文部科学省が策定し、本年6月に公表した「
大学改革実行プラン」については、改めて詳細にご紹介する必要もないと思いますが、次の2つの大きな柱と8つの基本的な方向性から構成されています。
1 激しく変化する社会における大学の機能の再構築
- 大学教育の質的転換、大学入試改革
- グローバル化に対応した人材育成
- 地域再生の核となる大学づくり(COC (Center of Community)構想の推進)
- 研究力強化(世界的な研究成果とイノベーションの創出)
2 大学のガバナンスの充実・強化
- 国立大学改革
- 大学改革を促すシステム・基盤整備
- 財政基盤の確立とメリハリある資金配分の実施【私学助成の改善・充実~私立大学の質の促進・向上を目指して~】
- 大学の質保証の徹底推進【私立大学の質保証の徹底推進と確立(教学・経営の両面から)】
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このうち、「国立大学改革」では、全国に86ある国立大学法人の全ての大学・学部の使命・役割を再定義し改革策を打ち出すほか、大学や学部の枠を超えた再編成も促すことになっています。
また、一つの国立大学法人が複数の大学を運営したり、国公私立大学が共同で教養教育を行う組織を設置したりすることが可能となる制度を整備することも掲げられています。
国立大学の再編については、ご存じの方も多いと思いますが、今回のプランで初めて言及されたのではなく、2004(平成16)年度の法人化の際にも検討が行われています。
また、実際に法人化前に100校以上あった国立大学は、同一県内にある国立大学と国立医科大学などの統合等により、現在では86校(大学院大学を含む)になっています。
このたびのプランの具体的実行過程において、どのようなことが起きるのか予想だにできませんが、法人化への移行を経験された方の中には、疑心暗鬼の目で見ている方も少なくないのではないでしょうか。
今後の動向を注視していかなければなりませんね。
参考までに、法人化直前に文部科学省により取りまとめられた、いわゆる「遠山プラン」に関する記事(出典:文部科学教育通信「国立大学法人法コンメンタール(歴史編)」)と、「遠山プラン」に関する天野郁夫さんの論考を抜粋してご紹介します。
よく読むと、当時と今回の状況に類似点があることに気が付きます。国立大学の再編統合は繰り返されるのでしょうか・・・。
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大学(国立大学)の構造改革の方針(遠山プラン)
経済財政諮問会議における遠山大臣の説明
本日は骨太の方針のとりまとめに当たりまして、発言の機会を与えていただきまして、感謝を申し上げます。この会議が我が国の経済情勢が非常に厳しい中にあって、構造改革を行いながら、人材育成と科学技術振興への投資を重視されている点を高く評価したいと思います。この方針に沿って、来年度予算から重点配分が実現することが肝要と考えております。そうした投資が経済再生を始め、我が国の発展に真に結び付きますためには、投資対象となるべき大学は創造的人材育成と、研究開発の役割をしっかり果たすべきでありまして、この観点から痛みを恐れず、過去の経験にとらわれず、新しい発想で構造改革を断行することが重要であり、また、それが私の責務と考えております。今日はその大学の構造改革の方針について御説明をいたしたく存じます。
(中略)大学の構造改革は、活力に富み、国際競争力のある国公私立大学の一環として行うことが必要でありまして、第一に、国立大学活性化と基盤強化のために、再編・統合を大胆にやることとしたいと思います。まず来年度に一つでも二つでも実現させてまいりたい。これは国立大学史上初の減となるわけでありまして、言わば来年度を国立大学にとっての歴史の転換点とし、個性と実力を持つ大学に集約してまいりたいと考えます。第二に国立大学は、独立行政法人そのものとは違う民間的な経営手法を取り入れた新しい法人にしたいと考えます。そのポイントは機動性、戦略性、能力主義にあります。また、今の公務員とは違う民間的経営形態を考えております。先行しております独立行政法人そのものよりも、ずっとよいものと申しますか、大学の社会的任務と合致したよいものにしたいと考えております。第三に、徹底した第三者評価で競争させることによってメリハリを付けてまいりたい。その結果、努力しない大学は競争で淘汰されるようにして、逆によい大学は国公私を問わず、世界のトップクラスに育ててまいりたいと考えております。(中略)以上、大学の構造改革のための方針と、私の方からの決意を簡単に御説明いたしましたが、全体を一言で言えば、要は世界で勝てる大学というのをつくっていきたいということであります。それによって、これなら大学に重点投資してもよいだろうと皆さんに安心していただけるように、私の責任で確実に実行してまいりたいと考えております。
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国立大学長会議における遠山大臣の説明
既に報道されておりますが、過日3日の経済財政諮問会議において私が発表した資料を用いながら、ご説明申し上げます。その第一点は、『国立大学の再編・統合を大胆に進める』という方針です。戦後、わが国の国立大学は、旧制の大学に専門学校等を含め、新制大学69校で発足いたしました。その後、経済成長に伴う人材養成の必要性や国民の進学意欲の高まりなどを背景に、一貫して拡充整備が進み、今日の99校に至っております。しかし、現下の厳しい経済、財政状況や、法人化の流れも考慮しつつ、将来への更なる発展を目指して各大学の運営基盤を強化するためには、大胆かつ柔軟な発想に立って、大学間の再編、統合等を進めることが不可欠であると考えております。すでに、山梨大学と山梨医科大学、筑波大学と図書館情報大学などを始めとして、一部の大学間では、学長のご見識とリーダーシップの下に、新しい大学づくりのための積極的かつ具体的な検討が進められており、心から敬意を表したいと思います。学長の皆様から、将来の大学像を念頭に、それぞれ特色としっかりした内実を持った、真に国民の期待に応えられる国立大学を目指して、積極的に、再編、統合等の大胆な計画をお聞かせいただきたいのでございます。皆様のご意見を伺いながら、最終的には当省の責任において具体的な計画を策定したいと思っております。
第二点は、『国立大学に民間的発想の経営手法を導入する』という方針です。国立大学の運営の在り方については、一昨年の学校教育法等の改正を踏まえ、各大学で新しい運営方法を意欲的に取りいれていただいていますが、法人化に際しては、そのメリットを最大限に生かせるよう、いわば民間的発想の経営手法を積極的に導入し、民営化しろという議論もある中で、むしろ大胆に民間型の手法を取り入れることが必要になると私は考えております。幸い、この点については、国立大学協会でも真剣な検討が行われ、先に、国立大学協会内の特別委員会から報告がまとめられております。また、当省に置かれた調査検討会議においても、具体的な検討が進んでおり、この秋にも中間まとめが予定されていますが、私としては、これらの検討状況を踏まえつつ、国立大学が社会の期待に応えて、より活性化することを願っている者でございます。
第三点は、『大学に第三者評価による競争原理を導入する』という方針です。私は、大学の教育研究の世界に、いわゆる市場原理をそのまま適用するのは必ずしも適当ではないと考えていますが、他方、第三者による評価システムを通じて、より競争的な環境を整えることは、大学の教育研究の活性化や水準の向上にとって、極めて重要なことと思います。この点、国立大学については、大学評価鱈学位授与機構等による第三者評価の本格的な導入が予定されているところですが、皆様のご協力によりしっかりした評価システムを構築し、各大学の個性や特色に留意しつつ、国公私立、各種学問分野を通じ、世界をリードするトップクラスの大学の育成に力点をおいていくことが、今、当省に求められている最大の責務の一つであると考えております。
以上、本来ならば、まず学長の皆様にお示しした上で、と思っていたのですが、経済財政諮問会議において、大変なスピードで、いわゆる『骨太の方針』が固まりつつある状況を踏まえ、我が省の責任において、大学の構造改革の方針を明らかにしたものでございます。この大きな決意の背後には、国立大学のあり方に対し、厳しい目が注がれていることを想起していただきたいと思います。いろいろなご意見もあろうかと存じますが、要は、『これなら大学に重点投資をしても良いだろう』との世上の期待と支援をとりつけて、もっと『世界を相手に勝てる大学』『国民から信頼される大学』になってほしいのであります。学長の皆様方におかれても、国立大学の更なる飛躍のために、ご理解とご協力を賜りますようお願いいたします。
大学(国立大学)の構造改革の方針(平成13年6月文部科学省)
-活力に富み国際競争力のある国公私立大学づくりの一環として-
1 国立大学の再編・統合を大胆に進める。
○各大学や分野ごとの状況を踏まえ再編・統合
・教員養成系など→規模の縮小・再編(地方移管等も検討)
・単科大(医科大など)→他大学との統合等(同上)
・県域を超えた大学・学部間の再編・統合など
○国立大学の数の大幅な削減を目指す
→スクラップ・アンド・ビルドで活性化
2 国立大学に民間的発想の経営手法を導入する。
○大学役員や経営組織に外部の専門家を登用
○経営責任の明確化により機動的・戦略的に大学を運営
○能力主義・業績主義に立った新しい人事システムを導入
・附属学校、ビジネススクール等から対象を検討
→新しい「国立大学法人」に早期移行
3 大学に第三者評価による競争原理を導入する。
○専門家・民間人が参画する第三者評価システムを導入
・「大学評価・学位授与機構」等を活用
○評価結果を学生・企業・助成団体など国民、社会に全面公開
○評価結果に応じて資金を重点配分
○国公私を通じた競争的資金を拡充
→国公私「トップ30」を世界最高水準に育成 |
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国立大学の構造改革(天野 郁夫)
国立大学が抱える問題について考えるには、平成13年6月に出された「遠山プラン」がいま一番重要な切り口になると思います。それを手掛かりに国立大学が抱えている問題をお話しします。
遠山プランと呼ばれる、「大学(国立大学)の構造改革の方針」は、大きく3つのキャッチコピーでできています。経済財政諮問会議の席上で、遠山大臣が説明したことからこの名がつきました。中身を見ると、非常に大胆な案が唐突に出てきたという印象があります。積年の懸案事項に大胆に切り込み、決着をつけようとしている感じです。いまなぜこういう構造改革が必要なのかについて十分議論が尽くされた結果として出てきたものではないということが、唐突だと思う点です。小泉行財政改革の一環として、いわば外圧でできた感が否めません。
それまでの文部科学省の国立大学に関する最大の改革課題は、独立行政法人化でした。ところが 2001年6月中旬に開催された国立大学協会の総会の冒頭で、その前の週に経済財政諮問会議で発表された遠山プランが登場したのです。
それまで、1年かけて独立行政法人化論を議論してきた国立大学協会側は、思いがけないかたちで改革の圧力が加速され、浮き足立った状態になりました。これは後に週刊誌等にいろいろ書かれることになりますが、確かに国立大学側が仰天したのも当然だったと思います。それは、この構造改革プランがどのように具体化されるかによって、単に国立大学が変わるというだけではなく、高等教育全体が大きく変わる可能性を持っているからです。
国立大学の類型
構造改革の方針では、「国立大学の再編・統合」の部分がもっとも具体的に書かれています。
各大学や学問分野ごとの状況を踏まえ、①教員養成系などは規模の縮小・再編、地方移管等も検討する。②単科大学(医科大など)もほかの大学との統合、地方移管も考える。③大学・学部の県域を超えた再編・統合を検討するとあります。また国立大学の数の大幅削減を目指すということも書かれています。
そこで、現状について簡単に説明しておきます。現在国立大学に99校ありますが、それをいくつかのグループに分けます。この区分は私が使っているものです。
1番目として「基幹・研究・重点大学」が13校あります。旧制の7校の帝国大学と3校の単科大学(一橋、東工大、東京医科歯科)、3校の旧官大(筑波、神戸、広島)です。
2番目のグループは、「地域拠点・地方国立・総合複合大学」で、全部で37校あります。6校の旧官医大(千葉、新潟、金沢、岡山、長崎、熊本)も含まれます。ほかに新官大と呼ばれている1県1大学原則でつくられた大学があります。戦後できた医科大学、昭和24年の新学制の発足までに医科大学になった大学、医学部を持たない大学があります。
3番目に「特殊単科大学」が24校あります。8全国単科(お茶の水女、奈良女、東京外語、大阪外語、東京芸術、東京商船、電気通信)と呼んでおきますが、女子教育、外国語教育、芸術、商船というように、ほかの大学とは異なった特殊なジャンルを持った大学が8校あります。また教育系の教員養成単科大学が8校あります。
4番目が「新構想単科大学」で、25校あります。昭和40年代以降に新設された12校の医科大学と、鳴門、兵庫、上越にある教員養成系の新構想大学が3校、高専の卒業生が入学できる浜松と長岡の技術科学大学があります。そのほかに4校の大学院大学(北陸先端、奈良先端、総合研究大学院、政策研究大学院)もあります。また、今度沖縄につくることになっている大学院もこのカテゴリーに入ります。
99校が以上のような構成になっていて、単科大学と総合大学や複合大学の比率はほぼフィフティ・フィフティになっています。一番多いのは、地域拠点大学と呼んだ、いわゆる地方国立大学です。第2次大戦後に1県1大学を原則につくられた大学で、新制大学発足時に、各県に1校、総合大学ないし複合大学を置こうという構想をもとに開学した大学です。そこには必ず教員養成学部ないし教養学部(文理学部)に相当する学部を置き、農学部、商学部、工学部などの産業関連の学部は地域の産業構造に応じて置く、医学部は地域の医療との関係で可能な限り置くという考え方がありました。つまり大学は、地域の文教の中心、核になることを目指していたのです。
昭和24年に一斉に新制大学が発足します。当時、国立の高等教育機関は全部で276校ありましたが、それを70校に統合したのです。特殊単科大学のグループに入っている大学は、この統合のときにどこにも入らなかったところです。
この再編・統合のなかで、7つの旧制帝国大学は「国立総合大学」と当時呼ばれていました。それ以外の各県に1校ある大学は「国立複合大学」と呼ばれていたのですが、「地方国立大学」と呼ばれてもいたこの大学をだんだん整備充実して地域拠点大学にしようというのが、文部省の方針でした。そして、大学が総合大学化するための、学部の新増設を50年近くかかって推進してきたわけです。
この新増設の重要な核になったのは文理学部でした。もとの旧制高等学校は統合された大学で文理学部になりました。改革、新増設のためにその文理学部の多くが人文学部と理学部になっています。
基幹・研究・重点大学はほかの大学と違って講座制で、そのほかの大学は学科目制です。講座制では、博士課程の大学院が設置でき、付置研究所も集約的につくるという政策がありました。
広島文理科大学、神戸商業大学、東京文理大学を引き継いだ東京教育大学(後の筑波大学)は、地域拠点大学から次第に格上げされ、広島大学、神戸大学、筑波大学となります。広島は第8帝国大学をつくろうという要求が古くからあり、国立総合大学に近いものにしていこうという政策的な意図から次第に整備されていったと思います。
新構想の単科大学は1970年代に入ってから、四六答申の後に次々につくられるようになりました。72年から81年の10年間に21校の国立大学がつくられていますが、そのうち、筑波を除いてすべて単科大学でした。既存の国立大学ではできないことをやるために、新しいタイプの単科大学をつくるという政策的な意図がはっきりとしていました。
国立大学政策の大転換
遠山プランに示された今回の国立大学の再編・統合は、戦後一貫して取られてきた、①基幹大学を研究大学として育成していくこと、②地方国立大学は総合化して、地域の拠点大学にしていくこと、③単科大学のなかで新構想のものはそれぞれ特色を持たせた大学として育てていくことという発想からすると、非常に大きな政策転換だと思われます。
特に地域拠点大学にとっては一大転換です。たとえば単科でつくった医科大学を地域の拠点大学、つまり地方国立大学の一部に統合しようという考え方が強く出されています。山梨大学と山梨医科大学の統合が一番早く決まりましたが、あちこちで似たような医科大学との統合構想が進んでいます。地域拠点大学を総合大学化していくという動きからすれば、戦後改革の総仕上げ的な側面を持っていると言ってもいいでしょう。
もうひとつ進んでいるのが、特殊単科大学の総合大学への統合で、たとえば神戸商船大学と神戸大学が一緒になるという話が決定しています。そのほかに図書館情報大学と筑波大学との統合もあります。特殊な性格を持った単科大学を総合大学のなかに加えていくという改革、再編も始まろうとしているわけです。しかし、別の見方をすると、これらは新構想大学の後始末とも見えます。そもそも新構想でできたときの理念は統合によってどうなるのか、また統合の理念は何かということについて、統廃合の過程でどう扱っていくのか、明確になっていないという問題を抱えているわけです。
教員養成学部は本当に不要か
さらに重要な問題として、いま嵐の目になっているのは、教員養成学部の統廃合です。これまで教員養成学部は、1県1大学原則のコアになってきました。戦後、新しい学校制度が始まったとき、一時的に教員の需要が増えたことから、1952年(昭和27年)当時の国立大学学生の約半数が教員養成学部の学生でした。1967年になっても、依然として4分の1は教員養成学部の学生でした。ところがその教員養成学部が、いまや必ず置くという原則どころではなく、不要であるという議論の真っただ中に立たされています。
すでに、教員養成学部は教員養成課程と新課程(総合課程)が併存しているところがほとんどです。なかには教員養成課程の定員が100人を切っているところも出てきています。医学部の入学定員が90名前後ですから、教員養成学部も医学部並みになっているということです。また、実際に卒業しても、約3分の1程度しか教員になれないために、もう教員養成学部はいらないという話が出ています。
しかし、この問題は複雑な性格を持っています。教員は医師と同様に、ローカルな専門職で仕事の場は地域のなかにある場合がほとんどです。また大学は決して新卒教員の養成だけをしているわけではなく、その地域の現職教員の研修等も担当しています。様々な学校等の相談にのったり、昨今の教育問題に関する研究もしているわけです。また、教員養成学部はいろいろな教科の先生たちを含んでいるので、一種の総合学部にもなっています。このように地域と密接にかかわっている教員養成学部が本当に不要なのかについては、十分な議論が必要であると考えます。卒業者が教員になれないのだから、統廃合して、学部をなくしてもいいという単純な話ではありません。今回の提案では、このような議論がないままに統廃合案が出てきているという点を、危惧しているわけです。
移管・統廃合の理念とは
地方移管論も複雑な問題で、地方の行財政システムと切り離せない関係にあります。コストのかかる国立大学を、府県に委譲することがいまの財政の状況で果たして可能なのかどうか。公立大学自身の経営が難しくなっている状況を考えると、国立大学を地方に押し付けるというようなことが現実にできるのだろうか。また、大学の管理運営の能力を、それぞれの県が持っているだろうかという問題もあります。
これまでの国立と公立の関係は、財政負担に耐えかねて、国に引き取ってもらう、つまり地方自治体が持っている大学を国に移管するというまったく逆の方向できていたわけですから、ここでも大転換が起ころうとしています。
県域を超えた統合再編についてはその必要性がよくわからない面があります。道州制が導入されるならば、それに応じた対応という意味で理解できますが、日本の地方行財政は教育を含めて、すべて県域をベースにしているので、それを超えた統合再編にはそれなりの理念が必要です。しかし、それはほとんど語られていません。
もともと独立行政法人化の議論が出てきたとき、一部の国立大学の間には複数の大学が連合して独法化するという構想もあるのではないかという話がありました。ところが当時の文部次官は、文部省は1大学1法人以外は認めないとはっきり言明し、合同で法人化することはないと言ったわけです。しかし、いまになって県域を超えた統廃合、再編はありだ、永劫不変に1県1大学ということはあり得ませんと高等教育長が言明するということになりました。
いったい何のために再編統合するのか。行財政改革の一環なのか。教育研究の活性化のためなのか。それとも大学運営の合理化のためなのか。ここで、はっきりさせる必要があるだろうと思います。下手をすると、99校は多すぎるという議論だけが横行し、たとえば60校にするという単なる数合わせになったりする恐れもあります。あるいは、統廃合すれば、人員や予算のカットの話が当然出てくるでしょう。しかしコストの問題だけで統廃合するというのは非常に問題があると思っています。
国立大学法人化の課題
構造改革の方針の2番目の柱は、「民間的発想の経営手法を導入」することです。実は戦前から、国立大学を法人化すべきだという長い議論がありました。大学という教育研究の場が強い自主性を持っていることが、その背景にあります。大学には学問の自由や大学自治が重要で、その時々の政府、あるいは議会の言い分に従って予算の変更等が行われたりしては問題であるという考え方です。
1971年の中教審のいわゆる「四六答申」で、文部省は国立大学の法人化の検討の必要性に初めて言及しました。その後、1986年の臨教審答申のなかでも法人化の問題を検討すべきだと言っています。
しかし、今回進んでいる独立行政法人化論は、いままでの流れとは全く違うものです。まず独立行政法人をつくろうという話があり、法人化によって効率的な運営を目指そうとしています。実は最初の最大のターゲットは、ご承知のように郵政の3事業で、これを独法化する案が出されました。
独法化問題は国家公務員の定員問題とも絡んでおり、当初10%だった国家公務員の定員削減が20%になり、橋本内閣のときには25%にまで達しました。これを実現するためには、これまた数合わせですが、現業部門を独立行政法人化すれば、国家公務員の大幅カットになるというわけです。しかし、3事業の法人化が見送られることになり、次に約13万5000人ほど教職員がいる国立大学がターゲットになったといういきさつがあります。したがって、明らかに行財政改革の一環として出てきた国立大学の法人化であり、大学のあり方を考えるときのひとつの選択肢としての独法化ではありません。
しかし、どうやら独法化の方向は避けられないといことで、文部省は1年以上前から大学人を中心に民間の有識者も入った大がかりな検討会議をつくりました。これに対応するかたちで国立大学協会側も検討委員会をつくり、お互いに独法化の検討をすることになりました。
この検討会議での議論や中間報告案を見ると、独立行政法人には、「通則法」という固い枠があり、それと大学の独自性とのすり合わせに大きなエネルギーを割くことになっているようです。結局、出てきた国立大学法人案というのは、独立行政法人の「通則法」と重なり合っていますが、必ずしも同じではなく、国立大学の独自性に配慮した案になっています。しかし読んでみると、中途半端な印象が否めません。人事、財務、管理運営、目標評価という4部会をつくって検討を進めてきましたが、どの部分についてもまだ十分詰められていないという感じがします。いくら読んでも具体的に、国立大学がどうなるのかというイメージを結ばないのです。
特に管理運営システム、財務に関していえば、たとえば私立大学はまさに学校法人がつくっている大学ですが、日本の法人化した大学はどうなっているかについて、討議の過程ではほとんど参考にされていません。
法人化した場合に一番重要な問題は、経営と教学の関係をどうするかだと思いますが、国立大学法人案では、それが曖昧なかたちになっている印象を受けました。
重要な組織としての役員会が置かれ、学長や副学長等から構成される。そこに外部者を入れるとなっています。では、外部者とはだれか。具体的な人数、選任手続き、常勤・非常勤の別、担うべき役割についての議論がほとんどなされないまま案はつくられ、わかりにくいものになっています。
しかし、この役員会は、私立大学にある理事会とは違います。日本の私立大学を例にとると、慶応や早稲田のような伝統的な大学は、まず教職員の選挙で学長を選び、その学長が理事長になっています。ですから、経営と教学が実は一体化してしまっているわけです。理事には、部局長がなる場合もありますし、教員出身者がマジョリティを占めている場合が多く、大学組織のなかにいる人たちが理事会を事実上構成しています。教学の関係者が経営もやっているというかたちです。
実は日本の企業もたいへんよく似ていて、取締役会には、外部重役、外部取締役はほとんどおりません。最近になって、外部から取締役を入れるべきだという話が出てくるわけですから、逆にいえば、いままでなかったということです。
財政面での一番大きな問題は予算です。どのような仕組みで資金を得るかが課題で、外部資金を大幅に導入しろという話が再三出ています。しかし、いまどき、大学に対して研究資金は出しても、教育のために寄付をする人はほとんどいないのではないでしょうか。そうすると、国立大学は、もっとも重要な教育活動に関する限り私学のように授業料収入でまかなうか、あるいはやはり国から助成を受けなければ成り立たないということになります。
改革案では、当面は国立大学に対する予算は基本的に国が責任を持つことになっています。自己収入分を除いた、総支出と自己努力で獲得した収入との差額分は国が運営費交付金というかたちでまかないます。外部資金をたくさん稼いだところは、それに応じて運営費交付金を減らすということでは、稼ぐ努力は無駄になってしまうので、各大学への配分の算定方式を決めるのが難しい問題となっています。
ほかの国を見ると、だいたいはフォーミュラ方式といって、たとえば教員数や学生数に応じて配る場合と、前年度の実績をベースにして1%増しとか2%増しというかたちで配る場合とがあります。残念ながら、今回の報告では運営費交付金を配る方式については全く書かれていません。
特に重要なのが、評価に基づいて運営費交付金の額を決める点ですが、どの部分をどれだけ競争的に配分するかについては全く触れていません。評価は「国立大学評価委員会」が別にでき、そこがかなり大きな役割を果たすという話になっています。しかし、この国立大学評価委員会なるものの構成、何をするかについても、曖昧です。本当に機動的、戦略的な大学運営が可能な設計になっているのかどうかわかりません。
国立大学には国立学校特別会計の制度があり、付属病院や研究所を除いた部分でいうと、現在、予算規模が約1兆6000億円あります。この内訳を見ると、人件費が1兆1000億円です。教育研究経費という名目になっているものが約3600億円ありますが、そのなかで教育研究基盤経費が1900億円ぐらいあり、これが運営費交付金の大部分を占めています。人件費が圧倒的に大きな部分を占めているわけですから、人件費にも運営費交付金の競争的配分がかかってくるのか、かかってこないのかを含め、まだわからないことがたくさんあります。
トップ30-競争と評価で活性化
次は「トップ30」の問題です。実はこれはそれほど新しい話ではありません。これまでもトップ30に類する、特定の大学に重点的にお金を配るという政策は、隠されたかたちで行われてきたように思われます。表面上は平等主義、画一主義で、実質的にはめりはりを付けていたやり方をやめ、文部科学省はもう護送船団方式でも平等主義でもないと言明したかたちです。
配分の過程には競争原理を導入することになりました。これまで文部科学省が所管しているお金のなかで、唯一競争的配分だったのは、個人ベースで審査される科学研究費だけでした。
ところが、トップ30を選ぶことで、個人ベースではなく、組織ベースでの競争的資金配分を進めようという考え方が、表面に強く出ています。これは国立だけでなく、公立、私立にも適用しようとしています。予算要求額は420億円で、学問分野を10に分け、人文系が1つ、社会科学系が1つ、残りはすべて理工系です。それぞれの分野のなかでトップ30ですから、30ユニットを取り出して、そこに毎年1億円から5億円の範囲内、平均で2億1000万円を5年間配るという話になっています。その結果を見て再び審査して、次回はまた違うところの配るというのが基本的な構想です。
これは補助金が欲しい大学が応募して、新たに設けられる評価委員会で客観的な基準で評価され、お金がもらえるかどうかが決まります。その評価基準のなかには、たとえば教員のなかで学位取得者が何名いるか、国際会議にどのぐらい出席しているか、国際的な学術の賞をもらった人が何人いるかなど、すでに細かい基準が示されていて、それに基づいてお金が配られることになります。
差異化の時代が到来し、資金と評価が非常に多元的な状況になってきました。
適正な評価と配分ができるのか
以上のような動きを見てきて感じていることをお話します。
ひとつは評価に関することで、公平性の問題です。日本では評価の経験が、大学についてはほとんど蓄積がありません。いま評価基準や評価尺度をどうするかという議論が始まっています。
評価者の権威に頼る方法ではボス支配になる可能性があります。しかも、似たような評価委員会ができ、特定の人があちこちの評価委員会に顔を出すようでは、ボス支配は強化されてしまうわけで、難しいところです。
負担の過重化はもっと深刻な問題で、評価ができる、だれが見ても権威と認める人が大勢いるわけではありません。同じ人がいろいろな評価に引き出され続ければ、研究が栄えるどころか自身の研究ができなくなるかもしれません。
ところが、いまや日本社会では“評価”は一種のおまじない言葉になっていて、評価をしてお金を配ると言えば、だれもが納得せざるを得ないような状況があります。評価に対する過大な期待が存在し、現に評価機構はその過大な期待にさらされているわけです。慎重にやらなければいけないと思っています。
ふたつ目は配分の問題です。放っておくと、特定大学や特定の研究者に集中する危険度が極めて高いと思います。多元化すればするほど、そういう状況が生まれます。一種のウィナー・テーク・オール状態、つまり一人勝ち状態が生じます。同時に配分方法によっては、評価に基づくと言いながら、たくさんもらったところはそれだけ優位に立つわけですから、次回も、もらわなかったところよりは優位に立つという配分先の序列の固定化が起こる恐れがあります。
もうひとつ心配なのは無駄遣いです。配分されるのは研究費が重要な部分を占めていますが、資金の投入と研究のアウトプットが常に正比例すれば問題はありませんが、そういうわけにはいかないし、必ずどこかで研究の生産性のほうが飽和すると思われます。このことはアメリカでもスプートニクショック後の 60 年代に問題になりました。
特定の大学、特定の研究者がいろいろなところにアプライし、資金が特定の研究者のところに集中的に流れてくる。流れてきても、日本の場合に難しいのはフローとしてきたお金をストックに変える方法があまりないことです。新しい人を雇ったり、新しい建物を造ったりすることは、いまのところほとんど不可能で、研究費だけがフローとして積み重なり、結局それを無駄に使ってしまうという危険性がかなりあります。
教育の空洞化への懸念
人間はみな24時間しか時間を持っていないのですが、日本の教員はこの24時間のなかで、教育・研究・管理運営・サービス、このごろはサービスのなかに評価まで入ってきましたが、この4つの役割をこなしていかなければなりません。それを見事にこなすのが英雄的教授、研究者であり、こういう人が高く評価されるわけです。
どこかが増えればどこかが減ることになりますが、しわ寄せはどこにいくのでしょうか。いまは研究のためのお金がくるわけですから、しわ寄せはどうしても教育あるいはサービスにいくことになる。1番しわ寄せがいくのは学部教育になるでしょう。国立大学のなかには研究院をつくって、教員は全員が研究院に所属し、そこから学部や大学院にいくことになっていますが、先生たちから見れば、自分と一緒に共同研究する博士課程や修士課程の学生は大事だけれど、学部の学生は邪魔だということになる可能性があるわけです。
一方、院生は研究費が増えれば増えるほど、いまの状態で研究補助者として酷使されることになるでしょう。補助者の多いところほど研究成果が高いという研究もあり、逆に言えば補助者がいなければ研究ができなくなってしまうわけです。補助者をたくさん雇えて、1、2年の期限付き採用ができるアメリカのようなシステムになっていればいいのですが、日本はそうではないために、院生を研究補助者として酷使することになります。すると教育の空洞化は大学院でも起こるということになりかねません。
そのような事態を回避するためには、単にお金をだすだけでなく、日本の大学の教育・研究組織全体をアメリカ的なものに転換するしかないのかもしれません。たとえば研究費を1億もらってきた人はそのうち1000万を自分の給料に払って、教育も管理運営も一切やらず、研究に専念できるというのがアメリカのシステムです。同時に、管理運営もだれかに任せ、教育や研究だけに専念する、研究費の取れない人は教育だけをするような仕組みに移行しない限りは、24時間の枠を破ることはできないわけです。そこまで踏み切るつもりで取り組まなければ、お金を出すだけで、国立大学の教育・研究の活性化は実現しないのではないかと考えています。
有限な資源の再配分には熟慮せよ
日本の高等教育の全体をひとつのシステムと考えると、国立大学は百数十年かかってつくりあげてきた人的、物的、あるいは知的な資源のストックであると言えます。それは無限ではなく有限なのですが、いまや全体の流れが、資源のストックは増やさずに、枠のなかで対応せよということになっていることに危惧しています。そして、そこに資源の再配分を目指す政策が登場してきました。
たとえば再編・統合というのは資源の地域的な再配分です。また、トップ30も資源の再配分で、どこかにものや人がいくというかたちになります。そのためには、どうしても大学の管理運営自体をもっとフレキシブルにしておかなければならないので、法人化は避けられない問題になってきているわけです。
結局、限られた資源を再配分するということは、いま持っている人から取り上げて、さらに持っている人のところに移すということです。私立大学の補助金の問題も3000億のうち300億をもっと重点的に配分しましょうという。トップ30も、予算総枠はあまり増えないなかで、傾斜的、重点的配分を増やしていけば、資源の再配分を引き起こすわけで、結局、不平等化や格差構造の強化をもたらすことになります。
それがいいことだという理解ももちろんあります。競争させることによって、教育・研究の活性化が進むという判断もあります。しかし、あまり極端にやって、しかも配分構造が固定化してしまうと、マジョリティを占めている大学の活性化が失われる可能性を常にはらむことになります。
いずれにしても、いま進もうとしているのは、百何十年に1度という大改革です。国民的資産としての大学をどう活用するかという話が基本にあって、そういう視点からこの一連の改革を推し進めていかなければなりません。数を減らしたり、トップ30をつくるだけが自己目的化してしまったのでは、人的、物的、知的なストックを効果的に活用することにはつながらないのではないでしょうか。
何のための構造改革なのか、理念と目標をはっきりする必要がある。そのためには時間が必要だし、英知が必要で、思い付きだけで、いろいろなことをしてもらっては困るのです。国立大学の関係者として、そういう思いを非常に強く持っていることを申し上げておきたいと思います。(「21世紀フォーラム」No.81(2002年1月刊)所収)