2012年3月30日金曜日

法人化と大学改革(1)

国立大学の法人化からちょうど8年が経過しました。これを機に、関係者の皆様は、果たして法人化は国立大学に何をもたらしたのか、制度構築の意図は十分に達成されたのかなどについて、改めて考えてみるのもいいのではないでしょうか。そのための参照文献として、今回から、澤 昭裕さん(当時、独立行政法人経済産業研究所コンサルティングフェロー)が書かれた「国立大学法人法と国立大学改革」と題する論考を抜粋し数回に分けてご紹介することにしました。

この論考は、国立大学法人法が国会で成立した平成15年に、「国立大学法人法の問題点を分析し、法人化の本旨に沿った大学改革を実現するためには、どのような点に注意していくべきか」について提言を行うことを目的として書かれたもののようですが、半年後には、全ての国立大学が法人化されようとしていた当時における識者の優れた見方・考え方が合理的に整理されてあり、その内容と8年が経過した「いま」との対比の中で、今後の国立大学を占うこともできるのではないかと思います。


(途中略)国立大学制度の問題点は、枝葉末節まで含めれば数限りなくあろうが、法人化による改革の最大の眼目は、文部科学省という行政機構と国立大学とのもたれあい構造を打破するとともに、国立大学間においても護送船団方式による一律の改革に陥らず、いかに個性を発揮した競争構造を構築していくか、という点にある。私立大学を含め、大学間の教育・研究両面にわたる競争が促進され、グローバルに通用する研究や人材(逆にローカルを支えていく技術や人材も)が、それぞれの国立大学から輩出されるよう改革を進めることが重要である。

本稿では、法人化の基本を定めている国立大学法人法を読み進めながら、その問題点を指摘するとともに、条文の趣旨を徹底させていくためには、実務上どのような工夫を講じていかなければならないかについて検討することとしたい。


1 国立大学の存在根拠・・・国立大学法人法「別表」に記載

各大学の存在自体が、法的にどのような形で規定されるのかという問題は重要である。大学ごとに法人化するという点は、文部科学省の調査検討会議においても合意されていたが、最終的には国立大学法人法では別表に各大学の名称が列挙されることとなった。

独立行政法人の場合、各法人全てに横割り的に適用される組織運営原則を、独立行政法人通則法という法形式で定められ、それとは別に個別組織の設置法が制定されている。このことによって、他の独立行政法人の政策的意義付けやミッションに変化がなくても、ある独立行政法人は、環境の変化に応じて自己のミッションや業務を変化・展開させていくことが可能となっている。

行政の常識からすれば、国立大学のミッションは大学によってそれほど異なることはないという考え方が一般的であろうし、各大学ごとに設置法を制定するべく約90本もの法案を一国会で審議・成立まで持っていくことは、実際上不可能に近いことから、今回の国立大学法人法のように別表方式が選択されたものと考えられる。

しかし、これでは大学の多様化・個性化という大学改革の基本的方向性に逆行すると言わざるをえない。大学には、教育と研究を軸とする共通のミッションがあるので、別表方式でもことさら問題はないと考える向きもあろうが、行政実務家の観点から見ると、個別法方式と別表方式では、将来の法改正の可能性に関する認識において、雲泥の差がある。個別法であれば、例えば産学連携を志向する国立大学法人には、産学共同で設立する会社に対する出資機能を付け加えたり、国立大学法人間で効率化のために事務機構を統合してアウトソースする場合を考えてみると、必要となる法改正が、当該国立大学法人の個別法のみで完結する。一方別表方式では、全ての国立大学法人がそうした事業を希望したり、遂行可能な実力を伴わない限り、法改正まで行おうということにはならないのが、護送船団方式的行政の思考性向である。

今後、国からの研究資金に占める競争的資金の割合が増大していく中で、研究重点大学と教育重点大学の種別化が生じたり、グローバルな競争に参加する大学が出てくる一方で、地域との連携を強める大学の数も増すといった事態が生じてくる。少なくとも政策として、大学間競争を促進し、こうした本格的な多様化を指向するならば、中期計画の差別化のみで実現できるものではない。個別法で自己の存在が規定されておれば、自大学のミッションを他大学と差別化することを法的に明確にしながら、経営体としての意思決定組織やガバナンスの仕組みに工夫を凝らして、民営化するなどの設置形態の変更を目指したり、国境を越えた大学間連携をも模索することが、比較的容易に可能となる。究極、大学の自己責任による選択を制度的に担保するのは、各大学個別の設置法であるといっても過言ではない。

国立大学法人法の「別表」扱いで、一大学の発想やチャレンジだけでは制度を変革できないのであれば、一つの護送船団方式が別の護送船団方式に変わっただけに過ぎない。全ての国立大学が文部科学省の一組織に過ぎなかったこれまでと同様、一律の枠組みの中で、自由な経営展開を阻むばかりか、またもや法人制度を運用する行政への依存体質を強めるだけにならないか危惧される。立法実務的な観点から別表形式が選ばれたとするならば、上記のような問題意識にどのような考慮が払われたのか、明確にしておく必要がある。しかし、この点については、調査検討会議、国会審議はもちろん、法人化反対論者も含めて議論されたことはなく、今後に禍根を残したといえよう。(続く)

2012年3月29日木曜日

大学教員への転職

大学の教員になる方法・文系の巻」(文部科学教育通信 No.287 2012.3.12)(教育評論家 梨戸茂史)をご紹介します。


サラリーマンであれ、何であれ職業人が、途中から大学教授になるのは、なかなか大変だ。その苦労を”1勝100敗!”と表現した人がいる。元役人の中野雅至氏が書いた「1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記」(光文社新書)。副題は「大学教授公募の裏側」だが裏話ではなく「苦労」話だ。

今は、ほとんどの大学の教員は”公募”が原則。実際には有力候補が学内にいても”公募”が建前。うまくすると良い人が出てくるかもしれないし・・・。

意外だったのは、同氏のような社会人出身の大学教員の割合だ。もちろん、理系で企業の研究所からやってくるいわば横滑り?のような方々も含んではいるのだろうけれど、2007年度で36.7%もいる(松野弘「大学教授の資格」)。

そこで、社会人から大学に行く方法として、中野氏があげる4点がポイント。まず、大学教授への転身には時間がかかるから「忍耐強くやる」こと。第ニは「学会活動が重要」。三番目は学者の評価は論文で決まることから「論文を書くべき」。最後は「大学院で博士号をとる」こと。それと重要なのは、「分野」。社会人だから何らかの仕事をしているわけで、それを研究分野にすることだ。

同氏の体験論から、経済学関係でいえば「開発や経済発展」の分野を専門にしようと思ったが、相談した先生いわく「・・・たとえば、東大の経済学部を出て、ハーバードやイェールなんかの超一流大学でPh.D(博士号)を取って、世銀(世界銀行)やIMFでの勤務経験があるような奴が公募に応募してくんねんで。君、こんな人に勝てまっか?」だ。ある意味、自分の仕事の狭い?分野を極めることが成功につながりそうだ。

「博士号」に関しては、実務家としては必ずしも必要ないようだが、実務の実績だけでは不十分なことがあり、一方で、学問の世界のルール(博士号をもち、学術論文が書けること)が分かっているとみなされることと、将来、どうせ論文を書いて認めてもらう必要があるのだからその訓練としても重要なことだと言う。「実務家としての賞味期限はせいぜい5年程度」(同書)との意見は貴重だから、サラリーマン時代に書く訓練をしておく意味は大きい。

ところで、学術論文は、仮説・実証(調査)・結論と流れる。サラリーマンの職場は、仕事でストレスがいっぱい。これを「仮説」で、「どうして役所の意思決定は遅い」とか「利害調整過程でここまで歪むのか」など考えれば、実は論文を考える”宝庫”だと言う。実務を無駄にしてはいけませんね。学者ではこんな体験はないから有利な点だ。

論文に関して、学会誌に掲載されるコツも必要。学者だけが集う伝統ある分野では、「君の論文は政府の資料だけで書かれている」とか「○○先生の論文が引用されていない」など論文を出す皮に文句を言われ何度も却下されるらしい。そして、「査読」付き論文が重要であることは間違いない。そこで、実際に実務家の論文が掲載されやすい学会誌があるそうだから、これを狙わない手はない。そうして実績を積むことだ。このあたりも懇切丁寧に解説してある。

面白いのは一名採用のケースより、「複数名」の場合が実務家に有利だということ。前者はポスドク組に有利で、純粋に専門分野や学者コースをまっすぐにたどってきた者が採用側にも安心を与える。後者なら少し毛色が変わった者も入りやすいとは言えるのだろう。まあ、この著者の中野氏の場合、どちらかというと中堅サラリーマンからの転職だからちょっと特殊な部分もあるが、ある意味真っ当な努力をしてきた。それにしても「100敗」とは恐れ入る。



2012年3月28日水曜日

漫然ではダメ、意識的に働け(土光敏夫)

日本人は勤勉だといわれるが、たしかにそうかもしれない。しかし、その働きの中身となると、はたしてどうでしょう?厳しいかもしれないが、僕の目から見ると、どうもそうは思えないんだな。働くという字には「人べん」がつく。人が動くから「働く」。ところが、実際には「働く」のニンベンが消えて、ただの「動く」になっているような面が多々ある。肝心の人間がみずから「人」を放棄しているわけだ。

工場などは、システムで動いているからサボるわけにはいかんけれど、外回りの社員たちは喫茶店で時間を潰したり、ひどいのになるとパチンコ屋で遊んでいたりする。それでも成績を上げてくれればいいが、世の中、そんなに甘くありません。

工場のシステムに組み込まれていても、ただ漫然と仕事の流れに身を任せている人と、意欲をもって働く人とではやがて大きな差が出る。ちょっとした心遣い、人より一歩先をみることができるかどうか。これは能力のあるなし、頭の良し悪しに関係ない人間の姿勢自体の問題です。


2012年3月27日火曜日

責任のある仕事(ドラッカー)

自らの成長のために最も優先すべきは卓越性の追求である。そこから充実と自信が生まれる。能力は、仕事の質を変えるだけでなく人間そのものを変えるがゆえに、重大な意味をもつ。能力なくしては、優れた仕事はありえず、自信もありえず、人としての成長もありえない。

何年か前にかかりつけの腕のいい歯医者に聞いたことがある。「あなたは、何によって憶えられたいか」。答えは「あなたを死体解剖する医者が、この人は一流の歯医者にかかっていたといってくれることだ」だった。この人と、食べていくだけの仕事しかしていない歯科医、平凡を旨としている歯科医との差の何と大きなことか。

組織に働く者の場合、自らの成長は組織のミッションと関わりがある。それは、この教会、この学校での仕事に意義ありとする信念や献身と深い関わりがある。仕事のできないことを、設備、資金、人手、時間のせいにしてはならない。それではすべてを世の中のせいにしてしまう。よい仕事ができないのをそれらのせいにすれば、あとは堕落への急坂である。

非営利組織のリーダーにとっては、人の成長を考えることは必須のことである。人は組織とビジョンを共有するからこそ非営利組織で働く。何も得ることのないボランティアが長く働いてくれることなどありえない。金銭的な報酬を得ていないからこそ、仕事そのものから多くを得なければならない。

非営利組織の側にしても、これまでずっとそこにいたから、そのままい続けたいというような、大義を失った人たちを抱えていたくはない。事実、成果に焦点を合わせた優れた非営利組織では、そのような色あせた人たちがい続けられないほど、多くの時間と仕事を要求しているはずである。

非営利組織においては、建設的な不満を醸成しなければならない。有給のスタッフやボランティアが、夜の会議に疲れて、「みんな、なんてばかなのか、どうしてやるべきことをやらないのか」と大声で文句をいい合いながら帰途につく。それでいながら、では、なぜ辞めてしまわないのかと聞かれれば、「とても大事なことだから」と答える。そのような組織をつくり上げる鍵は、全員が、目的の達成には自分の存在が不可欠であると実感できるように仕事を組織することである。


2012年3月21日水曜日

競争は能力を開花させるか

ブログ「教育の危機と再生」(内田樹の研究室)から抜粋しご紹介します。


教育崩壊の最大の原因は、子どもたちを競争的環境に投じて、数値的に格付けして、点数順に社会的資源を傾斜配分するというシステムにしがみついていることです。点数の高いものには報酬を与え、低いものには罰を与えるというこの査定システムの本質的な貧しさと卑しさが子どもたちを学びから遠ざけている。学校そのものが子どもたちの潜在能力の開花を阻害し、健全な子どもたちをそこから脱落させている。そして、日本の学校をうまく逃れた若者たちだけが輝いている。これは日本の学校教育にとって恥とすべき事態だと思います。

では、危機にある日本を再生するためにどうすればいいのか。言い古された言葉ですが、日本の未来を担うのは子どもたちなんです。どうすれば、本当に日本の未来が担えるような、知的で、感情豊かで、器が大きくて、目元が涼しくて、話がおもしろくて、包容力があって・・・そういう輝く子どもが育ってくれるのか。学校教育に携わる人間は何よりもそれを考えるべきでしょう。試験で計れる点数なんか、極端な話、どうだっていいんです。

武道の道場では相対評価ということをしません。誰より誰が強いとか、巧いとか、そういうことは原則として話題にしないし、すべきでもない。だって、入門してくる時もばらばらだし、性別も年齢も身体能力も違うから比較する意味がない。

他の条件を同一にすれば、強弱巧拙は比較可能ですけれど、武道というのは「他の条件を同じにした場合に、どちらが強いか」というような気楽な話をしているわけじゃない。いつ、どこで、どういうことが起きるかわからない。どうしていいかわからないその危機的状況をどうやって生き延びるか、その生きる知恵と力を開発することが修業の目的なんです。それは他人と比較するものじゃない。比較する対象があるとしたらそれは「昨日の自分」だけです。自分自身の経時的変化をモニターすれば、自分が今やっている稽古方法が正しいかどうかは点検できる。

でも、その経時的変化にもいろいろある。すぐに上達するけれど、その後、長い停滞期に入る人もいる。あれこれ迂回したけれど、その寄り道のすべてが滋養になって開花する人もいる。いろんな人がいます。でも、稽古を続けていれば全員必ず開花するんです。よほど自分自身を縛り付けて成長することを拒否している人以外は、必ず上達する。とくに学校体育で劣等生だった人が10年20年の稽古のあと、爆発的に身体能力が開花することがある。これは感動的という他ありません。

それと同じことがなかなか学校では起きない。それは年次ごとに、ここまでという到達目標を設定し、同学齢集団をまとめて、その内部での相対的な優劣をうるさく論じているからです。格付けの高い子どもに資源を集中して、格付けの低い子どもには罰を与える。こんなシステムで才能が開花するはずがない。子どもたちはみんな実はすばらしく個性的な才能を持っているんです。でも、あまりに個性的なので、何がトリガーになって開花するのか、誰にもわからない。教師にもわからない、親にもわからない、もちろん本人にもわからない。

だから、学校ができるのは手を変え品を変えて子どもにアプローチすることしかないんです。こうすればどんな子どもでもうまくいくっていう一般的なマニュアルは存在しません。教える側の僕らにできるのは「手立てを尽くすこと」と「待つこと」だけなんです。

2012年3月19日月曜日

トップの継承(ドラッカー)

やり直しのきかない最も難しい人事がトップの継承である。それはギャンブルである。トップとしての仕事ぶりはトップにつけてみないとわからない。トップへの準備はほとんど行いようがない。大統領選挙にしても、われわれにできることといえば、神がアメリカを見捨てることのないよう祈ることだけである。同じことは、それほど偉くはないトップのポストについてもいえる。

しかし、してはならないことは簡単である。辞めていく人のコピーを後継にすえてはならない。辞めていく人が、「30年前の自分のようだ」というのならばコピーでしかない。コピーは弱い。

また、18年間トップに仕え、ボスの意向をくむことには長けているものの、自身で決定したことは何もないという側近も注意したほうがよい。自分で決定する意欲と能力のある人が補佐役としてそれほど長くとどまることはあまりない。

さらにまた、早くから後継者と目されてきた人物も避けるべきである。そういう人は、多くの場合、成果が必要とされ、評価され、失敗も犯しうる立場に身を置くことのなかった人である。傍目にはよいかもしれないが成果をあげる人ではない。

では、トップの継承にあたっての前向きな方法は何か。まず、仕事に焦点を合わせることである。これからの数年何が最も大きな仕事になるか、次に、候補者がどのような成果をあげてきたかを見ることである。こうして、組織としてのニーズと候補者の実績を合わせればよい。

つまるところ、非営利組織の成否を決めるものは、やる気のある人たちをどれだけ惹きつけ引きとめられるかである。この能力をなくしたとき衰退が始まるのであり、逆転は不可能に近いというべきである。われわれは、得るべき人材を得ているか。活躍してもらっているか。そのような人材を自ら育てているか。人事に関して考えるべきことばこの三つだけである。

われわれはこの組織を喜んで任せたいと思う人たちを惹きつけているか。彼らを引きとめ、刺激し、認めているだろうか。われわれ以上になってもらうために、彼らを育てているだろうか。いい換えるならば、われわれは人事によって明日を築いているだろうか、それとも安易な日常に満足しているだけだろうかということである。


小便しながらでも報告せよ(土光敏夫)

社長でも、権限を譲っていない人がいる。それはおかしい。事業部長に権限を与え、事業部長もまた下の者に与える。すると、社長や事業部長のポケットに何も残らないかといったら、そうではない。責任は全部残る。権限は全部与えても、責任は百パーセント残っているのだというのが、ボクの主義だ。

だから、絶えず注意していなければダメで、権限を委譲された者は、必ず必要なレポートをすることが責任だ。決して一方通行ではならない。例えば、廊下などで会ったときに、「あれはどうなったか」と聞いた場合、すぐに返答が出来ないようではダメだ。あるいは、お互いに便所に行ってならんで小便をしながらも、話が通じるようになっていなければいけない。椅子に腰かけて報告を聞くとか、意見を聞くのなら、何時間でも聞けるけれども、それは、長たらしい報告になるだけだ。報告書は結論を先に書くべきで、結論を読んで判らなければ、あとの報告のところを読んでみる、ということにしたい。


2012年3月15日木曜日

国家公務員の給与減額支給措置への対応

消費税や復興経費の財源確保のための公務員叩きがますますエスカレートしていますが、各国立大学法人では現在、「国家公務員の給与の改定及び臨時特例に関する法律」の成立を受けた対応について頭を抱えています。

去る3月6日付けで、総務省行政管理局長から、各府省官房長宛に「独立行政法人における役職員の給与の見直しについて」と題する事務連絡が発出されています。主な内容は以下のとおりです。


国家公務員の給与については、第180回国会において、国家公務員の給与の改定及び臨時特例に関する法律(平成24年法律第2号)が成立したところ。これに関し、「国家公務員の給与減額支給措置について」(平成23年6月3日閣議決定)及び「公務員の給与改定に関する取扱いについて」(平成23年10月28日閣議決定)においては、独立行政法人の役職者の給与について、「法人の業務や運営のあり方等その性格に鑑み、法人の自律的・自主的な労使関係の中で、国家公務員の給与の見直しの動向を見つつ、必要な措置を講ずるよう要請する」とされているところである。ついては、各府省におかれては、貴管下の独立行政法人に対して、これらの閣議決定の趣旨に沿って、国家公務員の給与見直しの動向を見つつ、各独立行政法人の役職員の給与について必要な措置を講ずるよう要請されたい。


上記の事務連絡を受け、3月8日には、文部科学省大臣官房長から各国立大学法人学長など宛に「独立法人における役職員の給与の見直しについて」と題する事務連絡が発出されています。上記総務省行政管理局長からの通知を受けお知らせするというスタンスになっていますが、要は「法人の自律的・自主的な労使関係の中で、国家公務員の給与見直しの動向を見つつ、貴法人の役職員の給与について必要な措置を講ずるよう要請する」といった内容、つまり「君たちも、国家公務員同様、給与を減額しなさい」ということです。

国立大学法人の教職員の給与については、国民への説明責任を果たすため、法人化後も、基本的には、社会一般の情勢に適合したものとなるよう人事院勧告に準拠した給与改定が行われてきました。したがって、今回も人事院勧告見合いの減額については、さしたる混乱もなく処理されると思われますが、それ以外の減額については、各法人内の労使関係により対応が分かれる可能性があります。

また、各国立大学法人の財政力、各法人に配分される来年度予算(運営費交付金)の状況、あるいは、附属学校を有する大学においては、附属学校教員の供給元である県・政令市等自治体の対応状況によって、判断が大きく変わってくるものと思われます。

給与の減額については、税金が投入されている公的機関という立場上仕方のないことと思われますが、裁量を持たされている分、各法人は経営判断に苦しむところです。

2012年3月14日水曜日

大学におけるトップ・ミドル・ロワーの役割と課題(2)

前回に続き、「経営管理の視点から大学の組織変革を考える」(吉武博通:筑波大学大学研究センター長、ビジネスサイエンス系教授)(リクルート カレッジマネジメント 173)をご紹介します。


ミドル-取り次ぎにとどまるか変革の起点となるか

経営組織として企業と大学を比較した時に、最も大きな違いがあると考えられることの一つがミドルの働きである。

ミドルアップダウンという概念が示すように、日本企業においてはミドル、とりわけ課長が重要な役割を果たしてきた。組織構造上、課が仕事のまとまりであり、課が機能することで会社全体が動く。それゆえに入社すると課長への昇進が当面の目標になり、そこに向かって研鑽を重ねることになる。最近は様相も変わってきているが、実務最前線の組織単位を率いる課長の役割が重要であることに変わりない。

ちなみに部長は経営層と頻繁に接することでその意向を的確に理解し、複数の課を束ねながら、各課長に包括的な指示を与え、その職務遂行を促すことを主たる役割としている。課長が実務第一線の責任者であるのに対して、部長は経営と実務を強く結びつける役目を負っているといえる。

大学の場合は、企業に比べて課長や部長の存在感が希薄な印象を拭えない。もちろん、国公私立間、あるいは大学間や部署間で違いがあり、個人差もある。新たな施策が次々に展開され、活力や勢いを感じる大学には、比較的若く行動力ある課長が少なくない。その一方で、大学全体で見れば、経営と実務の間の情報の取り次ぎにとどまっている部課長が少なくないように思われる。部課長層の保守的な姿勢が変革を妨げる要因の一つとなっていることも考えられる。

これらの事柄については、印象論にとどめず、実証的に現状を明らかにする必要があるが、まずはそれぞれの大学の実態がどうであるか、大学ごとに自己点検する必要がある。

仮にここで指摘したような課題があるとしたら、トップマネジメントによる部課長層の使い方、責任・権限や機能分担などの組織設計、部課長の配置・選抜、そこに至る育成環境や昇任後の学習機会、組織文化など、どこに問題があるかについて十分に検討する必要がある。

その上で、既に部課長層にいる人材については、適切な刺激を与えつつ、個々人の知識や経験を活かした活用方策を考えていかなければならない。同時に、将来の部課長人材を効果的に育成するための、キャリアパスやトレーニングの仕組みを検討する必要がある。そのためにも部課長層に求められる役割を部長層と課長層に分けて大学として明確にしておくことが重要である。

ミドルがトップとロワーの単なる取り次ぎにとどまるのか、トップを動かし、ロワーに活力を与える、変革の起点となり得るのかが、大学の将来を左右する極めて重要なポイントであることは確かである。


ロワー-多様な価値観の尊重と成長実感の重視

大学職員は、教育研究への貢献、学生とのかかわり、語学力や専門知識の活用、雇用や生活の安定など多様な魅力を持った職種であり、さらに近年は大学経営や教育・研究・社会貢献等により積極的にかかわりたいと考える者にとって、挑戦し甲斐のある職場として、その魅力を増しているようである。それゆえに、同じ職員間でも動機や価値観を異にすることが多く、世代間での意識やキャリア的背景に開きが生じることも少なくない。

これらはミドル・ロワーを通した職員組織共通の特徴だが、とりわけ実務第一線を担う一般職員層に働きかけるにあたって、彼ら彼女らが仕事や職場に何を期待しており、どこを刺激すれば力を引き出すことができるのかを知ることが全ての出発点となる。その上で、多様な価値観の尊重と成長実感を重視した配置・育成を心がける必要がある。

ただ単に職員におもねることではない。職員共通に求めるものを明確化し、仕事の基本を確実に身につけさせた上で、キャリアパスや働き方について個々人の動機や価値観を尊重することに意味がある。

その点からも複線型人事は有効な方法の一つとなり得る。複数部門を経験しながらジェネラリストとして上位職層に向かうコース、特定の専門分野で上位職層に向かうコース、一般職員層にとどまり実務を担い続けるコースなどが考えられるが、2つめのコースについても部下を率いる役職と部下なしで高度な職務を担当する役職の2類型があり得る。このような点を踏まえ、従来の枠組みに捉われない組織・役職制度を自校の特質に合ったものとして設計する必要がある。

なお、これらの制度変更を行うことで、既に部課長に登用されている人材も、その適性や経験により、処遇条件を変えずに、部下を率いる役職と部下はいないが高度な実務を自己完結的に担当する役職に再配置することができる。

成長実感は、職業人生を通して常に大切であるが、とりわけ20代や30代の職員を動機づけ、職務遂行能力を高める上で極めて重要な要素である。

試行錯誤の中からより良い業務処理方法を見出したとき、問題と格闘した挙げ句にそれを解決したとき、提案を上司や周囲が受け入れてくれたときなど、自身の成長を実感できる様々な場面があるはずである。

このような機会や環境がどの程度整っているか、トップやミドルは絶えず目を配り、組織編成、人の組み合わせ、人事ローテーション、賦与する業務、仕事の仕方などを考えていく必要がある。

この層を構成する職員自身も、受け身に構えるのではなく、周囲の環境は自分で整え、機会は自らつくり出していく気概としたたかさを持たなければならない。例えば、与えられた仕事の目的を問い直し、より有効で効率的な方法に変えてみる。小さな改善の積み重ねが、自身の成長につながり、周囲を少しずつ動かしていくのである。


経営管理の要諦である対話を根気強く続ける

これまで述べてきた事柄は短期間で一気に実現できるものではなく、手順の踏み方が重要になる。まず取り組むことを一つだけ挙げれば、全ての職員に、自分の持ち味は何で、自分に何ができ、何をやりたいのか、配慮して欲しいことは何かなど自問自答させた上で、上司または人事担当者がそれをじっくり聞き込むことである。その後に、今度はトップが上司や人事担当者の報告を受け、彼らが職員との対話から何を理解し、どういう手を打とうとしているのかを聞く。

このようなプロセスを繰り返すことで、かかわった全ての人々の頭が整理され、トップ・ミドル・ロワー相互の理解も深まっていく。

経営管理の要諦は対話である。変革は急がなければならないが、対話だけは時間をかけてかけ過ぎることはない。理解が深まるまでの根気も必要だ。

2012年3月13日火曜日

大学におけるトップ・ミドル・ロワーの役割と課題(1)

経営管理の視点から大学の組織変革を考える」(吉武博通:筑波大学大学研究センター長、ビジネスサイエンス系教授)(リクルート カレッジマネジメント 173)をご紹介します。


危機を好機として経営管理を根付かせ進化させる

欧州債務危機、未曽有の円高や資源価格の高騰、未だ道筋の見えない財政・社会保障改革など、国内外の経済情勢は混迷の度を深めている。我が国の名目国内総生産は過去20年近く停滞したままであり、2011年の貿易収支も31年ぶりの赤字となった。

大学を取り巻く環境が予想を上回るスピードで厳しさを増す中、それぞれの大学は危機感をバネに改革を加速させる必要があるが、その動きは総じて緩慢といわざるを得ない。最大の原因は、当事者意識をもって変革をやり抜く強い意志や一体感の希薄さにあると考えられる。

大学には、経営と教学の関係、執行部と学部の関係、教員と職員の関係など、特有の構造がある。その結果、改革が進まない原因をこれらの構造に求めたり、それぞれの立場でやるべきことを徹底せずに、他を批判したりといった傾向に陥り易い。

大学の本質を考えると知の共同体としての枠組みはこれからも重視されるべきだが、強固な経営組織による支援なしにそれを維持することはできない。大学に特有の構造を一旦脇に置いて、大学を、理事長または学長をCEOとし、職員を主たる構成員とする経営組織と捉えた場合、その構造や性質は企業などと大きく違わないものになる。そう考えることで、危機を乗り越えた企業の事例に学ぶこともできるし、特有の構造を言い訳に変革を遅らせることも許されなくなる。

企業はどのようにして危機を乗り越えるのだろうか。経験的には、トップの決意や方針が明確であること、それが具体的施策に落とし込まれていること、構成員がそれぞれの立場で何をすべきかが分かっていること、成果が見えることが活動の持続・発展に繋がっていること、などが重要な要素になると考えている。

これらの事柄は、危機に直面したからといって直ちに実現できるものではない。経営組織を組織として機能させるための考え方や方法論が必要になる。それが本稿でとりあげる経営管理である。

大学において処理すべき業務は足元で着実に増加し、その難度も高まる傾向にある。何ら手を打たなければ、これらの業務をこなすだけで力を消耗し、危機を乗り越える術も活力も持たないまま淘汰されてしまう可能性すらある。

個々の大学に相応しい経営管理を確立することで、構成員に強い当事者意識が生まれ、より一体となった取り組みも可能となる。危機を、経営管理を根付かせ、それを進化させる好機と捉えるべきではなかろうか。


トップ・ミドル・ロワーの3層全ての機能を点検

経営管理というと上位者が下位者を管理するイメージが拭えないが、管理する側と管理される側、命令する側と命令を受ける側といった関係だけでは組織は機能しないし、活力も保てない。

トップ、ミドル、ロワーという3つの層が、それぞれの役割を正しく理解し、必要な知識・能力を身につけ、各層間で活発に情報のやりとりをし、意思疎通することで、組織の活性を維持・向上させることができる。トップダウンかボトムアップかが問われることがあるが、両方が必要なことは明らかである。また、野中郁次郎一橋大学名誉教授の言うミドルアップダウンも重要な要素である。ミドルが起点となってトップに提案したり、トップの方針をロワーに伝えて、第一線の実務を動かしたりするスタイルは日本的経営の強みと言われてきた。

なお、ロワーという用語には違和感もあるが、経営を論じる際に比較的よく使われていることから、管理職層ではない一般社員・職員層を指すものとして用いることにした。

組織が上手く機能し、高いパフォーマンスを上げている企業は、前述の通り、トップ、ミドル、ロワーがそれぞれの役割を果たすと同時に、各層間の活発なやりとりを含めて組織全体が一つの方向に力強く進んでいくイメージがある。危機に直面した企業が変革を成し遂げるためには、これらの要素は不可欠である。

このような観点で大学の経営組織を点検してみる必要がある。理事長や学長は、部課長層や一般職員層の意識や能力に不満を感じ、それを口に出していないだろうか。部課長層は一般職員層が期待したアウトプットを出さないことに苛立ちを感じていないだろうか。一般職員層は理事長・学長の方針の不明確さや部課長層の保守的な姿勢に不満や失望を感じていないだろうか。

改革の不首尾の原因を、教学との関係や教員の意識だけでなく、同じ経営組織内における他の職層や他部門の者に求める傾向が強い場合は、組織体質そのものに根本的かつ構造的な問題があるといわざるを得ない。

以下、トップ、ミドル、ロワーの順に、大学の経営組織において、何が本質的な課題となるかについて考えていきたい。


トップ-人を活かすためのリーダーシップ

大学経営を担う人材の育成が急務であることは様々な場で指摘されているが、経営管理という観点からみて、CEOとしての理事長や学長に不足しているものがあるとすれば何であろうか。

経営管理の定義は「人をして物事をなさしめること」と言われているが、人を活かし、その能力を組織目的の実現に結びつけること、その点に最大の課題があると考えている。

高い学識を有する教員出身者や創設の理念の継承者など、大学を率いるに相応しいリーダーも、人に使われたり人を使ったりする苦労を重ねながら、マネジメントの階層をあがるという経験は少ないのではなかろうか。企業出身者をトップに据える例も見られるが、大学の特質への理解を含めて常に適材が得られるとは限らない。

権力や権威だけでも人を動かすことはできる。ただ、それだけでは、最低限の仕事や指示した事柄は行っても、トップの注意や関心が及ばないところでは何も進まなかったり、問題が発生しても放置されたりという状況に陥りやすい。リーダーに対する信頼や尊敬の度合い、役割の与え方や職務の内容などによって、人の動き方は変わってくる。また、近年では、部下の職務目標の達成を支援したり、部下に参画意識を持たせたりといったスタイルも、リーダーシップの在り方として重視され始めている。

これらのことを考える契機とする意味でも、リーダーシップや動機づけなど経営管理の基本を学ぶことは有益である。大学トップを対象としたセミナーでは、高等教育を取り巻く情勢や時々のホットイシューが中心になりがちだが、経営管理の要点を体系的に理解したり、人を活かすことで危機を乗り越えてきた経営者の話を聴いたりすることで、あらためて気づくことがあるはずである。

また、日常的な業務執行を常務理事等に委ね、実務を統括させるといったやり方もあるが、その場合は、現場の実情を的確に把握する力を有し、部課長層や一般職員層の信頼を得ることのできる人材であるかどうかを見極める必要がある。トップに気に入られている人だ
からといった冷ややかな見方が広がれば、組織の活力や一体感は保たれない。

部課長や一般職員層との直接対話は、トップの考えを伝え、現場の意識や実情を理解し、相互信頼を確かなものとするためにも有効である。職員数だけで考えれば、大半の大学は決して大規模な経営組織ではない。第一線の職員との距離を縮め、対話の機会を頻繁にもつことで、組織の動きも変わってくる。

以上述べたような事柄をトップは絶えず意識しておく必要がある。トップに対する規律づけのメカニズムをどう構築するかはガバナンスの問題だが、究極的には自らが厳しく自身を律するしかない。自身を客観化しつつ、内省を繰り返す中で、リーダーとしての自己を成長させていく、それによって経営組織も進化していくはずである。(続く)

2012年3月12日月曜日

戦略的大学経営に資する職員の専門能力の開発(4)

前回に引き続き、「大学経営の専門職養成」(大場淳)をご紹介します。


2 大学経営の専門職養成へ向けての課題

最後に、大学経営の専門職養成に向けて重要課題と思われる、大学職員のキャリア開発、専門職団体、大学院教育についての私見を述べることとしたい。


(1)キャリア開発

キャリア開発支援やそのための環境整備については、各大学が、それぞれの組織目標等に従って、将来を見据えて人材育成のために制度整備を図らなければならない。しかし、一つの大学ができ得ることには限りがある。最も大きな障害となるものの一つが、それぞれの職員のキャリアに対応できるポスト数には限界があることであろう。学生市場の拡大が見込まれるときには、組織の拡大によってポストを創設することが可能であるが、今の大学にとってその見込みは極めて小さい。大きな企業が社内公募制を設けて疑似労働市場を組織内に作る例が見られるが、教員が多数を占めつつある大学内の職場は限られており、もとより小さな大学では望むべくもない。

根本的には、大学職員の流動性が高まり、その労働市場が成長していくのを期待するしかないが、特定のポストからでも大学内外に対して公募して、意欲のある人材を確保することは有効であると考えられる。長らく国家公務員で占められていた国立大学の事務職員職は、法人化によって国家公務員以外からの採用も可能となったが、愛媛大学は、法人化に先んずる平成15年11月、国立大学の事務幹部職員としては初めて就職課長を公募することとした(平成15年11月14日付中国新聞)。このような方策が今後広がっていくとともに、採用された後も、新たなキャリアが追求できるようになることが期待される。これまでも、私立大学で民間等での専門性を生かして大学職員として採用された者はいたが、採用後は他の大学職員と同様の人事に組み込まれてしまう例が少なからず見受けられるからである。

また、こうした公募による採用を支援するため、例えば、国立大学協会の広報誌やホームページを活用するなどして、全国の国立大学職員が公募しやすくなる条件を整備していくことが考えられる。米国の高等教育新聞(Chronicle of Higher Education)が、そのホームページと併せて、人材募集の重要な媒体となっていることが参考となろう。

他方、文部科学省が国立大学法人化まで一括管理していた国立大学事務局幹部職員の交流人事については、法人化以前のように一方的に国が職員を送り込むことは無くなったが、依然として行われている。当該人事については、法人化前から国立大学職員の意欲を低下させるなどといった批判があったが、法人化後はそれを公然と批判する声が各所から聞かれるようになった。かかる人事は暫定措置と言われるが、各大学も必要な人材育成に取りな課題となろう。現在、公務員制度の改革が進められているので、それとの関係で対応が図られるものと思われるが、個々人の自らの発意によるキャリア形成が重要になるとの考えに立てば、国立大学の事務幹部職員ポストは原則として全て公募とし、全国から応募を受けて採用するのが望ましい。そして、各人の就業能力(エンプロイアビリティ)を高めるため、キャリア開発への支援の充実が求められる。

また、法人化以前は職員は原則として国家公務員試験合格者からしか採用できなかったことから、産学連携や情報処理等各種専門的な業務に従事している者で教員として採用された者が各国立大学で見受けられる。当該業務の中には、私立大学の多くで教員外職員によって担われている場合が少なくないものがある。これらの者については、職務内容を見ながら、教員とすべきか、職員とすべきか、あるいは別の身分とするのか、職員全体のキャリアの展開を見据えて再検討することが望まれる。検討の結果、外部から採用するよりも、内部から育成していく方が望ましいと思われるポストが出てくるのではないだろうか。


(2)専門職団体の育成

大学職員がそれぞれの専門性を高めるに際して、同じ専門性を持つ者あるいは持とうとする者が情報を交換し、共に専門性について学び、能力開発を進めていくための専門職団体が不可欠である。米国の例を見ても、学内での研修活動は、一般に、大学の歴史や創立の理念の普及活動を除けば、管理職としての能力(紛争解決や人事考課の手法)やコンピュータ技能、語学といった一般的な能力開発活動が中心である(大場, 2004)。専門的な知識・技能は、各職員の自発的な努力に基づいて、主として専門職団体を通して得ている。それに対して、支援(例えば、研究会への参加費用の負担)を行っている大学も少なくない。

我が国においては、大学職員の専門職団体として機能している団体は大学行政管理学会等限られているが、専門職団体は同じ専門性の持つ者の交流を深め、人材発見の場ともなることから、その発展は大学職員の労働市場の発達にも寄与することと思われる。また、米国や英国の専門職団体は、専門職能開発等だけでなく、大学院と連携をとって専門職教育の改善を図ったり(後述)、政府の政策形成にも寄与している。他方、社会のあらゆる組織ががネットワーク化15していく中で、組織と組織を繋ぐ機能を専門職団体は有していくことが期待される。今後、日本においても専門職団体の量的拡大と、その機能の向上が期待される。


(3)大学院教育

米国で多く見られる高等教育分野の大学院は、日本においても広島大学や筑波大学、名古屋大学などで開設されており、大学職員も受け入れている。また、平成13年度には主として大学職員の能力開発のために桜美林大学に大学アドミニストレーション専攻が設置され、また、平成17 年度からは東京大学に大学経営・政策コースが開設されることとなっている。

しかし、MBA等資格と結び付いていない専門職養成のための大学院の多くは、学位修得が昇進に結び付かないなど、その修了者の評価の点において苦戦しており、高等教育領域が昇進に結び付かないなど、その修了者の評価の点において苦戦しており、高等教育領域の大学院も例外ではない。これは、日本型の伝統的な人事の中で大学院教育が位置付けられていないことや、大学院で得られた知識がすぐに職務に役立つといったものではないことが主たる原因と思われる。実際、福留(宮村)の調査結果を見ても、大学人事担当者が職員に必要な能力として多く挙げたのは、「情報を収集する力」、「幅広い視野から職務を見通すことのできる力」、「特定の専門的な知識」、「情報を分析する力」、「問題点を見つけて解決方法を見出す力」といった一般的な能力であって、大学院教育の中で育
成することは不可能ではないものの、必ずしも大学院でなければ得られないという性質のものではない。

高等教育分野の大学院教育が、職場としての大学から求められるようになるには、各大学事務組織等の需要を把握しつつ、必要な能力開発のためのプログラムを提供することが重要である。また、今後発展していくと思われる専門職団体と連携しながら、その会員の能力開発への意欲へ応えていくことも考えられる。米国では、学生関係の諸団体によるコンソーシアム組織である高等教育規準推進評議会(Council for the Advancement of Standards in Higher Education : CAS)が、学生担当職員養成のための大学院に関する指針(Preparation Standards and Guidelines at the Master’s Degree Level for Student Affairs Professionals in Higher Education)を設けて、学位プログラムの質保証を図っている。また、英国では、事務管理職員の団体である大学行政職員協会(Association of University Administrators : AUA)が、開放大学と連携して課程学位プログラムを提供している。

高等教育分野の大学院教育は米国で先行したが、大学が新しい課題に直面しているのはほぼ世界共通であり、欧州やその他の地域でも広がっている。例えば、中国では、2002年、オーストラリアの大学と連携して、教育リーダーシップの修士プログラムが杭州師範大学に開設された。また、フランスのように国(国民教育省)が専門の学校(国民教育高等学院(ESEN))を設置している国もある。日本における大学院教育の普及は今後であるが、大学の幹部職員や専門職員のポストが公募されるようになれば、その準備課程として高等教育分野の大学院教育が活用されることは十分に考えられ、その有効性や課題も明白となっていくだろう。


3 おわりに

本研究の結論の一つは、自立性の高い組織の中で、専門性を有する職員、すなわち専門職がこれからの大学経営の中核となっていく、そして、個々の職員のキャリアを重視した能力開発を進めなければならないということである。今後は、それに向けての具体的な行程表作りが課題となろう。専門職の在り方一つとっても、米国流に専門職団体を中心として職能別に細分化して能力開発が進められるような制度となるのか、英国のように大学職員としてのある程度の同一性を保ちつつ専門化していくのか、あるいは、全く別の道を歩むのか、そして、どのような制度が日本の大学に最も適しているのかなど、検討すべき点は数多い。今後の研究の発展を期することとしたい。(おわり)

2012年3月10日土曜日

戦略的大学経営に資する職員の専門能力の開発(3)

前回に引き続き、「大学経営の専門職養成」(大場淳)をご紹介します。


第2節 大学経営の専門職養成に向けて

1 自ら行うべき人材の育成

第1節で、職員のキャリアに重点を置いた能力開発の重要性に言及し、大学においてもそのための制度整備が重要となることを述べた。とは言え、これをもって、各大学がすぐにでもCDPを導入し、キャリア・カウンセリングを始めるべきなどと主張するつもりは毛頭無い。どの大学でも、人事制度はそれなりの合理性をもって構築され、多かれ少なかれ定着しているものであり、その中で評価制度を軸として採用、異動・昇進、報酬、能力開発等についての管理が複雑に絡み合っていて、その一部を変えたからといってすぐに良くなるものではないからである。

成果主義や目標管理などといった新しい制度の導入については、既に多くの大学で試みられ、その結果については、私立大学の専門誌や教育関係の雑誌等でも報告されている。そうした制度導入を支援するコンサルタント会社もある。しかし、制度の対象は人であるから、すぐに動く性質のものではない。長期的な視野に立って、人を育てる観点から制度設計を行わなければならないことは言うまでもない。

また、それぞれの大学は、固有の歴史や文化、理念、目的、それを実現するための組織構造等を持つものであり、同じではない。このことは、国によって共通に管理されてきた国立大学でも同様である。したがって、自己の大学のことを知らなければ、人事にしろ組織にしろ制度改革は覚束ない。他大学の事例を参考にするにしても、コンサルタント会社を利用するにしても、最後は自ら意思決定をしなければならない。そのためには、自己の大学やそれが置かれた環境を十分に把握し、その長所や短所に精通し、その上で意思決定のための助言を適切にできる職員が学内にいることが不可欠である。これまで、コンサルタント会社にいわば丸投げして失敗した例は、大学に限らず枚挙に暇がない。賃金の成果主義を導入して職員のモラルが低くなった例を良く目にするが、その典型的な例であろう。

国立大学では、法人化後に多数の民間企業出身者を採用した。この中には、財務の専門家として銀行から採用された者や、公営企業の民営化を進めた者としてJR各社から採用された者などが含まれている。また、役員に就任した者や経営評議会の委員となった者を加えれば、民間企業出身者は相当な数に登る。このことは、平成13年6月11日の経済財政諮問会議に文部科学省から提出された「大学(国立大学)の構造改革の方針」において、「国立大学に民間的発想の経営手法を導入」し、「新しい「国立大学法人」に早期移行」することが謳われたことに鑑みれば当然のことであり、経営手法の改革には即効性のある手段と考えられる。

しかしながら、このような形での人材登用は、短期的な成果を得るための「カンフル剤」にはなり得るが、大学が持ち合わせている複雑性に鑑みれば、永続させるべき性格のものではない。金子(2004)は、企業経営の視点は、「組織のスリム化、効率化をはかるという点で重要な役割を果たす」としつつも、大学経営の本質的・長期的な課題については、「企業経営の経験が直接に解決策を与えるとは考えにくい」と述べ、その理由として、大学が「広範な専門分野での教育と研究そして社会サービスと、きわめて多様な活動を内在させている」ことを挙げている。大学経営に専門的な人材が求められる所以であり、そうした人材は、各大学が自ら育てなければならない。すなわち、自ら人を育てない組織は、長らえることができないからである。永続する卓越した企業を研究したコリンズ&ポラス(1995)は、「ビジョナリー・カンパニーは比較企業より遙かに、社内の人材を育成し、昇進させ、経営者としての資質を持った人材を注意深く選択している。後継者の育成を、基本理念を維持する努力の柱にしている」とし、「カギになるのは、健全な変化と前進をもたらしながら、基本理念を維持するきわめて有能な生え抜きの人材を育成し、昇進させることなのだ」と述べている。(続く)

2012年3月9日金曜日

戦略的大学経営に資する職員の専門能力の開発(2)

前回に引き続き、「大学経営の専門職養成」(大場淳)をご紹介します。


2 大学職員のキャリア形成への支援

もっとも、そうした大学経営の専門性を身に付けるのは、全ての職員ではないことは言うまでもない。どのような組織においても、ある程度一定規模以上になれば、職員の役割の分担が不可欠となり、程度の差はあれ官僚制的な組織構造を採らざるを得ない。その上で、コアとなる職員(中核職員)とそれ以外の職員(非中核職員)に分離され、後者は非常勤化乃至外部化されていく(大場, 2003:29)。当該専門性を身に付けていくべき職員は、中核職員であることは言うまでもない。

とは言え、資格の明確な弁護士や医師のように、大学の職員が最初から専門性を有していることを前提とすることはできない。米国の例を見ても、プロフェッショナルとして大学経営に従事する者の専門性は、そのキャリアが形成されていく中で次第に明確になってくるものである6。そうしたキャリア形成の中に、専門職団体や大学院教育といった能力開発のための仕組みが位置付いている。

ところで、企業における職員の能力開発の在り方は、近年、雇用者主導から個人主導へ移行していると言われる。このことは、個人が自己の責任で能力を開発すべきで雇用者側が関与しないということを意味するものではなく、能力開発を含むキャリア開発は雇用者と従業員の協同作業であることは既に述べた通りである。企業の多くでキャリア開発プログラム(CDP)が導入され、それを実施・支援するための、社内公募制、FA制、キャリア・カウンセリングといった環境整備も進みつつある。しかしながら、こういった施策を採用した大学は極めて少ない。平成16年に行われた財団法人社会経済生産性本部の調査によれば、人材マネジメントに関する懸案事項における優先順位で、「従業員のキャリア開発支援」は全17項目中5位(40.3%、5千人以上では43.2%)を占める。仮に同じ調査を大学に対して行った場合、どのような結果が出るであろうか。

高度に複雑となった大学組織を管理し、急速に変わる環境に対応していくためには、第一線で活動する下部組織の自立性を高め、専門性の高い職員を配置していく他はない。ドラッカー(2000:35)は、「組織は、変化に対応するために高度に分権化する必要がある。なぜならば、意思決定を迅速に行わなければならないからである」と述べるが、これは大学についても当てはまるであろう。そして、そういった自立性の高い組織の中核となる専門性の高い職員は、組織が計画的に育成できるものではない。

先に述べたような大学で体系的に進められている研修活動は、いずれにせよ、所属部署や人事部門が主体となって、各大学の組織目的や組織戦略に沿って、職員の職務遂行能力の体系化を図るべく、大学経営にとって必要とされる能力開発を進めるものである。すなわち、各大学の教育訓練ニーズに従って能力開発が行われている訳である。しかるに、自立性の高い組織で必要とされる専門性は、職員が自ら学んで身に付けなければならない。組織ができるのは、それを支援することだけである。舘(2002:5)が、「組織には完全に依存しない彼らのSDは、また、完全には組織には依存しない。それは、大学側から提供されるものは主として機会だけであって、その中身はプロフェッショナル世界からしか供給されないことを意味している」と述べる所以である。

他方、職員個人にとっても、18歳人口が減少していく中、その人生を職場である大学に委ねることは、次第に危険を伴うものとなっている。既に、短期大学でなく、四年制大学でも閉学するところが出始めた。今後、各職員は就業能力を高めつつ、主体的に自己のキャリアを形成していくことが不可欠となろう。

各大学にとって、組織改革等と併せて、キャリア形成支援のための諸制度の整備が、現在の厳しい環境を乗り切り、組織を永続化させるために避けられない。もはや、従来の年功制や終身雇用制、そしてそれに基づいた雇用者主導の能力開発には戻れない。職員の自発性に基づいた能力開発を進めるための制度作りが必要である。そのことは、職場としての大学の魅力を高め、職員のモラルを高めるとともに、優秀な人材が集めるための有効な手段でもある。(続く)

2012年3月8日木曜日

戦略的大学経営に資する職員の専門能力の開発(1)

大学経営の抜本的改革が求められる中、事務職員を中心とした経営人材の養成は焦眉の急であることは関係者の一致した考えではないかと思います。

しかし、大学職員の将来像、あるいは多様な職能開発の手法が論じられる中にあって、職員研究の成果が現場でどれほど有効に実践されているかといえば、甚だ疑問に感じる方も少なくないのではないでしょうか。

少し古くなりますが、今回から数回に分けて、「大学の戦略的経営のための職員の活用及び職能開発に関する研究」(平成14年度~平成16年度科学研究費補助金基盤研究(C)、研究代表者 大場淳氏)の中から「大学経営の専門職養成」に関する論考を抜粋してご紹介します。


大学経営の専門職養成(大場淳)

第1節 大学職員の置かれた環境と能力開発

1 大学職員の能力開発の現状

今日、大学を巡る環境が悪化し、その経営の向上は至上命題となっている。そのためには、それに従事する教職員の能力開発が不可欠であることは言うまでもない。とは言え、能力開発は一朝一夕でできるものではなく、当面直面する課題に対応するため、研修会へ職員を参加させたり、コンサルタント会社に意見を求めたり、あるいは民間から人材を登用するなど、様々な取組を進めているところである。

しかしながら、大学が現在の困難状況を乗り切り、今後とも生き長らえていくためには、長期的視点に立って職員を養成していくことが不可欠である。しかるに、大学職員が置かれた状況は極めて厳しい。国立大学では、かつては教員より多かった職員は数年前に教員の数を下回り、総数が増えている公私立大学においても全体の職員増加率は教員増加率を下回っている。個々の大学では、職員の削減が進められているに違いない。それに加えて、近年、新たな業務である自己点検・評価や情報公開の実施、競争的資金の獲得、国際化への対応など、職員は一層多忙になってきている。その一方で、職員に対する教員の目はこれまで以上に厳しくなっていると思われる。国立大学法人の運営費交付金に適用される1%の効率化係数は、専任教員数に必要な給与費相当額等はその対象から控除されているのに対して、職員の給与は当該係数の対象であり毎年削減されることとなっている。

しかし、これらのこと以上に危惧されるのは、大学自身がその職員の能力開発に熱心に取り組んでいるとは考えられないことである。例えば、減少してきているとは言え、多数(約7割)の企業は、職員(従業員)の能力開発を企業の責任である又はそれに近いと考えているのに対して、大学ではその割合は4割程度にしか過ぎない。大学が置かれた環境が激変する中、ホワイトカラー職種である大学職員にかかる教育訓練ニーズは極めて大きい。それにも関わらず、職員が十分な教育訓練を受けていないことは、懸念されてしかるべきであろう。

もちろん、大学が職員の能力開発を全く行っていない訳ではなく、むしろ、教員の能力開発(FD)と比較すれば、OJTや階層別研修、目的別研修など制度的には体系的に整備されている。学外でも国立大学協会や日本私立大学連盟、日本私立大学連合の研修など、様々な機会が提供されている。大学の中には、職員を大学院に派遣して学習させたり、時には外国の大学に留学する機会が与えられている場合もある。しかし、それが不十分であるとともに、後に述べるようにその在り方の全面的な見直しが求められている。

大学管理の中心は、教員が担うべきという意見も根強い。しかし、学部自治を中心とした教員による大学管理が限界に来ていることは、昭和38年1月28日の中央教育審議会答申で言及されているように、相当以前から指摘されていることである。また、トロウやバーンバウムが述べるように、大学のガバナンスが複雑化するに連れて専門性を帯びることは避けられず、それに対応した管理組織が必要となっている。そして、かかる専門性を誰が身に付けるかという場合、教員と職員のいずれかと問われれば、進んで身に付けようと考えるのはどちらが多いであろうか。

恐らく、研修機会等同じ条件が提示されれば、それに対して意欲を持つのは職員であろう。Rudolph(1962:434)は、19世紀後半から20世紀前半の米国の大学では、高等教育の拡大とともに、様々な職種の管理職員が置かれるようになった理由として、一つには増える学生の受入れや新たなサービスの需要へ対処すること、また、大学管理業務から研究志向の教員を解放することを目的としていたと述べる。この事実から考えても、世界の大学の中でも研究志向の強い我が国の大学教員が、大学管理業務に進んで取り組むとは考えられないことは容易に想像できるであろう。しかるに、既に見たように、大学職員に対して十分な能力開発の機会が十分に与えられていないのが現在の状況である。(続く)

2012年3月5日月曜日

現場の裏通りこそ見よ(土光敏夫)

起工式や竣工式のときだけ、現場に顔を出す幹部は、よそものの神官と同類である。
現場には、銀座通りもあれば、裏通りもある。幹部は裏通りも歩くべきだ。成績の悪い職場や陽の当たらない職場こそ、見るべきだ。
幹部の持つ情報は、とかく単色になりがちだ。本来の情報は天然色なのだが、上に上って来る間にアク抜きされてしまう。
そんな薄まり弱まった情報に基づいて、間違った判断をしていたら大変だ。
単色情報を天然色情報にもどすには、自らの足で現場を歩き、自らの目で現場を見ることだ。
現場の空気を味わい、働く人々の感覚に直に触れることによって、抽象化された情報が、にわかに具象性を帯びて、生き生きしてくる。


2012年3月3日土曜日

チームを編成する(ドラッカー)

組織が仕事をするにはチームにならなければならない。トップが優秀であってスタッフが献身的であるにもかかわらず、チームをつくれないために失敗する組織は多い。優れたリーダーといえども、部下を助手として使っていたのではたいしたことはできない。組織は、一人の人間ができることを簡単に超えて成長する。

しかもチームは、自動的に育つものではない。チームをつくるには系統立った作業を必要とする。チームをつくるには人から始めてはならない。なされるべき仕事から始めなければならない。「なされるべきことは何か」を考え、次いで「鍵となる活動は何か」を考える。

チームの編成とは、メンバーの強みを知り、その強みを鍵となる活動に割り当てることである。働き手を配置することである。

よくある間違いは、同じチームにいる者として、みな同じように考え、同じように行動するものと思い込むことである。しかしチームの目的は、メンバーの強みをフルに発揮させ、弱みを意味のないものにすることである。こうして一人ひとりが力を発揮する。大事なことは一人ひとりの強みを共同の働きに結びつけることである。

なされるべき仕事と一人ひとりの強みとのマッチングの後、必要とされる大切なことが二つある。一つは、全員が自らのなすべきことを明確にすることである。もう一つは、全員がその自らがなすべきことをなすうえで必要なことを考えることである。

そのうえで上司、同僚、部下に対し、「こうしてもらえれば助かる。これは困る。私がお役に立っていることは何か。邪魔になっていることは何か」と聞いて回ることである。これで八割方はうまくいく。ただしメモで聞いてはならない。直接会って聞かなければならない。

半年ごとに聞いて回りさえずれば、仕事の障害のほとんどはなくなる。非営利組織のリーダーにとっては、仕事をしたがっている人、仕事をするために来ている人、仕事をする能力をもっている人に、仕事をしてもらうことが最大の責任である。彼らが必要とする道具と情報を提供し、彼らをつまずかせる障害、邪魔になる障害、仕事を遅らせる障害を除去しなければならない。

それらのものが何であるかを知る唯一の方法が、彼ら自身に聞くことである。想像してはならない。直接聞かなければならない。

組織が成長するにつれ、非営利組織のリーダーたる者は、組織の全員に対し「リーダーである私が知るべきことは何か」を考えてくれるよう頼まなければならない。私はこれを「ボス教育」と呼んでいる。しかも、これを考えることによって、組織に働く者全員が、自分の仕事、部署、担当を超えた発想をするようになる。こうして組織の一体性が確保される。

兵士には有能な指揮官をもつ権利があるという。非営利組織のリーダーには、組織に対し、有能なスタッフを配する責任がある。成果をあげられない者をい続けさせることは組織に害をなし、大義に害をなす。

最もよく見られる問題は、22年同じポストにあって仕事に感興をもてなくなった人の処遇である。あまりに長い間同じ仕事をしていれば、誰でも飽きがくる。解決策は、植え替え、すなわち働く場所を替えることである。事実、企業の経理から病院の経理に替わって生き返る人は多い。仕事はほとんど同じである。用語が若干違うだけである。ところが、動いた者は20歳は若返る。燃え尽きた中年が、ちょっと要求されることが変わっただけで生気を回復する。

非営利組織のリーダーにとって難しい問題は、能力重視と仲間意識のバランスである。しかし、結局は「辛いが切る」といえなければならない。むしろそのほうが明快で痛みも小さい。そのようなことで悩む者こそ害をなしているといわなければならない。


2012年3月1日木曜日

大学改革に必要なリーダーシップとは

大学のガバナンス改革に必要なリーダーシップとはどのようなものか。
「大学のガバナンス改革-組織文化とリーダーシップを巡って-」(大場淳)(名古屋高等教育研究 第11号(2011)を抜粋してご紹介します。示唆に富む論考だと思います。


結 語

今日、取り巻く環境の変化に対応して大学の自律性拡大が図られる中、そのガバナンス改革は必須である。日本においては、国立大学の法人化を始めとして諸々の改革が行われ、組織運営に関する制度に大幅な変革がもたらされた。他方において、ガバナンスには、法令等で規定される公式な側面-制度改革の対象はこちらである-に加えて、関係者の黙示の合意に基礎を置く非公式な側面があり、それを体現する組織文化の変革抜きにしてガバナンス改革はなし得ない。組織文化と表裏の関係にあるリーダーシップは、当該組織文化の変革に決定的に重要な役割を果たす。先行研究によれば、大学では参加や合意形成を促す双方向的なリーダーシップが必要であり、それはあらゆる場所で存在しなければならない。

しかし日本におけるこれまでの大学改革では上意下達的・中央集権的な形に向けて組織運営改革が進められ、リーダーシップもそれに対応した少数者のものとして受け止められてきた。このような改革の在り方は大学の合意の程度を下げており、クラークが指摘する「統合された企業的文化」を大学が有する状態からは程遠く、改革に大きな効果を期待することは困難であるか、少なくとも期待された通りの成果を上げることは不可能ではないだろうか。国立大学の研究業績が近年下がってきていることは、多様な理由が考えられるとは言え、組織運営に関する問題がその一因となっている可能性は大いにあり得ると思われる。

最後に、ガバナンス改革においては、教職員開発(FD/SD)が極めて重要であることを指摘しておきたい。公務員制度の弊害を有していた英国の大学は、今日まで大きく変革し、クラークが言うところの企業的運営を行うようになっているが、その改革には教職員開発が決定的に重要な役割を果たしたと言われる(Partington and Stainton 2003)。政府は、高等教育職員開発機関(Higher Education Staff Development Agency: HESDA)を大学間団体と共同で設置し、教職員開発を積極的に推進した。また、現在自律性拡大の方向で大学改革が進んでいるフランスにおいても、国の機関及び大学間組織を通じた教職員開発活動が積極的に展開されている。

翻って、我が国では、国立大学法人化後は文部科学省は職員研修等といった教職員開発活動からは撤退傾向を示していることが懸念される。もっとも、重要なのは個別の大学の教職員開発であって、全国的活動である英仏の動きはその支援活動にしか過ぎない。自律性が拡大した大学における組織文化の変革に向けては、学内において分散的なリーダーシップの下で学習を促すような多様な教職員開発活動が求められよう。紙幅の制約から本稿では詳述できないが、当該活動は伝統的な研修型ではなく、構成員の自発的参加を基本とすべきである。そうした活動を促すものとして「組織学習」や「学習する組織」、「実践共同体」といった様々なモデルが開発されており、各大学においてこれらを参照するなどして、自己の組織に合った教職員開発のプログラムを考案・実施することが望まれる。国に対しては、そうした開発活動を支援することが期待されよう。
http://www.cshe.nagoya-u.ac.jp/publications/journal/no11/16.pdf