2013年9月30日月曜日

思いやりとは

ブログ「人の心に灯をともす」から他人の痛みがわかる人」(2013年9月30日)をご紹介します。


山口主(つかさ)さん(71)は、56歳の時、低血糖症で意識を失いマンションの5階から転落した。
気が付くとベッドの上にいた。
一命は取り留めたが脊髄(せきずい)損傷で下半身まひの重度障害。
2年の入院生活を終え退院したが、車いすの生活になった。

AT車限定の自動車運転免許も取得し、健常者と変わらぬ生活を送っているが、時に心無い人の言葉に傷つくこともある。
スーパーで近くにいた買い物客に、棚の商品を取ってもらおうと頼んだ時のこと。
「なぜ一人で来るんだ。介助者を連れて来い」
と怒鳴られた。

もちろん、悪いことばかりではない。
買い物を済ませて自宅の集合住宅の駐車場まで戻って来た時のことだ。
車いすに乗り換え、ひざの上に大きな買い物袋を乗せてエレベーターに向かい始めた。
その時突然、5歳くらいの女の子が歩み寄って来て「おじちゃん押したげる」と言い、スロープを押してくれたのだ。
大人でも相当の力がいる。
幼い子供のこと、重かったろう。
「この時ほど車いすが軽やかに感じたことはありません」と山口さん。

スーパーに買い物に出掛けた時の話。
アルバイトの女子高生が、レジで声を掛けてくれた。
「雨が強くなってきましたよ。大変でしょう。ぬれますから送りますよ」と。
いつも一人で車を運転して来ていることを知っていてくれたのだ。
でも、ほかのお客さんが並んでいたので「ありがとう」とだけ言って遠慮した。

ずぶぬれになることを覚悟して車の所まで車いすを動かし始める。
ふと気付くと、体に雨が当たらない。
振り向くと見知らぬ人が、後ろから傘を差し掛けてくれていたのだ。

レジのところで見かけた50歳くらいの女性だった。
おそらく、レジの女子高校生との会話を聞いてくれたのだろう。
「ありがとうございます。奥さんの方こそぬれてしまいますよ」
山口さんに差し掛けるため、本人が傘からはみ出てしまっていた。

「子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの」(永六輔・大往生)より
多くの人は、自分がかつて子供や赤ちゃんだったことを忘れてしまう。
赤ちゃんの時は、食事から入浴、排泄まですべて親がやってくれた。

そして、いつかやがて自分が老人になることに考えが及ばない。
赤ちゃんの時と同様に、すべてを他人のお世話になるかもしれない。

思いやりとは、他人の痛みがわかること。
天に向って唾(つば)すれば、自分にかえってくるのと同じで、出した言葉も、思いも、行動も、やがて自分にかえってくる。
他人の痛みがわかる心やさしい人でありたい。


2013年9月27日金曜日

大学のガバナンス改革

現在、政府の産業競争力会議(雇用・人材分科会)や、中央教育審議会(大学分科会組織運営部会)において、「大学のガバナンス」に関する議論が行われています。

本件については、我が国では過去数十年にわたって、様々な場面で議論されてきた歴史がありますが、結局のところ、多様な利害関係者の相互作用によって得られた妥協によって、現実的な制度や体制が構築されてきたような気がします。

社会の常識に照らした、スピード感のある、そして実効性のある改革が実現することを、大学現場に生きる一人として心から望んでいます。

関連して、今回は、桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一氏が書かれた「ガバナンス改革と教員力の活用」(文部科学教育通信 No324 2013.9.23)をご紹介します。


教授会をめぐる古い議論

大学の教育・研究の質保証は、従来の「外枠」改革に代わって2010年代の大学改革の中心課題となっているが、そのような時代の趨勢に抗するかのように、またそろガバナンス改革が中教審で論じられている。場所は、大学分科会の組織運営部会である。ここでは「大学のガバナンスの在り方に関し、専門的な調査審議を行う」とのことで、検討に際しての論点例として、学長のリーダーシップを確立するため補佐体制の充実や理事会・役員会の機能の見直し、監事による監査機能の見直しなど、今日的な課題が掲げられる一方で、予算や人事に関する学長の権限や、学長の選考方法、教授会の役割などやや「古典的」なことがらも検討課題となっている。

教授会の大学経営への関与問題については、過去数十年にわたって大学改革の「肝」と思えるほど頻繁に議論されてきた経緯があり、私が文部省に入った昭和47(1972)年当時においても、新構想大学である筑波大学をめぐって国会審議その他で論じられていた。創設当初の筑波大学においては、東京教育大学の移転問題のこじれの反省から、学部別教授会の機能を学群・学系・研究科等に再分化された組織に分け、かつ全学自治の考えにそって人事委員会や財務委員会など、部局の壁を超えた組織において重要事項の審議を行うように設計されていた。権限の分散と集中のバランスを考えた配慮だったのであろう。

縮小される教授会機能

その後もさまざまな議論が続き、たとえば昭和62(1987)年に出た臨時教育審議会最終答申において、大学の組織・運営における自主・自律体制の確立が、大学改革に不可欠な要素であるとの前提で、「国立大学については、管理・運営の自主的責任体制の確立、学長、学部長等のリーダーシップの発揮、私立大学については、学長を中心とする教学の管理運営組織と教授会の責務を明確にし、教学側と理事会が協調して、大学を含めて学校法人が一体として、社会的責任を果たすべき」としている。今日、中教審で論点とされていることの多くは、すでにこの臨教審答申の中にも含まれているのである。それが解決されていないとすれば、教授会の権限縮小以外の問題が隠れていると見るべきであろう。

それでも、教授会の権限を縮小しようとする努力はさらに続けられ、平成10(1998)年の大学審議会将来像答申において、学長、学部長(執行機関)と評議会や学部教授会(審議機関)の機能分担と連携協力を図ることが提言されたことを受け、翌年の国立学校設置法の改正では、国立大学について、評議会と教授会との役割分担の明確化や外部有識者の意見を取り入れるための運営諮問会議の設置が定められ、教授会については教育課程の編成や学位授与など教育・研究に関する重要事項に審議事項を限定し、大学に運営に関する重要事項については、学長や学部長から構成される評議会において審議されることになった。ただし、この法律は国立大学の法人化に伴い廃止されている。

教授会だけが問題か?

現在、国立大学に置かれる教授会の機能については、私立大学や公立大学と同様、学校教育上の設置義務の原則に立ち戻っているが、国立大学法人法の趣旨からすれば、そして教育公務員特例法の規定が適用外となったことからも考えて、関係者がこれを限定的に解釈していることは疑いがない。しかし、私が疑問に思うのは、教授会の機能を縮小すれば当然に学長のリーダーシップが確立できる、大学の管理・運営がスムーズに運ぶ、教員人事も迅速化する、などガバナンスに伴う諸問題が一挙に解決すると考える識者が、大学の内外を問わず少なからず存在することである。ただし、組織運営部会の議事録を読んでも分かるように、委員の間にかなりの温度差があり、この問題のすべてを教授会機能に集約することは到底できないであろう。私が中教審に期待したいのは、むしろそのような古典的な問題ではなく、冒頭述べたごとく、学長の補佐体制の充実や理事会・役員会の機能の見直し、監事による監査機能の見直しなど今日的な問題を積極的に議論することである。

これに加えて、大学経営における教員の役割確立が必要であると考える。何人かの識者も指摘するように、米国では多くの管理職を教員出身者が占め、その雇用市場も確立している。わが国でも、副学長や学部長など教員出身の管理職は多数いるが、いずれは教授に復帰することを前提とした腰掛け的存在であることが問題である。このような折、今年7月に東京で開催されたあるセミナーで、元法政大学総長の清成忠男氏の講演から貴重なヒントを得た。それは、大学のガバナンスは教授会自治の強弱だけではなく、教員の経営参画の強弱によって4つの類型に分けられるというものである。すなわち、教授会自治が強くて教員の経営参画が弱い場合を「伝統型(ビューロクラシー)」、前者が強く、後者も強い場合を「経営軽視型(教学主導)」、前者が弱く、後者が強い場合を「改革型(法人・教学協力)」、前者が弱く、後者も弱い場合を「経営優位型(法人主導)」を名付けられており、私にとって十分に納得できる分類であった。

教員力の活用が急務

もっとも、これは学校法人と教授会との関係という私学に特有の分け方であり、国立大学も視野に
入れるとすれば、これを一部修正する必要があると思い、図表のような類型を考え、これを「4つの態様」として描いてみた。象限Cは教授会が強く、しかし教員の経営参画が弱い場合で、これを「伝統的教授会自治」型と名付けてみた。教授会を通じて権利や既得権は主張するが、自ら大学運営の責任を取ることに消極的な考えの教員が少なからずいることは、経験則からよく知られた事実である。しかし、変化する時代に対応できる大学経営のためには、教員の持てる能力つまり「教員力」をもっと高く評価し、象限Aのごとく、これを大学経営にも正当に活用することは急務であると私は考える。なぜなら高度な知識や専門家集団を扱う大学には、この専門と親和性を持つ教員管理職でないと収まらない問題が多数存在するからである。教授会云々とは別次元でこれを真剣に考えなければならない。このことは米国の大学経営体制を見ても明らかである。

ただし、現在多くの関係者が論じている将来のガバナンスの姿は、むしろ象限Dのような形が多いようである。これに対して象限Bは論外としても、象限Aのような姿を想像する者は意外に少ない。私としては、極端なAは別として、AとDとの適切なバランスの上に、学長のリーダーシップを支える新たな体制をつくること、そしてこれに必要な諸条件、諸環境を整えることが、これからの大学ガバナンス改革に必要なことだと思うのだが、いかがであろうか。


著者 : 田中和彦
日本実業出版社
発売日 : 2011-06-09

2013年9月24日火曜日

やさしい心

ブログ「今日の言葉」から数えられないもの」(2013年9月24日)を抜粋してご紹介します。


赤いかさ

今、外に降る雨を見て、ふと思い出した出来事があります。

あれは、そう・・・、6月、梅雨空の続くある雨の日のことでした。

放課後、1人の子が、

「先生、木にかさが引っかかっています。」

と職員室へ呼びにきました。

行ってみると、木の枝の少し高いところに、

赤いかさが1本、開いたまま引っかかっています。

取ってみると、かさに1年生の女の子の名前が書いてありました。

「きっと、風でも吹いて引っかかったのだな。今頃困っているだろうな。」

「でも・・・、引っかかったのなら、職員室まで言いに来たらよかったのに。」

と思いながら、家の方に電話をしました。

その子はまだ帰っておらず、お家の方に事情を説明して、

明日返すから心配しないようにその子に伝えてほしいとお願いして電話を切りました。

すると、しばらくして、その女の子のお父さんから、学校に電話がかかってきたのです。

そして、

「実は、・・・。」

と言いながら、娘から聞いたことを話してくれました。

「かさが木に引っかかって取れなくなったんじゃなくて、

娘がわざとその木に引っかけてきたそうなのです。

私も驚いて、どうしてそんなことをしたのか聞くと、

娘が言うのには、その木はとても大切な木なんだそうです。

かわいい実がたくさんなる木なんだそうです。

実を採っていたら、突然雨が降り出して、

どうしようかと困ってしまったそうです。

そこで、持っていた自分のかさを思わずその木にかけて、

その大切な実に雨が当たらないようにして帰ってきたそうです。」

「いやー、本当にお騒がせな娘です。

困ってしまいますよ。

まあ、そういうわけでしたので、大変お騒がせしました。」

と言うお父さんの声は、どこかしら、少しうれしそうでした。

次の日に、赤いかさを取りに来た女の子の少しはずかしそうな顔を見ながら、

私の心も少し温かくなったことを、つい昨日の事の様に覚えています。

今日もこの雨の下、どこかで、やさしい心を持った子がかさを持ちながら、

困った顔をしているのではないかな、

と少し心配に、

そして、ほのかに期待しながら、窓の外に降る雨を、今、見ています。


著者 : 小林正観
五月書房
発売日 : 2010-11-05

2013年9月12日木曜日

足るを知る

ブログ「人の心に灯をともす」から言祝(ことほ)ぐ」(2013年9月10日)を抜粋してご紹介します。


文句や愚痴を言おうが、嘆(なげ)こうが叫ぼうが、事態は少しもよくはならない。

言えばいうほど、気持ちが滅入り、気分が悪くなるだけだ。

文句を言う人の心には、常に比較感がある。

まわりの誰かと比べてばかりいれば、どんなに幸せな人でも、不幸になる。

文句の反対が、言祝(ことほ)ぐこと。

どんな事態におちいっても、言祝ぐことができれば、そこから上昇することはあっても、落ちることはない。

「今ここ」を生きる人は、未来を憂えず、過去を悔(く)やまない。

文句という否定から入る人は、一瞬一瞬という今を生きていない。

言祝ぐということは、肯定すること。

「愛(め)でたい」は、「言祝ぎ」。

どんなときも、言祝ぐことができる人でありたい。


2013年9月2日月曜日

法人化10年目の節目に

国立大学が法人化して、今年でちょうど10年目になります。この節目に法人化について考えてみることは大事なことだと思います。

「国立大学法人法コンメンタール《歴史編》第57回 国立大学法人法案の準備と国会審議《その⑰》」(文部科学教育通信 No321  2013.8.12)から、国立大学法人法案の閣議決定を受けて書かれた二つの新聞の社説を引用しご紹介します。

いずれの社説も、法人化に伴う大学関係者の意識改革を求めると同時に、大学の業績評価の仕組みに強い関心を示す内容になっています。現在の国立大学法人の状況に照らして考えてみることもいいのではないでしょうか。




国立大法人化自主運営は結果への責任を伴う(読売新聞)

今後の国立大学のあるべき姿がまとまった。

国立大学法人化に向けた一括法案が閣議決定され、国会に提出された。成立すれば来年4月から、すべての国立大学が、文部科学省の組織から離れ、それぞれ独立した法人になる。

国の規制は大幅に緩和され、大学は自らの責任で予算を決あ、運営できるようになる。大学運営や学長選出には、学外者も関与する。

国の保護と規制の下にあった護送船団方式から、大学の責任と競争重視への方向転換である。戦後の新制大学発足以来の改革となる。

各大学は明確な将来像を打ち出し、教育、研究などの活性化を図らねばならない。改革に失敗すると、国の運営費交付金の大幅な削減もあり得る。

国立大学の法人化は元々、国家公務員の定数削減のために求められた。だが文科省の調査検討会議などの論議で、法人化は、教育、研究の体制にも及ぶ、大学改革の契機としてとらえられた。

法人化に対しては、『全国一律』の保護を失う地方国立大学などから強い反対があった。だが、社会の賛同を得るものとはならなかった。

国立大学には自己改革の意欲に乏しいところがあった。意思形成の過程も不明確で、多くの教員は狭い研究分野に閉じこもり、社会貢献意識も希薄だった。

法人化反対論に、地方自治体などの反応が鈍かったのは、そうした大学の状況に対する批判の表れとも言える。大学関係者はそのことを心せねばならない。

変化の兆しは既に見え始めている。学外から学長を招いたり、研究に地域貢献や産官学連携の視点を取り入れたりする試みが見られるようになった。

法人化された大学は、6年ごとに、運営、教育、研究などに関する中期目標や計画を文科省に提出し、その達成度に応じて予算配分を受ける。目標や計画策定のため、これまでなかった全学的な論議をしている大学もある。

こうした流れを大切にし、大学人の意識改革を進めて行かねばならない。

法人化の成否は、大学の業績を判定する評価制度にかかる。公正で客観的な評価方法の早急な策定が求められる。

各大学には、6年の評価期間を生かし短期的な成果のみを求めるのではなく、長期的な展望による改革を望みたい。

『大学の自治』は戦後長く、大学内だけの閉ざされた自治だった。それは既得権擁護の手段ともされた。競争と評価にさらされる今後は、結果に責任のとれる開かれた自治のありようが問われる。(平成15年3月1日読売新聞社説)


国立大法人化で問われる第三者評価(日本経済新聞)

「国立大学の法人化へ向けた『国立大学法人化法案』など、関連する6法案を文部科学省がまとめて28日閣議決定された。

今通常国会に提出して来年4月の法人化を目指す。国が直轄していた国立大学や大学共同利用機関は統廃合などで89の国立大学法人、4つの大学共同利用機構法人に再編される。

法案では学長権限を強めて民間的な経営手法を導入する一方、国が6年ごとに示す中期目標をもとに各大学が策定する中期計画を第三者機関が評価し、資源配分に反映させるなど、「象牙の塔」を脱した新たな国立大学像を打ち出している。

ただこれまでの国立大学特別会計に代わる国費の配分の仕組みをはじめ、各大学が独自に定める学生納付金や余剰金の扱いなど、制度の設計が国の規制下の現状から大きな改革につながるかどうか、定かではない部分も少なくない。既得権益の踏襲に陥らない、公正で説得力のある評価や運用の基準が求あられよう。

法案が打ち出した大きな改革はまず、学長権限の拡大などを通した大学の経営力の強化である。『教授会自治』の下でひ弱だった大学の意思決定力と運営基盤を強化するため、学長と学外者を含めた理事らで構成する役員会が重要事項の決定に当たる。

『経営協議会』の委員は過半数を学外に求めるなど、企業統治の手法を法人の経営に導入する。

産学連携の強化へ向けて、技術移転機関(TLO)などを対象に想定してこれまで国立大に認められなかった出資規定を法案に盛り込んだほか、『大学債』の発行を通して外部からの資金調達の道も開いた。

13万人余りにのぼる教職員の身分は『非公務員型」を採用し、学長権限の下で人事や給与システムも各大学の責任に任される。兼職などの規制も撤廃されるが、大学が基本的に国費で運営されることに変わりはない。各大学は教育研究の質の向上と効率的な経営に向けて、今以上の重い説明責任が求められていることを自覚する必要があろう。

国立大学の法人化問題は当初、各大学の強い抵抗があり、学長選考や中期目標の設定で各大学の特性や自主性に配慮するなど、通則法が適用される一般の独立行政法人とは異なる独自の法人の枠組みができた。

国立大の法人化が改革の成果をあげる大きな鍵の一つは、各大学の業績を総合評価して資源配分に反映させる第三者機関の役割である。新設される『国立大学法人評価委員会』に大学全体の競争を高める新たな評価の仕組みを求めたい。(平成15年3月2日日本経済新聞社説)


2013年9月1日日曜日

社会的責任を果たすためには

桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれた「大学経営人材に期待されるもの」(文部科学教育通信 No.32 2013.8.12)から、気になった部分を抜粋してご紹介します。



いよいよ役・教・職の協働が必要に

さて、以上の発表を含む今回のような研究会が開催されるゆえんは、大学のマネジメントが、ガバナンスのための制度枠組みだけではなく、これを担う人材、すなわち私が言う「大学経営人材」の質やその質の確保のための人材養成と深く関わり合いを持っているからである。大学は企業や官庁とは異なり、さまざまな専門分野の教育・研究に当たる教員を数多く抱える組織体である。また、大学は営利を目的とする企業や、法令に基づく事務を取り扱う官庁とは違って、学術研究とその応用を手段として社会に貢献することが使命であり、行動基準の多くは学問そのものから出てくるという点で、極めて複雑・多様である。大学を経営しようとする者は、この大学という組織の特性を良く理解した上でなければ、その任務を十分に果たすことができない。

とはいえ、大学は孤高の存在ではなく、社会によって支えられた一つの制度として動いているから、社会の他の成員の支持がなければ、その役割は果たせない。つまり、教育・研究・社会貢献という機能を活用することによって、社会に対して責任を持たなければならない。とりわけ、近年のように大学と社会との関係が緊密になっている中では、社会の他の部分とどのように協力をし、また折り合いをつけていくかということは非常に重要なポイントである。その意味で、民間的発想を大学経営に取り入れるとか、法令遵守を徹底するとかいうことも、それが大学の本質を壊さない限りにおいては、十二分に考慮しなければならないだろう。

現実はどうかと言えば、これまでのように大学を巡る環境が、政治的にも経済的にも安定的で、かつ学生数を十分に確保できていた時代においては、大学は経営するものではなく、管理・運営ができさえすればそれで良かった。したがって、学長とそれを支える事務局、そして教員の利益を代表する評議会や教授会の意見のそれぞれをうまく調整できれば、少なくとも外見上は十分に通用するものであった。教授会自治は大学運営にとって極めて深刻な障害である、と文句を言う学長もいたが、前例踏襲と漸進的改革で大学運営ができていた時代は、ある意味では大変幸せな時代であったであろう。1990年代に入り、大学を巡る環境は極めて流動的になり、かつ大学の諸活動に対する社会からの要求もエスカレートしてきている。これに対処するには、役員・教員・職員が協働関係を構築しつつ、力を合わせることが最善の策ではないだろうか。


クロスメディア・パブリッシング(インプレス)
発売日 : 2012-05-21