前回の日記では、「国立大学の存在意義」について触れましたが、現在我が国には86の国立大学が設置され、規模・教育研究分野・立地条件等により、それぞれの使命や役割が異なっています。特に、地方に位置する国立大学は、大都市圏に立地する大学と異なり、立地する地域に根ざした取り組みを一つの特色としてその存在意義を確かなものにする戦略を考えていかなければなりません。また、国立大学の教育研究成果の地域への還元の期待は高く、地方国立大学における地域貢献は、大学が生きていく上で不可欠な存在意義のひとつになっています。
地方国立大学は、大都市圏にある大学に比べ、寄付金や研究資金など外部からの資金獲得面において劣性に立たされています。このため、大学経営は、税金を原資とした運営費交付金へ依存せざるを得ません。しかし、そういった資金獲得面の制約の中でも、地方国立大学は、他大学にはない特色や個性を発揮しながら様々な改革努力を重ね、いわゆるリージョナルセンターとしての役割を果たしていかなければなりません。
現在、中央教育審議会など政府レベルでは、少子化など今日の大学を取り巻く状況を踏まえ、「質の保証」、「国際競争力の向上」など様々な課題について、我が国の大学の将来展望と対策についての議論が進められています。中でも、「人口減少期における我が国の大学の適正規模」といった課題の解決策として、いわゆる「機能別分化」を超えた取り組みの一つとして、今後、経営上危機的な状態にある私立大学や、国の政策に適合しない分野を有する国立大学については、収容定員の適正化のほか、組織的連携、つまり大学の統合・再編といった大胆な改善手法を求められる可能性は十分にあります。
こういった状況を踏まえれば、地方大学における地域貢献は、当該大学の存在意義をより強力に主張していくためにも、より積極的な方向に変容していくことになっていくことでしょう。しかし、このことが一方では、国立大学の存在意義に疑問を呈することにもなりかねないことを注意しておかなければなりません。
最近では、立地する地域の自治体や企業等との間で、連携協力のための協定を締結する大学が多く見受けられるようになりました。特定の事項に関する協定もあれば、総合的相補的関係を主眼とした包括的な協定を締結する大学もあります。こういった動き、つまり協定締結の結果として、それまで不可能であった様々な活動が推進され、多くの成果が生まれているのではないかと思います。
ただし、協定締結に当たっては主に次の2点について注意することが必要ではないかと思われます。
一つ目は、「地域貢献=協定締結」ではないということ。つまり、協定締結はあくまでも地域との連携の橋渡しのための手段であって、決して協定締結自体が目的ではないということです。締結数を増やすことに貴重な時間と労力を費やすのではなく、締結によって得られるであろう大学にとってのメリットを戦略的に研究し、協定に基づく具体的な連携活動を通じてどのような成果が得られたのかをきちんと評価することが重要だと思われます。しかし、実際はなかなかそこまでいっていないのが実状でしょう。
二つ目は、大学と連携先は対等であり、連携により得られる成果は互いにとって「WIN-WIN」の関係でなければ長続きしないということです。大学の構成員の中には、社会連携や地域貢献を、社会や地域への「奉仕」、「サービス」と捉えている人が少なくありません。学校教育法の改正により、大学の使命として、教育、研究に加え「社会貢献」が位置づけられたことにより、大学はそれまで以上に地域社会を意識せざるを得なくなりました。しかし、大学は「社会奉仕団体」に変わったわけではありません。大学の中で培われた教育・研究の成果を地域に還元することが求められているのであって、その方法まで法律で縛られているわけでもありません。大学にとってのメリットがほとんど期待できない事業や活動を半ばボランティア的に行うことは意味のない連携の形態ではないかと思います。
地域社会、特に地方の自治体などから、大学に対して様々な要望が示され、これに対して大学は、大学としてできることを種々検討し、実現に向けた仕組みや体制を整備していくわけですが、なかには、どうしてそこまで大学が自らを犠牲にしてやる必要があるのか疑問に思うものがあります。うがった見方をすれば、大学をうまく利用してやろうという自治体の戦略にまんまと引っかかっただけではないか、地域貢献という名の下に、結局大学は自治体に使われているだけではないかという、地域への奉仕者としての大学の存在に少々空しく感じる時があります。
地方国立大学は、立地する地域に根ざし地域とともに生きていかなければその存在価値を見いだすことはできなくなってきていることは確かですが、決して地域のために存立するのではなく、地域に位置しながらも、高等教育機関としての基本的な使命をまずは基本にしっかり据え、加えて国際的視点を忘れることがあってはならないと思います。そしてその基本的なスタンスについての理解を地域社会に求めることにより、対等関係の連携が可能になっていくのだろうと思います。
今回は、「地方」国立大学の存在意義について触れた論考をご紹介します。
「・・・地方国立大学の意義」(教育評論家 梨戸茂史)
”地方”国立大学と一言で言うけれど実はそう単純ではない。戦前の高等教育機関は、帝国大学、官立大学、高等学校、大学予科、専門学校、実業専門学校、高等師範学校、師範学校などと呼ばれていた(このうち官立大学は、東京文理大<筑波大>、東工大、東京商科大<一橋大>、神戸商科大<神戸大>、広島文理大<広島大>の5校に旧官立医科大系の千葉、新潟、金沢、岡山、長崎、熊本の6校があり合計11大学のこと)。戦後これらが再編、統合されて新制大学となり49年には「国立大学」として一斉に出発Lた。それぞれの大学の沿革を見ればその成り立ちやどのような学校が一緒になって今の大学になっているのかがわかる。
ところで、一般に「地方」国立大学とはどこを言うのかあまりはっきりした定義はない。東京以外が「地方」というわけでもなさそうだ。一般には”地方”にあっても旧帝大は除かれるようだし、一部の旧官立系も入らなそうだ。戦後、「駅弁大学」だとか、統合してもキャンパスが元の学校の位置にバラバラにあったせいで「たこ足」大学だとか言われた大学がそれに当たっているようでもあるが、はっきりしない。
この「地方」国立大学の存在意義は何だろうか。まず、東京、大阪などの大都市圏を除いてみれば、国立大学の学生定員の7割がこれらの外にある。一方私立大学の定員はその55%がこの大都市圏だ。そして、医学部や教員養成学部での医師や教員など地方で必要とされる人材を養成するのも大事な役割だ。さらには地域振興や産学連携という形で地域の産業とも結びつく。三重大の例でいえば共同研究や受託研究の受け入れ件数で全国13位。県や市町村など地域の文化や社会への貢献もある。一方、大学がなくなればその地域から若年人□が流失する。大学がなくなれば経済的に困難な家庭出身の若者の高等教育を受ける機会が失われる。また、経済効果をみれば、学生や教員、物の購入やサービスなど、一大学当たり、生産誘発効果で400億から700億、雇用創出効果は6000から9000億という試算もある(日本経済研究所2007年3月)。
研究面でも幅広い研究のすそ野を形成している。どこの大学もすぐに産業に役立つ研究に集中するのでは将来の社会に必要な研究につながらない。遠い将来に花開く研究や到底役立たないと黒われるような研究がトップの研究を支えるのだ。ノーベル賞の研究でもわかるように、科学とは本質的に予見できないものであり、試行錯誤や失敗の中から素晴らしい発見や発明が生まれている。生物の多様性がそれぞれの種を発展させるのと同じようにいろいろな大学が広く日本全国に存在する必要がある。その上、地方国立大学は単科の大学では困るのだ。その地域の人材養成に必要な文科系から理系にいたる総合大学でなくてはならない。地域の産業を支えるのは工学部だし、地域の文化的、経済的、社会的発展を担う存在でもある。これを一言でいえば、地方国立大学は地方を担い、地方の「知の拠点」になっている。岐阜大の元学長の黒木先生のことばが身にしみる。「岐阜大学は、岐阜の大学と書いて、本当に、岐阜のことを考えています。しかし、東京大学は、東京の大学と書きながら、東京のことなど考えていないし、石原知事も東大よりは首都大学東京を信頼しています」(黒木登志夫「落下傘学長奮闘記」〉。(文部科学教育通信 No223 2009.7.13)
2009年7月21日火曜日
2009年7月20日月曜日
国立大学の存在意義と学納金
少子化に伴う全入時代の到来に伴い、大学には様々な改革努力が求められるようになりました。
特に大学経営に関わるマネジメントは重視され、私立大学では、予定された学生確保がままならない状態、つまり定員割れを起こしている大学が全体の約半数に迫る危機的な状況となっており、学生募集停止の報道が後を絶ちません。
また、運営費交付金という税金が投入され、安定した経営が保障されている国立大学であっても、授業料・入学料・検定料といった学生納付金が予定どおり確保できない場合は、その減収分の事業展開あるいは人の雇用を停止しなければならず、結果的には教育研究の質の低下に直結することになります。
したがって、学生の収容定員の確保は、新入生はもとより、入学後の休学・除籍・退学者数の抑制を含め、大学にとって極めて重要な経営課題の一つとなります。
先日、国立大学の事務職員への就職を希望し就職活動を行っている学生達と話をする機会があり、面接試験対策と称して「国立大学の存在意義、役割・使命についてどう考えるか」という質問をしてみたことがありました。
多くの学生にとっては想定外の質問のようでしたが、中には間髪を入れず的を得た明確な回答をした学生もいました。想定外の質問であっても、日頃から社会の様々な動きについて問題意識を持って考える習慣をつけている学生は、おそらくこういう時に力が発揮できるのだろうと改めて教えられました。
さて、彼らの回答の中で、国立大学の存在意義について、特に私立大学との比較において最も多かった回答が、「高等教育の機会均等の保障」でした。家計や経済の状況によって、能力や意欲がある学生が、大学への進学の道をあきらめることのないよう、私立大学に比べれば低廉な授業料が設定されていることが、国立大学の存在意義の大きな柱の一つです。もちろん学費が安いだけではなく、税金が投入されていることに関わって、国立大学には公的な機関としての社会的責任、つまり社会への貢献などの使命も課せられています。
このように、教育の機会均等の保障をはじめ、国立大学の存在意義を理解していた学生が予想以上に多かったことは、国立大学に勤務する者としては、大変うれしく、一方では責任の重大さを改めて感じたところです。
これまでも、この日記では、就学や進学のための学生支援の重要性について何度か触れてきました。最近では、政府レベルにおいて「人生前半の社会保障」という考え方が重視されるようになってきていますし、文部科学省は、経済格差が教育格差を生むことにならない「教育安心社会」の実現を目指した諸施策を提案しています。
関連する記事と論考をご紹介したいと思います。まずは7月16日の朝日新聞社説から。
教育費負担-学ぶ子にもっと支えを
学びの場で悲鳴が上がっている。
3月末の時点で授業料を滞納していた大学生は1万5千人、高校生は1万7千人。奨学金貸与の申し込みが急増しているが、十分な枠がない。昨年度は8千人近い大学生が「経済的理由」で中退した。
義務教育である小中学校でも、給食費などの滞納が問題になっている。所得が低い家庭向けの就学援助制度は、10年前の倍近くが利用している。
授業料は高くなった。塾代もばかにならない。そこへ昨年来の深刻な不況。「進学はあきらめろと親に言われた」「教育費が心配で子どもをつくれない」。そんな声も聞こえる。
日本の公的な教育支出は、GDP比3.4%と先進国で最低のレベルだ。教育は親の財布でという考えも根強く、家庭の負担に任せる部分が大きかった。だが教育費の高騰と親の所得格差の拡大は、「教育の機会均等」という原則を根元から揺るがせている。
貧しい家庭の子は、学びたくても十分に学べない。学歴や学力の差は社会に出てからの所得格差に反映し、次の世代にもまた引き継がれてゆく――。そうなっては、日本社会の活力は大きく損なわれてしまうだろう。
教育は「人生前半の社会保障」といえる。その費用はできるだけ社会全体で分担すべきだ。財政支出を増やし、家庭の負担を減らす工夫をしたい。
さまざまな提案はある。文部科学省の有識者会合は、公立高校と私立高校の授業料の差額分を支給する制度や、低所得層向けの就学援助・授業料減免の拡充などを提言した。自民党は幼児教育・保育の無償化に前向きだ。民主党は、中学生までを対象とする子ども手当の支給や、高校の授業料無償化を総選挙のマニフェストに盛り込む。
教育支援は少子化対策、母子家庭支援、雇用対策など他の政策分野とも密接にかかわる。子育て家庭や若者の、どの世代、どの層が、どんな支援を最も必要としているか。文科省や厚生労働省など役所の垣根をとり払い、総合的な「こども・若者政策」として、優先順位をつけて取り組むべきだろう。
たとえば、幼い子を持つ親にとっては幼稚園・保育所がタダになるのもいいが、保育所の数が増えたほうがありがたいのではないか。
特に家計への負担が大きい大学段階では、返済の必要のない奨学金をもっと増やしたい。雇用不安の中、就職支援策にも力を注ぐべきだ。
進学率が98%に達した高校教育の位置づけも焦点だ。家庭の経済状況によって学びの機会が制限されないような支援が、強く求められる。
すべての子に希望を保障することは大人たちの責務だ。「ひとの力」のほかに日本の将来を支えるものはない。来る総選挙で、議論を深めたい。
次に、広島大学高等教育研究開発センター長の山本眞一さんの論考です。
教育費負担と学生への経済支援(抜粋)
かつては低廉だった国立大学授業料
国立大学の授業料は、昭和47年度に3倍に引き上げられて以来、急速に上昇し、昭和53年度には10万円を突破、4年後の57年度には20万円を超え、その後も値上がりを続けて、現在は授業料53万5800円、入学金28万2000円となっている。かつて大きかった私学との授業料格差は、この30年間で5倍から1.6倍に縮小し、また入学料についてはほぼ解消している。その結果、現在では学生生活費に占める授業料の割合は大きく上昇し、下宿生については、国立でも月々15万円ほどの生活費に対して授業料が4万5000円、つまり3分の1を占めるまでに至っている。
5人に2人は経済支援を利用
さて、いずれにしても学生にとって授業料やその他の学費負担が近年高水準にあることは間違いがない。その負担をいささかでも和らげるのが、学生に対する経済支援に関する制度と政策である。文部科学省の整理によると、平成20年度において日本学生支援機構の奨学金を貸与されている学生は、学部段階では全学生の約3割に当たる80万5000人であり、うち無利子奨学金事業は25万5000人が利用しており、一人当たり月額で5万2000円、有利子奨学金事業は55万1000人が一人当たり6万8000円で利用しているとのことである。このほか、授業料減免や民間団体の奨学金を利用している者も含めると、延べ数では約100万人の学部生がこれらの経済的支援を受けていることになる。これらを合算すると全体数で言えば5人中2人が何らかの利用をしていると推測されるが、さらに民間のローン等の利用者もいることと思われる。
いずれにせよ、学部生の大半はかなりの金額を自己負担していることになるが、これが世界標準かというとそうではない。ヨーロッパ大陸諸国では授業料は無料もしくはきわめて低廉であり、また、英国においてもわが国よりはその授業料は安い。米国の大学では、授業料は千差万別であるが、同時に各種の奨学金やローンも充実しており、学生の経済的事情に応じてきめ細かな対応がなされている。なお、わが国を含め、大学院段階の学生に対する支援は別であり、このことについては、いずれ稿を改めて論じたい。
将来への投資としての公財政負担増を
授業料制度の差は、教育支出や額や公私負担の割合にも影響している。OECDのまとめによると、高等教育機関に対する公財政支出の対GDP比は、わが国は韓国の次で最下位(0.5%)となっており、各国平均の1.1%から大きくはずれている。また、高等教育段階の教育費支出の公私負担の割合は、OECD平均では公財政が73.1%であるのに対して、わが国は33.7%にとどまっており、その代わり家計負担は50%を超える大きさである(いずれも2005年時点の数値)。
かつてのわが国では、他の東アジア諸国と同様、教育費は家計が進んで負担するという文化があった。貧しい中で教育費を工面するのは、むしろ美徳とさえ思われていた。しかし、経済情勢が変わり、また雇用や社会保障などさまざまな環境条件が推移する中で、昔と同じように家計が教育費を進んで負担できるかというと、そこにはおのずと限界がある。すでに家計負担能力の差による教育格差が大きくなってきているという指摘もみられる中、知識社会の中での発展と国際競争を目指さなければならないわが国にとって、教育費への公財政投資は、学生への経済支援を含め、将来への重要な投資ではないかと思うのであるが、いかがなものであろうか。(文部科学教育通信 No223 2009.7.13)
最後に、国立大学協会が7月15日に取りまとめた学生納付金の在り方についての見解です。この中では、「国立大学の役割」が次のように整理されてあります。
第2期中期目標期間における学生納付金の在り方について-学生納付金に関する検討ワーキング・グループ(中間まとめ)-(抜粋)
国立大学は、科学技術創造立国を目指す我が国にとって、優れた人材と研究成果を生み出すための中心的な教育研究基盤機関として、次の役割を担い、現在全国に86 大学が設置されている。国立大学は、明治期以来の我が国の高等教育政策の根幹をなし、国の発展の原動力をなすものである。
1 知識の創造拠点
国立大学は、地域の知識基盤社会を支える重要な「知」の拠点として、その使命を果たしている。特に「知」を巡る国際競争の激化や知識基盤社会の進展の中で、世界をリードする研究者の多くを国立大学が輩出していることに留意すべきである。
2 高度人材育成の中核
短期的・効率至上主義的な目標達成や特定の企業・産業の利害にとらわれずに、長期的・大局的な見地から研究教育体制を組織し、基礎的な学問分野や人文・社会科学、自然科学分野など、バランスの取れた研究・教育体制を築いて高度人材育成を行うことにより、我が国の高等教育・学術研究全体の均衡ある発
展に大きな役割を果たしている。
3 高等教育の機会の保障
地域へ安定的かつ持続的に大きな経済効果を発揮しており、特に、大学の研究による「新しい産業の創出と地域産業・地域文化の活性化」という地域の未来につながる経済基盤の創出や安心安全社会の実現という重要な役割を果たしている。
全文はこちらに掲載されてあります。
http://www.janu.jp/active/txt5/nouhu090615.pdf
特に大学経営に関わるマネジメントは重視され、私立大学では、予定された学生確保がままならない状態、つまり定員割れを起こしている大学が全体の約半数に迫る危機的な状況となっており、学生募集停止の報道が後を絶ちません。
また、運営費交付金という税金が投入され、安定した経営が保障されている国立大学であっても、授業料・入学料・検定料といった学生納付金が予定どおり確保できない場合は、その減収分の事業展開あるいは人の雇用を停止しなければならず、結果的には教育研究の質の低下に直結することになります。
したがって、学生の収容定員の確保は、新入生はもとより、入学後の休学・除籍・退学者数の抑制を含め、大学にとって極めて重要な経営課題の一つとなります。
先日、国立大学の事務職員への就職を希望し就職活動を行っている学生達と話をする機会があり、面接試験対策と称して「国立大学の存在意義、役割・使命についてどう考えるか」という質問をしてみたことがありました。
多くの学生にとっては想定外の質問のようでしたが、中には間髪を入れず的を得た明確な回答をした学生もいました。想定外の質問であっても、日頃から社会の様々な動きについて問題意識を持って考える習慣をつけている学生は、おそらくこういう時に力が発揮できるのだろうと改めて教えられました。
さて、彼らの回答の中で、国立大学の存在意義について、特に私立大学との比較において最も多かった回答が、「高等教育の機会均等の保障」でした。家計や経済の状況によって、能力や意欲がある学生が、大学への進学の道をあきらめることのないよう、私立大学に比べれば低廉な授業料が設定されていることが、国立大学の存在意義の大きな柱の一つです。もちろん学費が安いだけではなく、税金が投入されていることに関わって、国立大学には公的な機関としての社会的責任、つまり社会への貢献などの使命も課せられています。
このように、教育の機会均等の保障をはじめ、国立大学の存在意義を理解していた学生が予想以上に多かったことは、国立大学に勤務する者としては、大変うれしく、一方では責任の重大さを改めて感じたところです。
これまでも、この日記では、就学や進学のための学生支援の重要性について何度か触れてきました。最近では、政府レベルにおいて「人生前半の社会保障」という考え方が重視されるようになってきていますし、文部科学省は、経済格差が教育格差を生むことにならない「教育安心社会」の実現を目指した諸施策を提案しています。
◇
関連する記事と論考をご紹介したいと思います。まずは7月16日の朝日新聞社説から。
教育費負担-学ぶ子にもっと支えを
学びの場で悲鳴が上がっている。
3月末の時点で授業料を滞納していた大学生は1万5千人、高校生は1万7千人。奨学金貸与の申し込みが急増しているが、十分な枠がない。昨年度は8千人近い大学生が「経済的理由」で中退した。
義務教育である小中学校でも、給食費などの滞納が問題になっている。所得が低い家庭向けの就学援助制度は、10年前の倍近くが利用している。
授業料は高くなった。塾代もばかにならない。そこへ昨年来の深刻な不況。「進学はあきらめろと親に言われた」「教育費が心配で子どもをつくれない」。そんな声も聞こえる。
日本の公的な教育支出は、GDP比3.4%と先進国で最低のレベルだ。教育は親の財布でという考えも根強く、家庭の負担に任せる部分が大きかった。だが教育費の高騰と親の所得格差の拡大は、「教育の機会均等」という原則を根元から揺るがせている。
貧しい家庭の子は、学びたくても十分に学べない。学歴や学力の差は社会に出てからの所得格差に反映し、次の世代にもまた引き継がれてゆく――。そうなっては、日本社会の活力は大きく損なわれてしまうだろう。
教育は「人生前半の社会保障」といえる。その費用はできるだけ社会全体で分担すべきだ。財政支出を増やし、家庭の負担を減らす工夫をしたい。
さまざまな提案はある。文部科学省の有識者会合は、公立高校と私立高校の授業料の差額分を支給する制度や、低所得層向けの就学援助・授業料減免の拡充などを提言した。自民党は幼児教育・保育の無償化に前向きだ。民主党は、中学生までを対象とする子ども手当の支給や、高校の授業料無償化を総選挙のマニフェストに盛り込む。
教育支援は少子化対策、母子家庭支援、雇用対策など他の政策分野とも密接にかかわる。子育て家庭や若者の、どの世代、どの層が、どんな支援を最も必要としているか。文科省や厚生労働省など役所の垣根をとり払い、総合的な「こども・若者政策」として、優先順位をつけて取り組むべきだろう。
たとえば、幼い子を持つ親にとっては幼稚園・保育所がタダになるのもいいが、保育所の数が増えたほうがありがたいのではないか。
特に家計への負担が大きい大学段階では、返済の必要のない奨学金をもっと増やしたい。雇用不安の中、就職支援策にも力を注ぐべきだ。
進学率が98%に達した高校教育の位置づけも焦点だ。家庭の経済状況によって学びの機会が制限されないような支援が、強く求められる。
すべての子に希望を保障することは大人たちの責務だ。「ひとの力」のほかに日本の将来を支えるものはない。来る総選挙で、議論を深めたい。
◇
次に、広島大学高等教育研究開発センター長の山本眞一さんの論考です。
教育費負担と学生への経済支援(抜粋)
かつては低廉だった国立大学授業料
国立大学の授業料は、昭和47年度に3倍に引き上げられて以来、急速に上昇し、昭和53年度には10万円を突破、4年後の57年度には20万円を超え、その後も値上がりを続けて、現在は授業料53万5800円、入学金28万2000円となっている。かつて大きかった私学との授業料格差は、この30年間で5倍から1.6倍に縮小し、また入学料についてはほぼ解消している。その結果、現在では学生生活費に占める授業料の割合は大きく上昇し、下宿生については、国立でも月々15万円ほどの生活費に対して授業料が4万5000円、つまり3分の1を占めるまでに至っている。
5人に2人は経済支援を利用
さて、いずれにしても学生にとって授業料やその他の学費負担が近年高水準にあることは間違いがない。その負担をいささかでも和らげるのが、学生に対する経済支援に関する制度と政策である。文部科学省の整理によると、平成20年度において日本学生支援機構の奨学金を貸与されている学生は、学部段階では全学生の約3割に当たる80万5000人であり、うち無利子奨学金事業は25万5000人が利用しており、一人当たり月額で5万2000円、有利子奨学金事業は55万1000人が一人当たり6万8000円で利用しているとのことである。このほか、授業料減免や民間団体の奨学金を利用している者も含めると、延べ数では約100万人の学部生がこれらの経済的支援を受けていることになる。これらを合算すると全体数で言えば5人中2人が何らかの利用をしていると推測されるが、さらに民間のローン等の利用者もいることと思われる。
いずれにせよ、学部生の大半はかなりの金額を自己負担していることになるが、これが世界標準かというとそうではない。ヨーロッパ大陸諸国では授業料は無料もしくはきわめて低廉であり、また、英国においてもわが国よりはその授業料は安い。米国の大学では、授業料は千差万別であるが、同時に各種の奨学金やローンも充実しており、学生の経済的事情に応じてきめ細かな対応がなされている。なお、わが国を含め、大学院段階の学生に対する支援は別であり、このことについては、いずれ稿を改めて論じたい。
将来への投資としての公財政負担増を
授業料制度の差は、教育支出や額や公私負担の割合にも影響している。OECDのまとめによると、高等教育機関に対する公財政支出の対GDP比は、わが国は韓国の次で最下位(0.5%)となっており、各国平均の1.1%から大きくはずれている。また、高等教育段階の教育費支出の公私負担の割合は、OECD平均では公財政が73.1%であるのに対して、わが国は33.7%にとどまっており、その代わり家計負担は50%を超える大きさである(いずれも2005年時点の数値)。
かつてのわが国では、他の東アジア諸国と同様、教育費は家計が進んで負担するという文化があった。貧しい中で教育費を工面するのは、むしろ美徳とさえ思われていた。しかし、経済情勢が変わり、また雇用や社会保障などさまざまな環境条件が推移する中で、昔と同じように家計が教育費を進んで負担できるかというと、そこにはおのずと限界がある。すでに家計負担能力の差による教育格差が大きくなってきているという指摘もみられる中、知識社会の中での発展と国際競争を目指さなければならないわが国にとって、教育費への公財政投資は、学生への経済支援を含め、将来への重要な投資ではないかと思うのであるが、いかがなものであろうか。(文部科学教育通信 No223 2009.7.13)
◇
最後に、国立大学協会が7月15日に取りまとめた学生納付金の在り方についての見解です。この中では、「国立大学の役割」が次のように整理されてあります。
第2期中期目標期間における学生納付金の在り方について-学生納付金に関する検討ワーキング・グループ(中間まとめ)-(抜粋)
国立大学は、科学技術創造立国を目指す我が国にとって、優れた人材と研究成果を生み出すための中心的な教育研究基盤機関として、次の役割を担い、現在全国に86 大学が設置されている。国立大学は、明治期以来の我が国の高等教育政策の根幹をなし、国の発展の原動力をなすものである。
1 知識の創造拠点
国立大学は、地域の知識基盤社会を支える重要な「知」の拠点として、その使命を果たしている。特に「知」を巡る国際競争の激化や知識基盤社会の進展の中で、世界をリードする研究者の多くを国立大学が輩出していることに留意すべきである。
2 高度人材育成の中核
短期的・効率至上主義的な目標達成や特定の企業・産業の利害にとらわれずに、長期的・大局的な見地から研究教育体制を組織し、基礎的な学問分野や人文・社会科学、自然科学分野など、バランスの取れた研究・教育体制を築いて高度人材育成を行うことにより、我が国の高等教育・学術研究全体の均衡ある発
展に大きな役割を果たしている。
3 高等教育の機会の保障
- 高等教育の機会均等を保障するため、都市圏に限定されることなく、全国に設置されている。
- 比較的低廉な学費により、家庭の経済背景、或いは居住地域に関わらず、様々な領域で高等教育機会を提供している。なお、学部・分野別に授業料の差を設けた場合、家庭の経済力の差により専門分野を選択せざるを得ない事態を生じ、所得が少ない家庭の子弟は理工系や医・歯学系学部に進学できないことになる。
- 優秀な能力が埋もれることのない社会を造るために重要な役割を果たしている。特に昨今の経済不況の中において、低所得層に高等教育を提供する場として国立大学はその役割を一層増している。また、国立大学の学生の65%は三大都市圏以外の地域に所在する国立大学に在籍しており、特に地方において比較的低所得者層の子弟を多く受け入れていることからも教育の機会均等に大きく寄与している。
地域へ安定的かつ持続的に大きな経済効果を発揮しており、特に、大学の研究による「新しい産業の創出と地域産業・地域文化の活性化」という地域の未来につながる経済基盤の創出や安心安全社会の実現という重要な役割を果たしている。
全文はこちらに掲載されてあります。
http://www.janu.jp/active/txt5/nouhu090615.pdf
2009年7月15日水曜日
沖縄・子乞いの島
「誰でもいいから殺して自分も死にたかった。」 最近、ガソリンをまいて放火し人の命を奪ったいたましい犯罪が起こりました。職がない・生活していけない・夢も希望も失った人間が自暴自棄になって、いとも簡単に無差別殺人に走る恐ろしい時代になりました。自殺者も激増しているといいます。
こういった死に直面した人の原因や動機は様々でしょうが、彼らが生きる力を失っていることは確かです。では、彼らの中に再び生きる力を蘇らせるためにはどうしたらいいのでしょうか。
私達の国は、戦争に敗れて以来、国民の懸命な努力によって今日のような世界のリーダーとしての立派な国に成長しました。敗戦時の荒廃と貧困から必死になって抜け出してきたという実績、それを支えた国民の生きる力は、今日社会問題化している課題の解決にとって一つの手がかりになるのではないかと思います。特に、あの戦争で我が国最大の悲劇が繰り広げられた沖縄に目を向け考えてみることも必要かと思います。
戦争の傷跡が未だに残っている、騒音を響かせる米軍基地が島の主要部分を占める、米軍人による人権を無視した犯罪が耐えないなど、沖縄の人々にとって戦争はまだ終わっていません。しかし、戦争のために全てを失った沖縄の人々が、今も犠牲者として暗く悲しい生き方をしているでしょうか。いいえそうではありません。あの戦争の悲劇を二度と繰り返さないという誓いを心に秘め、悲しみや悔しさを乗り越え今という時を懸命に生きています。また、沖縄は、海・空・山という大自然に恵まれ、子ども達は、この雄大な自然に包まれ生きるとともに、人情味ある多くの年老いた村人たちによるコミュニティが、平和の大切さや命の大切を教え伝えてくれます。
私はこんな沖縄に接したくて、毎年家族とともに沖縄を訪問することにしていますが、年に一度のわずかな時間の滞在であっても、沖縄の人々と交わるうちに、心が癒され、人間としての生き方を学ぶことができているような気がしています。
そんな沖縄にも、少子化の波が押し寄せています。日本人として、沖縄の心の文化が損なわれようとしている厳しい現実に目を背けるわけにはいきません。
子乞いの島(2009年7月8日 朝日新聞 論説委員室から)
沖縄本島から南西約450キロ。鳩間島はイリオモテヤマネコで知られる西表島の北に浮かぶ周囲3.9キロ、面積がわずか1平方キロしかない小さな島である。
鳩間小学校の在籍者が先月19日付けで初めてゼロになった。通っていた小学生2人はきょうだい。石垣島に住む母親の体調が悪化し、そのそばで暮らすことになったのだ。島の人口は50人を割り込んだ。
廃校の危機はかつてもあった。以前はカツオ漁が盛んで、1949年には人口が650人に達し、小中学校の在校生は120人もいた。だが、その後は人口流出が始まり、74年に中学校がいったん廃校し、小学校も児童が1人になった。
「廃校の次は廃村しかない」。住民は里親制度などで養護施設の子らを受け入れて学校を存続させてきた。ジャーナリスト、森口 豁さん(71)は住民の奮闘を「子乞い-沖縄・孤島の歳月」(凱風社)にまとめた。作品は連続テレビドラマ「瑠璃の島」にもなった。
これまで数十人の子どもを受け入れた通事建次さん(62)によると、幸い今も転入の希望者は沖縄本島や本土に数人はいるという。廃校はなんとか避けられそうだ。ただ高齢化で、里親のなり手が少なくなっている現実は重い。
60歳を超えた夫婦までが見ず知らずの異郷の子を引き取り、親代わりを務める。廃村への危機感もあるとはいえ、そんな共同体社会が存続してきたことは奇跡的なことに見える。
こういった死に直面した人の原因や動機は様々でしょうが、彼らが生きる力を失っていることは確かです。では、彼らの中に再び生きる力を蘇らせるためにはどうしたらいいのでしょうか。
私達の国は、戦争に敗れて以来、国民の懸命な努力によって今日のような世界のリーダーとしての立派な国に成長しました。敗戦時の荒廃と貧困から必死になって抜け出してきたという実績、それを支えた国民の生きる力は、今日社会問題化している課題の解決にとって一つの手がかりになるのではないかと思います。特に、あの戦争で我が国最大の悲劇が繰り広げられた沖縄に目を向け考えてみることも必要かと思います。
戦争の傷跡が未だに残っている、騒音を響かせる米軍基地が島の主要部分を占める、米軍人による人権を無視した犯罪が耐えないなど、沖縄の人々にとって戦争はまだ終わっていません。しかし、戦争のために全てを失った沖縄の人々が、今も犠牲者として暗く悲しい生き方をしているでしょうか。いいえそうではありません。あの戦争の悲劇を二度と繰り返さないという誓いを心に秘め、悲しみや悔しさを乗り越え今という時を懸命に生きています。また、沖縄は、海・空・山という大自然に恵まれ、子ども達は、この雄大な自然に包まれ生きるとともに、人情味ある多くの年老いた村人たちによるコミュニティが、平和の大切さや命の大切を教え伝えてくれます。
私はこんな沖縄に接したくて、毎年家族とともに沖縄を訪問することにしていますが、年に一度のわずかな時間の滞在であっても、沖縄の人々と交わるうちに、心が癒され、人間としての生き方を学ぶことができているような気がしています。
そんな沖縄にも、少子化の波が押し寄せています。日本人として、沖縄の心の文化が損なわれようとしている厳しい現実に目を背けるわけにはいきません。
子乞いの島(2009年7月8日 朝日新聞 論説委員室から)
沖縄本島から南西約450キロ。鳩間島はイリオモテヤマネコで知られる西表島の北に浮かぶ周囲3.9キロ、面積がわずか1平方キロしかない小さな島である。
鳩間小学校の在籍者が先月19日付けで初めてゼロになった。通っていた小学生2人はきょうだい。石垣島に住む母親の体調が悪化し、そのそばで暮らすことになったのだ。島の人口は50人を割り込んだ。
廃校の危機はかつてもあった。以前はカツオ漁が盛んで、1949年には人口が650人に達し、小中学校の在校生は120人もいた。だが、その後は人口流出が始まり、74年に中学校がいったん廃校し、小学校も児童が1人になった。
「廃校の次は廃村しかない」。住民は里親制度などで養護施設の子らを受け入れて学校を存続させてきた。ジャーナリスト、森口 豁さん(71)は住民の奮闘を「子乞い-沖縄・孤島の歳月」(凱風社)にまとめた。作品は連続テレビドラマ「瑠璃の島」にもなった。
これまで数十人の子どもを受け入れた通事建次さん(62)によると、幸い今も転入の希望者は沖縄本島や本土に数人はいるという。廃校はなんとか避けられそうだ。ただ高齢化で、里親のなり手が少なくなっている現実は重い。
60歳を超えた夫婦までが見ず知らずの異郷の子を引き取り、親代わりを務める。廃村への危機感もあるとはいえ、そんな共同体社会が存続してきたことは奇跡的なことに見える。
2009年7月13日月曜日
公務員叩きもほどほどに
公務員とは因果な商売だなあと痛感することがあります。税金を生活の糧とし、そのおかげでどんな経済不況が来ようとも失職はしないし、贅沢をしなければ安定した生活を維持することができるという恵まれた立場にあることが前提となって、何かにつけて批判の的にされ、時として犯罪者呼ばわりされるようなこともあります。
確かに、全ての公務員が国民の公僕として、日夜、報酬見合いの、あるいはそれ以上の成果を生み出すような仕事をしているのかと問われれば、自信を持ってそうだと断言することはできません。事件・不祥事を引き起こす公務員が後を絶たない報道がそれを裏付けています。
多くの国民の皆様が持っておられる公務員のイメージは、おそらく、そのような報道に代表される公務員や、最寄りの市町村の役所、国の出先機関、警察署など普段の生活に関わりの深い場所での対応の悪い公務員ではないかと思います。しかし、国や自治体で働く全ての公務員が、このような公務員としての資質に劣る人間だけではなく、大半の公務員は、与えられた使命を達成すべく半ば自己を犠牲にしながら額に汗して働く勤勉な労働者ではないかと思います。
そんな勤勉な公務員を一部の劣悪な公務員と十把一絡げにして論じるのは、決して賢いことではありません。最近もノンキャリアの公務員を犯罪者扱いした国会議員がいましたが、このような国民の代表者たる国会議員がいる限り、あるいは、正確さを欠いた公務員批判を国民の前に報じるマスコミがいる限り、国民の公務員に対するイメージはいつまでたっても事実に反したままです。
このような国会議員やマスコミの行為は、公務員を叩くことによる国民受けをねらったものとしか思えず、思慮なき悪意に満ちた国民のマインドコントロールをやっているとしか言いようがありません。極めて少数の公務員の悪行・愚行によって、全ての公務員がそうであるかのような誤解を誘引する軽率な言動や報道は、発信者の資質や品格が問われるだけで、何の得にもならないと思います。
最近、「中央官庁に勤める公務員が過労死直前」だとの報道がなされました。過剰な労働が彼らの命を縮じめています。何を隠そう多忙さの一因は国会議員にもあるのです。
霞が関の公務員「4千人が過労死ライン」(2009年7月1日 産経新聞)
霞ヶ関(中央官庁街)は、ほぼ年間を通じて不夜城です。特に国会や予算に携わる公務員は寝る間もなく働いています。国会会期中、各府省の国会担当者は、翌日の本会議や委員会での答弁を作成するために、質問議員への質問取りに走り回ります。質問が入るまで待機残業している職員は、得られた情報に基づき大臣や政府委員の答弁書を作成し、答弁者にレクチャーを行います。レクチャーは翌早朝になることもよくあります。こういった作業が連日繰り返されます。一連の作業に関係する職員は、家路につくのは夜中・明け方といった生活を余儀なくされます。
さらには、事あるごとに国会議員から議員会館に呼びつけられ、議員本人から無理な陳情を強引に押しつけられたり、議員の意に反する政策や判断をしようものなら、罵倒され、いわれなき謝罪を求められることがあると聞きます。特に、選挙区に密接に関わる問題については、議員も執拗さを増すため、十分心してかかる必要があるそうです。ある議員の場合、選挙区の有力支援者の意向を受け、霞ヶ関のしかるべき立場の職員を呼びつけ、支援者の面前で、「おまえの首なんぞ俺の一言ですっ飛ぶんだぞ」などと恫喝した上、土下座を強要したという驚くべきうわさ話を聞いたこともあります。こういった自己の利害のみを重視する打算的な考え方と、国会議員という特権的な立場が相まって、天下人のような錯覚に陥り、霞ヶ関の公務員を家来同然に扱うことになるのでしょう。
「国会議員は、国民(選挙民)に弱く公務員には強い、公務員は、国会議員に弱く国民には強い、国民は公務員に弱く国会議員に強い」と言う、いわゆる「国会議員・公務員・国民のトライアングル関係」があるという話を聞きます。国会議員は、国民に強い公務員を批判し叩くことにより、国民の味方という仮面をかぶり、私利私欲を追求するという構造が今でも続いているのではないでしょうか。
しかし、実体はどうでしょうか。国会議員は立法府を構成する立場でありながら、ほとんどの議員には法律を作る能力はありません。法律は行政府の公務員が作ります。閣僚の国会答弁も公務員が作ります。政策も公務員が作ります。国会議員には実務能力はありません。このことは報道もされており衆知の事実です。国会議員は、法律や政策を政争の具にしている単なる評論家のようなものです。誰の目から見ても、多くの国会議員には国民の代表者としての真の能力はなく、公務員の実力の上であぐらをかき、えらそうにしている単なる選挙区選挙民の利害追求代表者として機能しているだけなのです。
そんな国会議員に、寝食の時間を削り必死に働く公務員を批判する、犯罪者呼ばわりする資格があるでしょうか。全くありません。おこがましい限りです。ノンキャリア公務員の生活実態をご存じでしょうか。中央官庁で国会や予算の担当として働く公務員の生活は悲惨なものです。時期にもよりますが、ほとんど明け方、朝陽を浴びながら帰宅します。入浴し着替えたらすぐさま役所に引き返します。満員電車の中で立ったまま通勤します。睡眠不足が蓄積しているので、膝がなんども落ちます。短時間の昼食が終わると極度の睡魔が襲ってきます。わずか30分程度の睡眠で頭の中のもやもやを解消し、午後から明け方まで再び激務です。夕食もとれないことはざらにあります。寝ていない食べていないという精神的、肉体的限界を連日繰り返しながら仕事をしています。電車の走っていない早朝の帰宅時にはタクシーを使うことが認められていますが、部署によってはタクシーに乗る経費がなく、立場の低い若い人たちは、家族に迎えにきてもらうか、部屋のソファーで仮眠をとった後、始発の電車で帰ることになります。
こんな地獄のような生活を繰り返している中で、昨年、居酒屋タクシー問題が大きく取り沙汰されました。これも国会議員の指摘に端を発したものです。彼らの激務を理解してくれるのは、家族以外には、タクシーの運転手さんくらいしかいません。国民は残念ながら誰も理解してくれません。くたくたに疲れてタクシーに乗れた、やっと家に帰れるとほっとしている彼らに「今日もお疲れさまでした!」と声をかけてくれる運転手さんの心配りにどれだけ救われることでしょう。賄賂性がある場合は論外として、酷暑の中、汗だくで働いた一日の終わりに、善意でサービスしてくれた缶ビールを飲んで何が悪いのでしょうか。おそらくは、そういった状況に置かれた公務員でなければ理解できないことなのでしょうが、そういった事情や背景を全く理解しない、しようともしない国会議員やマスコミの発言や報道は、国家国民のために身を粉にして働く彼ら公務員達の誇りと意欲を失わせることにしかならず、引いては、この国の現状を憂い、この国を体を張って守る公務員はいなくなることでしょう。あげくには、少数だった悪徳公務員がこの国の政策を自分のために動かすことがまかり通るひどい国にならないとも限りません。
公務員を生涯全うすべき職業として選択し、働く中で、この国の役に立ちたいと心から考え、民間企業に比べ給与等の処遇の悪さ・低さにも辛抱しながらこの国のために日々努力する多くの公務員がいること、そして誇りのみを拠り所として成り立っている彼らのモチベーションをこれ以上失わせるようなことは絶対にやってはいけないことをどうか国民の皆様にはご理解いただきたいと心から思うのです。
確かに、全ての公務員が国民の公僕として、日夜、報酬見合いの、あるいはそれ以上の成果を生み出すような仕事をしているのかと問われれば、自信を持ってそうだと断言することはできません。事件・不祥事を引き起こす公務員が後を絶たない報道がそれを裏付けています。
多くの国民の皆様が持っておられる公務員のイメージは、おそらく、そのような報道に代表される公務員や、最寄りの市町村の役所、国の出先機関、警察署など普段の生活に関わりの深い場所での対応の悪い公務員ではないかと思います。しかし、国や自治体で働く全ての公務員が、このような公務員としての資質に劣る人間だけではなく、大半の公務員は、与えられた使命を達成すべく半ば自己を犠牲にしながら額に汗して働く勤勉な労働者ではないかと思います。
そんな勤勉な公務員を一部の劣悪な公務員と十把一絡げにして論じるのは、決して賢いことではありません。最近もノンキャリアの公務員を犯罪者扱いした国会議員がいましたが、このような国民の代表者たる国会議員がいる限り、あるいは、正確さを欠いた公務員批判を国民の前に報じるマスコミがいる限り、国民の公務員に対するイメージはいつまでたっても事実に反したままです。
このような国会議員やマスコミの行為は、公務員を叩くことによる国民受けをねらったものとしか思えず、思慮なき悪意に満ちた国民のマインドコントロールをやっているとしか言いようがありません。極めて少数の公務員の悪行・愚行によって、全ての公務員がそうであるかのような誤解を誘引する軽率な言動や報道は、発信者の資質や品格が問われるだけで、何の得にもならないと思います。
最近、「中央官庁に勤める公務員が過労死直前」だとの報道がなされました。過剰な労働が彼らの命を縮じめています。何を隠そう多忙さの一因は国会議員にもあるのです。
霞が関の公務員「4千人が過労死ライン」(2009年7月1日 産経新聞)
東京・霞が関の中央官庁に勤める国家公務員のうち、過労死の危険ラインとされる月平均80時間以上の残業をしているとする人が8.9%に上ることが1日、「霞が関国家公務員労働組合共闘会議」のアンケートで分かった。共闘会議は「単純計算で霞が関で働く4万5000人のうち4000人が過労死危険ラインで働いていることになる」としている。調査は3月、中央官庁の国家公務員の組合員約3500人が答えた。それによると、月平均の残業時間は36.3時間。月平均の残業が80時間以上とした職員のうち、18%が「現在過労死の危険を感じている」と回答。33%が「過去に危険を感じたことがある」と答えた。・・・
http://sankei.jp.msn.com/life/body/090701/bdy0907011924002-n1.htm
霞ヶ関(中央官庁街)は、ほぼ年間を通じて不夜城です。特に国会や予算に携わる公務員は寝る間もなく働いています。国会会期中、各府省の国会担当者は、翌日の本会議や委員会での答弁を作成するために、質問議員への質問取りに走り回ります。質問が入るまで待機残業している職員は、得られた情報に基づき大臣や政府委員の答弁書を作成し、答弁者にレクチャーを行います。レクチャーは翌早朝になることもよくあります。こういった作業が連日繰り返されます。一連の作業に関係する職員は、家路につくのは夜中・明け方といった生活を余儀なくされます。
さらには、事あるごとに国会議員から議員会館に呼びつけられ、議員本人から無理な陳情を強引に押しつけられたり、議員の意に反する政策や判断をしようものなら、罵倒され、いわれなき謝罪を求められることがあると聞きます。特に、選挙区に密接に関わる問題については、議員も執拗さを増すため、十分心してかかる必要があるそうです。ある議員の場合、選挙区の有力支援者の意向を受け、霞ヶ関のしかるべき立場の職員を呼びつけ、支援者の面前で、「おまえの首なんぞ俺の一言ですっ飛ぶんだぞ」などと恫喝した上、土下座を強要したという驚くべきうわさ話を聞いたこともあります。こういった自己の利害のみを重視する打算的な考え方と、国会議員という特権的な立場が相まって、天下人のような錯覚に陥り、霞ヶ関の公務員を家来同然に扱うことになるのでしょう。
「国会議員は、国民(選挙民)に弱く公務員には強い、公務員は、国会議員に弱く国民には強い、国民は公務員に弱く国会議員に強い」と言う、いわゆる「国会議員・公務員・国民のトライアングル関係」があるという話を聞きます。国会議員は、国民に強い公務員を批判し叩くことにより、国民の味方という仮面をかぶり、私利私欲を追求するという構造が今でも続いているのではないでしょうか。
しかし、実体はどうでしょうか。国会議員は立法府を構成する立場でありながら、ほとんどの議員には法律を作る能力はありません。法律は行政府の公務員が作ります。閣僚の国会答弁も公務員が作ります。政策も公務員が作ります。国会議員には実務能力はありません。このことは報道もされており衆知の事実です。国会議員は、法律や政策を政争の具にしている単なる評論家のようなものです。誰の目から見ても、多くの国会議員には国民の代表者としての真の能力はなく、公務員の実力の上であぐらをかき、えらそうにしている単なる選挙区選挙民の利害追求代表者として機能しているだけなのです。
そんな国会議員に、寝食の時間を削り必死に働く公務員を批判する、犯罪者呼ばわりする資格があるでしょうか。全くありません。おこがましい限りです。ノンキャリア公務員の生活実態をご存じでしょうか。中央官庁で国会や予算の担当として働く公務員の生活は悲惨なものです。時期にもよりますが、ほとんど明け方、朝陽を浴びながら帰宅します。入浴し着替えたらすぐさま役所に引き返します。満員電車の中で立ったまま通勤します。睡眠不足が蓄積しているので、膝がなんども落ちます。短時間の昼食が終わると極度の睡魔が襲ってきます。わずか30分程度の睡眠で頭の中のもやもやを解消し、午後から明け方まで再び激務です。夕食もとれないことはざらにあります。寝ていない食べていないという精神的、肉体的限界を連日繰り返しながら仕事をしています。電車の走っていない早朝の帰宅時にはタクシーを使うことが認められていますが、部署によってはタクシーに乗る経費がなく、立場の低い若い人たちは、家族に迎えにきてもらうか、部屋のソファーで仮眠をとった後、始発の電車で帰ることになります。
こんな地獄のような生活を繰り返している中で、昨年、居酒屋タクシー問題が大きく取り沙汰されました。これも国会議員の指摘に端を発したものです。彼らの激務を理解してくれるのは、家族以外には、タクシーの運転手さんくらいしかいません。国民は残念ながら誰も理解してくれません。くたくたに疲れてタクシーに乗れた、やっと家に帰れるとほっとしている彼らに「今日もお疲れさまでした!」と声をかけてくれる運転手さんの心配りにどれだけ救われることでしょう。賄賂性がある場合は論外として、酷暑の中、汗だくで働いた一日の終わりに、善意でサービスしてくれた缶ビールを飲んで何が悪いのでしょうか。おそらくは、そういった状況に置かれた公務員でなければ理解できないことなのでしょうが、そういった事情や背景を全く理解しない、しようともしない国会議員やマスコミの発言や報道は、国家国民のために身を粉にして働く彼ら公務員達の誇りと意欲を失わせることにしかならず、引いては、この国の現状を憂い、この国を体を張って守る公務員はいなくなることでしょう。あげくには、少数だった悪徳公務員がこの国の政策を自分のために動かすことがまかり通るひどい国にならないとも限りません。
公務員を生涯全うすべき職業として選択し、働く中で、この国の役に立ちたいと心から考え、民間企業に比べ給与等の処遇の悪さ・低さにも辛抱しながらこの国のために日々努力する多くの公務員がいること、そして誇りのみを拠り所として成り立っている彼らのモチベーションをこれ以上失わせるようなことは絶対にやってはいけないことをどうか国民の皆様にはご理解いただきたいと心から思うのです。
2009年7月8日水曜日
人生前半の社会保障
教育は「人生前半の社会保障」として社会生活を送る上での機会均等を図る営みである。社会経済のあらゆる面で変動の激しいこれからの時代において、一人一人が充実した人生を送るためには、まずは人生のスタートである若年期を大事にして「生きる力」を身につけられるようにすることが必要であり、教育が担う役割はますます大きくなっている。
政府の経済財政諮問会議や安心社会実現会議などにおいても、安心社会の実現に向けて今後の政府全体がとるべき方策について検討がなされてきている。そこでは、「機会の平等」が確保されていないことで生まれる格差(親の所得、資産等による格差の固定化・再生産)は、「希望喪失社会」につながるなどの懸念が指摘され、今後の方向性として、階層化を回避し日本の強みである社会的一体性を堅持すること、厳しい生活状況にある人に対し、時代に応じたセーフティーネットを確保することなどの必要性が議論されたところである。
この点、教育が担う役割は極めて大きい。つまり、国民一人一人が生活を送る上で、個人の努力や能力による格差が一定程度生じることはあり得るとしても、その努力や能力を発揮する機会は、経済的・社会的な事情にかかわらず誰もが等しく与えられるべきであり、この前提条件として、次代を担う子ども全てが共通のスタートラインに立って能力を最大限に高められるようにすることが教育に求められる。誰もが、十分な教育を受け、自らを磨きながら「確かな学力」「豊かな心」「健やかな体」に裏打ちされる「生きる力」を身につけることができれば、その一人一人にとって、より高次元の経済的・社会的活動が促されるため、結果として所得分配の公平化や自己実現が図られ、ひいては社会全体の成長や安心をもたらす。
教育がこのような役割を十全に果たすためには、雇用、年金、医療、福祉などの他の社会保障政策と同様に、教育を「生活安全保障」(セーフティーネット)あるいは「人生前半の社会保障」と位置づけ、全ての子どもたちが安心して教育を受けることのできる「教育安心社会」を実現するための取組が重要である。折しも、教育再生懇談会においては「教育安心社会」の実現に向けて、先般、第4次報告がとりまとめられたところであり、今後、政府が一丸となって施策の充実を図ることが期待される。
そして、意欲と能力のある誰もが教育にアクセスできる社会が実現すれば、誰でも努力をすればより豊かな生活を送ることができるという希望が拓け、ひいては、公正な社会の実現や我が国全体の活性化につながるものと確信している。
この文章は、去る6月3日に文部科学大臣の下に設置された「教育安心社会の実現に関する懇談会」が取りまとめた報告書の一部です。「人生前半の社会保障」という言葉は、親の所得格差が子どもの教育環境の格差につながっているという現実、不況などにより学校に就学費用を納められない子が少なくない現実を踏まえ、今後活力ある社会にするために、これまで介護や医療といったどちらかと言えば人生の後半を対象とする社会保障という言葉の定義を教育分野にまで広げ、教育分野への公費支出を増やそうという考え方がベースにあります。
(参考)子どもにも社会保障を 教育の格差、固定化に懸念(2009年6月22日 朝日新聞)
政府の経済財政諮問会議や「安心社会実現会議」における検討に併行する形で進められてきた「教育安心社会の実現に関する懇談会」による検討結果であるこの報告書は、とてもインパクトがあり、わかりやすい懇談会からのメッセージを前文に置き、続けて教育費負担に関する基本的な考え方、さらには、各学校段階ごとの現状と課題解決のための政策が提言されています。また、最後には、多様な政策の実現に必要な経費の試算を行い具体的な財源の確保を求めるとともに、提言内容を裏付けるデータがわかりやすい形で示されています。
この「教育安心社会の実現に関する懇談会」が、官邸レベルではなく、文部科学大臣主導の下に設置された趣旨に関わって、今回の報告書のねらいは、個人的には大きく2つあるのではないかと思います。一つは、所得格差が教育格差を生み、我が国の将来を担う子ども達に教育の機会均等が保障されなくなってきている現実に対し警鐘を鳴らすこと、そして2つめは、今後の平成22年度予算編成過程を闘い抜き、必要な予算を確保・拡大するための戦略としての意味合いです。もとよりその眼目は後者であることは疑う余地のなところですが、いずれにせよ、今や社会問題化している教育格差を是正する、なくすための努力は、国や自治体に対し今後一層国民から求められることになるでしょう。
冷えきった経済・財政状況の中で、国民の多くは疲弊しきっています。景気低迷のあおりを受け、職を失い、あるいは大幅な収入の減少により、人が生きる上で不可欠な衣・食・住もままならない最低レベルの生活を余儀なくされている人々がちまたにあふれています。このような中で、教育費負担は、家計を大きく圧迫し、結果として進学や就学を断念せざるを得ない子ども達・若者達が増え続けています。
教育は、親の経済状態や居住地にかかわらず、平等にその機会を与えられるべきものです。この国の発展基盤となる子ども達や若者達が、教育を受ける権利を放棄せざるを得ないような国は、衰退の一途をたどり、世界に互していくことなど遠い昔の物語として語られることにもなりかねません。教育の機会均等・機会の平等という我が国がこれまで守り続け、我が国をここまで発展させてきた基盤を崩壊させることにならないよう、私たちは今こそ、報告書に示された施策を確実に実行していかなければなりません。
学びたいのに:奨学金の課題 読者の反響特集 格差、なくならないのか(2009年7月7日 毎日新聞)
「親だって子に学ばせたい」「お金がないと進学できない社会なのでしょうか」。6月9日から3回にわたり連載した「学びたいのに 奨学金の課題」に多くの体験談や意見が寄せられました。教育費がなぜこうも高いのか、格差はなくならないのか。反響の一部を紹介し、改めて考えました。・・・
学びたいのに:奨学金の課題/上 母子家庭「やっていけない」
学びたいのに:奨学金の課題/中 生活保護、減額困る
学びたいのに:奨学金の課題/下 将来へ、負担重く
懇談会報告書の前文と高等教育関係部分を抜粋してご紹介します。
全文をご覧になりたい方はこちらをどうぞ → http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/07/1281312.htm
教育安心社会の実現に関する懇談会報告-教育費の在り方を考える-
はじめに
教育とは、そもそも何を目的とした営みであろうか。また、その費用は誰が負担すべきであろうか。
この根源的な問いかけに答える前に、我々は、まずは、子どもは「社会の宝」であり、今後の未来を築いていくかけがえのない存在であることを強調したい。
その上で、子どもの教育には、子ども一人一人が、個性を伸ばし可能性を開花させ、人生を幸せに生きることのできる基礎を培うことと、同時に、世のため、人のために貢献する国家社会の形成者を育成するという2つの目的があることを確認したい。これらは、何ら矛盾するものではなく、教育基本法においても、第1条において教育の目的として、「人格の完成」を目指し、「国家及び社会の形成者」の育成を期して行うためのものである旨が定められている。まさに教育こそが、個人に幸福をもたらし、ひいては国家・社会の発展につながっていくことは、古今東西を問わず、万人の首肯するところではないか。
こうした教育の意義に照らせば、子どもの教育やその費用は、子ども本人任せ、親任せ、学校任せであって良いわけがない。子どもの教育には社会総がかりで真剣に考え、取り組むべきであり、教育費についても社会全体で分担すべきである。「人の子も我が子」と社会のすべての構成員が思える温かみのある教育環境の醸成が何よりも求められる。そして、それを促す社会システムこそが、これまで培ってきた文化・歴史・伝統・社会的資産あらゆるものを次代へ引き継ぐ真の持続可能な社会につながるのではなかろうか。
知識基盤社会と言われる中にあって、我が国が継続的発展を遂げるためには、教育を皆が大事にしなければならない。資源に乏しい我が国が、現在の豊かな社会を築くことができたのは、これまでの時代の変革期にあって、国家・社会の存立基盤である教育に大きな力を傾け、成果を上げてきたからこそである。そこで、敢えて訴えたい、教育の充実に目を背ければ、必ず社会の衰退につながるということを。今こそ強調したい、断じて子どもの幸せや希望を奪うような社会にしてはならないことを。まさに教育にどれだけの力を注ぐかをめぐって、国全体の覚悟が問われている。
特に、昨今では、経済雇用状況の悪化により、所得の格差の拡大、努力や挑戦意欲の減退、社会における安定性・一体性のほころびなどが懸念されている。このような中で、雇用、年金、医療などの諸施策と同様に、社会のセーフティネットとしての教育の機会を確保する重要性が一層高まっている。しかるに、それを支える教育の公財政支出は、国際的にみても最低レベルであり極めて心許ない。
一方、家計による教育費の負担は厳しく、それが少子化の要因にもなっている。さらには、学習意欲や学力の低下、いじめ、不登校の問題も山積している。
国・地方公共団体・各学校・地域社会・企業・各家庭など社会の構成員全てがこれらのことに危機感を持って、意欲のある誰もが安心して教育を受けることができるよう、教育費の在り方を含めて、協力しあいながら、諸条件の整備に向けて努力すべきであることは言うまでもない。
以上のような問題意識に立ち、本懇談会においては、教育費の問題、とりわけ家計負担の軽減に焦点を当てて、家庭の経済状況や教育費の家計負担、公財政支出等の現状を踏まえ、大局的・中期的な視点から、今後、政府が実行すべき施策を緊急に提言することとした。
今回の提言が、教育費の在り方について教育行政当局において今後の政策展開に当たって参考としていただくとともに、一層の国民的議論を巻き起こせるようなアピールになることを願っている。
各学校段階での方向性(大学・大学院段階)
大学は、学術の中心として高度の教育研究を行うことにより、人格の形成、能力の開発、知識の伝授、知的生産活動、文明の継承など多岐にわたって、中等教育後の様々な学習機会の中にあってその柱となり、社会を先導していく役割が期待されている。
すなわち、教育面では、幅広い教養と高い専門性を備えた学生を社会に多く送り出すことのみならず、国際的競争が激しくなる中で各分野を牽引するリーダーシップを備えた人材を育成するという役割を果たしている。また、研究面では、人文・社会科学から自然科学まで全ての学問分野に及び、研究者の自由な発想による学術研究を通じて新たな原理現象の発見や解明を行い、環境問題、エネルギー問題といったような人類が抱える諸問題の解決に貢献するなど、国民生活や社会経済の発展に大きく寄与している。さらに、大学は、教育機会の提供、地域を支える専門人材の育成、産学連携による研究成果の還元等を通じて、地域の発展に多大の貢献を果たしており、地域の知的・文化拠点、又は地域活性化の拠点として、不可欠な役割を担っていることにも留意すべきである。このように、大学をはじめとする高等教育は、初等中等教育とは異なる公的性格を有している。
また、同時に、学生本人にとっても、高度な教育により知識ストックを蓄積し、今後のキャリア形成などにおいて役立てるという点で、高等教育は重要な意義を持つものである。
グローバル化が進み知識基盤社会が本格的に到来しようとしている現在、このような大学の役割はますます高まっており、各国が高等教育の充実にしのぎを削っていることを踏まえれば、我が国においても国家戦略として大学の教育研究を強化するとともに、意欲と能力のある学生が経済的な理由により進学を断念することのないよう、大学教育を受ける機会を保障するための施策の充実が喫緊の課題であると考えられる。
しかしながら、OECDの調査によれば、我が国の高等教育については、国際的に比較すると、公財政支出と比較して私費負担の割合が多く、「授業料も高く学生支援体制が比較的整備されていない国」として指摘されている。大学の授業料は低廉であるヨーロッパや、授業料は高いが官民による奨学金制度が充実しているアメリカなどと比較しても、教育立国・科学技術創造立国を標榜する我が国としては、由々しき状況にあるといえる。
実際に、大学授業料が年々増加傾向にあるなか、低所得者に負担がのしかかっていることは明らかであり、各大学で行われている低所得者や成績優秀者を対象とした授業料免除措置の充実を早急に図る必要がある。さらに、民間団体が行う給付型奨学金事業の活性化を促すことも重要である。また、キャリアの将来性や在学中の生活保障がないことなどにより博士課程への進学者が理数系分野や医学系分野をはじめ各分野で減少傾向にあるといった問題も生じている。これらが原因で、社会に貢献すべき高度な能力を有する人材の輩出が妨げられているとすれば、それは学生本人のみならず社会全体にとっても大きな損失であり、緊急的な対応が必要である。
これらの状況を踏まえ、国公私立を通じた高等教育機関の基盤的経費の充実強化による教育条件の維持向上や経営基盤の安定化を図りながら授業料の抑制に努めるとともに、授業料や入学金の減免措置の拡充や奨学金貸与事業の充実を中心に家計基準に着目した負担軽減策を推進し、大学院段階については、キャリアパスの提示や、優秀な大学院生をティーチング・アシスタント(TA)やリサーチ・アシスタント(RA)として雇用すること等を通じた経済的支援を充実することが必要である。また、優れた研究能力を有し、大学等での研究に専念することを希望する者を「特別研究員」として積極的に採用し、生活支援も含めたトータルな経済的支援を引き続き行うことも重要である。
このような経済的支援と同時に、進学に係る経済的負担の軽減により進路選択が行え、また安心して学習や研究に打ち込めるようにするため、学生生徒等が進学に係る「ファイナンシャルプラン」をあらかじめ設計できるよう必要な環境整備を行うべきである。具体的には、奨学金制度等に関する情報を高校生等の進路選択時に提供するとともに、インターネットで奨学金貸与額等が試算できる仕組みづくりや各大学の相談体制の整備、経済的理由による返還猶予者等に対する減額返還を検討する必要がある。
また、優れた資質と能力のある学生に対する大学教育を受ける機会の保障の観点から、居住地によって大学進学機会が断たれることがあってはならないのは当然である。このため、地域における大学進学率の差異や国公私立大学の設置状況にかんがみ、地方における進学機会を確保するため、基盤的経費の充実や、地域における大学間連携・共同利用等の推進、教育・学生支援分野における共同利用拠点の創設、大学の経営基盤の安定化への支援など、地方大学の運営支援が必要である。
政府の経済財政諮問会議や安心社会実現会議などにおいても、安心社会の実現に向けて今後の政府全体がとるべき方策について検討がなされてきている。そこでは、「機会の平等」が確保されていないことで生まれる格差(親の所得、資産等による格差の固定化・再生産)は、「希望喪失社会」につながるなどの懸念が指摘され、今後の方向性として、階層化を回避し日本の強みである社会的一体性を堅持すること、厳しい生活状況にある人に対し、時代に応じたセーフティーネットを確保することなどの必要性が議論されたところである。
この点、教育が担う役割は極めて大きい。つまり、国民一人一人が生活を送る上で、個人の努力や能力による格差が一定程度生じることはあり得るとしても、その努力や能力を発揮する機会は、経済的・社会的な事情にかかわらず誰もが等しく与えられるべきであり、この前提条件として、次代を担う子ども全てが共通のスタートラインに立って能力を最大限に高められるようにすることが教育に求められる。誰もが、十分な教育を受け、自らを磨きながら「確かな学力」「豊かな心」「健やかな体」に裏打ちされる「生きる力」を身につけることができれば、その一人一人にとって、より高次元の経済的・社会的活動が促されるため、結果として所得分配の公平化や自己実現が図られ、ひいては社会全体の成長や安心をもたらす。
教育がこのような役割を十全に果たすためには、雇用、年金、医療、福祉などの他の社会保障政策と同様に、教育を「生活安全保障」(セーフティーネット)あるいは「人生前半の社会保障」と位置づけ、全ての子どもたちが安心して教育を受けることのできる「教育安心社会」を実現するための取組が重要である。折しも、教育再生懇談会においては「教育安心社会」の実現に向けて、先般、第4次報告がとりまとめられたところであり、今後、政府が一丸となって施策の充実を図ることが期待される。
そして、意欲と能力のある誰もが教育にアクセスできる社会が実現すれば、誰でも努力をすればより豊かな生活を送ることができるという希望が拓け、ひいては、公正な社会の実現や我が国全体の活性化につながるものと確信している。
◇
この文章は、去る6月3日に文部科学大臣の下に設置された「教育安心社会の実現に関する懇談会」が取りまとめた報告書の一部です。「人生前半の社会保障」という言葉は、親の所得格差が子どもの教育環境の格差につながっているという現実、不況などにより学校に就学費用を納められない子が少なくない現実を踏まえ、今後活力ある社会にするために、これまで介護や医療といったどちらかと言えば人生の後半を対象とする社会保障という言葉の定義を教育分野にまで広げ、教育分野への公費支出を増やそうという考え方がベースにあります。
(参考)子どもにも社会保障を 教育の格差、固定化に懸念(2009年6月22日 朝日新聞)
政府の経済財政諮問会議や「安心社会実現会議」における検討に併行する形で進められてきた「教育安心社会の実現に関する懇談会」による検討結果であるこの報告書は、とてもインパクトがあり、わかりやすい懇談会からのメッセージを前文に置き、続けて教育費負担に関する基本的な考え方、さらには、各学校段階ごとの現状と課題解決のための政策が提言されています。また、最後には、多様な政策の実現に必要な経費の試算を行い具体的な財源の確保を求めるとともに、提言内容を裏付けるデータがわかりやすい形で示されています。
この「教育安心社会の実現に関する懇談会」が、官邸レベルではなく、文部科学大臣主導の下に設置された趣旨に関わって、今回の報告書のねらいは、個人的には大きく2つあるのではないかと思います。一つは、所得格差が教育格差を生み、我が国の将来を担う子ども達に教育の機会均等が保障されなくなってきている現実に対し警鐘を鳴らすこと、そして2つめは、今後の平成22年度予算編成過程を闘い抜き、必要な予算を確保・拡大するための戦略としての意味合いです。もとよりその眼目は後者であることは疑う余地のなところですが、いずれにせよ、今や社会問題化している教育格差を是正する、なくすための努力は、国や自治体に対し今後一層国民から求められることになるでしょう。
冷えきった経済・財政状況の中で、国民の多くは疲弊しきっています。景気低迷のあおりを受け、職を失い、あるいは大幅な収入の減少により、人が生きる上で不可欠な衣・食・住もままならない最低レベルの生活を余儀なくされている人々がちまたにあふれています。このような中で、教育費負担は、家計を大きく圧迫し、結果として進学や就学を断念せざるを得ない子ども達・若者達が増え続けています。
教育は、親の経済状態や居住地にかかわらず、平等にその機会を与えられるべきものです。この国の発展基盤となる子ども達や若者達が、教育を受ける権利を放棄せざるを得ないような国は、衰退の一途をたどり、世界に互していくことなど遠い昔の物語として語られることにもなりかねません。教育の機会均等・機会の平等という我が国がこれまで守り続け、我が国をここまで発展させてきた基盤を崩壊させることにならないよう、私たちは今こそ、報告書に示された施策を確実に実行していかなければなりません。
学びたいのに:奨学金の課題 読者の反響特集 格差、なくならないのか(2009年7月7日 毎日新聞)
「親だって子に学ばせたい」「お金がないと進学できない社会なのでしょうか」。6月9日から3回にわたり連載した「学びたいのに 奨学金の課題」に多くの体験談や意見が寄せられました。教育費がなぜこうも高いのか、格差はなくならないのか。反響の一部を紹介し、改めて考えました。・・・
学びたいのに:奨学金の課題/上 母子家庭「やっていけない」
学びたいのに:奨学金の課題/中 生活保護、減額困る
学びたいのに:奨学金の課題/下 将来へ、負担重く
◇
懇談会報告書の前文と高等教育関係部分を抜粋してご紹介します。
全文をご覧になりたい方はこちらをどうぞ → http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/07/1281312.htm
教育安心社会の実現に関する懇談会報告-教育費の在り方を考える-
はじめに
教育とは、そもそも何を目的とした営みであろうか。また、その費用は誰が負担すべきであろうか。
この根源的な問いかけに答える前に、我々は、まずは、子どもは「社会の宝」であり、今後の未来を築いていくかけがえのない存在であることを強調したい。
その上で、子どもの教育には、子ども一人一人が、個性を伸ばし可能性を開花させ、人生を幸せに生きることのできる基礎を培うことと、同時に、世のため、人のために貢献する国家社会の形成者を育成するという2つの目的があることを確認したい。これらは、何ら矛盾するものではなく、教育基本法においても、第1条において教育の目的として、「人格の完成」を目指し、「国家及び社会の形成者」の育成を期して行うためのものである旨が定められている。まさに教育こそが、個人に幸福をもたらし、ひいては国家・社会の発展につながっていくことは、古今東西を問わず、万人の首肯するところではないか。
こうした教育の意義に照らせば、子どもの教育やその費用は、子ども本人任せ、親任せ、学校任せであって良いわけがない。子どもの教育には社会総がかりで真剣に考え、取り組むべきであり、教育費についても社会全体で分担すべきである。「人の子も我が子」と社会のすべての構成員が思える温かみのある教育環境の醸成が何よりも求められる。そして、それを促す社会システムこそが、これまで培ってきた文化・歴史・伝統・社会的資産あらゆるものを次代へ引き継ぐ真の持続可能な社会につながるのではなかろうか。
知識基盤社会と言われる中にあって、我が国が継続的発展を遂げるためには、教育を皆が大事にしなければならない。資源に乏しい我が国が、現在の豊かな社会を築くことができたのは、これまでの時代の変革期にあって、国家・社会の存立基盤である教育に大きな力を傾け、成果を上げてきたからこそである。そこで、敢えて訴えたい、教育の充実に目を背ければ、必ず社会の衰退につながるということを。今こそ強調したい、断じて子どもの幸せや希望を奪うような社会にしてはならないことを。まさに教育にどれだけの力を注ぐかをめぐって、国全体の覚悟が問われている。
特に、昨今では、経済雇用状況の悪化により、所得の格差の拡大、努力や挑戦意欲の減退、社会における安定性・一体性のほころびなどが懸念されている。このような中で、雇用、年金、医療などの諸施策と同様に、社会のセーフティネットとしての教育の機会を確保する重要性が一層高まっている。しかるに、それを支える教育の公財政支出は、国際的にみても最低レベルであり極めて心許ない。
一方、家計による教育費の負担は厳しく、それが少子化の要因にもなっている。さらには、学習意欲や学力の低下、いじめ、不登校の問題も山積している。
国・地方公共団体・各学校・地域社会・企業・各家庭など社会の構成員全てがこれらのことに危機感を持って、意欲のある誰もが安心して教育を受けることができるよう、教育費の在り方を含めて、協力しあいながら、諸条件の整備に向けて努力すべきであることは言うまでもない。
以上のような問題意識に立ち、本懇談会においては、教育費の問題、とりわけ家計負担の軽減に焦点を当てて、家庭の経済状況や教育費の家計負担、公財政支出等の現状を踏まえ、大局的・中期的な視点から、今後、政府が実行すべき施策を緊急に提言することとした。
今回の提言が、教育費の在り方について教育行政当局において今後の政策展開に当たって参考としていただくとともに、一層の国民的議論を巻き起こせるようなアピールになることを願っている。
各学校段階での方向性(大学・大学院段階)
大学は、学術の中心として高度の教育研究を行うことにより、人格の形成、能力の開発、知識の伝授、知的生産活動、文明の継承など多岐にわたって、中等教育後の様々な学習機会の中にあってその柱となり、社会を先導していく役割が期待されている。
すなわち、教育面では、幅広い教養と高い専門性を備えた学生を社会に多く送り出すことのみならず、国際的競争が激しくなる中で各分野を牽引するリーダーシップを備えた人材を育成するという役割を果たしている。また、研究面では、人文・社会科学から自然科学まで全ての学問分野に及び、研究者の自由な発想による学術研究を通じて新たな原理現象の発見や解明を行い、環境問題、エネルギー問題といったような人類が抱える諸問題の解決に貢献するなど、国民生活や社会経済の発展に大きく寄与している。さらに、大学は、教育機会の提供、地域を支える専門人材の育成、産学連携による研究成果の還元等を通じて、地域の発展に多大の貢献を果たしており、地域の知的・文化拠点、又は地域活性化の拠点として、不可欠な役割を担っていることにも留意すべきである。このように、大学をはじめとする高等教育は、初等中等教育とは異なる公的性格を有している。
また、同時に、学生本人にとっても、高度な教育により知識ストックを蓄積し、今後のキャリア形成などにおいて役立てるという点で、高等教育は重要な意義を持つものである。
グローバル化が進み知識基盤社会が本格的に到来しようとしている現在、このような大学の役割はますます高まっており、各国が高等教育の充実にしのぎを削っていることを踏まえれば、我が国においても国家戦略として大学の教育研究を強化するとともに、意欲と能力のある学生が経済的な理由により進学を断念することのないよう、大学教育を受ける機会を保障するための施策の充実が喫緊の課題であると考えられる。
しかしながら、OECDの調査によれば、我が国の高等教育については、国際的に比較すると、公財政支出と比較して私費負担の割合が多く、「授業料も高く学生支援体制が比較的整備されていない国」として指摘されている。大学の授業料は低廉であるヨーロッパや、授業料は高いが官民による奨学金制度が充実しているアメリカなどと比較しても、教育立国・科学技術創造立国を標榜する我が国としては、由々しき状況にあるといえる。
実際に、大学授業料が年々増加傾向にあるなか、低所得者に負担がのしかかっていることは明らかであり、各大学で行われている低所得者や成績優秀者を対象とした授業料免除措置の充実を早急に図る必要がある。さらに、民間団体が行う給付型奨学金事業の活性化を促すことも重要である。また、キャリアの将来性や在学中の生活保障がないことなどにより博士課程への進学者が理数系分野や医学系分野をはじめ各分野で減少傾向にあるといった問題も生じている。これらが原因で、社会に貢献すべき高度な能力を有する人材の輩出が妨げられているとすれば、それは学生本人のみならず社会全体にとっても大きな損失であり、緊急的な対応が必要である。
これらの状況を踏まえ、国公私立を通じた高等教育機関の基盤的経費の充実強化による教育条件の維持向上や経営基盤の安定化を図りながら授業料の抑制に努めるとともに、授業料や入学金の減免措置の拡充や奨学金貸与事業の充実を中心に家計基準に着目した負担軽減策を推進し、大学院段階については、キャリアパスの提示や、優秀な大学院生をティーチング・アシスタント(TA)やリサーチ・アシスタント(RA)として雇用すること等を通じた経済的支援を充実することが必要である。また、優れた研究能力を有し、大学等での研究に専念することを希望する者を「特別研究員」として積極的に採用し、生活支援も含めたトータルな経済的支援を引き続き行うことも重要である。
このような経済的支援と同時に、進学に係る経済的負担の軽減により進路選択が行え、また安心して学習や研究に打ち込めるようにするため、学生生徒等が進学に係る「ファイナンシャルプラン」をあらかじめ設計できるよう必要な環境整備を行うべきである。具体的には、奨学金制度等に関する情報を高校生等の進路選択時に提供するとともに、インターネットで奨学金貸与額等が試算できる仕組みづくりや各大学の相談体制の整備、経済的理由による返還猶予者等に対する減額返還を検討する必要がある。
また、優れた資質と能力のある学生に対する大学教育を受ける機会の保障の観点から、居住地によって大学進学機会が断たれることがあってはならないのは当然である。このため、地域における大学進学率の差異や国公私立大学の設置状況にかんがみ、地方における進学機会を確保するため、基盤的経費の充実や、地域における大学間連携・共同利用等の推進、教育・学生支援分野における共同利用拠点の創設、大学の経営基盤の安定化への支援など、地方大学の運営支援が必要である。
2009年7月5日日曜日
異文化理解
一人の地球人として自分が生きる日本以外の国々のこと、あるいはそこに生きる人々のことを考えるとき、健康で平和な暮らしをしてほしいと願うのは私だけではないでしょう。
世界には、政治、経済、文化、宗教など様々な違いの国と国民があり、残念ながら飢えや貧困と闘う人々がいます。また、独裁的政治体制の中で基本的な人権が守られず抑圧の中で生涯を終える人々もいます。
毎日のように報道される他国の様子を、自分のこととして考える、そして何か自分にできることはないだろうかと考えることは、平和な国に暮らす恵まれた私達がなすべき一つの国際貢献への第一歩のような気がします。
今日は、途上国の子ども達を伝染病から守るための取り組み、日本で生きるいわゆる「脱北者」の苦悩、そして、海外研修の経験を基に教科書だけでは学べない途上国の現状を伝える活動を行っている教師達の話をご紹介します。
ワクチン債(2009年6月29日 朝日新聞 論説委員室から)
途上国の子供たちを伝染病から守ろうと、ワクチンや予防接種を打つプロジェクト資金を賄う「ワクチン債」が静かなブームを呼んでいる。世界保健機関(WHO)や世界銀行の息がかかる国際調達機関「IFFIm」が発行する。
このプロジェクトを支えているのは、英仏伊など7ヵ国が20年分割で払い込む53億ドルの寄付だ。これを裏付けにして総額40億ドル規模の債券を発行し、まとまった資金を前倒しで調達する。この結果、ワクチンの大量購入が可能になった。それがまた大量生産につながり、価格が半値になるといった効果も出ている。
これまで世界で発行されたのは日本円にしてざっと2千億円分。うち800億円近くが日本で売られた。欧州などではもっぱら機関投資家が買うのだが、日本ではすべて個人投資家だ。購入層は60歳以上が中心で、女性も多い。
発行条件は普通の世銀債並みで格付けは最高のAAAだ。外貨建てなので、見かけの金利は高いものの、為替リスクがある。収益性や安全性だけでなく、「社会貢献を通じて満足感を得たい」という動機も働いているらしい。
日本の個人金融資産は1400兆円余り。そのうち100兆円以上が過剰貯蓄だとの推計がある。30兆円は「たんす預金」になっているともいわれる。
それらに比べると至極ささやかな動きだが、日本の個人マネーは「有意義な目的」さえあればもっと動く用意があることの表れだと考えたい。
あの国に生まれて(2009年7月1日 朝日新聞 論説委員室から)
北朝鮮から逃れて日本で暮らす「脱北者」は現在、百数十人いるとされる。60~70年代に帰還事業で渡った在日朝鮮人が中心だが、子どもたちの世代もいる。
大阪で会った彼女もそのー人だ。
中朝国境の町で18歳まで過ごし、中国での潜伏生活の後、3年半ほど前に日本にたどり着いた。夜間中学などで学び、この春、大学進学を果たした。
入学早々「ミサイル発射」騒ぎがあった。続いて核実験。彼女はまだ、学生仲間に出身地を打ち明けられずにいる。
北朝鮮というだけで、何もかもバッシングする空気がある。脱北者だと自己紹介した途端、「スパイだ」「こわい人」と誤解されるのではないか。そんな不安が先に立ってしまうという。
金正日体制を擁護するつもりはさらさらない。庶民には、本当のことは何も知らされない国だった。物心ついて以来、「戦争だ、戦争だ」と軍事訓練が繰り返されていたのも、いやな記憶だ。
でも、あの国で生まれたことを恥ずかしいとは思わない。歌が好きだったり一時期やんちゃをしたりと、少女時代の普通の思い出もある。北朝鮮の子どもがみなガリガリにやせているわけでもない。
日本の若い友人たちに、そんなことをいつかわかって欲しいと思う。
うわさされる「後継者」とは同い年の26歳。日本で生きる北朝鮮人の葛藤を、リ・ハナの筆名でつづったブログは「アジアプレス・ネットワーク」のサイトで読むことができる。
(参考)リ・ハナの一歩一歩
http://www.asiapress.org/apn/archives/0001/1079/index.html
途上国の現状 学生に伝える 海外研修参加の教師ら公開講座(2009年7月4日 読売新聞)
国際協力機構(JICA)が実施している教師の海外研修に参加した県内の教員が集まる「海外経験・素材を広める教師の輪」が、高校生や大学生向けの公開講座を開いている。アジアやアフリカの学校の様子を映像を交えて講演したり、テーマを出して討論してもらったりする。教科書だけでは学べない途上国の教育の現状を知ってもらうことで、受講生たちにも海外支援について考えるきっかけにしてもらうのが狙いだ。・・・
世界には、政治、経済、文化、宗教など様々な違いの国と国民があり、残念ながら飢えや貧困と闘う人々がいます。また、独裁的政治体制の中で基本的な人権が守られず抑圧の中で生涯を終える人々もいます。
毎日のように報道される他国の様子を、自分のこととして考える、そして何か自分にできることはないだろうかと考えることは、平和な国に暮らす恵まれた私達がなすべき一つの国際貢献への第一歩のような気がします。
今日は、途上国の子ども達を伝染病から守るための取り組み、日本で生きるいわゆる「脱北者」の苦悩、そして、海外研修の経験を基に教科書だけでは学べない途上国の現状を伝える活動を行っている教師達の話をご紹介します。
ワクチン債(2009年6月29日 朝日新聞 論説委員室から)
途上国の子供たちを伝染病から守ろうと、ワクチンや予防接種を打つプロジェクト資金を賄う「ワクチン債」が静かなブームを呼んでいる。世界保健機関(WHO)や世界銀行の息がかかる国際調達機関「IFFIm」が発行する。
このプロジェクトを支えているのは、英仏伊など7ヵ国が20年分割で払い込む53億ドルの寄付だ。これを裏付けにして総額40億ドル規模の債券を発行し、まとまった資金を前倒しで調達する。この結果、ワクチンの大量購入が可能になった。それがまた大量生産につながり、価格が半値になるといった効果も出ている。
これまで世界で発行されたのは日本円にしてざっと2千億円分。うち800億円近くが日本で売られた。欧州などではもっぱら機関投資家が買うのだが、日本ではすべて個人投資家だ。購入層は60歳以上が中心で、女性も多い。
発行条件は普通の世銀債並みで格付けは最高のAAAだ。外貨建てなので、見かけの金利は高いものの、為替リスクがある。収益性や安全性だけでなく、「社会貢献を通じて満足感を得たい」という動機も働いているらしい。
日本の個人金融資産は1400兆円余り。そのうち100兆円以上が過剰貯蓄だとの推計がある。30兆円は「たんす預金」になっているともいわれる。
それらに比べると至極ささやかな動きだが、日本の個人マネーは「有意義な目的」さえあればもっと動く用意があることの表れだと考えたい。
あの国に生まれて(2009年7月1日 朝日新聞 論説委員室から)
北朝鮮から逃れて日本で暮らす「脱北者」は現在、百数十人いるとされる。60~70年代に帰還事業で渡った在日朝鮮人が中心だが、子どもたちの世代もいる。
大阪で会った彼女もそのー人だ。
中朝国境の町で18歳まで過ごし、中国での潜伏生活の後、3年半ほど前に日本にたどり着いた。夜間中学などで学び、この春、大学進学を果たした。
入学早々「ミサイル発射」騒ぎがあった。続いて核実験。彼女はまだ、学生仲間に出身地を打ち明けられずにいる。
北朝鮮というだけで、何もかもバッシングする空気がある。脱北者だと自己紹介した途端、「スパイだ」「こわい人」と誤解されるのではないか。そんな不安が先に立ってしまうという。
金正日体制を擁護するつもりはさらさらない。庶民には、本当のことは何も知らされない国だった。物心ついて以来、「戦争だ、戦争だ」と軍事訓練が繰り返されていたのも、いやな記憶だ。
でも、あの国で生まれたことを恥ずかしいとは思わない。歌が好きだったり一時期やんちゃをしたりと、少女時代の普通の思い出もある。北朝鮮の子どもがみなガリガリにやせているわけでもない。
日本の若い友人たちに、そんなことをいつかわかって欲しいと思う。
うわさされる「後継者」とは同い年の26歳。日本で生きる北朝鮮人の葛藤を、リ・ハナの筆名でつづったブログは「アジアプレス・ネットワーク」のサイトで読むことができる。
(参考)リ・ハナの一歩一歩
http://www.asiapress.org/apn/archives/0001/1079/index.html
途上国の現状 学生に伝える 海外研修参加の教師ら公開講座(2009年7月4日 読売新聞)
国際協力機構(JICA)が実施している教師の海外研修に参加した県内の教員が集まる「海外経験・素材を広める教師の輪」が、高校生や大学生向けの公開講座を開いている。アジアやアフリカの学校の様子を映像を交えて講演したり、テーマを出して討論してもらったりする。教科書だけでは学べない途上国の教育の現状を知ってもらうことで、受講生たちにも海外支援について考えるきっかけにしてもらうのが狙いだ。・・・
2009年7月2日木曜日
骨抜きシーリングと教育予算の未来
昨日(7月1日)、来年度予算の概算要求基準が閣議決定されました。
これまで、この日記でも、概算要求基準の決定に至る重要なプロセスとして、「財政制度等審議会建議」と「骨太方針2009」についてフォローしてきましたが、高等教育予算に関しては、例年様々な議論が展開されるものの、結局は、小泉政権下における「骨太方針2006」を踏まえた「国立大学法人の運営費交付金▲1%削減」「私立大学の経常費補助金▲1%削減」が踏襲されるだけで終わってしまい、予算の確保に向けた各界における真摯な議論や行動が残念ながら徒労に終わってしまいます。一国民としては、我が国を取り巻く様々な厳しい状況を理解しつつも、大学人としては焦燥感だけが残る結果に落ち着くことになります。
平成22年度概算要求基準が閣議了解されました。(2009年7月1日 財務省ホームページ)
本日の閣議において、平成22年度概算要求基準が閣議了解されました。各省庁は、これを踏まえて平成22年度概算要求を作成することとなります。
○平成22年度一般歳出の概算要求基準の考え方
○平成22年度概算要求基準のポイント
(参考)平成22年度予算の概算要求に当たっての基本的な方針について(閣議了解)
http://www.mof.go.jp/jouhou/syukei/h22/sy210701press.htm
平成22年度予算の概算要求基準決定 歳出削減後退(2009年7月1日 産経新聞)
政府は1日、平成22年度予算の大枠を示す概算要求基準(シーリング)を閣議で了解し、正式に決めた。これまでの社会保障費の抑制方針を撤回し、一般歳出は過去最大の52兆6700億円とした。今回の決定に沿って各省庁は8月末までに予算要求を財務省に提示するが、衆院選で政権が交代すれば、シーリングが変更される可能性もある。歳出削減の流れが後退する中、衆院選に向けて各党がどういう財政政策を打ち出していくかが、今後の予算編成にも大きな影響を与えそうだ。
シーリングは、社会保障費の自然増のうち年2200億円分を抑制するという従来方針を撤回し、1兆900億円の自然増を認めた。麻生太郎首相は22年度予算に関し「社会保障の必要な修復ということが大事」としている。公共事業関係費は前年度比3%減、防衛関係費や国立大学運営費・私学助成費もそれぞれ1%削減して歳出削減の努力も続けるが、一般歳出は21年度当初予算に比べ9400億円も膨らんだ。
一方、世界経済の先行きがいまだに不透明で、「日本経済の下振れリスクがある」(財務省幹部)ことから、経済緊急対応予備費で6500億円を確保、新たな景気対策などに備える。
年末の予算編成では、特別枠となる「経済危機対応等特別措置」の3500億円をめぐり各省庁による予算の奪い合いとなりそうだが、このところ歳出削減が続いていた防衛や公共事業分野などで、要求が強まることが予想される。
ただ、政権交代が起これば状況は大きく変わるとみられる。民主党は、中学生まで1人当たり月2万6000円を支給する子ども手当や、高速道路無料化などを掲げているが、与野党ともに、財源問題や財政再建への道筋を明確に示したマニフェスト(政権公約)をどう示すかが問われそうだ。
http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/090701/fnc0907012253019-n1.htm
今回の閣議決定は、あくまでも「概算要求上限の設定」であり、言い換えれば、「前年度予算から1%削減したところからの予算復活の闘いの始まり」でもあります。
今回のシーリングでは、骨太方針2009に掲げられた「経済危機克服」「安心社会実現」「成長力の強化」のための施策に重点投資することとして「経済危機対応等特別措置3,500億円」が設定されました。このうち、「安心社会の実現」には「教育の再生」が位置付けられており、高等教育に関しては、「国際的に開かれた大学づくり、高等教育の教育研究基盤の充実、競争的資金の拡充などの新たな時代に対応した教育施策に積極的に取り組む。」とされ、さらに、「安心して教育が受けられる社会の実現に向けて、各学校段階の教育費負担に対応するため、所要の財源確保とあわせた中期的な検討を行いつつ、当面、軽減策の充実を図る。」として、教育格差是正の措置を講じることが骨太方針2009に明記されています。
私達大学人は、骨太方針2009に謳われたこれら緊要な課題の解決に向けた予算の確保・拡大について、年末までの予算編成過程において、側面から文部科学省を支援するとともに、自らも様々な機会を捉えて主張していかなければなりません。
この日記でも既にご紹介しているように、これまで、国立大学協会は、国立大学を取り巻く厳しい財政事情を踏まえ、財政制度等審議会の建議や建議に至る議論の内容に関し、国立大学関係者に勇気と希望を与える反論を公に示しています。さらに、このたび、来年度予算の確保・拡大に向けたアピールを発信しています。今後は、こういった国立大学の「声」を社会に積極的に発信していくことが何より大事になってきます。
平成22年度国立大学関係予算の確保・充実について(要望)(2009年6月29日 国立大学協会)
国立大学協会は、6月29日(月)に、文教関係議員等に、「平成22年度国立大学関係予算の確保・充実について(要望)」についての要望活動を行いました。
要望事項
貴職におかれては、日頃から国立大学法人について深いご理解と力強いご支援をいただいており、厚く御礼を申し上げます。
現在我が国は、深刻な「経済危機」に見舞われています。本協会は、我が国が、この未曾有の危機を克服し、国民の不安を払拭して持続的な発展を図るためには、従来から国立大学が果たしてきた役割を更に強化・充実することが不可欠であると考えております。
国立大学は、これまで、我が国における知の創造拠点として高度人材育成の中核機能を果たすとともに、高度な学術研究や科学技術の振興を担い、国力の源泉としての役割を担ってきました。また、学生の経済状況、居住する地域や学問分野を問わず、教育の機会均等を確保するために大きな役割を果たしてきました。
しかしながら、我が国における高等教育への公財政支出は、GDP比0.5%に過ぎずOECD平均の1%を大きく下回り最下位になっています。
国立大学法人の財政的基盤である運営費交付金は、骨太方針2006に基づき、毎年△1%の適用を受け、削減され続けており、各法人では各々が懸命の経営努力により対応しているものの、その努力も限界に近づきつつあります。
特に、医師養成等の国の重要な機能を担う大学附属病院には経営改善係数(△2%)の適用や診療報酬の減額改定等とも併せて大きな影響が生じています。
また、国立大学の教育研究活動を支える施設・設備については、施設整備費補助金等の削減により、その老朽・狭隘化が著しく進んでおります。
このような運営費交付金・施設整備費補助金等の削減が続けば、今後数年を経ずして教育の質を保つことは難しくなり、さらには一部国立大学の経営が破綻するばかりか、学問分野を問わず、基礎研究や萌芽的な研究の芽を潰すなど、これまで積み上げてきた国の高等教育施策とその成果を根底から崩壊させることとなります。
知的競争時代において諸外国が大学等に重点投資を行い、優秀な人材を惹きつけようとする中で、ひとり我が国だけが投資の削減を続けていては、教育研究の水準の維持・向上を図り、国際的な競争に打ち勝つことはもとより国際競争力を維持することさえも困難となり、国民の望む「安心社会」の実現は期しえません。
つきましては、貴職に対して我々の意をお伝えするため、別紙の事項について、要望いたします。第2期中期目標期間を迎える平成22年度の概算要求に向けて、国立大学関係予算の確保・充実について、ご理解をいただき、引き続きご尽力とご支援を賜りますようお願い申し上げます。
要望事項の要点
運営費交付金の拡充(総額△1%及び深掘りの撤廃)
我が国の発展の基礎を支える国立大学法人の教育・研究活動が安定的・持続的に推進できるよう、基盤的経費である運営費交付金を拡充すること。
また、骨太の方針2006に盛り込まれた5年間の運営費交付金の総額1%削減方針は、今期のみならず次期の中期目標期間にわたり、大学の教育・研究の基盤に重大な影響を与えるものであることから、これを早期に撤廃すること。
特に、平成21年度概算要求基準においては、総額1%削減に加え、さらに2%を削減(深掘り)することとされたが、国立大学法人の教育・研究活動を支える基盤的経費である運営費交付金の性格を全く考慮しない取り扱いであり、このような取り扱いが繰り返されることがないようにすること。
国立大学附属病院の経営に対する財政的支援等(△2%撤廃)
経営改善係数の適用による△2%を撤廃するとともに、医師等の人材育成、地域医療の中核病院、地域医療体制の確立、高度先進的医療の提供など、国立大学附属病院特有の役割を果たすために必要な財政的支援を行うこと。
また、経営努力にもかかわらず、診療報酬の減額改定等、外的な要因による経営への影響については、特段の配慮を講ずること。
特に、診療報酬については、国立大学附属病院の診療実態を適切に反映したものとなるよう、増額改定を行うこと。
教育費負担の軽減(授業料等標準額の減額及び減免措置の拡大)
昨今の経済危機の中で教育の機会均等を確保するため、授業料等標準額の減額及び減免措置の拡大のための財政支援を行うこと。
教育・研究環境整備の予算の確保(施設・設備費の増額)
「第2次国立大学等施設緊急整備5か年計画」の最終年度として整備目標の達成を目指し必要な予算を確保すること。
また、イノベーション創出の基盤となる研究施設・設備の整備や老朽化した教育・研究及び診療用設備の更新に必要な財政措置を講ずること。
さらに、国立大学附属病院の施設整備については、施設整備費補助金の補助率アップ(現在10%)など、必要な財政的支援を行うこと。
科学研究費補助金の拡充(予算の拡充、間接経費の措置)
第3期科学技術基本計画に従って、競争的資金、特に、大学等で行われる学術研究を支える科学研究費補助金の拡充に必要な措置を講ずること。
また、研究環境の向上、適正な資金管理等に寄与する間接経費30%措置の早期実現に必要な予算を確保すること。
国際的に開かれた大学づくりに資する予算の拡充
グローバル化する知識基盤社会、学習社会の中で、喫緊の課題である我が国の大学の国際的な通用性・共通性の向上や国際競争力の強化の推進、大学のグローバル戦略展開を図るための「留学生30万人計画」の実現に資するため、大学の国際化や留学生の受入環境の整備など関係の予算の拡充を行うこと。
国大協「撤廃を」 国の交付金削減方針(2009年6月29日 朝日新聞)
国立大学協会が、毎年減らされている国立大への運営費交付金について、削減方針を撤廃するよう求める緊急アピールを出した。文部科学省や財政制度等審議会など各機関にも要望書を送った。
国立大学法人の経営基盤である運営費交付金は、政府の「骨太の方針2006」に基づいて毎年1%ずつ削減されている。協会によると、この5年間で23大学分の運営費が消えた計算になる。付属病院の経営も圧迫され、07年度には42病院のうち16病院が赤字に転落したという。アピールは「遠からず教育の質を保つことは難しくなり、研究の芽をつぶすだけでなく、地域医療の最後のとりでが破綻する」とし、国からの財政支援を経済協力開発機構諸国並みに拡充するよう求めた。日本の高等教育への公財政支出は、対GDP比0.5%で、加盟国(平均1.1%)の中で最下位だ(05年実績)。
また、今月15日に開かれた総会で、授業料の目安になる「標準額」を来年度から引き下げることを国に求める中間報告を了承した。運営費交付金の増額を前提にしている。
国立大の授業料は04年度の法人化まで一律だったが、現在は各大学が決め、標準額の2割増まで値上げできる。標準額は、法人化時の52万800円から、05年度に53万5800円へ引き上げられた。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200906290112.html
最後に、是非とも読んで教育費についてお考えいただきたい記事を。(削除される可能性があるため全文を掲載)
子どもにも社会保障を 教育の格差、固定化に懸念(2009年6月22日 朝日新聞)
「人生前半の社会保障」。最近、こんな言葉が教育の世界で言われ始めた。親の所得格差が露骨に子どもの教育環境の格差につながっている。不況などで学校に就学費用を納められない子も少なくない。社会保障費といえば介護や医療など人生後半に集中してきたが、活力ある社会にするため教育分野の公費支出を増やそうという考え方だ。政府の教育再生懇談会委員で、以前からこの考え方を提唱してきた広井良典・千葉大教授に聞いた。
機会の均等 国が守れ
▼「人生前半の社会保障」とは?
社会保障の議論といえば、これまで、介護や年金、医療と高齢期に集中していた。雇用がしっかりし、家族の基盤もしっかりしていたから、暮らしの上でのリスクは、もっぱら退職後の時期に現れた。
しかし、いまは若者の失業率一つとってみても、退職期の年齢層より高くなっている。経済成長の時代は終わり、現役世代の雇用は不安定。先進国は生産過剰で失業が慢性化している状況だ。この結果、生活リスクが高齢期以外に広く及ぶようになり、人生前半での生活保障が必要になってきた。
所得格差が世代を通じて徐々にたまってきたのも大きい。人生の始まりで「共通のスタートライン」に立つという前提が崩れている。教育はそうした「人生前半の社会保障」の核になるもので、平等の実現とともに、経済や社会の活性化のためにも手厚くする必要がある。
▼人生を教育と社会保障の両面で支えるということ?
社会保障は人生の後半を対象にした、いわば事後的な対応策。一方、教育は人の能力を伸ばすという、能動的な人生前半の分野として別々に考えられてきた。しかし、社会が成熟して両者はクロスしており、人生の各段階で融合させて生活を保障することが必要になる。こうした考え方は欧州ではすでに定着している。
▼公的な教育支出の国際比較では、日本は経済協力開発機構(OECD)で最低水準。人生前半の公的な財政支援は乏しい。方向性は?
政策としては、小学校に入る前の時期と大学教育の時期の支援が日本では特に不足しており、強化が必要だ。児童手当や保育サービスを充実させるほか、大学教育では私費負担を下げ、返済する必要がない奨学金や職業訓練、職業紹介の制度を広げるべきだと思う。20~30歳の人に月額4万円程度の年金を支給する「若者基礎年金」制度も提案したい。
今は人生が長くなっている。高齢期が延びたと同時に、「子ども」の時期も大きく延びているととらえるべきだ。思春期の頃までを「前期子ども」、30歳ごろまでを「後期子ども」と考えることができる。後期は「遊・学」と「働」の複合期ととらえ、教育の概念を広げたい。
生産から少し距離を置いた子ども期と高齢期が長いのが人間という生き物の特徴で、そこにこそ創造性の源がある。一見「効率的」でないことの価値に気づくことが重要だ。経済成長を目標にする時代ではない。成熟化の時代に合った教育政策をどう描くかが課題になる。
今より負担が大きくなる代わりに、給付も大きい社会を目指すべきではないか。スタートラインでの平等という意味では、相続税を強化し、就学前の支援にあてることも考えられる。ドイツなどでは、社会保障の財源として環境税をあてている。
従来の米国型の「強い成長志向・小さな政府」という社会モデルは破綻(はたん)しつつあり、「持続可能な福祉社会」とも呼べるモデルを考えることが重要だ。
家庭の教育費負担軽減提言 教育再生懇・4次報告
広井教授が委員を務める政府の教育再生懇談会は5月28日、第4次の報告を河村官房長官に提出した。その中には「人生前半の社会保障」の言葉と考え方が強く表現されている。
報告書は「安心できる社会の実現には、子どもたちが努力すればより豊かな人生を送ることができるという希望がもてる環境を整えることが大切」「家庭の経済状況で教育を受ける機会や質に差ができないような社会の構築が必要」と指摘。
現実には家庭の所得水準によって進学機会や学びの継続に影響が出ているとし、「教育を『人生前半の社会保障』と位置づけ、家庭の教育費の負担軽減を図る」と提言している。
具体的には、▽幼児教育の無償化の早期実現▽経済的に困難な高校生への授業料減免措置の拡充や奨学金の充実、給付型教育支援制度の検討▽大学などでの授業料減免措置の拡充と給付型奨学金の充実――などを求めている。
〈解説〉
政府内で教育政策を「人生前半の社会保障」として位置づける流れが生まれたのは今年初めだった。社会保障費を将来的にどうするのか、消費税率の引き上げ論議が盛んだったころだ。
日本は教育費の公的支出が対国内総生産(GDP)比で先進国の最低水準だが、これまでは家庭が負担をかぶってやりくりしてきた。だが、それも近年の不況や雇用の激変で支えきれなくなっている。
所得が高い世帯の子どもばかりがいい教育を受けるような形で固定化されたら、社会は活力を失う。戦後教育の基本となった「機会均等」がますます希薄になることへの危機感は大きい。
広井良典氏らの考え方は、社会政策と教育政策を連動させることで「人生前半の社会保障」を充実させ、職業訓練や事業創造などにつなげて人生中盤から後半のリスク要因を小さくしようというものだ。文科省はこの考え方を取り入れつつ、「社会保障費」として教育財源を確保しようと考えている。
この動きは、旧来の教育行政の転換につながる可能性がある。文科省と厚生労働省で縦割りになっている教育・社会保障行政の見直しにもなる。最近の政策決定を審議する場では、狭くマンネリ化した教育の世界の枠を超えて政策を立案しようとする姿勢も見られる。
政府・文科省がこれまでの政策と調整した上で社会モデルを具体的に描き、財源確保の道筋を示したとき、「新たな流れ」が現実味を帯びてくる。
http://www.asahi.com/edu/tokuho/TKY200906210084.html
これまで、この日記でも、概算要求基準の決定に至る重要なプロセスとして、「財政制度等審議会建議」と「骨太方針2009」についてフォローしてきましたが、高等教育予算に関しては、例年様々な議論が展開されるものの、結局は、小泉政権下における「骨太方針2006」を踏まえた「国立大学法人の運営費交付金▲1%削減」「私立大学の経常費補助金▲1%削減」が踏襲されるだけで終わってしまい、予算の確保に向けた各界における真摯な議論や行動が残念ながら徒労に終わってしまいます。一国民としては、我が国を取り巻く様々な厳しい状況を理解しつつも、大学人としては焦燥感だけが残る結果に落ち着くことになります。
平成22年度概算要求基準が閣議了解されました。(2009年7月1日 財務省ホームページ)
本日の閣議において、平成22年度概算要求基準が閣議了解されました。各省庁は、これを踏まえて平成22年度概算要求を作成することとなります。
○平成22年度一般歳出の概算要求基準の考え方
○平成22年度概算要求基準のポイント
(参考)平成22年度予算の概算要求に当たっての基本的な方針について(閣議了解)
http://www.mof.go.jp/jouhou/syukei/h22/sy210701press.htm
平成22年度予算の概算要求基準決定 歳出削減後退(2009年7月1日 産経新聞)
政府は1日、平成22年度予算の大枠を示す概算要求基準(シーリング)を閣議で了解し、正式に決めた。これまでの社会保障費の抑制方針を撤回し、一般歳出は過去最大の52兆6700億円とした。今回の決定に沿って各省庁は8月末までに予算要求を財務省に提示するが、衆院選で政権が交代すれば、シーリングが変更される可能性もある。歳出削減の流れが後退する中、衆院選に向けて各党がどういう財政政策を打ち出していくかが、今後の予算編成にも大きな影響を与えそうだ。
シーリングは、社会保障費の自然増のうち年2200億円分を抑制するという従来方針を撤回し、1兆900億円の自然増を認めた。麻生太郎首相は22年度予算に関し「社会保障の必要な修復ということが大事」としている。公共事業関係費は前年度比3%減、防衛関係費や国立大学運営費・私学助成費もそれぞれ1%削減して歳出削減の努力も続けるが、一般歳出は21年度当初予算に比べ9400億円も膨らんだ。
一方、世界経済の先行きがいまだに不透明で、「日本経済の下振れリスクがある」(財務省幹部)ことから、経済緊急対応予備費で6500億円を確保、新たな景気対策などに備える。
年末の予算編成では、特別枠となる「経済危機対応等特別措置」の3500億円をめぐり各省庁による予算の奪い合いとなりそうだが、このところ歳出削減が続いていた防衛や公共事業分野などで、要求が強まることが予想される。
ただ、政権交代が起これば状況は大きく変わるとみられる。民主党は、中学生まで1人当たり月2万6000円を支給する子ども手当や、高速道路無料化などを掲げているが、与野党ともに、財源問題や財政再建への道筋を明確に示したマニフェスト(政権公約)をどう示すかが問われそうだ。
http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/090701/fnc0907012253019-n1.htm
◇
今回の閣議決定は、あくまでも「概算要求上限の設定」であり、言い換えれば、「前年度予算から1%削減したところからの予算復活の闘いの始まり」でもあります。
今回のシーリングでは、骨太方針2009に掲げられた「経済危機克服」「安心社会実現」「成長力の強化」のための施策に重点投資することとして「経済危機対応等特別措置3,500億円」が設定されました。このうち、「安心社会の実現」には「教育の再生」が位置付けられており、高等教育に関しては、「国際的に開かれた大学づくり、高等教育の教育研究基盤の充実、競争的資金の拡充などの新たな時代に対応した教育施策に積極的に取り組む。」とされ、さらに、「安心して教育が受けられる社会の実現に向けて、各学校段階の教育費負担に対応するため、所要の財源確保とあわせた中期的な検討を行いつつ、当面、軽減策の充実を図る。」として、教育格差是正の措置を講じることが骨太方針2009に明記されています。
私達大学人は、骨太方針2009に謳われたこれら緊要な課題の解決に向けた予算の確保・拡大について、年末までの予算編成過程において、側面から文部科学省を支援するとともに、自らも様々な機会を捉えて主張していかなければなりません。
この日記でも既にご紹介しているように、これまで、国立大学協会は、国立大学を取り巻く厳しい財政事情を踏まえ、財政制度等審議会の建議や建議に至る議論の内容に関し、国立大学関係者に勇気と希望を与える反論を公に示しています。さらに、このたび、来年度予算の確保・拡大に向けたアピールを発信しています。今後は、こういった国立大学の「声」を社会に積極的に発信していくことが何より大事になってきます。
平成22年度国立大学関係予算の確保・充実について(要望)(2009年6月29日 国立大学協会)
国立大学協会は、6月29日(月)に、文教関係議員等に、「平成22年度国立大学関係予算の確保・充実について(要望)」についての要望活動を行いました。
要望事項
- 運営費交付金の拡充(総額△1%及び深掘りの撤廃)
- 国立大学附属病院の経営に対する財政的支援等(△2%撤廃)
- 教育費負担の軽減(授業料等標準額の減額及び減免措置の拡大)
- 教育・研究環境整備の予算の確保(施設・設備費の増額)
- 科学研究費補助金の拡充(予算の拡充、間接経費の措置)
- 国際的に開かれた大学づくりに資する予算の拡充
貴職におかれては、日頃から国立大学法人について深いご理解と力強いご支援をいただいており、厚く御礼を申し上げます。
現在我が国は、深刻な「経済危機」に見舞われています。本協会は、我が国が、この未曾有の危機を克服し、国民の不安を払拭して持続的な発展を図るためには、従来から国立大学が果たしてきた役割を更に強化・充実することが不可欠であると考えております。
国立大学は、これまで、我が国における知の創造拠点として高度人材育成の中核機能を果たすとともに、高度な学術研究や科学技術の振興を担い、国力の源泉としての役割を担ってきました。また、学生の経済状況、居住する地域や学問分野を問わず、教育の機会均等を確保するために大きな役割を果たしてきました。
しかしながら、我が国における高等教育への公財政支出は、GDP比0.5%に過ぎずOECD平均の1%を大きく下回り最下位になっています。
国立大学法人の財政的基盤である運営費交付金は、骨太方針2006に基づき、毎年△1%の適用を受け、削減され続けており、各法人では各々が懸命の経営努力により対応しているものの、その努力も限界に近づきつつあります。
特に、医師養成等の国の重要な機能を担う大学附属病院には経営改善係数(△2%)の適用や診療報酬の減額改定等とも併せて大きな影響が生じています。
また、国立大学の教育研究活動を支える施設・設備については、施設整備費補助金等の削減により、その老朽・狭隘化が著しく進んでおります。
このような運営費交付金・施設整備費補助金等の削減が続けば、今後数年を経ずして教育の質を保つことは難しくなり、さらには一部国立大学の経営が破綻するばかりか、学問分野を問わず、基礎研究や萌芽的な研究の芽を潰すなど、これまで積み上げてきた国の高等教育施策とその成果を根底から崩壊させることとなります。
知的競争時代において諸外国が大学等に重点投資を行い、優秀な人材を惹きつけようとする中で、ひとり我が国だけが投資の削減を続けていては、教育研究の水準の維持・向上を図り、国際的な競争に打ち勝つことはもとより国際競争力を維持することさえも困難となり、国民の望む「安心社会」の実現は期しえません。
つきましては、貴職に対して我々の意をお伝えするため、別紙の事項について、要望いたします。第2期中期目標期間を迎える平成22年度の概算要求に向けて、国立大学関係予算の確保・充実について、ご理解をいただき、引き続きご尽力とご支援を賜りますようお願い申し上げます。
要望事項の要点
運営費交付金の拡充(総額△1%及び深掘りの撤廃)
我が国の発展の基礎を支える国立大学法人の教育・研究活動が安定的・持続的に推進できるよう、基盤的経費である運営費交付金を拡充すること。
また、骨太の方針2006に盛り込まれた5年間の運営費交付金の総額1%削減方針は、今期のみならず次期の中期目標期間にわたり、大学の教育・研究の基盤に重大な影響を与えるものであることから、これを早期に撤廃すること。
特に、平成21年度概算要求基準においては、総額1%削減に加え、さらに2%を削減(深掘り)することとされたが、国立大学法人の教育・研究活動を支える基盤的経費である運営費交付金の性格を全く考慮しない取り扱いであり、このような取り扱いが繰り返されることがないようにすること。
国立大学附属病院の経営に対する財政的支援等(△2%撤廃)
経営改善係数の適用による△2%を撤廃するとともに、医師等の人材育成、地域医療の中核病院、地域医療体制の確立、高度先進的医療の提供など、国立大学附属病院特有の役割を果たすために必要な財政的支援を行うこと。
また、経営努力にもかかわらず、診療報酬の減額改定等、外的な要因による経営への影響については、特段の配慮を講ずること。
特に、診療報酬については、国立大学附属病院の診療実態を適切に反映したものとなるよう、増額改定を行うこと。
教育費負担の軽減(授業料等標準額の減額及び減免措置の拡大)
昨今の経済危機の中で教育の機会均等を確保するため、授業料等標準額の減額及び減免措置の拡大のための財政支援を行うこと。
教育・研究環境整備の予算の確保(施設・設備費の増額)
「第2次国立大学等施設緊急整備5か年計画」の最終年度として整備目標の達成を目指し必要な予算を確保すること。
また、イノベーション創出の基盤となる研究施設・設備の整備や老朽化した教育・研究及び診療用設備の更新に必要な財政措置を講ずること。
さらに、国立大学附属病院の施設整備については、施設整備費補助金の補助率アップ(現在10%)など、必要な財政的支援を行うこと。
科学研究費補助金の拡充(予算の拡充、間接経費の措置)
第3期科学技術基本計画に従って、競争的資金、特に、大学等で行われる学術研究を支える科学研究費補助金の拡充に必要な措置を講ずること。
また、研究環境の向上、適正な資金管理等に寄与する間接経費30%措置の早期実現に必要な予算を確保すること。
国際的に開かれた大学づくりに資する予算の拡充
グローバル化する知識基盤社会、学習社会の中で、喫緊の課題である我が国の大学の国際的な通用性・共通性の向上や国際競争力の強化の推進、大学のグローバル戦略展開を図るための「留学生30万人計画」の実現に資するため、大学の国際化や留学生の受入環境の整備など関係の予算の拡充を行うこと。
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国大協「撤廃を」 国の交付金削減方針(2009年6月29日 朝日新聞)
国立大学協会が、毎年減らされている国立大への運営費交付金について、削減方針を撤廃するよう求める緊急アピールを出した。文部科学省や財政制度等審議会など各機関にも要望書を送った。
国立大学法人の経営基盤である運営費交付金は、政府の「骨太の方針2006」に基づいて毎年1%ずつ削減されている。協会によると、この5年間で23大学分の運営費が消えた計算になる。付属病院の経営も圧迫され、07年度には42病院のうち16病院が赤字に転落したという。アピールは「遠からず教育の質を保つことは難しくなり、研究の芽をつぶすだけでなく、地域医療の最後のとりでが破綻する」とし、国からの財政支援を経済協力開発機構諸国並みに拡充するよう求めた。日本の高等教育への公財政支出は、対GDP比0.5%で、加盟国(平均1.1%)の中で最下位だ(05年実績)。
また、今月15日に開かれた総会で、授業料の目安になる「標準額」を来年度から引き下げることを国に求める中間報告を了承した。運営費交付金の増額を前提にしている。
国立大の授業料は04年度の法人化まで一律だったが、現在は各大学が決め、標準額の2割増まで値上げできる。標準額は、法人化時の52万800円から、05年度に53万5800円へ引き上げられた。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200906290112.html
最後に、是非とも読んで教育費についてお考えいただきたい記事を。(削除される可能性があるため全文を掲載)
子どもにも社会保障を 教育の格差、固定化に懸念(2009年6月22日 朝日新聞)
「人生前半の社会保障」。最近、こんな言葉が教育の世界で言われ始めた。親の所得格差が露骨に子どもの教育環境の格差につながっている。不況などで学校に就学費用を納められない子も少なくない。社会保障費といえば介護や医療など人生後半に集中してきたが、活力ある社会にするため教育分野の公費支出を増やそうという考え方だ。政府の教育再生懇談会委員で、以前からこの考え方を提唱してきた広井良典・千葉大教授に聞いた。
機会の均等 国が守れ
▼「人生前半の社会保障」とは?
社会保障の議論といえば、これまで、介護や年金、医療と高齢期に集中していた。雇用がしっかりし、家族の基盤もしっかりしていたから、暮らしの上でのリスクは、もっぱら退職後の時期に現れた。
しかし、いまは若者の失業率一つとってみても、退職期の年齢層より高くなっている。経済成長の時代は終わり、現役世代の雇用は不安定。先進国は生産過剰で失業が慢性化している状況だ。この結果、生活リスクが高齢期以外に広く及ぶようになり、人生前半での生活保障が必要になってきた。
所得格差が世代を通じて徐々にたまってきたのも大きい。人生の始まりで「共通のスタートライン」に立つという前提が崩れている。教育はそうした「人生前半の社会保障」の核になるもので、平等の実現とともに、経済や社会の活性化のためにも手厚くする必要がある。
▼人生を教育と社会保障の両面で支えるということ?
社会保障は人生の後半を対象にした、いわば事後的な対応策。一方、教育は人の能力を伸ばすという、能動的な人生前半の分野として別々に考えられてきた。しかし、社会が成熟して両者はクロスしており、人生の各段階で融合させて生活を保障することが必要になる。こうした考え方は欧州ではすでに定着している。
▼公的な教育支出の国際比較では、日本は経済協力開発機構(OECD)で最低水準。人生前半の公的な財政支援は乏しい。方向性は?
政策としては、小学校に入る前の時期と大学教育の時期の支援が日本では特に不足しており、強化が必要だ。児童手当や保育サービスを充実させるほか、大学教育では私費負担を下げ、返済する必要がない奨学金や職業訓練、職業紹介の制度を広げるべきだと思う。20~30歳の人に月額4万円程度の年金を支給する「若者基礎年金」制度も提案したい。
今は人生が長くなっている。高齢期が延びたと同時に、「子ども」の時期も大きく延びているととらえるべきだ。思春期の頃までを「前期子ども」、30歳ごろまでを「後期子ども」と考えることができる。後期は「遊・学」と「働」の複合期ととらえ、教育の概念を広げたい。
生産から少し距離を置いた子ども期と高齢期が長いのが人間という生き物の特徴で、そこにこそ創造性の源がある。一見「効率的」でないことの価値に気づくことが重要だ。経済成長を目標にする時代ではない。成熟化の時代に合った教育政策をどう描くかが課題になる。
▼実現には、やはり財源が必要になる
今より負担が大きくなる代わりに、給付も大きい社会を目指すべきではないか。スタートラインでの平等という意味では、相続税を強化し、就学前の支援にあてることも考えられる。ドイツなどでは、社会保障の財源として環境税をあてている。
従来の米国型の「強い成長志向・小さな政府」という社会モデルは破綻(はたん)しつつあり、「持続可能な福祉社会」とも呼べるモデルを考えることが重要だ。
家庭の教育費負担軽減提言 教育再生懇・4次報告
広井教授が委員を務める政府の教育再生懇談会は5月28日、第4次の報告を河村官房長官に提出した。その中には「人生前半の社会保障」の言葉と考え方が強く表現されている。
報告書は「安心できる社会の実現には、子どもたちが努力すればより豊かな人生を送ることができるという希望がもてる環境を整えることが大切」「家庭の経済状況で教育を受ける機会や質に差ができないような社会の構築が必要」と指摘。
現実には家庭の所得水準によって進学機会や学びの継続に影響が出ているとし、「教育を『人生前半の社会保障』と位置づけ、家庭の教育費の負担軽減を図る」と提言している。
具体的には、▽幼児教育の無償化の早期実現▽経済的に困難な高校生への授業料減免措置の拡充や奨学金の充実、給付型教育支援制度の検討▽大学などでの授業料減免措置の拡充と給付型奨学金の充実――などを求めている。
〈解説〉
政府内で教育政策を「人生前半の社会保障」として位置づける流れが生まれたのは今年初めだった。社会保障費を将来的にどうするのか、消費税率の引き上げ論議が盛んだったころだ。
日本は教育費の公的支出が対国内総生産(GDP)比で先進国の最低水準だが、これまでは家庭が負担をかぶってやりくりしてきた。だが、それも近年の不況や雇用の激変で支えきれなくなっている。
所得が高い世帯の子どもばかりがいい教育を受けるような形で固定化されたら、社会は活力を失う。戦後教育の基本となった「機会均等」がますます希薄になることへの危機感は大きい。
広井良典氏らの考え方は、社会政策と教育政策を連動させることで「人生前半の社会保障」を充実させ、職業訓練や事業創造などにつなげて人生中盤から後半のリスク要因を小さくしようというものだ。文科省はこの考え方を取り入れつつ、「社会保障費」として教育財源を確保しようと考えている。
この動きは、旧来の教育行政の転換につながる可能性がある。文科省と厚生労働省で縦割りになっている教育・社会保障行政の見直しにもなる。最近の政策決定を審議する場では、狭くマンネリ化した教育の世界の枠を超えて政策を立案しようとする姿勢も見られる。
政府・文科省がこれまでの政策と調整した上で社会モデルを具体的に描き、財源確保の道筋を示したとき、「新たな流れ」が現実味を帯びてくる。
http://www.asahi.com/edu/tokuho/TKY200906210084.html
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