2014年6月30日月曜日

認知症をどう受け入れるか

朝日新聞によれば、厚労省研究班の推計によると、65歳以上の高齢者のうち認知症の人は15%で約7人に1人、2012年時点で462万人にのぼる。さらに軽度認知障害(MCI)と呼ばれる「予備群」も約400万人いる。認知症の把握がより正確になったことや、高齢化が進んだことなどから、有病率は1985年の6・3%から2倍以上に。最も多いのは、「アルツハイマー型」で半数以上を占めるそうです。


(大介護時代)だれが見守る?:1 今日を乗り切る、それだけ 出歩く親、気抜けない」(2014年6月26日朝日新聞)をご紹介します。

外出して歩き回る「徘徊(はいかい)」と呼ばれる行動は、認知症の症状のひとつです。行方不明になることも、危険な目に遭うこともあります。認知症男性の鉄道事故の裁判で、妻に監督責任があるとの判決が4月に出ました。家族や施設、地域はどう向きあえばいいのか。介護中の家族は「今日を乗り切るだけ」と言います。

「腹減った」「腹減った」「腹減ったーっ」

東京都青梅市にある一軒家。夕暮れ時、デイサービスから帰ってきた川鍋美津子さん(70)が甲高い声で叫び続けた。「まだだって言っているだろっ」。夫の健司さん(74)がたまらず、怒鳴った。興奮した美津子さんが食卓にあった湯飲みを手で払いのけると、健司さんのシャツがびしょぬれになった。

おさまらない美津子さんは家の中をドスドス歩き回る。

食事を遅くしようとするのは、早く食べて寝ると未明に起き、家を飛び出ることがあるからだ。健司さんは「病気だから仕方がない」と言いつつ「もう何年もこんな感じだから。ふつうの家がうらやましい、と思う時もあるよ」。

「前頭側頭型」という、行動抑制がきかなくなるタイプの認知症だ。美津子さんの場合、興奮すると、ののしり、たたくといった症状もある。

美津子さんは朝晩を問わず、いつ出かけようとするかわからない。デイサービスで過ごす時間以外、健司さんと娘の美佐子さん(42)は常に気が張り詰めている。

50キロ先で保護

きちょうめんで我慢強い性格だったという美津子さんが発症したのは12年以上前。9年前には原因不明の頭痛を訴えて床を転げ回ることがあり、2年間、精神科病院の認知症病棟に入院した。

いま要介護4。ひざが悪いものの、寝起きや歩行には支障がない。2年前、健司さんと外出中、最寄り駅の近くでいなくなったこともある。4時間後、直線距離で50キロ以上離れた葛飾区で歩いているところを警察に保護された。

最近、遠出は減ってきた。ただ、月に数回は深夜や早朝に突然抜けだし、近所の公園や市内の親戚宅に行こうとする。夜間は玄関の戸の外側から鍵をかけて出られないようにすることもある。だが、「開けろ」と騒ぎ続け、あきらめることはない。

介護ケアマネジャーの美佐子さんには、母に施設での集団生活が難しいことがよく分かっている。また、入院すれば、月々の費用負担は重くなる。母自身が自宅での暮らしを望んでいる、とも感じる。

「父が倒れたら私一人でみられるだろうか、という不安はある。でも、今は、先のことまで考えられない。今日一日を乗り切りたい。毎日考えるのは、それだけです」

引きとめても

広島県福山市の会社員橘高(きったか)宏治さん(55)は、同居する両親がともに認知症だ。母の千鶴子さん(81)はアルツハイマー型。父の保さん(84)は脳血管性。妻(57)、会社員の次女(21)との介護生活は約7年になる。

「里へ帰る」。足腰が丈夫な母はこう言って頻繁に外へ出ようとする。今月半ばの日曜、険しい表情で鍵がかかった玄関の引き戸を開けようとした。「何のためにこうなっとるん」。母は橘高さんに強い口調で言った。

母の「外出」が頻繁になったのは3年前。最初は2日に1回程度だったのが、昨年からは毎日、引きとめても出て行くようになった。

8月には、JR山陽線の踏切を渡ろうとして線路上で立ち往生した。橘高さんの子どものころがよみがえったのか、「宏治がおらん(いない)。まだ小さいけえ」。後ろについていた妻が慌てて「こっちよ」と引っ張り出した。橘高さんは「もし遮断機が下りていたらと想像するだけで今でも怖くなります」。

今年2月には、近所の人が「お母さん、出とるよ」と知らせに来た。父は「ばあさんが出て行った」と泣き出した。橘高さんが父をなだめ、探しに出たのは15分後。幸い、スーパーの前にいた母を見つけたが、行方不明になっていた可能性もある。両親は自分の名前は言えるが、名字や住所の認識はあいまいだ。

「過労」の診断

父は足腰が弱くなり、あまり出歩かなくなった。だが今年初めにはパン工場に勤めていた頃を思い出したのか、早朝に起き、玄関の鍵を開け、手押し車を押して出て行った。そばで寝ていた橘高さんが気づき、付き添った。

橘高さんの「安息日」は両親がデイサービスなどで不在になる土曜の朝から夕方までだけだ。今年5月、帯状疱疹(ほうしん)に悩まされた。多忙な営業の仕事をしながらの介護。医師からは「過労」と言われた。

父か母が家にいる時は、玄関そばの台所に誰かが門番のように詰める。勝手口には自転車などで緩やかな「バリケード」を作っている。それでも母は出て行こうとする。

「24時間監視しろと言うなら、お父ちゃん、お母ちゃんにヒモをつけにゃいけんことになる。そんなこと誰も望んでないですよね」(立松真文、森本美紀)

キーワード

<認知症男性の死亡事故と判決>
2007年、愛知県で認知症の男性(当時91)がJR東海道線の駅構内で列車にはねられて亡くなった。介護していたのは要介護1の妻(当時85)と長男の妻。男性は妻がまどろむ間に外出していた。JR東海は振り替え輸送費などの損害賠償を求めて提訴。今年4月、名古屋高裁は、妻に約359万円の支払いを命じる判決を出した。

2014年6月29日日曜日

改革努力に乏しく惰眠をむさぼってきた都議会

「社説:視点:幕引き都議会 惰眠の府が演じた醜態」(2014-06-27 毎日新聞)をご紹介します。


反省どころか隠蔽(いんぺい)に等しい。東京都議会の女性蔑視ヤジ問題は発言議員は懲罰を受けず、他のヤジの発言者も特定されないまま「再発防止決議」で議会が幕引きを図る事態となった。

首都の議会が演じた醜態は地方議会全体の問題でもある。だが、都議会が都道府県議会の中でもとりわけ改革努力に乏しく惰眠をむさぼってきた議会であることは指摘しておきたい。

人権侵害のヤジを制止するどころか、笑い声すら起きた議場そのままの決着だ。一部報道によると、発言を認めた鈴木章浩議員に議場での謝罪を求める動きに「人権侵害だ」と反対があったというのだからおそれいる。幕引きを急いだ都議会自民党を支えたのは数の力でうやむやにする発想だろう。

議会の自浄能力の欠如を象徴したのが、ヤジを受けた塩村文夏議員が地方自治法133条に基づき当初提出した発言者の処分を求める要求書を議長が受理しなかったことだ。「発言者が特定できない」ことが理由というが条文上、受理は可能だった。その後鈴木議員が発言を認めたが、今度は会議規則に「(懲罰動議は))事犯があった日から3日以内に提出」とあるため懲罰は封じこまれてしまった。

「首都の言論の府でさえこれでは……」とは多くの人が抱く印象だろう。だが、現実は都議会は全国的にみても改革が遅れた議会だ。早稲田大マニフェスト研究所が情報公開、住民参加などから毎年集計する地方議会の改革度で都議会は47都道府県中42位に過ぎない。

1990年度以降、議員提案で制定された政策に関する条例は二つだけだ。議会改革に向け、多くの地方議会が定める議会基本条例も未制定だ。つい最近も議員提案で四つの政策条例を可決した横浜市議会などと比べ、活動には雲泥の差がある。

「国会議員を目指しての腰掛け気分や、気位ばかり高い議員が多い」とある首長は手厳しい。首都・東京が待機児童対策や超高齢化への対応で立ち遅れてきたのは都議会の怠慢にも責任の一端があるのではないか。

都議会事務局はここ数日、抗議電話の対応に忙殺されている。だが、都議127人を昨年、過去2番目に低い投票率で選んだのは都民自身でもある。

鈴木議員が一転、発言を認めた要因はネットなどを通じた批判の広がりだろう。年間約1700万円の報酬に値する行動を議員に促すのであれば、住民が関心を持続する以外にない。住民の直接請求による議会解散、議員解職手続きも地方自治法にはちゃんと定められている。

2014年6月26日木曜日

何かを変えるチャンス

ブログ「今日の言葉」からフォーカス」(2014-06-20)をご紹介します。


釣れないときは、

魚が考える時間をくれた

と思えばいい。

ヘミングウェイ


たまにはゆっくりな言葉も。

「釣れない」という事実にフォーカスしてイライラするのではなく、自分を客観視して考え方を変えてみる。

人間は「考え方」を変えられる動物なのです。

うまく行かないときは、自分が驕(おご)っているときなのかもしれない。

うまく行かないときは、新しい学びが必要なサインなのかもしれない。

うまく行かないときは、目標設定の仕方が間違っているのかもしれない。

うまく行かないときは、基本を忘れているときかもしれない。

でも一番大事なことは、うまくいっているときでさえも、

そうした反省が出来るかどうかでしょう。

常に何かを変えるチャンスは転がっています。

「やり方を変えないで違う結果を求めるのは狂気の沙汰だ」という言葉のように。

2014年6月22日日曜日

生きる

ブログ「人の心に灯をともす」からビデオレター」(2014-06-19)をご紹介します。


県立M高等学校の卒業式が近付いたある日、ビデオカメラを手にした男子生徒二人がやってきて告げた。

「うちの高校では、毎年卒業生にビデオレターを観てもらうことになっています。三年間、お世話になった方や思い出に残っている人から三分間ほどのメッセージをもらって、卒業生全員で観るのです。今年は、三年間講演してくださった住職さんがノミネートされましたので、撮影させてください」

笑いながら答える。

「ノミネートとは大げさだなあ。つまり“送る言葉”だよね。身に余る光栄!喜んでお受けいたします」

私は三つのメッセージを語った。

「もう一度伝えておきます!人生はたった一度きり。それも片道切符の旅です。ならば各駅停車で行こう。特急に乗ったら通り過ぎてしまう風景を、しっかり見ておきましょう。各駅停車の人生だからこそ身につくのです!」

「人生の主人公は自分です。“オシッコがしたくなった。でも、今、忙しいから誰か代わりに行って!”これはできない。人生も同じです。人生は自分が主人公となって生きていくものなのです。他人に代わってもらえません」

「人生は一人で生きられません。自分の力で生きていると思ったら大間違い。多くの人や物にささえられ助けられての人生です。迷惑をかけてもいい。そのかわり、他人からかけられる迷惑も喜んでいただくのです。他人とくらべることはない。堂々と自分の道を歩んで自分の花を咲かせてください!」

私以外にも十人のビデオメッセージがあったと後日、報告される。

卒業生が二年生の時、他校へ転勤された生物の教師O先生の登場には拍手が起こった。

O先生は、

「何度も教えたよね。一組の両親から生まれる子どもには、約七十兆通りの組み合わせがあって、二つと同じものがないということ。忘れるなよ。君たち一人ひとりは、七十兆分の一の確率で選ばれて、この世に生まれて来たんだ。これってすごいことだよ。こんなすごい生命を大切にするんだぞ!」

そして最後のメッセージになった時、映し出された人物を観て、全員が絶句した。

いや、誰も、“なぜ?”と思った。

実は、スクリーンから笑顔いっぱいに語りかけてきたのは、高校三年になったばかりでこの世を去った同窓生のA君だったからである。

「みんな、卒業おめでとう。ボクも一緒に卒業式に出たかったけど、みんなが知ってる通り、脳腫瘍が悪性でさあ、あんまり長く生きられないんだ。

だからビデオレターで卒業式に出させて欲しいって、制作委員に頼んでおいたのさ。

絶対秘密でね。

今日が本邦初公開!

みんな、高校生活楽しかったね。

校門からの坂道の桜の咲く頃までは生きて、桜吹雪の中でみんなと弁当食べたかったなあ…。

ああ、いけない!

卒業式だもんね。

明るくやらなくっちゃ!

ボク、すごく楽しい高校生活が送れて幸せだった。

十分、人生生き切ったと思うよ。

みんな、“生まれてきてよかった”“生きるってこんなに楽しい”と実感できるような人生をつくってね。

またどこかで会おうね。

ボク、ちょっとだけ先に行くよ!

みんな、ありがとう!」

誰もが泣いている。

先生方も必死で涙をこらえておられる。

その時、女子生徒のE子さんが立ち上がり、大粒の涙を落としながら叫んだ。

「A君、私、生きていくことに決めた。今、死にたいぐらい苦しいけど、A君の言葉を聞いて、私決めた。私、死なない!生きていく!A君、誓うよ!私、生きていくからね!A君、ありがとう!」

突然、大きな拍手が起こった。

その場に泣き崩れた彼女に向かって全員が精一杯の拍手を送っている。

彼女の三年間が、ひきこもりと短期登校の繰り返しであり、一番苦しんでいたのはE子さんであることを知っているからだ。

仲間たちのエールを込めた温かい拍手はいつまでも続いた。


『あなたが虚しく過ごしたきょうという日は

きのう死んでいったものが

あれほど生きたいと願ったあした』 (カシコギ)

人は生まれたら必ず死ぬ。

そんなことは誰もが知っていることなのに、すぐに忘れてしまう。

もし、明日死ぬとわかったら、今のあたりまえの日常が、あたりまえでなかったことに気づく。

食事ができること、空気を吸えること、歩けること、景色が見えること…

すべてが、愛(いと)おしく、切なく、ありがたい、と気づく。

この一瞬一瞬を、大事に大事に生きていきたい。


2014年6月21日土曜日

見つけにくいのは「他人長所」と「自分の短所」

ブログ「今日の言葉」から短所」(2014-06-18)をご紹介します。


人の欠点が気になったら、

自分の器が小さいと思うべきです。

他人の短所が見えなくなったら、

相当の人物。

長所ばかりが見えてきたら、

大人物。

石井 久(立花証券会長)


その人の成長を願って、良くなって欲しいと考えた上で、その欠点を指摘してあげることは問題ないけれど、単に欠点だけを見て影で不満を言っているのでは意味が無い。

見つけやすいのは「人の短所」と「自分の長所」で、見つけにくいのは「他人長所」と「自分の短所」なのでしょう。

歌人の生方たつえさんはお母様から

『不満を持つ間は、人は幸せからはじき返されますのや』

と教えられていたそうです。

愚痴をこぼすだけの不満は何も変えないばかりか、他の誰でもなく自分に対してマイナスになるものです。

「あなたの良いところはね、」を口癖にするのも良いかもしれません。

2014年6月17日火曜日

おかげ運

ブログ「人の心に灯をともす」から運のある人を賞賛する」(2014-06-17)をご紹介します。


世の中の社長さんたちは、ふつうの会社員の人たちよりも、よく七福神を飾った熊手とか、破魔矢(はまや)とか、いろんな縁起物を買うもの。

パワースポットめぐりが好きな人も多い。

それは「社長になったから、縁起をかつぐようになった」ということではなく、大きなビジネスを動かしていこう、大きな流れに乗ろうという意識を持った人たちは、自分の力を超えたもの、つまり「運の力」がなければ成功しないということを、身を持って知っているからだと思うんです。

それもくじ引きみたいに「当たった!外れた!」という一回こっきりの“運”ではありません。

必要なのは、陰ながら支えてくれて、自分のことを押し上げてくれる大勢の気持ち。

そういう“運”のことを、私は「おかげ運」と呼んでいます。

“運”というものは天下の回り物です。

うまくいっている人、運気がある人のことを、賞賛すればするほど、自分のところに回ってくる順番がはやくなってきます。

反対にうまくいっている人、運気がある人のことを、

いいよな…

くやしいな…って

ねたんだりひがんだりしていると、自分のところにやってくる順番が遅くなります。

知らず知らずに嫉妬していて、気づかずに運を落としていることもあるので要注意(「無意識の嫉妬」って呼んでます)。

運がめぐってきている人をねたむと、運はあなたに嫌われたと思うのです。

それから、やることなすこと全部はずれ、みたいな、“運”にまったくめぐまれないときもある。

そんなときでも、落ち込んじゃって「もういいや!」と投げやりになってしまうと、いつか“運”がめぐってきたときに準備不足ということになり、そのまま“運”が過ぎ去ってしまうことがあります。

“運”がないときも、かならず自分にも“運”がやってくるということを信じて、やるべきことをやって、まわりの人たちと丁寧なお付き合いを続けていく。

それをコツコツできる人が、あとあと大きなチャンスをものにします。

最悪のときも、最高のときも短いもの。

結局、良くも悪くもない「ふつうのとき」が一番長い。

だからこそ、ふつうのときの過ごし方がとても大事なんですね。


人は学べば学ぶほど、自分の足りないところが見えてきて、素直で謙虚になる。

もしそうならないとしたら、まだ学びかたが足りないということ。

同様に、運”や“ツキ”のある人も、謙虚な人。

自分が運がいいのは、自分の実力ではなく、まわり人たちのおかげ、と思っているからだ。

そして、まわりに感謝するので、ますます運がよくなる。

運のある人を賞賛すると、運に好かれる。

反対に“運のある人”や“成功した人”や“お金持ち”をけなしたり、嫉妬したりすれば、運はどんどん遠ざかる。

ツイていないときに、ふてくされたり、自分の運のなさを呪ったりしても、不運を引き寄せる。

“運の神”が、自分は嫌われてしまった、と思うからだ。

どんなときも、“運”に好かれる生き方をしたい。


2014年6月14日土曜日

教職協働とキャリアギャップ

桜美林大学大学院・大学アドミニストレーション研究科教授の山本眞一さんが書かれた教職協働と職員のキャリアパス」(文部科学教育通信 No341 2014-06-09)をご紹介します。


教職協働の難しさ

先月末、愛媛大学で開催された「次世代リーダi養成プログラム」において、3時間の講義を行った。私はここ数年、このプログラムの講義に関わっているが、受講する職員の意欲が極めて高いことに感心させられる。このプログラムは、四国地区の4つの国立大学をコアとし、それぞれの県内の高等教育機関を含め33校からなるネットワークを形成して「学生の豊かな学びと成長を支援する、実践的力量をもった高等教育のプロフェッショナルを四国から輩出する」ことを目的とするSPOD(四国地区大学教職員能力開発ネットワーク)が行う活動の一環である。平成20年に発足し、現在ではFD、SDに関わるさまざまな活動を幅広く行っている。詳しくは、このネットワークのホームページがあるのでご覧いただきたい。

私は、「時代の激変と大学の将来」と題した高等教育政策論の講義を通じて、大学の役割の重要性を述べ、また大学職員の自覚と能力開発の必要性に触れた。その際にいくつかの質疑応答があったが、その中で「教職協働は重要だとあちこちで言われているが、われわれ職員は教育・研究を本務としているわけではないので、どのようにして教員たちの活動に関わるべきかを教えてほしい」という趣旨の質問があった。私は、この質問が職員のこれからの役割の在り方そのものに関係する重要な質問だ、と直感的に思ったので、「職員は教育・研究そのものに関わるものではないが、そのことと密接に関連する仕事はいろいろあるので、それに職員が関わることによって、教員とともに大学をより良くしていくように努力すべき」という意味の応答をした。

考えてみれば、法人化以前において、職員は職員、教員は教員の世界があって、とりわけ国立大学において、職員は公務員制度の下で、他省庁でいえば国の出先・・・機関の事務を執り行う職場という性格が強かった。他方で、教員は教育公務員特例法に手厚く守られつつ、教授会によって管理されるアカデミックな組織体の一員であって、彼らの目から見れば、職員は彼らの活動を支える事務員、あるいは彼らの活動を監視する行政官としか映っていなかったのかもしれない。規則通りに事を運ぼうとする職員と創意工夫を生かしたい、あるいは好きなように振舞おうとする教員との不毛な対立の素地はその辺りにあった。

法人化後、大学は教員だけの世界ではなく、職員も巻き込んだ一種の運命共同体になった。非公務員化の中で、職員も大学という組織の一員となり、外部から来る「異動官職」の管理職もかつてに比べると減り、その代わり内部登用で課長や部長に昇進する職員も目につくようになってきた。職員の活躍の可能性が大きく開かれた点は、法人化による正の側面の代表例であろう。

キャリアパスの差を考える

しかしながら、いきなり教職協働と言われてもなかなかすぐには進まないであろうし、あるいは前述の質問のように教員と同じ立場で教育・研究に関わるわけにもいかないだろう。現に私が3年前に行った全国実態調査によっても、職員の大多数が教務系業務の教職協働を望んでいるのに対し、教員の4割はこのことに積極的ではない。逆に教員の多くが総務系業務こそ教職協働で、という意見であるのに対し、職員はそうは思っていない。このような意識のギャップは、業務の性質による差異であろうかと思うが、それならばどのような点で業務の性質に差異があるのであろうか。

おそらく、一つ一つの業務にはそれほどの差異はあるまい。たとえ教務系の業務であっても、それは教育・研究そのものではなく、大学が学生に対して、あるいは社会に対して行うサービスとして捉えるべきものであるから。私が思うに、その意識のギャップは教育・研究の業務を行うプロとしてのキャリアの差にこそ求められるのではないだろうか。図表(略)をご覧いただきたい。国立大学における教員と職員の典型的なキャリアパスを示してみた。教員にとって20代は大学院およびボスドクとしての訓練の期間である。近年それが30代前半にまで伸びつつあるが、30代半ばまでには概ね将来につながる大学教員としてのポストに就くであろう。40代には准教授、50代は教授というのが一般的で、その中から幾人かは部局長や副学長・理事などの管理職について意思決定に関わるであろう。

一方、職員の方は、高卒の場合は18歳まで、大卒の場合でも概ね20代前半には訓練期間は終わり、大学に就職して実務に就く。後は研修や自己学修によるオンザジョブ・トレーニングである。また意思決定に関われる管理職に到達するまで、相当の年限を要し、一部の者が50代で管理職に登用されるのが実態である。なお、38歳で課長職、40代半ばで部長職という従来の異動官職はこれと異なるキャリアパスであるが、それは別である。

このことから分かるのは、教員と職員とは職務内容が異なることはもちろんであるが、職務を遂行するための基礎的訓練期間が、前者では学士課程から博士課程そしてその後に至る10年間以上に及ぶのに対し、後者の場合は大卒でもその訓練期間は4年間であること、前者は委員会や教授会などを通じて40代には意思決定プロセスに参画しうる立場になるのに対して、後者の場合は立場到達が遅く、しかも一部の者に限定されることである。

問題解決の有能人材を目指す

教職協働を目標共有して行う両者の共同作業であると解するならば、前述の差異を少し近づけてみる努力が必要である。これが教員と職員とめ対等な関係を支える大きなバックグランドになるであろう。例えば、職員の訓練に大学院在学というオプションを積極的に取り入れ、在職期間の比較的早いうちに、できうれば30歳前後に基礎的かつ集中的な訓練期聞をとることも一考であり、また、内部登用によって管理職に引き上げる年齢も、これまでの異動官職の例にならって、適任者はうんと早く実現することも有効ではないか。

それが直ちには困難であるとしても、以下の3つのことは現実的な解としては有効であろう。ぜひお考えいただきたい。

  1. 学長や理事、部局長のブレーンとしての職員を目指す。意思決定の権限は役員や管理職にあることを認め、彼らの意思決定を助ける知恵袋として知識と腕を磨くことである。
  2. 専門職として、教育・研究活動の円滑化に資するような仕事をする。例えば、地域貢献、政策対応、国際交流や知財処理などの専門的実務に優れた能力を発揮できるような職員を目指すことである。ただし、職員数が限られることから、いわゆる単能的な専門職は難しいかもしれない。
  3. 問題解決の有能人材として、あらゆる部署において、懸案を解決に導ける企画分析能力と実行力を身につけること。これは、前述2.よりは広い概念の専門職であり、かつ実際には1.のような立場で仕事ができる職員である。

スマホ中毒

教育評論家の梨戸茂史さんが書かれた「スマホ依存症」(文部科学教育通信 No341 2014-06-09)をご紹介します。


「依存症」と言えば、「活字」だったのは昔の学生。困るのはアルコールやクスリの依存。今の依存症は「スマホ」すなわちスマートフォンなる携帯電話。

電車で隣の学生やらOL、サラリーマンの手元をのぞいてみたら、ゲームをピコピコやっている。メールは半数くらいだろうか。それも急ぎとも思われぬ内容(見たわけじゃないが)。どうりで「大学生一日当たりの読書0分が4割超」と、新聞が嘆く(朝日新聞2014年4月21日付)。そうでしょうね、活字離れは「新聞」離れに通ずる。新聞が売れなくなる。その結果、今や新聞の広告が大会社ではなく、少々わけのわからない品物の宣伝や年寄り(スマホは使えない世代)目当ての旅行商品や通信販売が多い。

元に戻って、この記事、全国大学生活協同組合連合会の調査の紹介。生協も、本の売り上げが生命線。春先の入学当初の冷蔵庫などの必需品、パソコンなどを売ったら後は日ごろの本の売り上げが大事。出版社も活字離れが響いて経営も苦しかろう。活字世代は死に絶えるだけ。

さて、「大学生48%、"スマートフォン中毒"」だそうだ。そのうち、女子学生がもっとひどく深刻化しているらしい。アルバイトポータル「アルバ天国」がスマートフォンを使用している大学生1896人を対象に"大学生のスマートフォン利用状況"を調査した結果、約半数(48.3%)は、スマートフォンがなければ不安だと回答したそうだ。これが2011年の調査である。もっともこの会社?スマホでアルバイトを探すシステムなのでしょうから、当然使用者は多いはず。それを割り引いても「ちょっとね」の困った話。

だいぶ以前からだけど、スマホや携帯をいじりながら歩いている人が多い。駅で小学生がホームから落ちる事故もあった。大人も転落する。大人がそういうことばかりしているから、子供が真似する(多分、ゲームでもしていたかな)。そもそも、急ぎの調べ物があるとしても、なぜ立ち止まれないのか?

学生の最大の問題は、授業中に触っていること。何見ているのでしょう。それに教室のコンセントから充電している。見つけたら「窃盗だ!」と怒っても、懲りずにまたやる。「次回、見つけたら、窓から落とすそ。壊れても責任は持たない」と言えばやっとやめる。高いからね・・・値段も教室の場所も。

勉強しない層が大学生になっているのだから仕方ないかも知れない。今の学生、もしかしたら幼稚園のころからゲーム漬け。テレビや携帯の画面は見慣れた世界。別な人種と思った方がいいらしい。

ところで、スマホ中毒の解消法を考えた。①予備のバッテリーを持ち歩かない(長時間使えなくする)②枕元にはスマホを置かない(朝から寝るまで手放せない習慣を断ち切る)③電源を切る習慣をつける(電気代の節約になる)④ポケットに入れない、鞄にしまおう(すぐ出せなければ使わない)⑤音楽やゲームのプレーヤーは分ける(遊ばないのだ)⑥使用の時間や回数の設定(自己管理が必要ですが)⑧通知機能をオフにする(どうせ大した連絡はないでしょう)⑦「ガラケー」に戻してみる(料金も安くなる)⑧長くて複雑なパスワードでロックする(使いにくそう)⑨中毒性のアプリに「時間泥棒」の表題をつけて管理する(気分が悪くなる)⑩特に女性に「美容にも健康にもダメ」と宣伝する(スマホを見ると自然に体が前かがみになる。バストが垂れてしまう最悪な姿勢だそうだ)

・・・こう言っても、使う奴は使うかな?そのうちスマホの電波で頭がパーになるという研究を発表してほしい。理研さんいかが。

2014年6月13日金曜日

役員の仕事

国立大学が法人化して10年。

様々な変革が渦巻き続けている現在、大学現場に身を置く立場から、さほど変化を感じることのできないのが、役員(理事)の方々。

「学長のイエスマン」、「経営感覚や改革意識が希薄」などなど、いろんな言葉が相変わらず飛び交っています。やっぱり「教員あがりには大学経営は無理」なのでしょうか。

経営コンサルタントの飯塚保人さんの言葉をお借りします。国立大学でも同じです。


役員の仕事とは一体なんだろう。

それは未知への探求をする仕事です。

役員が未知への探求をしないで、後始末ばかりしている掃除屋的仕事ではいけません。

役員が会社の将来を考えないで誰が会社の将来を考えるのですか。

役員の仕事は会社の将来の「あるべき姿」を明確にし「いま」の仕事をすることです。

今が大切なのは「あるべき姿」があるからです。

経済環境も常に変化しています。

この変化に対応するのも役員の仕事です。

2014年6月12日木曜日

今与えられた幸せに感謝する

ブログ「人の心に灯をともす」からありがとう、と言える人」(2014年06月09日)をご紹介します。


「ありがとう」は、ネガティブ思考を消す魔法の言葉です。

「お前の意見はいつも面白くないんだよ」と言われたら、「ありがとう。きみの指摘で気づかなかったことがわかったよ」。

「少しは仕事のしかたを変えたら?」と言われたら、「ありがとう。私が良くなるきっかけをくれて」…

辛辣(しんらつ)な意見を言われて自分を全否定されたように感じるときでも、「ありがとう」の気持ちで受け止めれば、何かしらプラスになるものを見つけられます。

落ち込まずに、前に進んで行けます。

「ありがとう」は、人間関係を豊かにし、人生を良い方向へと導いてくれる言葉だと思うので、僕は人から何か言われるたびに、「ありがとう、ありがとう」と心の中で言うようにしています。

雪の降る寒い時期に、「くいしん坊!万才」のロケで北陸地方のある町を訪ねたときのことです。

一人暮らしをしているおばあちゃんのお宅で、塩漬けにしたサバを使った料理を出してくれました。

雪が積もると買い物もままならないので、昔から、寒冷地の冬の食事は保存食を使ったものが多いのです。

「おばあちゃん、このサバはかなり塩がきいてますね」

「きっと体に必要なんだろうね。昔の人の知恵だと思うよ」

こういう話をしていると、日本という国がよくわかります。

しんしんと降り積もる雪の中で、春の訪れを心待ちにしながら仕事や家事に精を出し、日本を支えている人たちがいるのです。

そういう方々はとても温かくて、自分よりも人のことを思いやっています。

このおばあちゃんも、「もっと不便なところで暮らしている人もいるんだから、私なんか本当に恵まれてるんですよ」という話ばかりでした。

雪国の一人暮らしには不便なことも多いはずなのに、「ありがたい」「ありがとう」という言葉が常に出てくるのです。

もし自分が雪深い町に一人で暮らし、毎日のようにサバの塩漬けを食べていたら、まったく逆の捉え方をするだろう。

「ありがとう」なんて絶対に言えないだろう…。

僕は、自分の不遜さと弱さを改めて気付かされた思いでした。

「ありがとう」を伝えるのは、素晴らしいこと。

「ありがとう」を感じるのは、幸せなこと。

さまざまな人とコミュニケーションを広げることで、もっとたくさんの「ありがとう」を感じられる自分になりたいと、僕は思っています。


「上をみればキリがない」と言われるが、不幸は比較から生まれる。

他人と自分を比較して不幸だと思う人は、いつまでたっても幸せになることはできない。

「自分より恵まれていない人がいる」と思いやることができる人は、今与えられた幸せに感謝することができる。

普通に過ぎていく日常も、実は当たり前ではない、と分かったとき、そこに「ありがとう」と感謝が生まれる。

先の東北大震災を考えてみれば、それは身にしみてわかること。

幸せは感謝することから生まれる。

どんなことにも「ありがとう」と言える人でありたい。


2014年6月11日水曜日

基本を大事にする

ブログ「今日の言葉」から5つの「あ」」(2014年06月09日)をご紹介します。


5つの「あ」がない人は、仕事が上手くいかない。

1. 挨拶ができない

2. 「ありがとう」が言えない

3. 謝れない

4. 頭を下げられない(「お願いします」と言えない)

5. 新しいことに取り組まない。

澤田富雄(モルゲン人材開発研究所所長)


どれも小学校や家庭でも指導されるようなことですが、大人になるとなかなか出来ていないものばかりではないでしょうか。

基本を大事にすることの大切さにも通じます。

これらは人としての基本。

愛されるため、可愛がられるための基本とも言えます。

こういう態度を取れるからこそ、仕事を教えてもらえる、任せてもらえるというものです。

これをチェックリストにして、毎日自分の行動を振り返るだけでも、自分の人生が変わって行くものだと思います。

2014年6月10日火曜日

孝順心

ブログ「人の心に灯をともす」から一粒の豆」(2014年06月07日)をご紹介します。


交通事故でお父さんが亡くなり、小学校三年と一年の男の子、そしてお母さんが残された。

この交通事故はどちらが被害者・加害者かの判定が難しかったが、最後には母子家庭側に加害者という決定が下されたのである。

加害者側とされた三人は家を売り払って、見知らぬ土地を転々として暮らした。

やがて落ち着いたのは農家の納屋。

親切な農家が見るに見かねて貸してくれたのである。

ムシロを敷いて、裸電球をつけ、小さなガスコンロとダンボール箱の食卓だったが、三人はとてもうれしかった。

育ち盛りの男の子二人をかかえてお母さんは、昼は学校給食の手伝い、夜は料理屋の洗い場へと、寸暇を惜しんで働いたのだが、やがて限界がやってきた。

「これ以上働けない!申しわけないけどお前たちをおいてお母さんは死にます」

こう決めたお母さんは、家事のすべてを引き受けてくれる小学校三年の長男に最後の手紙を書く。

…お兄ちゃんへ、おなべのなかに豆がいっぱい水にひたしてあります。

今夜は豆をにておかずにしてください。

豆がやわらかくなったら、おしょうゆを入れるのですよ…。

深夜家に帰ってきたお母さんの手には、多量の睡眠薬が握られていた。

足元には枕を並べて眠っている兄弟の顔が見える。

よく見ると長男の枕のそばに一通の手紙が置かれていた。

思わず手に取って開いてみると…、

…お母さん、ぼくはいっしょうけんめい豆をにました。

おしょうゆも入れました。

でも夕食のとき、弟はしょっぱくて食べられないといって、かわいそうにごはんに水をかけて食べたのです。

お母さんごめんなさい。

でもぼくを信じてください。

ぼくは本当にいっしょうけんめいにたのです。

お母さん、お願いです。

ぼくのにた豆を一つぶだけ食べてください。

そしてもう一度、豆のにかたを教えてください。

お母さん、今夜もごくろうさまでした。

お休みなさい。

さきにねます…。

長男の煮た豆を一粒一粒食べるお母さんの目から大粒の涙がとめどなく落ちた。

大声で叫びたい気持ちをおさえて、お母さんは心の底からわが子にあやまったのである。

「ああ、申しわけないことをした。

お前がこんなに一生懸命生きているのに、お母さんは自殺しようとしている。

申しわけない。

ごめんね。

お兄ちゃん。

お母さん、もう一度頑張るからね」

袋の中に、豆が一粒残っていた。

この時からお母さんはこの一粒の豆と長男の手紙をハンカチに包み、お守りにして肌身離さず持っていることにしたのである。

この夜から二十年。

三人は貧乏のどん底から抜け出し、長男と次男は東京大学を卒業。

たくましい社会人となった。

一粒の豆は、今もお母さんの懐(ふところ)深く大切に持ち続けられている。

母の自殺をとどめたのは、長男の一途な思いである。

どこまでも母を親として信じ、尊敬している孝順心に他ならない。

千葉・九十九里浜の荒波の中に幼児と共に自殺しようと身を沈めたとき、子どもが母親の髪の毛を強く握りしめ、幾度も引っぱったことから自殺を思いとどまった若いお母さんを知っている。

この母もわが子に救われたのであった。

母を救った“わが子”は菩薩さまに違いない。

2014年6月9日月曜日

組織文化とリーダーシップの変革

国立国会図書館調査及び立法考査局文教科学技術調査室主幹の寺倉憲一さんが書かれた大学のガバナンス改革-知の拠点にふさわしい体制構築を目指して-をご紹介します。(下線は拙者)


はじめに 

グローバル化、情報化が進展し、知識基盤社会の到来が語られる中、高度な知識・技能を備えた人材の育成や、人類の直面する諸課題の解決に向けた研究開発のために大学が果たす役割は、以前にも増して重要なものになっている。イノベーションを推進し、経済成長を牽引するエンジンとしても、大学に対する社会の期待は大きい。主要国では、高等教育における規模拡大、競争原理の導入、自律性拡大等の改革が進行中であるが、大学が迅速かつ適切な意思決定により急速な環境変化に対応していくためには、ガバナンスの改革が不可欠であることが認識されつつある。この点、我が国の大学は、少子化が進み厳しい経営環境に置かれているにもかかわらず、ガバナンスに問題があり、必ずしも機動的に改革を進められていないことが指摘されてきた。

こうした声を受けて、近年、政府の教育再生実行会議や中央教育審議会大学分科会等において大学のガバナンス改革について検討が積み重ねられ、その提言等を踏まえて、この度、「学校教育法」(昭和22年法律第26号)及び「国立大学法人法」(平成15年法律第112号)の改正案(Ⅱ2参照)が政府から国会に提出された。本稿では、国政審議の参考に資するため、大学のガバナンスをめぐる問題の現状と今回の改正案提出に至る経緯を概観した上で、主な論点を紹介する。


Ⅰ 大学のガバナンスとは何か

1 大学のガバナンスの概念

 「ガバナンス(governance)」の語が高等教育について用いられる場合、高等教育のシステムと機関の組織・運営の在り方や、権限がどのように配分・行使されるか、システムと機関がどのように政府と関係するかを意味するとされる。我が国では、従来、こうした意味の大学のガバナンスを「大学管理」と呼んできた。

また、組織内外のステークホルダー(利害関係者)等の相互牽制により、執行機関の組織経営に対する規律付けを行うことを「ガバナンス」というと説明されることもあり、「ガバナンス」の要素としては、経営や執行体制を外部の眼も入れて監視・チェックし、一定の目標や価値に沿って規律付けることも重要であると考えられる。 

大学のガバナンスの在り方を検討した平成26年2月の中央教育審議会大学分科会「大学のガバナンス改革の推進について(審議まとめ)」(以下「審議まとめ」という。)では、「ガバナンス」について、多義的な概念であるとしながらも、「教学及び経営の観点から、法令上設けられている各機関(学長、教授会、理事会、監事等)の役割や、機関相互の関係性」を中心に議論を行ったとしている。

さらに、ガバナンスについては、法令や明文化された規則等に基づく権限配分や権利・義務の設定等の制度的な問題だけでなく、多様な関係者間の黙示の合意に基づく非公式な行動規範、つまり組織文化までも含む概念であることが指摘されており、そのようなインフォーマルなものが組織運営に与える影響にも注意が必要である。

2 現行のガバナンスの仕組み

以下では、我が国における大学のガバナンスについて、現行の制度的枠組みを概観する。大学のガバナンスの仕組みは、学校教育法に基づくものと設置者に係る法律に基づくものとがあり、設置者に係る法律が異なるため、国立、公立、私立で設置者ごとにガバナンスの仕組みも異なっている(巻末の図(略)参照)。

(1)学校教育法に基づく仕組み

学校教育法に基づく仕組みは、国立、公立、私立とも共通しており、学長、副学長、学部長、教授等の教員を置くことやその職務が規定されているほか、学部等の教育研究上の基本組織等についても定められている。また、重要な事項を審議するため、教授会を置くべきことが規定されている。 

(2)設置者に係る法令に基づく仕組み

(ⅰ)国立大学

かつて国立大学は、廃止された旧「国立学校設置法」(昭和24年法律第150号)に基づき国が設置する学校であり、「国家行政組織法」(昭和23年法律第120号)第8条の2に規定する文教研修施設たる施設等機関に該当したが、平成16年に、国立大学法人法に基づく国立大学法人が設置する学校に移行した。なお、この場合、法人となったのは設置主体であり、大学自体ではないことに注意する必要がある。

管理機関等は、国立大学法人法が定めており、役員として、法人の長である学長、監事及び理事が置かれ、学長と理事は役員会を構成する。学長は、大学の長であるとともに法人の長でもある。学長は、中期目標についての意見、予算の作成・執行、重要な組織の設置・廃止等の重要事項について決定するときは、あらかじめ役員会の議を経なければならない。監事は、法人の業務を監査する。重要事項を審議する機関として、経営面に関しては、総数の2分の1以上を学外者とする委員から成る経営協議会が置かれ、教員人事を含む教学面に関しては、学長、理事、学部長等の学内の代表者から成る教育研究評議会が置かれる。学長の選考は、経営協議会の学外委員の代表者と教育研究評議会の代表者各同数から成る学長選考会議が行い、国立大学法人からの申出に基づき、文部科学大臣が学長を任命する。 

(ⅱ)公立大学

公立大学は、平成16年以降、多くが「地方独立行政法人法」(平成15年法律第118号)に基づく公立大学法人が設置する学校へと移行した。しかし、法人化の是非は各地方公共団体の判断に委ねられているため、従来どおり、地方公共団体が直接に「公の施設」として設置する学校も現存している。なお、国立大学と同様、法人化という場合、法人となったのは設置主体であり、大学自体ではない。

法人に移行した公立大学では、地方独立行政法人法の規定により、役員として理事長、副理事長、理事及び監事が置かれる。監事は、法人の業務を監査する。原則として法人の理事長が学長となるが、学長を理事長と別に任命することも可能であり、その場合には、学長は副理事長となる。重要事項の審議機関として、経営面に関しては、理事長、副理事長等から成る経営審議機関、教学面に関しては、学長、学部長等から成る教育研究審議機関が置かれる。学長となる理事長の選考は、経営審議機関と教育研究審議機関の各々の代表者から構成される選考機関が行い、公立大学法人からの申出に基づき、法人を設立する地方公共団体の長が任命する。

非法人の公立大学では、大学を設置する地方公共団体の条例等により、当該地方公共団体の内部組織として管理運営体制が定められる。

(ⅲ)私立大学

私立大学を設置する学校法人では、「私立学校法」(昭和24年法律第270号)の規定により、役員として理事長、理事及び監事が置かれ、理事長が原則として法人を代表する。理事をもって組織する理事会が法人の意思決定機関となり、理事の職務執行を監督する。理事会の議長には理事長をもって充てる。理事又は監事には、学外の者が含まれていなければならない。私立大学の学長は理事になる。学長と理事長を兼務している場合もある。監事は、学校法人の業務及び財産の状況の監査等を行う。重要事項に関する諮問機関として、学校法人の職員や当該大学の卒業生等から寄附行為の定めるところにより選任された者等から成る評議員会が置かれ、予算、事業計画、寄附行為の変更等について、理事長はあらかじめ諮問するものとされている。理事長が監
事を選任する際も、評議会の同意を得ることになっている。

Ⅱ 問題の所在と今回の法改正に至る経緯

1 指摘されている問題点

国公立大学については、平成16年の法人化に際して、学長の権限強化等が行われ、私立大学でも、同年の私立学校法改正により、理事会の位置付けが明確化されるなど、ガバナンス体制の強化が図られた。しかし、近年、ガバナンス体制の問題が一因となって大学改革が思うように進展していないとの声が聞かれるようになった。指摘されている問題点の中には、例えば、次のようなものがある。 

(1)学長のリーダーシップと教授会の権限

大学の学長は、学校教育法第92条第3項の規定により、「校務をつかさどり、所属職員を統督する」とされ、大学の全ての校務について包括的な最終責任者としての権限を有すると解されている。さらに、国立大学については、学長が法人を代表し、経営・教学両面の最終責任者となることで、トップダウン型の強いリーダーシップと経営手腕を発揮する体制が整えられ、公立大学においても、同様に学長の権限を強化する仕組みが設けられている。しかし、我が国の大学では、伝統的に学部や学科における構成員の自治が強いため、学部長や教授会に決定権限があるとする意識が根強く、現在でも、各学部や学部教授会において事実上の意思決定が行われるなど、学長がリーダーシップを発揮し難い場合があるとされる。私立大学では、学長、教授会に学校法人の理事会を加えた三者の関係が生じるため、事態が一層複雑になり得る。

教授会は、学校教育法第93条第1項において、「重要な事項を審議するため」に置かれると規定され、議決機関でなく審議機関であると位置付けられており、設置根拠が学校教育法であることから、教育研究に関する事項を審議するものと解される。しかし、「重要な事項」という文言が抽象的なこともあって、実際の教授会の審議事項は大学の経営面に関することも含め広範に及び、本来は学長や理事会に決定権があるはずの事項についても、内部規則等により教授会に決定権が認められている大学も多く、学長のリーダーシップを阻害しているとの指摘もある。例えば、京都大学では、松本紘総長が、教養教育を一元的に担う国際高等教育院の新設構想を打ち出したところ、一部の教授会から反対を受け、平成25年度に実現するまで2年以上を費やしたとされる。また、平
成23年に行われた私立大学の経営責任者に対するアンケート調査では、組織運営を行う上で直面している課題として、「学長の権限や補佐体制の不足」を挙げた学校が61.1%あり、「学部自治の強さ」が31.5%、「理事会と教学組織の関係不全」も37.4%ある。

一方で、教授会の権限については、戦前の帝国大学の時代に、政府等による人事への介入とのせめぎ合いの中で徐々に獲得されたものであり、戦後、学校教育法等に規定が置かれたことは、憲法第23条の規定により認められた大学の自治を保障する意義を持つと説明されていることからみても、十分に尊重する必要がある

なお、国立大学の教授会の権限については、平成11年5月の法改正により、旧国立学校設置法中に規定が整備されたことがある。同法の当該規定(第7条の4第4項)によれば、国立大学に置かれる教授会は、「教育公務員特例法」(昭和24年法律第1号)で定められた事項(教員採用のための選考等)を行うほか、①学部又は研究科の教育課程の編成に関する事項(第1号)、②学生の入学、卒業又は課程の修了その他その在籍に関する事項及び学位の授与に関する事項(第2号)、③その他当該教授会を置く組織の教育又は研究に関する重要事項(第3号)について審議するとされた。国立大学に関する限り、既に平成11年の段階で教授会の役割が整理されていたことになるが、法人化に伴い旧国立学校設置法は平成16年4月に廃止された。

(2)学長の選考方法

学長の選考については、国公立大学が法人化されるまで、教育公務員特例法第3条第2項の規定が適用され、評議会の議に基づき学長の定める基準により、評議会が行うこととされ、実質的に評議会が決定権を持っていた。ここでいう評議会とは、廃止された旧国立学校設置法第7条の3の規定に基づき各国立大学に設置された全学的な重要事項に関する審議機関であり、その審議事項は、教育研究に関することのほか、予算の見積りの方針や学部等の組織の設置・廃止等の大学運営全般に及んでいた。評議会を構成する評議員には、学長、学部長等をもって充てるほか、学部等から選出される教授等を加えることができるとされていたが、実際の評議会は、各学部等の教授会代表による調整機関であり、学部教授会の意向が尊重され、学長の選考に際しては、教員による選挙が行われてきた。

国公立大学とも、法人移行後は教員の身分が公務員ではなくなったことから、教育公務員特例法の規定の適用はなくなった。国立大学の学長選考は、国立大学法人法の規定により、経営協議会の学外有識者委員と、教育研究評議会の学長・理事を除く委員のそれぞれ同数をもって構成される学長選考会議において、学内のみならず学外の意見も反映しつつ、適任者を選考することとなっている。同様の仕組みが公立大学についても設けられ、経営審議機関と教育研究審議機関の中から選出された者により構成される学長の選考機関において選考が行われる。

しかし、法人化後も、多くの国立大学では、内部規則等に基づき学長選考に係る教員の意向投票が実施されており、一部には投票結果が実質的にそのまま学長選考に反映される例もあるとされる。教員による意向投票を行ったとしても、その結果をあくまで参考として位置付け、学長選考会議等が最終的に自らの権限と責任で学長を選考するのであれば、現行法の下でもあり得ることである。しかし、意向投票の結果を学長選考会議等がそのまま追認するような場合には、過度に学内の意見に依拠することになり、学内外から幅広く人材を登用しようとする法制度の趣旨からみて、適切とはいえないとの指摘もある。

なお、私立大学では、学長選考方法に法令上の規定はなく、各大学の判断に委ねられている。しかし、実際には教員の選挙により学長が選ばれる例があり、そのように選ばれた学長に、教授会の意に沿わない改革は行い難いとの懸念も示されている。

京都大学では、次期総長の選考をめぐり、平成25年、総長選考会議において、学内のしがらみを排するため教職員投票の廃止が提案され、学外委員の賛同を集めたものの、自由の学風に反するなどとして学内の反対が強く、平成26年4月、結局、従来どおり教職員投票を実施することを決定した。また、大阪府立大学と大阪市立大学の統合を検討していた有識者会議「大阪府市新大学構想会議」は、平成25年10月にまとめた提言の中で、統合後の大学では学長選考における教職員の意向投票を廃止することを掲げた。11月の大阪市議会で関連議案が否決されたため、統合は延期されたものの、大阪市立大学では、当該提言の趣旨を踏まえ、学長選考における意向投票を廃止した。

2 近年の政府における検討と法改正に至る経緯

以上のような問題については、特に経済界から改善を求める声が強く、平成24年3月には、経済同友会から、私立大学を対象として、学長の権限強化等のガバナンス改革を求める提言が公表された。政府においても検討がなされ、例えば、平成24年6月に文部科学省が取りまとめた「大学改革実行プラン」の中には、大学のガバナンスの充実・強化についての言及がある。平成24年12月の総選挙を経て安倍晋三首相が再び政権に就くと検討は加速し、平成25年5月の教育再生実行会議の第三次提言において、同提言の掲げる我が国の大学のグローバル化対応推進と国際競争力強化等の実現に向けて、学長がリーダーシップを発揮して改革を進められるよう、大学のガバナンス改革を進めることが盛り込まれた。この後、平成25年6月14日に閣議決定された、いわゆる骨太の方針日本再興戦略及び第2期教育振興基本計画でも、大学改革の項目の中で、大学のガバナンス改革が掲げられている。平成25年6月からは、教育再生実行会議の提言を踏まえて中央教育審議会大学分科会の組織運営部会において、大学のガバナンスの在り方について審議が始まり、同年12月の同部会審議まとめを経て、翌平成26年2月に同分科会の審議まとめが公表された。これを受けて、学校教育法及び国立大学法人法の一部改正案が平成26年4月25日に政府から国会に提出された。同改正案のうち、学校教育法の改正では、教授会の役割の明確化や、副学長の職務の明確化による学長補佐体制強化国立大学法人法の改正では、学長選考の基準明確化や当該基準と選考結果等の公表、経営協議会の学外委員の割合を2分の1以上から過半数へ引き上げること等が盛り込まれている。附則には、国立大学法人の学長選考会議の構成その他国立大学法人の組織及び運営に関する制度について、法改正後も随時検討し、必要な措置を講ずるものとする見直し規定が置かれた。

なお、今回の改正案とは別に第186回国会に提出された独立行政法人制度改革関連法案の中に、国立大学法人法の改正規定が設けられており、それによって監事の機能強化が図られることになっている。このほか、文部科学省令による対応が予定されている事項もあり、例えば、学長補佐体制強化のために、IR、入学者選抜、教務等の各分野に精通した高度専門職を創設すること等について、「大学設置基準」(昭和31年文部省令第28号)の改正により規定することが検討されている。

今回の改正案について、国立大学協会は、松本紘会長(京都大学総長)名のコメントを公表し、既に国立大学等が推進している大学のガバナンス改革の取組を一層促進するもので、大学改革を進める上で評価できるとしている。一方、大学の教員の中には、大学を国家目的に奉仕する機関へと変質させるものであり、学問の自由と大学の自治を侵害するなどとして、インターネット上で反対の署名を呼び掛ける動きもある。 


Ⅲ 今回の改正案をめぐる論点

1 学長に対するチェック機能

今回の改正案では、教授会の権限の明確化や、副学長に係る規定の整備を通じて学長補佐体制を強化することとしている。これにより、学長が強いリーダーシップを発揮しやすい体制の整備が図られるものの、一方で、強力な権限を持った学長が独断によって適正さを欠く大学運営を行う可能性も危惧されるところである。学長の業務執行をチェックする仕組みをいかに構築するかが課題となる。

審議まとめでは、国立大学の学長選考会議や公立大学の学長選考機関について、学長選任の際にのみ活動する一過性の職務ではないことを指摘した上で、こうした学長選考組織や監事が学長の業務執行状況を恒常的にチェックする必要があると述べている。国公立大学の場合、学長に対して学長選考組織や監事が必要な支援や助言を行った上で、なお学長の業務執行が改善されないときは、学長選考組織から任命権者に対して学長の解任を申し出ることになる。

しかし、これに対しては、実際に任期途中で学長を交代させることは容易でないとして、学長の業務執行をチェックする仕組みをどのように整えるか国会で議論すべきとの指摘もある。既に現行法の下でも国立大学の学長の権限は強力であるとして、学長のリーダーシップの確立と併せて権限の統制を確保するため、学内統治組織の在り方を法令でより明確にすべきとの声もある。また、国立大学の内部規則では、学長選考会議による学長の業務執行チェックや解任の手続等に関する規定が整備されていないことも珍しくないようである。今後、各大学では内部規則の整備の検討が必要になる可能性がある。

2 大学の特質とリーダーシップの在り方

近年の大学のガバナンス改革をめぐる議論では、トップダウン型の強いリーダーシップの確立に関心が集まりがちである。しかし、ガバナンスの在り方に影響を及ぼすとされる組織文化の問題(Ⅰ1参照)を考えてみると、大学では、教育研究を担う個々の教員や学科の意思決定を尊重する「同僚制(collegium)」の組織文化が存在し、これに基づく管理運営手法がとられてきたことがしばしば指摘されている。こうしたことが教授会中心の大学運営にも結び付いていると考えられる。もちろん大学にも変化がないわけではなく、近年の市場化の進展の中で、次第に企業的な組織文化に基づくガバナンスが取り入れられつつあるといわれる。とはいえ、知識の発見、伝達、応用を固有の使命とする大学では、専門領域ごとの下位の組織単位や専門的知見を有する個々の教員の知的生産活動こそが原動力であり、その創造性を最大限に発揮し得る環境が整備されていなければ、組織としての使命を果たすことが困難になる。このような組織の特質を考えると、大学では、下位の組織単位に自律性を付与する分権的な組織編制が求められる面があり、それゆえに「同僚制」の組織文化やそれに基づく管理運営手法の存在をある程度は前提とせざるを得ないと考えられる。

組織文化とリーダーシップの在り方は密接に関係しており、大学のような組織文化を持つ知識集約的組織では、上位下達型の強力なリーダーシップが機能するとは限らず、むしろ早い段階から構成員に関与を求め、目指すべきビジョンや方向性を共有させ、日々の活動の中に位置付けるといった過程を通じて、構成員の参加を引き出す形でのリーダーシップが重要という指摘もある。意思決定プロセスにおける関係者の納得を重視し、できる限り説得や誘導による合意形成を大切にする双方向的なリーダーシップの有効性が説かれることもある。米国の大学でも、理事会、学長等の執行部、教員組織の三者がそれぞれの立場で大学運営に参加し、責任を分担する「共同統治(shared governance)」に基づくガバナンスが構築されており、必ずしも学長が強力なトップダウン型のリーダーシップを発揮しているばかりではないことが報告されている。大学という組織の特質に鑑み、それに適合したリーダーシップの在り方と制度設計を考えていく必要があるだろう。

3 組織文化の変革と教職員の意識改革

現行法の下でも学長には強力な権限が与えられており、むしろ問題は、法律上の権限の有無ではなく、法律と実態が乖離していることにあるともいえる。そう考えると、今回の改正案が成立したとしても、なお同様の事態が続くおそれがある。

フランスでも、2007年の「大学の自由と責任に関する法律」により、大学の自律性の拡大や学長の権限強化が図られたが、現在でも、実際の運営は各大学の歴史・文化・環境等によりまちまちであり、自治の伝統が強い大学では、法制定前の組織文化やガバナンスの在り方が現在も維持されているという。

ここからみて、ガバナンス改革のためには、法改正だけでなく、組織文化の変革が伴わなければならないと考えられるが、それをもたらすのは組織全体の学習である。これは、教職員の意識改革ということでもあり、教職員の意識改革こそが我が国の大学改革実行の最も重要な鍵であるとする指摘もある。

この点、過去の中央教育審議会答申において、我が国の大学は、学部・学科や研究科といった組織に着目した整理がなされてきたとして、学部・大学院を通じ、学士・修士・博士等の学位を与える課程(プログラム)中心の考え方に再整理していく必要性が指摘されたことがある。このように学部・学科等の組織中心の縦割りの教学経営を見直すことが意識変革につながる可能性もある。 
また、ガバナンス改革においては、大学が研修・研究等の組織的な取組を通じて教職員の能力開発(Faculty Development(FD) / Staff Development(SD))を行うことが重要であると言われている。教員の授業や研究指導の内容・方法の改善を図るための組織的な研修・研究としてのFDについては、既に「大学院設置基準」(昭和49年文部省令第28号)及び「大学設置基準」において実施が義務付けられており、大学職員を対象とするSDについても、文部科学省では審議まとめを受けて実施を義務付ける方向で検討しているとされる。これらの取組がガバナンス改革に資するものとなるように、今後、注意を払っていく必要がある。

4 学長裁量経費の拡充

我が国の大学において、学長等の執行部が強い権限を発揮できないのは、法的な権限の問題というより、学長が独自の判断で戦略的に配分できる裁量経費が少ないからではないかという指摘がある。国立大学では、法人化後に経営の自由度が増したことにより、学長裁量経費が増加する傾向にあるという調査もみられるが、別の調査では、学長裁量経費等の戦略的経費の割合が大学の予算全体に占める割合は、約5%に上るところがある一方で1%に満たないところもあり、大学により違いがあったとされる。

改革に充てられる裁量経費拡充のためには、まず学長が外部資金の獲得や基金運用等の工夫を行う必要があるが、審議まとめでは、さらに国の支援として、第4期科学技術基本計画にも掲げられている競争的資金の間接経費の充実を挙げるほか、大学本部にプロジェクト型予算等を配分すること等も考えられるとしている。学長が改革を進められるような財政的基盤をいかに拡充していくか対応が求められている。 

おわりに 

大学のガバナンス改革は、それ自体が目的というよりも、適正なガバナンスの体制を構築することにより、大学改革を一層迅速かつ適切に推進するための基盤整備である。各大学では、必要なガバナンス体制を早急に整備した上で、グローバル化、地域再生、研究開発力強化等の諸課題に取り組むことが求められる。 

大学の自主性・自律性を尊重する一方で、広く社会の意見を運営に反映する仕組みを設け、高度な教育研究の実施という目的を達成するために、大学にとって最適なガバナンスとは何かを国も大学も社会も議論を尽くし検討していく必要がある。その際専門家の共同体としての大学の組織文化にも留意しつつ、必要に応じて学内の意識改革を進めることも重要である。

大学が知の拠点にふさわしいガバナンスの体制を構築し、卓越した教育研究の成果を上げて社会の期待に応えていくことが望まれる。

2014年6月8日日曜日

大学経営者の役割

学校法人東邦学園愛知東邦大学理事・法人事務局長/学長補佐の増田貴治さんが書かれた「理事会組織の活性化方策」(文部科学教育通信 No340  2014.5.26)をご紹介します。


最高責任者の役割とは

数年前、筆者が勤める東邦学園の高校組合との賃上げ、ボーナス交渉で、理事長の発した言葉が忘れられない。「学校に乗ってくる車は、最高でもクラウンか小さなレクサスまで。BMWましてベンツなんか論外だ」。

リーマンショック(2008年9月)で一挙に落ち込んだ民間給与に対し、組合の要求があまりにかけ離れていたから、理事長は憤慨していた。その非常識さを、車を引き合いに強くたしなめたのだ。有名進学校と言われる高校や大きな大学の職員駐車場に高級外車が並ぶ光景を批判していた。ちなみに理事長のマイカーはプリウスで、校務でも自ら運転して行き来する。

筆者の学園は、創設者の一族が理事長職をほぼ継承してきた。八代目の現理事長は民間企業で30年以上のキャリアを積んで、2008年4月理事長に就任、今年で7年目を迎える。教職員には常に、持つべき"視点"と学園の"価値観"を説いている。その一つが「社会性」である。私立は自律性の下、独自に運営されるべきだが、同時に社会の営みを意識する健全性が求められる、と。創設者が掲げた建学の精神や校訓、使命感を語り、構成員への浸透を図っている。

2004年の私立学校法改正から10年。学校法人のガバナンスはどこまで強化されただろうか。理事会の意思形成に当たり、経営の健全性を保ちつつ、判断の妥当性をチェックする仕組みはつくられているか、さらに方針や決定事項が適切に運営・実現されているか。

新たな私立学校法で理事、監事、評議員制度や財務情報公開などが整備され、多くの学校法人は意思決定や合意形成のシステムを見直して、理事長を中心とするマネジメントと監査機能の強化を一定確立したと思われる。

組織を健全に取り仕切るガバナンスカ

しかし、極めて不適切な問題も起きた。文部科学省が2013年3月に解散命令を出した堀越学園(群馬県高崎市)ほ、数年前から経営が悪化しながら、指導に従わずに学生募集を続け、在学生の転学先が確保される前に発令が決まる事態となった。

これにより所轄庁が社会から不信感を招くような事態に対処できる仕組みが加えられた。2014年4月の私立学校法一部改正である。文科省や都道府県は経営破綻などの恐れのある学校法人に対し、早期に実態把握できる立入り検査が可能となった。法令違反が明らかな場合は改善命令を出すほか、不正行為をした役員の解職も命じることができることとなった。

私学の"自主性"を重んじる私立学校法の理念からすると、国や自治体が監視権限をむやみに強めることは好ましくない。ただ、所轄庁の指導がなければ自ら襟を正せない私学があるすれば、私学の"自主性"が何のために法的に担保されているのかを再認識して、組織の目指すべき方向性をしっかり据える必要がある。その舵取り役が理事長である。私立学校法37条は「理事長は、学校法人を代表し、その業務を総理する」と定めている。学校法人経営における理事長職の責務は、十年前から極めて重くなっている。

2014年2月27日、文部科学省私学部長から各学校法人宛に「学校法人の寄附行為及び寄附行為変更の認可に関する審査基準の一部を改正する告示の施行について」の通知が届いた。その中で理事長の資質に関してこう示している。「理事長は学校法人の業務全般をとりまとめ、強いリーダーシップと経営手腕を発揮するとともに、組織の調和を図ることが求められていることから、理事長の資質について、学校法人の業務全般について主導的な役割等を果たすために必要な知識又は経験を有し、その職務を十分に果たすことができると認められる者であることを要件として明記する」。学校法人の理事長職がこれまで以上に重責を担う存在であり、高い資質が求められるかという時代なのである。

将来構想で学内のベクトルを合わせる

もう一つは、学園全体としての一体感を醸成し、"戦略"を示すことである。

以前ご紹介した(本誌No308 2013年2月11日号)が、現理事長が就任した当時、学園が擁する大学と高校はあたかも別法人かのようで、非協力的の互いが無関心状態にあった。2009年度から2年間、理事長が校長を兼務したことを契機に、高校と大学との連携した授業や合同研修会の実施など高大連携を積極的に進め、日常的な交流関係の構築に努めた。

さらに"組織を方向づける戦略"として、理事会から将来構想を打ち出した。本学園は2023年度に創立100周年を迎える。永続性を備えた学校にするため、将来ビジョンを明示することで、組織全体がイメージを共有し、個々人の方向性を合わせることが目的である。中期事業計画は教職員にとって将来への"希望"となる重要なコミュニケーションツールである。

本構想では、2012年度から向こう15,年間を5年ずつの三期に分けた。第Ⅰ期は、学園運営における様々な課題を洗い出し、推進計画の基盤作りとする期間に位置づけた。第Ⅱ期は、第Ⅰ期で整えた事業計画を本格的に実施し、質的充実を図って目に見える成果として積み上げる。若年層の人口減少期を迎える前に確固とした基礎を築くことがねらいだ。第Ⅲ期は、実績を検証し新たな価値を付加するとともに、次の時代に進むべき道筋を構築する時期とした。現在の第Ⅰ期中期事業計画は、中期財政計画と合わせて開始した。ビジョンを具体化するため、2013年度は"戦略MAP"を掲げ、全教職員に配付した。2014年度は理事、大学執行部、高校執行部へそれぞれ説明した。今後は、事務分掌と中期事業計画、年度予算とを連動させ、学科の中期事業計画と施策シートを活用しながら、目標達成へとつなげていく予定である。

"戦略"を左右する理事の力量

学校法人を運営する上で重要なのは、経営陣がいかに適切に役割を発揮するかである。まず理事の選出方法とその構成、そして理事の執行体制が問われる。さらに学校法人を取り巻く環境が厳しくなればなるほど、理事職に就く者は"学校法人を経営する"という高い意識と能力が求められるだろう。組織の"価値観"や"戦略"を分かりやすい言葉で語り、組織を率いていく役割を担う。

本学の理事長は「(創設家からの)血はつながっていても、血はそのまま受け継がない」という。理事会に親族は誰も加えていない。三十数年間務めた先々代の理事長は温厚で篤実、その雰囲気は学園の内外に広まった。甥に当たる現理事長は、情熱が過ぎるあまり、教職員が振り回されることも少なくない。だが、行き詰まりを感じつつあった学園に、新たな息吹で展望を持たせてくれた。それは徐々に学内へ伝播しつつある。

理事会は、教学組織と協働して特色ある取組みを創造する役割を持つ。多くの関係者を巻き込みながら、目標を達成することである。理事長を支える理事や執行体制の構築がより一層重要になろう。

2014年6月7日土曜日

国立大学の多様化

教育評論家の梨戸茂史さんが書かれた「国立大学の使命(ミッション)」(文部科学教育通信 No340  2014.5.25)をご紹介します。


教育は「百年の計」などと言われたのは、大昔のことのように思える。いまやほとんど毎年、「改革」と称する見直しと節約の日々。最近の大学改革の目玉?は、ミッションの再定義。大騒ぎで出来上がった各大学のミッションを見てみたが、おおむね従来型の目標などが羅列されている。

文科省が、さらなる国立大の機能強化に取り組むとして、「ミッションの再定義」を国立大学に行わせ、各大学の有する"強みや特色、社会的役割"がその制定過程で明らかになることを期待した(みたいだ)。

それは、「国立大学の機能の強化を図るため、各大学は、人材や施設・スペースの再配分や教育研究組織の再編成、学内予算の戦略的・重点的配分等を通じた学内資源配分の最適化に、学長のリーダーシップの下で主体的に取り組む」こと(を期待する)。そして、「学内資源配分の最適化や大学の枠を越えた連携・機能強化を含む先駆的な改革を進める国立大学を、予算の重点配分を通じて支援」する(つもりだ)。

これには反対論も無きにしも非ず。本来、法人化したときに、あとは「自由におやんなさい」として、大学に裁量権を与えたはずだが、今更『再定義』を指示して、各国立大学の「強みや特色」(実は、弱いところ(大学)はなくしてしまえ)と「社会的役割」(地方国立大学はその地域のために研究・教育を行っていればよい)を明確化して、そこだけに資源=予算をあげましょう、という話ではないか、という意見だ。

ついでに打ち出したのは「学長が全学的な改革にリーダーシップを発揮できる体制が確立できるように、教授会の役割の明確化」だ。何を隠そう、教授会は学部自治の中心。それがウンと言わなければすべて物事が進まない仕掛け。大学全体で何か進めようとすると、「そもそもの哲学論、あり方の当否、先の見通しなどなど」通常は神ならぬ学長の身では分からぬことだらけ。おまけにこの教授会、だいたい出席率が悪いことが多く、特定の一言居士に牛耳られていつもややこしい神学論争。「まともに取り合っていられぬわい」と思う理系の学長ならば、相手にしたくないではないか…かくて教授会権限は縮小?の憂き目となる(だろう)。

もとにもどって、国立大学の使命なるものを愚考すれば、特定のトップクラスの研究大学があり、世界的競争の場で戦う大学とし、次は専門職を含めた教育中心の大学群、地方の人材供給を目的とする大学など多様化をしつつ分かれていくのだろうか。

すべての国立大学が研究重視というのは、所詮は無理な話。財政不如意な今後のニッポン、教育に回す予算を考えたら、集中投資が重要でしょう。しかし、高い山はすそ野が広くなければならない。国民全体の教育レベルの高さも大事だ。全部が全部、東大型の総合大学とはいかぬまでも、地域のトップレベルの教育、研究の中心ではありたい。その意味で、地方国立大学の使命を明確にしてそれに集中して取り組むことは大事(しかし「ミッション」などという横文字はいかにも胡散臭く、背後に予算削減がしのばせてありそうだ)。やみくもに反対を声高に唱えるだけではなく、逆手に使って生き延びようではありませんか。

参考になるのが、愛媛大学。2016年度に「地域共創学部」を創設する計画を打ち出す(日経新聞4月10日付)。製紙業などの地場産業や過疎化が進む集落の活性化策に取り組むそうだ。主な使命が地域との連携であっても、そこからトップクラスの学生や研究者が出て、研究「ミッション」の別の大学に移動していくというのが、未来の姿かもしれない。

2014年6月6日金曜日

財政が求める大学改革

平成27年度予算に係る骨太方針の策定に向けた経済財政諮問会議の議論が山場を迎えています。

今回は、大学関係の議論の様子を会議の議事概要から抜粋してご紹介します。


平成 26年第9回経済財政諮問会議

日時:平成 26 年5月 27 日(火)
議事:歳出分野の重点化・効率化(教育)・教育再生について など
資料:

議事要旨(全文はこちら

歳出分野の重点化・効率化(教育)・教育再生について

(甘利議員)

まず、教育分野の重点化・効率化及び教育再生について、議論を行う。本日は、下村文部科学大臣の代理として、西川文部科学副大臣に参加いただいている。資料については、簡潔にポイントをご説明いただき、議論をしっかりと進めたい。 まず、小林議員からポイントをご説明いただく。

(小林議員-三菱ケミカルホールディングス代表取締役社長)

資料1-2をご覧いただきたい。

我が国がグローバル競争を乗り越え、イノベーションによって持続的成長を実現するには、人財が大いなるポイントであり、教育のあり方を抜本的に見直し、予算を効率的に用いるべきということは言を待たない。厳しい財政制約のもと、財源確保がなされないまま予算を増やす環境にはなく、文教関係についても「経済再生」と「財政健全化」の両立に向け、計画的な取組を進めるべき。教育の質を高める観点に立ち、時代の変化に対応した教育のあり方について、意見を申し上げたい。

(略) 

大学改革について。少子化で学生数が減少する中にあっても、大学はここ10年で130校以上も増え、大学進学率は5割を超えている。こうした状況にもかかわらず、大学経営は依然として学生数に依存しており、教育の質の低下も懸念される。
 
日本の大学生には、1週間全く勉強しない者が10人に1人もおり、極めて考えさせられる状況である。また、世界ランキングに入る大学数も減少している。
 
こうした状況を踏まえれば、大学経営にも教育の質の向上が問われるべきである。そのためには大学での成績評価や卒業認定の厳格化、企業における能力やスキルを重視した中途採用枠の拡大等を図るべきであり、加えて世界で通用する正しい英語による授業の必修化、リベラル・アーツ教育の強化等、国際的な人財育成に向けた対応も急務である。
 
その際、Education(エデュケーション)にICT、すなわち Technology(テクノロジー)を適用した「EdTech(エドテック)」と呼ばれる教育方法の活用を進め、世界の著名教授や事業家のネット授業等、世界レベルの取組をもっと大胆に取り入れるべきである。また、産業界と連携して、優秀な学生への支援拡大や授業内容の充実を図ること、さらに授業料設定を柔軟にして、成績優秀者の授業料免除や多様な奨学金の導入等の取組を促進すべきである。 

次に、質の向上にはPDCAサイクルの確立が特に重要である。「経営協議会」において、定量的な手法を用いながら、大学の価値を機能ごとに比較可能な形で整理した上で第三者評価を交えて公表し、その結果が運営費交付金の配分に反映されることで、質の向上に努力した大学が報われるようにすべきである。
 
また、教育の質を担う大学教員が研究や教育に専念できるよう、事務スタッフの配置・増員を行うこととあわせ、大学のガバナンスをしっかりと見直すべきである。今年は第2期中期計画の最終年度に当たることもあり、次期計画を見据えた総括を大学が自ら行い、文部科学省はそれに適切に対応してレビューをすべきである。

これに加えて、世界トップレベルを目指す大学においては、飛び入学をより積極的に実施すべきである。早い段階から研究経験を積ませ、若手研究者へのポスト振替を進めることで世界最高水準の人財を育成すべきである。また、我が国の多様性を踏まえれば、各地域の得意分野を活かす教育、研究拠点(リージョナルCOE)を創設・選定し、人財育成、地域貢献を果たすべきである。

(甘利議員)

続いて、西川副大臣からお願いする。 

(西川文部科学副大臣)

資料2をご覧いただきたい。 

本日は教育投資の必要性、少子化に対応した学校教育と教育条件の整備、時代の変化に対応した大学改革について御報告申し上げる。

(略)

5ページ、大学教育について。まず、教育の質の向上については、学生が徹底して学ぶことのできる環境整備をするために、本年度からアクティブ・ラーニングによるリベラル・アーツ教育の充実とともに、英語による授業の拡大等、いろいろな取組をしている大学を重点的に支援していくことを開始したい。 

そのためには、厳格な成績評価・卒業認定について、私立大学では、定員超過にカウントする基準が1年になっていると、これがたまってしまい、いろいろな新しい取組に大学が足踏みするので、予算運用のルール改正をして、国立大学と同様2年に延長している。そういうことで、このいろいろな取組を大学がやりやすい環境にしたい。

そして、グローバル化に対応して、国際化に取り組む大学に重点支援を行う事業や、官民が協力した新たな海外留学支援制度(トビタテ!留学 JAPAN 等)を創設している。それと外国の大学と連名で単一の学位を授与できる「ジョイント・ディグリー」の制度化に向けて検討を進めている。

国立大学改革については、今、「国立大学改革プラン」で、大学の強み・特色を最大限に活かした機能強化を加速しており、選択と集中でそういう努力をしている大学に重点支援をしてまいる所存である。

ガバナンス改革については、今ちょうど法案を提出中であり、学長がリーダーシップを発揮し、より一層の大学改革を図ることを目指している。柔軟な所得連動返還型奨学金制度の導入や、授業料減免の充実、無利子奨学金の充実と教育費の負担を軽減するための施策も改めて行う方向で検討している。国立大学の授業料については、教育の機会均等の確保の観点から、適正な水準を守る必要がある。 

(甘利議員)

伊藤議員、続いて、佐々木議員から御意見をいただきたい。

(佐々木議員-株式会社東芝取締役副会長) 

我が国の教育は、戦前の思想教育への反省や、戦後の復興期でもイデオロギー・コンフリクト等から知識教育に重点が置かれ、学力水準では相応に効果は上げてきた反面、やはり確固たる意思の確立、多様な個性の伸長、こういうものに課題があって、また、ナショナル・インタレストへの意識醸成もかなり希薄になって、体系的なビジョンや意思、心情をベースとした本質的な議論ができていない。 

そういうことをベースに、海外との調整局面でもなかなかWin-Winの関係を作りにくくなっている。その打破という意味では、リベラル・アーツ教育を含めた見識教育への転換、自治体に蓄積するような産学連携の拡大、そういうもので多様な個性や確固たる意思を自立的に醸成した上で、多様な価値観を孵化させて人材ポートフォリオを確立していくことで、自国をリスペクトしながら、グローバルな視点で活躍できる人材を育成していく必要がある。そのための教師の見識教育に向けた質的向上とカリキュラムの改革。それから、即時的な課題と接触する機会を増やす産学連携の飛躍的な拡大をしていくことが必要である。
  
(甘利議員) 

麻生副総理、小林議員の順に御意見をいただく。

(小林議員-三菱ケミカルホールディングス代表取締役社長)

西川副大臣の参考資料の11ページ。2020年までに所要額が4兆円から5兆円に上る各施策を新たに実施するとあるが、何かを減らせる、削減できるというアイテムはあるのか。

(西川文部科学副大臣)

(略)大学の問題については、大学改革を文部科学省でもドラスティックにいろいろな法案を出して取り組んでいるところだが、日本の大学生が勉強しない現状については出口を厳しくし、成績評価を厳正に対応してやっていきたい。そして、各大学の情報収集・発信、認証評価等も各大学の取組のチェックを充実して検討してまいりたい。それから、定員管理の弾力化を図っていきたい。


次に、関連して、財政制度等審議会が取りまとめた財政健全化に向けた基本的考え方」(平成26年5月30日)における大学関連部分を抜粋してご紹介します。


4.文教

(略)国立大学においても、近年事業規模は増加しているにもかかわらず、それが評価の向上に結び付いていないことから、資金の有効活用がなされていないのが現状である。

我が国の厳しい財政状況の下では、教育予算についても、「質」の向上により、様々な問題に対応していくことが求められる。

(2)国立大学改革

① 次期中期目標期間に向けて必要な取組み 

イ)国立大学の現状
 
日本の大学の世界における評価は、現状、必ずしも高いものとはなっていない。近年国立大学への運営費交付金が削減されていることが日本の大学の評価が向上しない原因であるとする見解もあるが、正確とは言えない。なぜならば、国からの競争的資金や寄付金等の自己収入等を含めた国立大学の事業規模全体は近年毎年度増加しているにもかかわらず、大学を評価する一つの指標である大学ランキングなどの評価が連動していないからである。〔資料Ⅱ-4-10 参照〕

運営費交付金の配分額が上位の国立大学をみても、事業規模の増加が大学の評価と比例していない。これらの大学が世界トップレベルの教育研究拠点を目指すためには、マネジメント能力の強化、グローバル人材の育成、産学連携の強化等によって資金を一層有効活用していくことが必要である。〔資料Ⅱ-4-11 参照〕

また国立大学86校のうち、いわゆる総合大学は47校を占めているが、これらの大学が各々の特色を活かした大学運営を行っていないことも、日本の国立大学の評価が向上しない一因となっているのではないかと考えられる。〔資料Ⅱ-4-12 参照〕

ロ)予算配分の重点化による教育研究組織の見直し
 
こうした状況を改善していくためには、各大学が、例えば世界トップレベルの教育研究拠点や地域活性化の中核的拠点といった機能強化の方向性を定めた上で、それを踏まえて教育研究組織を柔軟に見直し、資源配分の重点化を行っていくことが必要である。これまでの運営費交付金の配分を見ると、必ずしも各大学の機能強化に向けた取組みを促すメリハリある配分とはなっていない。28年度から開始される国立大学法人の第三期中期目標に向けて、一般運営費交付金も含めた運営費交付金全体のメリハリある配分を行うことが出来るよう、実効性のある配分方法の見直しを行う必要がある。〔資料Ⅱ-4-13参照〕

具体的には、自らの強みや特色、社会経済の変化や学術研究の進展を踏まえて教育研究組織や学内資源配分の見直しを行う大学や、寄附金の獲得、授業料引上げによる自己収入の増などの教育研究環境充実に向けての自助努力を率先して行う大学については、重点的な支援を行う。そ
の他の大学については、より有効に社会的要請を果たせるよう、教育研究組織の思い切った合理化や再編、アンブレラ化等による他大学との再編統合による機能強化を図っていくべきである。

こうした重点支援を行う前提として、国立大学の機能強化の方向性に対応した制度・規制の枠組みを検討するとともに、機能強化の方向性や学問分野に対応した評価基準を設けて比較可能な外部評価を厳正に行う必要がある。また、各大学は学生・企業・海外研究者・納税者等に対して主要なデータを積極的に公開する必要がある。〔資料Ⅱ-4-14 参照〕

②ポストドクターについて

これまで、少子高齢化により大学の教員ポストの増加が見込めない状況にあったにもかかわらず、「我が国の研究開発能力を強化する」との名目の下、ポストドクターの増加が図られてきた。その結果、ポストドクターの総数は、1996年には6,274人であったものが2009年には17,116人と約2.7倍に増加した一方、大学における若手教員数は、1998年に36,773人であったものが2010年には34,779人と減少し、大量に増加したポストドクターの受け皿として不足を来している。このため、本来は「研究者のキャリアパスのステップ」として位置づけられていたはずのポストドクターの状態が、現実には継続・長期化する傾向にある。〔資料Ⅱ-4-15 参照〕

また、ポストドクターの分野別の内訳を見ると、例えば、生物系のポストドクターは人数が多いにもかかわらず、他の専攻と比べて教員や研究職への転換が進んでいないなど、分野別にも偏在が見られる。〔資料Ⅱ-4-16参照〕 

こうした問題を解決するため、ポストドクターが能力に応じたキャリアパスを的確に描けるようにしていく必要がある。具体的には、年俸制や混合給与の導入加速化によるシニア教員から若手研究者へのポスト振替等の推進や、産業界との連携・研究独法との人事交流・海外大学との共同研究を通じたポストドクターの進路の多様化が必要である。同時に、ポストドクターが滞留している学科については、学位授与を厳格に行い定員を抑制するなど供給の適正化を図る必要がある。こうした取組みを率先して行う大学については運営費交付金の配分において重点的に支援する仕組みを導入する一方、努力が不足している大学については縮減を図るなど、予算のメリハリのある配分を検討していく必要がある。〔資料Ⅱ-4-17参照〕

2014年6月5日木曜日

火急の課題とやりがい

「介護の人出不足 魅力ある仕事にしよう」(2014年06月01日毎日新聞社説)をご紹介します。


飲食業や建設業を中心に人手不足が目立っているが、とりわけ深刻なのが介護や保育だ。非正規雇用の人を正社員にして労働力の確保を図る会社が増え、賃金アップの波が広がっていることは歓迎したいが、もともと賃金の低い介護や保育にとっては格差がさらに広がり、人手不足に追い打ちをかけているのだ。

安倍政権は女性の活用を打ち出している。社会で働く女性が増えると家庭内で担ってきた介護や保育を代替するサービスはますます必要になる。人口の多い団塊世代が本格的に介護を必要とする時期も迫っており、介護や保育の人材確保は火急の課題なのである。

今国会では議員立法で「介護・障害福祉従事者の人材確保特措法案」が提出され、全額国庫負担で平均1人月約1万円の賃上げを図ることになっている。介護など福祉現場で働く人の賃金の原資は介護保険や税金であり、賃上げは国民負担が増すということでもある。公費だけでなく、介護施設などを経営する社会福祉法人の自助努力も求めなくてはなるまい。小さなNPOや株式会社は同じ内容の福祉事業をしても税金が掛かるが、社会福祉法人は非課税で各種助成金でも優遇されている。多額の内部留保がある法人はもっと職員の賃上げに回すべきだ。

高齢者や障害者の施設では、認知症や行動障害の人の利用を断り、精神科病院へ安易に回すことがよくある。働く職員の賃上げとともに専門性も高め、支援の難しい利用者に対しても生活の質を高められるサービスを提供できるようにしてほしい。そうでなければ利用者や一般国民は納得できないだろう。

介護現場の仕事といっても車両による送迎や清掃、洗濯など比較的単純な作業から、支援計画の作成や2次障害の改善など高い専門性を要する仕事まである。一律の賃上げよりも、業務の難易度やスキルの高さを賃上げに反映させることも考慮に値する。終身雇用よりも、資格や実績に合った職場へ転職することが比較的一般化している業種でもある。個々の職員のやる気を高める賃金体系を目指すべきである。

やりがいは金銭だけではない。士気が低く劣悪な介護がまかり通っている施設では、職員は定着しない。介護や保育は本来、クリエーティブ(創造的)な仕事だ。最近は大企業や国家公務員より福祉の仕事を目指す大学生も珍しくなくなった。リーダーが高い理念を掲げて優れた実践をしている組織で目立つ。賃金を上げても魅力のない職場には人材は集まらない。職員が専門性を磨き、良い支援を実践し、やりがいを感じられる職場にしてほしい。

2014年6月4日水曜日

認知症を考える

NHK解説委員室ブログから認知症を正しく理解しよう」(2014年5月28日)をご紹介します。


敦賀温泉病院院長 玉井 顯
 
認知症は脳の病気です。どうして真っ先に脳の病気という事を強調するかと言いますと、これまで認知症に対する見方はマイナスイメージを持たれてきたという歴史があるからです。

そして、最近では、徘徊による行方不明者や踏切事故など認知症に関連する報道もマスメディアで取り上げられるようになりました。メディアで取り上げられるようになり、多くの方に理解していただける疾患になってきたことは認知症に関わる一人として嬉しく思います。

しかし、残念なことにそれらの報道の一部は認知症という病気に対する恐怖を生みかねない報道もあるのが現状です。私は30年以上認知症と向き合ってきました。認知症には様々な病気があり、たとえ同じ病気であっても、その方の性格や職業・家族要因や地域性などが異なります。つまり、認知症はその方の歩まれてきたunique oneその方特有の疾患だといえるでしょう。ここで私が強調したいことは、認知症を肯定的に考えることの重要性です。

残念なことに、これまで認知症は痴呆などと呼ばれ、診断されることは恥ずかしいこと、家族としても周囲に知られたくない病気として理解されてきました。近年、高齢化や権利擁護の観点から、「認知症」という名前に変わり、認知症に関する見方も10年前と比較して随分肯定的になってきました。

そこで、私は今回、認知症に対する肯定的な立場から、認知症の未来の展望についてお話していきたいと思います。

認知症は、「誰でもかかりうる疾患」であり、特別な病気ではありません。社会に認知症という疾患について正しく知ってもらうこと、認知症に対するポジティブな啓発がなされれば、認知症になっても安心して暮らせる街ができ、認知症のことを理解してくれる地域住民が増え、認知症を恐れることなく理解してくれる家族がいて、さらに言えば自分が認知症になることを想定した人生の計画作りの可能性もこのような肯定的な捉え方から見えてくる大切なことだと考えています。

では、具体的にどのようにすれば認知症になっても安心して過ごせる社会の構築ができるのでしょうか。まずは、啓発活動を通じて認知症に対する必要な情報や公開講座の実施といった心理教育などを取り入れて、認知症に対する正しい知識を皆さんに知っていただくことが重要でしょう。

次に、早期発見・早期診断の重要性です。正しい啓発で、認知症が怖い病気ではないことがわかれば、早い段階から適切な支援・医療を受けることのできる可能性にもつながるでしょう。啓発から早期発見・早期診断によって早い段階から適切な支援や医療を受けることは、非常に有益なことでしょう。そして、もし早期の発見ができなくても、社会が認知症について正しい理解があれば、認知症になっても安心して暮らせる社会の一歩が踏み出せるでしょう。

ですから私は、その第一歩である、認知症を正しく理解してもらう活動に力をいれてきました。それは、「認知症サポーター」を一人でも多く、様々な世代・様々な業種の方々に知っていただく活動です。

学校や一般企業に行き、講演や劇を通じて認知症に対する啓発を行い、自治体の方々に講演などをしています。「認知症800万人時代」と呼ばれる現在、認知症を正しく理解してくれる人々である「認知症サポーター」は全国で500万人にものぼっています。

しかし、今後も認知症は増加することは確実に予測されますので、引き続き、認知症を正しく理解してくれる方が一人でも多く増えてくださること、また、認知症を特別な病気ではなく、お互いに理解しあい、住みやすいコミュニティづくり、その人その人に合ったその人らしい暮らしのあり方をより多くの方々と増やしていくことを期待しております。

次になぜ認知症の理解が大切かということを私は有名なトリックアート「老婆と少女」を用いて説明しています。
 



・・・みなさん、この方はおいくつに見えるでしょうか?
人によっては年老いた魔法使いに見えたり、ある人によっては、少女に見えたりします。
要するにその人によってものの見方は異なるということです。例えば、認知症について正しい知識がないと、偏った見方をしてしまう危険性があります。
また次に、「頭の上の猫に気づきましたか」という質問もしてみます。これにはなかなか皆さんは気づかれないことが多いのです。この絵を使って私がお伝えしたいことは、見えているようでも、よく見なければ、教えてもらわなければ、気付くことが難しいことがあるということです。
この絵を認知症に応用すると、認知症の方々が病気に対するサインを出していても、正しい理解なしには気付けないことがあるということを皆さんにお伝えしたいのです。認知症の見方や見え方に対して、私はこの絵を用いて説明しています。

しかし、認知症の症状について正しく理解することは難しい側面があることも事実です。複雑な脳の機能障害つまり高次脳機能障害に対する知識をもつことも認知症を知る上では欠かすことのできないことだといえるでしょう。ですから、私は認知症を正しく理解していただく活動に力を入れて、一人でも多くの方に認知症について知っていただきたいのです。

最後に、早期発見・診断の有用性についてお話させていただきます。
認知症は誰でもかかる可能性のある病気です。ですから、認知症を正しく理解して欲しいのです。認知症という病気を恐れることなく、早期に発見・診断を受けることによって、ご本人だけでなくご家族や地域自治体などが一体となって、ご本人の受けたい支援が受けられる社会にしていきたいのです。

本人・あるいは周囲の人たちが「あれ、何だか最近おかしいな」と感じたら、すすんで医療機関を受診し、診断を受け、その方に合った受けたい支援を受けられるような、そのようなコミュニティを一つでも多く作っていきたいのです。

そんな街がこれからもっと増えていくことを私は願っています。
最後にもうひとつ有名な「ルビンの壷」と呼ばれるトリックアートを提示し、認知症という疾患の裏に何が隠されているか考えてみたいと思います。
 



例えば、この壷が認知症であるとするならば、その背景に隠されたメッセージは、向き合った人同士というメッセージにもつながるでしょう。

認知症の対応は、世代を超え様々な職種の人々の連携なしには解決しないと思います。核家族化が進み、地域の人間関係が薄らいでいる現代だからこそ、認知症の方々から発せられるメッセージを、よりどころにもう一度、原点に返ることが求められているのではないでしょうか。

私には、認知症の方々から「みんなで手をつないで仲良くして欲しい」というメッセージのように聞こえてなりません。

日本中が、そのような社会になることを願っております。


2014年6月3日火曜日

居場所の違いを理解する

愛読しているブログの一つ「外から見る日本、見られる日本人」から世界の中のニッポン、目線の合わせ方」(2014年05月28日)をご紹介します。


5月23日の読売新聞の一面は「タイ軍クーデター」「ウルムチ爆発死者31人」「北、韓国側を砲撃」というアジア外交の記事が紙面を占拠しています。たまたまそういうニュースが重なったとしても今の日本はグローバル化の中で世界情勢と強いかかわりを持ち続けています。

安倍首相は外国人労働者への門戸緩和、外国人移民の検討、外国人旅行者をオリンピックまでに3000万人へなど外国人が来る日本をイメージしています。それは旅行のみならず日本の生活を通じて日本人との融合が前提になっていきます。

東京神田。金曜日の夕方、人々が街に繰り出す時間、立ち飲み屋に群がるのは外国人サラリーマン達。明らかに近辺で勤めていると思われる白人男性数名が立ち飲み屋で談義している姿をみて全く違和感を感じないのは外国ではパーティーなどが立ち飲みだからでしょう。以前行った新宿の外国人でごった返すビアバーでもいす席があるものの立ち飲みで人が溢れていました。

一方、人手不足に悩む日本の飲食業界は究極の機械化。居酒屋ではメニューは全部手元の端末から自分で注文。原則、店員は注文を聞きに回ってこないからこの端末で注文しない限りいつまでたってもビールにありつくことは出来ません。多分ですが、これは外国人にとって理解しがたいことです。なぜならばレストランとは食事の品質、店の雰囲気、サービスの三拍子がそろってこそワークします。だからどれだけうまいものを食べさせるとしても例えばサーバーがワインの種類さえ分からなければお店は失格になるのです。先日入った居酒屋で「日本酒はどんなのがありますか?」と聞いたところ思い出すように言った銘柄は全部焼酎。学生アルバイトさんにとって日本酒や焼酎の銘柄は分からなくてもサワーとかハイボールならわかるということでしょうか?

冒頭のアジアのニュースについても一般的な日本人ならば見出しだけ見て内容を読まず、そんなことがあるのか、と遠い外国の縁のない話と思っている人が大半でしょう。それよりもスポーツの結果とか奇妙な殺人事件や社会問題満載の社会面の記事に精通して語ってしまうということでしょうか。

確かに日本から一歩も出ず、海外旅行はパッケージのみ、となれば外国人と話をする必要もなくまるでバスでサファリパークに行ってガラス窓越しに動物を見ることと同じになってしまいます。その人たちにクーデターとかテロ、国境を接した隣国と打ち合いなどは全く想定する必要のない事件なのでしょう。

ですが、10年後には都会や観光地を中心に日本が外国人で溢れかえるとすればどうでしょうか?お隣さんは外国人という時代がもうすぐやってきます。国家戦略特区では外国人へのアパートの短期貸しが可能になります。週末になるとパーティーで大騒ぎ、あるいはゴミは窓からポイする習慣がある外国人も目にすることになります。それに対してどうアプローチするのでしょうか?まさか、警察に通報することになれば警官は外国語をマスターしなくてはいけません。それとも黙って泣き寝入りで「やっぱり外国人は嫌だ」と言いふらすことになるのでしょうか?

しかし、私のように外国に住んでいてもとてつもない常識外れの人には時々お目にかかります。その時どうするかといえば直接、間接的にその人に諭し続けるのです。普通、1,2回言われれば分かるものです。諭し方もあります。それでもだめなら警察に通報するでも訴えるでもとにかく、論理的にそれを止めさせる手段がいくつかステップとして備わっています。外国人は言われれば分かるのですが、日本人は言う、理解してもらう、討論する、諭すという手段を持ち合わせていません。日本人同士でもいきなり怒鳴り込まれるようなところですから外国人にはさっぱり訳が分からない状態になるのでしょう。

日本は否が応でも外国と付き合っていかねばなりません。それは外国語をしゃべることではなく、きちんと向かい合って説明する、抗議するというプロセスが必要です。突然、「おいこら!」「バカヤロー」では意味をなさないということを日本人は学んでいかねばなりません。

そのためには外国で今なぜ、そのような紛争や問題が生じているのか、その背景を考えてた上で居場所の違いを日本人がまず理解するが大事です。外国人がそれをすればよい、という意見はあるでしょう。しかし、外国人が100%日本を理解してやってくることはまずありません。ましてや日本も地方ごとに独特の文化、風習はあります。まずは外国人と向き合うことが大切です。そしてそのためには外国で何が起きているのか、せめてニュースを読む癖から入るのはとっつきやすい入門編であると言えましょう。

2014年6月2日月曜日

リスクをとって新しいことに挑戦する

ブログ「人の心に灯をともす」から面倒くさいという言葉」(2014年5月25日)をご紹介します。


一つの世界の終わりは、新しい世界の始まりでしかありません。

それにもかかわらず、多くの大人は一つの時代が終わるのを極端に怖がります。

その、先が見えないという不安は、いつしか現状がなくなることに対する恐れとなります。

子供は「わからない」「難しい」という言葉をよく使います。

今の世の中、「分からない」「難しい」と言えば、誰もが丁寧に教えてくれます。

便利な言葉です。

しかし、教える側が与えすぎると、子供は自分で考える能力をなくします。

そのうち子供たちは、本当は違う言葉で表現すべきときにも「分からない」という言葉を使うようになります。

本来ならば「面倒くさい」と言うべきときに「分からない」を使うようになっているのです。

他にも、「やる気がしなかった」の代わりに「分からない」。

「途中であきらめました」の代わりに、「分かりませんでした」を使うのです。

そういった言動の習慣が身についたまま、大人になります。

すると、不況で世の中が変わりそうだ、自分の勤めている会社がなくなりそうだ、となったときに、「新しい社会、職場、仕事、生活に慣れるのが面倒くさい」「挑戦するのが怖い」という言葉の代わりに「どうなるか分からない」と言ってしまうのです。

世の中が変わりそうなときほど、自分の感情をしっかり見つめ直す必要があります。

変わるのが面倒なだけで、新しい時代の到来を恐れて動けなくなるなんてもったいないことです。

慣れ親しんだ習慣を捨てて、新しい習慣を身につける覚悟がある人にとっては、ひとつの時代の終焉は恐れることではなく、むしろたくさんのチャンスにあふれた、歓迎すべきことなのですから。


「面倒くさい」という言葉の先にあることは、「挑戦しない」ということ。

「面倒くさい」と言った途端、すべての思考は停止する。

自分の頭で考えようとしなくなった人は、まわりの人やマスコミなどの論調に流されるだけだ。

「あの人が言ったから」「みんながそう言っている」「テレビやマスコミで言っていた」、と。

リスクをとって新しいことに挑戦する人は、自分でとことん考える。

そして、それがたとえ失敗に終わったとしても、その考えるという習慣や実践力だけは必ず身につく。

面倒を恐れずに、何度失敗しても新たなことに挑戦する人でありたい。