2014年8月31日日曜日

鎮魂と追悼

8月も今日で終わり。本日の「天声人語」(朝日新聞)から「8月の言葉から」をご紹介します。


立秋をはさむ二つの原爆忌。そして、迎え火と送り火のはざまで戦没者を想(おも)う敗戦忌。不戦を誓い、鎮魂と追悼に頭(こうべ)を垂れた8月の言葉から

▼栃木の明良(あきよし)佐藤さん(70)は、8月15日から新年が始まる「戦後カレンダー」をつくり続けて30年になる。終戦の昭和20年を元年とする独自の「戦後暦」で数え、この新年は戦後70年だ。「今度戦争が起これば戦後という言葉は使えない。その意味では戦後であり続けることが平和のあかし」

▼がんで余命宣告をされた鹿児島の女優、たぬきさん(本名・田上〈たのうえ〉美佐子さん、59歳)が、病を押してこの夏も平和を願う舞台に立った。「どれだけ命が大切で、重いか。平和の大切さをみんなで考えたい。だから私は今を生きる」と

▼修学旅行の男子中学生5人から「死に損ない」と暴言を吐かれた長崎の語り部森口貢(みつぎ)さん(77)が言う。「あの生徒たちとゆっくり話ができればなあ。生意気な時期もある年齢。あのことが傷にならなければいいが」

▼東京の公園で憲法9条を守る署名を集めてきた蓑輪喜作さんが85歳で死去。柔和な笑顔は、若者たちから「九条おじさん」と慕われた。残された歌に〈むきあいて 九条話はたのしかり 一人一人が孫のような顔〉。6万筆を1人で集めた

▼岐阜県高山市であった短歌コンクール「八月の歌」入選作に愛知の中1、中村桃子さんの一首。〈セーラーの衿(えり)のラインが一本になった理由は戦争だった〉。3本が1本に。通う学校の制服の歴史を調べて、詠んだ。

学び、行動しないことには

語らねば、伝えねば 満蒙開拓団の記録から」(2014年8月25日東京新聞)をご紹介しましす。


国家は時に、自国民を平気で犠牲にします。昭和の戦争がそうでした。その渦中で進められた国策「満蒙開拓」も…。これは遠い昔の物語でしょうか。

一冊の本が手元にあります。

証言 それぞれの記憶」という百ページにも満たない冊子ですが、そこには、数え切れない命の記憶が詰まっています。

戦前から戦中にかけ満州(現中国東北部)へ移民し、敗戦時に、地獄の思いを味わった13人が、しぼり出すように語った体験を書き起こした証言集です。

昨年、長野県阿智村にできた民間施設「満蒙開拓平和記念館」のスタッフが聞き取り、来館者の要望にこたえて発行しました。

◆意図せずとも加害者に

戦後、固く口を閉ざしていた、あの戦争をじかに知る人々が、ようやく語り始めました。それほどむごい体験だったのです。満蒙開拓も例外ではありません。

「開拓じゃないに。中国人を追っ払って、既に開墾してあったところに入ったんだから。後ろ盾には日本軍がいて…」

先の証言集からの引用です。

入植直後から、意図せずとも自分が「侵略」に加担させられている、と気づいた移民は少なからずいたのでしょう。証言は、その無念の思いの吐露なのです。

1932年、現中国東北部に日本のかいらい国家、満州国が建国された後、貧困にあえぐ農村救済のためなどと、移民は国策で満州に送り込まれた。

「二十町歩の大地主になれる」と入植を勧められた農家も多く、その総数は、開拓農民を中心に約27万人に達しました。

しかし終戦直前に突然、ソ連軍が侵攻、関東軍には置き去りにされた。逃避行の途中で、その半数以上が集団自決や病死、行方不明という惨禍に。離散した家族の子どもらは中国人に託され、残留孤児、婦人になったのです。

◆国策に流されるままに

戦争とは、人と人とが殺し合うことです。領土や宗教、民族、資源などその理由はさまざまでも、「国を守る」ため、国家や権力者が敵をつくる。だが、実際に戦場に行かされ、血を流すのは普通の人々、弱い立場の人々です。

あの昭和の時代、国家統制が強まる中でも、戦争や戦場は遠いよそ事のような日常が続いた。「お国が言うなら」と流されがちな当時の世相や国民性が、満蒙開拓という国策を推し進めた背景と無縁ではありません。開拓民も、戦場に巻き込まれるとは思いも寄らなかったでしょう。

命の教訓を次代に継ぐ方法は、語りや文章に限りません。

映画監督の山田火砂子さん(82)は、年内の公開に向けて作品「望郷の鐘-満蒙開拓団の落日」を製作しています。東京大空襲で命拾いした経験を持つ山田さんは「戦争のひどさを伝えていくのが私たち世代の務め」と言います。

戦後「残留孤児の父」と慕われた阿智村の住職、故山本慈昭さんが主人公です。地元開拓団の教員に請われて心ならずも渡ったが、自身はシベリアに抑留され、妻子とは生き別れてしまいます。

72年の日中国交正常化の翌年に、慈昭さんは独力で「日中友好手をつなぐ会」を設立。その活動は全国に広がりました。

仲間らと中国に残された孤児の帰国支援や肉親捜しに奔走。一人で4万通を超える文通や交流も重ねました。死んだとされていた長女との対面も果たし、90年に88歳で亡くなるまで、心は日中を行き来していた。

これら民間の活動がなければ、長く帰国者の問題に目を背けてきた国の償いも支援も、さらに遅れていたでしょう。

中部の「手をつなぐ会」代表理事の林隆春さん(64)=愛知県一宮市=は「それでも二世、三世の仕事は今も派遣や非正規が多い」とみています。慈昭さんら先人の遺志を継ぐという林さんの決意を聞いて、あらためて思うのです。

国家や権力者の都合で、最後に犠牲になるのは誰なのか、と。

安倍政権の集団的自衛権の閣議決定は、憲法の論議も、国民も置き去りでした。

◆「傍観者」のままでは

沖縄戦の、ひめゆり学徒隊の惨劇の証言を今も続けているのは、86~89歳の9人だけです。多い時は30人近くいた。ひめゆり平和祈念資料館では十年余りかけて後継者を育てています。

広島の被爆体験の証言者は、恐らく百人前後しかいないと指摘する人もいます。そして「ほとんどの人が話したがらなかったが、まだ今なら間に合う」とも。

危うい空気を感じるから、語りたがらなかった人々が、あえて凄惨(せいさん)な過去を振り返り始めた。

それに学び、行動しないことには、無関心や傍観者だった、あの時代と重なってしまうのです。

2014年8月29日金曜日

大学図書館の使命

国立国会図書館が運営するサイト「カレントアウェアネス・ポータル」からMOOCを活用した図書館での大学レベルの学習機会の提供」(2014-08-28)をご紹介します。


MOOCとは、大規模公開オンライン講座の総称である。大学レベルの講義動画をウェブ上に公開することで、どこでも、誰でも、無料で受講できる。しかしまだ課題はある。無料とはいえ受講するにはコストがかかるのである。それは、ウェブに接続するコストや受講機材を手に入れるコスト、機材を使うスキルを習得するコストである。これらのコストが学びの障壁となっている。

この課題の解決には、図書館が受講環境を提供することが有効ではないか。誰もが自由に利用できる図書館(特に公共図書館)では、多くの場合、ウェブ上の情報を閲覧できるよう、インターネット回線や閲覧用のPCを提供している。そこでMOOCを提供すれば、ウェブに接続できない人も、PCを用意できない人も、大学レベルの講座を受講できる。また職員による機器操作支援も受けられる。しかも図書館には多くの資料がある。講義で疑問に思ったことをより深く学ぼうとしたときに、すぐに関連資料を手に入れられる。

アカデミック・リソース・ガイド株式会社は2014年7月、指宿市立指宿図書館(鹿児島県指宿市)とくまもと森都心プラザ図書館(熊本県熊本市)と共同で、両館においてMOOCの試験提供を開始した。指宿市には大学がない。同市の子どもは、高校卒業後、大学へ進学するためには地元を離れざるを得ない。大学を卒業して地元に帰ってきたとしても、学び続けることは困難である。子どもが安心して地元に帰ってくるためにも、学びの環境の整備が課題となっている。また県庁所在地である熊本市でも、東京や大阪などで開催されるようなセミナーは、移動にかかるコストなどが障壁となり、簡単には受講できない。このような教育の地域格差に直面する地方都市にこそ、MOOCが重要なのである。生涯学習の拠点となることを掲げ既に様々な企画を実施している両館にとって、MOOCの提供は大きな可能性を秘めたサービスである。

図書館で提供するMOOCのプラットフォームには、株式会社NTTドコモとNTTナレッジ・スクウェア株式会社が提供するgaccoを採用している。gaccoは、2013年に設立された一般社団法人日本オープンオンライン教育推進協議会(JMOOC)の公認を受けたプラットフォームである。ただし2014年2月に開始されたサービスのため、多くの講座は準備中であり、また閉講した講座は受講できないため、利用者が同時に受講できるのは1、2講座という状況であった。そこで今回の図書館での提供にあたっては、既に閉講になった講座も受講できるように特別に取り計らってもらっている。

MOOCの提供のため、館内にキハラ株式会社製の専用ブースを設置し、PCとタブレットを置いている。機器類を持たなかったり、操作が苦手であったりする人でも簡単に利用できるようにしたものである。ブースに座り、PCやタブレットに表示されているgaccoのサイトから好きな講座を選択すれば、すぐに受講できる。またブースがあることにより、オンラインサービスであっても存在が認知されやすい。実際、物珍しさから機器を操作してみる方も少なからずいるようである。

また、図書館資料と講座のつながりも意識している。図書館の書架とウェブ上の情報をつなぐサービス「カーリルタッチ」を利用して、書架のテーマに関連した講座をタブレットやスマートフォンからアクセスできるようにしている。gaccoを知らない利用者でも、書架の関連情報として、講座の情報が得られる。

試験提供の開始にあたり、7月15日にプラザ図書館で、16日に指宿図書館で、体験会を開催した。告知期間も短く平日開催でもあったが、行政関係者や図書館に関心の高い市民など、どちらも10名程度の参加があった。なかには、遠方から泊りがけでの参加もあった。イベントの様子は地元紙やテレビで取り上げられ、関心の高さがうかがえた。

8月10日(プラザ図書館)と16日(指宿図書館)には、gaccoの講座「オープンエデュケーションと未来の学び」(重田勝介・北海道大学准教授)に関連したセミナーを、喜多敏博・熊本大学教授を講師に開催した。MOOCの講座の受講を参加の条件としていないため「関連セミナー」と位置付けているが、講座受講者にとっては「反転学習」に近いものである。

図書館におけるMOOCの導入は、コンテンツを個人に提供することにとどまらず、反転学習や関連セミナー開催、受講者同士のコミュニケーション(MeetUp)の場を提供していくことにもつながる。今回開催した関連セミナーでは、小学生を含む15名から20名ほどの参加者が、MOOCの受講や図書館を活用してのMOOCの利用について意見交換を行った。

図書館はこれまで、書籍を中心に資料を提供してきた。しかし、昨今はウェブ上に動画で学びのコンテンツが提供されている。せっかくの学びのコンテンツを活用しない手はない。書籍に限定せず多様な情報コンテンツを組み合わせ、学びたい意欲を持つすべての人に届けてこそ、これからの情報社会の中で、情報を必要とする人へ必要な情報を提供する図書館の使命を果たせるのである。

2014年8月28日木曜日

国立大学のマインド改革

国立大学法人法コンメンタール《歴史編》(第78~80回、文部科学教育通信)から、「関係者に聞く 森田朗氏」を抜粋してご紹介します。

国立大学法人化移行時のエピソードを交えながら、”大学ムラ”の実態がわかりやすく説明されています。また、大学経営トップ(学長、役員)や教員の「意識」「スキル」の現状と改革の必要性など、法人化後の課題も浮き彫りにされています。

3回分の連載をまとめたため長文になってしまいましたが、大変示唆に富む記事ではないかと思いますので是非ご一読ください。


東大病院は自由を求めた

-当時の行政改革の中心を担った国会議員へのインタビューによると、国立大学の独立行政法人化が政府の行政改革会議で取り上げられることになったのは、平成9年に東大病院が行政組織からの離脱を主張した提言を発表したことが大きなきっかけだったことが判明しました。また、当時、東大病院の関係者が、密かに行革関係議員に面会し、同様の趣旨の陳情をしていた事実についての証言もあります。そのような経緯を振り返ってみますと、結局、国立大学の法人化は、東大病院関係者の当初の期待通りに推移したとも理解できますが、このような見方についての森田先生のご感想をお聞かせください。

森田

当事者である東大病院関係者は、よくわかっていなかったのではないでしょうか(笑)。私自身も、もともと法人化の推進論者でしたから、病院関係にもいろいろ関わっていた時期があったのですが、要するに、財政上だんだん厳しくなってきて、東大病院としては、自由も金も無い状態になったわけです。そんな状態で「金をくれ」と言っても所詮無理だから、「では、せめて自由が欲しい」というわけです。自由に自分たちでやれば、経営の合理化もできるし、稼ぐ方も自分たちにはそれだけの力があるというのが、東大病院関係者の認識だったと思います。

確かに、海外、特にアメリカの病院なんかで展開されている合理的な病院経営とか医療に比べると、日本の病院、特に大学病院の非効率というか、無駄というか、停滞というのは、ちょっとひどかったですね。私も経験しましたけど、歯を一本直すのに半日かかって、そのあげく、会計処理のために待合室で一時間待たされて、「50円です」と言われた時には、正直、頭に来ました(笑)。

-最近では劇的に改善されてきているようですが、確かにかつて大学病院については、「1時間待ちの10分診療」とか椰楡されていた時代がありました。

森田

そうそう。それはなぜかというと、大学病院関係者の意識としては、大学病院は研究のためにあるのであって、患者サービスとか経営効率のことはほとんど考えていませんでしたからね。大学病院で働く事務職員の人たちも、行政機構の末端組織の公務員ですから、ルーチンばかりで、それ以上の改革とか改善という発想はなかった。そんな状況のままで予算だけが切られていくなら、東大病院が本来持っている力を存分に発揮できるだけの自由を得た方がいいという発想だったと思います。

それが病院の「改革派」の発想でしたが、既存の秩序の上に乗っかっている幹部の先生方の中には、自分の地位とかリスクをかけるほどの改革にはかなり消極的な方もいたでしょうから、若手の一部の人たちがああいう形で働きかけたということだったと思います。

ただ、問題だったのは、東大病院に続いて、京大病院、阪大病院…といったところはいいとして、地方の国立大学の大学病院が必ずしもその後に続けるわけではない。さらに、見方を変えると、東大病院だって、「東大」の傘の下の病院だからいいのであって、仮に、法人化に伴ってその「東大」というブランド名を捨てるみたいな話になってくると、とてもじゃないけれども足下から崩れてしまうという意識も強く、「結局は、今のままの方がいい」という考え方もあったわけです。その意識は、いまだもって牢固として続いているような気がしますが(笑)。

-確かに、病院を選択する患者さんの側から見ても、「東大」のブランドカはとても大きいと思います。

森田

大学病院として経営改善の余地が大きいのは間違いないことだったでしょうし、大学病院の自主的な経営改善努力をぎりぎりと規制して縛っている国の法律とか国家行政組織の仕組みというものを何とかしてくれというのが、東大病院関係者の気持ちだったと思います。

もっとも、中医協(中央社会保険医療協議会)での経験から考えると、病院経営が成り立つかどうかというのは、各病院の経営努力もさることながら、実は国の診療報酬改定の影響も大きいわけでして(笑)。たとえば、独立行政法人国立病院機構の例で言うと、国立病院機構に対して国から支出される運営費交付金はどんどん減っていて、今ではほとんど診療報酬収入で運営しているにもかかわらず、独立行政法人としての様々な縛りがきつ過ぎるという思いが関係者にはあるようです。そのために、「今の独立行政法人とは別の法人のスキームに変更して、もっと自由に運営をさせてほしい」というような意見を耳にすることがあるのですが、これも国立大学の大学病院の場合と同じで、仮に診療報酬の水準が下がるようなことがあると、たちまちに病院経営を直撃することになるわけで、そうなると「別の法人のスキームで」なんてことは言っていられないんじゃないかと思います。

ですから、今は比較的、大学病院などの特定機能病院には手厚く診療報酬が措置されていますが、本来ならば、診療報酬の改定の動向とは無関係に、各病院がきちんとしたデータに基づく経営判断で効率化を進めるのが筋なわけで、国立病院機構なり、当時の東大病院関係者なりに、どこまでその覚悟があったかということが問われると思います。


国大協運営の難しさ

-ところで、行政改革会議で国立大学の独立行政法人化の議論が起こって以来、当時の蓮實重彦・国大協会長(東京大学総長)は、一貫して独立行政法人化に否定的な立場を取り続けました。しかし、同時に、蓮實会長は、積極的に法人化のあるべき姿を提言しようとする姿勢を見せることもなかったと言われることがあります。こうした蓮實会長の方針・姿勢については、国立大学の法人化の議論が結局は東京大学が震源だったことが蓮實会長の協会運営を非常に難しくしてしまったという面があったのではないでしょうか。

森田

私は、むしろイギリス流の大学改革の流れのようなものの影響が大きいと思っています。

要するに、1990年に大学設置基準の大綱化をやりました。18歳人口の減少というのは見えていたわけです。それまでの、とにかくディプロマを出すための大学の増設というのは限界に来ていて、マーケットが縮小した場合に質の劣化と採算上の苦しさは見えていましたから、当時の文部省としては、自己努力に委ねるという形で大学設置基準の大綱化をしたわけです。私学も含めて大学が多過ぎる時に、広く薄くお金を撒いても効果的ではないので、規制を緩めて自由を与え、その結果、勝ち残れるところに資源を集中することで大学の整理を進めるという考え方です。

そのときに東京大学は、日本のリーディング大学として、資源を集中投下される方向で頑張るべきなのですが、逆に淘汰される側から言うと、なかなかそうはいかないわけで、そこは国大協の立場と東京大学の立場が矛盾するわけです。蓮實先生の国大協運営の難しさは、そこから来ていたと思います。

だから、一番いいのは、国大協の中で、自分たちで整理統合の画を描ければいいのですが、大学の自治とか立派なことをおっしゃいますけれども、少なくとも国大協の自治能力というのはひどかったものですから(笑)。みんな、「同じ国立大学である以上、うちにも回せ」みたいな話になってきた。そうすると、護送船団でいくか、そうでなければ、全体のパイを増やしてくださいという実現不可能な要求をする。そう言われても多分、文部省は困るので、どうするかというと、法人化する。法人化すれば、要するに、「競争して負けたところは、仕方がない」というこいとになるわけです。

そのときに問題になるのは、当然のことながら、初期条件が違いますから、「勝ち組と負け組が初めからはっきりしているところで競争をさせるのか」みたいな議論です。そのためには、ある意味では、東大だったら、あえて言えば、弱いところでも、いい大学があったら吸収するぐらいの、それぐらいの経営判断をしてはどうかと言ったんですけれども、大学人のメンタリティじゃ全くだめですね。東大教授という、「東大」ブランドが邪魔することになる。

-逆に言えば、そういうブランドに対するプライドが東大の活力になっていると思われますが。

森田

要するに、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と同じわけですよ。それは、私が若い頃にいた大学でもそうで、90年の大学設置基準の大綱化のときに教養部を解体することになったのですが、同じ法律なら法律、政治なら政治を専門とする教員なんですけれども、教養部の先生を法学部で同じ待遇で迎えるということに対してものすごい抵抗がある。「彼にはこの科目は教えさせられない」とか平気で言うわけですよ。大学人というのは、そういうメンタリティです。その裏にはもちろん、学問的業績が自分の地位と結びついている世界ではあるんですけれども、「教えさせられない」と言われると、「本当ですか」といいたくなる(笑)。

でも、あのときは、結構そういう大学統合の議論はしたんですよ。例えば、東大以外の大学の例で言うと、東北大学の外に「第二東北大学」を作って、東北大学以外の東北地方の国立大学をそちらへ統合するのはどうかとか。その場合、例えば、工学系はどこかのキャンパスに集中させることによって研究の密度を高め、研究者を集積する。その効果は大きいですから、まさにCOEの発想でやったらどうかとか。「経営上の判断でどこかのキャンパスを閉鎖することもあり得るが、そうしたら、地元が反対する」とか、「でも、自分のところで経営するのも無理だろう」とか、そんな議論は結構しましたし、「もし国大協でできなければ、私たちのほうでシナリオは書きます」ということで、実際、ドラフトみたいなものを書いたこともありましたが、やはり「こんなものは表に出せない」ということになりました。


研究室の先生を説得するのは難しい

-今のお話を聞いていると、いわゆる「遠山プラン」を文部科学省が公表する以前から、国立大学関係者は直感的に、「法人化というのは、マイナスの世界に入っていく中で各大学に自己責任をとらせるという国の方針を意味している」という受け止めになっていたのでしょうか。

森田

いえ、そう認識していた人は0.1%ぐらいでしょう(笑)。学長とか学長補佐とか事務局長レベルの人たちは、そういう認識を持っていたかもしれません。ただ、研究室に閉じこもっている先生は、自分の研究以外のことにはほとんど関心を示しませんし、そういう人たちが支えているのが大学で、いまだもってあまり変わりません、それは。そういう人たちに「このままでは持ちませんよ」と説得するのは非常に難しいわけです。法人化の幻想というのが自由と金だとしたら、自由をもらえば金もふえるという甘い期待を持つ人と、「それは大変だから、今まで通りが一番いい」という人とが共存していたところでしょうね。

-東大なんかもそうでしたか。

森田

東大もそうですよ。法人化した後もそうですけど、「東大は、科研費の取得率にしたって圧倒的に高いんだから、総額が減っていく運営費交付金を当てにするよりも、競争的資金をより多く獲得して間接経費を増やすような形にした方がはるかに有利でしょう。競争的資金を獲れないところにはじわじわと撤退してもらいましょう」と学内で言うと、「基礎的な経費である運営費交付金は減らすべきではない。競争的資金は運営費交付金とは別枠で増やしてもらえ」みたいなことを平気で言われてしまう。一方、競争的資金を稼いでいる研究者にしてみれば、「我々の働きでとってきているんだから、とってきた分は我々に使わせろよ」ということになる。そうすると、とれないところは「運営費交付金で面倒を見てくれよ」という話になるわけで、いまだにそうだと思いますけど、私がいた数年前には堂々とそういう議論をしていましたね。

そうした難しい環境にはありましたが、長尾眞・国大協会長(京都大学総長)を支えていた松尾(稔)副会長(名古屋大学総長)や石(弘光)副会長(一橋大学長)がどんどん発信するようになり、たしか石先生は「革新的にやるべきだ」と言う人で、大学を法人化することによって経営判断に自由を求めていました。一橋大学にはそれだけの力があるというのが前提です。ただ、一橋大学というのは文系ですから、施設の償却費とか何かは別にすると、年間フローだけだと100億もあればやっていけるのではないでしょうか。東大病院の赤字よりも少ない(笑)。だから、それくらいなら外部資金と授業料収入で、という話だったんですけれども、巨大な理系の学部・大学院を持っているところだったら、とてもじゃないけど、そんなことを言っていられないという面はありました。

-平成13年には、国大協の会長が東大の蓮實先生から京大の長尾先生に替わりました。会長交代で国大協の様子は変化があったのでしょうか。

森田

その辺は、よくわかりません。ただ、蓮實先生ご自身は、すごい方なんですけれども、発言が難しくて何をおっしゃりたいか、お考えがよくわからないことが多かったと思います。長尾先生は、蓮實先生よりは、はっきり、わかりやすく物をおっしゃっていました。ちなみに、長尾先生が国大協会長に就任されてから、法人化について理論武装するための理論をまとめたのは、京大の総長補佐だったか、副学長だったか忘れましたけれども、京都大学法学部の商法の森本(滋)先生です。まだ京大にいらっしゃいますか。

-もう退官されて(京都大学名誉教授)、今は同志社大学にいらっしゃいます。

森田

彼は商法学者だけに、経営面においても非常に合理的な判断ですね。ご自分で勉強されていましたし、森本先生が長尾先生を支えるために、私に「話を聞かせてくれ」というので、何回かお話ししました。その後は、ご自分で全部調べてやられたと思います。

-確かに、法人化問題で、京都で長尾先生にお目にかかる時は、常に森本先生が長尾先生の横に座っていて、森本先生からいろんな質問を受け、その受け答えを長尾先生がじっと聞かれている、という感じでした。

森田

だから、ある意味で言うと、国大協関係内の最大の功労者というのは森本先生かもしれません。ただ、彼とは、二、三回かな、かなりいろいろなことをお話ししましたけれども、忘れられないせりふは、「京都大学が東京大学に教えてくれと言うのは、屈辱的である。しかしながら、今回に関して言えば、我々のほうは全く蓄積がないので、あえて言えば、恥を忍んであなたに聞く」というようなことをおっしゃっていました(笑)。私は、「日本のために喜んで提供します」と言った記憶があるんですけれども。それ以後はあまり「一緒にやろう」という話にはならなかった(笑)。


非公務員型は交渉カードと考えた

-東京大学の話に戻りますが、国大協会長でもあった蓮實重彦総長の言動は常に慎重でいらっしゃいましたが、他方で、お膝元の東大の中には、東京大学の法人化に関する、というか、法人化に向けての学内検討会のようなものが置かれて、継続的に検討が進められていたという印象があります。特に、法人化した後の教職員の身分を非公務員型とするかどうかという問題について言えば、国大協や文部科学省の調査検討会議よりも先に、東大の検討会が非公務員型を実質的に受け入れる方針を出していたと思います。その意味では、結局、東大が非公務員型の流れを作った、というか、だめ押しをしたという印象ですが、その点はいかがでしょうか。

森田

東大の検討会の中で非公務員型を特に強く主張していたのは、多分、私でしょう。

-そうなんですか。

森田

つまり、公務員型でも非公務員型でも、どちらでもかまわないと思ったのです。実は両者の間で、制度的にはそんなに大きな違いがあるわけではありませんでした。でも、なぜか、大学関係者は公務員型にこだわるところがありました。たとえば、国大協の中で議論すると、「非公務員型とはとんでもない。当然、公務員型じゃないと」という意見が非常に強い。その理由を尋ねると、「公務員の方が信用があるので、金融機関から金を借りやすい」なんていう話が出てくる(笑)。確かに、公務員ということの価値といいましょうか、そのこと自体が彼らのモラール(勤労意欲)を大きく支えているところがあって、それが失われるんじゃないかという話はありましたが、実質的な根拠といったものはほとんど聞かれなかった。

私からは、「むしろ、ある意味では、非公務員型であれば、公務員としての様々な拘束が外れるわけですから、いろいろなことが自由にできるようになっていいじゃないですか」と説明していましたが、この説明の仕方だと、東大の場合には、公務員であろうが、公務員でなかろうが、むしろ東大教員であるということのほうが評価は高いという事情もあって、なかなか理解が進まない面もありました。ただし、この点については、「教員はともかく、職員は必ずしもそうではありません」と言われたりもしましたが。

要するに、人事のシステムとして、自由にできる余地というのがどれぐらいあるかということに着目して、自由になれば、それだけ財政的にもプラスになるはずだ、という一つの思い込みかもしれませんけれども、そういうフィクションでないと東大関係者は動かなかったわけです。だから、「あえて言うならば、非公務員型で自由をとったほうがいろいろと得なのではないか」ということを主張した記憶があります。

もっとも、正直に言えば、基本的に公務員型と非公務員型とで、どう違うのかといっても、両者の間にはあまり差はないわけで、だから、私が考えていたのは、この議論にあまりこだわる必要はなくて、むしろ法人制度設計の際の交渉力ードとして使った方がいいのではないかということでした。とりあえず公務員型にすべきと主張しておいて、向こうが反論してきたら、「じゃあ、非公務員型にするかわりに、この点については我々の要望に沿った制度にしてくれ」といった感じの交渉マターとして扱うべきだと思っていましたけど、なかなかそういう政治学的な話は通じなかったんですよ、大学のまじめな先生たちには(笑)。結局のところ、「公務員型はどのようなもので、他方、非公務員型はどのようなもので、その比較検討の結果、どっちの型が得なのか」といった議論に戻ってしまう。単純化すれば、そういう感じだったと思います。

-当時、国立大学の独立行政法人化を強く主張していた太田誠一・総務庁長官が、最終的には、独立行政法人とは異なる国立大学法人としての制度化を了承されたのですが、太田先生は当時のことを回想して、「先行して独立行政法人になった機関はほとんどが公務員型だったので、自ら非公務員型に決められたというのでびっくりしたわけですよ。感動しましたね。国立大学があそこまでスカッとやっていただいたんで、あの場面では感謝の気持ちでしたね、ありがたいと」とおっしゃっていました。その意味では、森田先生の狙い通り、非公務員型の選択が、結果的に「国立大学法人」というオリジナルな法人制度を手に入れるための交渉の上で、最も重要なカードになったということができるのではないでしょうか。

森田

そうですね。でも、今から思えば、非公務員型になったんだから、本当はもっと自由であってもいいんじゃないかとも感じます。たとえば、国立大学の教員の場合には、これまでは法律上の根拠もないままに、勤務時間の管理をルーズにしてきましたが、非公務員型の労働法制の下、裁量労働制ということになって、やっとこれが法的に認められたかというと、必ずしもそうではなかったのです。

裁量労働制というのは、勤務時間のスタートと終わりは自分で決めることができますけど、勤務の総時間そのものは拘束があるわけで、その意味で言うと、今でも多分、多くの先生は違法状態というか、問題があると思います。基本的に、昼前に出てきて夕方帰る、毎日そんな状態で勤務している人間にフルで給料を払うのかという議論もありましたが、逆に言えば、自分の興味関心で夜の零時まで研究室で働いている人に残業手当を出すのかということにもなる(笑)。

しかも、残業手当を出すとか勤務時間管理をするといったら、一般のお役所や企業の世界では上司の許可制で管理しなくちゃいけないはずが、大学教員の場合、上司なんておらず、本人が決めるだけのことですから、そういう世界でどういう形でやりますかというと、結局、教員に対する定期的な業績の評価しかないということになります。もっとも、私がいたときの東大では、そんな評価は嫌だと言っていましたけど(笑)、要はそういう世界です。

だから、全体からみれば一部ですが本当に能力のある人はたくさんいますから、すばらしい成果を出して、それでもって大学全体が支えられている、他の人たちはほどほどに仕事をしていても、それでよしとするのが大学という仕組みだと思いますけどね。


人事の仕組みだけが変わっていない

-国立大学が法人化して何年か経過して気がついたのは、人事の仕組みだけが法人化以前からほとんど変わっていないという点です。非公務員型の選択をわざわざしたのに、給与のシステムも変わっていない、人事の仕方もほとんど変わっていないということに気がつきました。最近、文科省は、「国立大学改革プラン」を発表して、年俸制を入れることなどを求めていますが、日本の大学文化の中で、給与にメリハリをつけていくというのは非常に難しいのでしょうか。

森田

変わってくると思いますけどね。ただ、今までのマインドだったら、日本では終身雇用の世界なんですよね。たとえば、東大の場合だったら、今は大分変わってきましたけれども、以前は20代後半で優秀な者が助教授になった段階でテニュアはとれたわけです。もちろん、法学部等では、教授になる段階で相当厳しい選抜があり、その後も業績を公表して自己規律を保とうとしていますけれども、ただ、教授になってしまうと自動的にテニュアがあって、降格はない。定年までそういう人たちに対してどうやってモチベーションを維持させることができるかという話になるわけです。ずっとそれが当たり前で、多くの教員は、国立大学教員という公務員の世界で長く働いてきて、「あと何年働けば、給料はこれぐらい上がって、退職金はこれぐらい」という頭でいますから、その期待の体系をガラッと変えるということは相当大変なんです。

だから、実際には、人件費が運営費交付金の中で制限されてきて、大学がどう対応しているかといったら、いわゆるかつて国家公務員の身分をもっていた承継職員に対しては、それまでのままの給与体系、人事体系でやっているという話です。空いたポストを埋める若い人たちにも、彼らの期待から言えば同じシステムを維持していかざるを得ないでしょう。これはまた何十年も続きます。それでも全体として交付金は次第に減っていますから、そういう教員のポストは減っていきます。そこで、過渡的にどうするかといったら、特任とかそういう形の任期付きの教員で埋めて、彼らの人件費は外部からとってくることになっていますが、これも、人事管理の甘いところがあって、そこのところをきちんとチェックできる仕組みというものはできていないでしょうね。

文部科学省が主張しているように、いっそのこと、完全に年俸制にするというのもあるかもしれませんけれども、よほど思い切った形の切りかえと、経過措置でこれまでの利益保障みたいなもの、激変緩和措置をうまく組み入れないことには、なかなか難しいでしょうね。

人件費は、今まで、公務員制度の下で、人事院勧告も含めて財務省がチェックする限りにおいて適正に抑制されてきた。ところが、法人化してそのチェックが効かなくなったときに、しかも、大学の場合ですと、総長、学長を、いわば「従業員が選挙で社長を選ぶ」ように教員が選んでいる、そういう仕組みのままだとしたら、人件費が上がっちゃう可能性があるわけじゃないですか。公務員のときの積み重ねの上に、法人化になってさらに給料が上がって、それをベースに最後に退職金ということになったら、退職金を出させられる財務省が黙っているはずがない。

では、法人化の際にいったん退職金を精算したらどうか、みたいな話もありましたが、そうしたら、全部の退職金がとんでもない金額になるから、とても無理であるということになって、結局、法人化の趣旨から見るといかがかとは思うが、法人化以降の人件費、というか常勤ポストの数についても、よく知られているように財政当局の一定の関与を残すことになってしまったと聞いています。

結局、エージェンシー化するときのメリットというのは、給与を操作することによって構成員のモラール、つまり意欲や能力を引き出す仕組みなのですが、国立大学の場合、それがほとんど機能していない現状にあるわけです。

あとは、結局、「特任」とか「客員」とかを付けた教授という肩書でもって、どれくらい人を集められるかですが、逆に、「1億円寄附するから教授にしてくれないか」みたいな妙な話が出てきたりすることもある(笑)。

-1億円ですか。すごいですね。

森田

その話を聞いて、「東大教授の肩書きには、まだ1億円の価値があるんだ」と、驚きましたけどね(笑)。


調査検討会議での議論

-森田先生には、文部科学省の調査検討会議でもお世話になりました。調査検討会議には、国大協の関係者が大挙して参加しましたし、最終的には国大協の会長が座長も務めるという構図になって、国大協の意見を調査検討会議の議論に反映させていくんですけれども、反映できなかった部分があるにもかかわらず、国大協の会長が座長を務めるものですから、調査検討会議で結論を出しちゃうと国大協自身がそれに拘束されるという部分もあった不思議な会議でした。今、振り返って、先生ご自身は、あの会議をどのように評価されているのでしょうか。

森田

おっしゃるとおりですね。しかし、自縄自縛になるという認識を、国大協のあのメンバーの中でどれぐらいの方が持っていたかというのは、かなり疑問ですね。「とにかく自分たちが全部決めるんだ」みたいな意識が非常に強かったですから。

私は、東大総長の蓮實さんの推薦で国大協の専門委員に入ったことから、文部科学省の調査検討会議にも参加することになり、特に人事制度委員会に所属していました。国大協では、みんな「公務員型を選択して、今までの仕組みを維持すべし」という感じでしたね。私は、エージェンシーの原理から考えると、給与によって構成員のインセンティヴを維持するような仕組みを入れなければいけないということを主張したわけですが、私のような意見は少数派でして、大分抵抗したんですけれども、煙たがられました。その中で、調査検討会議の人事制度委員会の主査もされた梶井功先生(東京農工大学長)はとても合理的な方で、私の話をかなり聞いてくれました。ただ、国大協全体になってくると、いろんな学長さんがいらっしゃって、それぞれその道では相当の権威かもしれませんけれども、正直に申し上げれば、そもそも問題の所在を本当に理解されているのかどうかさえ疑問に感じるような発言をされる方も多かったですね。

-先生は、ご自身の持論からすると、かなり難しい立場の専門委員になっていたということなんですね。

森田

そうですね、少数派でしたから。国大協の中では、基本的に何が問題であり、その解決のためには、どういう原理を考えなくてはいけないかということを論理立てて理解していただくことが難しかったですね。相手も一定の原理に基づいて論理的に思考してくれなければ、話がかみ合いませんから。例外的に筋の通った原理を述べられる方は、むしろ行政法的なドグマに依拠して「日本の大学はいかにあるべきか」みたいな議論を主張されがちでした。少なくとも法人化した場合の大学の経営主体なり、経営組織をどうすべきか、といったような捉え方をするような方はほとんどいないわけで、そもそも議論がかみ合わないという状態でした。

論点になったものの一つに、法人の長と学長との関係をどうするかという話がありました。このことは、要するに、法人格と施設としての大学というものを別にするかどうかという問題ですが、私は、「アメリカの大学は基本的に別々だが、その方が法人としての経営判断が高まり、また、大学運営にも柔軟性が出るだろう」といった主張をしたのですが、国大協のほとんどの関係者が「とんでもない」といった反応でした。わざわざ国内の、運営がうまくいっていない私立大学の例を引き合いに出して、「あんなところみたいになっていいのか」といった話をされる方もいらっしゃいましたね(笑)。

-確かに、運営がうまくいっていない私立大学のことは、時折、マスコミでも大きく取り上げられることがありますし、そのイメージが強いのでしょうか。

森田

要するに、「学問も研究も何もわかっていない経営者が、大学を牛耳つてしまうような仕組みになってもいいのか」という心配です。確かに、そういう事例も無いわけではないから、これを全面的に否定することもできないわけですが、しかし、逆に言えば、確かに、研究者を束ねる学長のポストには、優れた研究業績のある研究者の方がよいでしょうが、たとえば自然科学系がご専門で、高度な研究業績のあるような研究者が、大学経営の能力も持ち合わせている保証がどこにあるだろうか、ということです。

国立大学の法人化のあとで制度化された公立大学法人の場合は、各自治体の判断で、学長と理事長の分離を選択できる仕組みになっており、実際にも、両者を分離して運営を行っている公立大学も出てきているわけですが、その中には、教育・研究のわかる経営者と、経営のわかる研究者がうまくセットになっている例がある。そのように、両者を分離した上で、そこをどのように組み合わせて作り上げていくか、というところが大切な点だと思います。

もう一つ言えば、大学の絶対数が多くなって、統廃合を迫られるような時代には、経営判断を優先しないとだめだということです。たとえば、国立病院の場合は、全国にたくさんあった国立病院を、国立病院機構という一法人が運営することにして、病院の統廃合をずいぶんとやりました。あの法人が果たしてあの規模でいいのか、大きすぎるのではないかという問題はあるかもしれませんが、マーケット全体の需給バランスだとか、その中でクオリティーをどう維持するかというときに、経営と執行を分けるというのは筋だし、世界の経営学は今はそう教えていると思うのです。国立大学の場合も、18歳人口の推移とか世界の研究動向を見たときに、大学の合併とかいろんなことを考えていかなければならないと考えておりましたし、そのためには、法人化する場合の経営組織のあり方が重要だと主張しましたが、国大協の中では「教員が選ぶ学長が統治をするというのが大学のあるべき姿」といった考え方が根強かったですね。



素晴らしいデザインが描けるか

-先日、当時の事情に詳しいマスコミ関係者にインタビューしたところ、「国大協と文科省が頑張って、独立行政法人制度に頼らない独自の法人制度の設計に挑戦してほしかった」と言われましたが、先生はどう思われますか。

森田

その方のおっしゃることは、ごもっともだと思いますが、では、どういうデザインで、どういうアプローチで進めればよかったのか、ということが問題だと思います。大体、制度改革というのは、問題の所在はわかるけれども、どう変えたらいいかというデザインを描くのは非常に難しい。もう一つは、仮にそのデザインがいいものが描けて、理論的にも裏づけがあるとしても、それを実際に実行するとなると、パレート最適が成り立つような、全員がハッピーになるような、Win-Winの形になるようなプランを作り実現するのは、非常に難しいわけです。なぜなら、改革するたあには、どこか悪いところを切らなきゃならないからです。そのときに、切られる人をどうやって説得するかというのは政治の話になるわけです。もちろん、次のポストとか行き場所も用意することはあったとしても、ご本人に今までの特権とか利害を捨てて移ってくださいということを誰がどうやって説得するかというのは、実は難しい。そういう人たちが多くなればなるほど、そういう人たちの利益が大きかったり、政治的な影響力が大きかったりすればするほど、難しいわけです。日本の政治的リーダーというのは、高度経済成長期にはパイが増える一方だったので、あまりその必要はなかったからよかったが、それ以後は、正直言って、みんなそういう難しい役割を逃げている。比較的、そうした意味での改革を、国民の支持を得て思い切って実行したのは小泉(純一郎)さんですが、それでも、郵政にしても何にしても、小泉さんがいなくなると、結局は復元力がかなり効いているわけです。

だから、国立大学の場合でも、そこまでシナリオを書いて改革案を出せるかどうかというと、正直言って、かなり難しかったと思います。どういう大学制度であればうまくいくのかという問題と、これだけ若者の数が減ってきたときに、かなりの大学の整理をしなくてはならないという問題がありますが、整理される側の大学をどうやって追い詰めるなり、説得するなりするか。あるいは、そこまでのコストをかけてでもやるべきだという素晴らしいデザインが本当に描けるかどうか、なかなかこれは難しいところだと思いますね。そこは本当に政治的なリーダーシップに期待せざるを得ないんですけど、リーダーシップを発揮させるようなデザインというものが描けるかどうかというと、それはなかなかできないでしょう。私自身は、かなり思い切った形での経営のあり方、大学のマネジメントの仕組みというものをきちんと仕立てて、やるべきだとは思っているんですけれども。

-そうすると、いろいろ反発も出てくるでしょうね。

森田

確かにそうだとは思いますが、ただ、おそらく、事態はそうした統合再編の方向に向かって行かざるを得ないと思いますから、行かざるを得ないとしたならば、早く認識して、できるだけ犠牲とコストを少なくするためにどう舵を切るかということは、これからの大学の経営判断に求められているところだと思います。


大学教員と経営判断

森田

実はおもしろいエピソードがあって、以前、某国立大学の本部の優秀な事務職員の方と飲みながら話したことがあって、そのときに国立大学の法人化の話をしたんですけど、その事務職員が「国立大学って動物園ですよ」と言うわけです。「先生方は濫の中で吠えていて、『おれは偉いんだ』って言っている。われわれ事務職員は飼育係です。あるとき、どうも、だんだん経営が苦しくなったらしく、餌が少なくなってきた。すると、濫の中の動物が、『おれたちを濫の外に出せ。外へ出て自分で餌を探してくる。そのほうがいい』と。『わかりました』と言って濫の戸を開けたら、みんな勇んで出ていった。法人化後しばらくしてどうなったか。おなかをすかして帰ってきて、中から濫の戸を閉めた」(笑)。濫の中にいると言われた側としては、決して愉快ではありませんが、この喩えは当たっていますね。

-おもしろいことを言う事務職員ですね。

森田

日本の大学人が、昔ながらの教授会とか、大学の自治とか、そういう原理に安住している間に、大学経営を取り巻く環境はどんどん厳しくなっているわけです。私自身は海外の大学にそんなに詳しいわけじゃありませんけれども、ちょうど大震災の直後まで、シンガポール国立大学のリー・クァン・ユー・スクールに籍を置いて2カ月ほど滞在してきたことがあったのですが、「教授会に出てくれ」というので2回ぐらい出席しました。このスクールは、世界的にもかなり権威ある公共政策の大学院ですけれども、大学本部からスクールの教授会に対して、大学院経営に関してかなり難しい課題を出されていた。要するに、「あなた方は、どういう研究をし、どういう学生を育成しようとしているのか」「そもそも、その学生が卒業後に行く就職マーケットはどれくらいの規模があって、国際的なマーケットにはどういう競争相手がいて、それに対してどれくらい自分たちが優位なのか」「その優位な能力をつけるための教育のカリキュラムはどういうものであって、そのカリキュラムをきっちりとこなすためにどういう教員を配しているのか」そういうことについてかなり細かい質問が出て、スクールとして回答するらしいのです。その回答に対しても、本部からさらに子細な質問が出てきて、要するに、育成すべき人材のイメージと彼らが受け入れられるマーケットが不明確であるから、「ライバルがどこであるかをもっと明確にせよ」みたいなことを聞いてくる。それに対する再回答の中で東大の公共政策大学院の名がライバルとして挙がっていたものですから、元院長として、私はうれしかったですけど(笑)。

そういう経営判断をきちんとやっていて、しかもディーン(学部長)には、シンガポールの元国連大使を務めた相当の大物が座っていました。それ以外に、プロボスト(副学部長)が4~5人います。そのうちの3人は、経営だとか国際だとかファンドレイジングだとかの専任です。研究と教育を担当するプロボストだけに教員が順番でなっています。国際担当のプロボストは、1年の3分の2ぐらいは、旅費をふんだんに使って、世界中の学生のリクルートと学生の売り込み、それに研究者のリクルートをやっているようです。それだけの規模でやっていながら、本部からの厳しい質問に答えられなかったり、学生のニーズに応えられないというか、ビジネスとして成り立たなかったりした場合には、予算の削減と組織の縮小・改変、最終的には廃止というのもあり得る。したがって、教授会では、それに対してどう返答するかということについて真剣に議論していましたね。

-日本の国立大学にも、文科省が同様の厳しい質問をぶつけてみる必要がありますね。

森田

そうかもしれませんね。そのほか、日本の大学の場合は、不祥事問題への対応といった面でも、マネジメントの脆弱性というのが大分出ていると思います。東大でもいろいろありましたが、天才的な学者は、凡人が持っていないものは持っているが、凡人がみな持っているものに欠けているところがあるのかも(笑)。だから、研究もそうですけど、教育の質も含めて、教員をコントロールできるような、研究の内容もしっかりとわかり、経営判断もできるようなマネジメントのポストとか人材とかが、日本の場合、アメリカとか諸外国の大学に比べて決定的に欠けていると思います。要するに、日本では、研究者自身にマネジメントをやらせているわけですが、マネジメントというのは、研究者としては専門外だし、ものすごく負担がかかるし、能力があるとは限らないし、自分の研究のためのインセンティブは働きますから、結局のところ、自らの不正をチェックするメカニズムが効きにくいわけです。


次世代のマネジャーを育てるために

森田

では、どうするかというと、研究費があったら会計担当の職員を雇うというんですけれども、彼らは、正直言って、教授に対して、「これをしてはいけません」と言えるかというと、それはできません。だから、むしろ、優秀な研究者にふんだんな研究費と研究時間を与えていい成果を出させるようなマネジメントをやってくれるような、たとえば、プロテニス選手のコーチみたいな存在の人によるマネジメントの体制が必要だと思います。今は、大学の自治の名の下に、教授連中が自分でやっています。もちろん、優秀な人はたくさんいますから、中には両方できる人もいて、だからなんとかもっているのでしょうが、研究能力の優れた人に必ずしもマネジメント能力があるわけじゃないし、そのトレーニングを受けているわけじゃありませんし、何よりも、積極的にマネジメントをやっていこうとするインセンティブは必ずしも無い。だから、東大の場合も、そういう教員を集めて、特に総長補佐としていますけれども、総長補佐の任期が終わって元の所属に帰るときに、みんな何を言うかというと、「これでやっと研究に戻れます」と、半ば冗談でしょうが、嫌々総長補佐をやっていたということを公言するわけですよ。そうではなくて、そういう仕事を担当する入たちは専門職能集団としてきちんと位置づけなければいけないと思います。

私自身が実際に会ったのは、MITのスローンのマネージ・ディレクターです。彼ももちろんPh.D.を持っていますけど、研究業績はそんなにあるとは思えませんが、巨額な研究ファンドをとってきて、すごい給料を払って世界中のトップの研究者を呼んできて、研究をさせるわけです。研究者のほうは、雇われていると言えば雇われていますけれども、自分のやりたい研究、自分の成果をそこで出すことによって次のポストに上がっていくし、それには給与体系もみんなリンクしているわけですね。そういう研究システムと、日本の今のような、マネジメントの素人の教授がどちらかというと、交代で嫌々マネジメントをやっているところと比較すると、やっぱり、研究能力の差が決定的に出てくると思います。日本の場合には、どうしても素人がやるし、不正が起こりやすいから、不正が起こるたびに、ますますルールが細かく増えていくわけですが、当たり前ですけど、ルールが増えると違反も増える(笑)。つまり、悪循環なんです。それが、結局、ルールを守るため、あるいはルールに縛られることによって、だんだん研究者のエフォートのうちに、マネジメントに割かれる比率が高くなり、研究へのエフォートの比率が低下してしまう。だから、ある段階になると、能力のある先生も、「それなら、研究するよりも、教科書を書くとかして定年まで給料をもらえるならば」という話になってしまって、それが本当に日本の研究能力の向上に結びつくかというと、私はかなり疑問です。そこのところの仕組みをどう変えるかということが大事なのではないかと思っています。それには、まずは、そういうマネジメントが非常に大事だということの認識が広がることが大前提です。最近になって、URAといった職種が出てきましたけれども、実際、具体的にそういうことをやっている方は、まだほんの少数だと思います。こうした職種の定着をはかっていくためには、そもそもキャリアパスから分けていく必要があります。実は、東大で法人化について雑談しているときに、私から「大学経営学研究科という大学院をつくってはどうでしょうか」という提案したことがありました。この研究科の教授は、理事とか部長を兼ねて東大の経営にも携わり、博士課程定員10名でいいから、いろんな意味で優秀な学生を集めて、次の世代の大学のマネジャーを育てていく。しかし、そのときは誰も賛成してくれませんでした。今、日本で本格的にそのようなコースを持っているのは桜美林大学くらいかと思いますけど、このようなマネジメントの体制をきちんと整備しないといけないと思います。素人がマネジメントをやっている以上は危なっかしいし、それをきちんとやらせようと思えば思うほど、そちらに割かれるエネルギーが多くなって、研究が疎かになるという悪循環をどうやって絶つか、ということが一つのポイントだと思います。

ただ、その場合に、制度以外で一番ネックになるのは、大学人のマインドセットだと思いますね。というのは、実際、たとえば東大の場合、役員には、「理事」と「副学長」の二つ肩書がついています。理事というのは法人の役員で、学外者も理事にはなれますが、副学長というのは東大の教授でなければなれない。だから、教授で理事になった人は「理事・副学長」という長い肩書を持ち、単なる理事と異なることを示すために、常に「理事・副学長」と呼ぶのですが、なにゆえにこのような区別をするのか。やはり研究者であること、研究業績があることがリーダーの要件として重視されているのでしょう。

-そういう目でしか見ることができないわけですね。

森田

「この人は、大変立派な研究業績がある」となると、「そういう優れた業績のある人物の言うことだから、私たちは従う」しかし、いかに優れたマネジメントの能力を持っている人であっても、研究業績のない人のいうことは……という発想になってしまうわけです。だから、彼らのマインドを、「たとえ名プレーヤーではなくても名コーチであるならば、そのコーチの言うことに従うほうがいい成績を上げることができるじゃないですか」というところへ持っていけるかどうかだと思います。多分、そこらあたりが、日本の大学改革の一番の岐路になるだろうと思いますね。その点、国立大学は、悪しき伝統で、非常に改革を進めにくい面がある。どこかが先鞭をつけて、URAみたいなポストを置き、教授が彼らのことを「この人に従えば、自分の研究業績を向上させることができる」という認識をもって行動するようにならなければ、なかなか今の体質は変わらないんじゃないかと思います。だから、法人化の枠組みについては、若干中途半端なところはあるかもしれませんけれども、機会を捉えて作ることができたが、それを動かすほうのマインドについては、期待されたものにはなっていない、というのが私の国立大学法人に対する評価なんです。

-次にやることは、マインドを変えるための環境を作ってあげるということでしょうか。

森田

そうだと思います。たとえば、東大病院も、歴代の病院長が改革をやったことによって、権威だけはあるが、患者の評判の悪い病院だったのが、今では患者サービスがよくなりました。看護師をはじめコメディカルの方、職員、そして患者さんもそうですし、若い研究者の人たちも、一連の改革で「随分よくなった」と評価しているようですが、こうしたビジネスのセンスというか、マーケティングの感覚を養うことが大切なのではないでしょうか。

2014年8月27日水曜日

素敵な顔

ブログ「人の心に灯をともす」から美しき人になりたく候」(2014-08-21)を抜粋してご紹介します。


「20歳の顔は自然の贈り物。50歳の顔はあなたの功績」(ココ・シャネル)

男性も女性も、その人の長年の生きざまが顔にでる。

卑(いや)しい言動や、卑怯(ひきょう)なことばかりしてきた人は、卑しい顔になる。

自分のことより先に、人の喜びや人の幸せを考えて生きてきた人は、美しい人になる。

何の努力も苦労もせず、もって生まれたスタイルや美貌だけをたよりに生きてきた人は、晩年になって深みのないのっぺらぼうの味のない顔になる。

「物心つくその日から何を思い、何を語り、何をしたか」

美しき人になりたい。


2014年8月25日月曜日

終戦記念日に考える(4)

シベリア抑留 この悲劇を語り継ごう」(2014年08月22日 毎日新聞)をご紹介します。


シベリア抑留を描いたマンガ「凍(こお)りの掌(て)」(小池書院)が2012年に刊行されて以来、着実に売れ続け、今年7月には7刷が発行された。マンガ家、おざわゆきさんが父親の4年間にわたる抑留体験をベースに、悲惨な歴史を伝える労作だ。

筆舌に尽くしがたい寒さや飢え。厳しい強制労働。極限状況で日本人同士が争う姿も、満足に治療を受けないままに亡くなっていく病人の悲惨さも表現されている。親しみやすいマンガだからこそ、地獄のような日々がひしひしと伝わってくる。

第二次世界大戦の終結後、旧満州(現中国東北部)などで降伏した日本兵ら約57万5000人(厚生労働省調べ)が旧ソ連領やモンゴル領に連行され、約5万5000人(同)が抑留中に死去したと推計されている。もっと多かったともいわれるが、全体像は明確になっていない。

元抑留者たちは、当時の最高指導者スターリンが抑留指令を発した8月23日に、毎年、東京都千代田区の国立千鳥ケ淵戦没者墓苑で、犠牲者たちを追悼する集いを開いている。

抑留を体験した人で生存するのは全国で4万数千人と推定される。平均年齢は91歳。直接に証言を聞くことができる時間を大切にしたい。

この1年間でも、シベリア体験を伝え続けてきた多くの人が亡くなった。村山常雄さんは約4万6300人の抑留死亡者の名前(仮名表記を含む)を突き止め、ホームページに公開した。旧ソ連が公開した名簿を他のさまざまな資料と照らし合わせる膨大な作業だった。シベリア抑留については日本政府も、研究者たちも、ジャーナリズムも、実情を明らかにする作業が遅れた。そんな中で、村山さんの仕事は研究の基礎をなすものだった。

抑留体験を描き続けた画家、佐藤清さん、抑留された人々が祖国への思いを歌った「異国の丘」を作詞した増田幸治さんも死去した。

一方で、京都府舞鶴市の舞鶴引揚記念館が所蔵する抑留に関する資料が来年、世界記憶遺産の登録をめざすことになった。舞鶴市は抑留された人々が帰還した地で、歌謡曲「岸壁の母」の舞台でもある。この記念館がシベリア抑留を考える拠点の一つになることが期待される。

来年は戦後70年。北の大地に眠ったままの遺骨の収集、ロシア側の資料公開、中学や高校でシベリア抑留をどう教えていくのかなど、課題は多い。冒頭に一例を挙げたが、マンガやアニメ、歌やテレビドラマがつくられれば、若い世代が歴史を知る貴重なきっかけにもなるだろう。抑留の実態解明を進めるとともに、あらゆる工夫をして、この悲劇を未来に伝えたい。


著者 : おざわゆき
小池書院
発売日 : 2012-06-23

2014年8月24日日曜日

終戦記念日に考える(3)

視点・論点 「シリーズ・戦争と若者 後世にどう伝える」(2014年08月15日 NHK解説委員室ブログ)をご紹介します。


アジア・太平洋戦争について知らない若者が増えてきたと、毎年のように言われています。

2000年にNHKが実施した世論調査によりますと、1959年生まれ以降の「戦無派」では69%が「最も長く戦った相手国」を知りませんでした。また、「広島原爆の日」を知っている若者はたった25%。
逆に.「終戦を迎えた日」を知らない人も16%いることがわかりました。これは、2000年のデータですから、現在の2014年時点では、戦争の記憶はもっと風化していると思われます。

今年5月には、修学旅行で長崎を訪れた横浜市の公立中学校の生徒5人が、被爆の語り部に対して、「死に損ない」と暴言を浴びせかけていたこともわかりました。校長先生が謝罪することになったと報道されています。

この事件は、お行儀の悪い一部の生徒たちが引き起こした問題として、単純に片付けられないものを、含んでいるように思います。つまり、戦争体験者や語り部による「平和学習」について、新しい工夫を迫られているのではないかということです。

大学で教えていても、最近は戦争記憶の風化を確実に感じます。授業後に提出してもらっている感想の中には、驚くべきものが増えてきました。3種類ほどご紹介します。

1つ目は、「日本が、台湾や韓国を植民地統治していたとは知りませんでした」というものです。これは、明治維新以降の歴史を十分に勉強してこなかったことが原因だと思われます。

2つ目の感想はこういうものです。
「日本が真珠湾をいきなり攻撃したからアメリカとの戦争が始まったと思っていました。その前の日中戦争が関係していたことは知りませんでした」
これは、かなり多くの大学生が陥っている問題です。「太平洋戦争」という呼び方が一般的であったため、満州事変から真珠湾攻撃までが連続しているという認識が欠落しているのです。「アジア・太平洋戦争」という呼び方の方が妥当だと思います。

これぐらいなら、まだ驚きませんが、ついに、こういう感想が出てきました。3つ目です。
「日本がアメリカと戦争していたなんて、初めて知りました。びっくりです~!」
この感想を見たときに、「こっちがびっくりです~!」とつぶやいてしまいました。日本とアメリカが戦争をしていた事実を知らない学生が、もう出てきているのです。もはや、確実に、そして急激に、戦争の記憶は、風化して来ていると思います。

修学旅行などで「平和学習」に行く生徒や学生たちの興味は、辛く暗く重たい戦争体験者の話よりは、エンタテインメントに向きがちです。広島原爆ドームより広島お好み焼き、長崎原爆よりハウステンボス、東京大空襲より東京ディズニーランド、沖縄地上戦より海岸でのバーベキューです。

しかし、お好み焼きも、ハウステンボスも、ディズニーランドも、バーベキューも、今が平和だから楽しめるわけです。今、友達といっしょに楽しめる喜び、今皆で将来の夢を語れる社会。これらはすべて、アジア・太平洋戦争という過去の歴史、そして、大きな犠牲の上に成り立っています。さらに戦後、日本人が平和を大事にしてきたという歴史的事実の延長戦上に存在しているわけです。
 

現在の平和と過去の戦争。その2つの時空をつなぐ新しい回路、つまり若者たちが自主的に過去の戦争を学び、今の平和な社会を今後も構築して行こうという意思を育てる歴史学習、平和学習の新しいアイデアや工夫が求められていると思います。

では、どうすればよいのでしょうか。

私の研究室で行った2つの事例を紹介しましょう。

1つは、「戦争体験者や語り部の話を聞くのではなく、逆に生徒や学生が取材をする」という方法です。2007年からゼミで始めたプロジェクトに、「戦争を生きた先輩たち」というものがあります。これは、学徒出陣などで戦場に駆り出された大学の先輩や遺族を捜し出し、後輩の学部生が取材するというものです。これまでに、約50人の証言を記録し、『戦争を生きた先輩たち-平和を生きる大学生が取材し、学んだこと』という書籍として2巻刊行しました。3巻目も現在編集中です。

最初は、学生たちはあまり乗り気ではありませんでした。しかし、戦争を体験した先輩を探し出す作業から自主的にやってもらったところ、学生たちは次第にモチベーションを高めていきました。多くの特攻隊戦死者を出した大学の後輩として、このプロジェクトには責任があるという自覚が学生たちの間で芽生えて行きました。

もう1つの事例をご紹介します。

最近、『証言で学ぶ沖縄問題-観光しか知らない学生のために』という本を出版しました。5年間がかりで、のべ30人の学生が取材に加わり、最終的に26人の証言を収めることができました。沖縄地上戦において、集団自決から逃走して孤児になった方、重症の同級生に手榴弾を渡した元鉄血勤皇隊員、陸軍中野学校出身の兵士の命令でマラリヤ発生地帯に移動させられ感染した方など、沖縄戦に関する貴重な証言が収められています。

しかし、このプロジェクトについても、大きな課題がありました。東京出身の学生にとっては、沖縄は観光地というイメージが先行し、暗い話題はいやだといい、逆に沖縄出身の学生は、小学校からの学習で、沖縄地上戦に対して心理的飽和状態を引き起こし、当たり前すぎて興味がわかないというのです。両者に共通していたのは、「きれいな海岸でバーベキュー」という提案には乗るが、「沖縄地上戦は遠慮したい」という点でした。

私は、「きれいな海岸でバーベキュー」という提案は採用しながらも、沖縄地上戦について、映像で事前学習すること、そして、戦跡3か所を巡ることを条件に、沖縄を訪れることにしました。その3か所とは、旧海軍司令部壕、ひめゆりの塔、平和祈念公園です。この3か所を選んだのは、皮膚感覚で、あるいは5感で沖縄地上戦の現実を学べる場所だからです。

この3か所を巡った後に、約束通り海岸でバーベキューをやりました。すると、ある学生が涙を流し始めました。そして、こう言いました。
「この海岸で、死んで行った人もいる。子どももいたはず。私たちは、ここで楽しんでばかりいて、いいのだろうか」と。
そこから、このプロジェクトは順調に進み、先輩から後輩に引き継がれ、5年かけて証言集の出版までたどり着きました。

平和な時代と戦争の時代。若者の空間と戦争体験者の空間。その2つの時空をつなぐ回路を機能させる工夫が必要な時代になってきました。

今回は2つの工夫についてご紹介しました。戦争体験者や語り部から話を聞くだけでなく、生徒や学生が自ら企画し取材し証言を記録する方法。そして、映像メディアの活用とともに、皮膚感覚、5感を使ったフィールド学習です。

最後に、児童、生徒、学生の皆さんに言っておきたいと思います。

広島でのお好み焼きを味わえること、長崎のハウステンボスで遊べること、沖縄のきれいなビーチでバーベキューできること、それらはすべて、今が平和だからできることです。
原爆や空襲、地上戦における大きな犠牲の延長線上に今の平和があることを、現場でしっかり学んでいただきたいと思います。

2014年8月23日土曜日

広島市豪雨災害義捐金

広島市北部の大規模な豪雨災害を受け、被災地救援のための義捐金の募集が始まっています。
主なものをご紹介します。みんなで心をつなぎましょう。

終戦記念日に考える(2)

今回は、ブログ「外から見る日本、見られる日本人」から戦争とは何か?」(2014年08月15日)をtご紹介します。


終戦記念日が近くなるとどうしても日本のあの過去について考えてみたくなります。勿論、私自身は戦争経験とは縁遠いのですが、幼少の頃、年長者、あるいは自分の親から聞かされてきた断片的な話、それが、書物やメディアを通じた知識と合体し、一定の体系となって自分の頭で戦争の像が描かれるようになります。原爆記念日から終戦というこの8月の10日間はそういう意味で一年の戦争に対する総集的な時でもあります。

バンクーバー郊外で恒例の航空ショーがあり、久しぶりに見に行きました。好天であったこともあり、大変な人出でイベントそのものも昔来た時に比べて「北米のエンタテイメント」具合がグッと上がっており、夏の一日を過ごすにはなかなか面白いと思いました。

そんな中、1940年代に活躍したとされる飛行機がいくつか、曲芸飛行をしていましたが、司会者が「ゼロ戦も彷彿させる…」と紹介していたのが聞こえてゼロ戦は北米で今でも語り継がれる名機であったのか、と改めて思った次第です。よく見ればあんなちっぽけな飛行機でよくぞ戦っていたのだろうと思います。B29がいかに恐ろしかったか、私なりによくわかります。

さて、日本がなぜ戦争の道を選んだのか、ということを考えた時、司馬遼太郎氏はそのきっかけが日露戦争の勝利にある、と考えていらっしゃいます。これは私なりに二つの意味があると考えています。一つはロシアという大国に勝ったという日本人の自負。もう一つは講和で小村寿太郎氏が賠償金を全く取れなかったことへの失望と反感。この二つの相容れない事実が日本人の高揚を推し進めていったとすれば時代背景からしても正しい答えの一つでありましょう。

結局日本は戦争を通じて何を求めたのか、といえば領土であり、支配する地域をより大きく、そして国を豊かにするという支配者の留まるところを知らない欲であります。豊臣秀吉の朝鮮出兵も同じ意味でしょう。それは強い日本を世界に認めさせるという力で圧す重要な外交手段の一つでもあったかもしれません。

ならば、日露戦争後の日本の支配者は誰だったのか、と考える時、それは日本人そのものであり、その存在感を世界に見せつけたかったのかもしれません。しかし、島国が大陸を抑えるというのはいかに難しいか、イギリスの例を見てもわかるでしょう。一時、世界を制覇し、大英帝国を築き上げましたが、ドーバー海峡をこえた対岸を支配することは出来ませんでした。

人々が偉くなりたい、金持ちになりたいという欲求や願望を持つのと同じように国家も一定の成長を望んでおり、世界195か国がみな、別の常識観、価値観で国家の成長を考えています。時としてこの価値観の相違が国家間紛争となるのですが、先進国の中では欧州と日本がその直接的経験者であり、悲惨さを知っているからこそ、戦争に明白な線を敷いています。アメリカは本土が戦場になっておらず、歴史的にはハワイ、ベトナム、あるいはアフガンに「留まって」いるのです。本当の意味でアメリカ人の精神に大きく響いたのは911だったのかもしれません。

先進国は今さら自国が戦場となるような愚かな選択はしないでしょう。それは自分の祖先から聞いた悲惨さ、はかなさをいまだ伝え聞き、より現実味があるからでありましょう。ただ、国家が十分に育成していないところでは残念ながら戦争は起きています。今でも少なくとも世界の三か所でアクティブな戦いを続けています。しかし、ほとんどの戦争が局地戦争で終わっているのは多くの人々は作り上げた富、名声、幸福を既に持ち、感じ、成長に対して一定の満足をしているからではないでしょうか?

戦争はもはやできるものではありません。ならば戦争をすると言ってもいけないし、挑発に乗ってもいけません。戦争に参加するというのは肉体的な健常さと共に不屈なハングリー精神、そして国家によるマインドコントロールがなければなりません。しかし、世の中にモノがあふれ、美味しいものを食べ、おしゃれができて、ITディバイスで人と人がつながるこんな素晴らしい時代になぜ、それでも戦争をしたいと思うのでしょう。もしもそれを口に出す者がいるとすれば不幸以外の何ものでもありません。

最も悲惨な負け方をした日本人だからこそやらなくてはいけないのは万全なる戦争へのpreventive(予防措置的)な対策なのではないでしょうか?これは経験者にしかできない崇高なタスクであるはずです。集団的自衛権が注目されている中、本来最優先され本質的に捉えなくてはいけないことは戦争のない社会を如何に作り上げるか、という高貴さではないでしょうか?

2014年8月22日金曜日

終戦記念日に考える(1)

夏休みも残すところ1週間程度。子ども達も宿題や自由研究に大忙しといったところでしょうか。
さて、今月は、終戦記念日を迎えた月でもありました。今回から数回にわけて関連記事をご紹介します。まずは、各紙の社説などをいくつか。

平和主義を貫く 不戦の誓い 新たなれ(2014年8月15日 東京新聞)

発掘された戦没学徒兵木村久夫の遺書全文は繰り返し読むことを迫ります。そして、八月十五日。不戦の誓い新たなれ、と祈らざるを得なくなります。

戦没学徒の遺稿集「きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)の中でもとりわけ著名な京大生木村久夫の遺書は、実は哲学者田辺元「哲学通論」(岩波全書)の余白に書き込まれた手記と、父親宛ての遺書の二つの遺書をもとに編集されていたことが本紙の調べで明らかになりました。

哲学通論の遺稿と発掘された父親宛ての手製の原稿用紙十一枚の遺書は、このほど「真実の『わだつみ』」の題で本にしてまとめられました。二通の遺書全文は再読、再々読を迫ってくるのです。

◆戦場に無数の兵木村

本紙記者によって書き下ろされた木村の生い立ちや学問への憧れ、二十八歳でシンガポールの刑務所で戦犯刑死しなければならなかった経緯と事件概要が読む手引となり、汲(く)めども尽きぬ思いが伝わってくるからです。哲学通論余白の一言一句、短歌も甦(よみがえ)ります。

と同時に、事件をめぐる軍人たちの行動とその後は、日本と日本人は許されるのだろうか、との暗澹(あんたん)たる気分にも襲われます。

木村が戦争犯罪に問われたのは戦争最末期の一九四五年七、八月、インド洋アンダマン海のカーニコバル島での住民殺害事件。日本軍は住民に英国に内通するスパイの疑いをかけ少なくとも八十五人を殺害してしまいました。

事件は連合軍の反攻上陸に怯(おび)えての幻影の可能性が大きく、裁判なき処刑が行われました。その処刑の残虐、取り調べの残酷、野蛮に情状の余地なく、死者に女性、子供も含まれました。

◆子供らに戦なき世を

シンガポールの戦犯裁判で死刑は旅団長と命令に従った上等兵の木村ら末端兵士五人、事件を指揮命令した参謀は罪を逃れ、戦後を生き延びました。木村遺書の「日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中(まっただなか)に負けたのである。全世界の怒るも無理はない」「最も態度に賤(いや)しかったのは陸軍の将校連中」は抑えきれぬ胸中のほとばしりでした。

木村は「踏み殺された一匹の蟻(あり)」でしたが、現地住民への加害も忘れてはならないでしょう。先の大戦の軍人の死者二百三十万人のうち六割の百四十万が餓死。国家に見捨てられ、食糧の現地調達を強いられた兵士たちは現地住民には「日本鬼」でした。被害の感情が簡単に消えていくとは思えないのです。

アジアを舞台にした大東亜戦争にはおびただしい兵士木村が存在したでしょう。学徒兵木村は「日本軍隊のために犠牲になったと思えば死にきれないが、日本国民全体の罪と非難を一身に浴びて死ぬのだと思えば腹も立たない」と納得させようとしたのです。

終戦の日に不戦の誓いを新たにし、平和を祈念する日であり続けなければならないのは当然です。

全国戦没者追悼式に臨まれる天皇陛下は傘寿。八十年の道のりで最も印象に残るのは「先の戦争」と答えられ、ともに歩む皇后陛下との姿から伝わってくるのは生涯をかけた追悼と祈りです。

戦後五十年の平成七(九五)年に、長崎、広島、沖縄、東京の慰霊の旅をした両陛下は、戦後六十年には強い希望でサイパン訪問を実現させました。

「いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏(あうら)思へばかなし」は、その玉砕の島での美智子皇后の歌。お二人は、米軍に追い詰められ日本人女性が身を投げた島果ての崖まで足を運び、白菊を捧(ささ)げたのでした。

平成七年の植樹祭での皇后の歌は何より心に響きます。「初夏(はつなつ)の光の中に苗木植うるこの子供らに戦(いくさ)あらすな」

来年の戦後七十年、両陛下はともに八十代。このところ天皇の節目の会見でもれるのは歴史への懸念です。「次第に歴史が忘れられていくのではないか」「戦争の記憶が薄れようとしている今日、皆が日本がたどった歴史を繰り返し学び、平和に思いを致すことは極めて重要」。若き政治指導者たちには謙虚に耳を傾けてもらいたいものです。

◆一人ひとりを大切に

十五年戦争で軍の先兵になってしまった新聞ジャーナリズムの歴史も誇れませんが、気骨と見識の言論人の存在は勇気をくれます。桐生悠々は「言わねばならぬこと」を書き、石橋湛山は「私は自由主義者だが、国家に対する反逆者ではない」と抵抗を貫きました。

民主社会での報道の自由と言論は、国民に曇りなき情報を提供して判断を委ねるためです。そのための権力監視と涙ぐましい努力を惜しまず、一人ひとりが大切にされる世でなければなりません。 


8・15と戦争 記憶の継承の担い手に(2014年08月15日 毎日新聞)

終戦記念日の8月15日は、正確には敗戦の日である。中国を侵略し、米国を奇襲攻撃した日本は、69年前のこの日、一億玉砕を叫びながら万策尽き果て、降伏した。無謀な戦争による犠牲者は、日本人だけで310万人、アジアでは2000万人以上にのぼるとされる。

8月になると、新聞に戦争を振り返る特集が増える。夏だけの「8月ジャーナリズム」とやゆされたりするが、8・15が巡ってくるたび、内外の死者を静かに追悼し、戦争と平和について深く思いを致すのは、欠かせない儀礼である。

◇人を人でなくすもの

来年は戦後70年の節目だ。戦後生まれの日本人が人口の8割を占め、戦争をじかに知る人は、大半が80代から90代の高齢者である。国民の記憶の中で戦争が風化し、戦争をゲーム感覚で考えたり、戦争への郷愁を口にしたりする風潮さえも、見受けられるようになった。

残された時は少ない。戦争の記憶の継承は、未来を再び過たせないための、喫緊の課題だ。

戦争を知らない世代でも、戦争体験者の語る言葉や書き残したもの、文学作品などを通じ、戦争の姿を思い描くことはできる。

フィリピンでの戦争体験を「俘虜記」「レイテ戦記」などの文学に昇華させた大岡昇平は「兵士として、戦争の経験を持つ人間として、戦争がいかに不幸なことであるかを、いつまでも語りたい」と書いた(「戦争」岩波現代文庫)。その心情を受け止め、一人一人が記憶の継承の担い手となって、戦争の愚かさを伝えていくことが大切だ。

学徒動員で沖縄戦を戦った元沖縄県知事の大田昌秀さんは、世界のさまざまな戦争の写真を集め、その残虐さを告発してきた。

首をはねられる兵士、腹を裂かれた子供、焼け焦げた女性。目を背けたくなるような写真の数々を「人間が人間でなくなるとき」という題の記録集にまとめた大田さんは、次のように記している。「私たち個々人は、時と場合によっては、自らが容易に『非人間化』されてしまう存在であるばかりでなく、他人をも非人間化してしまう存在だということを確認する必要がある」

戦争は、まさに「人間を人間でなくす」不条理であり、命の尊厳を踏みにじる狂気である。

第一次世界大戦を描いた反戦文学として名高いレマルクの「西部戦線異状なし」は、主人公のドイツ人志願兵パウル・ボイメルの死を、読む者に知らせて終わる。

ドイツ出身で、自ら第一次大戦に従軍した作者レマルクは、最後の場面を「その日は全戦線にわたって、きわめて穏やかで静かで、司令部報告は『西部戦線異状なし、報告すべき件なし』という文句に尽きているくらいであった」(新潮文庫版・秦豊吉訳)と描写した。

第一次大戦の開戦から今年で100年。死者は最大で1500万人とされている。ボイメル志願兵も、歴史の片隅に埋もれていった、1500万分の1人だった。

太平洋戦争では、米軍の東京大空襲により、一晩で10万人が犠牲になった。原爆は広島、長崎で20万人以上の命を奪った。ほかにも無数の都市爆撃があった。土岐善麿は、日中戦争をこう詠んだ。「遺棄死体 数百といひ数千といふ いのちをふたつ もちしものなし」

◇加害の責任も忘れず

かけがえのない「生」の集積が、何万、何十万の犠牲である。その想像力を持つことが、戦死者を追悼するという行為である。

であるなら、日本軍の犠牲になった、おびただしい数のアジアの死者も忘れてはならない。

日中戦争、太平洋戦争の犠牲者はアジア全体に広がる。戦争の不条理と戦死の痛ましさに、国境はない。内外の死者を等しく追悼する誠実さを身に備えることは、アジアに計り知れない人的、物的被害を与えた日本の、当然の務めだ。

戦争は、国と国を長きにわたって不和にし、憎しみの感情を植えつける。加害の記憶がともすれば忘れられがちなのに対し、被害の記憶はずっと残る。中国や韓国との根深い歴史対立は、加害者と被害者が、それぞれの歴史の記憶をどう継承していくかの摩擦でもある。

歴史の記憶の仕方は、国によって異なるかもしれない。だが、その対立が、戦争の悲惨さを覆い隠すことになってはならない。

今、集団的自衛権の論議で、武力行使のあり方が問われている。戦争には侵略に対抗する戦争も、人道支援が目的の、やむをえない戦争もある。軍事的抑止力を持つことは、平和のためにも必要だ。

ただし、どのように始められ、どのように終わったとしても、戦争は国家と国民にむごたらしい傷と、負の遺産をもたらす。それが戦争の現実である。武力行使という言葉は、深く考えないままに、安易に使われるべきものではない。

二度とあのような戦争は経験したくない、というのが、ほとんどの国民の願いだろう。平和を論ずるにあたっては、戦争の醜さと残酷さを、常に原点に置きたい。


戦後69年の言葉―祈りと誓いのその先へ(2014年8月15日 朝日新聞)

この69年間、日本において戦争といえば、多くは1945年8月15日に敗戦を迎えた過去の大戦のことであり、そうでなければ、世界のどこかで起きている悲惨な出来事だった。

だが7月1日、集団的自衛権の行使容認が閣議決定され、戦争は過去のものでも、遠くのことでもなくなった。

■戦争と日本の現在地

国民的合意があったわけではない。合意を取り付けようと説得されたことも、意見を聞かれたこともない。ごく限られた人たちによる一方的な言葉の読み替えと言い換えと強弁により、戦争をしない国から、戦争ができる国への転換は果たされた。

安倍首相は8月6日の広島、9日の長崎という日本と人類にとって特別な日の、特別な場所でのあいさつを、昨年の「使い回し」で済ませた。そればかりか、集団的自衛権に納得していないと声をかけた被爆者を「見解の相違です」と突き放した。

見解の相違があるのなら、言葉による説得でそれを埋める努力をするのが、政治家としての作法である。ところが首相は、特定秘密保護法も集団的自衛権も、決着後に「説明して理解を得る努力をする」という説明を繰り返すだけ。主権者を侮り、それを隠そうともしない。

男性23・9歳。女性37・5歳。敗戦の年の平均寿命(参考値)だ。多大な犠牲を払ってようやく手にしたもろもろがいま、ないがしろにされている。

なぜ日本はこのような地点に漂着してしまったのだろうか。

哲学者の鶴見俊輔さんが、敗戦の翌年に発表した論文「言葉のお守り的使用法について」に、手がかりがある。

「政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている」

■お守り言葉と政権

お守り言葉とは、社会の権力者が扇動的に用い、民衆が自分を守るために身につける言葉である。例えば戦中は「国体」「八紘一宇(はっこういちう)」「翼賛」であり、敗戦後は米国から輸入された「民主」「自由」「デモクラシー」に変わる。

それらを意味がよくわからないまま使う習慣が「お守り的使用法」だ。当初は単なる飾りに過ぎなかったはずの言葉が、頻繁に使われるうちに実力をつけ、最終的には、自分たちの利益に反することでも、「国体」と言われれば黙従する状況が生まれる。言葉のお守り的使用法はしらずしらず、人びとを不本意なところに連れ込む。

首相が、「積極的平和主義」を唱え始めた時。意味がよくわからず、きな臭さを感じた人もいただろう。だが「平和主義」を正面から批判するのはためらわれ、そうこうしているうちに、首相は外遊先で触れ回り、「各国の理解を得た」と既成事実が積み上がる。果たして「積極的平和主義」は、「武器輸出三原則」を「防衛装備移転三原則」へと転換させる際の理屈となり、集団的自衛権行使容認の閣議決定文には3度出てくる。

美しい国へ。戦後レジームからの脱却。アベノミクス――。

さあ、主権者はこの「お守り言葉政権」と、どう組み合えばいいのだろうか。

■8・15を、新たに

「今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です」

9日、長崎での平和祈念式典。被爆者代表として登壇した城臺美彌子(じょうだいみやこ)さんがアドリブで発した、腹の底からの怒りがこもった言葉が、粛々と進行していた式典の空気を震わせた。

ぎょっとした人。ムッとした人。心の中で拍手した人。共感であれ反感であれ、他者の思考を揺さぶり、「使い回し」でやり過ごした首相を照らす。

まさに言葉の力である。

デモ隊が通り抜けた渋谷でも、揺さぶられている人たちがいた。隊列をにらみつけ、「こんなことやる意味がわかんない。ちゃんと選挙行けよ」と吐き捨てる女性を、隣を歩く友人が苦笑いで受け止める。「戦争反対」とデモのコールをまねて笑い転げるカップル。日常に、ささやかな裂け目が生じた。

お守り言葉に引きずられないためには、借り物ではなく、自分の頭で考えた言葉を声にし、響かせていくしかない。どんな社会に生きたいのか。何を幸せと思うのか。自分なりの平たい言葉で言えるはずだ。

8月15日は本来、しめやかに戦没者を悼む日だった。しかし近年は愛国主義的な言葉があふれ出す日に変わってしまった。静寂でも喧噪(けんそう)でもない8月15日を、私たちの言葉で、新たに。


歴史に学んで昭和の惨禍を繰り返すな(2014年8月15日 日本経済新聞)

先の大戦が終わって69回目の8月15日を迎えた。戦禍を被った多くの犠牲者の冥福を祈り、平和への誓いとしたい。

今年5月、修学旅行で長崎を訪れた中学生が原爆被害の語り部を「死に損ない」とののしる出来事があった。けしからぬというのはたやすいが、その年齢だと祖父母でも戦争体験がない人もいるだろうし、日ごろこうした問題を身近に考える機会がないに違いない。

日本国民の8割が戦争を知らない世代である。日本がなぜ戦争へと突き進んだのかを語り継ぐのは容易ではない。

今年はマグロ漁船「第五福竜丸」が南太平洋での水爆実験で被曝(ひばく)してから60年に当たる。船体を保存してある展示館を訪れたら、他に数人しかいなかった。戦前・戦中どころか戦後も遠くなりにけり、である。

ただ、時がたつのは悪いことばかりではない。

筒井清忠著「二・二六事件と青年将校」など同事件を扱った研究書が相次いで出版されている。筒井氏は、同事件が陸軍長老の陰謀との見方を否定するとともに、首謀した将校たちの目指す方向が必ずしも一致していなかったことを詳述している。

同事件の研究は、歴史研究家の北博昭氏が軍法会議の記録を東京地検の倉庫で見つけ出したことで近年、大きく進展した。当時を知る世代が少なくなり、厳秘だった資料が公になり始めた。

「終戦の放送をきいたあとなんとおろかな国にうまれたことかとおもった」

作家の司馬遼太郎は著書「この国のかたち」でこう書いた。そこにはさまざまな意味が込められていよう。日露戦争などの勝利におごり、無謀な戦争を始めた指導層の判断力のなさがそうだし、最後は竹やり突撃まで持ち出した異様な精神主義もそうだ。

その結果、310万人もの日本人が命を落とし、近隣諸国にそれを上回る被害を与えた。連合国が戦犯を裁いた東京裁判の正当性を巡る議論は尽きないが、当時の戦争指導者に重大な責任があったことは否定できまい。

新たな資料の発掘などにより歴史研究が進めば、何が日本をそうした国にしたのかをさらに深く考えることができる。歴史に学ぶとは、同じ過ちを繰り返さないことだ。昭和の惨禍があってこその平成の平和である。


高齢化する戦争体験者「伝え残したい」 NHK戦争証言アーカイブス・プロデューサーに聞く(2014年8月14日 THE PAGE)

今年8月15日で終戦から69年。戦争当時を知る戦争体験者は高齢化で年々少なくなっている。そんな中、元兵士や市民など戦争体験者の証言を集めて公開しているのが動画サイト「NHK 戦争証言アーカイブス」だ。なぜ戦争体験を次世代に伝えようとしているのか。その立ち上げを主導し、いまもチーフ・プロデューサーとして関わるNHKの太田宏一氏(51)は「戦争体験者の『語り残したい』という強い思いを感じる」と語る。・・・

NHK 戦争証言アーカイブス

2014年8月21日木曜日

認知症への偏見を無くす

徘徊ではないという理解のすすめ-言葉づかいから拡げていこう! 認知症の人を支える町づくり」(2014-08-11 ニッセイ基礎研究所)をご紹介します。


10,322人。これは、平成25年度に警察に届けられた、認知症の人の行方不明者数です。実に、行方不明者全体の12.3%を占めており、想像以上の長距離移動になっているケースも少なくないとのこと。保護された方の照会書の誤記入で、何年もの間、家族と離れ離れになってしまったという出来事には胸が絞めつけられる思いにもなりました。

最近、テレビや新聞などでは、こうした認知症に関わる報道が頻繁に取り上げられるようになりました。これらの報道を見聞きする中で気になっていること。それは、同じニュースを取り上げていながら、番組によって、紙面によって、そこで使われている言葉づかいには微妙に異なる点があるということです。例えば、行方不明になる認知症の人について、多くの報道では次のような表現を用いています。

「認知症による徘徊(はいかい)が原因で行方不明となる高齢者が増えています。」

しかし、一部の報道では、「徘徊」という言葉を一切使わずに情報を伝えています。これは偶然でしょうか。私が接した報道関係者の話によると、同じ組織の中でも認知症に関する認識はそれぞれ異なり、認知症の課題を当事者の視点で捉えられるか否かによっても、そこで用いられる表現はずいぶん違ってくるということを聞きました。私は、「徘徊」という言葉を目にしたり、耳にしたりすることが増えれば増えるほど、逆に、この言葉を使わないで報道している人たちの言葉づかいへの「拘り」を感じずにはいられないのです。

「徘徊」とは、「目的もなく、うろうろ歩き回ること」と説明されますが、行方不明になる認知症の人が、本当に目的もなくうろうろしていたかどうかは本人にしか分からないことです。それどころか、認知症ケアに携わる専門職に聞くと、認知症の人の行動の全てには意味があるということを教えてくれます。たとえ、その行動が辻褄の合わない理解しにくいものだとしても、周囲が「徘徊」と決めつけている認知症の人の外出などには、その人なりの目的があるという意味です。

たとえば、周囲には「徘徊」に見える行動を、認知症の人の立場から表現するとどうなるでしょう。家族思いのAさんは、「もうすぐ娘が帰ってくるので、駅まで迎えに行くところ」なのかもしれません。デイサービスに来ているBさんは、「知らない人ばかりで居心地が悪いから、自宅に帰らせてもらいます」と言うかもしれません。私ごとになりますが、数年前に他界した父親は、長い間、脳こうそくによる介護生活を送っていました。ある日のこと、私は、玄関で革靴を探している父親を発見。退職してから何年も経っているのに、「決算だから会社に行かなければならない」と、きっぱり言っていました。パジャマ姿のままで。

今、世の中で使われている「徘徊」という言葉は、本人の目的の有無などはおかまいなく、認知症の人が一人で歩いていることイコールで使われていることが多くあります。しかし、それでは社会の方から「認知症の人の行動には意味がない」というレッテルを貼っていくことになりはしないかということを考えます。

認知症で徘徊する人を守るために・・・
認知症で帰れなくなる人を守るために・・・

見過ごしてしまうほどの大差ない表現の違いかもしれません。問題は、言葉づかいにあるのではなく、認知症の人が行方不明になることだと言われてしまうかもしれません。しかし、この‘小さな違い’には、これから創ろうとしているセーフティーネットや、認知症の人にやさしい町づくりの入口のところで、どこか‘根本的な違い’を生んでしまうということはないのでしょうか。今年6月、認知症の人やその家族の応援者である「認知症サポーター」は500万人を超えました。多くの自治体では、認知症の人の住み慣れた地域での暮らしを支える体制づくりを本格化させています。そんな動きがある今だからこそ、認知症という病気への偏見を無くすことへの「拘り」を持った取り組みが大切になると思うのです。

2014年8月20日水曜日

「知識」をシェアすること

ブログ「教授のひとりごと」から真のコミュニケーションとは」(2014-08-08)をご紹介します。


日経産業新聞(7/25付け)に「ウィリアム氏と明日を読み解く」欄に『真のコミュニケーションとは』という記事があった。

コミュニケーションとは、「ナレッジをシェアすること」です。組織で培ってきた知識をチーム全員で共有することこそがコミュニケーションと私は思います。休日の行動や趣味の話は知識ではありません。場合によっては重要かもしれませんが、あくまで「情報」にすぎません。

上司や組織が持つ「知識」をシェアしていくことで、組織は「チーム」になっていくのです。そのときに重要なのが上司のリーダーシップであり、コミュニケーションをはかることです。米国では、部下を説得すること=リーダーの役割です。だから、小学生のときから授業で説得力をつけるトレーニングをします。自分の持っている意見や知識を伝えることで信頼を得るのです。相手を納得させるためのスピーチ、表現力が求められます。

日本ではどうでしょうか。情報を正確に伝えられる人はたくさんいます。ですがプラスして自分の意見を伝えること、知識をシェアすることを意識して部下と接しているいる人がどれくらいいるでしょうか。米国では、意見のないリーダーは見向きもされません。

とはいえ、突然自分の意見を押し付けても受け入れてはもらえません。だから、日々の案件を通じてあなたの意見を伝えてください。たとえば「A、B、Cのどれにすればいいでしょうか?」と部下に聞かれたとします。「俺ならAだな」では、コミュニケーションになりません。

まず、部下に考えさせてください。彼らの考えをくんだうえで、あなたの意見を述べてください。答え合わせではなく、考え方、思考のプロセスを確認するのです。あなたと部下が「思考を共有すること」で初めてコミュニケーションが成立します。

考え方の道筋が同じならば、別の案件でも、部下はあなたがベストだと考える答えに近づく提案ができるようになります。少なくとも、とんでもない間違いはなくなるはずです。もし、それでも成果が出ないような場合には「なぜうまくいかなかったのか」を話し合ってください。そのときには、単純な情報の伝達ではない「コミュニケーション」が生まれているはずです。

講義もコミュニケーションの一種だろう。一方通行型の講義もあるかもしれないが、教員と学生とのコミュニケーションが必要だ。学生の資質も教員が学生だった時代に比べて変わってきている。それを理解した上で、授業を組み立てることも必要となっている。

昨年から「建築キャリアデザイン」という授業を始めた。夏休みに入ってから4日間の集中講義で、学外から実務者(卒業生)を招いて話をしてもらった。講師から20分ほど話をしてもらった後、質疑応答の時間としたが、なかなか手が挙がらないときもあった。おそらく話を聞いても専門用語もあるので、わからないことも多いのではないかと想像しているが・・・

講師としてさまざまな職種の方々を招いた。多くの講師がコミュニケーション能力の大事さやいろいろなことにチャレンジする熱意の重要性などを強調していた。コミュニケーション能力を高めるためにも、このような授業では積極的に発言してもらいたいところだ。授業に参加した学生が将来の進路を考えるきっかけになれば嬉しい。

昨年の学生の参加状況に比べて、今年の参加者は少なかった。履修登録するときに、もっと積極的に呼びかける必要があるのかもしれない。参加した学生からの評価は良好だった。「最初は(夏)休みが減ってイヤかなと思っていましたが、休みなんかよりも貴重な時を過ごすことができました。」や、「OBの方に実際の仕事内容を聞けて、建築業界について知ることができたし、自分はどんなことに興味があるのかわかった。とてもよかった。」などといった感想もあった。来年は1年生だけでなく他の学年にも参加を呼びかけよう。

2014年8月19日火曜日

子どもの頃の夏休みなど

自由民主党幹事長の石破茂さんのブログから夏休みの思い出など」(2014-08-08)をご紹介します。


子どもの頃の夏休みについて、前回に続いてもう少し記したいと思います。

読書感想文の課題図書は毎年どうしてこんなにつまらないのか、と思ったものですが、それを読んだ感想はどうしてもあらすじ紹介みたいになり、「…ここはとても面白かったです」「…ここはとても可哀相だと思いました」などとその場面場面に応じた感想を書くような代物になってしまい、夏休みで帰省していた当時大学生だった姉に「こんなものは読書感想文ではない!」と叱られて泣きそうになったものでした(ちなみに我が家の女性たちは皆教員資格を持っており、実際母は国語、上の姉は英語、下の姉は歴史の教師でした)。

自由研究がまた難物で、小学四・五年の時(昭和四十一・四十二年)はスクラップブック作りという一風変わった研究(?)をしていました。

その頃父が公職にあったため、住んでいた官舎は朝日から産経まで全紙購読しており、新聞によってものの見方がこんなにも違うものかと幼心に思ったことでした。

晩夏から初秋にかけて内閣改造が行われるのは当時も恒例行事であったようで、「遅咲きの桜、満面の笑み」「苦節○○年、大願成就」などという佐藤改造内閣の顔ぶれ紹介記事のタイトルを今も妙に覚えています。

そのメンバーのどなたも今、存命ではありませんが、悲喜こもごもの光景は昔も今も同じようです。

随分以前にもご紹介したかと思うのですが、夏休みを題材とした小説で一番印象に残っているのは、柏原兵三の「夏休みの絵」、これを小編にした「短い夏」ではないかと思います。

「僕はきわめて自堕落にその年の夏休みを過した。そして本当に夏はあっという間に過ぎてしまい、僕の夏休みに寄せた期待の十分の一も実らない内に僕はもう秋の中にいた」という「短い夏」のラストは実に秀逸で、作者の早逝がとても惜しまれます。

柏原兵三の作品では「徳山道助の帰郷」(芥川賞受賞作)、「独身者の憂鬱」、「兎の結末」も好きでした。

笹井副センター長の自死には、何ともやりきれない思いが致します。そこまで追い詰めたマスコミの責任は何ら問われず、やがて何事もなかったかのように人々の記憶が風化していくのも通例ですが、当事者の苦しみや悲しみを(少なくとも紙面や映像では)顧みることも、自らの責任を問うこともしないままに、「報道の自由」の名のもとに「責任ある職にある者はいかなる批判も浴びて当然」とばかりに非難を繰り返すのは、とても悲しいことです。

それを所与のものとしてなお耐え抜くのが、責任の重い立場にある者の務めなのであり、実際そのように強くて立派な人も居るのですが、「そんな目に遭うぐらいなら責任ある立場などには就きたくない」「責任ある立場に就いてもなるべくリスクは冒したくない」と思う人も居るのではないでしょうか。

故・新井将敬代議士や故・松岡利勝農水相、最近では故・松下国務相など、自ら命を断った友人・同僚の胸中を察するとき、ご批判覚悟で敢えて申し上げると、私は切なくてなりません。一部、人間の心の奥底のどこかに、他人の不幸を喜ぶというどうしようもない性があるように思い、厭で堪らなくなります。

研究者たちがこの悲しい出来事を乗り越え、日本の科学発展のために更に邁進されることを祈る他はありません(どうしてこんな月並みなことしか言えないのでしょう)。

従軍慰安婦を巡る朝日新聞の一連の報道の「取り消し」には本当に驚きましたが、これを受けての韓国各紙の「朝日新聞、安倍右翼政権を批判」という反応にも「それは少し違うのではないか」という思いを持ちました。

長大な取り消しの記事でしたし、母国語に正確に訳し、ニュアンスを把握することが時間的に困難であったのかも知れませんが。

「議会が決めることではあるが、朝日の記事を基にして今日まで日韓関係が論じられてきたことは確かであって、これを契機に日韓関係の今後のあり方が国民の代表である国会の場で論じられることもあるのではないか」との趣旨で私がコメントしたところ、早速翌日某紙一面トップに「言論に圧力が加えられる恐れもある」などという記事が載り、あまりに型どおりの展開に思わず苦笑してしまいました。

「糾弾しようとか、責任を追及しようというのではなく、これによって形成された日本・韓国国民の苦しみや悲しみをどう解消し、今後の日韓関係をどのようにして改善するかを論ずるのも議会の役割ではないか」とコメントしたことが、何故言論の弾圧に結びつくのか、私にはよく分かりません。

昨日から本日にかけて、「無派閥連絡会」(会長・山本有二元金融相)の夏季研修会にゲストとして参加し、講演を行ったり懇親会に出席したり致しました。

派閥に所属していない議員が情報、政策、選挙支援などの面で不利な立場にならないように設立された会で、独自の事務所を設置したり、ポストの配分を求めたりしない、などの点で所謂「派閥」とは性格を異にする集まりなのですが、ほとんどのマスコミは「事実上の石破派」が「人事を控えて結束固めを図った」というトーンの報道のようで、「とにかくそうに違いない!」「そう決めつけて、今後の政局の材料にしなくてはならないのだ!」という固い決意(?)のようなものが感じられます。どうして素直に物事が見られないのか、これも私にはよく分かりません。

昭和59年夏、私は初めて渡辺美智雄先生の主催される派閥横断の政策勉強会「温知会」の研修会に参加し、先生から「君たちは何のために政治家になりたいのか。カネが欲しい、先生と呼ばれたい、いい勲章が欲しい、女性にモテたい、そんな奴は政治家になってはならない。政治家の仕事はただ一つ、勇気と真心をもって真実を語ることだけだ」とのお言葉をいただきました。そしてそれが、その後の私の政治家としての生き方を大きく決定づけました。

勿論、私は今でもそれには遠く及ばないのですが、研修会の意義とは、まさしくそのような機会に接することにあるのだと思うのです。

来週から一応何日か、細切れにお休みを頂きます。
体調の回復、考え方の整理、己に対する反省と、地元でのお初盆廻りに充てたいと思っております。
来週のこの欄はお休みさせていただきます。
立秋とは言え依然として酷暑の日々、体調にお気をつけてお過ごしくださいませ。

2014年8月 8日 (金)

2014年8月18日月曜日

自分以外はみんな師匠

ブログ「今日の言葉」から持ち帰る」(2014-08-08)をご紹介します。


家に何かを持ち帰りたいなら、

大きなかごを持ち歩きなさい。

ローズ・ホーキンス


ピーター・ドラッカーをして「米国最高のマネージャー」と言わしめた、フランシス・ヘッセルバインの著書「あなたらしく導きなさい」からのご紹介です。

彼女がガールスカウトのとある支部のリーダーをしていたときに参加した研修会で、「何も得るものがない」と他の支部のリーダーが言うのを聞いて、知り合いのローズに相談したところ、「昔から伝わる古い格言だけど」と紹介されたのがこの言葉だったそうです。

自分のかごが小さくて入りきらないから、「得るものがない」と感じるだけで、大きなかごには大きな志や大きなビジョン、大きな期待、大きな影響力を入れられる。

だから大きなかごを持つ人は、何を見ても学び取ることが出来るのです。すなわち自分自身の度量を大きくしておくことの大切さを説いたものですね。

「無駄だった」と思ってしまうのは、無駄なことだとしか感じられない自分自身の能力の言い換えなのです。

良いものを見たら吸収すれば良いし、期待外れだったら自分の反面教師にすれば良い。

論語にも、『子曰く、三人行(あゆ)めば、必ず我が師有り。その善き者を択(えら)びて而(すなわ)ちこれに従い、その善からざる者は而ちこれを改む。』とあります。

意味は、『三人で連れ立って歩けば、必ず自分の師を見つけることができる。善い仲間を選んで、その善い行動を見習い、悪しき仲間を見れば、その悪い行動を改めるからである。』ということ。

自分以外はみんな師匠、という気持ちで、道端の石ころからも哲学的なひらめきを得るように、人のみならず、自然からも学べることもあるでしょう。


2014年8月17日日曜日

介護離職と2025年問題

「突然親が介護に!仕事はどうする!?」(2014-08-06 日経ビジネス)から抜粋してご紹介します。


「介護離職」という言葉が聞かれるようになりました。少子高齢化時代の本格化を前に、働き盛りの40~50代が親の介護に直面する事態が急増しています。仕事と介護の両立は大きな課題です。まずは以下のAさんのケースをお読みください。あなたにとっても、決して他人事ではないはずです。

埼玉県に住むAさん(45歳)は毎週末、郷里に住む母の面倒を見るため、新幹線に乗って静岡県へ向かう。普段は母の家の近くに住む兄夫婦が主に面倒を見ているが、兄夫婦一家には小学生の子供たちがいる。「子供たちの学校も休みだし、週末くらいは介護から離れたい」と半年前に頼まれ、引き受けるようになった。兄弟同士、介護の分担も平等にしたいとする兄夫婦の主張を受け入れた形だ。

Aさんはメーカーの営業マン。出張であちこち回ることが多いため、移動は苦ではない。だが週末の休みを使っての介護は、続けるとなかなか辛いものがある。片道3時間近くかけて土曜日の午後、母の住む実家に到着。その後入浴や食事の介助を含めた身の回りの世話を泊りがけで日曜日の夕方まで行う。そして日曜日夜9時前に埼玉の自宅に戻る。月に1回は妻が代わりに行ってくれるが、妻は実家の勝手が分からない上、車が運転できない。本数の少ないバスに乗るか、兄夫婦に送迎をお願いする形になってしまう。そのため週末の介護はAさんがメーンにならざるをえない状況だ。

79歳の母は足腰が弱い上、軽度の認知症を患っている。2011年に認知症と診断され、2013年の夏ごろから徘徊が始まった。今のところ、大事に至ったことはないが10キロ離れた所で見つかったこともある。そのため、徘徊が始まってからは誰かが必ず交代で泊まり込みで母の家にいなければならなくなった。施設への入所も検討したが、入居金や利用料が高めの老人ホームは家計的に厳しい。特別養護老人ホームやグループホームは常に待機待ちの状態で、入れるのはいつの日になるか分からない。今のところ、週3回のデイサービスを利用することで何とか負担を軽減することができている。

「週末介護が始まってから、疲れが取れず、仕事にも集中しづらくなった。休みの日に自分の子供たちを遊びに連れて行くこともできない。だが、介護は子供として続けなければならない義務」と、Aさんは話す。

「2025年問題」で介護が急増?

Aさんのように、働きながら介護を続ける人は年々増え続けています。「2025年問題」と呼ばれる団塊世代の高齢化が本格化する中で、要介護認定者が今後さらに増えるのは確実です。一方で、少子化で介護の担い手は減り続けます。一人っ子が両親の介護を一手に引き受けるなど、負担を抱え込んでしまうケースも少なくありません。Aさんのように「週末介護」で対応できるのはまだ良い方かもしれません。最悪、介護を理由に離職せざるを得ない場合もあるからです。

総務省の「平成24年度就業構造基本調査」によれば、働く介護者は291万人。その中心は40~50代で、男性131万人、女性160万人となっています。同調査では、過去1年間(2011年10月~2012年9月)に介護・看護を理由とする離職者は10万1000人でした。生産年齢人口が減少していく中で、介護離職が増加していくことは、日本経済にとってもゆゆしき事態です。

離職を防ぐためにも、働く介護者を支える両立支援は必要になります。ただ、その環境は十分整っているとは言えません。企業および行政が取り組むべき課題はどこにあるのでしょうか。

2014年8月16日土曜日

大学の使い方

大学の敷居」(2014-08-03 福島民報)をご紹介します。

産官学連携などを議論する場で、「大学は敷居が高い」とよく言われる。言葉の意味をあらためて調べてみると、「不義理や面目のないことがあって、その人の家に行きにくい」(デジタル大辞泉)と記されている。

その補説には、「文化庁が発表した平成20年度『国語に関する世論調査』では、『あそこは敷居が高い』を、本来の意味である『相手に不義理などをしてしまい、行きにくい』で使う人が42・1%、間違った意味『高級すぎたり、上品すぎたりして、入りにくい』で使う人が45・6%という逆転した結果が出ている」とある。

先の指摘は、解説にある間違った意味に当たるが、一般には、「大学は訪ねにくいところ」と考えられているようである。

専門分野については、大学で行われている研究は先端的なものであるが、大学は専門分野の「技術レベルが高い」「周辺技術に関する多くの情報を持っている」と認識されるべきである。専門性の高い教育・研究を行っていることが、専門家以外にとっては「訪ねることが難しいところ」という印象を与えているのかもしれない。

大学は教育・研究機関であることはもちろんだが、その役目の一つには、さまざまな形での地域貢献が含まれている。そして、地方中核都市にある大学の教育は、地域社会に支えられていることも多い。

地域社会の支援に感謝を込めた社会貢献の一環として、本年4月に落成した屋内相撲道場は、子どもたちに安全・安心な運動の場を提供するため一般開放している。

開放を機会に、小学生から社会人までのメンバーで郡山北桜相撲クラブを結成して毎日汗を流している。メンバーの中には所属中学校で県大会団体準優勝などの戦績を残すものが現れている。

各地域の優れた指導者のもとでこれまで練習を重ねてきたことに加え、施設利用と大学・高校コーチの指導がそれを後押ししていると考えると、大学の使い方も広がってくる。

大学保有の財産の中には、教職員の知的財産、学生という人材、各種の施設がある。これらを有効に活用して地域の活性化につなげたいと考えている。大学との連携というと、知的財産の活用にとらわれていないだろうか。

2009年まで天栄村で開催されたYOSAKOIソーランジュニア東日本大会(現在は下郷町で開催)は、大学生の支援がなければ運営は困難であったと伺っている。学生という人材の活用例である。

工学に関して、ものづくりの原点は人づくりにあると思って、教育・研究に携わっているが、大学保有のさまざまな財産を地域社会で活用していただくことも地方中核都市にある大学の役目の一つである。その時、間違った意味での「大学の敷居」は高くない―と捉えてほしい。(出村克宣、日大工学部長)

2014年8月12日火曜日

金さえあれば学生が集められるシステム

井上久男さん(ジャーナリスト)が書かれた平安女学院大学、倒産寸前から再生で就職率100%達成 “大学のゴーン”が狙う次の一手」(2014-07-08 Business Journal)をご紹介します。


弱肉強食といった「強欲資本主義」の流れが私立大学の経営にまで及んできている。学生数が多い、規模の大きな大学が、巨額の入学検定料や学費収入を使って展開する過大な宣伝広告によってさらに学生をかき集め、それがさらなる入学検定料や学費の増大につながるといった好循環を生み出す。定員充足率が高く、資金が豊富にある大学ほど文部科学省の補助金が手厚く行きわたる制度に変更されており、なんのための補助金かという意義も問われそうだ。

その一方で、規模の小さな大学はまったく逆のパターンである、学生数の減少→収入減→宣伝できないことによる認知度低下→学生数減少(定員割れ)→補助金削減といった悪循環に陥っている。

少子化による学生数の減少というマクロ的な問題を抱えている中で、学生の奪い合いが起こり、資金力のある大学が施設の改良や宣伝面も含めたさまざまな戦略に取り組み、少ないパイを奪っていく流れは仕方ない面もある。さらにいえば、経営努力の足りない私学が淘汰されていくのも時代の流れであろう。

しかし、あまりにも今の流れは、都会にあるマンモス大学の「強者」だけしか生き残れない流れが加速しすぎている。経営努力をして特色ある教育も実施していながら、規模が小さく地方にあるというだけで、その存続が危ぶまれかねない私学が出始めているのだ。果たしてそれでよいのか。大学は、教育と経営の両方がわかる専門性の高い人材が運営していく「社会的共通資本」であり、決して市場の論理だけで淘汰されてよいものではないはずだ。優れた「松下村塾」的大学を潰してはならないのではないか。

こうした流れに対して問題提起するのが、京都市内に本拠を構える学校法人・平安女学院大学の山岡景一郎理事長兼学長だ。山岡氏は2003年に理事長に就任。経営破たん寸前だった同大学を、大胆なリストラと、教育を受ける立場から見てのカリキュラム改革や学部再編などを通じて見事再生させ、就職率の高い大学として評価を得てきた手腕がある。「私学業界のカルロス・ゴーン」と呼ぶ人さえおり、山岡氏から大学再生のノウハウを得ようとする私学経営者も増えている。公益財団法人・私学経営研究会が14年4月に発行した「私学経営」という雑誌には「常識破りから始める私学の賃金問題~平安女学院大学における人事政策~」と題する山岡氏の講演要旨が掲載、改革の詳細なプロセスが紹介されているが、まるで企業再生そのものを見ているようで興味深い。

ただ平安女学院もご多分に漏れず、弱小私学であり、現在はマンモス大学の狭間で学生数の獲得に苦しんでいる。山岡氏の経営手腕をもってしても、「厚い壁」となっている。そこで、山岡氏は、地方を含めて特色ある私学と連携し、「小規模大学連盟」を結成、文部科学省などに対して、マンモス大学優遇策の見直しなどを訴えていく動きに出ている。

そこで、山岡氏に、私学経営の現状や「小規模大学連盟」結成に動く狙いについて聞いた。

●働かない教員を退場させた平安女学院
平安女学院の理事長に就任して、どのような改革をされてきましたか?

山岡景一郎氏(以下、山岡)

私が就任した頃は巨額の財政赤字で潰れる寸前、いや実情は潰れていました。そんな状態でも違法な借金をして、京都市内でも断トツの高額な給与を教職員に払い続け、退職金も高水準でした。労働組合管理の経営だったといっても過言ではないでしょう。そして、教育も研究もろくにしていない教員が多くいました。そこに私はメスを入れたのです。

私は、不平だけ言って教育熱心でない教員には退場してもらいました。大学でいったん教員の身分を得られれば、不祥事でも起こさない限り、働かなくてもクビになることはありませんので、教員の大整理はこの世界にとって珍しいことです。だから日産のゴーン社長と対比されているのかもしれません。さらに、優れた人材を採用する権限が理事会になく、教授会が学問の自由を盾に教員の採用権を持っていました。これも覆しました。誰を採用するのかは学問・教育上だけではなく、大きな経営マターです。だから理事会が決定権を持つようにしました。

こうして財政改革、組織改革をしながら、大学の本分である教育改革に着手しました。その内容は、一言でいえば、特色ある教育の展開です。率直に申し上げて、平安女学院は偏差値の高い大学ではありません。しかし、誰もが東京大や京都大のように偏差値の高い大学に行けるわけではありません。うちの大学に来てくれた以上、立派な社会人になれるような素養を身に付ける教育を徹底しようと考えました。

立派な社会人とは、大企業に就職することだけではなく、立派な親になれる素養をもった人間だと私は思っています。うちは女子大学ですから、立派なお母さんになれる人材を育てたいと思っています。明るくて気配りができて、思いやりがあり、我慢強く、献身的な努力ができるような人材のイメージです。平安女学院では「貴品女性」という大学のブランドをイメージするような造語をつくり、そのような女性になるために、実学と教養教育を強化し、お茶やお花など文化や歴史を学ぶ講義も重視して展開しています。財政が厳しい中、旧有栖川宮邸を買い取り、そうした講義などに活用しています。

教養教育重視は、今の日本の大学教育で欠けている部分だと思います。平安女学院ではこうした教育を強化した結果、卒業生は積極性とコミュニケーション能力が高く、責任感も強い人材が多いと社会に評価され、それが就職率向上につながりました。現在の就職率は2年連続で100%です。


●税金使ったマンモス大学優遇に喝
-最近では「小規模大学連盟」の立ち上げ活動の中心となり、文部科学省などに対して、小規模大学の生き残り支援を訴えていますが、この活動の狙いはなんですか?

山岡

私学は経営陣と教職員が一体となって自助努力をして経営の安定化を図ることが大前提であるという考えに、変わりはありません。しかし最近の流れを見ていると、資金力が豊富なマンモス大学しか生き残れないような政策にあまりにも傾いており、率直に申し上げて、小規模大学を潰しにきていると感じます。個々の経営努力の範疇を超える課題だと感じており、果たして日本の大学教育の在り方はこれでいいのかという問題意識がありますので、活動していきたいと思っています。

私が感じている問題点をいくつか挙げましょう。マンモス大学は、複数学部を受験させることで、受験料収入が数十億円に上ります。その収入を使って新聞、雑誌、テレビなどのメディアに広告宣伝を打ち、学部を増やして学生をかき集めていますので、さらに受験料収入が上がります。小規模大学はそうした分野に資金を投入できないのが実情です。競争は大切ですが、実態は健全な競争ではなく、金さえあれば学生が集められるシステムになっていることに疑問を感じます。

文部科学省の各種審議会などのメンバーには、こうしたマンモス大学の教員や理事が就くので、小規模大学の実情が教育行政に伝わりにくくなっています。また、補助金政策も変わり、大学の教育などの特色を判断して交付される特別補助金が大きく減額され、その代わりに教員数・職員数・学生数に応じて配分される一般補助金が増えています。補助金の使用について大学側の裁量を広げていく狙いでしょうが、これだとマンモス大学がさらに有利になり、特色ある教育をしている小規模大学は完全に不利です。日本高等教育評価機構(JIHEE)という公益財団法人が大学のカリキュラムなどを審査していますが、その審査でもお茶やお花などの特色ある講義は評価の対象になっていないこともおかしいと思います。

前述しましたように資金力不足から学生獲得競争に負け、定員割れを起こすと、補助金を削減する動きも強化されています。一見、もっともらしい補助金政策に見えて、資金力の強いマンモス大学しか生き残れない政策を加速させているとしか私には映りません。産業界では、中小企業庁などが置かれ、大店法や中小企業分野調整法等があり、中小零細企業に対して保護・支援の政策的な配慮がなされていますが、大学にはそのような措置が取られていないことに疑問を感じます。

繰り返しますが、私学は自助努力が重要です。しかし、その自助努力を支援するのではなく、邪魔するような政策を国がしているのではないかと思う時さえあります。このままだと、街の八百屋さんや魚屋さんが廃業して、大手スーパーやコンビニエンスストアだけしか生き残れなくなったのと同様に、大学業界もマンモス大学だけになってしまいます。

-「小規模大学連盟」は、今後どのような活動をしていきますか?

山岡

巨額の宣伝広告費をバックにマンモス大学は学部を新設して定員を増大させていますが、その抑制を求めていきたいと思います。大規模大学の新学部設置については、大店法規制のように小規模大学の意見聴取を行う制度の設置なども提唱したい。また、マンモス大学の宣伝広告費の財源は受験料収入だけではなく、一部補助金も充当されています。税金を使ってマンモス大学が学生集めをしているわけであって、ここは国民の批判の対象になるでしょう。広告宣伝費の自主規制制度の設置も呼びかけたい。定員割れとなれば補助金を削減する傾斜配分政策も見直してもらい、経営努力をしながら特色ある教育をしている大学は、定員割れでも補助金を継続してもらうことも訴えていきたいです。

2014年8月11日月曜日

恰好いい人

ブログ「人の心に灯をともす」から他人を動かすことができる人」(2014-08-01)を抜粋してご紹介します。


相手の立場に立つことができる人は、人の気持ちがわかる人。

人の気持ちがわかる人は、感性が豊かな人。

感性が豊かな人は、他人の痛みがわかる人。

だから、自分も悩む。

恰好(かっこう)いい人とは、見た目も大事だが、自分のことより先に人のことを考えたり、思いやったりできるという中身も大事。

つまり、利他の心を持った人。

また、「卑怯なことをしない」「嘘を言わない」「弱い者いじめをしない」等々の精神を、黙々と実践するような人を言う。

それらの精神が、結果的に外見というデザインに滲(にじ)み出る。

「恰好いい、ということは、他人に好かれることの基本」

感性が豊かで、恰好(かっこう)いい人は、他人を動かすことができる。


2014年8月10日日曜日

国立大学の目指すべき方向性

去る7月24日(木曜日)に開催された「国立大学法人学長・大学共同利用機関法人機構長等会議」における文部科学大臣の挨拶(要旨)をご紹介します。


本日は、大変にお忙しい中、本会議に御出席をいただき、厚く皆様方に御礼を申し上げたいと存じます。また、各学長・機構長の皆様方におかれましては、日頃より我が国の高等教育と学術研究の発展にご尽力をいただいていることを、心から感謝申し上げたいと思います。

「知識基盤社会」と言われる21世紀におきまして、社会経済の高度化、複雑化、グローバル化が進む中におきまして、少子高齢化に直面する我が国が、今後も世界に互して成長、発展していくためには、一人一人の能力や可能性を最大限に引き出し、付加価値の高い生産性を高めていくことが重要であります。

特に、安倍内閣が掲げる「三本の矢」の一つである成長戦略の重要な柱である、科学技術イノベーションを進めていくためにも、高度な人材が必要となります。高度な人材の育成を担う大学の役割はますます重要になってきていると考え、私は、この大学の質と量をさらに充実をしていくことが必要であると、それは、各国が競うように、大学教育を含めた高等教育に力を入れているということからも明らかでございます。

「大学力は国力そのもの」であり、このままでは日本が世界の中で沈没しかねない。これから、大学を中心とする高等教育の再生に向けて、しっかり取り組まなくては、日本の再生はあり得ないと考えております。しかし、我が国の大学におきましては、一つは、大学生の学修時間が短い、また、社会からの期待に十分応えられていないのではないか、あるいは、国際的な評価が必ずしも上昇していないのではないかなど様々な課題が指摘されています。

こうした課題を克服しつつ、人材育成や学術研究、産学連携などを通じ、我が国の成長と発展への積極的な貢献をしてほしいという社会の大きな期待に国立大学が応えることができるよう、各国立大学及び大学共同利用機関法人の機能強化を強力に進める観点から、昨年11月、「国立大学改革プラン」を策定いたしました。

文部科学省では、このプランに基づきまして、平成27年度までの改革加速期間中に、各大学の強み・特色、社会的役割を中心としたグローバル化、イノベーション創出などの機能強化、年俸制の積極的な導入促進を柱とした人事・給与システム改革などを進めているところでございます。

文部科学省としては、主体的・積極的に改革に取り組む大学に対する重点的・戦略的な支援を進めていくため、厳しい財政状況ではありますが、平成26年度の国立大学法人運営費交付金につきましては、法人化以後初めて増額を確保したところでございます。

国立大学法人運営費交付金のほかにも、例えば、グローバル化への対応については、官民が一体となって留学の機運を醸成するため、留学促進キャンペーン「トビタテ!留学JAPAN」を展開すると、これだけで民間から既に90億近くのファンドも獲得できているところでございます。また、「スーパーグローバル大学創成支援」によりまして、世界水準の教育研究活動を行う大学への支援を開始するなど、積極的な取組を進めていきたいと考えております。

また、イノベーション創出につきましては、今年の4月に施行された産業競争力強化法に基づき、国立大学法人から大学発ベンチャー支援会社への出資制度などを活用して、これまでにない国立大学の新たな取組がスタートしつつあります。

国立大学は、こうした社会からの期待に対して、スピード感をもって、目に見える形で応えていただきたいと思います。「改革に真剣に取り組まない国立大学については淘汰されてもやむを得ない」、そのような声も社会には存在しております。旧態依然の大学運営では、厳しい国際社会の中で勝ち残っていくことは大変難しくなっており、また、地域社会が求める人材育成を行っていくことができないことを改めて自覚していただいた上で、緊張感を持って改革に取り組んでいただきたいと思います。

特に、国立大学の機能強化を進めていく上で、全学的視点からの資源の再配分などを進めていくためにも、学長がリーダーシップを確立し、発揮することが不可欠です。

一方で、我が国の大学においては、権限と責任の在り方が明確ではないと、あるいは意思決定に時間を要し迅速な決定ができていない、また学内の都合が先行し、十分に地域や社会のニーズに応えるような大学運営が行われていない、そのため、急速な社会構造の変化に対応した大学改革を実施することが難しいということが指摘されておりました。とりわけ、教授会については、改正前の学校教育法におきまして、その役割が必ずしも明確ではなく、予算の配分など大学の経営に関する事項にまで広範に審議されている場合があったりし、本来審議機関であるにもかかわらず、実質的に決定機関として運用されている場合があるなど、学長のリーダーシップを阻害しているとの指摘がありました。

私は、本年一月に開催された世界大学学長会議や、各国の有力大学の学長との意見交換を通じまして、世界トップレベルの大学が、学長の強力なリーダーシップの下で、魅力ある大学づくりに向けて、たゆまぬ努力をされていることを痛感いたしました。同時に、このままでは日本の大学は衰退してしまうのではないかという強い危機感を覚えました。

これらの課題を解決し、改革に積極的に取り組む学長を後押しするため、中央教育審議会大学分科会におけるとりまとめを踏まえ、「学校教育法及び国立大学法人法の一部を改正する法律」を先の国会に提出し、6月20日、国会の審議を経て圧倒的な多数によって、野党の賛成も得、成立することができました。今回の法改正によりまして、学長補佐体制の強化、教授会の役割の明確化、国立大学の学長選考の透明化等の改革が図られることになったわけでございます。

学校教育法におきましては、一つは、副学長の機能の強化に加え、さらに教授会が教育研究に関する事項について審議する機関であり、教授会が決定権者である学長に対して意見を述べる関係にあるなど、教授会の役割、権限、位置づけを法律上明確に規定したところでございます。

また、国立大学法人法については、大学のミッションや社会のニーズに照らしてふさわしい候補者の選定が進むよう、学長選考会議による主体的な選考を促進するため、学長選考は、学長選考会議が定める基準により行うこと、また、当該基準や選考の結果などを公表することを義務づけるということにいたしました。さらに、社会や地域のニーズを的確に反映した運営を確保する観点から、経営協議会に占める学外委員の割合を「過半数」としたところであります。

ガバナンス改革は、この法律改正だけでは完成をいたしません。各大学の内部規則等を法律改正を踏まえて見直していただくこと、そして法律改正の趣旨を踏まえて運用していただくことが重要であります。

文部科学省では、各大学の内部規則等の見直しが円滑に行われるよう、国立大学の関係者を含む有識者会議をすみやかに開催し、各大学の学内規則の見直しの在り方についての検討を行い、その結果を施行通知で周知することといたしました。各学長におかれてましは、法改正の趣旨を十分踏まえた上で、内部規則等の総点検・見直しに早急に取り組んでいただきたいと思います。

なお、今回の国会審議におきましては、学長がその権限を適切に行使する観点から、教職員との丁寧なコミュニケーションや監事その他の様々なチェック体制を充実する必要性が指摘されました。

このため、各国立大学におかれては、学長選考会議による学長の業務執行状況の業績評価を実施していただきたいと思います。また、監事については、先の国会で独立行政法人通則法に伴い国立大学法人法の改正が行われ、その機能の強化が図られたことも踏まえ、大学の規模等に応じて、できる限り常勤監事としていただくことも検討していただければ思います。さらに、監事をサポートする学内体制の充実についても併せてお願いしたいと思います。

次に、「高大接続」について説明申し上げたいと思います。

高校教育、大学教育と大学入学者選抜を一体的に改革する「高大接続」の見直しについては、昨年10月の教育再生実行会議第四次提言を受け、現在、中央教育審議会の高大接続特別部会で具体策などの議論が行われているところでございます。

高大接続の見直しは、単に大学入試センター試験の見直しといった小さな話ではなく、これからの大学教育、高校までの初等中等教育、また日本社会全体の人材育成に関わる極めて重要な課題であると捉えております。

教育再生実行会議は、これからの日本や世界を担う若者達に、志や使命感、規範意識、幅広い教養と日本人としてのアイデンティティ、コミュニケーション能力、課題発見・探求・解決能力、リーダーシップ、豊かな感性などを培うため、高校教育の質の確保・向上、そして大学の人材育成機能の抜本的強化、さらに能力・意欲・適性を多面的・総合的に評価しうる大学入学者選抜制度への転換の三つを一体的に進めることを提言いたしました。

これを実現することは、日本が今後、ますますグローバル化する世界の中で発展していく上で必須の課題となるものであり、不退転の決意で臨む必要があると考えます。

中教審では今後、答申に向けてさらに議論を深める予定であり、文部科学省ではそれを受けてスピード感をもって改革を実行していく予定でございます。

日本の高度人材育成の中核である国立大学は、この「高大接続」の見直しについても是非率先して取り組み、範を示していただきたいとお願い申し上げます。

(1)具体的には、大学教育に関しては、各大学において、学生の主体的な学びを促す「大学教育の質的転換」を進め、成績評価や卒業認定の厳格化に取り組むことが必要です。

(2)大学入学者選抜に関しても、中教審で検討中の新たな「達成度テスト」の導入を待つまでもなく、アドミッション・ポリシーに基づき、必要な学力水準の確認とともに、面接、論文、高校の推薦書、高校時代の多様な活動歴、大学入学後の学修計画を評価するなど、様々な方法による丁寧な入学者選抜をできる限り積極的に推進していただきたいとお願い申し上げます。既にいくつかの大学でそのような取組や計画が進んでいるところでございますが、その加速、拡大についてここで改めてお願い申し上げたいと思います。

このように、答申の実現を待たずに実行できること、実行すべきことは、是非、迅速に取り組んでいただくようお願いします。

次に、国際バカロレアについてお話申し上げます。

国際バカロレアは、これからの我が国を支えるグローバル人材の育成の観点から、非常に優れたプログラムであり、政府としても、国内の認定校を現在の19校、インターナショナルスクールが中心でございますが、これを一般高校まで拡大し、2018年までに200校の高校を増加させる目標を掲げております。

これまで日本の高校生にとって、日本の大学に入学した後、海外留学するというパターンが普通でありましたが、国際バカロレア資格を取得して、高校卒業後、直接海外の大学に入学するという選択肢が2018年以降、一気に広がってまいります。

この結果、日本の高校生にとって日本の大学が魅力的でなければ優秀な学生は海外大学に流出してしまう懸念も出てくるわけであります。

一方、世界には国際バカロレアを採用している高校が約3700校あり、大学入試で国際バカロレアを活用し、魅力ある大学をつくりあげていくことによって、国内のみならず海外からも優秀な学生を大学に集めることができ、大学の国際化や活性化にも資する、このような国が141力国を超えております。

教育再生実行会議第四次提言でも、大学入学者選抜における国際バカロレアの活用が掲げられており、各国立大学においても、その推進に積極的に取り組んでいだきますようお願いを申し上げたいと思います。

最後に、平成28年度からの第3期に向けて、国立大学の目指すべき方向性についてお伝えしたいと思います。

第3期に目指す国立大学の在り方として、国立大学改革プランでは、「各大学の強み・特色を最大限に生かし、自ら改善・発展する仕組みを構築することにより、持続的な『競争力』を持ち、高い付加価値を生み出す国立大学」を掲げております。

「各大学の強み・特色を最大限に生かす」ことにより、例えば、世界最高水準の教育研究拠点を目指す大学、あるいは特定分野で全国の拠点となる大学、また地域の活性化を支える大学、そういった機能強化の方向性を明確にすることとなります。今後は、こうしたそれぞれの方向性に沿った支援を考えていかなければならないと思っております。

その上で「自ら改善・発展する仕組みを構築する」ことで、硬直的な組織構造から脱却をし、学内の資源配分の在り方をしっかりと見直すことのできる大学への支援を進めていく必要があります。

こうした改革を実現すべく、文部科学省では、今後、改革加速期間における取組を踏まえ、第3期における国立大学法人運営費交付金や評価の在り方について、平成27年度までに検討し抜本的に見直すことといたしました。

また、今回の法改正の附則に位置づけられたとおり、改正法の施行の状況、国立大学法人を取り巻く社会経済情勢の変化等を勘案し、国立大学法人の組織及び運営に関する制度について検討を加え、必要があると認めるときは、その結果に基づいて所要の措置を講じることとしております。こうした動向については、各国立大学に対しても、適宜お知らせしていきたいと考えております。

今後、各国立大学法人・大学共同利用機関法人におきまして、第3期中期目標・中期計画に関する検討が具体的に進んでいくことになると承知しております。各法人は、第3期に向けて「ミッションの再定義」「国立大学改革プラン」等を踏まえまして、自らの強み・特色を明示し、国立大学としての役割を果たしていくため、一つは、大学として明確かつ具体的な目標・計画を定めること、また、二つ目に、高い水準の目標設定を行うことについて検討していただきたいとお願いいたします。

文部科学省では、各国立大学及び大学共同利用機関法人としっかりと議論しつつ、意欲的な各大学の取組に対する支援を今後とも積極的に行ってまいりたいと考えております。

2014年8月9日土曜日

あとから来る者のために

ブログ「人の心に灯をともす」からトイレットペーパー」(2014-07-30)をご紹介します。


人並み外れて不器用である。

こんな仕事をしているから器用だと誤解されがちだが、とんでもない。

何ひとつ満足にできない。

折り紙の鶴が折れない。

靴紐(ひも)が満足に結べない。

本当にお恥ずかしい。

僕以外は家系の中に不器用な人間はいないんですけどね。

絵も非常に不器用な絵で、友人仲間と比較して一番下手である。

線のひきまちがい。

失敗も日常茶飯事で、こんなに長い間仕事しているのに初歩的ミスが多くていやになる。

名人芸なんていうのは全く無関係な世界。

その僕が最近トイレットペーパーの三角折をはじめた。

トイレットペーパーを取りやすいように三角にたたむという簡単な作業。

誰でもできるが、ぼくがたたむときれいな二等辺三角形にならない。

しかしトイレを使用する度に練習した。

あんなもの練習するほどのものではない。

大多数の人はそう思いますよね。

ぼくにとっては、そうではなかった。

正確な二等辺三角形で先端がピシッととんがっている端正な形にはなかなかならなかった。

でも最近時々傑作ができる。

うーん、やった、美しい!

と思ってトイレの中でひとりで感動している。

馬鹿みたいですね(馬鹿ですけど)。

勿論(もちろん)公衆トイレ、ホテルのトイレ等々でも使用後にトイレットペーパーの三角折をする。

便座も拭(ふ)く。

後から使用する人が気持ちがいいだろうと思うとうれしい。

ところで高知新聞を読んでいると山の中の神社に放火したり、町の電飾を破壊したりという記事があって暗然とする。

ぼくは高知県生まれで、土佐人であることにプライドを持っている。

しかしこんな無頼な連中がいるとは信じられない。

恥ずかしくてたまらない。

古い奴(やつ)だとお思いでしょうが、人は人のためにつくし、人をよろこばせるのが最大のよろこび。

たとえばほんのトイレットペーパーの三角折でさえも…。


詩人の坂村真民さんに、こういう詩がある。

『あとから来る者のために

田畑を耕し 種を用意しておくのだ

山を 川を 海をきれいにしておくのだ

ああ あとから来る者のために

苦労をし 我慢をし みなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる あの可愛い者たちのために

みなそれぞれ自分にできる なにかをしてゆくのだ』

あるゴルフ場で、人が使ってビショビショに濡れたトイレの洗面台の上を、一人で黙々と拭いている紳士がいたそうだ。

それを、支配人が見かけ、後ろから声を掛けたところ、なんと、時の総理大臣、吉田茂さんだったという。

あとから来る者のために、小さなことでいい、自分にできる何かをしてゆきたい。


2014年8月8日金曜日

自分で自分を律する

ブログ「人の心に灯をともす」から自制心がある人」(2014-07-27)を抜粋してご紹介します。


自制心とは、セルフコントロールのことだが、自分で自分を律すること。

些細なことで怒ったり、キレたりする人はセルフコントロールができていない。

また、威張(いば)ったり、愚痴ったり、不平不満を言ったり、大きなことを言う人もセルフコントロールができない。

そして、そういう人は、人からは好かれない。

人はどこかで弛(ゆる)みが出たとき、タガがはずれ、セルフコントロールができなくなる。

セルフコントロールができない人は、自分の利や得を先に考える。

中国の六然の中に、次のような言葉がある。

「得意澹然(とくいたんぜん)」

「失意泰然(しついたいぜん)」

得意のとき、調子のよいとき、有頂天になったときには、おごりたかぶったり、傲慢(ごうまん)にならず、淡々としていること。

失意にあるとき、物事がうまくいかないときには、がっかりしたり自暴自棄になったりせず、ゆったりと構えていること。

自制心のある人でありたい。


著者 : 谷沢永一
エイチアンドアイ
発売日 : 2005-06

2014年8月7日木曜日

誠実な生き方

ブログ「人の心に灯をともす」から信用を得る方策」(2014-07-26)をご紹介します。


『正直に生きている人が得をする』〈失敗はごまかすよりも、正直に言ってしまうほうがいい〉

自分自身に後ろめたい思いがある時には、「正直に報告しなければならない」という気持ちに、どうしてもブレーキがかかってしまうものです。

「友人から借りていた本にコーヒーをこぼしてしまい、本にシミを作ってしまった」

「仕事でミスをした。そのために仕事仲間に迷惑をかけることになりそうだ」

「ついウソをついてしまった。でも、いつまでもウソをつき通すことはできそうもない」

「公園の遊具を過って壊してしまった。黙っていれば自分がしたとはバレないが、どうすればいいのだろう」

この人たちの心には、「正直に報告してしまったら、きっとひどく叱られるだろう。罰を受けることになるかもしれない」という恐怖心が働いてしまうのでしょう。

その恐怖心から心にブレーキがかかってしまって、「どうにかごまかせないか。それとも知らんぷりをしていようか」などと考えてしまいます。

しかし、それは誤解ではないでしょうか。

正直に報告してしまうことで、叱られるどころか、かえって「よくぞ正直に言った」とほめられることも多いのです。

自分の非を隠そうと思っても隠しおおせるはずはありません。

いずれ発覚してしまいます。

その時が来るまで報告していなかったり、ごまかしたり、ウソを言っていたことが発覚してしまうほうが、よほどこっぴどく叱られる結果を招きます。

そのために自分の立場をいっそう悪くし、大きな罰を与えられることになるようです。

次のような昔話があります。

江戸時代のことです。

武蔵国忍(おし)藩(現在の埼玉県)に松平信綱という殿様がいました。

信綱は子供の時に、江戸城内の屋敷の中で遊んでいる時に、過って大切な屏風(びょうぶ)を破ってしまいました。

そこへたまたま徳川将軍が通りかかりました。

将軍は「この屏風を破ったのは誰だ」と、ひどく怒り出しました。

信綱は正直に答えればもっと怒られるだろうと恐れましたが、勇気を出して「私がやりました」と告白しました。

すると将軍は怒った顔を和らげて、「よくぞ正直に申した。立派なやつだ」と、信綱をほめたのです。

それ以降、信綱に目をかけ、出世の面倒を見てやったのです。

現代のビジネス社会でも、不祥事を起こしたものの、それを公表するのが遅れたり、世間から隠そうとしたために激しく非難される経営幹部がいます。

そのために信用を失って、会社の業績が傾いてしまった、というニュースもよく聞きます。

もしもっと正直に、もっと早く、自分の非を世間に公表していたら、損害も少なくて済んだのではないかと思わせる事件も少なくはありません。

ミスや失敗は正直に早く報告しましょう。

それが信用を得る方策です。


ちょっとした小さなウソも、それを積み重ねていると、時間がたてばたつほど、後でにっちもさっちもいかなくなってしまう。

一つのウソのつじつまを合わせるために、また別のウソをつかなければいけないからだ。

しかし、本人はごまかしているつもりでも、周りのほとんどの人は途中からそのウソに気付く。

「誠実さ」、という言葉がある。

ウソをつかない、ごまかさない、守れない約束はしない、責任感がある、卑怯(ひきょう)なことをしない、正直である、というようなことだ。

ウソをついて真実から逃げれば逃げるほど、真実からは追いかけられる。

非を認めることは、早ければ早いほどいい。

正直という誠実さを貫くには、勇気がいる。

正直に生きれば、信用が得られる。


2014年8月6日水曜日

介護と仕事の両立

介護離職 仕事との両立支援急げ」(2014-07-23 東京新聞)をご紹介します。


家族の介護を理由に退職する人が急増している。少子化や介護職員不足が背景にある。企業にとっても経験豊富な人材を失うのは損失だ。介護と両立できる柔軟な働き方と支援策の充実で防ぎたい。

1年間に10万人。親の介護や看護を理由に退職した数だ。親と一緒に暮らす中高年が多く、最近は男性が目立つ。今後10年間に団塊世代が70代半ばになる。子どもの世代はきょうだいが少なく未婚率も高い。親の介護に直面すると、これまで以上に退職を余儀なくされる可能性が高まる。

総務省が昨年まとめた就業構造基本調査によると、働きながら介護している人は290万人。うち、働き盛りの40代、50代は170万人。その4割は男性だ。

介護は先の予測が立たない。育児・介護休業法で定める年間93日間の介護休暇を使っても、3カ月で終わるわけではない。職場の内外に支援がないと、結局は仕事を辞めざるをえなくなる。

一度離職してしまうと、多くのリスクを抱える。家計経済研究所の調べでは、在宅介護にかかる自己負担分は平均月6万9千円。介護保険で補われても、収入が途絶えると家計の重荷になる。再就職も難しい。老後への備えも失う。

企業にとっても職場で大切な役割を担う社員の退職はデメリットだ。柔軟な働き方ができれば、それだけ退職を防げる。

大手化粧品会社は、介護期にある社員に対し転居を伴う異動を免除している。大手住宅会社は、介護休暇を増やして分割して取れるようにし、失効した有給休暇も介護に使えるようにしている。

国の支援策としては、介護職員を大幅に増やし、介護休業期間の拡充や、休業中の給付金を増額するのも一案だろう。

一方で、介護休業の取得率は一割未満しかない。経営環境の厳しい中小企業では現行制度すら絵に描いた餅になっている。

女性が働きながら子どもを産み育てやすいようにと、子育て支援は社会の問題として語られてきた。それに比べて介護は「家庭の問題」として表に出にくかった。だが、多くの職場で共通し、誰もが当事者になりうる。男性は問題を抱え込みやすいとされる。身近に相談の場があれば、支援も受けやすくなるのではないか。

政府は本年度、有効な支援制度を実際に企業に導入してもらい、効果的な事例をまとめる。年間10万もの人が自ら働く場を失うような、いびつな社会を変えたい。

2014年8月5日火曜日

忘れられた日本人

(インタビュー)民俗学からみる介護 介護施設で「聞き書き」する職員・六車由実さん」(2014-07-24朝日新聞)をご紹介します。


気鋭の民俗学者が大学を辞め、介護職員として働き始めた。それから5年。いまは静岡県沼津市のデイサービスで働く六車由実さんは、お年寄りの言葉を丁寧に「聞き書き」する独特の介護を続けている。多くの「忘れられた日本人」との出会いがあったという高齢者介護の世界。外から来た目に何が、どう映ったのか。

▼どうしてまた、大学教員のポストをなげうって介護の仕事を始められたのですか。

「よく聞かれるんです。こんな大変な世界によく来ましたねって。でも、その言葉には介護への偏見が混じっていませんか。社会的な評価が低すぎると思います。私はここに来て初めて、ずっと感じていた生きにくさから解放されたんですよ」

「大学では雑務も多く、研究も学生との関係も思うようにいかなかった。若くて不器用だったのでしょう。行き詰まったんです。体調を崩し、このままでは壊れる、いったん大学を離れようと決めました。実家に戻って3カ月後、失業保険の手続きでハローワークに行ったら、ヘルパーの講習会があるよと窓口で勧められた。それがきっかけです。もう大学に戻る気はありません」

▼なぜ聞き書きをやろうと?

「デイサービスには在宅で暮らすお年寄りが日帰りで通ってこられます。朝9時から夕方まで、体操、入浴、食事、娯楽と予定がびっしり。いくつもの仕事を覚え、人並みにこなすので精いっぱいでした」

「ある日、隣に座った大正生まれの女性が関東大震災のときに竹林に逃げた体験を語り始めたんです。すると向かいの人も『私も』と切り出した。びっくりしました。民俗学の調査では出会えなかった大正一桁(ひとけた)、明治生まれの人から鮮明な体験談を聞けたわけですから。えっ、ここはどこなんだと。しかも民俗学と違って偶然の展開に任せるため、想像を超えたお話が聞けるのです」

▼たとえば、どんな話ですか。

「無口で気むずかしい要介護度5の男性がいました。出身が宮崎県と知り、話の糸口にと思って、『私も宮崎の椎葉(しいば)村に行ったことがあるんですよ』と話しかけたんです。かつて柳田国男が訪れた、民俗学発祥の地ともいわれる山奥の村です。そしたら『俺も行った』と話し始めた。電線を引くお仕事でした。高度経済成長期、電線の技術をもった人が集団で家族も連れて村々を渡り歩き、奥さんたちが炊事をして共同生活していたというんです。現代にも漂泊の民がいたのかと驚きました。お話をまとめてご自宅のかたにも渡したら、こんな話ができるなんて、と喜んでくださった」

「蚕の『鑑別嬢』の話も初耳でした。雄と雌、日本種と中国種を分ける仕事で、かつて大勢の若い女性が地方に派遣されていたというんです。列島をくまなく歩き、人々の暮らしを記録した宮本常一の言葉を借りれば、介護の現場はまさにこうした日本の近代化を舞台裏から支えてきた人々、『忘れられた日本人』に出会える場だ、民俗学にとって宝庫なんだと気付いたのです」

▼でも、聞き書きは介護の役には立たないのではありませんか。

「前の施設で、同僚から『それは介護じゃない』と批判されました。介護とは食事、排泄(はいせつ)、入浴の3大介護の技術を効率よく提供するサービスだ、という前提に立てばその通りでしょう。実際、多くの現場ではそう割り切っている。でないと効率が上がりませんから。でも数をこなすだけの現場は、やがて疲弊します。夢を持って働き始めた人ほど幻滅して辞めていく」

「介護はケアをする側、される側という関係にあります。する側のほうが優位に立っている。ところが聞き書きを持ち込むと、聞く側、話す側という新しい関係が生まれます。関係は時に対等になり、逆転もする。人と人との信頼関係が築かれていく実感があるのです。それが結果的にケアもよくしていく。そこに意味があると思っています」


▼認知症の場合も可能ですか。

「会話が成り立たないと思われがちですが、根気強く言葉をつないでいけば、その人なりの文脈が見えてきます。その土地の忘れられた歴史が浮かび上がり、不可解だった行動が理解できることもある。たとえば女性が部屋の隅で立ったまま排尿するのは、かつては畑で女性も普通に立ちしょんをしていた、という過去の記憶からだとか」

▼人は老いると自分の人生について語りたくなるものでしょうか。

「体力や気力が衰えると社会や家族との関係も希薄になる。『ひとの世話になるだけで生き地獄だ』と絶望の言葉を吐くかたもおられます。でも、聞き書きを始めると表情が生き生きしてくる。いまを生きるために心のよりどころにしておられるのは、自分が一番輝いていた時代の記憶なんです。生きていたという実感のある時代に常に意識が戻っていく。そこを思い、語ることで何とか前を向いて生きていける」

「私が本当に面白がって、驚いて聞いているせいもあるはずです。じゃあ、もっと話そうかと思うのが人間でしょう。聞き書きが面白いのは、そうやって相手の人生の深いところまで触れられることです。人生の厚みを知り、その人が立体的に見えてくることで、より敬意をもって関われるようになるのです」

▼それには聞き書きの技が必要ですね。ないと難しいのでは。

「関心さえ持てば方法はいくらでもあります。ビデオ映像に残したり、話を録音したり、耳を傾けるだけでもいい。要は人として正面から向き合うということですから。それも介護の一つだと受け止める、施設のマネジメントが大事です」

「できれば記憶は何か形に残してほしい。私は伺ったお話を可能な限り『思い出の記』にまとめ、家族にも渡して読んでもらいます。雑誌に書くこともある。それは民俗学でいう記憶の継承とも重なります。近代化が進み、地域で伝承されてきた文化が失われていく危機感から始まったのが民俗学でした。どんな作物を、どう調理して食べてきたのか。人々の暮らしのすべてを記録し、文化の喪失を何とか食い止めて次の世代に引き継いできた。形にすれば、その人が生きた証しを家族や社会に残すことができます。私はこれを介護民俗学と名付けています」


▼外の世界から飛び込んで、介護の世界はどう見えましたか。

「ケアの現場では、相手の表情や態度、身ぶりから気持ちを察することが大事だとよく言われます。でも私は、相手の言葉そのものにもっと耳を傾け、理解するほうが大事だと思うんです。コミュニケーションは本来そうであるはずなのに、ケアになった途端になぜか違ってしまう。言葉より気持ち、表情だと。それは結局、相手の力を軽視しているからではありませんか」

「介護の世界には、昔の話を聞くことで記憶を呼び起こしてもらう回想法という技法がありました。でもテーマや話の進行があらかじめ決められ、聞き手が場を仕切る。自由に話してもらう私たちの聞き書きとは違います。そもそも私は効果を目的にして話を聞くことに違和感がある。私たちは相手を理解するために話を聞きたいのです」

「仲間の利用者が亡くなられても、あえて周りに伝えない対応にも疑問を感じました。『動揺させてしまう』というのが理由です。でも皆さん、長い人生で数多くの別れを経験してこられたんですよ。死の受け止めは私たちより達者です。むしろ、その力を信じるべきです。そう思って先日、初めて偲(しの)ぶ会を開きました。ビデオや写真を見ながら、亡くなられた仲間の思い出をみんなで語った。いい会になりました」


▼ただ現実には、介護職員の質の低さや営利優先の姿勢が問題になっている施設も多くあります。

「いま、小規模のデイや有料老人ホームはものすごい勢いで増えています。競争にさらされ、料金もどんどん安くなって、千円足らずで泊まりをするところまである。安ければいいのか。人生の最後に、どんな介護を受けたいのか。利用者もご家族も考えるべき時期を迎えています。選択肢が生まれているわけですから。その結果、劣悪な事業所は淘汰(とうた)されていく。そういう競争こそ必要だと思います」

「介護の世界はすごく閉じられているようにも感じます。多くの目にさらされない世界では虐待も起こり得る。外に開いていくこと、いろんな経験をへた人に関心をもって入って来てもらうことが大事です。民俗学を学ぶ後輩にも来てほしい。そうすれば介護の現場は、もっと豊かな世界になっていくはずです」


むぐるまゆみ
70年生まれ。東北芸術工科大学准教授をへて09年から介護職員。「すまいるほーむ」管理者。民俗学研究者。著書に「驚きの介護民俗学」。


■取材を終えて

六車さんが働く通所施設は泊まりはしていない。だが私が訪ねた日、要介護度5から要支援までの女性5人は話が盛り上がり、「今度みんなで泊まりをしたいね」とうなずきあっていた。支え合いながら、残された日々を共に楽しく過ごしたい。そんな生活の場が、地域や家庭では失われた関係を回復する場にもなっているように思えた。

2014年8月3日日曜日

研究倫理教育の実践

このたび、文部科学省では、「研究機関における公的研究費の管理・監査のガイドライン(実施基準)」(平成26年2月改正)の周知徹底を図るべく、その内容を取りまとめたコンテンツを制作、公表しました。各研究機関における効果的な活用が求められています。


「研究機関における公的研究費の管理・監査のガイドライン(実施基準)」に係るコンプライアンス教育用コンテンツ(文部科学省)

文部科学省では、各機関が公的研究費を適正に管理するために必要な事項を示すことを目的として、平成19年2月に「研究機関における公的研究費の管理・監査のガイドライン(実施基準)」を策定・運用してきました。

しかし、昨今、不正事案が社会問題として大きく取り上げられる事態となったことを受け、従前のガイドラインの記述の具体化・明確化を図り、平成26年2月に本ガイドラインを改正いたしました。

この度、改正したガイドラインに定められている事項のうち、国として公的研究費の管理監査の観点から、各機関に共通する内容を取りまとめたコンテンツを制作いたしました。

本コンテンツを各機関のコンプライアンス教育に活用するなどにより、研究費の管理・監査体制の構築に役立ててください。

なお、本コンテンツは、ガイドラインの内容の主要な事項を全て網羅するため、研究者向けと管理者向けそれぞれ1時間程度で作成しています。

したがって、各機関においては、構成員に特に周知を図る必要がある箇所や、各機関におけるコンプライアンス教育内容と重複する箇所などを考慮し、例えば、コンテンツの一部を省略し、特に必要と判断する箇所を活用(印刷用PDFの利用も含む)するなど、効果的に活用いただきますようお願いいたします。


管理者向け

Section1 研究費制度の概要
Section2 ガイドラインの要請事項(1)~不正防止の取組~
Section3 不正の基礎知識と事例紹介等
Section4 ガイドラインの要請事項(2)~不正発覚後の対応~
Section5 ガイドラインに関する質問と回答



【印刷用】研究機関における公的研究費の管理・監査のガイドラインについて(管理者向け) 


研究者向け

Section1 研究費制度の概要
Section2 ガイドラインの要請事項(1)~不正防止の取組~
Section3 不正の基礎知識と事例紹介等
Section4 ガイドラインの要請事項(2)~不正発覚後の対応~
Section5 ガイドラインに関する質問と回答



【印刷用】研究機関における公的研究費の管理・監査のガイドラインについて(研究者向け) 


(参考)競争的資金の不正な使用に関して返還命令及び応募制限措置等を行った事例

各研究機関における不正防止対策の実施に当たっては、過去の不正事例も参考にしつつ、各機
関におけるリスクを考慮した上で実施してください。

平成20年度~平成24年度における競争的資金の不正な使用に関して返還命令及び応募制限措置等を行った事例(平成25年3月31日現在)


研究活動における不正行為の防止については、平成26年7月3日から8月1日まで、文部科学省により、「研究活動における不正行為への対応等に関するガイドライン」案のパブリックコメントが実施されました。

このガイドラインは、平成27年4月1日から適用が予定されており、第3節「研究活動における不正行為への対応」及び第4節「特定不正行為等の違反に対する措置」については、平成27年度当初予算以降(継続を含む)における文部科学省の予算の配分又は措置により行われる全ての研究活動が対象とされています。

また、平成27年3月31日までがガイドラインの適用のための集中改革期間とされ、関係機関において実効性のある運用に向けた準備を集中的に進めることが求められています。


なお、このたびのガイドラインの改正では、不正を事前に防止する取組の一つとして「研究倫理教育の着実な実施」が求められています。

現在、その一助となる取組みとして、日本学術会議、日本学術振興会、科学技術振興機構などが協力して、「研究倫理教育プログラム」(教材)の開発が進められています。

研究倫理教育については、既に、文部科学省の「大学間連携共同教育推進事業-研究者育成の為の行動規範教育の標準化と教育システムの全国展開」において、「CITI Japan プロジェクト」(倫理教育について6大学が提携し、e-learningを活用したカリキュラムを通して、大学院生に倫理教育の重要さを広げていくプロジェクト)が進められており、この事業のノウハウが活かされるものと思われます。

2014年8月2日土曜日

ぼくたちの場所・来間小中学校フォトプロジェクト

沖縄県・来間島(くりまじま)の小学生たちが、島の日常を写した写真展「ぼくたちの場所」が8月1日(金曜日)から、ギャラリー・アートグラフ(東京都中央区銀座2-9-14 2F)で開催されています。

開館時間は、午前10時~午後6時(木・土曜午後5時まで、日曜休み)、入場は無料です。7日(木曜日)まで開催されますので、お時間のある方はどうぞよろしくお願いします。


写真展:小学生が撮影した沖縄の離島の日常 銀座で(抜粋)(2014-08-01 毎日新聞)

沖縄県宮古島の南西1.5キロにある人口約180人の離島、来間島(くりまじま)の小学生たちが、島の日常を生き生きと写した写真展「ぼくたちの場所」が1日、中央区銀座2のギャラリー・アートグラフで始まる。

同県出身で米ニューヨーク在住の写真家、比嘉良治さん(76)を中心に進める「沖縄来間島・来間小中学校フォトプロジェクト」の成果。2011年、宮古島を訪れた比嘉さんは、知人に「来間島の子供の素晴らしい感性を伸ばしたい」と相談された。「デジタルカメラなら維持費もかからない」と、友人らと使っていないコンパクトカメラなど約80台を集め、来間小・中学校の子供たちに贈った。

中学校は今年3月に廃校になったが、写真展では小学校の在校生5人を含む子供10人が撮りためた作品から、約70点を展示する。同小3年の砂川野之花(ののか)ちゃん(8)は「身近な木や花を撮るのが好き」という。


ぼくたちの場所~来間小中学校フォトプロジェクト~





このプロジェクトについて

来間島の子ども達と、島ぐるみで取り組んできたプロジェクトの集大成となる、写真展を開催したい!

はじめまして!砂川葉子と申します。来間島に嫁いで14年、ゴーヤー農家で、3児の母で、来間小学校のPTA会長です。

島にたったひとつの来間小中学校の子ども達が「来間島の今」、「島の日常」をカメラで写し残す活動を支援するために、昨年11月に来間小中学校フォトプロジェクト実行委員会を立ち上げました。(現在、中学校は廃校となってしまいました。)

この度、来間島の子どもたちの素直な目でカメラにおさめた写真の数々は、早くも高く評価され、来間小中学校フォトプロジェクトによる「ぼくたちの場所」展が、銀座の写真弘社様の支援により同社のギャラリー・アートグラフで、8月1日から7日まで開催、その後、大阪、沖縄本島を巡回する運びとなりました!

そのための約60点の作品の現像代と、来間島の子ども達が企画するオープニングセレモニーの費用、諸経費で42万円の資金のファンドレイジングのお力添えをいただければと思っております。



(▲「沖縄の離島の学校にカメラを贈る」運動で、来間島の子ども達にカメラが贈られました!たんでぃがーたんでぃー(ありがとう) )

来間島から世界に発信!

沖縄県の宮古島の南西に浮かぶ人口約180人の小さな島、来間島。

来間島では、子どもたちは島の宝、学校は島のともしび、心臓のような存在です。

2014年3月に島の中学校が廃校になり、過疎化の厳しさが暗い影を落とすこの島に、希望を与えてくれたのは、いつも元気一杯な来間島の子どもたちとカメラでした。

今、来間島では、子ども達と地域住民による「ぼくたちの場所 来間小中学校フォトプロジェクト」が、中学校廃校の寂しさを吹き払い、来間島を世界に発信し、たくさんの反響を呼んでいます。



(▲褒められて満面の笑顔!カメラは子ども達の世界を広げ、写真を通して子ども達は大きく成長していきました。)

カメラで結ばれた絆と学び

2011年、来間小中学校では、沖縄出身でNY在住の写真家・比嘉良治氏らの「沖縄の離島にカメラを贈る運動」により、来間小中学校の子ども達にカメラが贈られ、これまで3年間で8回延べ人数28名(2014年4月現在)の写真関係者やデザイナー、ジャーナリストなどの方々が学校を訪れ写真指導やキャリヤ教育をしてくださいました。

普段は大人しく、どちらかというと家で本を読むのが好きという女子児童ののは、カメラにすっかり魅了され、カメラを持って島を走り回るようになり、周囲を驚かせることもありました。

年齢、学年を問わず、カメラは子ども達の世界を広げ、「心の目で見る」素晴らしさを知り、島の子どもたちは写真を通して大きく成長していきました。




(▲3月17日から27日まで宮古島空港にて「ぼくたちの場所」展を開催。大変な反響と励ましの言葉を頂きました。)

廃校…それでも未来に向かってすすもう!

そんな折、全国的に進む学校統廃合の流れの中、宮古島市でも学校統廃合問題が取り沙汰され、PTAとともに、来間島住民も存続を願って参りましたが、その声は届かず、残念ながら2013年9月来間中学校の廃校が決定となりました。



(▲来間中学校最後の卒業生のしんちゃんにいにい、島民みんなで泣いて、泣いて、笑って泣いて、涙だだだだだ(=涙そうそうの宮古島方言))

島の人、風景、草花、動物、そして廃校までの学校での日々、「来間島の今」、「島の日常」の記録を残そう。

来間島の子どもたちは、地域住民、学校とともに撮影を続け、その数はこの半年余りで2000枚以上になります。

これらをデジタル化し収集、来間島の歴史として保存し、12月には、Facebookの運用開始、3月末に宮古島空港にて来間小中学校の子ども達による写真展を開催し、多くの方の共感を呼び、地域の学校教育や離島の現状を知っていただく機会にもなりました。

いつも見守ってくれているオジイ、オバア、自然、ありがとう!



(▲子ども達とおばあのこの距離感。カメラを感じさせない人間関係、心のつながりが写真にも表れてます。)

今では、子どもたちがカメラを持って素通りしようものなら、「なんでおじぃを撮らんでいくかあ!?」と突っ込みをいれられることも。

来間中学校最後の卒業生のしんちゃんにいにいは、「レンズを通して見ると、いつもの島が違って見える。いつも見守ってくれるオジイ、オバア、美しい自然、自分がどんなに恵まれた環境に居るかを感じた」と話します。

常日頃からの、子ども達と来間島島民の方々の温かい心のつながりと、来間小中学校と島が一体化している教育環境であらからこそのご理解とご協力があり、子ども達はのびのびと育ち、自分らしく写真を撮り続けることができたのだと思います。

子供たちが見つけた島の宝。成長の軌跡を見て欲しい

カメラを首から下げて、立ち止まったり、しゃがみこんだり、のぞきこんだり、そして何かを見つけてカメラを構える子ども達の姿は、颯爽としていて、凛としていて、神々しいくらい。ただ、心のままに感じるままに、自分らしく、夢中でシャッターを切る子ども達。子ども達がカメラにおさめたそれらは、子ども達自身が再発見した「島の宝」であると思います。

来間島の子ども達が見つけた宝を、いっぱいいっぱい集めて、宝箱を開くと笑顔なれるような写真展にしたい。島のたったひとつの学校の廃校に揺れ、悩み苦しみ、心を痛めてきたけど、乗り越え、新たに歩きだした来間島の子ども達にとっての夢舞台になればと願っています。

東京展および巡回展を通して、島というコミュニティの中で育まれた子ども達の素直で、優しく強いまなざしで見つめた「来間島の日常」、子ども達が見つけた「島の宝」を多くの方々い見ていただきたい。

写真を通してふるさとを見つめ、島を見つめ、子供たちが生きる力を育んできた軌跡を感じていただけたらと思います。



(▲『見て見て撮った写真を一番に見せてくれるのがとても嬉しい私(実行者)です。)琉球新報社提供

どうぞ、子どもたちの夢、来間島の夢である、東京、大阪、沖縄本島での写真展、「ぼくたちの場所」展の開催の夢を叶えさせてください!!