2020年12月27日日曜日

記事紹介|一人も取り残さず

2020年は、コロナ禍の陰で、教育格差の解消という課題にスポットライトが当たった年だったと個人的には認識しているが、この点に関して文科省の動きが鈍いことは大いに不満である。彼らにとって目下一押しの政策らしいGIGAスクールでは、一人も取り残さないなどと威勢の良い口上が大臣からもあったが、それが具体的に何を意味するのかはよく分からない。一般的に、霞が関で成果目標を明示しない政策は、実現の責任を負わないと宣言しているようなものである。

教育格差の解消は、憲法第26条に由来する、国に対して積極的な作為を請求する権利(それに対応する国の配慮義務)に基づく課題だと思っている。深まり行く経済格差の拡大が、日本社会の基本構造を掘り崩し、国民の分断を押し進めることは、もはや明らかである。教育は、そんな危険をはらむ社会の安定装置にならなければならない。今や、教育格差の解消は、文科省の存在意義といっても過言ではないはずである。菅政権の一丁目一番地であるデジタル化の推進も結構だが、より本質的な教育格差の解消について、文科省から包括的な政策が打ち出されるべきであろう。特に、高校から高等教育段階におけるキャリア教育(雇用可能性を高める基本的な知識技能の習得)、社会に出てからのリカレント教育(産業構造の転換に即した実践的スキルの習得)について、経済支援を含む具体的な社会システムの構築が急がれる。あえて政策と言っているのは、単発の施策でやっているふりをしたところで、教育格差の解消には程遠いからである。単発の施策は、思い付きで、脈絡なく、打ち上げて終わりになることが大半である。予算に見合う成果は残らず、施策の残骸と虚しさだけが残る。そんなやったふりで、時間が無駄になり、教育格差はより深刻になり、相対的な弱者にとっては、社会での生きにくさが増していく。この分野の不作為は、国としての破滅への道だと理解すべきであろう。その意味で、文科省には、日本という国の未来が託されているのである。その割に危機感が薄い印象であり、失望を禁じ得ない。

重点となっているGIGAスクール構想に関しても、デジタル教科書の機能、その利用による学習効果などについて、ロジカルな説明がない上に、肝心のデジタル教育に関する教員のスキルアップをどうするのか、いまだに施策らしいものがない。一つの政策として、肝心な箇所に穴が開いたままで、ストーリーとして首尾一貫しないのでは、破綻は目に見えている。かりにパソコンが1人1台入っても、巨額な投資に対してミニマムな成果しか得られないだろう。教育格差の解消についても、データに基づく実証性と計画修正へのフィードバックループ、財政の裏付けを伴う実施計画の継続性、社会的ビジョンの提示と成果目標へのコミットメント、ストーリーに基づく施策群の連携による首尾一貫性が必要である。頭を整理して、きちんとした政策の立案を急ぐべきである。

政策官庁を目指しているというが、文科省はいつになれば、当たり前のことに気づいて、自己変革に動き出すのだろうか?一人も取り残さないというスローガンは、元来、簡単に口にできるものではない。誠実さを欠いては国民からの信頼はなくなる。見捨てられないうちに、何とか立ち直ってほしい。

出典:文科省の「一人も取り残さず」は本当か?|NUPSパンダのブログ

2020年12月24日木曜日

記事紹介|コロナ禍における授業の在り方

大学が文科省に対して嘘の回答をするとは思いたくないが、12月24日の朝刊各紙に掲載されている標記の調査結果は、真実性にかなり疑問がある。大学からの回答に関して裏付けを取らずに、鵜呑みにしているからである。対面授業の割合が低いとする回答をしている大学については、一応、額面通りに受け取って構わないだろう。調査前に対面授業の割合が低い大学は名前を公表することがあるとされていたこと、それらの大学には、学長からのメッセージや学生の理解度など付加的な情報についても回答が求められたことから、大学の方針として、あえてオンライン教育を選択していることを明らかにしているからである。他方で、比較的小規模な大学で、後期には、感染対策を講じながらの対面授業を選択したという事情も理解できる。

恐らく真実性を問うべきは、規模が大きな大学で、「半々」という回答をしているところである。すべてを疑うわけではないが、オンラインか対面かは、教育に係る方針の問題なので、原則としてどちらかの方法を選択するはずである。したがって、基本的にどちらかに偏るのが自然であろう。「半々」というのは、対面への切り替え方針が、学部に浸透せず、まったく徹底できなかったという意味になるのであろうか? 私が調査を担当するならば、そのあたりの事情を詳しく聴くだろう。方針の転換に関する一連の経緯のほか、どういう授業科目で、何ゆえに対面に切り替えられなかったのか、確認する。主としてオンラインを選択している大学の付加的な記述の中にも、そうした学内事情らしいものが垣間見える。今はオンラインが主だが、次年度からは、対面を原則とするなどの方針を述べている大学も相当ある。文科省へのリップサービスかもしれないが・・・。「半々」と回答した大学に、付加的な記述を求めなかったのは、真実性の確保という意味で、調査側の手落ちとしか思えない。もっとも、真実性を重視しているならば、バイアスをかけておいて回答を求めたこと自体が、正しい手続きではなかった。大学名を公表されるのを避ける意味で、回答の担当者が平気で嘘をつく大学があるとは思わなかったのだろうか? あるいは、授業があった期間に、幾つかの大学を選んでキャンパスを訪問すれば、どの程度の学生が来ているか、容易に実感できただろう。大学の回答を信用しすぎると、真実性が低いデータを報道機関に提供してしまう。後で真相が明らかになって、文科省は責任を問われないのだろうか?

大学が対面授業を基本とすることは、大学という教育機関の成り立ちに鑑みて、関係者に大きな異存はないだろう。その上で、オンライン教育の可能性をどう生かすかが、経営戦略上、重要なのである。したがって、文科省が調査をするとすれば、第1に、オンライン教育の得失、可能性を対面授業との比較でどう認識しているかを問うべきだろう。オンラインか対面かという選択ではない。そもそも対面の教育の質が怪しい大学もある。オンラインを主としている大学には、その学習効果を聴いているが、対面への切り替えが進んでいる大学でも、対面の学習効果が高い保障はない。

第2に、オンライン教育にもピンキリがあるので、その実態に関して幾つかの問いを用意する必要があった。教員のスキル、学生のICT環境、学習指導のシステムなど、状況を把握したうえで、どのような対策を講じたのか、調査項目に加えるべきであった。調査目的が、対面授業への切り替え促進にあるからと言って、オンライン教育への取り組みの実態にも差があるので、その理解の上で、対面授業への切り替えを論じるべきであった。一般的にオンラインよりも対面が良いというのは、思い込みに過ぎない。私は、私学を含む多くの大学で、教員も学生も単に安きに流れるオンライン教育と称するものが行われていたのではないかと疑念を抱いている。教員は労働の面で楽をし、学生は単位取得の面で楽をしているので、アンケートを取っても、安きに流れる、なんちゃってオンライン教育には「満足」という回答が多くなる。調査により実態を踏まえて議論できるようなベースが得られなければ、行政調査としては役に立たない。

第3に、言わずもがなだが、調査結果の分析をまじめにしなければならない。大学からの回答を並べただけでは、あまりにもお粗末だろう。例えば、大学の機能別、所在地別、規模別に傾向を見るのは始めの一歩である。対面への切り替えを3割以上実現した大学を対象に、授業科目(科目によって履修者数が大きく異なる)と感染リスク管理の関係もデータを取って分析できたはずである。付加的な記述を見ても、大教室で行う授業はオンラインにするなど、現場では工夫をしているのが分かる。また、対面への切り替えのボトルネックについては、オンラインを主とする大学の付加的な記述を追っていけば、ある程度の仮説は抽出できるだろう。さらに、切り替えが先行している同じ条件の大学の手法を、他大学に横に展開することも考えたらよい。この種の調査をやって、詳しい分析らしい記述がないのは情けない。それとも、分析を考えて、調査を設計していないのか?大臣まで上げていく過程で、誰も、この資料にダメ出ししなかったとしたら、文科省はほとんど機能マヒしている。

第4に、大学において、今回の調査内容を関係者に情報提供しているのか、社会的な説明責任を果たしているのかも、重要な点であり、調査すべきではなかったか? 保護者はもちろん、卒業生を含む社会一般への説明をホームページなどで十分行っている大学は、恐らく信用できる。逆の大学は、やっていることに自信がないと見なしてよいだろう。その回答は鵜呑みにできない。文科省から照会があったので、仕方なく回答するというのでは困る。

最後に、2020年の年末に当たって、政府が、静かに家で過ごすことを求めていることと、文科省が大学に対面授業を促進することを求めていることは、方向として真逆な話であるので、例えば、大学の規模や所在地、在籍学生の能力を踏まえて、正統なオンライン教育により学習効果を担保できる大学は、早期の対面授業への切り替えに拘る必要がないのではないか? 調査結果を踏まえて、早く軌道修正した方がよい。もっとも、私学では後期の授業自体がほとんど終了してしまっているが・・・。少なくとも、来年度もワクチン接種が行きわたるまでは、対面授業への切り替えを急ぐ必要はなかろう。もしも、文科省が何か特別な施策を考えていないのなら、大学に口出しは無用で、状況を勘案しつつ、順次、自主的に対面授業へ切り替わっていくに違いない。

出典:文科省の対面授業に関する調査は信用できるのか?|NUPSパンダのブログ 

2020年12月10日木曜日

記事紹介|霞が関が学びきれていない失敗の本質

大学の現場感覚としては、大学入試センター試験は、標準的な学力の測定という意味で、問題作成の質が高く、高校学習指導要領への配慮も十分で、総合的に高評価を得ていると感じていた。確かに英語のリスニング試験は無理をしながらの実施だったが、何とか定着をみたと考えていた。何よりも、答案を短期間に正確に採点をするとともに、受験生側も自己採点で結果の予想が精度よく可能だったので、この種の試験としては、大学や高校の教育関係者からも評判がよく、国から褒められてしかるべき実績を残していた。

しかし、文科省は、トップダウンで、高校教育の改善を念頭に、高大接続部分に当たる大学入試を、外国(主にアメリカ)のシステムをモデルにして「改革」すると言い出した。うまくいっている大学入試センター試験を「改革」する必要はなかったはずだが、1点刻みの合否判定は不合理、複数の受験機会を設けるべき、記述式の設問も必要、英語は民間試験に代替することが可能などなど、種々の理由を持ち出して、センター試験を廃止して、新たな試験システムを構築する方向で、学識者らを集めて、急ピッチで検討を行ったのである。

その結果については、大きな目玉とされた記述式の採用が、採点の技術的問題で見送られ、英語の民間試験の導入も、得点換算の公平性の観点から先送りになっていると理解している。文科省にも、言い分は色々とあるだろうが、ここまでボロボロになって撤退した「改革」はあまり記憶にない。この「改革」を含めて大学入試の諸課題について幅広く論じている「大学入試がわかる本」(中村高康編、岩波書店)所収の荒井克弘「高大接続改革の現在」論文には、現場の学識者としての無念さがにじみ出ており、その優れた分析とともに、共感を禁じ得ない。

ここでは、なぜ、こうした失敗が繰り返されるのか、失敗から何を学ぶのか、考えてみたい。簡単に言えば、この分野の古典である「失敗の本質」(戸部、寺本、鎌田、杉之尾、村井、野中著、中公文庫)から、いまだに霞が関が学びきれていないということになる。霞が関の病理は、日本軍の組織的病理と同根である。以下に、私が考える今回の失敗の要因を挙げてみたい。なお、ケースとしては、文科省の事例だが、現在の霞が関に広く蔓延している傾向であると感じている。

第1に、現場、現実を踏まえない計画を立案してしまうことである。よくあるのは、背景も状況も異なる外国の例を持ってきて、我が国にそのシステムを導入すればうまくいくと決めつけてしまうのである。この発想による「改革」が、成功する根拠は何もない。大学入試の在り方は、国ごとに異なっており、それは上澄みだけをまねすることで移植できるものではない。それ以前に、移植すべき根拠もない。例えば、アメリカのAO入試と我が国のそれとは、月とスッポンの差があり、同じシステムだと誤解してはいけない。言わば、形だけ移植したが、現実には、まったく異なる文脈で使われているに過ぎない。現場、現実を踏まえない計画は、ロジスティクスの面を軽視する傾向にもある。机上の空論でビジョンを作ったものの、目標達成は不能に終わるというわけである。多くの日本軍の作戦の失敗も、そもそも実現不可能な作戦を決定してしまったことにあった。

第2に、データに基づく実証的な根拠を持たずに、計画を作成してしまうことである。そもそも、データの取得自体が不十分であり、客観的な視座から課題を抽出するという科学的なアプローチをしようとしていない。始めに、正しい現状把握に基づかない思い込みがあり、そのストーリーが改革の方針を支配してしまうので、科学的アプローチが反って排除されてしまうのである。また、思い込みから計画が作られて、やっと実施段階に至ったとしても、2年程度後に人事異動があれば、新たな思い込みに基づく新たな計画が作られるという、計画の永久運動が繰り返されるのである。実証性を軽視する組織は、失敗を失敗とも思わない。したがって、失敗の永久運動に陥り、たくさんの無駄と残骸が残されるのである。

第3に、決定までのプロセスがブラックボックス化され、だれも責任を負わないことである。正確な記録を残さない(廃棄する)ために、責任の所在が極めて不明確である。これも、日本軍とよく似ている。審議会等の検討の場についても、すべての委員がきちんと考えを述べているわけではなく、集約された文書はコンセンサスで承認されているに過ぎない。そうした場で反対意見を堂々と述べるような人には、あえて委員にしないだろう。責任の所在が不明確なので、失敗の責任はだれも取らないことになる。今回の大学入試改革についても、どんな決着になろうと、責任論は一切生じない、生じさせないに違いない。

第4に、「改革」を自己目的化することである。文科省の行政分野は、かなり前から閉塞感が強いので、大きな岩盤を崩すような一撃に、憧憬があるのだろう。政治家も、大戦果を挙げる夢を見て、大花火を打ち上げようとしがちである。トップがそうした夢を持てば、下はご機嫌を取るために、調子を合わせる。やっているふりを含めて、「改革」ごっこが止まらないのである。高校教育の改善のために、高大接続部分を担う大学入試を改革するという発想は、猫を尻尾で振り回すようなものだと思うが、所詮無理な話ではなかったか?上から降ってくれば、何にでも調子を合わせるのなら、自立した、自分で考える人間はいらなくなる。無理な話を無理だと言えない組織になっているなら、それを改めるしかない。霞が関の機能低下、人材流出は悲しい限りだが、残っている人間が、現実の局面で正しい行動をするよう頑張るしかあるまい。

以上述べたように、文科省の大学入試改革は、失敗すべくして失敗したと断じることができる。失敗の本質を見つめて、失敗を糊塗することなく、政策面で出直しすることを期待したい。また、それ以前に、組織的な立て直しに真剣に取り組まないと、何度でも失敗を繰り返しかねないことに気付くべきだろう。この件は、特定の政治家の責任ということにして、一件落着にはできない。トップダウンの「改革」への教訓として、今回の失敗をきちんと総括しておかなければならない。累次の高等教育に関する施策の包括的な見直しを求める声もある。それほどの組織的な危機が到来していると認識すべきだろう。

出典:なぜ文科省が主導する大学入試改革は失敗したのか?: NUPSパンダのブログ