本来、学校とは「平等をつくるための装置」なのに、そこには組み込まれない活動を評価することは、国が「教育の平等」を放棄するようなもの。安倍晋三政権が進めようとしている大学入試改革は、貧困の連鎖を拡大させる改革でしかない。
貧困の最大の問題は「機会の略奪」である。
教育を受ける機会、仲間と学ぶ機会、友達と遊ぶ機会、知識を広げる機会、スポーツや余暇に関わる機会、家族の思い出をつくる機会、親と接する機会……といった「普通だったら経験できることができない」のが貧困である。
とりわけ幼少期の「機会奪略」はその後の人生の選択にも大きな影響を与える。私たちは幼少期にこういったさまざまな経験を積む中で、80年以上の人生を生き抜く「リソース」を獲得する。ところが低所得世帯の子供はそういった機会を経験できず、進学する機会、仕事に就く機会、結婚する機会などについて、「機会略奪のスパイラル」に入り込む。
その機会略奪のスパイラルを、唯一阻むことができるのが、本来、学校の役目だった。学校では親の社会経済的地位に関係なく、同じ教科書で同じ教育を受け、同じ制服を着て登校し、同じ食事を食べ、同じ行事に参加できる。それはまさに「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」というフレーズの、“多様な(家庭)の人々”との協働作業だ。
だが、その「平等をつくるための装置」も中学まででジ・エンド。高校になると間接的に親の社会的経済的地位でふるい分けられる。子供の学力と親の社会経済的地位は関係性が深いため、学校の学力レベル=親の社会経済的地位となってしまうのだ。
それでも何とかして大学に行きたいと思う子供は、主体的に勉強をし、高卒認定を受けるなどして、大学受験することができた。いじめなどで学校に行けなくなり「学ぶ機会」を略奪された子供も、主体的に勉強をし、高卒認定を受けるなどすれば大学受験できた。
大学受験というのは、ふるい分けを再び、リセットできる大きな機会だった。その機会を「子供たちの未来」を考える立場の人たちが、奪おうとしているとしか私には思えない。
家庭の経済格差が教育格差につながっていることは、さまざまな調査が明らかにしているが、これに拍車をかけるような制度を文科省が進めてどうするというのだ。
「身の丈に合った教育を受ければいい」と、マジで思っているのだろうか。
文科省はいい加減、大学教育の入り口対策に精を出すのをやめて、出口対策に邁進(まいしん)したほうがいい。
大学は「入りはよいよい、出口は怖い」のほうが、お国が求める「カネのある家庭の子供たち」も必死で、主体性を持って多様な人々と協働して学んでいくと思いますよ。
(出典)
大学入試改革「主体性等評価」の意味不明、平等はどこへ?|日経ビジネス