2013年7月31日水曜日

大切な日本の精神

NHK解説委員室ブログから、羽衣国際大学准教授のにしゃんたさんが書かれたおかげさまで」(2013年7月22日)をご紹介します。


はじめまして、にしゃんた、と申します。今日皆さんの前でお話する御縁を頂いたことに心より厚く御礼を申し上げます。

私はスリランカ出身です。生まれたのは、国の真ん中らへんにある、キャンディーという街。実は、街そのものが世界遺産でもあります。

ここには、お釈迦さんの歯を祀る「仏歯寺」というお寺があったり、毎年8月には、何百頭という象さんが、綺麗なおべべを着て、優雅に道を練り歩くペラヘラ祭なんかも有名です。

私たち小さい時は、牛さんが引っ張る、牛車に乗って学校通ってました。学校行く時は、道端で沢山の象さんに会いまして、象を数えるのが日課でした。子どもの間には奇数の象さんに会うと良いことが起きて、偶数に会うと悪いことが起きる。そんなジンクスがありました。ですから学校で先生に怒られた時なんかは自分が悪いんじゃなくて象さんの数のせいだと思っていました。

そんな私が日本を最初に知るきっかけになったのは、小学校の教科書。「日本からの手紙」という一章がありました。内容は、お父さんに付いて日本にやって来たスリランカ人のお嬢さんが、国の友達宛てに、日本の様子を書いた手紙です。そこには日本人は、お箸でご飯を食べるんだとか、日本人はみんな忙しそうに生活しているんだとか、書いてあるような面白い文章でした。次、中学生になると、ちょうどスリランカにテレビが流行る時でして、丁度そこに「おしん」が放送されました。おしんは、人気でした。なんでかというと、おしんの中で映る日本と当時のスリランカが似てました。物はないのだけれども、笑顔絶やさず、一生懸命に前向きに生きている姿が「同じだね」と親近感をもって日本を見てました。

しばらくすると、また新しい日本の象徴がスリランカにやって来ました。それは、日本の中古車。スリランカ人は最初戸惑いました。というのも、「おしん」の映像には車のくの字も出てこない。とても同じ国とは思えない。でもどうやら同じだと解った瞬間、スリランカでは、日本人気が爆発しました。「あの貧しい日本が車を作れるようになった。私たちも頑張れば日本のようになれる」と。私にとってその機会がまさに、親近感を覚えていた日本が、夢を与えてくれる国に変った瞬間でした。

その後、ボーイスカウトのスリランカ代表として日本を訪れる機会に恵まれ、日本への思いがいっそう強くなりました。

そんな憧れの国、日本に留学したいと言ったら、親父が家を担保に入れてお金を作ってくれました。お金を握りしめて片道切符で日本に来たのは、1988年、私が18歳の時です。スリランカから持ってきたお金は、向こうでは大金でも日本のお金に替えたら7万円にしかなりませんでした。日本語学校の最初の月謝にも足りない。そこで最初に寝泊りをさせてくれた滋賀県大津市坂本の青木さんが、足りない2万円を貸してくれて、学校までの定期代も払ってくれました。

日本に着いてすぐに冬を迎えます。私は常夏のスリランカで生まれ育ったので、日本にはセーターなんかもちろん持って来てないんです。薄着で寒そうな格好の私を見た周りの日本人たちが、風邪をひかせまいと、セーターをかき集めに奔走してくれた。そしてあくる日には4畳半の自分の部屋の半分がセーターの山になってました。セーターは暖かく、風邪一つひくこともなく、冬を乗り越えることができました。

日本語学校の先生は、授業終わった後も時間を惜しまず教えてくれて、日本に来て1年で日本語能力試験一級にも合格出来ました。日本語学校での2年間は、温泉街で布団の上げ下ろしと、お風呂掃除のアルバイト。大学に進んでからは、住み込みで、朝夕の新聞配達と折り込み作業しました。歯医者の小森先生は虫歯を、接骨院の井上先生も怪我を出世払いで直してくれました。

その後、大学院に進んで、経済学の博士号をもらいました。日本で学んだことを、最初は国へもって帰ろうと思っていましたが、そのまま日本に残り、今は日本の次の世代に教えています。来日20年で日本の国籍も頂きました。その後に、福井出身の千恵さんが結婚してくれて、2人の可愛い子供も産んでくれました。

スリランカから日本に来た私は今、小さい時から恋い焦がれていたこの国の国民になっています。26年間住んでも1日たりとも、この国に飽きたことがない。自分でも不思議なぐらい。きっと根っからこの国が好きなんだと思います。自分の実力とは思えない、目に見えるもの、見えないものによって生かされていることを強く感じます。そんな今の有り難い毎日、ここに来るまでの過程も合わせて一言で総括すると、それは「おかげさまで」ということになります。

日本に来たばかりのころは発音がわからず、「おかげさま」という言葉をはっきりと聞き取れるようになったのは、大学時代。住んでいた嵐山のアパートの、窓から覗けるとこに住んでいたお婆ちゃんが、毎朝庭に出ては太陽を見上げ「お天道さん、おかげさまで今日も元気で迎えることが出来ました。今日もよろしゅー頼みます」と手を合せていました。当時の私には、彼女の言動はすごく不気味で仕方がなかった。でも今はもちろん大好きな日本語の一つです。

私は今、京都を拠点に生活をしています。京都は、日本を学ぶ格好の教科書で、この街をとても気に入っています。何百年も続くようなお店なんかもざらにあって、主人に教えを請うと、知らなかったら、意地になってでも調べて、教えてもくれます。日本文化の坩堝と言われるだけあって、この街もまた「おかげさま」と「感謝」の気持ちで満ちています。

あの時、嵐山で太陽に崇めていたお母さんを思い出します。この年になって、いつの間にか太陽に感謝する自分になっていることに気付きます。太陽に向かって「おかげさまで」と手を合わせることはまだないですが、それも時間の問題のような気もします。

嬉しいこと、良いことだけではなくて、理不尽なことや悪いことも、受け入れる大らかさ、周りの関係を大事に思う気持ち、謙虚さ、感謝する気持ちなどを全て束ねるこの「おかげさまで」こそ、私が学んだ、便利で、面白くて、そして最も大切な日本の精神なんです。今の日本が蓄積してきているこの強さ、優しさ、しなやかさ、美しさ、そして豊かさが、この「おかげさま」精神の賜物ではないでしょうか。これは日本の最大の無形文化遺産でもあります。

世界的に食うか食われるかの価値観が蔓延っている時代だからこそ、是非、究極の平和論でもある「おかげさまで」を世界中の人にも広めてほしい。さらにはそんな激動の時代だからこそ、日本を背負い立つ若い世代にも、「おかげさまで」を大いに活用しながら育ち、今度また、たくさんの方に「おかげさまで」と言われるような生き方を歩んで頂きたい。

今日も、おかげさまで、このような形で皆さんの前でお話するご縁を頂いたことに厚く御礼を申し上げます。本当に有難うございます。


2013年7月21日日曜日

心の中にある“命”の力を引き出す

ブログ「人の心に灯をともす」から誰かに認められること」(2013年7月18日)をご紹介します。


東京のある学校の卒業式の1週間前に、一人の不良学生が校長に呼び出された。

常日頃悪行を重ねていた学生は、叱られるのを覚悟して、校長室のドアを叩いた。

「入れ」という威厳のある声と共に、

「鍵をかけなさい」といって鍵を渡しながら校長は、自らカーテンを閉めた。

学生は逃げられないようにして殴られると観念した。

「腰をかけ給え」といいながら、校長は、右に左にと歩きつつ、

「お前のいたずらは有名であり、他の先生の手もやき…云々」と切り出した。

学生は「きたなあ…」と奥歯をかみしめて身構えた。

「然しよくよく考えてみるに、君はお母さんを亡くし、その後に来たお母さんにいじめられ、本当に可哀想だと世間のうわさだが、大変だったなあ…。

思えば、そのうっ憤ばらしに、悪いと知りながら、やった事であると私は思う。

そうだな」

学生はおもわず拳を握りしめ、うなずきつつ、胸の熱くなるのをおぼえた。

「然し、ここでよく考えてみなさい、今さらお母さんの死を悔いても仕方がない。

人間は、必ず死ぬ。

いずれの日か死ぬという人生を、今日一日を価値高く生きよと、母の死は教えているのだ。

君のお母さんは、若くしてこの世を去ったが、立派なお母さんだった。

君のお父さんが、“まま母”と、君との間に立って、どれほど、気を遣い、心を痛めていられるかを考えたことがあるかい。

人間だけが、神の立場や相手の立場に立って考えることが出来るのだ。

自分を捨てて、心から親孝行をすれば、どんなひどい“まま母”でも、必ず感動するときが来る。

今、君が、すぐやるべきことは親孝行だ。

これは人間だけにある行為なのだよ。

こんな話をするのも、亡くなった君のお母さんが、草葉の陰から手を合わせて、私を通じて話をしているような気がしてならない。

まして、君は数多い卒業生の中で、将来大人物になる素質がある。

長年教育をやって来た私の立場から、それはよく判る。

だが一歩誤れば犯罪者にもなる。

今が大切な分岐点だ。

だから、これからは、本来の君に返り、心を明るくして朗らかにし、清く正しくもつことを心がけ、人の為、母の為になるように生きて欲しい。

とはいっても、人間は照れくさいもので、すぐには出来ない。

昔から人間は転機が大切だ。

だから、卒業式を君の人生の転機としたらどうだ」

諄々と道を説く校長の前に、その学生はハラハラと涙を流しながら、今までの悪行を詫び、そしてこれほどまでに、自分のことを見ていてくれた校長先生に対し、心より感動し、先生の為には命まで惜しくないと、み教えに従うことを誓った。

それをみながら校長は

「そうか判ってくれたか、本当にありがとう。

やはり私の目に狂いはなかった。

さあ男は泣くんじゃない」

と、学生にハンカチを渡す校長がまた、涙、涙であった。

そして最後に

「全校生の中に、君だけが大人物になる素質があり、君の将来こそ、私の唯一の楽しみだ。

然し校長としての立場上、君だけ可愛がる訳にはいかないからこそ、鍵をかけ、カーテンを閉めて、他人に判らないようにして話をしたのだ。

いいかい、男と男の約束だ。

このことは絶対人に言うなよ」

と言って、かたい握手をして別れた。

学生は卒業後、世間でも驚くほどの親孝行者となり、勤勉努力し、校長の予言通り大会社の社長となった。

星霜幾十年、すでに白髪になった老校長を囲む会が、盛大に催された。

その席上、かつては不良学生だった社長が立って、卒業1週間前の感動をそのままに、

「私はここで、男の約束を破る」と前置きし、あの時の状況を語った。

「私の現在あるのは、あの時の校長先生の一言です。

もし、あの感動がなかったら、私はどうなっていた事でしょう」

と言って、涙ながらに挨拶しながら、先生のところへ駆け寄っていった。

これを聞いていた人々は、一瞬水を打ったような静けさになった。

そして、アッと驚きの顔を見合わせながら「俺も言われた」「僕もだ」と驚きが感動の渦となって広がっていった。

思えば、ある人は喫茶店で、ある者は自宅に呼び出されながら、所を変え、時を変えて、その少年の心の中にある“命”の力を引き出したのだ。


人は、心の底から誰かに認められ、期待されたとき、途方もない力を発揮することがある。

反対に、「ダメなヤツ」とか、「バカ」、「なんの役にもたたない」と言われて育った子どもは、存在を否定され、「生きていても仕方がない」と思うかもしれない。

エジソン、ファーブル、手塚治虫、野口英世等々の天才たちは、幼い頃、普通の子どもとは、どこか変わっていたという。

しかし、その母親たちは一様に、「あなたは今のままでいいのよ」と、まるごと全部を受けれ、肯定し認めていた。

人は、認められ期待されると、はかり知れない力を発揮する。



著者 : 佐々木将人
マネジメント伸社
発売日 : 2001-07

2013年7月20日土曜日

無限の力を信じる

ブログ「今日の言葉」から無限の力」(2013年7月17日)を抜粋してご紹介します。



突然、それは本当に突然でした。4年前になります。 

お正月を過ぎてほどない日の午後、息子の功が意識を失って倒れたのです。不整脈から心肺停止状態に陥ったのでした。

小学生から野球に熱中し、中学生になると、浦安リトルシニアに入り、やがては甲子園出場、巨人入団を夢見ていました。そんな作文を小学6年の時に書いています。

中学3年で身長176センチ、体重63キロ、鍛えた筋肉質の身体は頑健で、学校は無遅刻無欠席、病気らしい病気を知らずにきた子でした。それだけに突然の異変は驚きでした。

それから4か月、何度も訪れた危篤状態を驚くような生命力で乗り越え、平成12年5月20日、功は天国に旅立ちました。15歳8か月の人生でした。

振り返ると、1日24時間では、とても足りないような毎日を過ごした子でした。

中学生になると、土日は野球の練習や試合でいっぱい。学校では生徒会役員を一年生からやり、三年では学級委員長も務めました。

それだけでも手いっぱいなのに、部活動ではバスケット部に入りました。

苦手の英語も、英会話で進める授業の面白さに引かれ、その勉強もしなければなりません。

野球の仲間、クラスメートとの遊びもあります。

あれもやりたい。これもやりたい。

でも、功はこだわりの強い性格なのでしょうか。中途半端が大嫌いで、どれ一つとして疎かにはできません。徹底してやるから、時間がいくらあっても足りないはずです。

「ああ、時間が欲しいよォ」

いまでも功の声が聞こえるような気がします。

あんなふうに生きたのも、自分に与えられた時間の短さを予感していたからなのかもしれません。

といって、功は特に才能に恵まれた子ではありませんでした。いささか恵まれているといえば背の高さぐらい。まず運動神経も人並み、頭脳のほうも人並みというのが率直なところです。

だから、何かを達成しようと思えば、努力しなければなりません。

野球でレギュラーになるのも努力、生徒会役員の務めを果たすのも努力という具合です。

そして、目標を立て努力すれば夢は叶うという確信を、小さい営みの中で功なりにつかんだのでしょう。

いつごろからか、功はそのことを「無限の力」という言葉で表現するようになりました。

誰にでも無限の力があるんだよ。無限の力を信じれば目標は必ず叶うんだ

お母さん、これだけはちゃんと聞いてくれよという感じで、夕餉の食卓で功が言ったことを、昨日のように思い出します。

「無限の力」で忘れられないのは、やはり中学3年の時の校内合唱祭でしょうか。

音楽が得意というわけでもなく、楽譜も読めない功が、自分から立候補して指揮をすることになったと聞いた時は驚きました。

それからは楽譜と首っ引きで指揮の練習です。

腕を振りすぎて痛くなったり、クラスのまとまりの悪さに悩んだり、いろいろとあったようですが、功は「無限の力」を学級目標にかかげ、みんなを引っ張っていったのでした。

そして、クラスは最優秀賞、自身は指揮者賞を受けたのです。

名を呼ばれ、周りにピースサインを送り、はにかんだ笑顔で立ち上がった功。「無限の力」は本当だと思ったことでした。

その2か月後に功は倒れ、帰らぬ人になりました。

しかし、私が「無限の力」を実感するようになったのは、それからかもしれません。

一緒に野球をしてきた親友は功の写真に、「おれがおまえを甲子園に連れてってやる」と誓い、甲子園出場を果たしました。

「功が言っていた無限の力を信じて、看護師を目指すよ」と報告してくれた女の子もいました。

出会い、触れ合った人たちに何かを残していった功。それこそが「無限の力」なのでしょう。

私も、と思わずにはいられません。

自分の中にある「無限の力」を信じて、自分の場所で、自分にできることを精いっぱい果たしていく。そういう生き方ができた時、功は私の中で生き続けることになるのだと思います。

先日、用事があって久しぶりに功が通っていた中学校を訪れました。

玄関を入って私は立ちすくみ、動けなくなりました。正面の壁に功の作文が張り出されていたのです。

それは功が倒れる数日前に書いたものでした。

あれから月日が経ち、先生方も異動され、功をご存知の方は3人ほどのはずです。

それでも功の作文が張られているのは、何かを伝えるものがあると思われたからでしょう。

これを読んで1人でも2人でも何かを感じてくれたら、功はここでも生きているのだと思ったことでした。

最後に、拙いものですが、功の「友情」と題された作文を写させていただきます。



《私にとって「友情」とは、信頼でき助け合っていくのが友情だと思う。そして、心が通い合うことが最も大切なことだと思う。

時には意見が食い違い、言い合う事も友情のひとつだと思う。なぜなら、その人のことを本気で思っているからだ。

相手のことを思いやれば、相手も自分のことを必要と感じてくれるはずだ。

私には友が一番だ。だから、友人を大切にする。

人は一人では生きられない。陰で支えてくれている人を忘れてはいけない。

お互いに必要だと感じることが、友情だと思う。尾崎 功》



2013年7月15日月曜日

人間の法則

思考に気をつけなさい」(2013年7月9日 人の心に灯をともす)を抜粋してご紹介します。




潜在意識には善と悪の区別はなく、とにかく感情をそのまま受け止めるというのが特徴。

ですから大切なのは、潜在意識にポジティブな発想で働きかけること。

とにかくネガティブな発想を手放すことから始めましょう。

ネガティブな発想があなたの運命を確実に悪い方向へと誘っていくというメッセージを伝えたものに、マザー・テレサの、「思考に気をつけなさい」という言葉があります。

「思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから

言葉に気をつけなさい それはいつか行動になるから

行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから

習慣に気をつけなさい それはいつか性格になるから

性格に気をつけななさい それはいつか運命になるから」

これが人間の法則です。

逆説的に捉えれば、ポジィティブな発想を持ち、いい言霊の言動を心がけ、積極的に接していれば、それはやがて優しさや犠牲的精神、利他的精神となって心の中に定着する。

愛に溢れた人は、豊かな人生を送ることができるということなのですから。

たとえあなたが、今は人間関係の暗闇の中にいたとしても大丈夫。

未来を変えることはいくらでもできます。

人間の法則、宇宙の法則ともいうべき潜在意識の法則を活用し、ストレスのない充実した人生を手に入れることは誰にでもできるのです。


人生は、「思った通りになる」、と言うと、「それでうまく行くなら苦労はいらぬ」、と鼻で笑う人がいる。

しかし、どんな些細なことでも、願ってすぐに実現することなどひとつもない。

努力に努力を重ね、あきらめずに何年も、いや何十年もコツコツと続けることによって成就する。


「思考は現実化する」という、ナポレオン・ ヒルの言葉がある。

それは、すなわち、思考は言葉に、言葉は行動に、行動は習慣に、習慣は性格に、性格は運命に、ということ。

思考の方向性は二つに一つしかない。

それは、「積極思考かマイナス思考か」、「現状打破か現状維持か」という二者択一。

中村天風師は、「蒔いた種のとおり花が咲く」という「善因善果、悪因悪果の法則」があるという。

よい種をまけばきれいな花が咲き、悪い種をまけば悪の花が咲く。


どんなときも、明るい積極の心で生きていきたい。


2013年7月13日土曜日

電子ジャーナルと研究評価

金沢大学附属図書館長の柴田正良さんが書かれた論考「電子ジャーナル問題は解決できるのか?」(日本私立大学協会 教育学術オンライン 平成25年4月 第2521号)をご紹介します。


日本に限らず世界的にも大学図書館で大きな問題になっているのが学術誌の価格高騰問題である。問題の深刻さを受けて、平成22年には日本学術会議が「学術誌問題の解決に向けて―「包括的学術誌コンソーシアム」の創設」という提言もとりまとめている。問題の背景には何があるのか。柴田正良金沢大学附属図書館長・人文学類教授に寄稿してもらった。

1 シジフォスの岩の如く

この間ずっと大学図書館の関係者を苦しめているものの一つに、電子ジャーナルの価格高騰問題がある。こう言うと、電子ジャーナル問題とは図書館が抱える「財布」の問題にすぎないように聞こえるかもしれないが、実はそうではない。この問題には電子技術的な側面から国家の科学政策的な側面まで実にさまざまな論点が含まれているが、きわめて素朴に言えば、本質は、「人類がいかに自らの知的成果を公平かつ効率的に共有しうるか」ということである。とはいえ、これが大げさだと言うなら、「研究者は今、どうしたら自分たちの成果を取り戻すことができるのか」と言い直すこともできる。

「取り戻す」という言い方は、この問題がここ20年ほどの間に爆発的に膨張してきたという事実を訴えたいためである。17世紀の中頃から20世紀の中頃まで学術共同体の間に存在していたという「贈与の円環」(関係者の応分の負担による学術情報受発信システム)が崩れたあと、なぜ電子ジャーナルの価格高騰問題がこうも急速に先鋭化したのか。以下では、いまや複雑怪奇となったこの問題を素朴な視点から捉え直し、解決の方向に何が見えてくるのかを考えてみたい。

まず、電子ジャーナルを含めた電子資料の現状を見るために、幾つかの数字を拾ってみよう。電子ジャーナルの発行タイトル数は、全世界で、1990年を出発点として2006年には4万5000タイトルにまで膨れあがっている(Ulrich,s Periodicals Directory)。2008年には、全世界でSTM(理学・工学・医学)系の学術誌の約96%、人文・社会科学系の約87%が電子ジャーナルとなっている(Association for Learned and Profe ssional Society Publishers)。日本の全大学の電子ジャール受入数は、1997年で1大学平均約10タイトル(国立大:約20)だったのが、10年後の2007年には約2800(国立大:約7000)にまで増えている(文科省「大学図書館実態調査及び学術情報基盤実態調査」)。一方、出版社はこの間に情報提供の基本を冊子体から電子媒体に移したので、研究者からすると、ほぼ全分野において電子ジャーナルなしでは生きていけない状態なのだ。

以上を経費の面から見よう。世界的には、自然科学系の雑誌平均で1995年に約600~1100ドルだった価格が、14年後の2009年には約2000~3600ドルにまで跳ね上がっており、この間の全分野平均価格上昇率はなんと年率8.5%である(Library Journal Periodical Price Survey)。日本では、2009年度の調査段階で国立大学外国雑誌経費は約121億円(国立大学図書館協会契約実績調査)。それと単純比較はできないが、2011年の国公私立510大学の電子資料費の総額は253億円という試算がある。具体的には、2011年度の電子資料総額が例えば金沢大学で年間約2億円、東京大学では優に10億円を超える。しかも、ほぼすべての大学は「足抜け」するとペナルティをくらう(!)総額維持のパッケージ契約を強要され、それを経費の根拠もなしに毎年5%は上げるというのが出版社側の言い分だ。

この間、電子ジャーナルの価格を押さえ込もうとする様々な試みがなされてきた。しかし、それは苦闘と挫折の歴史であって、成功の歴史ではない。日本学術会議は「学術誌問題の解決に向けて」と題する提言を2010年に行って警鐘を鳴らし、2012年に結成されたJUSTICE(国公私大の大学図書館コンソーシアム連合)による出版社との契約交渉なども成果を上げ始めてはいる。しかし、残念ながら状況はシジフォスの岩の如く、何度、頂上へ岩を運び上げようとも、最後に岩は谷底に転げ落ちてしまうのだ。

2 プロメテウスたちの解放の時へ

単純に考えてみよう。品物が高すぎるなら、安いところから買えば良い。同じ品物を安く売るところがあれば、客はそちらで買うだろう。売り手側の競争の結果、品物は妥当な値段まで安くなる。しかし、この健全な市場の原理が電子ジャーナルの場合には通用しないのだ。なぜか。それは電子出版業界が独占企業だからである。先に述べた巨大な市場は、たかだか大手八社によってその70%が占められている(英国下院科学技術委員会調査:2004)。「独占」が何をもたらすかは、先頃の日本の電力業界の実態によってわれわれも思い知らされたばかりだ。独占企業は、競争を免れた市場のアウトローである。

では、高すぎる品物なら別の品物で我慢すれば良い。ところが、学術誌は代替が効かない。掲載される研究成果はそれが世界で唯一だからこそ価値があり、それを掲載するからこそ、その学術誌に価値がある。つまり電子ジャーナル業界は、「生産者相互が商品をいかに安く提供するかを競う」という市場原理が働かない分野である。それにもかかわらず、巨大な資本がそこに参入し、巨額の利益を吸血鬼さながらに吸い上げているのだ。

したがって、人類の知的成果の共有という点から言えば、学術誌の領域から資本は撤退すべきである。そもそも学術誌の内容は研究者が生み出し、それを研究者が消費する。間に介在する出版社は、学術誌の価値の本体を生み出してはいない。したがって、いずれは学術誌を企業利益の対象としないNPOのような非営利団体が結集して、人類の知的成果の共有を担うべきである。また、論文作成者が論文掲載によって求めるのは「金銭」ではなく「名誉」なのだから、著者の「名誉」と「権利」が確保されたなら、本来は瞬時に無償で、世界中の研究成果が世界中の人々によって共有されるのが理想である。電子媒体こそ、機関リポジトリ(大学・研究所等によるインターネット公開)などを介して、それを可能とする。

では、そうならないうちは、いっそそんな品物は買わなければ良い。これがたとえ一時でもできたなら、全国の大学図書館は大手出版社と厳しく渡り合うことができただろう。しかし、言うも愚かなことに、これは、科学の最前線で戦おうとする研究者や大学にとって不可能な選択肢である。だがいくら研究のためとはいえ、なぜ一致団結した「不買運動」すら起こすことができないのか? この問いによってわれわれは、電子ジャーナル問題の最も深い真実に導かれる。

研究者や大学図書館が既存の電子ジャーナルを止められないのは、それが研究者の「評価」システムに深く食い込んでいるからだ。研究者の評価は、良質の論文をいかに多く生み出しているかによって決まる。それによって就職も、より良いポストへの移動も、科研費や各種補助金の獲得も左右される。したがって論文の評価は厳格になされるべきだが、実際は、どれだけインパクト・ファクター(IF)の値が高い雑誌に掲載されたか、という間接的な基準によってなされる。Natureなどの国際的な一流紙は、高いIFをもつがゆえに、研究者はこぞってそれらに投稿する。しかも、仲間と競争して勝つには、IFの高い雑誌への掲載を次々に実現していかなければならない。こうして、一流紙を頂点とした電子ジャーナルの階層構造の下で、論文の大量生産が継続されていく。

つまり、研究者は自分で自分の首を絞めているのだ。電子ジャーナル問題の泥沼から抜け出すには、最終的には、研究者に対するこういった評価システムを変えなければならない。既存の電子ジャーナルへの研究評価の依存から脱却しない限り、この問題は永遠に解決しないだろう。人類に知恵の炎をもたらしたプロメテウスたちを、もはや悪しき評価の呪縛から解き放つべき時なのだ。


2013年7月12日金曜日

キャリア教育とは

学生支援に関わるテーマを議論する学内の会議に出席して時折気になることは、「キャリア教育」と「就活支援」を混同して議論していること、あるいは、教員が本来責任をもって成すべき「キャリア教育」の議論をほとんどせずに、「就活支援」というテクニカルなことばかりを議論していることです。

挙句の果てには、自らの指導力の無さを棚に上げての学生批判のオンパレード。本質から全くかけ離れた先生方の不毛な議論には付き合いきれません。

さて、今回は、教育評論家の梨戸茂史さんが書かれた「キャリア教育とゼミ」(文部科学教育通信 No319 2013.7.8)をご紹介します。


いわゆる「アベノミクス」で景気が回復してきているらしい。そのうち給料もあがり、学生の就職難も解消されるかもしれない。所詮、経済は「気分」だからか?

さて、景気が悪くて正規の仕事に就けない若者が多かったリ、三年勤めたら辞める新入社員がいたりと、これはきちんとした労働観や職業に対する意識を学ぶべきではないかと、大学までもが取り組んだのは「キャリア教育」だった。

そもそもキャリア教育とは、表向きには「社会人としてのキャリアを在学中に学ばせる教育」だが、実質的には「就職指導」といった方が当を得ている。大学の増設、少子化で今や大学は供給過多。だから、あれこれと学生向けのサービスをやっているのだけれど、これは、「出ロ」のサービスのひとつ。きちんと就職させようとするプログラム。今や集客(学生募集)には必要不可欠な要素とみなされている。

そのキャリア教育で行われているのは自己診断、自分の見つけ方、コミュニケーションの取リ方、果ては就活の仕方、作法までいろいろ。もし仮に、これをまじめに学んで就活に出たとしても、それは”付け焼刃”。面接で「きわめて礼儀正しい、紋切リ型の答えをする、無能なリクルート学生」になる。そんな中身の無い学生、たいていの企業の人事担当者には「使えない」と見抜かれてしまうのがオチだろう。

しかL本来、キャリア教育の中核は、「労働とは何か」、「市場とは何か」、「資本とは何か」、「共同体とは何か」、「貨幣とは何か」…といった人間社会の成り立ちについての原理的な教育かもしれない。そして、働く意義と労働を通じて自分の社会における位置について自分で考えることだろう。でも、学生たちはせいぜい過去二、三年の雇用状況しか見ずに就活に走る。けれど、労働をめぐる環境ははげしく変化し、「今人気があるから」という理由で選好されている企業のほとんどは三〇年前にはその名も知られていなかったものだし、昔、学生たちが群がった人気企業のいくつかはもう存在Lてさえいない。

かつて(われわれおじさん世代は)、自己分析なんぞという高尚なものはなく、行き当たりばったりで、いくつもの会社を受けたリ、偶然採用されたところで、苦しみながらも仕事の意義など感じられなくともいつの間にか自分の存在意義を見つけて長年勤めたのではないか。向き不向きなんて後から山ほどの理屈とともに出来上がるものだった。今の自分に合った自己実現が可能な職場などというのは幻想だ。どんなところであれ、就職したところが、人生の「持ち場」なはずだ。昔の人は偉かった。「人間至る処青山あリ」といった(幕末の僧、釈月性の詩「男児志を立てて郷関を出ず、学若し成る無くんば復還らず、骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん、入間到る処青山あり」から)。

ところで、学生諸君、就職に必要なスキルはどこで達成されると思う? 君の「ゼミ」だ。そこでは学生にグループワークを課す。教員は研究のための情報やその使い方を教授する。これに基づいて学生たちが活動をはじめ、ブレインストーミングし、議論を収斂させていく。まとまったら今度はこれを発信するためのプレゼンテーションを考え、研究結果として発表する。まさに大学でやる「あたりまえの作業」だ。これを真面目にやればアカデミックスキルが身につき、グループワークや外部とコミュニケーション能力も身につくはず。自分の能力もわかってくる。だからキャリア教育などやらなくても大学が大学としての教育をきちんとやればキャリアは養成されるのだ。つまりはアカデミズムの基本に戻ることなのだろう。


2013年7月11日木曜日

国立大学にイノベーションは期待できるか

ジャーナリストの井上久男さんが「Business Journal」に書かれた記事「特定大学へ1000億ばらまきに異論噴出…大学迷走の背景に潜む、旧態依然な経営の実態」を抜粋してご紹介します。
国立大学法人のふがいない実態に深く切り込んでいます。厳しくも、なかなか的を得た指摘ではないでしょうか。


日本の国立大学法人には、マネジメントという概念がほとんどない。大学におけるマネジメントとは、社会や時代が求めるニーズに合った研究・教育を展開していくために経営者自らが戦略を構築し、ミッションを維持させるための一定の収益を確保して組織発展させていくことである。まず、国立大学法人には経営者がいない。競争が激しい民間企業(株式会社)では、適任と見られる人物が株主の付託を得て経営者に選出され、業績によって経営責任が問われる。

ところが、国立大学は法人化され、一応企業経営の発想を採り入れながら、経営トップである総長・学長といった役職は選挙で選ばれている。そして大学の学長選挙は適任者が選ばれるとは限らない。たとえば、大阪大の総長選挙は、医学部、理学部、工学部出身者が輪番でトップに就けるように話し合いによって票を融通し合っていたし、しかも、経営改革をしない人をリーダーに選ぶようにしていた。話し合いが成立しない場合は、文学部のタレント的教授を祭り上げ、陰で医学部や工学部の実力者が大学を操るシステムだった。経営改革を掲げるような総長候補者が出たケースもあるが、皆で話し合ってその候補者に票が集まらないように「裏工作」した。

こうしたシステムでもやっていけるのは、国からの補助金で運営されているからである。「国立」であるため潰れないので、前近代的な古い経営システムでもやっていけるのである。

経営者に限らず、大学で働く教員や研究者の採用も前近代的である。文部科学省が管轄する独立行政法人・科学技術振興機構(JST)が運営するサイト「研究者人材データベース」というものがある。全国の大学の研究職の公募情報が満載されているが、「ここに載る求人情報のうち9割近くは、採用する人物が事前に内定しています。国立大学の研究者採用で公正性を担保するために公募という形を取っていますが、アリバイづくり的な意味合いが強い」と、ある公立大学教授は打ち明ける。

実際、ほとんどの大学で教員の採用は、有力研究室によるコネであり、本人の能力や意欲に関係なく採用が決まる。企業経験者の採用も、有力企業の推薦があるかないかが大きな影響力を持つ。この結果、日本の著名大学でも、能力と人格に問題のある教員が採用されて跋扈している。大学で研究費の不正利用や論文の盗用、セクハラ、パワハラなどの破廉恥で稚拙な「犯罪」が多いのは、適格者を採用しないシステムも影響しているのだ。

さらに大学の判断基準はほとんど「減点主義」にある。研究費の利用でも「申請、書類審査、面接、中間審査、最終審査、事後審査を何度も繰り返してチェックし、まるで日本の受験システムそのもの。研究費を使って出張した際にはカラ出張防止のため、訪問先近くのコンビニに行って、何か買い物してレシートを貼り付けてくださいと言われることもある」(有名国立大学教授)との指摘もある。

アリバイづくりのためにコンビニに立ち寄れとはお笑いであるが、こんなに厳しくチェックしても研究費の不正使用が後を絶たないのは、やはり、常識が欠如している不適格者が多いからと言わざるを得ない。そもそも、減点主義による審査で新たなイノベーションが生まれるとは思わない。減点主義ではリスクのある研究に取り組めない。新たなイノベーションは、失敗の積み重ねによって生まれるのではないだろうか。

要は、国立大学法人は戦略的な組織として体をなしていないのである。そんなところに1000億円もばらまくなど、血税を捨ててしまうような愚行としか言いようがない。まずは組織改革をして、適任者をトップに就け、適材適所で人材を採用できるように改めることから始めない限り、「大学の知恵」をイノベーションのために有効活用することはできない。


2013年7月9日火曜日

大学のガバナンスの在り方について

中央教育審議会大学分科会組織運営部会において「大学のガバナンスの在り方」に関する議論が始まりました。

第一回(6月26日開催)の会議資料から主なものを抜粋してご紹介します。


資料5 第6期大学分科会におけるガバナンスに関する議論について

(総論)
  • ガバナンスの強化は、個々の大学ではなく大学全体のシステムとして確立することが必要。
  • 大学がガバナンスを発揮できない要因には、仕組みやシステムによるものとそうでないものがあるため、そこを掘り下げて考える必要がある。
  • ガバナンスの在り方は多様であり、特に私学については、一律的な仕組みを作ることについては慎重であるべき。一様なガバナンスからは、多様な教育研究は生まれてこない。
  • 大学は多様化しており、大規模校の中でもガバナンスがうまくいっている大学もあれば、単科大学でもうまくいっていない事例もあるので、具体的に要因を調べる必要がある。
  • 国内外の現状を調査しながら、実証的なエビデンスに基づいて結論を出すべき。その際、ガバナンスと教育研究上のパフォーマンスとの関係などについても分析すべき。

(学長のリーダーシップ)
  • 人事や予算を含め、学長がリーダーシップを発揮できる仕組みが必要。仕組みがないままに、リーダーシップの発揮を求めても仕方がない。
  • 国立大学は法人化により学長裁量が拡大したはずだったが、実際には法人化前と比べて変わっていない。それにも関わらず、学長のリーダーシップの発揮だけが求められている。
  • 学長・学部長がリーダーシップを発揮して方針を出したときに、その方針どおりに教員が活動しないときに、それに対する評価の仕組みも考えることが必要。
  • 学長や学部長のリーダーシップが強くなればよいというものではなく、教員が主体的に改革に参画することが必要。
  • 学長が交代して教育方針が大きく変わることがあるが、教育の継続性・安定性の面では問題。学長に権限を集中させれば良いというものではない。
  • 組織の詳細も重要だが、大学のミッションを明確にし、それを実現できる人に任務を与えるのが大学のマネジメントの原点ではないか。
  • アメリカやフランスにおいても、学長と各部局の緊張関係が見られる。

(学長の補佐体制)
  • アメリカのOffice of Presidentのように、学長のサポート体制の充実をどのようにしていくかを考えなければならない。
  • 学長、学長の補佐機構、学部長、教授会などそれぞれの権限について考えるべき。

(学長の選考・任期)
  • ガバナンスを考えていく上でのポイントは、学長や学部長の選考の仕方に尽きるのではないか。
  • 学長も学部長も事実上、教員による選挙で選ばれているため、大学や学部の最高執行責任者である学長や学部長の権限もあまり強くない。
  • 学長の任期制に妥当性があるのか疑問。例えば、任期の残り1年になると学長の言うことを聞いてもらえないといったこともある。

(学部長)
  • 学部長が教授会において選挙で選ばれている中で、どのような権限があるのかについては非常に不透明であり、雑用に追われることになっている。
  • 学部長選挙を廃止して、学長が学部長を任命できるようにするべき。

(教授会)
  • 教授会は本来教学に関する重要事項について審議する機関であるのに、実態は経営的な事項にも日常的に関与しており、組織決定の迅速性を欠くこととなっている。
  • 教授会の権限の内容や位置付け(審議機関なのか議決機関なのか)といったことまで踏み込んで考えるべき。

(理事会)
  • 実質的な最高意思決定機関としての理事会の経営・監督機能の強化のため、学長選挙を廃し、理事会が直接学長を任命する必要があるのではないか。
  • 理事会は、学長に大学内における人事・予算権限を付与するべき。

(監事)
  • 大学運営の適正性をチェックするため、監事の機能を強化すべき。
  • 監事機能など管理監督を強化しただけでガバナンスが強化されるというものではない。

(その他)
  • ガバナンス改革ありきで考えるのではなく、各大学が評価を受ける中で、自らのガバナンスのあり方を見直していくことが本来の姿ではないか。
  • 大学が自らの教育研究パフォーマンスを評価していかない限り、ガバナンスを具体化することはできない。
  • 評価のフィードバックを全学的に行うべき。評価の結果を踏まえて、大学全体でどのように改善していくか考えることが必要。


5 大学のガバナンス改革、財政基盤の確立により経営基盤を強化する。

上記に述べた提言の実現は、各大学が学内で意思決定し、改革に踏み出すかどうかにかかっています。意欲ある学長がリーダーシップを発揮して果敢に改革を進められるよう、大学のガバナンス改革を進めるとともに、改革を進める大学には官民が財政面の支援をしっかり行うことにより、経営基盤を強化する必要があります。

○国は、国立大学の強みや特色、社会的役割等を明確化しつつ、国立大学全体の将来構想を取りまとめた上で改革工程を平成25年夏を目途に策定し、それを踏まえた取組を促進する。また、国立大学は、年俸制の本格導入や学外機関との混合給与の導入などの人事給与システムの見直し、国立大学運営費交付金の学内における戦略的・重点的配分、学内の資源配分の可視化に直ちに着手し、今後3年間で大胆かつ先駆的な改革を進める。これらの取組を踏まえ、国は、教育や研究活動等の成果に基づく新たな評価指標を確立し、第3期中期目標期間(平成28年度以降)は、国立大学運営費交付金の在り方を抜本的に見直す。

○国や大学は、各大学の経営上の特色を踏まえ、学長・大学本部の独自の予算の確保、学長を補佐する執行部・本部の役職員の強化など、学長が全学的なリーダーシップをとれる体制の整備を進める。学長の選考方法等の在り方も検討する。また、教授会の役割を明確化するとともに、部局長の職務や理事会・役員会の機能の見直し、監事の業務監査機能の強化等について、学校教育法等の法令改正の検討や学内規定の見直しも含め、抜本的なガバナンス改革を行う。

○国は、国立大学運営費交付金・施設整備費補助金や私学助成、公立大学への財政措置など財政基盤の確立を図りつつ、基盤的経費について一層メリハリある配分を行う。その際、教育、研究、大学運営、社会活動等の幅広い観点からの教員評価や能力向上など、教員の力量を発揮させる改革を行う大学が評価されるような配分を検討する。また、大学等に配分される国の公募型資金について、全学的な共通インフラや教育・研究支援人材確保のための経費(間接経費)を設定し、直接経費を確保しつつ、間接経費比率を30%措置するよう努めるとともに、その効果的な活用を図る。あわせて、教育基盤強化に資する寄附の拡充や民間資金の自主的調達のため、税制面の検討を含めた環境整備を進める。

○我が国の高等教育の大部分を担っている私立大学が、多彩で質の高い教育を展開するとともに、グローバルな視野を持つ地域人材の育成や、飛躍的に増大する社会人の学び直しに積極的に対応できるよう、国は、財政基盤の確立を図る。その際、建学の精神に基づく教育の質向上、地域の人づくりと発展を支える大学づくり、産業界や他大学と連携した教育研究の活性化等の全学的教育改革を更に重点的に支援する。また、大学設置基準等の明確化や大学設置審査の高度化、必要な経営指導・支援や改善見込みがない場合の対応など、大学教育の質を一層保証する総合的な仕組みを構築する。

○国は、教育研究現場の実態を踏まえ、研究者等のキャリアパス、大学における人事労務管理の在り方など本年4月から施行された改正労働契約法をめぐる課題に関し、教育研究の継続性、若手研究者の人材育成、研究者の流動性の確保、研究支援人材の着実な確保等のための仕組みを検討する。

○我が国にとって、大学力が現在及び将来の国力を支えるものであることを踏まえ、大学の学長、都道府県知事、産業界の代表等から構成される内閣総理大臣主催の「大学将来構想サミット」(仮称)を定期的に開催し、社会総がかりで大学の機能強化に取り組む。


【骨太方針】(平成25年6月14日閣議決定)

第2章 強い日本、強い経済、豊かで安全・安心な生活の実現

3 教育等を通じた能力・個性を発揮するための基盤強化

(1)教育再生の推進と文化・スポーツの振興

意欲と能力に富む若者の留学環境の整備や大学の国際化によるグローバル化等に対応する人材力の強化や高度外国人材の活用、ガバナンスの強化による大学改革とその教育研究基盤の確立を通じた教育研究の活性化など、未来への飛躍を実現する人材の養成を行う。


【日本再興戦略-Japan is BACK-】(平成25年6月14日閣議決定)

6 大学改革

○大学改革を支える基盤強化

・教授会の役割を明確化するとともに、部局長の職務や理事会・役員会の機能の見直し、監事の業務監査機能強化等について、学校教育法等の法令改正の検討や学内規定の見直しを含め、抜本的なガバナンス改革を行うこととし、所要の法案を次期通常国会に提出する。


【教育振興基本計画】(平成25年6月14日閣議決定)

基本施策26 大学におけるガバナンス機能の強化

【基本的考え方】

○各大学が学生・地域・社会のニーズに沿った質の高い大学教育を行うために、学長や理事長のリーダーシップの確立に向けた環境整備や、評価に基づく資源の再配分等の大学・学校法人のガバナンス機能の強化に向けた必要な支援を実施する。

【主な取組】

26-1 大学におけるガバナンス機能の強化

・各国立大学が、学生・地域・社会からのニーズに応じた質の高い教育研究活動を行うことができるよう、学長のリーダーシップの発揮等による適切な意思決定を可能とする組織運営の確立、基盤的経費の一層のメリハリある配分等を通じ、ガバナンス機能の強化を図る。

・各公立大学が、設置理念に基づいた学生・地域・社会のニーズに応じた質の高い教育研究活動に取り組むことができるように、設置者、理事長・学長がリーダーシップを発揮して運営組織の確立、ガバナンス機能の強化を図る。

・各私立大学が、学生・地域・社会のニーズを十分に把握した上で、建学の精神・私学の特色を生かした質の高い教育研究等に取り組むことができるように、各私立大学・学校法人に応じた適切な意思決定を可能とする組織運営の確立、教育研究の状況や財務情報等の積極的な公開の促進、財政基盤の確立と基盤的経費等の一層のメリハリある配分を行うことで、私立大学におけるガバナンス機能の強化を図る。

・これらの取組を推進するため、必要な法令改正等の措置を行う。また、学長が全学的な視点に立ってリーダーシップを発揮し、大学改革を強力に推進しやすくする観点からも、全学的な戦略に基づく学内資源の再配分を促す資金配分の在り方を検討する。


資料7 大学のガバナンスに関する主な答申・制度改正の経緯

平成10年10月 大学審議会「21世紀の大学像と今後の改革方策について」答申

学長を中心とする大学執行部、評議会等の全学的な審議機関、学部長、学部教授会等が、それぞれの機能分担を明確にした上で、学内において意見聴取や説明を十分に行い、それぞれの連携協力の下で質の高い意思決定を行い得るような基本的な枠組みの整備が必要。(参考1)

○平成11年4月 国の行政組織等の減量、効率化等に関する基本的計画(閣議決定)

国立大学の独立行政法人化については、大学の自主性を尊重しつつ、大学改革の一環として検討し、平成15年までに結論を得る。

○平成11年5月 国立学校設置法を改正

国立大学が社会的存在として責任ある組織運営を行い得るよう、国立大学の組織運営体制の改革を実施。具体的には、評議会と教授会との役割分担を明確化するとともに、大学の将来計画などのような大学運営に関する重要事項について外部有識者の意見を取り入れるため、各国立大学に新たに運営諮問会議を設置。(参考2)

○平成12年12月 行政改革大綱(閣議決定)

国における独立行政法人化の実施状況等を踏まえて、独立行政法人制度についての地方への導入を検討する。

○平成14年3月 国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議『新しい「国立大学法人」像について』

学長・学部長を中心とするダイナミックで機動的な運営体制の確立等の法人化の在り方について報告。

○平成16年4月 国立大学法人、公立大学法人が発足

国立大学法人は、「役員会」制の導入によりトップマネジメントを実現 。「経営協議会」を置き、全学的観点から資源を最大限活用した経営の実現を目指す。(参考3)

公立大学法人は、地方独立行政法人制度において、大学における教育研究の特性に配慮した規定を設けたもの。具体的な組織運営等は、地方公共団体の裁量に委ねる弾力的な制度設計とした。(参考4)
※法人化された大学では、教育公務員特例法の適用から外れた。(参考5)

○平成17年 私立学校法を改正

理事、監事、評議員会の機能強化により、学校法人の管理運営体制を改善(参考6)


(参考1)

(1)責任ある運営体制の確立

 2)学内の機能分担の明確化

大学が一体的・機能的に運営され、また、教員が教育研究に専念できる体制を作るため、学内の機能分担を明確にした上で、学内において意見聴取や説明を十分行い、それぞれの連携協力の下で質の高い意思決定を行い得るような基本的な枠組みを整備することが必要である。
このため、学内の意思決定に関する基本的な枠組みとして、大学の運営と教育研究に関する機能分担と連携協力の関係を明らかにするという観点から、学長を中心とする大学執行部の機能、全学と学部の各機関の機能、執行機関と審議機関との分担と連携の関係、審議機関の運営の基本、事務組織と教員組織の連携の在り方等を明確化する必要がある。

(ア)全学の意思決定の基本的な枠組み

 (a)大学は、教育研究活動を進め、その水準の向上を目指す自律的な機関である。我が国の大学が、教育研究の各場面で飛躍的な充実を遂げ、社会からの理解と支持を得るためには、それぞれの大学が、一個の教育研究機関として一体的・機能的に運営されることが必要である。
また、現在、多くの大学において、教授等が学内の各種会議に大変多くの時間を取られ、本務である教育研究活動の遂行に大きな支障を生じているとの指摘が数多くある。教学組織内における意思決定機能の分担と連携の関係を明確化するとともに、専門的業務や事務執行を事務組織に任せることによって教員の教育研究に当てる時間を確保し、教育研究に専念できる体制を作ることも重要である。

 (b)このため、学長を中心とする大学執行部、評議会等の全学的な審議機関、学部長、学部の教授会等が、それぞれの機能分担を明確にした上で、学内において意見聴取や説明を十分に行い、それぞれの連携協力の下で質の高い意思決定を行い得るような基本的な枠組みを整備することが必要である。

その際、大学により様々な工夫の余地はあるが、学長等の執行機関が、学内のコンピュータネットワークやホームページ、広報誌の活用、若手やベテランなど各年代の教員との懇談などを通じ、大学運営の諸問題について、広く教職員の意見を聞くとともに、学長等の考え方を十分説明することが必要である。

また、学生は、教員等とは立場が異なるが、特に教育内容や学習環境などの関係の深い事項については、学習する側の立場の意見が重要であり、授業評価やアンケート調査などを通じ、広く学生の意向を把握するよう努める必要がある。

 (c)学内の意思決定に関する基本的な枠組みとして、大学の運営と教育研究に関する機能分担と連携協力の関係を明らかにするという観点から、学長を中心とする大学執行部の機能、全学と学部の各機関の機能、執行機関と審議機関の分担と連携の関係、審議機関の運営の基本、事務組織と教員組織の連携の在り方等を明確化する必要がある。

②全学と学部の各機関の機能

評議会等と学部教授会のそれぞれの機能については、評議会は、大学としての教育課程編成の基本方針の策定、全学的教育に関する教育課程の編成などを含め、大学運営に関する重要事項について審議する機能を担うこととする。学部教授会は、学部の教育課程の編成などの学部の教育研究に関する重要事項について審議する機能を担うこととする。このように、それぞれの基本的な機能を明確化することが必要である。

学長や学部長(執行機関)と評議会等や学部教授会(審議機関)との関係については、審議機関は学部の教育研究あるいは大学運営の重要事項について基本方針を審議することとする。執行機関は企画立案や調整を行うとともに、重要事項については審議機関の意見を聞きつつ最終的には自らの判断と責任で運営を行うこととする。このように、機能分担と連携協力の関係の基本を明確化することが必要である。

審議機関については、学長や学部長が議長として議案の発議や議事の整理を行うこと、事柄に応じ必要な場合には多数決で議事を決することなど、審議の基本的な手続きを明確化することが必要である。

なお、各審議機関が必ず審議すべき事項等については、法制度上の明確化を図る方向でその整理について検討することが適当である。

(ア)学部教授会

教授会については、学校教育法において、「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない。」と定められている。

学部教授会については、国公立大学の教員等の人事に関する規定を除けば法令の規定が簡潔であるために、実際の審議事項が多くなりすぎたり、本来執行機関が行うべき大学運営に関する事項や執行の細目にわたる事項についても、学部教授会の審議や了解を得なければならないといったような運用が行われている場合が見受けられる。

④学校法人の理事会と教学組織との関係

学校法人理事会と大学の教学組織との機能分担と連携協力の在り方については、教学組織における学長、教授会等の役割や機能を明確化するほか、両者の連携・意思疎通を十分に行うため、理事会の構成の工夫、あるいは理事会と教学組織の代表者との合同会議を設置するなどの方向で、改善を図ることが適当である。

(イ)学校法人理事会と教学組織との関係

 (a)学校法人の理事会と大学の教学組織との関係を明確化するためには、まず、教学組織内部における学長、教授会等の機能分担を明確化することが重要である。学内における機能の分担と連携の関係が整理されることによって、設置者と大学の各組織の協働関係が機能するものと考えられる。

 (b)大学によっては、設置者が決定すべき予算などの学校法人経営に関する事項についてまで教学組織の審議機関が具体的に審議決定し、設置者の裁量を事実上制約している例が見受けられる。

設置者は予算や定員などの学校法人経営に関する事項についても、教学組織の意見を聞くことは大切なことであるが、教学組織の役割は、理事会の構成員として参加している場合は別として、飽くまでも教育研究上の観点から、予算に関する方針について意見を述べるにとどまるものである。

 (c)学校法人の設立目的は、建学の精神に基づき大学を設置運営することであり、より良き教育研究を実現するためである。本来、理事会と教学組織は、共通の目的の実現のために役割分担をするものであり、こうした両者の基本的な関係を相互に理解した上で意思疎通を十分に図っていくことが大切である。

学校法人の理事会と教学組織との間の意思疎通を十分に行うためには、例えば、教学側に配慮した理事会の構成の工夫、あるいは理事会と教学組織の代表者との合同会議の設置、理事会側が経営方針や経営上の課題を教学組織に説明したりする努力をすることなどの工夫を行う方向で改善を図ることが適当である。

資料8 検討に際しての論点(例)

【学長のリーダーシップの確立】

○リーダーシップを発揮できる補佐体制の充実

・副学長や学長補佐、学部長、専門的な支援スタッフなど、学長の補佐体制を充実していく上で、どのような課題があるか。限られたリソースの中で、補佐体制の充実を進めていくためには、どのような方策が考えられるか。

○予算に関する学長の権限

・学長が、従来の予算配分にとらわれず、大学として重視する分野や着実な研究業績が出されている分野などに、メリハリのある資源配分を進めていく上での課題と、考えられる対応策はどのようなものか。

○教員人事に関する学長の権限

・学長が、優れた教員を積極的に登用するなど、メリハリのある人事を行っていくためには、どのような課題があるか。また、そうした課題にどう対応していったらよいか。

・高い専門性が求められる教員の人事については、各分野に専門的知見を有する教員組織の意見を、どのように考慮すべきか。

○学長の選考方法

・学長としての適格性を十分に考慮するためには、どのような選考方法が適当か。また、選考に際しては、教員組織や評議員会などの意向を、どのように考えるべきか。

【学内組織の運営・連携体制の整備】

○学部長の役割・選考方法

・全学的な方針の下で、それぞれの学部の「校務をつかさどる」学部長に求められるのは、どのような役割か。

・学部長としての適格性を十分に考慮することができる選考方法はどのようなものか。また、選考に際しては、学部教員組織や評議員会などの意向をどのように考えるべきか。

○教授会の役割

・各分野の専門家から構成される教授会は、どのような役割を果たすべきか。

・学長の意向と学部教授会の意向が異なる場合において、学長が適切にリーダーシップを発揮していくためには、どのような調整メカニズムが必要か。

○理事会や役員会の機能見直し

・学長のリーダーシップの下、各大学教育研究について最大限の成果を発揮できるよう、理事会や役員会の機能を改めて見直していくべきではないか。

○監事による監査機能の見直し

・監事が、教育研究に関する状況など、業務監査を含めて、その役割を効果的に発揮していくためには、その機能についてどのように見直していくべきか。

【大学の自律的改革サイクルの確立、各大学のガバナンス改革に対する支援】

○大学による自律的改革の推進

・大学が自律的にガバナンス改革を進めていくため、大学団体や教員団体等にどのような役割・機能が期待されるか。(例:米国では、大学教員協会や大学理事協会などの団体が、大学のガバナンスに関する権限、責任の在り方についての基本的な考え方を示している)

○国等による支援

・国の予算事業等において、大学の自律的なガバナンス改革を促すために、どのような支援が考えられるか。(例:補助事業の要件として、一部の部局だけでなく、全学的な取組であることの明確化を求めるなど、ガバナンス改革を間接的に支援)

<検討にあたって留意すべき観点(例)>

(大学の多様性・主体性)

国公私の設置主体ごとの制度的違い、規模や伝統の違い、総合大学と単科大学の違い、評議員会などの役割の違い、理事長と学長との兼務状況など、各大学はそれぞれ置かれている状況の中で、主体的に活動している。ガバナンスを議論する上では、こうした大学の多様性・主体性を十分に踏まえた検討が必要ではないか。

(国際的な大学制度との比較)

ガバナンスを議論するに際して、大学制度が国際的な共通理解に立脚していることに鑑みて、諸外国の大学制度との比較・均衡の視点に留意すべきではないか。


2013年7月8日月曜日

若手人材が活かされない日本

安西祐一郎さんのブログから「『ポスドク問題』について考える」をご紹介します。


ポスドク(post-doctoral research fellow)というのは、大学院で博士号を取得したのち、大学や研究所、企業などに常勤の職を得る前に研究の腕を磨くためのポジションです。ポスドクの職にあるのは、主に20代の後半から30歳半ばぐらいまでの、これから、という人たちです。

日本人のポスドクの多くは、国内にいるか海外かを問わず、知的にきわめて優秀であるだけでなく、人柄も良く、感受性もコミュニケーション能力も優れていて、どんな仕事に就いてもおそらく一流の仕事ができる人たちです。彼らと話していると、若い研究者の夢とエネルギーが感じられて、こちらまでワクワクしてきます。
・・・少なくともポスドクになってまもなくの人たちの場合は。。。

ところが、契約期限が近づいてきたポスドクと話をしていると、夢や理想というよりも、現実を前にした彼らの不安がひしひしと感じられることが多々あります。ポスドクは、任期が数年程度に限られている、有期契約(「非正規雇用」)職のため、研究を続けたければポスドクの間に無期契約(「正規雇用」)の研究職を見つけなければなりません。しかし、そういうポストは限られているので、契約期限が迫るにつれて不安が増してくるケースが多いのです。

企業や行政、財団などへの就職希望者ももちろん何人もいますが、多くは大学の「正規雇用」教員ポスト(教授、准教授、専任講師など; 助教の場合、最近は多くが任期付きポストのため、助教になっても将来が安定しているわけではありません)につくことを希望しています。ところが、国内の大学における正規雇用教員のポストの数は限られていて、定年で退職していく教員の数を考慮しても、ポスドクの一部しか大学の正規雇用職に就職できないのです。

しかも、とくに国立大学では、運営費交付金(国から個々の国立大学法人に毎年来る経常予算)削減の影響で正規雇用教員ポストが減り、その一方で、多額の予算を注入した短期間の大規模研究プロジェクトが急速に増え、プロジェクトの成果をあげるための短期研究要員として、ポスドクの人数が増しています。

しかも、最近の労働契約法改正によって、有期契約、つまり非正規雇用の期間が連続で5年を超えると、被雇用者が使用者に申し込めば無期契約、つまり正規の被雇用者に変われることになりました(改正第18条)。その結果、正規雇用を増やしたくない使用者側が5年までで契約を打ち止めにする、いわゆる「雇い止め」の問題が浮上しており、ポスドクが5年経って自動的に正規雇用になってしまわないように、期限が来ても延長などを考えずとにかく契約を打ち止めにしてしまう、という風潮が広がっています。

こうしたポスドクが、国内だけでも約17,000人、海外にもかなりいます。彼らの多くが、上にも書いたように、もともとはたいへん優秀で人柄も良い人たちで、そのうえ学術研究の最前線で基幹的な部分を担っている人がたくさんいます。研究論文の第一著者(つまりその研究に最も貢献した人;ただし数学、理論物理学など著者がアルファベット順などの場合もあります)にポスドクがなっていることも多いのです。

このように、日本の学術研究の将来を左右するはずのポスドクの人たちの行き場がない、というより社会的にキャリアパスが整備されていない、という問題を、「ポスドク問題」と呼んでいます。

ポスドク問題は、日本の将来を担って然るべき若手人材が活かされない、またその影響もあってポスドクになる前の博士課程にさえ入学する人が減ってきている、その結果日本の国力である基幹的な学術研究のための人材育成の基盤が大きく揺らいでいる、という負の連鎖の原点にある、日本の未来に関わる喫緊の課題です。

ところが、研究者、大学人、高等教育関係者など、ごく一部の人々を除いては、国民全体としてはほとんど関心がない。それどころか、「ポスドク問題」という問題があることすら知らない、というのが現状ではないでしょうか。

「えー、なにそれー!? 「ポスドク問題」が大変だっていったって、好きで研究してるんでしょ、それで就職先がないなんて、ずいぶん勝手な人たちじゃない?」とか、「高校を卒業して就職するか、大学の学部を卒業して就職するか、それがふつうなのに、中学を出て働いている人だっているっていうのに、30歳になっても不安定な研究職にしがみついているなんて、ずいぶん変わった人たちじゃありません?」とか、そんなことを言う人もいないではありません。

冗談ではない。日本という国が何によって支えられているか、もちろんいろいろなファクターがありますが、その中の大切なものとして、世界をリードする学術研究の発展があります。とくに学術研究は、人文学、社会科学から自然科学、医学、工学、その他あらゆる分野にわたっており、日本という極東の島国が一定の生活水準を保ちながら主要国と肩を並べて歩むには、その発展が必須の活動です。その活動を第一線で支えているポスドクの人たち、また博士課程の大学院生たちの人材育成が困難になってきたら、どうなるのか。多くの人にぜひ考えてみていただきたい。

先般6月にアメリカのワシントンDCを訪れました(ブログ6月23日付「ワシントンのさわやかな空気の中で」)が、その折に、ワシントン近辺で研究に励んでいる日本人のポスドクの人たちと懇談する機会がありました。

アメリカに長くいる人も、まだ来たばかりの人もいましたが、それぞれが夢を持ち、自分の研究に没頭しています。彼らに出会って、とても清々しい気持ちになりましたし、彼らの年代のころにポスドクだった自分を思い出して、「一刻を惜しんで研究に専念してほしい、それができる時は今しかありません」と心から伝えた記憶があります。

ただ、そこで会ったポスドクの何人もが、将来についての不安を口にしていたことも、忘れることはできません。つまり、上にあげた「ポスドク問題」に直面する日が彼らにもやって来るだろう、ということです。あるいはすでに直面している人もいたかもしれません。

正規雇用の就職先はもちろん日本だけでなく世界に広がっていますが、彼らと話をしているかぎりでは、やはり最終的には日本で職を得たいと思っている人が多いように感じられました。ただ、かりに日本の大学の正規雇用職についたとして、本当に自分のやりたい研究ができるのか、日本の大学の牢固とした階層性を気にしている人もいたように思います。

せっかくアメリカでポスドクの期間を過ごし、研究に邁進して良い成果をあげ、その後日本の大学に職を得たとしても、教授・准教授・助教の閉鎖的な階層社会のなかで、独立した研究者として扱ってくれるのか、教授の下でお仕着せの研究の下働きをやらされるだけなのではないか、ということです。(関連することがブログ5月24日付「大学の職位に「助教授」はない。「准教授」と「助教」がある。なぜ?」に書いてあります。)

何をわがままなことを言っているのか、日本の国内だって就職氷河期などの影響で仕事にあぶれている人が多いのに、自分の研究を好きなようにやりたいがその場がない、と不満を言うのは勝手過ぎるのではないか、と感じる方もおられるかもしれません。

もちろん、ポスドクといえどもプロですから、プロの道を志すからには、ポストの獲得が競争になることは当然です。抜きん出て優れた研究ができるとみなされる人だけが良い研究職に就くことができるというのは、プロの世界では当たり前のことです。

ただ、「優れた研究」をしている研究者を、大学や研究機関は、採用や昇格のときに公正に見分けているのでしょうか? 教授、准教授、助教、ポスドクなどを、職位や正規・非正規の雇用関係とは無関係に、研究者として公正に比較評価しているのでしょうか? 

コネとかうわべの人間関係とか出身大学とかでなく、世界に冠たるscience merit(研究の価値)を産み出す研究力を公正に評価して採用や昇格を判断しているのか、「ポスドク問題」の解決のためにも、とくに日本の大学についてあらためて考えてみる必要があるように思います。なぜなら、研究者の公正な評価は学術研究の健全な発展の基礎であると同時に、ポスドクの人たちにとっての生命線だからです。

とりわけ、学術研究の本質を揺るがせにしないだけでなく、知力に優れ人柄も良い(はずの)ポスドクの人たちがやがて挫折していってしまう、その根にある「ポスドク問題」を解決するためにも、大学における個別の教員の評価を公正にしていくことは、とくにシニア世代の関係者の義務だと考えます。

というのは、ポスドクの人数を多くしてきたのは、結局のところ、目標を限定した大規模研究プロジェクトをたくさん立て、プロジェクトの成果をあげるために類似のテーマを研究させるポスドクポジションを大幅に増やしてきた政策担当者や、政策に関与してきた大学人・企業人だったからです。

また、実は分野によってポスドクの人数には偏りがかなりありますが(たとえば理工系とひとくちに言いますが、理学系と工学系では事情がかなり違い、工学系ではむしろ博士課程に入学しないことが問題になっています)、そういう偏りを産み出してきてしまったのも、結局のところシニアの人たちだったからです。

私自身もシニアの一人だとすれば、私にできることの一つは、science meritを重視した公正な研究者評価の実現に貢献することです。研究の世界も他の業界と同じで、現実にはいろいろなことが絡み合っていて解決を阻むいろいろな課題があり、実現にはある程度の時間はかかるでしょう。しかし、若い世代のこれから、そして日本のこれからを考えると、難しいからといってそのままにしておくことはできません。

なお、ここでは大学教員の研究評価やポストのことに限定して書いてきましたが、ポスドクや博士課程の院生の人生航路は大学の教員に限られるわけではありません。企業、行政、民間研究機関、国際機関、地域社会、その他、大学院時代からの研究経験や知識を活かしてできる仕事は、知識と知恵が必要とされる現代の社会、とくにグローバル化した世界では、飛躍的に増えています。そのことを、ポスドクや院生の人たちはもう少し深く理解して、自分のキャリアパスをできるだけ広く考えてほしいと思います。

いずれにせよ、科学の成果の多くは若い人たちの自由な発想から生まれます。優れた若手研究者に自由な発想のできるポストをできるだけ用意することが、学術研究だけでなく、21世紀日本の国力の源になっていきます。その方向づけをすることは、私を含め、シニア世代の研究者の義務だと思っています。


2013年7月7日日曜日

科学技術白書


政府は25日、2013年版の科学技術白書を閣議決定した。日本の国際競争力が低下しつつある現状を踏まえ、「科学技術力で成長と豊かさを追求する国を目指す」と明記。科学技術の実用化によるイノベーション(技術革新)創出に力を入れていく姿勢を、前面に打ち出した。

白書は、日本発の研究論文の世界的な位置づけが、「質量ともに低下している」と指摘した。09~11年の論文数は、10年前の2位から5位に低下。特に、他の論文に引用された回数が上位10%に入る「影響力の大きい論文」の数は、4位から7位に下がっている。このため、科学研究を原動力としたイノベーションの創出に向け、若手が研究しやすい環境作りや国際共同研究の戦略的な推進とともに、研究成果を事業化につなげる支援策が必要だと訴えている。(2013年6月25日読売新聞)


平成25年版 科学技術白書(文部科学省)










著者 : 瀬戸内寂聴
扶桑社
発売日 : 2013-01-16