第1に、経営上の本質的な課題を先送りしているということである。例えば、人件費マネジメントに関して、取り組みのスピードが遅い。ようやく、主要大学でも予算不足から重い腰を上げつつあるが、そもそも人件費抑制の手順が合理的でなく、教員の人員削減は時間ばかりかかって計画策定になかなか至らない。学長が部局の要望を踏まえて再配分もするとリップサービスすれば、最終形がどのようになるのか、誰にも分からなくなる。財務的に持続可能なゴールの姿を示さずに、包括的な人件費改革ができるはずはない。また、人事院勧告準拠は、国の予算不足で無理になっているにもかかわらず、準拠の基本線を維持しようとするために、一部の大学では、地域手当の増額など、無益な人件費増を実施している。今日、世界で進みつつある大衆迎合主義の弊害は、しばしば学者からも指摘されているが、学問の府たる国立大学法人において、人件費マネジメントが進まないのは、大学人自身が大衆迎合主義に流されているからである。
また、物件費が削減されているため、空調など設備投資が先送りされており、施設本体とともに老朽化が進行している。今後、電力料金が上がってくれば、財務的にも一層苦しくなる。非効率組織、不要資産の切り捨てを含む経営判断がないままに、予算の範囲内でやれることだけをやるのでは、全体として大学が陳腐化するだけである。捨てるものを特定して、何に資源を集中するかを判断している学長は稀である。国からの予算が減額になれば、維持・再生するのが難しい組織や施設に関して、積極的に切り捨てる判断ができないのでは、すべてが後手になる。自分の任期中に破綻しなければ、後は野となれ山となれなのだろうか?
さらに、国立大学法人の多くが抱える本質的な課題として、給与制度改革(混合給与の導入、企業とのクロスアポイントメント等)、附属学校の統廃合、事務職員の専門性育成、強みのある分野での研究力強化、広報機能の抜本的充実などがある。こうした課題に関して、失敗を恐れずに、具体的なアクションを起こした大学は、まだ救いがあるかもしれないが、取り組んでいる振りに終わっている法人が大半ではないか?根本的には、事務職員の能力・意欲レベルが全体的に低いという問題が、すべてに悪影響を及ぼしている。最重要の経営課題であるが、教員出身の学長・副学長だけで画期的な成果を挙げられるとは思えない。現実から目をそむけていても、説教だけで事務職員の組織・個人の力量は一向に改善しない。
第2に、学長が自分の経営力を過信して、十分な計画を練らず取り組みを始めてしまうことである。計画自体の適合性に関する検討、特にマーケティングが十分に行われることがない。学長自身が思いつきを次々と手がけようとすれば、所要の体制・資源の確保が二の次になる。そのアイデア自体が、法人にとって長期的にプラスになるのか、分からないものが多い。財源を含む企画案が、役員会に諮られないという信じられないことが当たり前になっている法人もある。その場合は、プロジェクトの目的、成果目標、資源配分、評価基準など、一切が不明確になる。国立大学法人の経営に関する責任と権限を集中し過ぎたために、勘違いした学長が、こうした「暴走」をすることになったのではないか?経営者としての基礎基本ができていない人がトップに居るのだから、まともな経営になるはずがない。国の予算措置が切れれば、維持が困難な事業・組織も多い。財務面の持続可能性は往々にして無視される。結局、引き継いだ者が後始末をすることになるのだが、当初の経営判断が間違っていれば、すべての努力が無駄になる。かつては文科省が大学の概算要求を厳しく吟味していたが、昨今は、その力量がある職員がいなくなっており、法人の自主性の名の下に、誰も学長の「暴走」をチェックしない無責任体制になっている。こうした事態は、法人の財務に余裕がなくなっているからこそ、非常に危険である。
第3に、学長が個性を発揮するつもりで、組織いじりに走る傾向もある。特に、事務組織の作り方と教員・職員の協働体制において、標準となるモデルがないために、本部に集中してみたり、部局に職員を1人ずつ配置したり、行き当たりばったりの状態になる。組織を解体してしまえば、人材育成ができなくなる。独断で進めた組織再編は、碌な結果にならない。他方で、人に仕事を付けるという傾向もある。信頼して使える人が限られるのである。この副学長にやらせたいから、業務をその部に移すというようなことをやっている学長がいれば、本人の経営力は知れていると見なければならない。組織を経営する上で、力量がある人に任せて成果を挙げられるようにサポートするのが、上に立つ人間の役割である。しかし、世の中には、そうしたことができない人間もいる。器が小さいからである。そうした人が、国立大学法人の学長になっているとすれば、悲劇である。私は、国立大学法人評価委員会の唯一無二の役割は、学長の器ではない人物をその職から退かせることだと思っている。法人の経営協議会は学長がやろうとすることに助言こそできるが、経営者としてやるべきことをやっているかどうかを、逐一チェックすることまでの期待はできない。
第4に、教員出身者は、総じて組織としての利益相反に無頓着である。文科省・経産省の合同で、最近策定された産学官連携ガイドラインでも、この点は、要注意とされている。特定の構想について、特定の業者とだけ情報交換して、その知恵を借りて企画案が作成されれば、公正な競争が損なわれていることは明らかである。そうした行為が、極めて問題であるという感覚が希薄なのは、嘆かわしいことである。コンサルがほしければ、きちんと業者と契約して、金を支払って情報を得る癖をつけなければ道を誤る。以上のような問題が起きるのは、トップである学長個人にも原因はあろうが、副学長・学長補佐・事務職員を含む補佐体制が弱いこと、大学としての情報収集・分析力が弱いこと、研究室程度の運営しかしてこなかった教員に大きな組織のマネジメントに関する知識・経験が浅いことが、根本的な要因である。学長に責任と権限を集中したのだから、何をしてはいけないのかをきちんと教えた方が良い。学長が経営者としての倫理規範を逸脱すると、国立大学として致命的な傷を負う可能性がある。ある程度好きなようにやってもらって、失敗から学んでもらうのが、基本的には望ましい。自ずと実行困難でストップするかもしれない。しかし、他人の意見を素直に耳に入れることができない人もいる。学長や副学長になる人には経営知識が欠けていることを前提にシステムを作るべきだろう。
最後に、以上の分析に基づいて、構造改革を適切に進めるためには、企業で当然に行われている組織変革のためのマネジメントの手法に学ぶことが最も重要である。まず、近未来の財務状況予測を、より精度高く示して、危機感を共有する。何が課題かについても、きちんと討議して、経営陣が共通認識を持つ。その上で、構成員にも、きちんと説明して、危機感を共有させる。次に、予測を踏まえて、改革シナリオを複数用意して、副学長以上のレベルで、総合的な議論をする。最終的には、組織・人員の最適な規模・形態を詰めて、完成型と手順を含む改革プランを策定する。さらに、改革プランに関して、大学の構成員に示して、その理解のもとに実行に移す。その際、事務職員の中からリーダーとなる人材を抽出して、業務を遂行させつつ、育成する。以上のような組織変革をリードできないと判定された人は、文部科学大臣の見識として、学長に任命しないことである。これ以上、時間を浪費してほしくない。