大学の使命や役割の達成には「教職協働」が不可欠であることが、大学現場で実証されている一つの例が報道されました。
「部局自治」の牙城である教授会に職員が乗り込むという、一昔前では予想もできなかったことが現実のものとなりました。
時代の大きなうねりが大学を変えようとしています。
教授会も経営感覚 京産大が「学部長補佐制」
大学の学部の最高議決機関である教授会に、「学部長補佐」として登用した発言権のある職員を出席させる制度を、京都産業大(京都市北区)が導入した。
教授を中心とした大学運営に経営感覚を取り入れ、「事務方」としてのイメージが強かった職員の意識を高めるのが狙い。
教授会に、教員以外の職員が発言権を持って同席するのは、「全国的にも例がないのではないか」といい、新たな試みが他大学の注目を集めている。
京産大は昨年10月、7つの全学部と、全学生の共通科目を運営する「全学共通センター」、大学院の「法務研究科」に、職員を対象にした役職である学部長補佐を設けた。
これまでも、各学部の事務長が教授会に出席していたが発言権はなく、書記としての役割しか任されていなかった。
学部長補佐は各学部に所属していた事務長と異なり、学長を補佐する「学長室」に所属し、学長と学部長のパイプ役も担う。
学部長補佐を設けたのを機に、事務長は廃止した。
経営学部の西浩司学部長補佐は就任後、月1回の教授会に出席しているが、43人の教員を前に「緊張する。求められて発言したことはあるが、自ら発言したことはまだない」という。
ただ「事務的な役割だけでなく、自らが学部改革などの大学運営に携わっているという意識は高まった」と効果を強調する。
一部の教授から「大学の経営面での効率が優先され、学部の自治が保たれない恐れがあるのではないか」との声も聞かれるが、大学によると、教員からの大きな反発はないという。
京産大学長室は「学部長補佐には、教員と互して発言することを期待している。教職員が一体となって大学改革を進める起爆剤にしたい」としている。(2008年1月11日京都新聞)
大学特有の「組織風土」
上記のような教職協働に関する記事が社会に発信されるようになることは、大学人としては真に喜ばしいことですし、このような取り組みの積み重ねが、社会に理解される大学ととして発展していく礎になると思います。
しかしながら、大学というところには、昔から社会の皆様にとって理解しがたい「部局自治という特殊な組織風土」が存在しており、これが教員と職員の関係や相互の意識の乖離をもたらし、積極的な教職協働の妨げになってきたのではないかと思います。
この組織風土について、ある国立大学の経営に外部人材として参画されている方は、次のように発言されています。
大学にいて、私が強い不満を感じることをひとつ話しておきたいと思います。
大学では、会議、委員会とかがすごくたくさんあります。ところがそのメンバーに、自分たちが決めたことに対する責任意識が希薄に思われてならないんですね。
例えば、自学の場合、○○長会議というのがあって各部局長が正式メンバーとして参加します。従って、部局長はそこで決定されたことを自分の部局で確実に実行する義務があると言いたいのですが、必ずしもそうはいかない。自分の部局に持ち帰って、そこの教授会ではかばかしい反応が得られないと「当面実施を見合わせる」という選択をしても、責任を問われることもない。
そんなことで、大学では往々にして物事にスピード感がなく、後ろへ後ろへと際限なくずれていく結果になる。しかも、それが問題視されることはほとんどないといってよい。
調達改善のような効率化案件は、実施が延びればそれだけ効果も失われるということで、私は焦るわけですが、あたかも大学にとってもっと大事な何かを守るためであるかのように、物事が遅れることをあえて問題視しない感じがあります。
法人化の際には「大学の特殊性」ということが随分と強調されたようですが、大学にとって大事なものとは何なのか、またどこまでが「大学の特殊性」として説明できるのか。
やはり、学内で当然のように受け取られていること、大学が正しいと思ってきたことについても、我々はいろいろと疑問をなげかけていかなくてはならないと思います。
確かに昔、大学に勤め始めた頃、大学内の意思決定権限が、企業でいえば社長に当たる学長ではなく、実質的には各部局の教授会にあることが不思議でなりませんでした。
各部局の代表者で構成された会議で決定されたことが、教授会でいとも簡単にひっくり返ることも少なくありませんでした。
この慣習や風土は、今でも完全にななくなってはいないようです。
「学問の自由」と「部局自治」
引き続き、座談会の様子を見てみましょう。
改善を進める中で痛切に感じさせられたのが、大学における「部局自治」というものでした。
学長のリーダーシップ、大学本部が強力に施策を進めることへの隠然たる反発、また部局ごとに業務体制がマチマチであることなど、部局自治の影響はさまざまなかたちでいわば障害となりました。
部局自治は、本来大学における「学問の自由」を守るための重要な原則なのでしょうが、長い時代この伝統に従ってきた中で、細かな事務手続きに至るまで部局ごとに別々の仕組みが育ってきた実態があります。
学問の自由を守るために大学として断固として守るべき「部局自治」はそれとして、効率性の観点から「ひとつの法人」として全学統一の基準・手続きによるべき部分が区分けされなければならないように強く感じるのですが、なかなかそれが進みません。
法人化後、大学本部主導で全学的な何かをやろうとすると、まずは部局自治を冒すものではないかという警戒心が先立つ傾向がある。
やはり、何までが部局の自治に委ねられるべきなのかの精査が必要だと思うんですね。ひとつの法人になった中で、今後「協調」の部分がどうなっていくかが経営上の課題だと思っています。
もう一つは、繰り返しになりますが、学問の自由という亡霊を恐れてはいかん。
個々の研究教育の内容に立ち入り、干渉することは避けるべきであろうけれども、学問の自由という名に隠れて、何でもかんでも部局主義だという。
だが、これを恐れちゃいかん。ところが現実は、たぶん、弊学の学長さんだって、ギリギリのところで遠慮しています。
僕は自分の大学の自慢するのはいやだけど、学長さんは随分頑張ってやっていると思うし、やり方も上手い。でも、もう一歩踏み込めば、という感じがする。
「大学の自治」という言葉の持つ本当の意味
それでは「大学の自治」とは何か少し考えてみましょう。
大学に勤務していると、大学が持つ多くの機能、役割、使命などについて研修を受ける機会があります。さらに、日常の業務を進める中で、同様のことについて上司や先輩方から指導を受けることもあります。
その中で「大学自治」という言葉の持つ意味を学習する機会もあるわけですが、現実は、言葉本来の意味とは大きく異なるもののように思います。
学問の自由を保障する崇高な理念や大学全体の最適化よりも、教授会の最適、組織防衛が優先され、本来の「大学の自治」がいつのまにが「教授会による部局自治」にすり替えられているのではないかと思うのです。
「大学の自治」とは、簡単に言ってしまえば、「憲法に裏づけされた大学における「学問の自由」を保障するために、長い間大事に守られてきた大学の自主性を尊重する制度あるいは慣行」であるはずなのです。
若い頃学習した古ぼけた資料をひっくり返してみると、「大学の自治の目的や具体的内容」について、次のようなことが書かれてありました。
大学における学問の研究とその成果の教授は、外部の政治的、経済的、社会的、宗教的などの諸勢力の干渉を受けることなく自由に自主的に行われることが必要であるが、「大学の自治」はこれを保障するために認められているものである。
その主要な点を国立大学についてみると次のとおりである。
- 大学においては、研究並びに教授の自由が保障されること。
- 学長、教員等の教育研究に携わる者の人事は、大学の自主的決定に委ねられること。
- 大学の教育研究は、大学が自主的に決定した方針にしたがって行われるべきこと。
「教授会」というところ
聞くところによれば、教授会の会議は、昔はびっくりするほどの時間がかかっていたようです。例えば、午後3時からスタートして、議論が延々と続き結論も出ないままに午後9時頃終了とか。お腹がすいて途中退席して夕食をとってまた戻って参加するといった人もいたようです。
教授会のお世話をしている職員から聞く話では、会議では、学部や大学の執行部への批判など一部教員のガス抜きの場面が少なくなかったようです。事実だとすれば大変虚しい話ですね。
議論の内容にもよると思いますが、教育研究を使命とする教員がこのような会議に貴重な多くの時間やコストを消費することが、果たして国民や学生の付託に応えることになるのかどうかとても疑問に思います。
法人化された現在では状況も少しずつ改善されてきているようですが、もともと教授会は本来行うべき審議事項以外に多くのことを議論してきたような気がします。
これまで、文部科学省はそのような状況を改善すべく、国の審議会による答申や学校教育法の改正などを通じて教授会の権限を少しずつ形骸化させ力を弱める戦略をとってきました。
また、法人化後は、従来の最高意思決定機関であった評議会を廃止し、学長や役員会に大学の意思決定や経営に関する多くの権限を与え、その下に、法人経営に関する重要事項を審議する「経営協議会」と、教学に関する重要事項を審議する「教育研究評議会」を並列的に設置することとしました。
このように、これまでの教授会による大学運営支配は、制度上は完璧に骨抜きにされているのです。
しかし、こういった制度改善が図られながらも、いまだに大学における教授会の力はすさまじいようです。
例えば、役員会など国立大学法人法で設置や審議すべき事項が定められている会議であっても、この教授会の開催日を中心にスケジュール調整がなされている大学もあるとか。
おそらく教員も教授会の問題点がどこにあるかは認識しているはずなのですが、なかなか改善していないようです。
国立大学の場合、約4年前までは、教育研究を行う大学でありながら、文部科学省の出先行政機関として位置づけられ、勤務する教職員は国家公務員だったわけですから、性格や体質を急に変えることは大変な苦労が伴うことは確かです。
ですが、国民の尊い税金をいただいて営んでいるという国立大学の不変の公的性格から考えれば、組織風土の改革は当然のこととして取り組まなければならない課題なのではないかと思います。
心ある教員の方々には是非勇気をもって改革していってほしいと思います。
参考までに「大学の自治」に関する政府の国会答弁と、教授会の運営に関する大学審議会答申をご紹介したいと思います。
約4年前の法人化によってはじめて可能になった制度改革の一部は、実は昭和40年代から既に国会において議論されていたこと、しかしながらそのような大学を良くする重要な取り組みが、「部局自治」による執拗な抵抗によって何年もの間実現できなかったことがおわかりいただけると思います。
「大学の自治」に関する政府の国会答弁
■大学の自治について
大学の自治は、これまでは学部の教授会が中心に運営してきたものであるが、学部割拠の大学自治で、全学的な大学自治になっていない欠陥も露呈している。
学部中心のものでなければ大学の自治がないのではなく、その欠陥を是正する、そして教育研究に直接責任を負う教員及び教員の組織が基盤となっている限りは、いろいろな大学自治のあり方を工夫すべき。(昭和48年5月9日、衆議院・文教委員会)
■大学の管理運営の改善について
教授会を中心とした従来の国公立大学の管理運営のあり方については、閉鎖的、独善的な運営に陥りやすいという批判が以前からあった。責任体制がどうも明確ではないではないかというふうな欠陥が指摘をされてきているところ。
大学が閉鎖的、独善的な運営に陥ることなく、開かれた大学として国民の声を反映して、社会の要請に即して運営されるようになるためには、一つの方法として、大学の運営に学外者を参加させるということも一つの考え方。
そういう工夫を検討しなければならないが、過去の立法の試みでは、大学の管理運営組織の中に直接学外者を参加させる方式を考えたことが何度かあった。
しかし、これは大学関係者のコンセンサスをどうしても得ることができずにそのまま終わっている。
しかし、学園紛争のあの40年代の大紛争を経験した各大学の中に、自主的に管理運営のあり方を工夫しなければいけないという動きもまたあらわれてきていることも事実。
文部省としても、このような動きを助長するために、副学長とか参与等が置けるように法令の改正を行った。(昭和53年5月12日、参議院・決算委員会)
益々急激に変化する現代社会にあって、大学の教育研究に対する社会の期待も大きくなると同時に、複雑化、多様化していると考えられる。
大学の社会的責務の重要さに鑑み、大学が自らこれらの状況を十分に把握しつつ教育研究を推進することが必要となっており、これを効果的に行う見地から、例えば、必要に応じ学外有識者の意見を教育研究に反映させる仕組み、外部との人事交流や研究協力の推進、教育研究活動に関する不断の評価等、種々の工夫が行われることも大切となっていると考える。(昭和62年7月31日、衆議院・文教委員会)
部局自治の中心となる「教授会」の越権をいさめる答申
■学部教授会
教授会については、学校教育法において、「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない」と定められている。
学部教授会については、国公立大学の教員等の人事に関する規定を除けば法令の規定が簡潔であるために、実際の審議事項が多くなりすぎたり、本来執行機関が行うべき大学運営に関する事項や執行の細目にわたる事項についても、学部教授会の審議や了解を得なければならないといったような運用が行われている場合が見受けられる。(「21世紀の大学像と今後の改革方策について-競争的環境の中で個性が輝く大学-」(平成10年10月26日大学審議会答申)(抜粋)