12月20日、2002年制定の「デジタル手続法」に基づく新しい「デジタル・ガバメント実行計画」が閣議決定された。
とは言っても、これは、2016年12月制定の官民データ活用推進基本法と、2017年5月策定の「デジタル・ガバメント推進方針」に示された法制を具体化するために、2018年1月、初版として「eガバメント閣僚会議決定」がなされ、同年7月に「デジタル・ガバメント閣僚会議決定」で改定されたものをさらに改めたものにすぎない。しかも、その内容は「笑止千万」と指摘しないわけにはゆかない。
元の「デジタル・ガバメント推進方針」にも「デジタル・ガバメント実行計画」にも請願の電子化がまったくふれられていないためである。
筆者は、「新官僚論」で官僚の悪人ぶりを書いたが、電子請願を認めようとしない姿勢にまさに日本の官僚の悪辣さを強く感じる。同時に、請願の電子化の方向性を示そうとしない自民党や公明党の国会議員の能天気さや、この点を徹底追及しようとしない野党議員の無能を慨嘆せざるをえない。
よく躾けられた日本国民は、官僚に不都合なことは「知らしめず」、「寄らしめず」という伝統的な日本の官僚の術中にはまっている。「お上」であり、「お神」でもある「お役人」は最善を尽くしてくれると信じているわけだ。だが、これはまったくの誤解である。官僚は平然と嘘をつくし、平然と事実を隠蔽するし、自分たちにマイナスの政策には見向きもしない。
たとえば、首相官邸のホームページには、「ご意見・ご感想」を電子情報として集めるサイトがある。「首相官邸」と「各府省庁」向けの二つに分かれている。いずれも、ただ意見や感想をのべるだけであり、送ったものに返信がある保証もない。形ばかり、国民の意見や感想を募っているだけだ。
請願権の重要性
筆者は拙著『民意と政治の断然はなぜ起きた:官僚支配の民主主義』(2016年、ポプラ社)のなかで、請願権の重要性を主張した。
大日本帝国憲法第三十条でも、日本国憲法第十六条においても、請願権は保障されてきた。後者の条文では、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」とされている。これを受けて、1947年、請願法が制定され、「請願の事項を所管する官公署」宛てに請願書は提出されることとなった(第三条)。
重要なことは、請願を行う主体が「臣民」から「国民」へと変化したことで、請願が哀願的な性格から主権者たる国民の民主的性格を担うものへと転化したことである。これは、国民の権利として請願権が位置づけられたことを意味し、国民の意見を聞きおくだけですまそうとするご意見拝聴方式とはまったく異なっている。
しかも、憲法第十六条の立法趣旨からみて、国民は議会だけでなく、行政や裁判所などに対しても請願する権利を有しているのであり、国民が立法・司法・行政に広範に請願する権利が認められていると理解すべきものだ。
にもかかわらず、請願権を知る人は少ないし、教えられてもいないのが現状ではないか。なぜならこうした請願権が官僚の裁量権を狭める、官僚にとってはなはだしく不都合なものだからだ。ゆえに、官僚は請願権を国民に「知らしめない」ように躾けているのだ。
電子請願で請願権を実のあるものに
国会では、議員の紹介のない請願は「陳情」として受理されている。ほかに、行政機関への請願もある。この事後処理は各機関の判断に任されており、調査・処理報告などの義務がないために、「誠実に処理」(請願法第五条)とは言い難い。
したがって、インターネットで各省庁のサイトにアクセスしてみても、まったくといっていいほど、請願内容、審査結果などを閲覧することはできない状況が続いている。
他方で、地方議会の場合、国家機関に意見を表明する手段として、意見書の提出制度がある。地方自治法第九九条に基づいて行われているものだ。地方自治体への請願については、地方自治法第百二十四条により、「普通地方公共団体の議会に請願しようとする者は、議員の紹介により請願書を提出しなければならない」とされている。
同第百二十五条には、「普通地方公共団体の議会は、その採択した請願で当該普通地方公共団体の長、教育委員会、選挙管理委員会、人事委員会若しくは公平委員会、公安委員会、地方労働委員会、農業委員会又は監査委員その他法律に基づく委員会又は委員において措置することが適当と認めるものは、これらの者にこれを送付し、かつ、その請願の処理の経過及び結果の報告を請求することができる」とされている。
しかし、これだけでは、請願の処理やその内容について十分に知ることはできないだろう。しかも「議員の紹介により」という条件をつけて請願を陳情と区別するという悪弊が地方自治でも踏襲されている。
つまり、国民のきわめて重要な権利である請願権がほとんど機能しないまま放置されているのである。だからこそ、筆者は拙著のなかでつぎのように書いておいた。
「請願制度を改革して電子請願をできるようにすることが必要だ。行政手続法と同じように、請願手続法を制定し、そのなかで電子請願もしっかりと位置づけ、受理と審査の手続きを法的に明確化し、国民の声が適切に届けられるような仕組みづくりを急がなければならない。
具体的には、電子署名による個人の明確化をどう進めるかが重要な論点となるが、すでに電子請願を導入している各国の状況を学びながら試行錯誤する姿勢が求められている。さらに、行政だけでなく、立法や司法についても、請願手続法を適用し、せっかく憲法が広範囲に認めている請願権を実のあるものにすべきだろう。」
英米の電子請願
諸外国の事情について、もう少し日本国民は知るべきだろう。
米国ではバラク・オバマ大統領の登場に伴って、「オープンガバメント・イニシアティブ」なるものが開始された。これは、2009年5月にはじまったオープンガバメント政策であり、ウェブサイト上で国民の意見やアイデアを募るというものだ。
さらに、2011年9月からは、〝We the People〟という「陳情サイト」がスタートした。13歳以上で有効なメールアドレスを所有する人なら誰でもアカウントを作成し、参加することができる。作成には名前とメールアドレスが必要なので、一人につき一つのアカウントとされているが、アカウントがなくても、つまり、外国人であっても、公表された請願をみたり、ホワイトハウスからの回答を閲覧したりすることが可能だ。30日以内に2万5000以上の署名が集まると、ホワイトハウスが対応することになっている。つまり、この段階では、電子請願が実現したとみなすことができるだろう。
電子請願の発端は、英国でトニー・ブレア政権が2006年にまさに電子請願を意味するe-petitionsを創始したことにある。2010年の総選挙前にいったん閉鎖後、2011年に新しい電子請願がスタートし、1年間の有効期間内に10万以上の署名が集まると、下院で審議される権利が与えられるという画期的なものだった。提出された請願は7日間審査され、受理されたか否かを通知するメールが請願者に届く仕組みだ。
受理されないケースとしては、同一内容の請願がすでに存在する場合や、秘密・誹謗中傷・虚偽・名誉棄損の言葉を含んでいる場合などがある。請願が公表されれば、請願者は自らのソーシャル・ネットワーク・システム(SNS)のページに掲載して、署名を集めることができる。システムは2015年7月から新しくなり、逐次、改良が進められている。
狡賢い日本の官僚
こうした海外の動きに対して、日本の官僚は実に狡賢い。日本では、「パブリックコメント」から「意見公募手続」へと制度を変更しながら、請願権の電子化という道筋からそれた政策をあえて取り続けているからだ。
1999年の閣議決定「規制の設定又は改廃に係る意見提出手続」にもとづいていわゆるパブリックコメント手続きが行われていたものを、2005年6月の行政手続法の改正により意見公募手続きに集約させたのである。以後、もっぱら意見公募手続きを電子化することで、もはや電子請願は不要との姿勢を貫いていることになる。
しかも意見公募手続きでは、行政府だけが対象にすぎない。おまけに、意見を求める主導権は行政にあり、意見の受理や公示の基準があいまいなうえ、その後の対応義務が定められていない。このため、意見を聞きおくだけですまされることがしばしば起きる。要するに、官僚の裁量の余地が大きすぎ、国民の権利である請願権とはまったく別ものとして意見公募手続きが位置づけられてしまっている。
これでは、憲法に裏づけられている国民の大切な請願権が無視されたまま、立法・司法・行政全体への電子請願への道筋がまったく閉ざされてしまいかねない。だからこそ、憲法に規定された請願権を電子利用することで、その権利をしっかりと国政全般に反映できるようにすべきなのだ。そのためには、「電子請願手続法」のような法律が制定されなければならない。
白川静の『字統』によれば、「民」という漢字は「目を刺している形」を表している。「一眼を刺してその視力を害し、視力を失わせることをいう」。つまり、視力を失ったことで自由を奪い取られた人、奴隷のような人物を意味している。
この「民」という漢字の由来は実によく「民」の本質を示しているように思われる。征服されて支配下に置かれた人々の唯々諾々と屈従する姿そのものを表す民が国家を隠れ蓑した官に支配されるという構図がいまでも続いている。それを覆す有力な手段こそ電子請願なのである。
(出典)
電子請願を無視する日本政府 - 塩原俊彦|論座