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日本に限らず世界的にも大学図書館で大きな問題になっているのが学術誌の価格高騰問題である。問題の深刻さを受けて、平成22年には日本学術会議が「学術誌問題の解決に向けて―「包括的学術誌コンソーシアム」の創設」という提言もとりまとめている。問題の背景には何があるのか。柴田正良金沢大学附属図書館長・人文学類教授に寄稿してもらった。
1 シジフォスの岩の如く
この間ずっと大学図書館の関係者を苦しめているものの一つに、電子ジャーナルの価格高騰問題がある。こう言うと、電子ジャーナル問題とは図書館が抱える「財布」の問題にすぎないように聞こえるかもしれないが、実はそうではない。この問題には電子技術的な側面から国家の科学政策的な側面まで実にさまざまな論点が含まれているが、きわめて素朴に言えば、本質は、「人類がいかに自らの知的成果を公平かつ効率的に共有しうるか」ということである。とはいえ、これが大げさだと言うなら、「研究者は今、どうしたら自分たちの成果を取り戻すことができるのか」と言い直すこともできる。
「取り戻す」という言い方は、この問題がここ20年ほどの間に爆発的に膨張してきたという事実を訴えたいためである。17世紀の中頃から20世紀の中頃まで学術共同体の間に存在していたという「贈与の円環」(関係者の応分の負担による学術情報受発信システム)が崩れたあと、なぜ電子ジャーナルの価格高騰問題がこうも急速に先鋭化したのか。以下では、いまや複雑怪奇となったこの問題を素朴な視点から捉え直し、解決の方向に何が見えてくるのかを考えてみたい。
まず、電子ジャーナルを含めた電子資料の現状を見るために、幾つかの数字を拾ってみよう。電子ジャーナルの発行タイトル数は、全世界で、1990年を出発点として2006年には4万5000タイトルにまで膨れあがっている(Ulrich,s Periodicals Directory)。2008年には、全世界でSTM(理学・工学・医学)系の学術誌の約96%、人文・社会科学系の約87%が電子ジャーナルとなっている(Association for Learned and Profe ssional Society Publishers)。日本の全大学の電子ジャール受入数は、1997年で1大学平均約10タイトル(国立大:約20)だったのが、10年後の2007年には約2800(国立大:約7000)にまで増えている(文科省「大学図書館実態調査及び学術情報基盤実態調査」)。一方、出版社はこの間に情報提供の基本を冊子体から電子媒体に移したので、研究者からすると、ほぼ全分野において電子ジャーナルなしでは生きていけない状態なのだ。
以上を経費の面から見よう。世界的には、自然科学系の雑誌平均で1995年に約600~1100ドルだった価格が、14年後の2009年には約2000~3600ドルにまで跳ね上がっており、この間の全分野平均価格上昇率はなんと年率8.5%である(Library Journal Periodical Price Survey)。日本では、2009年度の調査段階で国立大学外国雑誌経費は約121億円(国立大学図書館協会契約実績調査)。それと単純比較はできないが、2011年の国公私立510大学の電子資料費の総額は253億円という試算がある。具体的には、2011年度の電子資料総額が例えば金沢大学で年間約2億円、東京大学では優に10億円を超える。しかも、ほぼすべての大学は「足抜け」するとペナルティをくらう(!)総額維持のパッケージ契約を強要され、それを経費の根拠もなしに毎年5%は上げるというのが出版社側の言い分だ。
この間、電子ジャーナルの価格を押さえ込もうとする様々な試みがなされてきた。しかし、それは苦闘と挫折の歴史であって、成功の歴史ではない。日本学術会議は「学術誌問題の解決に向けて」と題する提言を2010年に行って警鐘を鳴らし、2012年に結成されたJUSTICE(国公私大の大学図書館コンソーシアム連合)による出版社との契約交渉なども成果を上げ始めてはいる。しかし、残念ながら状況はシジフォスの岩の如く、何度、頂上へ岩を運び上げようとも、最後に岩は谷底に転げ落ちてしまうのだ。
2 プロメテウスたちの解放の時へ
単純に考えてみよう。品物が高すぎるなら、安いところから買えば良い。同じ品物を安く売るところがあれば、客はそちらで買うだろう。売り手側の競争の結果、品物は妥当な値段まで安くなる。しかし、この健全な市場の原理が電子ジャーナルの場合には通用しないのだ。なぜか。それは電子出版業界が独占企業だからである。先に述べた巨大な市場は、たかだか大手八社によってその70%が占められている(英国下院科学技術委員会調査:2004)。「独占」が何をもたらすかは、先頃の日本の電力業界の実態によってわれわれも思い知らされたばかりだ。独占企業は、競争を免れた市場のアウトローである。
では、高すぎる品物なら別の品物で我慢すれば良い。ところが、学術誌は代替が効かない。掲載される研究成果はそれが世界で唯一だからこそ価値があり、それを掲載するからこそ、その学術誌に価値がある。つまり電子ジャーナル業界は、「生産者相互が商品をいかに安く提供するかを競う」という市場原理が働かない分野である。それにもかかわらず、巨大な資本がそこに参入し、巨額の利益を吸血鬼さながらに吸い上げているのだ。
したがって、人類の知的成果の共有という点から言えば、学術誌の領域から資本は撤退すべきである。そもそも学術誌の内容は研究者が生み出し、それを研究者が消費する。間に介在する出版社は、学術誌の価値の本体を生み出してはいない。したがって、いずれは学術誌を企業利益の対象としないNPOのような非営利団体が結集して、人類の知的成果の共有を担うべきである。また、論文作成者が論文掲載によって求めるのは「金銭」ではなく「名誉」なのだから、著者の「名誉」と「権利」が確保されたなら、本来は瞬時に無償で、世界中の研究成果が世界中の人々によって共有されるのが理想である。電子媒体こそ、機関リポジトリ(大学・研究所等によるインターネット公開)などを介して、それを可能とする。
では、そうならないうちは、いっそそんな品物は買わなければ良い。これがたとえ一時でもできたなら、全国の大学図書館は大手出版社と厳しく渡り合うことができただろう。しかし、言うも愚かなことに、これは、科学の最前線で戦おうとする研究者や大学にとって不可能な選択肢である。だがいくら研究のためとはいえ、なぜ一致団結した「不買運動」すら起こすことができないのか? この問いによってわれわれは、電子ジャーナル問題の最も深い真実に導かれる。
研究者や大学図書館が既存の電子ジャーナルを止められないのは、それが研究者の「評価」システムに深く食い込んでいるからだ。研究者の評価は、良質の論文をいかに多く生み出しているかによって決まる。それによって就職も、より良いポストへの移動も、科研費や各種補助金の獲得も左右される。したがって論文の評価は厳格になされるべきだが、実際は、どれだけインパクト・ファクター(IF)の値が高い雑誌に掲載されたか、という間接的な基準によってなされる。Natureなどの国際的な一流紙は、高いIFをもつがゆえに、研究者はこぞってそれらに投稿する。しかも、仲間と競争して勝つには、IFの高い雑誌への掲載を次々に実現していかなければならない。こうして、一流紙を頂点とした電子ジャーナルの階層構造の下で、論文の大量生産が継続されていく。
つまり、研究者は自分で自分の首を絞めているのだ。電子ジャーナル問題の泥沼から抜け出すには、最終的には、研究者に対するこういった評価システムを変えなければならない。既存の電子ジャーナルへの研究評価の依存から脱却しない限り、この問題は永遠に解決しないだろう。人類に知恵の炎をもたらしたプロメテウスたちを、もはや悪しき評価の呪縛から解き放つべき時なのだ。