのは、皆さんではありません。
地震列島を原発だらけにした揚げ句、爆発事故を起こさせたのも、雇用と保障を奪っていくのも、一千兆円にも届く途方もない借金をこしらえたのも、皆さんではありません。私たちはその責任から逃れるつもりはありません。
それでも、時代を変える力を持つのは常に若い人たちです。老いた常識よりはるかに強く、新しい海へ乗り出す新しい船を、操ることができる人たちです。

新しい春への足跡を

雪に埋もれた桜の中で、新しい春が育ち始めているように、小さくていい、維新とか、大転換でなくていい、今日から一歩前へ出よう。自分の力で大人になろう。自分を大人にしていこう。
新成人、前へ。若い世代よ、前へ。被災地もそうでないまちも、それぞれ一歩ずつ前へ。私たちも、負けずに前へ踏み出します。