2015年9月27日日曜日

社会から支持される大学であるためには(2)

さて、文部科学省は、現在、国立大学に文系学部の改組や廃止を求めた通知に対する反発の強まりを受け、火消しに追われています。

去る9月11日には、下村文部科学大臣が記者会見で、人文社会科学系については廃止ではなく見直しを求めたものだったとして「誤解を与える表現だった」と釈明。

また、9月18日には、日本学術会議の幹事会で、文部科学省の高等教育局長が「通知は大学の変革を促すのが目的で、人文社会科学系の学問を軽視しているわけではない」などと説明を行っています。(幹事会説明資料|資料3「新時代を見据えた国立大学改革」

国立大学の人文社会系については、従前から、ガバナンスの在り方など様々な問題が指摘されてきたところであり、文部科学省の考え方にも一理あるのは確かですし、「国立大の人文社会系学部は、学生や社会の側に立って授業の魅力を十分説明できていない面もある。また、分野によって専門知識の習得や社会問題への関心の喚起が乏しいなどそれぞれ課題があり、カリキュラムの偏りを正す工夫の余地がある。財政事情が苦しい中、投資に見合った人材育成を求める国の考えにもそれなりの背景はある。ただ、教員が減るなどして結果的に人文社会系分野の研究が衰退するとすれば問題だ。これ以上国に改革の口実を与えないよう、大学院などで研究機能を維持しつつ、教育では組織や内容を工夫するなどバランスの取れた改革が必要だ」(本田由紀・東京大大学院教授(教育社会学))(2015年9月22日朝日新聞)といった意見にも素直に耳を傾ける必要があるでしょう。

また、京都造形芸術大学の寺脇さん(元文部科学官僚)が「結局今回の騒動の責任がだれにあるのかうやむやで終わらせようとしている。そもそも今回の大学の組織見直しの問題も国立大だけではなく私立も含めた大学全体の問題としてとらえるべきで拙速感は否めない」(2015年9月26日毎日新聞)と語っているように、このたびの混乱について、文部科学省は、自らの責任をうやむやにしない真摯な対応が求められます。


関連して、「文教ニュース」(平成27年9月7日号)という文部科学省関係の業界誌に掲載された、国立大学法人支援課長の寄稿(全文)をご紹介します。

批判に対する火消しの効果をねらったのか、あるいは、大学関係者の理解を得るための説明責任を果たすための行動なのか、動機は定かではありませんが、問題となった”通知”の意図が説明されてあります。

なお、読んでいただければわかりますが、全体としては、役人特有の堅苦しい美辞麗句の連続です。特に気になるのは、「自己改革が必要」「自ら変わっていかなければならない」「自ら転換して」「主体的に取り組んで」といった大学に求めるキーワードが多用されており、「文部科学省は命令や指導はするが、責任は自分でとれ」といった相変わらずの役所特有の突き放す表現が気になります。読み手(私)の問題かもしれませんが。
本年6月8日付けで文部科学大臣通知「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」が発出され、『ミッションの再定義』を踏まえた組織の見直し」における教員養成系や人文社会科学系の学部・大学院の記述が注目を集めているが、この通知の意義・財的について氷見谷国立大学法人支援課長に聞いた。
平成28年度から始まる国立大学法人等の第3期中期目標・中期計画(平成28~33年度)の策定に向け、各大学での検討に資するため、6月8日付けで「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」の通知を発出した。その内容は、組織の見直し、教育研究の質の向上、業務運営等多岐にわたるが、いずれも第2期中期目標期間(平成22~27年度)、特に平成25年度からの3年にわたる「改革加速期間」における取組の進捗や、国立大学に対する社会の要請の高まりを踏まえたものである。
国立大学に求められている社会的役割
では、国立大学に対する社会の要請とは何か。今、我が国は、世界規模で急激に変化する社会の中で、いくつかの大きな課題に直面している。世界における日本の競争力強化、産業の生産性向上、我が国発の科学技術イノベーションの創出、グローバル化を担う人材の育成、震災の経験を活かした防災対策、地球温暖化等の環境問題への対応、今後ますます進行する高齢化と人口減少の克服、活力ある地方の創生、そして、こうした現代社会に飛び立っていく若者の育成。これらは、国民一人一人が生きがいを持ち、豊かに安心して生活を送ることができる持続的な社会を形成していくために避けて通ることができない課題である。未来が予測しにくくなっている現代社会の中で、これらの諸課題に立ち向かっていくためには、現代を生きる一人一人の個人や各種組織体が、それぞれの立場から可能な行動を取っていくことが求められる。これらの課題に対する挑戦なくしては、我が国の社会を次世代に対して誇れるものとして受け継いでいくことがで巷ないのではないだろうか。

これらの大きな変化とそれに伴う諸課題は、我が国社会の現在と未来に対する不安をもたらす一方で、今後の新たな社会の展望を開く大きな可能性も秘めている。知識基盤社会を迎え、我が国社会の活力や持続性を確かなものとする上で決定的に重要なものは、新たな価値を生み出す礎となる「知」とそれを担う「人材」であることには疑いがない。18歳人口が今後減少していく状況の中、これからの時代を担う入材の育成と、より充実した教育研究水準を確保しつつ、各国立大学がいかにその役割を果たすかが問われている。全国に配置され、高い潜在能力を有する国立大学が、その機能を一層強化し、卓越した教育力や研究力を通じて、地域、我が国、そして世界が直面する課題解決に最大限貢献することが、これまで以上に求められているのである。

特に教育については、現在、文部科学省を挙げて「高大接続改革」に取り組んでいるが、近未来に対して三人の学者による次のような分析がある。「子供たちの65%は、大学卒業後、今は存在していない職業に就く」(キャシー・デビットソン氏、ニューヨーク市立大学大学院センター教授)、「今後10~20年程度で、約47%の仕事が自動化される可能性が高い」(マイケル・A・オズボーン氏、オックスフォード大学准教授)、「2030年までには、週15時間程度働けば済むようになる」(ジヨン・メイナード・ケインズ氏、経済学者)。

世の中の流れは予想よりはるかに早く、将来は職業の在り方も様変わりしている可能性が高い。こうした変化の中では、これまでと同じ教育を続けているだけでは、新しい時代に通用する「真の学ぶ力」を育むことはできない。こうした課題を高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の改革による新しい仕組みによって克服し、子供一人一人が、高等学校教育を通じて様々な夢や目標を芽吹かせ、その実現に向けて努力した積み重ねを、大学入学者選抜でしっかりと受け止めて評価し、大学教育や社会生活を通じて花開かせるようにする必要がある。「高大接続改革」は、高等学校、大学、そして社会へと、一貫して育てていくための一体的な教育改革である。

このうち大学教育に関して言えば、その質の転換を図ることが重要な課題となる。我が国の大学生の学修時間は、米国と比べて依然として短いという調査がある。いまだ答えのない課題に向き合う力、先の予想が困難な時代を生きる力を育成するためには、教育内容、指導方法、評価方法も含めて、どのような大学教育を行い、学生をどう鍛えて社会へ送り出すか、そのための組織は今のままでよいのかということに、大学は真摯に向き合い自ら問い直す責務を負っている。
具体的には、各大学において、学生に身に付けさせるべき資質・能力を明確にし、それに基づく学位授与の方針(ディプロマ・ポリシー)や教育課程の編成の方針(カリキュラム・ポリシー)が適切に設定されてきたか、能動的学習(アクティブ・ラーニング)、科目番号制(ナンバリング)の導入や教育課程の体系化等を通じて全学的な教学マネジメントを確立するとともに、学修成果の把握、厳格な成績評価に取り組むなど、特色ある教育研究を行う体制がとられてきたか、という観点から、現在行っている教育内容・方法やその基盤となる組織のあり方等を点検し、変化する社会の中で学生が生涯を通じて活躍することができる力を養うことができる教育を目指していく必要がある。
これに関し、既に複数の国立大学においては、「ミッションの再定義」を踏まえるなどして、既存の教育研究組織を廃止して新たな組織を設置することにより、社会的要請の高い分野の教育研究活動を行おうとする意欲的な取組が行われるようになっている。例えば、山口大学では、教育学部と経済学部の組織を見直し、カリキュラム設計をデイシプリン・ベースドからアウトカム(人材像)・ベースドに転換した新しい文理融合型教育を行う新学部「国際総合科学部」を平成27年度から開設し、科学技術リテラシーと英語によるコミュニケーション能力、課題解決能力を併せ持った国際的に活躍できる人材を養成するため、1年間の留学の必修化、文系と理系の幅広い知識の修得、学修成果を数値化した評価方法を導入するなどの特色ある教育を展開している。また、宇都宮大学では、社会制度、まちづくり、防災・減災などの重層的・複合的な地域課題に対応できる入材を養成するため、教育学部と工学部の組織を見直して新たな学部を設ける準備を進めている。新たな学部では、地域をフィールドに学科を越えて学生が参加する課題解決型演習を必修化するとともに、全ての専門科目をアクティブ・ラーニングで実施するなどの教育の展開が予定されている。長崎大学では、経済学部と環境科学部の組織を見直し、人文社会系諸分野を「多文化社会」の観点から再編・統合した学際性に富むカリキュラムを構成する、「多文化社会学部」を平成26年度に開設し、多様な文化的背景を持つ人々と協働し、グローバル化する社会を担う人材を養成しようとしている。その他にも、東京大学では、文学部の現行の4学科を1学科に改組することにより、専門領域内での学修に自足する傾向を解決し、俯瞰的な視野から「人間」と「社会」をめぐる知を活用しうる人材を育成しようとする構想を予定している。
このように、社会のニーズと各大学が培ってきたリソースを踏まえ、幅広い知識や能力を活用できる人材を育成するため、「文」や「理」というこれまでの枠組みを超えて、自然科学、人文学、社会科学が連携し、総合的な知を形成し、グローバル化の取組、地方創生への貢献などに対応した新たな学部に改組する動きなどが着実に進んでいる。ミッションの再定義が行われた平成25年度以降、平成28年度新設見込みの学科等までを含めると、全体の約15%に相当する学科(226学科(うち教員養成、人文社会科学系は89学))で組織見直しの構想が進められている。また、東京芸術大学や一橋大学では、自らの強みを生かして海外大学と連携し、国際的な教育研究拠点を形成する構想を進めている。こうした複数の国立大学における改革の機運を全ての国立大学で共有し、それぞれの強みや特色、社会的役割等を踏まえつつ、教育研究の質向上や刷新に向けた取組を進めていくことが、現代社会において大きく期待されているのである。
なぜ特に教員養成系・人文社会科学系で見直しに取り組むことが求められるのか
こうした背景の中で、先般、「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」の通知を発出した。ここでは、全ての組織を見直しの対象としつつ、「特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人ロの減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする。」とした。
この点に関して、一般に、「人文社会科学系学部・大学院を廃止し、社会的要請の高い『自然科学系』分野に転換すべきというメッセージだ」、「文部科学省は人文社会科学系の学問は重要ではない」として、「すぐに役立つ実学のみを重視しようとしている」、「文部科学省は、国立大学に人文社会科学系の学問は不要と考えている」との受け止めがある。
果たしてそうなのかと間われれば、いずれもノーである。すなわち、文部科学省は、人文社会科学系などの特定の学問分野を軽視したり、すぐに役立つ実学のみを重視していたりはしない。人文社会科学系の各学問分野は、人間の営みや様々な社会事象の省察、人間の精神生活の基盤の構築や質の向上、社会の価値観に対する省察や社会事象の正確な分析などにおいて重要な役割を担っている。また、社会の変化が激しく正解のない問題に主体的に取り組みながら解を見いだす力が必要な時代において、教養教育やリベラルアーツにより培われる汎用的な能力の重要性はむしろ高まっている。すぐに役立つ知識や技能のみでは、陳腐化するスピードも速いと言えるだろう。
では、なぜ、特に教員養成大学・学部、人文社会科学系について、「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」に積極的に取り組む努力が必要であると考えるのか。その背景には我が国社会を取り巻く環境の大きな変化があり、国立大学には社会の変化に柔軟に対応する自己変革が必要と考えているためである。
特に、教員養成大学・学部については、平成24~25年度に文部科学省が各国立大学とともに、専門分野ごとにその強み・特色・社会的役割を明らかにするために実施した「ミッションの再定義」において、今後の人ロ動態・教員採用需要等を踏まえた量的縮小を図りつつ、初等中等教育を担う教員の質を向上させるため機能強化を図ることとし、学校現場の指導経験のある大学教員の採用の増加、実践型のカリキュラムへの転換、組織編成の見直し・強化を推進することとしている。このような教員養成大学・学部が今後向き合うべきミッションにより注力していくため、そのミッションに必ずしも合致しない、いわゆる「新課程」は既に廃止の方針としており、そのリソースを活用するなどして」より質の高い教員養成を実現していくことが必要と考えている。
他方、これまでの人文社会科学系の教育研究については、専門分野が過度に細分化されているのではないか(たこつぼ化)、学生に社会を生き抜く力を身につけさせる教育が不十分(学修時間の短さ、リベラルアーツ教育が不十分)なのではないか、養成する人材像の明確化や、それとの関連性を踏まえた教育課程に基づいた人材育成が行われていないのではないか、という指摘が社会一般や学術界からもしばしばされており、「ミッションの再定義」の過程でも、同様の課題が認められた。先述した東京大学文学部の1学科構想は、こうした課題を受けての大学側からの自主的な改革による取組と考えられる。
先般の通知において、全ての組織の見直しを求める中で特に教員養成大学・学部や人文社会科学系を取り上げているのは、このような課題を踏まえ、教育の面から改善の余地が大きいと考えているためである。「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」とは、例えば、いわゆる「新課程」を廃止するとともに、その学内資源を活用して、学生が生涯にわたって社会で活躍するために必要となる能力を身に付けることのできる教育を行う新たな教育組織を設置すること等を想定している。
各国立大学には、教育研究の質をより高める観点から、学部や研究科(大学院)などの再編制を通じ、「社会的要請の高い分野への転換」に積極的に取り組むよう努めていただきたいと考えている。大学で行われる学術や科学技術の研究教育は未知の世界を切り拓くものである。このことを踏まえれば、各大学にはむしろ社会的要請をリードするような積極的な提案をいただきたいところである。見直しの具体的内容は、各大学の学部・研究科が果たす、あるいは今後果たすべき役割(ミッション)として再確認したことを踏まえ、必要な戦略と計画を立てて実行していただくこととなる。
国立大学も社会とともにある。そしてそのステークホルダーは国民全体といえる。新しい時代の大学教育の形をどのように創っていくか、各国立大学は英知を絞っていただきたい。それは、それぞれの国立大学自身が魅力ある大学であり続けるための重要な課題でもある。現状を維持するだけでは、学生に新しい時代に通用する力を付けることができない。
社会が大きく変貌している現在、国立大学も「社会変革のエンジン」として「知の創出機能」を最大限に高められるよう、自ら変わっていかなければならない。今こそ、新たな社会を展望した大胆な発想の転換の下、学問の進展やイノベーション創出に最大限貢献する組織へと自ら転換していかねばならない。
文部科学省は、平成25年11月の「国立大学改革プラン」の策定以降、その強み・特色・社会的役割を踏まえながら、これからの時代の新たなニーズと真摯に向き合う国立大学を目指し、機能強化の取組を進めてきた。これからも、全ての国立大学が主体的に取り組んでいただくごとを期待しており、このような大学を積極的に支援していく考えである。

最後に、筑波大学ビジネスサイエンス系教授の吉武博通氏の論考社会から支持される
大学であるためにー仕事との関係における大学教育の意義と課題ー」(リクルート カレッジマネジメント194 / Sep. - Oct. 2015)を抜粋してご紹介します。

大学が今置かれている状況、つまり、”経済成長”の観点から求められる大学の役割と、大学本来のあるべき姿とのギャップをどう考えていくべきなのかについてのヒントが隠されているような気がします。
高等教育に関する政策が次々に打ち出され、国公私立を問わず、大学はそれに翻弄されている面も否めない。リーダーシップの発揮を求められる学長は、国の政策動向を学内に伝え、それに沿った改革を促そうとする。役職教員や幹部職員等にはその意思が多少は伝わるものの、現場に行けば行くほど何のための施策かの理解も不十分なまま、ただ忙しく働かされているといった感覚だけが増していく。このような状況が際限なく繰り返されているように思えてならない。
言うまでもなく、大学における教育研究の目的は経済成長への貢献にとどまるものではない。個人の精神的豊かさ、社会の文化的豊かさ、人類社会の未来を拓くことへの貢献は大学の大きな使命であるが、成長なしにその活動を支えることが一層難しくなりつつある現実も踏まえておく必要がある。

社会から支持される大学であるためには(1)

下村文部科学大臣が、新国立競技場の整備計画が白紙撤回されるに至った一連の混乱の責任を取り、9月25日に辞任を表明しました。しかし、安倍首相から慰留を受け、10月の内閣改造までは続投するようです。まさに「10月改造を事実上の引責とし、誰も深手を負わない茶番劇」(報道)です。

計画の白紙撤回により、多くの時間と税金の無駄を生み、あげくには国際的な信用を失墜した責任は極めて重大であるにも関わらず、遅きに失した今回の無責任な対応は、納得のできるものではありません。

さて、その下村大臣がこれまで力を入れてきた政策の一つが「国立大学改革」でした。

文部科学省が、国立大学の第三期中期目標・中期計画の策定に当たって、全国立大学に対し留意を求めるため6月に発出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」と題する通知を巡って、大きな論争が巻き起こりました。

問題となったのは、この通知の中に書かれた組織の見直しに関わる記述『「ミッションの再定義」で明らかにされた各大学の強み・特色・社会的役割を踏まえた速やかな組織改革に努めることとする。 特に、教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする』の後段(太字)部分です。

一部の国立大学ではこれに即応する形で、教員養成学部(新課程)を廃止し新学部を構想、あるいは、人文社会系学部の見直しを行うなど、教育組織の再編を進めています。

例えば文部科学省は、次のような資料を公表しています。



より詳細にお知りになりたい方は、「平成28年度 国立大学の入学定員について(予定)」(文部科学省ホームページ)をご覧ください。平成28年度開設予定の学部等の内容(財務省への概算要求ベース)が記載されてあります。

なお、余談ですが、上記通知文の前段に書かれてある「「ミッションの再定義」で明らかにされた各大学の強み・特色・社会的役割を踏まえた速やかな組織改革に努めることとする」についても大きな問題をはらんでいると個人的には考えています。

文部科学省の「国立大学改革プラン」に基づき策定された「ミッションの再定義」について、文部科学省は「各国立大学と文部科学省が意見交換を行い、・・・各大学の強み・特色・社会的役割(ミッション)を整理しました」とホームページで述べています。

しかし、実のところ、その策定は、ほとんどが文部科学省主導で進められ、最終的には、文部科学省の意向に沿った文章でなければ認めてもらえないというありさまだったこと、また、文部科学省の上から目線の指導の下、無理をして特色めいた事柄を抽出したり、いくばくかの目立った実績をあたかも強みとして見せることに大学の労力が費やされたと聞いています。

そのような過程で策定された「ミッションの再定義」を踏まえた改革に努めることが求められていることにも留意しておく必要があるでしょう。

さて、話を戻しましょう。上記通知については、既にご承知のとおり、文系軽視との批判が、マスコミはもとより、日本学術会議、日本経済団体連合会(経団連)などから噴出しました。

印象深かったいくつかの記事を抜粋して時系列にご紹介します。(全文をお読みになりたい方は、各見出しをクリックしてください。)

時論公論「国立大学をどうするのか」|2015年7月3日 NHK解説委員室ブログ
全国86の国立大学に文部科学省が求めた組織の見直しはどのようなものだったのか。先月、国立大学に出した通知の中で、文部科学省は、教員養成系や人文社会科学系学部は、組織の廃止や社会的要請が高い分野に転換することを求めました。文部科学省が通知で大学の特定の分野の廃止や転換を求めたのは、初めてのことです。
文部科学省は、単に文学や社会学、経済などを学ぶ人文社会科学系の学部をやめて理系に転換することを促すものではないと説明しています。しかし、大学関係者からすると、国の財政状況が厳しい中、国立大学を類型化し、国立大学にかける税金を効果が見えやすい分野に集中的に投機しようというのではないかと心配するのはもっともです。
国立大学は、平成16年度に今の国立大学法人となりました。ただ、収入は、3割から4割程度が国の運営費交付金で賄われています。運営費交付金は、国立大学が6年ごとに見直して文部科学省に提出する「中期目標」をもとに、大学の規模や教育内容などに応じて配分されてきました。今年度の運営費交付金の総額は、1兆945億円。国の財政状況の悪化に伴って、毎年1%程度減り続けていて、この10年間で1300億円減らされました。一方、支出にあたる経常経費は、人件費が法人化の年には40%以上を占めていましたが、業務の効率化などで一昨年度は33%まで下がりました。経営努力で交付金の減額をしのいできましたが、限界だという声が聞かれます。「中期目標」の見直しは、今まさに行われていて、各大学は、先月末までに素案を文部科学省に提出しました。今年度中に素案を訂正した原案の認可を受け、来年4月から実施します。国立大学にしてみれば、食費を切り詰めるだけ切り詰めた状態で、方針に従わなければ今度は運営費交付金という、いわば主食を減らされることを突きつけられ、従わざるを得ないという声もあります。
では、なぜ今回こうした方針が示されたのでしょうか。大学が社会のニーズに十分対応していないという強い意見があります。背景にあるのは、経済界からの要望と、大学改革を成長戦略の1つとして位置づけようという政府の思惑です。
政府の産業競争力会議の中でも大学改革が議論され、「世界一技術革新に適した国を目指す」という方向性が示されました。議論の中では、運営費交付金の配分が一律であることが競争原理に基づいた改革が国立大学で進まない原因だといった意見や、今の大学の教育方法ではグローバル化に向けて突出した人材を育てるという視点が不十分であるといったことが指摘されてきました。経済界側からしてみれば、大学は企業に有能な人材を輩出できていない、経済成長のためには、企業側と大学側のミスマッチは、当然見直してもらわなければならないというわけです。
大学には企業とともにイノベーションの原動力になって欲しいとの考えは理解できます。しかし、バーターとして、ほかの分野に比べて専門性や将来の進路との結びつきが見えにくい人文社会科学系の学部に地域や産業界のニーズにあわせた人材の育成を目指すよう再編を求めることに問題はないのでしょうか。
大学側は、どう受け止めているのでしょうか。
先月開かれた国立大学協会の総会では、懸念の声が相次ぎました。国立大学協会会長で、東北大学の里見進学長は、「社会の役に立つ人材育成のスパンが、今は近視眼的で短期の成果をあげることに世の中が性急になりすぎていると危惧する。今すぐには役に立たなくても将来的に大きく展開できる人材育成も必要だ」と話しました。
文系学部の教員の1人は、大学では「難しい理論より企業現場の生きた知識を学ばせるべきだ」という意見には賛同する部分もある一方で、こうした「現場の知識」は、賞味期限の短い「事実」や「現状」を知ることにとどまり、将来長期間にわたって活用できる「学び」につながらないことも多いと指摘します。いくら即効性があっても応用の利かない講義ばかりでは長期的には意味がないということです。
声高に言われるグローバル人材の育成に際しても、文部科学省の示した考えはマイナス面が大きいという指摘もあります。異なる宗教観や倫理観を持つ諸外国の人たちと相互理解を深めるためには、英語が話せればいいというものではありません。異文化理解の欠如が企業に大きな損失をもたらすこともあります。そうした理解を進めるために不可欠なのが人文科学系の学問です。
地方の社会科学系の学部の中には、地元の企業に多くの学生が就職しているところもあります。地元の経済界が必要とする人材を輩出しているにもかかわらず、一律廃止と受け止められるような文部科学省の通知に、実態を知らない乱暴な意見だと反発する関係者もいます。
国立大学は税金を使う以上、野放図な経営が許されませんが、大学は職業向けの技能を学ぶ専門学校ではなく、学問の自由という観点から見れば、国は「金は出すが学問の中身までは口は出さない」というのが本来の姿です。逆に文部科学省は、金も出さずに「入試も変えろ」「学部も変えろ」と言うだけ。文部科学省の言うとおり、国立大学法人になったのに自立した大学運営は一向に進まず、運営費交付金を巡ってますます縛りが厳しくなるのではないかとの心配ももっともなことです。現場の不安をあおり、混乱を生じさせるようでは前向きな改革は進まないと思います。

「競争原理」と「大学は国力」ー。最近の高等教育政策のキーワードであろう。
競争原理の背景には、企業が世界的な競争にさらされているのに、大学は象牙の塔でのんびりしているという不信感がある。放っておくと大学は限りなくだらしなくなる。小泉純一郎政権の経済財政諮問会議以降、「大学を競争させる」という考えが定着した。
大学改革とは競争力の強化であり、大学力強化は国力強化という考えが強まった。大学は、次々と出てくる改革要請に疲れ切っている。
文科省は、高等教育の目標を(1)グローバル競争に打ち勝つ人材の育成(2)社会が求める多様で役に立つ人材の育成・供給ーだと言う。だが、これは国や企業側のニーズであって、最も大切な学生側の視点が欠けている。
大学は教育機関である。大学の務めは、グローバル人材を育て国家や企業のニーズを満たすことだけではない。若者一人ひとりが自分の将来を切り開けるように、力を伸ばしてあげることである。その教育力をどうやって評価し、競争させるというのか?
文科省は何もしないでいてくれた方がいい。高等教育はどうあるべきか、ビジョンをきちんと示し、あとは大学に自由にやらせてほしい。自由にさせた上で、7年に1回の認証評価でキチンと評価・指導すればいい。
ところが最近は、「競争的な資金」や「メリハリの付いた資金配分」などといって、文科省が示す要件に合致し採択された事業に補助金を出す政策が増えた。その補助金の取り合いに、かなりの精力を割かれる。
文科省が示す要項に沿って各大学が一斉に頑張ったということだが、奇妙な話である。同じ方向の改革を進めるだけで、その改革が本当に正しい改革なのか、誰も分からない。個性ある大学づくりという文科省方針とも合わない。そもそも改革とは自分の責任と工夫で進めるものではないか。
大学設置基準は学生数に応じた教員数や卒業に必要な単位数を定めている。そうした条件で大学をつくらせ、国立なら運営費交付金、私立なら経常費助成を補助金として出している。それなのに役所の意向に沿った改革の取り組み具合で、補助金に差を付けるという。審査の過程でダメと言われた大学は潰れても仕方ないということだ。
宇沢弘文氏は、地方における大学は私学も含めて共通社会資本だと指摘した。病院や道路と同じで、地方で人が生きていくのに欠かせない。若者が地域の大学で学べる環境は必須である。
国立大は法人化したにもかかわらず、改革の嵐の中で年々減らされる運営費交付金に振り回されている。最近は、教員系や人文社会系を見直し、社会的な要請が高い分野への転換まで求められている。国立大学の主体性はどこに行ってしまったのか。
18歳人口の減少で高等教育を取り巻く環境は激変する。国は過剰介入をやめ、今こそ、真に必要な高等教育の将来ビジョンを示すべきである。

文部科学省が全国の国立大学に対し、人文社会科学系の学部・大学院のあり方を見直すよう求めた通知に反発が強まっている。ことさらに「組織の廃止」に言及するなど問題の多い内容であり、批判が高まるのは当然だろう。
時代の変化のなかで大学がその役割を自らに問い、改革を続ける必要があるのは言うまでもない。しかしこんどの要請は「すぐに役に立たない分野は廃止を」と解釈できる不用意なものだ。文科省は大学界を混乱させている通知を撤回すべきである。
かねて文科省は国立大に、旧態依然たる横並びから脱し、グローバル化や大学ごとの特色を出すための取り組みを求めてきた。その方向性自体は理解できる。
しかし今回、人文社会科学だけを取り上げて「廃止」にまで踏み込んだのは明らかに行き過ぎである。文科省は「廃止」に力点は置いていないと釈明するが、大学側への強い威圧と受け止められても仕方があるまい。
また、通知にある「社会的要請」とはそもそも何か。実学的なスキル育成だけでなく、歴史や文化を理解する力、ものごとを批判的に思考する力を持つ人材を育てるのも大学の役割ではないか。そうした機能を失った大学は知的な衰弱を深めるに違いない。
さきの国立大学協会の総会では、文科省の姿勢に多くの懸念が示されている。日本学術会議も今月23日に「教育における人文社会科学の軽視は、大学教育全体を底の浅いものにしかねない」と強い調子で批判する声明を出した。
文科省は、国立大の運営費交付金の配分権を握っている。この権限をバックに大学に画一的な「改革」を押しつけても真の成果は期待できまい。11年前の国立大法人化のとき、文科省は大学の自主性を高めると説明していた。その約束はほごになったのだろうか。

国立大学改革に伴って持ち上がった“文系不要論”の衝撃は大きかった。文部科学省は「誤解」と否定していますが、それでも疑念は拭えないのです。
文科省が去る6月に全国の国立大あてに出した通知が発端でした。教員養成系や人文社会科学系のリストラを求めたのです。
確かに、社会の変化はすさまじい。子どもの人口は先細りですし、地方は過疎化が進み、都市との格差は広がる一途です。人間活動は情報化、グローバル化し、国際競争はし烈を極めています。
大学はレジャーランドでは許されない。それなりの教育研究の成果を社会に還元しなくては、存在意義さえ問われます。時代の情勢に見合った組織への脱皮は急務という文科省の理屈は分かります。
では、そのような改革がどうして“文系不要論”と映るのか。
それは政府の成長戦略と連動しているからでしょう。産業界の利益追求や社会的有用性に奉仕する学問を優遇し、成果を競わせるという発想が読み取れるのです。
科学技術振興やイノベーションの土台となる理系人材の育成はいうに及ばず、文系人材の育成でも職業能力の開発や実践力の向上に主眼が置かれているといえます。いわば、稼ぐ力の強化という視点のみからの改革というほかない。
とすると、実利実益との結びつきが見えにくい人文社会科学は切り捨てられるという懸念が強まるのも当然です。これは学問の自由にかかわる問題でもあるのです。
幕末の開国以来、激動期の為政者は国家の命運を科学技術に託してきた面があります。
「高等生徒を訓導するには、之(これ)を科学に進むべくして、政談に誘うべからず」。明治の元勲伊藤博文の言葉です。西欧列強に対抗して近代化を急いだ時代でした。
大戦中には、文系の高等教育機関は理系への転換を強いられ、科学技術の即時戦力化が推進されました。学徒出陣で戦地に送られたのは、主に文系の学生でした。
「文系の学問は国にとって有害無益なのでしょう」と手厳しいのは、滋賀大学長で経済学者の佐和隆光さん。「社会にどう役立つかで学術的価値をはかる、あしき慣行が国にはある」というのです。
高度成長期の1960年、岸信介内閣の松田竹千代文部相は、国立大は理系を担い、文系は私立大に任せたいとの意向を示したという。多くの国立大文系の学生が安保闘争に参加していたという背景があった、と指摘しています。
「文系の学識とは批判精神です。それで自由や民主主義も守られてきた」と説くのです。
とすれば、昨今の異論排除の風潮と文系軽視の風潮とは、必ずしも無縁ではないのかもしれません。国家が知的資源を一元管理して成長戦略に投入する姿は、開発独裁体制すら想像させます。
科学技術はまた独り歩きする面もあります。その日進月歩ぶりを目の当たりにして、夏目漱石は大正期に著した小説「行人」で登場人物にこう語らせている。
「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止(とど)まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。(中略)どこまで伴(つ)れて行かれるか分(わか)らない。実に恐ろしい」
現代にも通じるような話です。ITやロボット、人工知能、遺伝子工学…。利便性や効率性ばかりを追求した果てに、どういう社会が待ち受けるのか。全ては科学技術の赴くままにという実情です。
最近では、このような将来予測も公表されています。
・2011年度に米国の小学校に入った子どもたちの65%は、大学卒業時にいまは存在しない職業に就く(米ニューヨーク市立大学のキャシー・デビッドソン氏)。
・今後10~20年程度で、米国の雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高い(英オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン氏)。
しかし、科学技術文明には公害や環境破壊、地球温暖化、大量破壊兵器といった負の遺産を生み出してきた歴史がある。その功罪を含めて人間の生存や社会の発展、継承のための「知」を探究するのは人文社会科学の使命なのです。
名古屋市で先週、市民手づくりの哲学カフェが開かれました。教育をテーマに、見知らぬ人同士10人余りが意見を交わした。結論を出すのではない。互いの違いを認め合い、思索を深めるのです。
今やこうした「対話の場」は全国に広がる。稼ぐ力ではなく、本物の「知」に飢えているのではないでしょうか。本来、学問は国家のものではなく、市民のもの。無論、理系と文系を隔てる垣根など最初から存在しないのです。

幹事会声明「これからの大学のあり方-特に教員養成・人文社会科学系のあり方-に関する議論に寄せて」|平成27年7月23日 日本学術会議

日本学術会議は7月、「人文・社会科学の軽視は大学教育全体を底の浅いものにしかねない」と批判する声明を発表しています。


国立大学改革に関する考え方|2015年9月9日 日本経済団体連合会

経団連は9月、文部科学省の通知について「即戦力を求める産業界の意向を受けたものであるとの見方があるが、産業界の求める人材像はその対極にある」との文書を発表しています。ただし、ここで留意しなければならないのは、「経団連が声明を出した背景には、文科省の通知が「文系つぶし」と受け止められ、それが「経団連の意向」との批判が広がっていることがある。就職活動中の学生らに誤解を与えかねないとの懸念があった」(2015年9月10日朝日新聞)、「企業が即戦力を求め過ぎることが背景にあるという経済界への批判もあり、経団連としてはそういった懸念を払拭する狙いもあり、今回の提言をまとめた」(2015年9月9日産経新聞)に十分留意しておく必要があると思われます。

政治の貧困と政治家の気概(2)

このたびの安全保障関連法案の委員会採決(参議院)をご覧になりましたか。情けない、あきれてものが言えない醜態でした。これが国権の最高機関のあるべき姿でしょうか。一国民として、とてもこの国の未来を託す子どもたちに説明できるものではありません。


国会議員の資質の劣化については、これまでも幾たびも指摘されてきましたし、国民の政治離れの大きな要因の一つにもなっています。

今回もそうでした。次の三つの記事(抜粋引用)は、当を得ていると私は思います。(全文をお読みになりたい方は、各見出しをクリックしてください。)

政治家の劣化と政治権力の空洞化|2015年7月20日 YamaguchiJiro.com
今、 安保法制と並んでいくつかの重要な政策決定が行われようとしている。それらに共通しているのは、かつて丸山真男が日本の戦争に至る政策決定を分析する中で析出した「無責任の体系」である。丸山によれば、日本における無責任な政策決定には次のような特徴がある。
第一に、現実を直視せず、希望的観測で現実を認識したような自己欺瞞に陥る。第二に、既成事実への屈服。事ここに至っては後戻りできないと諦め、誤った政策をずるずると続ける。第三に、権限への逃避。 誤った政策が事態を悪化させることを認識しても、自分にはそれを是正する力はないと、自分の立場、役割を限定したうえでそこに閉じこもり、政策決定の議論 から逃避する。こうした特徴を持つ無責任な政策決定によって、日本は70年前、敗戦という破局にいたった。
それから70年、最近の重要な政策決定を見るにつけ、政治家、官僚というエリートの無責任体質は変わっていないと痛感する。その悪しき意味での持続性には、驚嘆、嘆息するしかない。
安保法制について言うべきことは多いが、ここでは一点だけ批判しておく。自衛隊の海外における他国軍への後方支援活動は安全だと政府は 言い張る。しかし、野党や多くの識者が指摘しているように、後方支援は武器、弾薬、燃料等の補給活動、すなわち兵站である。兵站は戦闘そのものである。これを安全な後方支援と名付けるのは日本政府の勝手ではあるが、国際的に通用する論理ではない。日本の同盟国と戦っている敵国は遠慮なしに自衛隊を攻撃するに違いない。集団的自衛権を行使して戦闘に参加するならば、最初からその本質を自衛隊員と国民に説明し、覚悟を求めるのが指導者の責務である。自衛隊は武力行使をしているわけではないのだから、敵国やテロリストはこれを攻撃しないというのは、犯罪的な欺瞞である。
皮肉なことに安倍晋三首相は指導者として決断を下すことが大好きである。憲法解釈については私が最終的責任者だと主張し、安保法制については時期が来れば採決しなければならないと言う。決定への意欲が無責任な政策の選択をもたらすのはなぜか。それは政治家や官僚が問題の本質を理解する知力を持っていないからである。日本政治を毒している反知性主義の弊害といってもよい。反知性主義について、佐藤優氏は「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するよ うに世界を理解する態度」と定義している。件の自民党の懇話会で百田尚樹という作家が行った講演は、自分が欲するように世界を理解することの典型例であ る。それをありがたがる議員が安倍首相の親衛隊だというのだから、病は深刻である。
安倍首相は、選挙で勝利し、国会で多数を握っていることで、自分の行為をすべて正当化している。いまや、首相と自民党は多数派であることによって、自分たちの持つ偏見や先入観をも正当化しようとしている。安保法制に関して国会で野党の追及を受けても、最後は、安保法制は合憲で、自衛隊の活動は安全だと「確信している」と言って議論を打ち切る。中世の欧州人は太陽が地球の周りを回っていると信じていた。確信の強さは信条の中身の正しさとは無関係である。確信の根拠と論理を説明するのがまっとうな議論である。
希望的観測や先入観をもとに政策を考えれば、失敗するに決まっている。戦後70年の今、国を滅ぼした無責任の体系を反省するのではなく、反知性主義に染まった政治家と官僚がそれを繰り返し、一層無責任な政策決定を進めようとしている。この風潮をいかに止めるか。反知性主義者に知的になれと説教をすることには意味がない。しかし、偏見をむき出しにして権力を使う政治家を次の選挙で落選させることはできる。また、反知性主義の蔓延をこれ以上広げないために、野党やメディアがなすべきことは多い。沖縄の二つの地方紙がそうしたように、無知や偏見に対してメディアと言論人は徹底的に戦わなければならない。また、野党が今なすべきこと は、中途半端な対案を出すのではなく、政府の欺瞞をあくまで追求し続けることである。

もう前を向いて進もう!・・・自民党に代わる受け皿づくりを|2015年9月22日 江田憲司
自民党が慢心するのも、世論調査で安倍内閣の支持率が一時的に下がっても、法案の衆院通過時にそうだったように、ひと月後にはまた元に戻る。「熱しやすく冷めやすい」「人のうわさも75日」「のど元過ぎれば何とやら」ということわざに象徴されるように、「世論なんてそんなものさ」と高をくくっているのだ。
ましてや、来年夏の参院選までには、国民なんて今回のことはすっかり忘れてしまっているだろう、これからは経済に万全を期していくとでも言っておけば簡単に 国民は騙せるだろう。それが自民党の魂胆なのだ。そういう意味では、これからは、政治家だけでなく「民度」も問われているとも言えよう。

戦争法案可決。あの日、傍聴席から見えたすべて。の巻|2015年9月23日 雨宮処凛 
「アメリカと経団連にコントロールされた政治はやめろ! 組織票が欲しいか? ポジションが欲しいか? 誰のための政治をやってる? 外の声が聞こえないか?  その声が聞こえないんだったら、政治家なんて辞めた方がいいだろう! 違憲立法してまで自分が議員でいたいか? みんなでこの国変えましょうよ。いつまで植民地でいるんですか? 本気出しましょうよ!」
9月18日の深夜2時過ぎ。参議院・本会議場に山本太郎議員の「魂の叫び」が響いた。騒然とする議場。野次。怒号。傍聴席からその様子を見ていた私は、涙を堪えることができなかった。
それから数分後、安保関連法案は可決された。傍聴席に、啜り泣きの音が響いた。本会議場から外に出ると、参議院議員会館前に集まった人々の「廃案!」という 叫び声は一層大きくなっていた。長くて熱い、戦後70年の夏が終わった。だけど、不思議と悲壮感はまったくなかった。ここから、この夏に繋がった人たちとまた始めればいいのだ。それはものすごく簡単なことで、私は春よりも、ずっとずっとたくさんのものを手にしていることに気がついた。
それにしても、怒濤の日々だった。
いよいよ参議院での強行採決が迫った9月16日からは、ほとんど「現場」にいた。午後に開催された地方公聴会に傍聴に行くと、会場の新横浜プリンスホテル 周辺には、びっくりするほどたくさんの人が集まり、「強行採決反対!」と声を上げていた。公聴会の席で、公述人の一人・弁護士の水上貴央氏は、この日の18時からとりまとめの審議・そして強行採決という流れになっていることに対して釘を刺した。
公聴会が採決のための 単なるセレモニーに過ぎず、茶番であるならば、私はあえて申し上げるべき意見を持ち合わせておりません。委員長、公述の前提としておうかがいしたいのですが、この横浜地方公聴会は、慎重で十分な審議をするための会ですか? それとも採決のための単なるセレモニーですか?」。これに対して鴻池委員長は「この件につきましては、各政党の理事間協議において本日の横浜の地方公聴会が決まったわけです。その前段、その後段についてはいまだに協議は整っておりません」 と回答。しかし、この公聴会、結局「派遣報告」も何もなされず「アリ バイ」作りのためのものでしかなかったことは、今は誰もが知る通りだ。
翌17日、委員会で大混乱の中、なりふり構わぬ「強行採決」がなされてしまったことは周知の通りだ。これを受けて、この日の夜から国会で本会議が続いた。野党が抵抗のため、問責決議案を連発したからだ。
あの時(13年12月の「特定秘密保護法」の強行採決)も、そうだった。委員会の議事録には一言も「採決」なんて書いていないのだ。なんの記録にも残っていないのに、ああやってなされてしまう採決。そして更に今回は「開会宣言」すらなく、野党議員は質問権も討論権も票決権も奪われた。「丸裸の暴力」。何人もの野党議員が本会議の討論で使った言葉だ。あまりにも、汚いやり方である。 しかし、これが通ってしまうのだ。憲法違反の法律が、あんな暴力的な方法で通ってしまうのが今の日本の現状なのだ。あまりにも空しい「数」の力である。
この日、傍聴を終えて午前2時過ぎに外に出ると、議員会館前には冷たい雨の中、傘をさして座り込んでいる人たちが大勢いた。また、胸が熱くなった。
そうして、18日午後2時過ぎ。この日も本会議を傍聴していると、山本太郎議員が突然「ひとり牛歩」を開始! 誰一人続く人のいない牛歩は計5回なされ、最後、安保法案へ反対する投票をする直前に叫ばれたのが、冒頭の「魂の叫び」だ。
このひとり牛歩については、いろんな意見があると思う。しかし、私はたった一人、あの空気の中で牛歩をやり遂げた山本議員に、心からの拍手を送りたい。外で連日声を張り上げる人々を思うと、いても立ってもいられなくなったのだろう。
5回の牛歩は、傍聴席から見ると残酷と言っていい光景だった。自民党席からの激しい野次、怒号。「そこまでして目立ちたいのかよ!」「お前いい加減にしろよ!」などの罵声。牛歩をしている山本議員の後ろから、「邪魔!」とばかりにわざとぶつかってくる自民党の女性議員もいた。そんな時は、自民党席からワーッという歓声が起きる。対して山本議員には、野党からの拍手もなく、応援の言葉もほとんどない。ただ、時々牛歩をする山本議員の背中や肩を「頑張れよ」というふうに叩いていく野党議員はいて、そんな時だけ、ほっとする。だけど、本当に本当に「ザ・針のむしろ」な空気感。あれをできる人は、この国に何人くらいいるだろう。しかし、ひとり牛歩する山本議員の後ろには、国会前や全国で声を上げている無数の人々の切実な思いがあるのだ。それを背負っての、牛歩なのだ。
戦後70年の終戦記念日の翌月、この国は、根底から大きく変わってしまった。しかし、それを押し返す力を、今の私たちは既に持っている。その力を、次の闘いで存分に発揮すればいいだけなのだ。




さて、とあるTV番組で、政治家の気概について、政治学者の姜尚中(カン サンジュン)さんはこう語っていました。
政治家になるのは3つの要素が必要になる。
一つめは、気概(情熱、意志の力)
二つめは、見識(歴史がどう動いているかを見定める)
三つめは、責任(応答能力がある、きちんと質問に答えられる)
だんだん政治家が無い無い尽くしになってきたのは、どうしてか。
政治が天職ではなく家業になっている。
家の業を継ぐというか、あるいは、そうでない人はビジネスになっている。
それは、全部(自民)党中央に、お金もポストも公認権もいろんなものが独占化されて、それから世襲化が進んでいく。
こういう状況になっているので、結局、普通の政治家は、票集めの陣笠、イエスマンにならざるを得なくなっているというところに最大の問題がある。

私たち国民は、戦後70年の大切な節目のこの年に、この国の歩むべき道を誤らせた未熟な政治家達の行動を鮮明に記憶に留め、次の国政選挙では、必ずや安全保障関連法の成立に賛成した議員を落選させ、法律の廃止に向け民意を示す必要があると思います。

そして、政治家は、立憲政治に対する国民の信頼を取り戻すためにも、太平洋戦争への突入を目前にして、軍部の独走を許すまじと国­会で時の政府の暴挙をいさめた、あの「反軍演説」の精神を今一度肝に銘じてほしいと思います。


政治の貧困と政治家の気概(1)

過去最長の95日間の延長幅をとった第189通常国会は、本日(9月27日)閉会しました。去る9月19日未明には、この国の形を決める重要なことがありました。安全保障関連法案の可決・成立です。皆さんはどのように受け止めておられますか。

国の将来を決める極めて重要な法律でしたが、その成立過程は混乱の連続でした。成立後、安倍首相は「将来の子供たちに平和な日本を引き渡すために必要な法的基盤が整備された」と語っています。

果たしてそうでしょうか。私にはそうは思えません。70年もの間、憲法の下で平和を堅持してきたこの国を容易に戦争ができる国にし、未来ある子ども達を戦争に巻き込み、戦闘や殺戮を繰り返す大きなリスクを背負わせることにしたのではないでしょうか。そして、野党民主党の岡田代表が語ったように「憲法の平和主義、立憲主義、民主主義に大きな傷跡を残した」のではないでしょうか。

安倍政権は、これまで、着々と憲法を空洞化させる行動を進めてきました。日本版NSC、特定秘密保護法、防衛装備移転三原則、そして仕上げは今回の安保関連法です。

今回の法律の成立過程では、様々な問題が指摘されてきました。特に、憲法違反の法律を与党政府が数の力で押し切った(憲法違反を国会が堂々とやってのけた)こと、憲法解釈を変えて戦争をやれるようにした(政権交代があるたびに、解釈がどんどん変わってしまうことになる)ことなど。そして、このような問題が、ほとんど議論されずに法律が成立してしまったこと。もはや、立法も司法も行政のために死滅してしまったのではないかと残念でなりません。

最近、驚愕のニュースが飛び込んできました。 防衛省が始めた軍事技術研究資金の公募で、なんと東京工業大学(国立)など計9件が採択されたとのこと。報道では、研究予算不足を背景に防衛省研究への関心が高まっているとのことでしたが、先の戦争への反省が消し去られ、歯止めが利かない恐ろしい国へ変質しつつあるように思えてなりません。

さて、安全保障関連法の成立過程で報道された様々な記事のうち、自分の心に留め置きたいと考えた記事をいくつか抜粋してご紹介します。(全文をお読みになりたい方は、各見出しをクリックしてください)




今、日本政府は名護市辺野古の海を埋め立てて、新しいアメリカ軍基地を造ろうとしています。戦争はしないと誓った憲法9条も骨抜きにしようとしています。私は、70年前の悲惨な体験が風化して、また戦争の準備が進んでいると危ぶんでいます。だます政府と、だまされる国民がそろった時に起こるのが戦争です。どんなに残酷か…。もめごとは鉄砲や爆弾ではなく、英知で話し合って解決してほしいです。

テレビのニュースは今も日々、世界の各地で起きる戦争を伝えています。妹たちが亡くなった糸満市摩文仁に立つ沖縄県平和祈念資料館には「戦争をおこすのはたしかに人間です しかし それ以上に戦争を許さない努力のできるのも 私たち人間ではないでしょうか」と記されています。一人ひとりが心の中に「平和のとりで」を築きましょう。


戦争とは何なのか? 焼け跡世代からのメッセージ~養老孟司|2015年8月8日 PRESIDENT Online

世間は形を変えて、自発的に暴走していきます。そして、その渦中にいるときは、異変に気付くことができません。学生運動もそうでした。

いまの若い親世代、子供世代には、平和なときに「自分にとって、何が一番大事なことなのか」を考えてほしい。戦争が始まると、それがわからなくなってしまい、社会の暴走に巻き込まれてしまいます。平和なときにこそ、考える軸を養ってほしい。

太平洋戦争で、誰も社会の暴走にブレーキをかけられず、その先に待っていたのは、多くの国民が道具として使い捨てられる社会でした。

残念なことですが、戦争体験はいくら言葉を尽くしても伝わりません。しかし、言葉が無力であるということは、同時に私たちに何を見るべきかを教えてくれます。大事なのは言葉ではなく、行動です。権力者が何を言っているかではなく、何をやっているかをよく見てください。そして、世の中をつくるのも、私たちが何をするかにかかっているのです。


あす終戦の日 不戦の原点から考える|2015年8月14日 毎日新聞

満州事変から太平洋戦争に至る日本の「自爆戦争」の背景には、憲法解釈の乱用があった。軍は、天皇による統帥権が三権の枠外にあるとして神聖化した。その下で言論統制が強まった。戦争に異論を唱える人間は「非国民」として排除され、社会の自由は窒息していった。

もう一つは、外交の失敗だ。中国侵略のあと、国際連盟脱退で世界から孤立した日本は戦線を東南アジアに拡大し、米国の対日石油禁輸で追い詰められると、真珠湾攻撃へと走った。外交努力を放棄して国際協調路線を踏み外し、米国の戦略と米中関係の大局を読み誤った。

6割が餓死だったとされる、戦地での230万の死。確実に死ぬことを前提とした特攻作戦。国民の命が羽毛のように軽かった時代の反省から、日本は再出発した。全ての人が自由に発言する基盤を尊重し、多様な考えが社会に生かされ、国が国民を駒として使い捨てるのではなく、国民が国の主人公である、当たり前の民主主義を持ったことが、戦後の日本の支柱だったはずだ。

昨今、憲法を頂点とする法体系をことさら軽視し、自由な言論を抑圧するような言動が政治の世界で相次いでいる。安全保障関連法案を巡って「憲法守って国滅ぶでいいのか」「日本人は軍事知らず」という物言いも、しばしば耳にする。

だが、かつてあったのは「憲法守って国滅ぶ」ではなく、憲法をないがしろにして戦争に突入した歴史である。「軍事知らず」ではなく「外交知らず」で、破滅に追い込まれたことを忘れてはならない。

戦争の「負の歴史」をいかに真摯(しんし)に振り返り、明日に生かすか。その認識において政権と国民の間に断層があっては、戦後70年の民主主義は土台から揺らぎかねない。

安倍晋三首相は、広島での被爆者との面会で「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという不戦の誓い」を口にした。安保法案も、戦争をせず、平和を守るためと説明されている。平和と不戦の誓いを原点にしている点では、首相も、法案に反対の世論も変わりはない。

不戦の誓いと平和という「未来」を語る言葉は、政権と国民の間で既に共有されているのである。求められるのはそれを繰り返すことではなく、「過去」を語る言葉を政権と国民が共有することだろう。

戦争には、国の中枢でそれを決める側と、殺したり殺されたりする運命を背負わされる側がある。だからこそ政治指導者は、過去の侵略と過ちを認め、再びあの時代には戻さないという強いメッセージを、信頼のおける言葉と態度で、国民に向かって語る義務があるはずだ。

「未来」をいくら雄弁に語ったところで、「過去」との決別があいまいなままでは、国民の心にも国際社会にも、決して響くまい。

日本は、二つの原爆という史上最悪の戦争被害を体験した。また、同じアジアの国々に土足で上がり込んで支配した。紛争を解決する手段として戦争がいかに愚かで、自国民も他国民も不幸にするか。被害と加害の理不尽さをどの国よりも肌で知る日本は、戦争の不条理を世界に伝え続ける、人類史的な使命があると言えるのではないだろうか。

他国を侵さず、自国を侵されず、無用な戦争に加わったりしないということ。軍事に抑制的で、可能な限り平和的手段を追求する国としての誇りを持つこと。国際情勢の変化にただ便乗するのではなく、広く長期的な視野で見極め、信頼醸成に基づく国際協調を大事にすること。それらが、戦後70年で築き上げた日本の国柄ではないかと考える。

あの敗戦を原点とする、国民の健全な国際感覚と民主主義の土壌は、「平和ぼけ」と冷笑されるような、ひ弱なものではない。政権は国民のまっとうさに信を置き、平和国家としての道を、国民とともに自信を持って歩いていってほしい。

戦後70年が重く迫るのは、戦後80年に向け、歴史を風化させてはならないとの思いがあるからだ。20世紀初めにフランスの詩人が残した「我々は後ずさりしながら未来に入っていく」という言葉のように、過去を見る視線の先にこそ、私たちの確かな未来があると信じたい。



歴代内閣が「憲法を改正しなければできない」と明言してきた憲法解釈を覆し、安倍内閣が集団的自衛権の行使を認める閣議決定をしたのは昨年7月。以来、憲法学者や元内閣法制局長官らの専門家が、そのおかしさを繰り返し指摘してきた。

なぜ、集団的自衛権を行使できるようにしなければ、国民の生命や財産を守ることができないのか。この根本的な問いに、安倍首相は日本人が乗った米艦の防護や中東ホルムズ海峡の機雷掃海を持ち出したが、その説明は審議の過程で破綻(はたん)した。

それでも政権は法成立へとひた走った。これは、安倍内閣が憲法を尊重し擁護する義務を守らず、自民党や公明党などがそれを追認することを意味する。法治国家の土台を揺るがす行為だと言わざるを得ない。

2012年末に政権復帰した安倍氏は、9条改正を視野に、まず憲法改正手続きを緩める96条改正を唱えた。ところが世論の理解が得られないとみると、9条の解釈変更へと転換する。有権者に改憲の是非を問う必要のない「裏道」である。

真っ先に使ったのが、違憲立法を防ぐ政府内の関門であり、集団的自衛権は行使できないとの一線を堅持してきた内閣法制局の長官を、慣例を無視して交代させる禁じ手だ。

法制局の新たな体制のもと、政権は集団的自衛権の「限定容認」を打ち出した。根拠としたのは、59年の砂川事件最高裁判決と72年の政府見解だ。

だが、砂川裁判では日本の集団的自衛権は問われていない。72年見解は集団的自衛権の行使は許されないとの結論だ。「限定」であろうとなかろうと、集団的自衛権が行使できるとする政府の理屈は筋が通らない。

その無理を図らずも裏付けたのが「法的安定性は関係ない」との首相補佐官の言葉だった。そのおかしさにあきれ、怒りの声が国会の外にも大きく広がったのは当然である。

安倍首相は「安全保障環境の変化」を理由に、日米同盟を強化して抑止力を高め、国民の安全を守ると繰り返してきた。こうした安全保障論にうなずく人もいるだろう。

一方、自衛隊を出動させるという大きな国家権力の行使にあたっては、政府は極めて抑制的であるべきだ。どんなに安全保障環境が変わったとしても、憲法と一体となって長年定着してきた解釈を、一内閣が勝手に正反対の結論に変えていい理由には決してならない。

そんなことが許されるなら、社会的、経済的な環境の変化を理由に、表現の自由や法の下の平等を政府が制限していいとなってもおかしくない。

軍事的な要請が憲法より優先されることになれば、憲法の規範性はなくなる。つまり、憲法が憲法でなくなってしまう。

これは、首相が好んで口にする「法の支配」からの逸脱である。自衛隊が海外での活動を広げることを歓迎する国もあるだろう。だが、長い目で見れば、日本政府への信頼をむしばむ。

裁判所から違憲だと判断されるリスクを背負った政策をとることが、安全保障政策として得策だとも思えない。

首相は「夏までに成就させる」との米議会での約束をひとまず果たすことになりそうだ。

一方で、法制局長官の交代に始まるこの2年間を通じて明らかになったのは、たとえ国会議員の数のうえでは「一強」の政権でも、憲法の縛りを解こうとするには膨大なエネルギーを要するということだ。憲法は、それだけ重い。

憲法学者や弁護士の有志が、法施行後に違憲訴訟を起こす準備をしている。裁判を通じて違憲性を訴え続け、「もう終わったこと」にはさせないのが目的だという。

憲法をないがしろにする安倍政権の姿勢によって、権力を憲法で縛る立憲主義の意義が国民に広まったのは、首相にとっては皮肉なことではないか。

改めて問い直したい。憲法とは何か、憲法と権力との関係はどうあるべきなのか。法が成立しても、議論を終わりにすることはできない。



2015年9月19日未明、与党自由民主党と公明党およびそれに迎合する野党3党は、前々日の参議院特別委員会の抜き打ち強行採決を受け、戦争法案以外の何ものでもない安全保障関連法案を参議院本会議で可決し成立させた。私たちは満身の怒りと憤りを込めて、この採決に断固として抗議する。

国民の6割以上が反対し、大多数が今国会で成立させるべきではないと表明しているなかでの強行採決は、「国権の最高機関」であるはずの国会を、「最高責任者」を自称する首相の単なる追認機関におとしめる、議会制民主主義の蹂躙(じゅうりん)である。

また圧倒的多数の憲法学者と学識経験者はもとより、歴代の内閣法制局長官が、衆参両委員会で安保法案は「違憲」だと表明し、参院での審議過程においては最高裁判所元長官が、明確に憲法違反の法案であると公表したなかでの強行採決は、立憲主義に対する冒瀆(ぼうとく)にほかならない。

歴代の政権が憲法違反と言明してきた集団的自衛権の行使を、解釈改憲にもとづいて法案化したこと自体が立憲主義と民主主義を侵犯するものであり、戦争を可能にする違憲法案の強行採決は、憲法9条のもとで68年間持続してきた平和主義を捨て去る暴挙である。

こうした第3次安倍政権による、立憲主義と民主主義と平和主義を破壊する暴走に対し、多くの国民が自らの意思で立ち上がり抗議の声をあげ続けてきた。戦争法案の閣議決定直前の5月12日、2800人だった東京の反対集会の参加者は、衆院強行採決前後の7月14日から17日にかけて、4日連続で、国会周辺を2万人以上で包囲するにいたった。そして8月30日の行動においては12万人の人々が、国会周辺を埋めつくした。

戦後70年の節目の年に、日本を戦争国家に転換させようとする現政権に対し、一人ひとりの個人が、日本国憲法が「保障する自由及び権利」を「保持」するための「不断の努力」(憲法第12条)を決意した主権者として立ち上がり、行動に移したのである。私たち「学者の会」も、この一翼を担っている。

私たちはここに、安倍政権の独裁的な暴挙に憤りをもって抗議し、あらためて日本国憲法を高く掲げて、この違憲立法の適用を許さず廃止へと追い込む運動へと歩みを進めることを、主権者としての自覚と決意をこめて表明する。
 

新しい安全保障法制が成立した「安保国会」が事実上閉幕した。立憲主義を蔑(ないがし)ろにし、「国権の最高機関」の名を汚(けが)した国会だった。猛省を促したい。

いくら議会の多数派が内閣を構成する議院内閣制とはいえ、政府が提出した法案を唯々諾々と通すだけなら、単なる「採決装置」に堕す。とても、日本国憲法に定められた「国権の最高機関」「唯一の立法機関」の名には値しない。

新しい安保法制の最大の問題点は、集団的自衛権の行使を憲法違反としてきた歴代内閣の憲法解釈を、安倍内閣が一内閣の判断で変えてしまったことにある。

歴代内閣が踏襲してきたこの憲法解釈は、国会での長年の議論を通じて定着してきた。ましてや、集団的自衛権を行使せず、「専守防衛」に徹する平和主義は、戦後日本の「国のかたち」でもある。

一内閣の恣意(しい)的な解釈を許すのなら、憲法は法的安定性を失い、国民が憲法を通じて権力を律する「立憲主義」は根底から覆る。

集団的自衛権の行使を可能にするのなら、その賛否は別にして、憲法改正手続きを経て、国民に賛否を委ねるのが筋ではないか。

王道でなく覇道を歩み、立憲主義を蔑ろにするようなことを、国会がなぜ許してしまったのか。

議論の質も、とても高いものとは言えなかった。例えば、集団的自衛権の行使例である。

政府は中東・ホルムズ海峡での機雷除去と、避難する邦人を輸送する米艦の防護を挙げていたが、成立間際になって、機雷除去の必要性が現実に発生することは想定せず、米艦防護も邦人乗船は絶対的条件でないと答弁を変えた。

立法の必要性を示す立法事実が根底から崩れたのだから、本来廃案とすべきだが、なぜそのまま成立させたのか。そもそも実質11本の法案を2つの法案に束ねて提出した政府の強引さをなぜ許したのか。国権の最高機関としての矜持(きょうじ)はどこに行ってしまったのか。

新しい安保法制が成立した後に行われた共同通信社の全国世論調査によると安保法制「反対」は53・0%。「憲法違反」は50・2%と、ともに半数を超えた。報道各社の世論調査も同様の傾向だ。

こうした国民の思いにも国会、特に与党議員は応えようとしなかった。国会周辺や全国各地で行われた安保法制反対のデモに対して「国民の声の一つ」(首相)と言いながら、耳を十分に傾けたと、胸を張って言えるのだろうか。

憲法は国会議員を「全国民を代表する」と定める。支持者はもちろん、そうでない有権者も含めた国民全体の代表であるべきだ。

安保法制が日本の平和と安全に死活的に重要だと信じるのなら、反対者にも説明を尽くし、説得を試みるべきではなかったか。反対意見を切り捨てるだけなら、とても全国民の代表とは言えない。

各議員は全国民の代表という憲法上の立場を強く自覚しなければならない。さもなければ国民は、国会に対して「憲法違反」の警告を突き付けるであろう。


参考までに、

民主主義の原則とは、

民主主義は、多数決原理の諸原則と、個人および少数派の権利を組み合わせたものを基盤としている。民主主義国はすべて、多数派の意思を尊重する一方で、個人および少数派集団の基本的な権利を熱心に擁護する。ほか(米国大使館ホームページから)

2015年9月13日日曜日

難民問題で浮き彫りになった日本の閉鎖性

報道によれば、去る9月10日(木曜日)にISIL(アイスィル)(いわゆる「イスラム国」)の機関誌において、日本の「在外公館」への攻撃呼びかけがなされたことを受け、翌11日(金曜日)の内閣官房長官記者会見において、当該機関誌で言及されたインドネシア、マレーシア、ボスニア・ヘルツェゴビナの3か国を含む全ての在外公館に警備の強化を指示するとともに、在留邦人に対しても注意喚起を行っている旨の発言が行われています。

また、既に外務省は、海外の全ての大使や総領事に対し、現地の情報機関や警備当局と連携を密にし、情報収集に当たることなどを指示する訓令を出すとともに、特に攻撃の対象として挙げられた3か国の大使には、現地に住む日本人や日本人学校と連絡を取り、安全確保に万全を期すよう指示したということです。

大学関係では、11日(金曜日)に、文部科学省高等教育局学生・留学生課留学生交流室から、各国公私立大学、各国公私立高等専門学校宛にメールが配信され、各大学等においては、危険情報が発出されていない地域等であっても、学生等が引き続き海外に滞在又は新たに派遣される場合は、報道及び渡航先最寄りの日本国大使館又は総領事館から最新の情報を入手するとともに、外務省が実施している渡航登録サービス(たびレジ、在留届け)への登録を学生等に周知徹底するなど、学生等の安全の確保に十分御配慮するよう注意喚起が行われています。

近時、大学のグローバル化が強力に推進される一方で、このようなリスク管理が益々重要になってきています。


さて、現時点では大学に直接に関係するものではありませんが、我が国のグローバル化の進展に関わって、気になる記事がありました。

最近、シリアやハンガリーなどからヨーロッパへ大挙して流入する難民問題が大きく報道されています。もとより一部地域の問題ではなく、世界的に解決しなければならない大きな課題の一つですが、記事によれば、我が日本は、非常に微妙な立ち位置にあるようです。

自分のこととしてよく考えたいものです。抜粋してご紹介します。(全文は、こちら「難民問題が浮き彫りにする諸矛盾:グローバルな負のインパクトの連鎖反応」

日本にとっての難民問題(下線は拙者)

難民問題はグローバルな国際秩序の負の側面を象徴しており、各国間での協力が欠かせない問題といえます。ただし、どの国も自国の負担はできるだけ小さくしようとします。そのなかで、「公平な負担」が俎上に上ることは不思議ではありません。

しかし、この問題に関する日本政府の立場は、総じて消極的と言わざるを得ません。難民の多くが紛争発生国の周辺で受け入れられているにせよ、そしてできるだけ自らの負担を軽くしようとしているにせよ、図4(略)で示したように、昨年段階で米国、フランス、ドイツは20万人以上の難民を受け入れていますが、昨年段階で日本が受け入れていた難民は約1万4,000人に止まります

日本の場合、難民審査は極めて厳格で、例えば2013年には3,260人が難民申請をしたのに対して、受け入れられたのは6人だけでした。これに関して、例えば米国務省は、子どもの性的虐待や刑務所における人権侵害などとともに、難民申請における弁護士の関与に関する公的支援の不足などを指摘しています(日本弁護士会が独自に支援制度を設けている)。また、先進国のなかで日本と韓国の難民審査が突出して厳しいことは、米国以外のメディアでも折々伝えられています。これに鑑みれば、UNHCRや欧米諸国から、難民の受け入れに消極的な日本が「負担の分担」を求められてきたことは不思議ではありません。

2014年度のUNHCRへの拠出金のうち、日本のそれは全体の6パーセントにのぼり、これは国単位でいえば米(39パーセント)についで、英国とともに第2位です(EUが8パーセント、民間からの寄付の合計がやはり6パーセント)。国際機関といえども、資金がなくては活動もままなりません。その意味で、日本が難民問題に貢献していないとも言えません。

ただし、難民条約が現代の難民問題に必ずしも適応できていないことも、既に述べた通りです。また、少なくとも受け入れ人数から見れば、どうひいき目にみても、日本が率先して難民問題に関わっていないことも確かです。UNHCRに資金協力をしながらも、自国でほとんど難民を引き受けていない状況は、外部から「寄付はするが祭に顔を出さない金持ち」といった風情に目されても、全く不思議ではありません。

日本政府は折に触れ、日本が平和国家として国際協力に積極的であると世界で公言しています。しかし、欧米諸国が自らの負担を減らそうとしながらも、それでも数十万人単位で難民を受け入れていることに鑑みれば、日本政府の「国際平和に積極的」という言葉があまりに空疎に響くように感じるのは、私だけでしょうか。

もっとも、これはひとり政府に還元できる問題ではありません。日本文明そのものがインド文明や中国文明などの成果を受容して発達した歴史を踏まえると、日本には様々な外来の要素を受け入れる素地があるはずですが、移民問題だけでなく、日本人同士でも、福島から避難してきた人々に対する嫌がらせが各地で発生した(している)ことからも、その排他性は根深いものがあると言わざるを得ません。メディアで支配的な「ヨーロッパに難民が押し寄せて大変」という対岸の火事のような見方は、基本的に自らの問題と認識していないことを示します。その意味で、グローバルな変動の一つの象徴である難民問題は、日本の閉鎖性をも浮き彫りにしているといえるでしょう。