今さらながらウィリアム・クラーク博士のこの言葉を引き出したいと思わせたのが日経電子版の「就活最前線を行く、学業、学歴再び重視?」という記事、そして「創論、時論」では「今の若者は元気がないのか」という読者参加型特集が組まれていることにふと引っかかることがあったからでしょうか?
折しも受験シーズンで私の周りでも子弟の受験状況があちらこちらから聞こえてくるのですが、親も子供が目標校に合格してホッとしていている一方で、都立は受験日まであと二週間となり、最後の追い込みで親としては何が何でも受かってもらいたいという願いからか、パソコン対話型塾では通常は一時間いくらのところを「勉強やり放題パッケージ」なるものも登場し、その過激なる受験戦争もいよいよ最後の追い込みとなっているようです。
親が子を思う気持ちというのは程度の差こそあれ、昔と変わらないかもしれません。親としては「有名校」に入ってもらい、「履歴書の泊」や就職活動を有利に進める「長期戦略」のもと、最終的に安心できる企業に入ってもらって安泰なるライフを送ってもらうという気持は時代が変わろうともさほど変化していない気がします。生活費は削ってでも子供の塾代は出す、という家庭が多いのは日本独特の家族の絆のあり方なのかもしれません。
それは言い換えればやり直しが効かない日本の社会構造ともいえるかもしれません。子供から見ればなぜ、いま、こんなに勉強し、ワンランクでも上の学校に行かねばならないのか、正直、自覚がどこまであるかは疑問です。学校の先生から、あるいは塾の先生や仲間から、そして親からはっぱをかけられ、とにかく試験でよい点を取るということに自分のマインドが完全に支配されている人も多いでしょう。私だってスパルタ塾で「君たちの正月は合格発表日だ!」という熱い掛け声のもと、目の前の模擬試験に集中し、将来のビジョンなど何も考えていませんでした。
ところが一旦学校に入れば親は学校環境については著しく口を出すものの勉強そのものについてどうこうするというケースは私はあまり聞いたことがありません。それは親としては押し込んだ学校に任せてしまうというスタンスであとは親の描いたピクチャー通りに子供が就学してくれればそれで結構なのであります。
しかし、子供にとって将来のビジョンについてハタと気がつく時が必ずしも就学時代に来るとは限らず、もしかしたら就職してからやり直したい、と思う人も多いはずです。ところが日本の企業の人事部は就職希望者が多いこともあるのでしょうけれど、履歴書という美人コンテストで「美しい!」と思う人につい、目が行くのです。英語はTOEICで何点取っているという申告に「君って英語ができるんですね」というナチュラルな評価がついて回るようになっています。
逆に立派な履歴書を持っていると自分は成功への道を進んでいるという気持が大きくなり結果として履歴書がfragile(壊れやすいもの)として自分への賭けをしなくなることも事実でしょう。「僕はこの会社の名刺を手にすることが夢だったんだ!」ということかもしれません。
昨今、ハングリー精神という言葉を聞くことはほとんどなくなりました。自分で自分の道を切り開くなんてありえないわけで出来合いの線路に乗っかって超特急で快適に進むことを当たり前としてきたのが日本の社会の本質ではないでしょうか?
日経ビジネスの特集「シリコンバレー4.0」にベンチャー活動世界最下位の日本が大きく取り上げられています。そしてシリコンバレーのおひざ元、スタンフォード大学では卒業生の29%が起業し、約4万社が卒業生により作られ、280兆円の年間収入を生み出すとあります。この数字を見た時、一流企業の名刺に喜びを感じるために青少年時代を犠牲にしてきたことが果たして正しかったのか、という疑問を感じているのは案外自分自身であります。