どんなにひどい環境に生まれたとしても、魂から見ると、そこが自分が一番成長する“道場”なんです。
魂がそこを選んだんだから、安心してそこで修行すればいい。
とはいっても、何も、そのままそこで我慢しろ、と言っているわけではないんですよ。
自分の「手」を変える、つまりそこにいて、生き方を変えていけばいいんです。
どうやって変えるのかというと、一番わかりやすいのは、人に喜ばれることをすればいい。
そうすれば自分の「手」が少しずつ変わっていきます。
「私は人さまに喜んでいただけるような立派なことはできません」
と言わないこと。
喜ばれることをするのは、実はとても簡単です。
たとえば昨日私がやったのは、ファミレスの駐車場でクギを拾ったことです。
お弟子さんと一緒にお昼を食べにファミレスに入ったとき、駐車場にクギが落ちていたんです。
その上を車が通ったら、パンクするかもしれない。
それじゃあかわいそうだと思ったから、私はクギを拾って、はしっこのほうによけておきました。
そして誰も気がつかなくても、人に喜んでもらえることをすると、神様がちゃんと見ていてくれるんです。
京セラの創業者稲盛和夫氏も同様のことを言っている。
「この世へ何をしにきたのか」と問われたら、私は、「生まれたときより、少しでもましな人間になる、すなわち、わずかなりとも美しく崇高な魂を持って死んでいくためだ」と答えます。
様々な苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながら、息絶えるその日まで、倦(う)まず弛(たゆ)まず一所懸命に生きていく。
その日々を磨砂(みがきずな)として、人間性を高め、精神を修養し、この世にやってきたときよりも少しでも高い次元の魂を持ってこの世を去っていく。
私はこのことよりほかに、人間が生きる目的はないと思うのです。
昨日よりましな今日、今日よりよき明日であろうと、日々誠実に努め続ける。
人は、自分を変えるのはとても大変だと思っている。
しかしながら、他人やまわりを変える方がよっぽど難しいし、その可能性はほぼゼロに近いかもしれない。
だからこそ、自分を変えていくしかない。
なぜなら、自分が今の環境や状況を選んで生まれてきたのだから。
毎日起こる様々なできごとを自分の「磨き砂」として、自分の魂を磨く。
他人やまわりのせいにするのではなく、たとえわずかであっても自分を変えていく。
その積み重ねが、自分をつくっていく。
人生の舵(かじ)を自分で握る人でありたい。
(出典)
人生の舵を自分で握る |人の心に灯をともす